怪談・
土用
小学三年生の夏休みのことです。
近所によく遊び相手をしてくれる大学生のお兄ちゃんがいて、うなぎ屋に連れてい
ってもらったことがありました。
その夏、いちばん暑い日の夕方でした。
◇ ◇ ◇
うなぎ屋に入るのは初めてだ。
とても小さなお店で、二つしかないテーブルが、おばさんの五人連れでふさがって
いた。ぼくとお兄ちゃんは、うなぎ屋のおじさんのまな板の前に、椅子を二つ置いて
もらって腰をかけた。
二人でまな板の横の桶をのぞいた。うなぎがいっぱいいる。
「うなぎがどこで生まれて、どうやって育つのか、まだよくわからないんだ。昔の人
は、うなぎは雨と一緒に天から降ってくるとか、山芋が川に流れてうなぎになる、な
んて考えていたらしい」
大学生のお兄ちゃんは何でも知っている。
「きっと、どこかにうなぎの国があって、そこからやってくるんだよ」
ぼくが言うと、お兄ちゃんはおかしそうに笑った。
テーブルのおばさん達はとっくにうな重を食べ終わっているのに、なかなか席を立
とうとしない。お芝居の帰りらしく、どの役者が良かったとか、お昼の弁当はまずか
ったとか大きな声で話し続けている。
早く席を空けてくれないかなあ。おなかがぺこぺこだよ。
「このおじさんはね」
お兄ちゃんが、錐でうなぎの頭を突き刺しているおじさんを指さした。
「うなぎの国に行ったことがあるんだ」
ええ?
「そうさ」
おじさんは小さな包丁でじょりじょりとうなぎの背中を切り裂きながら、片目をつ
ぶった。
「田舎にいたとき、近くの沼で子供たちにいじめられている青蛙を助けたんだ。そう
したら水の中からうなぎのお姫さまが現れた」
「うそだい」
ぼくは首を振って笑った。
「いや、ほんとだ。ちゃんと聞いたほうがいい」
お兄ちゃんはまじめな顔をしている。
おじさんは開いたうなぎに串を通して、ちゃぷんとタレの瓶につけた。
「お姫さまが、目を閉じなさいと言うから、お礼にいいものをくれるんだなと思って、
言う通りにした。もういいわって言われて、目を開けたらうなぎの国にいたのさ。歓
迎会で鮒やどじょうが踊ってくれたよ」
「うそだい」
「そしてね、うなぎの国から帰るとき、お姫さまがおいしい蒲焼きの作り方を教えて
くれたんだ」
「だから、このおじさんの店の蒲焼きはうまい」
「そんなのへんだよ」
お兄ちゃんもおじさんも、でたらめを言っている。おなかをすかせたぼくの気を紛
らわせようとしているんだ。
「うなぎのお姫さまが、うなぎの食べ方を教えるなんて、へんじゃないか」
「へんじゃない。お姫さまは、うなぎが捕まって殺されてしまうのは悲しいけど、ど
うせ死ぬのならむだに死なせたくない。りっぱな蒲焼きになって、おいしく食べられ
てほしいって、そう言ったんだ」
「やっぱりうそだ」
お兄ちゃんが右手の人さし指を立てて、おじさんに言った。
「あれを見せてやろうよ。お姫さまに教わった『袖出しのうなぎ』」
「え、なに? 『そでだし』って、なに?」
「おお、そうだ」
おじさんはうなぎの串をわきに置くと、両腕を頭の上に伸ばして手のひらを合わせ
た。そして、くねくねと体をよじらせ始めた。
なんだかうなぎみたい。
「よく見ていてごらん」
と、お兄ちゃんが言ったとき、さし上げた腕のシャツの袖口から、黒いうなぎがに
ょろりと出てきて、おじさんの両手の間におさまった。おじさんはうなぎを桶の中に
放り込んだ。
「すごい!」
真夏に火の前に立っているのに、なぜ長袖のシャツを着ているのかと思っていたら、
こんなことをするためだったのか。
「ねえ、どうやったの!」
おじさんは答えずにまた両腕を上げてくねくねとやった。さっきと反対の袖からう
なぎが出てきた。
大声でおしゃべりをしていたおばさん達は、席から腰を浮かせてこっちを見ている。
みんな口を開けたままだ。
「この二匹は君たちが食べる並みのうなぎだけど、もっと上等のうなぎはこうやって」
おじさんは片足を少し浮かせて、ふるふると揺すった。ズボンの裾から、さっきよ
り太くて長いうなぎがぞろりと出てきて床の上を逃げ出した。おじさんはすぐに捕ま
えて桶に入れた。
おばさん達は全員立ち上がって目を剥いている。
「今のが上のうなぎだ。あちらのお客さん達が食べた特上のうなぎはね」
おじさんは、前掛けをおなかの上までまくり上げてベルトを緩めると、片手をゆっ
くりズボンの中に突っ込み始めた。
おばさん達は叫び声を上げ、何度も転びそうになりながら、店から飛び出していっ
た。
「席が空いたからこっちへどうぞ」
おじさんは布巾でテーブルを拭いた。
そのあとお兄ちゃんと食べたうな丼は最高だった。
だっておじさんは本当にうなぎの国のお姫さまから、世界一おいしい蒲焼きの作り
方を教わったんだから。
でも、うちに帰ってからちょっと気になった。
あのおばさん達はお金を払っていったのかしら?
◇ ◇ ◇
もう少し大きくなってから、『袖出しのうなぎ』がお兄ちゃんとうなぎ屋のおじさ
んの仕組んだ手品だったということに気が付きました。でもそのときには、二人とも
町からいなくなっていて、手品の種明かしをしてもらうことはできませんでした。
今でも、毎年真夏の土用の頃になると、自分のズボンの中を覗いて、特上のうなぎ
が入っていないか確かめたくなります。
(完)