遺書 (三題話 手紙・注射・弟)
登場人物 康夫 卒業間近の大学生
浩二 康夫の友人
舞台 安アパートの一室
正面に締め切ったガラス窓。舞台の中央に、枕を下手に置いて、布団が敷き延べら
れている。その枕元に座卓と座布団。窓の下に小さな本棚、くずかごが並ぶ。
康夫が座卓の前に端座している。やつれてはいるが、悟りきった落ち着いた表情で、
数枚の便箋を読み返している。
康夫: 常に変わらぬ愛情を注いでくれた君に。私の死がどれほどの苦痛を君に与え
るのか、それを思うと胸にかすかなためらいもある。しかし残酷な言い方だ
が、このような私を愛したのは君自身の失敗だった。だから、悲しみを乗り
越えるのは君の責任だ。君にはできる。そしてその後にもっと強い、もっと
輝いた君が生まれているはずだ。
真摯な言葉を交わし合った友よ。君たちは私のことを逃亡者だと思うだろう
か。人生の深淵を前におじけづいた臆病者だと思うだろうか。
便箋を封筒に収め、机の上に置くと、立ち上がって、ゆっくりと下手に消える。
下手から、シューシューというガスが漏れる音が聞こえだす。
再び下手から現れ、中央の布団の上に仰臥し、両手を胸の上に組み、目をつぶる。
康夫: (仰臥のままで)文学を志した者がしばしば陥る人生の罠に、才能ある青年
がまた命を散らしたと惜しむ声もあるだろう。溢れる才能に溺れ、自滅の道
を辿った愚かな若者と蔑む者もいるだろう。しかし、そのときすでに私はそ
こにいないのだ。
ひとつ深い嘆息をつく。
康夫: もう、何も考えるのをやめよう。
しばしの静寂。ガスの漏れる音だけが聞こえる。
十五秒ほどあとに、上手で突然扉の開く大きな音が響く。
紙袋を抱えた浩二が、上手から血相を変えて飛び込んでくる。
浩二: なにをしているんだ。馬鹿野郎っ!
康夫、仰天して布団から飛び起き、あたふたと取り乱す。
浩二、抱えていた紙袋を床に落とし、康夫の前を駆け抜け、下手に消える。
ガスの音が止む。
浩二、すぐにもどり、窓を乱暴に開いて、座布団でガスを外にあおぎ出す。
康夫: (胸を押さえて独り言で)ああ、びっくりした。死ぬかと思った。玄関の鍵
をかけるのをわすれたんだ。
浩二、しばらく座布団を振り回したあと、それをわきに投げ捨て、康夫の前に座る。
康夫、ようやく落ち着き、先程の表情にもどっている。
浩二: まったく……。(嘆息)
康夫: (下を向いたまま)怒らないでくれ。
浩二: どういうつもりだ。
康夫: 考え抜いたすえの結論なんだ。
浩二: ぼんやり考えごとなんかしているから、こんなことになるんだ。
康夫: 他に道はなかった。
浩二: 俺が来るのがもう少し遅かったら、死ぬところだったんだぞ。
康夫: あ?
浩二: 普段からぼーっとしているから、いつか大怪我でもするんじゃないかと心配
していたんだ。
康夫: (何か話が食い違っていることに気が付き始めて)あ、いや、俺はいま死の
うと思って……。
浩二: (相手の話を全く聞かずに)ガスを使うときはちゃんと火が付いていること
を確認する。こんどから気を付けろよな。
康夫: お前、俺が何をしようとしていたのか、わかっているのか?
浩二: インスタントコーヒーでもいれようと思ったんだろう。やかんの中には水も
入っていなかったぞ。しょうがない奴だ。
康夫: (次第に苛立って)あのなあ。
浩二: ちくしょう、何しに来たのか忘れるところだった。麻雀しようぜ。
康夫: (あきれて)麻雀?
浩二: 竹内たちがうちにきているんだけど、メンツが足りないんだ。どうせ暇なん
だろう。行こう。
浩二、立ち上がりかける。
康夫: (低くつぶやくように)お前は真面目に人生のことを考えたことがあるのか。
浩二、康夫の言葉は聞こえていない。何気なく、本棚から文庫本を一冊取り出す。
浩二: (表紙を見ながら)文学、文学なんていっているけど、お前でもこんなのを
読むんだな。赤川次郎。
康夫: わあっ(あわてて本を取り上げる)、これは弟がガールフレンドを連れてき
たとき、そいつが忘れていったんだ。(吐き捨てるように)だれがこんな物
を読むか。
康夫、本をくずかごにたたき込む。
浩二: お前の弟はもてるからな。(ひやかすように)見せびらかされて腐っていた
んだろう。(鼻をくんくんいわせながら)もういいか。
浩二、立ち上がり、窓を閉める。
康夫: (くずかごの中をにらみながら、独り言に)こういう物はちゃんと処分して
おかなければいけないな。後に残った者たちに、つまらない誤解を与える。
浩二、座卓の上の封筒に気づき、手に取る。表情が変わる。
浩二: お前、まさか……。(康夫を見つめる)
康夫: (独り言で)やっと、気が付いたか。
浩二: (うめくように)どうして親友の俺に一言相談しなかったんだ。
康夫: 人に話して解決される問題ではない。(顔を背け)これが俺の人生だったん
だ。
浩二: あの女はよせと、なんども言っただろう。(失望したように)それをまた未
練たらしく手紙なんかを書いて。
康夫: (混乱して)何を言っているんだ。
浩二: 何もかもがうまくいかないとき、女に安らぎを求める気持ちは俺にもわかる。
でも、あの女はいかん。
康夫: どうしてそんな話になるんだ。
浩二: たしかに今のお前の状況は最悪だ。
康夫: なんだよ。
浩二: 何年も書き続けている小説は一向に目が出ない。こんどこそ生涯最高の傑作
だと自信たっぷりに投稿した最新作は、一次審査にもひっかからなかった。
康夫: (胸を押さえ)ううう、首吊りの足を引っ張るようなことを……。
浩二: ようやくのことで就職が決まった三流商社からは、この二月になって内定取
り消しの通知が来る。
康夫: (頭を抱え)くくく。死者に鞭打つようなことを……。
浩二: それに、清水の舞台から飛び降りる決心でのぞんだ痔の手術は、見事に失敗
して前より悪くなった。
康夫: (急に痛みを思いだして、尻を浮かせ)あううっ。
浩二: 極めつきはこんどの勘当だ。仕送りも貯金も使い果たして、とうとう親のキ
ャッシュカードを持ち出すなんて。(頭を振り)普通の人間なら、死んでし
まいたいと思うような状況だ。
康夫: ひー。(泣き出す)
ぐう、と康夫の腹が鳴る。
浩二: なんだ、腹が減っているのか?
康夫: (めそめそと)思い詰めていて、夕べから何も食っていない……。
浩二: 中学生だな、まるで。何か食うものはないのか。
康夫: 全部処分した。(うなだれる)
浩二: 何をやってるんだよ。(放り出してあった紙袋を思いだして手に取る)そう
だ、つまみを買ってきたんだ。また、買えばいいから、これでも食え。
浩二、ピーナッツのパックを取り出して、康夫に投げる。
康夫、パックを開け、もそもそと食べ始める。
康夫: (小さな声で)少しシケっている。
浩二: ぜいたくを言うな。(袋から缶ビールを取り出し)飲むか?
康夫: 思い詰めていて、夕べから何も飲んでいない……。
浩二: 情けない奴だな。(缶を投げる)
康夫、蓋を開け、一気に飲んでしまう。
康夫: はあー(嘆息、遠慮がちに)もう一本ある?
浩二: 世話の焼ける奴。(缶を取り出して放る)
康夫、蓋を開け、こんどは少しゆっくり飲んでいる。
浩二、封筒をもったまま康夫の前に座る。
浩二: (封筒を振りながら)あの女は、痔の手術を失敗した病院の見習い看護婦だ
ろう。
康夫: 彼女は手術の結果には関係ない。
浩二: そんなことは言っていない。あの女はお前を利用しただけなんだ。
康夫: ちがう。
浩二: 服を買ってやったり、うまいものを食わせてやったり、新しいアパートに移
るときの敷金や礼金まで払ってやった。ここよりもずっと広くて、日当りも
いい部屋だ。なんでお前がそんな金を出さなきゃならない? 小学校三年の
ときのお年玉からずっと貯めてきた貯金を残らず使い果たして。なにやって
いるんだ。
康夫: 看護婦の仕事は大変なんだ。仕事から帰ったときくらい、ゆっくりさせてや
りたい。俺はただ、彼女に少しでも早く一人前の看護婦になってもらいたく
て。
浩二: なにを格好をつけている。大方、新しいアパートに入れたら、私の診察をさ
せてあげる、とかなんとか言われたんだろう。
康夫: (胸に手をやり)ぎくっ。
浩二: それで、なにかいいことがあったか。ないだろう。だまされていたんだよ。
康夫: ちがう。彼女は優しいところもあるんだ。俺が手術で入院しているとき、彼
女が毎日点滴の注射をしてくれた。たしかに注射は下手で、何度もやり直し
をした。彼女は失敗をするたびに、ごめんなさい、ごめんなさいって涙ぐみ
ながら頑張るんだ。
(注射をされるときのように左腕を伸ばし、うっとりとした表情になって)
だから、俺は辛くなかった。俺には彼女のひたむきさがわかる。きっと素晴
らしい看護婦になる。
浩二: 俺は、あの女がほかの看護婦に話しているのを聞いたぞ。
康夫: なんて?
浩二: (女の声色で)あの患者、お前のことだぞ、私に気があるから何回針を刺し
ても文句を言わないの。ちょうどいい練習台ができたから、一度でうまく入
っても、二、三回刺しなおすんだ、って。
康夫: うそだ!
浩二: それにだ、あの女がお前に近づいたのは、ときどき見舞いに来ていたお前の
弟が目当てだったんだ。
康夫: うそだ、うそだ!
浩二: それもあの女が話すのを聞いた。一流大学の学生で、スポーツマンタイプ、
甘いマスク。ああいう年下の男が私の理想なの。
康夫: うそだあっ!
浩二: どれをとっても、お前の正反対だからな。
康夫: そんなことも言ったのか。
浩二: いや、これは俺が思ったことだ。あの女はお前にまとわりつきながら弟に近
づく機会を狙っていたんだ。結局、弟には見向きもされなかったので、お前
を捨てた。金も絞り尽くしたしな。
康夫、自分で紙袋から缶ビールを引っ張り出して、がぶがぶ飲み始める。
康夫: くっそー。
浩二: あの女がお前の元凶だったんだ。向こうからいなくなってせいせいしたと思
え。
康夫: (次第に酒が回り始める)馬鹿にしやがって。
浩二: こんな手紙、捨てるぞ。
浩二、封筒を二つに破ってくずかごに投げ込む。
康夫: 勝手にしろ。(ろれつが回らなくなってくる)ちくしょう。
康夫、また新しい缶を開ける。
浩二: すきっ腹なんだ。飲み過ぎるなよ。
康夫: (うなるように)きっとあの女を見返してやる。いつか名のある文学賞を取
って。
浩二: (小声で)まだあんなことを言っている。
康夫: ちくしょう。女がなんだ。勘当がなんだ。
浩二: お前、酒があんまり強くないんだからそのくらいで。
康夫: うるせえ。就職がなんだ。あんなボロ会社、こっちから願い下げだあ。
浩二: わかった、わかった。(閉口して)悪い酒だなあ。
康夫: なんだとお。ちくしょう。手術がなんだ。痔がなんだあ。(顔をしかめ)い
ててっ、痔はだめだ。
浩二: まあまあ。(なだめながら)俺はこのへんで帰るよ。腹が減ったらこの中の
つまみでも食えよ。
浩二、紙袋を示しながら立ち上がる。
康夫: なんだ、麻雀をやるんじゃなかったのか。
浩二: これじゃ無理だよ。ちょうど布団も敷いてあるし、ゆっくり休め。
浩二、康夫の肩をおさえて寝かしつけようとする。
康夫、その手を乱暴に払いのける。
康夫: (酔っぱらいの怒鳴り声で)馬鹿にするなっ。(よろよろと立ち上がり)俺
はこのくらい入っているときが一番調子がいいんだ。
浩二: えらいのに飲ませちまった。こんなのを連れて行ったら、みんなに袋だたき
にされる。
康夫、ふらふらとおぼつかない足取りで上手に歩いて行く。
康夫: おい、行くぞお。
浩二: (あわてて康夫を支えながら)しょうがねえなあ。
康夫: (立ち止まって)窓の鍵を締めてこい。
浩二: (不承不承)はいはい。
浩二、窓の鍵を閉め、また康夫を支えて二人で上手に消える。
康夫: (声だけで)そうだ、ガスの栓がちゃんと締まっているか、見てこい。
-暗転終演-