仏教は「非の哲学」



 仏教に対する理解はさまざまであろうが、私は仏教を「非」の哲学であると理解している。「非」という否定的表現は「有」でも「無」でもない存在を肯定するもので、論理的には矛盾する意味内容を持っており、現代人にとって、はなはだ理解し難いものである。

 仏教の初期経典には「諸の色は、過去、未来、現在、内、外、麁、細、好、醜、遠、近を問わず、一切は我にあらず、我がものにあらず、如実に観察すれば、受想行識(=心)またかくの如し」と説かれている。これは一般に無我説として知られるものであるが、否定的表現が結びついた我という存在は色や心の仮の集合体にすぎないことを説くものであって存在そのものを「無」と否定するものではない。この「無」という否定的表現は「非」とおきかえられるべきであろう。我という存在は、色でも心でもなく、「非色」「非心」の「一体不二」の存在であることを意味するからである。

 ところで、この弁証法的否定は「反」とは異なることに留意しなければならない。一方を否定しながら、他方も否定する。同時に対立する要素の一体性を直感し、両者を相互補完関係で結ぼうとしているのだ。

 ガストン・バシュラールは「否定による一般化は、それが否定するものを含んでいなければならない」といっているが、これは非の哲学の重要なポイントである。アインシュタインの相対性理論は、非ニュートン的であっても反ニュートン的ではなく、ニュートン力学の拡張であり、ニュートン力学を包含するものである。

 真の科学理論はつねにこのような関係で発展してきた。
偏見を持たずに仮説を検証し、正しいと認証されたすべての仮説を包含することにより普遍性を獲得するのである。
現代の社会もこのような関係で発展するのが望ましいと思う。

「反」ではなく「非」の行動をつらぬくことが仏法を学ぶ者の姿勢ではなかろうか?
「非」の哲学を実践する組織、人間は、執着がないので自己改革が可能であり、あらゆる環境変化に対応できる。
「非」の哲学は低次元の争いに終止符を打ち、より広い視野に立って問題を解決するのだ。

一元居士


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