怪談・
電波
狸の話をしましょうか。
もう二十年以上も昔、私がまだ、母校の工学部の大学院生だったときのことです。
◇ ◇ ◇
十月なかばの、秋だった。
大学から下宿に帰る電車の網棚に、誰かが捨てた古い新聞を見つけた。手を伸ばし
てぱらぱらとめくっても面白い記事があるわけでもない。元に戻そうとしたとき、求
人覧の小さな三行広告が目に止まった。
一日地形調査助手。電波。
食事仮眠有リ。十月○日十時。
○○線○○駅マデ。
どうにも要領を得ない広告だ。年齢も男女も書かれていない。第一、広告主の名前
も電話番号もなくては、連絡のつけようもないではないか。
○○駅は、池袋から私鉄を乗り継いで三時間近くかかる埼玉の山奥にある。事前の
確認もせずに、そんな所に出向いて行く者などいるわけがない。頭の回らない事務員
がいい加減な原稿を書いたのだろう。
それに、『電波』って何だ?
この夏休み、私は先に就職した友人たちと会うこともなく、毎日研究室に詰めて実
験に没頭していた。おかげで修士論文もおおかた仕上がり、大学に出てきてもやるこ
とがない。すでに就職先も決まって、私は長い学生生活にすっかり飽きていた。
つまり、よほど暇だったのだ。
数日後、私は防寒具まで用意して、あの求人広告の駅の前に立っていた。
本気でアルバイトをする気などなかった。どんな連中が集まるのかを確かめたら、
近くの山を歩いて紅葉見物でもしようと考えていた。
指定の時間になっても誰も現れなかった。やはり、あれを見てわざわざこんな遠地
に来る奴などいないのだ。私は自分の酔狂さを思い返してひとりで笑った。
「あれに乗りな」
振り返ると、汚れた作業服を着た小柄な老人が立っている。
私は周囲を見回して、他に誰もいないことを確かめてから、
「いえ、私は……」
と言いかけた。
「新聞を見たんだろう。早く乗りな」
駅舎のわきに古い小型トラックが止めてあった。老人はさっさとドアを開けてもう
運転席に乗り込んでいる。それにつられるように私も助手席に体を入れた。
「閉めな」
「あの、私は……」
アルバイトをするつもりはない、と言い出しにくくなっていた。
「どんなことをするんですか」
「行けば分かる」
無愛想な年寄りだった。首に巻いたタオルで顔を拭うと、何も言わずにトラックを
走らせた。
どうせ私を現場に運ぶことだけが老人の仕事なのだろう。訊いてみたところで知り
はしまい。私も黙って前だけを見ていた
しばらく走ると先に道路工事の現場が見えてきた。十人余りの作業員が働いている。
なぜ、こんな工事の地形調査に素人の助手が必要なのだろうか、人手なら建設会社に
いくらでもあるだろうに、などと考えていると、トラックは工事現場のわきを通り抜
けていた。
「ここじゃないんですか」
「まだだ」
私の方を振り向きもしない。
「そっちの現場にはたくさん人がいるんでしょうね」
「誰もいねえ」
山道をかなりのスピードで登っていく。道路の右側は深い雑木の森で、左側は崖に
なって下から沢の瀬音が聞こえてくる。
「あの、『電波』って何ですか?」
「電波は電波だ」
私はこのトラックに乗ったことを後悔していた。
頭の中で声がする、誰かが電波を使って俺の悪口を言っている……。隣の老人が不
意にそんなことを言い出しそうで、私は何度も浅黒く日に焼けた横顔を盗み見た。
小一時間も走ってようやく、木々の間に埋もれたような古い民家の庭先に止まった。
老人は私をトラックの前で待たせておいて、家の中から古びた布袋を取ってくると
私に手渡した。弁当でも入っているのか、ずしりと重い。
「手を出しな」
言われるままに右手を突き出すと、老人はその手首にくるくると糸を巻き付けた。
「何ですか、これ」
「狸よけのまじないだ」
「たぬき?」
「ここらの狸は人を化かす」
真面目な顔で、自分の手首にも糸を巻き付けている。
さらに、背丈ほどの長い棒を投げてよこした。老人も片手に同じような棒を持って、
握り具合を確かめるようにとんと地面を突く。
「裏の山だ」
それだけ言って先に歩き始めた。私は仕方なく、布袋を肩に引っかけてあとに続い
た。
家の方を振り返ると、薄暗い玄関が開いて、中から若い女の顔がこちらを見ていた。
老人の家族か。いってらっしゃいとも、気を付けてとも言わない。
私は余計なことを考えるのは止めて、これから登る山を見上げた。
六十はとうに越えた年齢だろうに、老人はしっかりした足取りで雑木林の山道を登
っていく。私は、そのあとを少し遅れて付いて行ったが、日頃の運動不足が祟って早
くも息が上がり始めた。
老人は相変わらず無愛想で、私は仕事の内容や賃金を尋ねるきっかけを見つけそこ
なっていた。それにここまで来てしまったら、条件が気に入らないからと言って一人
で帰ることもできない。
道は次第に狭く険しくなって、両側から延びた潅木の枝を腰をかがめてくぐり、足
元の熊笹を踏み分けて進まなければならない。
ふと、狸も狐も人を化かすが、狸に化かされる方が危ない、という話を思い出した。
狐は化かした人間の先に立って誘導してくれるから安全だが、狸にはそういう気配
りができず人間を先に行かせるので、化かされた者は川に落ちたり肥溜めにはまった
りして思わぬ怪我をすることがある、というのだ。
そうだとすると、この老人が実は狸で、私が化かされているということはなさそう
だ。でも、もし狐だったらどうだろう。
ぼんやりした頭で取り留めもないことを考えていると、突然、老人が持っていた棒
で激しく地面を叩いて音を立てた。自分の靴先を見ながら我慢の登山を続けていた私
は飛び上がった。
「こうすれば熊は逃げる」
山に入ってから初めて、老人が口を開いた。
私はそれまで杖代わりに使っていた棒を振り回し、そこら中を叩きながら、老人に
遅れまいと必死に歩いた。
「熊は逃げるが、狸には気を付けな」
「化かされたこと、あるんですか」
息が切れて、情けない声しか出ない。
「ここの狸は頭がいいからな、化かされていたことも気が付かねえ」
本気でそんなことを考えているのか。もしかしたら年寄りにからかわれているのか
もしれないと思った。
一時間以上も歩き続けて、やっと頂上に出た。
頂上はなだらかな丘陵になって、その一部は最近雑木林が切り開かれたらしく、見
晴らしがいい。空は秋晴れで、私はもう今日の仕事をやり終えたような気分で、周囲
の紅葉した山々を眺めていた。
「仕事をしろ」
老人は、私が担いできた布袋を開けて、大きな巻き尺を取り出した。その先端を私
に持たせて向こうに行けと言う。
よく見ると、切り開かれた頂上のあちこちに杭が立っている。どうやらこれが私の
仕事らしい。私は老人の指図で、巻き尺を引きずりながら杭と杭の間を測っていった。
老人が頂上の東側に残された潅木の前で手招きをした。覗いてみると古い祠がある。
今度は、その祠と杭の距離を測った。
私には何となく分かってきた。
おそらく山間地の電波障害を解消するために、テレビ局がここにアンテナ塔か何か
を建設しようとしているのだろう。老人は先祖が守ってきた祠が工事で荒らされはし
ないかと調べているのだ。
納得ができてみると、そんなに悪い仕事ではない。秋空の下で久しぶりの自然を味
わう余裕もできてきた。
作業が終わると二時を回っていた。
老人と私は祠の薮のわきで弁当を開いた。相変わらず老人は無口だ。
「工事に反対なんですね」
私は単刀直入に訊いた。
「ここは俺の土地じゃねえ。反対したって、できるものはできる」
弁当を突っつきながらの答えは少し意外に聞こえた。
「他の人たちは賛成なんですか」
「テレビが見たい者には必要なんだろう」
偏屈な年寄りの、孤独な抵抗というところか。
老人は、今日の測量が無意味な行為だと知っている。知っていてなお、せざるを得
ないというのが、偏屈ということだ。近所には手伝う者もいなくて、あの求人広告を
出したのだろう。
「分かりにくい広告でしたよ」
少しからかうような調子で言ってみた。
老人はちらっと私を見て、ふんと鼻で笑った。
「今日、誰も駅に来なかったらどうするつもりだったんですか」
「来たじゃねえか」
私は苦笑いをするしかなかった。
この年寄りは大狸かもしれない。わざと間抜けな広告を出して、それでもやって来
るような暇なお人好しを待っていたのではないか。そうだとすれば、私はすでに狸に
化かされていたことになる。
老人は食べ終えた弁当を畳むと、布袋を枕にして昼寝を始めた。
私は草の上に仰向けに寝転がって、空を見ていた。
空は吸い込まれそうに青く、高い。
ふと老人の孤独を思った。そして、私自身の孤独も。
さわさわという音に体を起こすと、四、五歳の男の子が立っていた。
いつ登ってきたのだろうと、いぶかりながら顔を見ると見覚えがある。しばらく見
つめていて、子供の時の自分だと気付いた。
子供の私は、銀色の糸を握りしめていた。糸は、凧の糸のようにどこまでも空に延
びて、薄い雲の向こうに消えていた。
「何をしているの?」
「おともだちとお話しているの」
私には何も聞こえなかった。銀の糸は楽器の弦のように細かく震えている。
「その糸でお話ができるの?」
「そうだよ。でんぱだから」
私はもっと近寄って耳を澄ませた。かすかに音が聞こえる。どこかで聞いたことの
ある音楽だ。
小学校に上がる前に白血病で亡くなった、幼なじみの女の子を思い出していた。女
の子はバイオリンを習っていた。そういえば、あの子とこんな場所で遊んだことがあ
った。こんな山と、こんな紅葉の景色。あれはどこだったのだろうか。
うしろで老人のいびきが聞こえた。ぐっすり眠っている。達者そうに見えても、や
はり疲れたのだろう。
いつのまにか子供が増えていた。
十人ほどの子供たちが、頂上の丘陵のあちこちに立って、空の思い思いの方角に向
かって銀の糸を握っている。
みんな昔の私だった。どの子供も、初めの子と同じか、小学生くらいまでの年齢だ。
なぜ、もっと大きい私はいないのだろうか、と思った。
そうだ、さっき手首に巻いた糸を使えば……。
糸はなかった。ここに登ってくる間に落としてしまったらしい。
糸を失った自分の手首を見つめるうちに、気付いた。
きっと、私は寂しかったのだ。だから、今日ここまで来たのだ。
友人たちが就職し、自分だけが大学に残ったから退屈だったのではない。研究が忙
しかったから人に会わなかったのではない。
いったいいつから、私は銀の糸でつながった友だちを持たなくなったのだろう。
子供たちは消えていた。
日が落ちかけている。もう四時を過ぎていた。
老人はまだ高いいびきをかいて眠っている。
何か変だと感じた。
「もう、行きませんか」
肩を揺すった。いびきが止まない。
「起きて下さい」
耳元で大声を出しても、反応がなかった。
三年前、祖父が脳卒中で亡くなったときと同じだ。私は青くなった。
こういう病人を動かしていいものなのか、分からない。かといって、冷え込んでく
る山の上にこのまま置いておくわけにはいかない。
老人を背負って山道を下り始めた。老人は思いのほか軽かったが、足場が悪くなか
なか進めない。
すぐに棒を捨てた。捨ててから熊のことを思い出した。山に満ちる虫の声に混じっ
て、風に揺れた熊笹が音を立てるたびに、足がこわばった。
だんだん暗くなってくる。
私にはこれが現実なのか、夢なのか分からなくなってきた。狸に化かされると言う
のは、こういうことなのかと思った。
老人を支える腕が痺れ、膝がきしんだ。道はますます暗くなって、足元がおぼつか
ない。いま何時頃なのか、もう時計の文字盤も読めない。
あと十分もしたら真っ暗闇になってしまうと思ったとき、光が見えた。老人の家の
明かりだ。
ほっとした瞬間、すうっと光が動いた。
背筋が凍り付いて、足が前に出なくなった。老人を背負ったまま立ちすくんでいる
と、光は揺れながら近づいて私の顔を照らした。
「おじいちゃん、どうしたの!」
老人の家の玄関に見えた女だった。
◇ ◇ ◇
救急車で病院に運ばれた老人は、一週間後に脳卒中で亡くなりました。
東京の両親の元から、一人暮らしの祖父の家を訪れていた孫娘は、その間ずっと病
室で看病を続けていたそうです。
葬儀が済んだ後、孫娘は籠いっぱいの柿と栗を持って私の研究室に訪ねてきました。
祖父が支払えなかったアルバイト料の代わりだというそのお土産を、私は喜んで受け
取りました。
老人が亡くなって半年後、テレビ局の鉄塔が完成しました。
山の頂上で見たあの幻は、あれは狸の仕業などではなくて、ただの夢だったのかも
しれません。
でも、私はやはり狸に化かされていたようです。
今、あの孫娘は私の女房となって、家でのさばっているのですから。
(完)