怪談・
居酒屋
山形から上京して十年目の冬、私は窮屈な会社の独身寮を出て、郊外の小さなアパ
ートに引っ越しました。
その年の冬はいつになく寒さが厳しく、東京でも何度も雪が降りました。
◇ ◇ ◇
朝から雪が降り続いていた。
仕事を終えてアパートのある駅に帰り着いたときは、すでに十一時を過ぎていた。
雪が降りしきる中、私は店が閉まった商店街を抜け、線路脇の小さな居酒屋に入っ
た。ここに移り住んで二カ月あまり、週に一度は、駅裏に見つけたこの居酒屋に寄る
のが習慣のようになっていた。
亭主は五十代の飄々とした風貌の男で、顎の先にしょぼしょぼ伸ばした胡麻塩の髭
がどこか山羊を思わせた。亭主の横には、寄り添うように女房がついている。いつも
笑顔を絶やさない物静かな女房は、ここの常連客にはなかなか評判がいい。二階が住
居になっていて、夫婦二人で暮らしているらしい。
この店が看板にしている秋田の地酒は確かにうまいが、私の目当ては料理だった。
独身寮を出たからといって独り身であることに変わりはない。ことに冬場は、誰もい
ない冷え切った部屋に帰って、一人で夕食の用意をするのはどうにも気が滅入る。こ
この女房が作る煮物や味噌汁といったありきたりの料理に、私は仕事に疲れ切った心
身を癒されていたのだ。
四、五人掛けのカウンターと、窓際に狭いテーブルが一つある。雪のため客が少な
く、カウンターに私と、中年の会社員の二人連れしかいなかった。
私は注文した焼き魚ができあがるのを待って、徳利と猪口を持ち、空いている窓際
の席に移った。
窓の外はすべてが白い。
街灯の光の中で雪が舞う。狭い路地を挟んだ向こうでは、終電が終わった線路が雪
に埋もれかけている。
風が巻くたびに、雪はさまざまな影を見せる。雪は煙になり、花になり、鳥になり、
人の立ち姿になって、また形を失う。
私は一人で徳利を傾け、降り散る雪を見つめていた。
またひとしきり風が吹いたあと、窓ガラスのすぐ向こうに、淡く女の顔が見えた。
それはほんの一瞬で、もとの舞い落ちる雪に返った。
「お食事ができましたよ」
女房の声で、私はカウンターの席に戻り、遅い夕食を始めた。
「よくここに来ていた若いの、死んだんだってね」
「美大の学生だろう」
中年の客たちが話していた。
「夜明けに、自分のアパートの前に倒れていたんだと」
「先週、雪が降ったときだ。前の晩もここで飲んでいたのにな」
無口な学生が時々この店に来ていたことは知っていた。私もその夜ここにいた。彼
は一人でそこの窓際の席に座り、外の雪を見ていた。さっきの私のように。
その学生が死んだ。
「前からどこか悪かったんだな。顔色がよくなかった」
「それとも、これも雪女か」
私の実家がある出羽地方には、昔から雪女の言い伝えがある。
雪女は、ときには乳飲み子を抱いた母親や老婆の姿で現れることもあるが、多くは
色の白い美しい女で、雪道に迷った猟師や旅人が引き込まれて凍死するというものだ。
子供の頃、初めて雪女の伝承を聞かされたとき、人が妖怪に取り殺されるというのに、
私にはなぜか恐ろしい話とは思えなかった。
「そうかもしれない」
「やっぱりな」
客たちの口振りは、冗談とも真面目とも判じがたい。
「雪女の話があるんですか?」
私は思わず口を挟んでいた。
客の一人が私を振り返って、ああ、とうなづいてから、
「ねえ、出るんだよね。雪女」
と、カウンターの中で燗をつけている女房に話を向けた。
「さあ、どうなんでしょう」
女房は困ったように首をかしげた。
客はまた私のほうに向いた。
「この数年、雪が多いだろう。その雪の日に限って、なぜか町の若い男が死ぬんだ」
「今度で四人目」
客たちの声は、どこか楽しげに聞こえる。
しかし、いくら寂れた私鉄の駅裏とはいえ、ここはれっきとした東京だ。雪国の山
中ではない。
「本当ですか」
私も女房と同じように首をかしげた。
中年の会社員たちは雪女の噂話をひとしきりしゃべったが、若い男が雪の夜に死ん
だというのは、雪道でのバイク事故だったり、ガス中毒だったり、どれも雪女のイメ
ージからはほど遠い。
私はがっかりした表情を見せないようにした。
「雪女はどこにでもいますよ」
と、亭主が私の前に茶を置きながら言った。
「雪の夜に女に抱かれて死ぬ。悪くないでしょう。それで雪の夜に男が死んだら、雪
女のせいにするんです」
「ほう、いいこと言うね」
うん、うん、と会社員たちは満足げに同意して、雪女の話は終わった。
上機嫌の二人連れが帰ると、客は私ひとりになった。
「私は山形なんですが、東北ですか?」
と、私は秋田の地酒の銘が書かれた徳利をつまんだ。
「俺もこれも、十和田ですよ」
亭主は、横で食器を洗っている女房を顎で示した。
「雪女の話、面白かったです」
「女はみんな雪女なのかもしれない。捕まった男は、最初の夜に死ぬか、もう少し生
き長らえるか」
「奥さんのことですか」
と私が言うと、亭主はにやりと笑った。
閉店までにはもう少し時間がある。私はまた窓際の席に座った。
雪は降り続いている。
雪女のことを考えていた。
女は白い着物を身にまとい、肌は透き通るように白く、氷のように冷たいという。
しかし、私は冷たいというのは誤りだろうと思った。女の肌は暖かく柔らかく、男た
ちは安堵と幸福のうちに目覚めぬ眠りについたのだ。
それから、故郷のことを考えた。
山形の家はすっかり雪の中だろう。この東京よりはるかに深い雪だが、その感触は
もっと優しかったように思う。最後に山形に帰ったのは、何年前のことだったろうか。
風が吹いた。
巻き上がった雪が、人の形を作った。
街灯の光の下に、白い影がたたずんでいる。さっきはおぼろげだった女の顔が、今
度ははっきりと輪郭を持った。
女はゆっくりとこちらに歩み寄って、窓越しに私に微笑みかけた。
誰だろう。
初めて見る顔のようでもあるし、どこかで会ったことがあるような気もする。
女はさらに間近に近寄る。女の体温がガラスを通して伝わってくるほどに。
「雪女でも見ましたか」
亭主の声で我に返った。
窓の外には雪が舞うだけだ。
「いいえ。よく降りますね」
私は、誰もいない窓の外を振り返りながらカウンターに戻った。
そのとき、背中で引き戸が開く音がした。
店の中の気温が急速に下がる。
「いらっしゃい」
と顔を上げた亭主の動きが、凍り付いたように止まった。
後ろを見ると、開け放った戸口の前に女が立っていた。
暗い色のコートと髪に、雪が降りかかっている。うつむいた顔が氷のように青白い。
窓越しに見た雪女の幻が、現実の女になった、と思った。
吹き込んだ風と雪に、長い髪が巻き上がる。
カウンターの横から走り出た女房が、すばやく引き戸を閉めた。
「上がりなさい」
女房は女の肩を抱きかかえて、二階の階段を上がっていく。
その間、亭主は女から顔を背け、口を引き結んだまま布巾でカウンターの板を拭き
続けていた。
女房と女が二階へ消えると、やっと落ち着きを取り戻したように、
「娘です」
と小さく言った。
「妻子持ちの男と、勝手に家を飛び出して。三年間どこで何をしていたのか」
私は高まった鼓動を静めた。
「無事がわかってよかったですね」
「いい年をして、馬鹿な娘ですよ」
亭主は苦笑いをするが、まだいつもの飄然とした表情ではない。
親子三人で積もる話もあるだろう。
「ごちそうさま」
と言って、私は店を出た。
亭主は私を見送りながら、店の暖簾を外した。
雪女はどこにでもいる、と亭主は言っていた。女はみんな雪女なのかもしれない、
とも。
きっと亭主にとって、あの女房は雪女なのだ。でも、娘は雪女にはなれなかったの
だろう。
居酒屋の娘が店に入ってきたときは、それが窓の外に見えた女かと思った。しかし、
そうではない。雪の中の女は、確かに私に微笑みかけていた。
会社員たちの雪女は、たわいもない噂話だ。
それでも、私はこの町に雪女はいるような気がする。
絶え間なく降り積もる雪を踏みながら、誰もいない商店街を歩いた。
静かな夜だ。靴の下できしむ雪音のほかには何も聞こえない。
アパートの前に来て、私は足を止めた。
門灯の下に白い人影があった。
「待っていてくれたんですね」
そう、私は話しかけた。
女は黙って私を見つめている。
私はゆっくりと女に近づいて行った。
「きっとここで会えると思っていました」
女は静かに微笑むだけだ。
あたりは吹雪なのに、女のそばは春のように暖かい。
疲れも、不安も、孤独も、すべてを包み溶かす暖かさだ。
自分のアパートの前で死んだ学生も、きっとこのように女と向き合っていたのだろ
う。
今、手を伸ばせば触れられる--
触れたら、私は今の私ではなくなる--
あの学生もそう思ったはずだ。そして、彼は女に触れた。
私は、しかし、ほんの少しためらった。
その瞬間、女の姿は舞い散る雪になった。
◇ ◇ ◇
その年の雪は、あの夜が最後でした。
今も、冬が来て雪が降ると、私はいつも居酒屋の窓際の席に座り、雪の中に女の姿
を求め続けています。
(完)