怪談・
帽子
私はまだ社会人になりたてで、仕事にも不慣れでした。そんな年の、夏の終わりの
ことです。
その夜、台風が近づいていました。
◇ ◇ ◇
任せられる仕事の量は増えてきたが、それを要領よくこなすだけの経験はなかった。
残業は日常的になり、このひと月は週末もまともに家にいたことがないほど、仕事に
追われていた。
その夜も会社を出たのは十一時過ぎだった。
かなり大型の台風が接近しているというので、普段深夜まで人通りの絶えない駅前
は閑散として、電車もすいていた。自宅のある駅までの一時間余りを座って過ごせる。
めったにない幸運を噛みしめているうちに、眠ってしまったらしい。
「終点ですよ」
気が付くと、無表情な車掌に肩を叩かれていた。
降りるべき駅はずっと手前だった。ホームの時刻表を見上げたが、上り電車はとっ
くに終わっている。
この私鉄沿線にアパートを借りてから二年余りになるのに、毎日乗っている電車の
終点がこんな田舎だとは知らなかった。どこかでタクシーを捕まえるしかないだろう。
雨も風も強くなっていた。傘を傾け、大きな道路を探して線路沿いに歩き始めた私
は、暗がりに歯を剥き出した獣を見付けて、思わず足がすくんだ。
落ち着いて見れば石彫りの狐だ。稲荷神社か、人騒がせな、と一人で笑いかけたと
き、急に耳鳴りがした。
高い音ではない。頭の芯を震わせるような低い唸りが徐々に大きくなってくる。疲
れがたまっているからだろうか。台風で気圧が下がったせいなのか。両手で耳を押さ
えていると、嵐と闇の向こう側から二つの強い光が近づいてきた。
ヘッドライトが一瞬私を光の中に浮かび上がらせ、すぐに白っぽい車体が大きく右
に回り込んで、横を見せて止まった。古びた小型のバスだった。
窓が開いて黄色い野球帽をかぶった頭が突き出てきた。
「どこまで?」
帽子のひさしの陰で顔の上半分が見えない。
行き先を伝えると、光が当たっている口が横に引き伸ばされたように広がった。笑
ったようだ。
「三千円だけど、乗りますか」
タクシーが来るあてもないし、料金もタクシーよりずっと安い。私は傘を畳んで、
自分でドアを開けて乗り込んだ。
中は小さな車内灯がぽつりと灯るだけでひどく暗い。三十人ほどが座れる席は空で、
私は腕や顔の滴を手で拭いながら手近な席に腰を下ろした。
バスはすでに走り出していた。
風雨は激しさを増してくる。とんだ失敗をしてしまったが、このまま座っているだ
けで家に帰れるのは、幸運と言うべきだろう。いつの間にか耳鳴りも消え、私はもう
居眠りをしかけていた。
「あんた、寝過ごしたのかい」
誰もいないと思っていた後ろの席から声がした。顔を上げると、小太りの中年男が
背もたれ越しに、こちらをのぞき込んでいる。
「ええ」
「俺もだけどよ」
男は立ち上がって、私の横に座り直した。片手に濡れたレインコートを持っている。
「初めてかい」
また、ええ、と言うと
「俺は、二度目」
と赤ら顔が笑う。
「去年、やっぱり台風の晩でね。ひどい目にあった」
こっちへ体を寄せてくる。
「そうですか」
私は少し体を引いた。
「駅の外は真っ暗で、雨も風もだんだんひどくなってくる。タクシーも来ないし、駅
舎の軒下でぼーっとしていた。それがいけなかったんだな。狐にやられた」
「狐って、あの、化かされたんですか?」
「ああ」
とうなづく。
「雨の中にじいさんが立っているんだ。こうもり傘さして」
男は傘をさす真似をした。
「そんなところにいたら風邪を引く、うちに来んか、とじいさんが手招きをする。あ
りがたいと思って、後をついて行ったんだ。真っ暗な道をずっと。ところがいくら歩
いても一向に家に辿り着かない」
怪談話でもしようというのだろうか。私は曖昧にうなづきながら男の顔を見ていた。
「傘は吹き飛ばされるし、もうびしょ濡れだ。じいさんは何でもないように、まっす
ぐ傘をさしたままどんどん行ってしまう。大声で呼んでも風の音で声が届かない。じ
いさんの背中が遠くなって闇の中にすーっと消えて」
「どうなったんですか」
と、私は合いの手を入れてやった。
「それだけだ。嵐の暗闇で道に迷ったんだ。体は冷えてくるし死ぬ思いをした。やっ
と駅に帰り着いたときは、とっくに始発電車が出た後だった」
狐の言いなりにならずに、駅の軒下で待っていればよかったということらしいが、
どうにもメリハリのない怪談話だ。
「老人が狐だったんですか?」
「駅の裏に旧い稲荷があるんだ。あれは狐だよ」
「お稲荷様の狐も人を化かしますか?」
「狐だから化かすだろう」
「そうですか」
私は首をひねった。
狐は、田畑を荒らす野兎や鼠を捕らえるということで農耕の守り神とされてきた。
黄色い毛色は、土や稲穂の象徴でもある。
それなのに一方では人に害をなす妖怪と見なされている。それだけ賢い獣だという
ことなのか。
「このバス、変だとは思わないか」
男が急に声をひそめた。
「変ですか」
私はバスの中を見回した。
「運転手だよ。なんで真夜中に都合よくバスが待っているんだ」
男はさらに声を低くする。
「電車がなくなって帰れなくなった客を相手に、商売をしているんでしょう」
「二人ぽっち乗せたって商売になるか。こいつは怪しい」
運転手も狐だと、言いたがっているようだ。
「それに、あの時のこうもり傘の年寄りも、ああいう黄色い野球帽をかぶっていたん
だ」
男は何としても狐を引っ張り出したいらしいが、怪しいと言うなら、見知らぬ人間
に怪談話を仕掛けてくる自分のほうが余程怪しげなのに。でもこの男の体形では、狐
よりも狸が似合っている。
内心のおかしさを堪えているうちに、少しからかってやりたくなった。
「実は私も多少狐に縁があるんですよ」
男は私の顔を見つめ、ほんとか、と言った。
「私の父方の一族のことなんです」
他人にこの話をするのは初めてだったが、すらすらと言葉が出てきた。
「父方の曾祖父は、明治時代に四国で海運業に成功して財をなした人物で、本妻の他
に妾がいました。曾祖父の死後、後を継いだ本妻の長男が事業に失敗して、財産はす
べて霧散したのですが、この栄枯盛衰の裏に狐がかかわっているのです」
男は、私の次の言葉を待って身を乗り出している。
「妾は幼い頃、畑の兎取りの罠にかかった狐を助けたことがあったんです。田舎町の
遊廓から、海運業を手がけ始めていた曾祖父に身請けされたのも、のちの一族の隆盛
を導いたのも、みなその狐の加護によるものだったと言うのです」
子供の頃この話を、私は祖父、つまり曾祖父の長男の膝の上で一度だけ聞かされた。
それが今でもこのようにはっきり記憶されていたのは、自分でも意外だった。
「イヅナ使いだな」
と、男は低い声で言った。
「イヅナ使い、ってなんですか?」
「知らないのか。狐持ちの家筋のことだよ。狐の手助けで繁栄するんだ」
「妾の家筋がイヅナ使いだったんですか」
「違う。あんたのひい祖父さんのことだ。狐を救ったのはひい祖父さんなんだよ。そ
の狐が恩を返すために妾になってあんたの家に入ったんだ」
「あ……」
考えたこともなかった。
「妾はどうなった」
中年男は真剣な顔つきになっている。
「曾祖父が死んだのち、長男が妾を嫌って追放しました。妾の消息は全く途絶え、以
来事業は行き詰まり、一族に病死や戦死の不幸が相次いだそうです。ずっと昔の話で
すけど」
「何を言っているんだ。終わった話じゃないんだぞ」
声が急に大きくなった。
「ひとたび狐を勧請すれば富貴自在となる。自分が好ましくないと思う者を滅ぼした
りもできる。しかし、子孫もずっとそれを祭り続けなければならないんだ。さもなけ
れば一族にも、周囲の者にも祟りが続き、結局その家筋は途絶えるんだ」
私は、狐に呪われた家系の末裔ということになるのか。
「いま私の家は、何事も起こっていませんよ」
私は少し笑いながら言った。
「あんた、ときどき体調が変わることはないか。手足が痺れるとか、耳鳴りがすると
か」
私はさっきの耳鳴りを思い出したが、いいえ、と首を振った。
「狐が取り憑くときには、そんな症状が出る」
「大丈夫ですよ。第一、私の両親は二人とも健在だし、祖父だって、まだ」
そう言った後、気付いた。
曾祖父の子供たちは長男を除いて皆夭逝している。さらにその長男の子供たちも、
私の父親の他に、今生き残っている者はいない。一人息子の私がいなくなれば、曾祖
父の一族は絶えたことになる。
「気を付けな。体内に入り込んだ狐は、内側からはらわたを食い荒らして……」
男は急に言葉を切って、息を飲み込んだ。
「……道が違う」
「え?」
私はあわてて窓の外を見回した。
バスはいつの間にか国道を逸れて、未舗装の狭い道に入り込んでいた。
「どこなんでしょう」
道路の両側は明かりひとつない完全な闇で、まったく視界がきかない。ヘッドライ
トに照らされた前方も、窓に打ちつける雨の飛沫に煙って、ぬかるんだ泥道と左右の
木々がかろうじて確認できるだけだ。
気配が私を包んだ。そう感じたとき、再びあの耳鳴りが始まった。背筋を震わせる
低く轟く耳鳴り。
横の男の顔が白くなっている。
「……狐岩だ」
「なんのことですか?」
「妖狐の怨霊を封印した大岩だ。この近くにあるんだ」
「ただの伝説でしょう」
私の声がかすれた。
ふいにバスが止まった。
男が表情を凍り付かせて立ち上がる。
「俺はあんたとは何も関係ないからな」
声を絞り出すようにそう言い残すや、レインコートを掴み、乱暴にドアを開けて嵐
の中に走り出た。それを追って、運転手が外に飛び出していく。
二人は吹きすさぶ嵐の闇の中に消えた。
私は車内の薄暗がりに座り込んだまま動けなかった。
どれほどの時間が過ぎたのか判らない。ヘッドライトの光の中に黄色い野球帽が浮
き上がった。
戻ってきたのは運転手だけだった。目深にかぶった帽子のひさしから雨水を滴らせ、
右手には中年男が持っていた黒いレインコートを握りしめている。
運転手はドアを閉めると、そのまま運転席に座った。
そのとき私はどんな顔をしていただろうか。
「お待たせしました」
黄色い野球帽がこちらを振り返ったが、返事はできなかった。
「従兄弟なんですよ。いつもこうやって家まで送り届けてやっているのに、金を払っ
た試しがない」
「はあ」
私は息を吐き出した。
「今夜は私のレインコートまで持って行こうとするし」
「ずいぶん面白そうな方ですね」
私がやっと声を出すと、帽子のひさしの陰で運転手の口が横に広がった。
「そうでしたか」
笑ったらしい。
◇ ◇ ◇
翌春の日曜日に、私はまたあの終点の駅に行ってみました。昼間の駅はハイキング
などを楽しむ行楽客でかなり賑やかです。
駅員に深夜バスのことを尋ねてみましたが、そんなバスは聞いたことがない、と言
われました。きっと白タクまがいの商売なので、禁止されてしまったのでしょう。
あの夜から、私は電車で居眠りをしたことがありません。
(完)