現代社会と「不二の法」
「構造」の概念と普遍性
相対論や、量子論にみられるごとく対立概念の不二なる関係は単純にイコールで結んで得られるものではない。対立的要素をイコールで結ぶために複雑な変換の理論や波動凾数が導入され、抽象的な数学的構造の概念を通してはじめて不二なる関係が成立していることを知ることができる。ところで一体「構造」とは何であろうか?現代社会では、ほとんどすべての分野で構造の概念が理論展開に重要な役割を果たしているが、構造という概念は、きわめて広範にわたり、且つ、あいまいでもある。
構造という言葉が最も明確なる規定をもって用いられているのは数学の領域であろう。ガロアにはじまり、ヒルベルトをえて、ブルバギ派の数学において最も明確なる形をとって規定されている。数学的構造は、要素になんらかの関係(公理)が定義されたもの、又は変換操作の集まり(集合)から成る。どのような関係を定義するかで、さまざまの構造が考えられる。数学的構造として知られる一番古いものはガロアの発見した「群」の構造であるといわれている。群の構造は、変換の体系を研究する上にきわめて有用であり、変換と保存とが不可分に結びついている最も基本的な構造の一つである。相対論におけるロレンツ変換の体系も群の構造に属する。
「構造」の概念の出現によって現代科学は一変した。例えば古典物理学がどちらかといえば、加速度、質量、エネルギーなどの概念にもとづいて量的法則性を追求していたのに対して、現代物理学では測定以前の構造、すなわち、可能な状態と変換の体系が考察の対象となる。生物学における有機体の「構造」は「機能」に密接に結びついており、物理的構造が無視している「意味」との対応が探求される。
生命を「精神」と「肉体」というデカルト的二元論によってとらえることも、それなりに意義を有するが、「構造」という概念でとらえることによって、はるかに実り多い研究成果が期待できることは、最近の分子生物学の発展が立証しているところである。しかも、その変換の体系においては、二重ラセンのDNAの構造にみられるように相補性が重要な役割を果たしていることことが注目される。
抽象的な構造の概念、すなわち不可視の構造(心)には実験的な現象すなわち、観測できるもの(色)を対応させることができる。ブルバギの言葉をかりれば「公理主義的考えでは、数学は要するに抽象的形式、つまり数学的構造の貯蔵庫のようなものである。そうしてなぜであるかはよくわからないが、実験的現実のある相がこれらの形式のあるものに一種の前世からの因縁のようにぴたりと合うということが起こるのである」となる。
抽象性は普遍性と深い関連を持つ。一つの領域で見出された原理は数学的構造としての表現を与えられることにより、他の領域においてもそのまま応用される機会を持つ。このことは抽象的な数学的構造が普遍的なものであり、この構造を知ることは、未知の領域の問題を解決する上で有益なヒントを与えてくれることを示している。普遍的な構造の概念の有用性は自然科学の領域に限られるものではない。若き数学者の集団N・ブルバギの影響もあって、数学的構造の概念は、言語学、心理学、社会学の領域でも盛んに使われるようになった。
言語学において、ソシュールは「ラング」と「パロール」を区別している。「ラング」とは言語体系であり、特定の言語共同体の共有するものである。一方「パロール」は個人が個別的行為として語るものである。個人が言語行為によって何かを伝達したり、表現したりするためにはその社会の言語体系に従わねばならない。しかし、一定の言語体系が成立し、存続するのは個々の言語行為がなされるからであり、「ラング」と「パロール」の間には相互依存の関係が構成される。文字による表現についても同じことがいえる。言語体系は、一般には言語活動の背後に潜在的にしか存在せず、その存在が意識されることは少ない。しかし、言語行為がたえず変換し交代しているのに対して、言語体系は不変的である。しかも言語を固有の体系として把握すると、その体系には、人種、国籍、未開、文明を問わず、あらゆる言語に共通する普遍的な構造が認められ、生命の構造とも深いつながりを持つことを示唆している。
世界各地の神話の構造や、広義の社会制度又は慣習と個人の行動の間にも、同様の関係を認めることができる。日蓮の著書、諸宗問答抄に「文字は是れ一切衆生の色心不二のすがたなり」と述べられているが、音やかたち(色)によって表現されるさまざまの要素の組合せの中に、人類に普遍的な不可視の構造(心)が潜在している。色がなければ心もなく、心があればこそ色も意味を持つことができるのであり、色と心の間には一体不可分の相互依存性が成立していることがわかる。
「支配」の構造から「相互依存」の構造へ
人間の行動の形態は、自然認識のあり方と不可分に結びついている。また、人間の自然認識のあり方は、人間社会のの形態と不可分に結びついている。
宇宙に存在するものを、すべて神の創造によるものとしたキリスト教的世界観が、西欧の中世の社会を特徴づけているように、近世以後に起こった科学的進化の思想が現代の物質文明と技術社会を特徴づけている。科学の発展とともに技術社会は革命的な変化をとげたが、同時に予想外の環境破壊の進行とともに人類生存の危機が意識されるようになって、従来の自然認識のあり方に深刻な疑問が提起されるようになった。このような現代において、色心不二論は重要な意義を有すると思われる。
色と心が不二なる関係で結ばれ一体となった構造とは、どのようなものであろうか。仏法で説く、色法(=可視的構造)と心法(=不可視の構造)とが不二(=相互依存)の関係で結ばれた構造を一つのモデルとして表現したものが図1である。

実線は可視的な外的構造(現象)に対応し、破線は不可視の内的構造に対応する。可視的構造には、色(波動現象)とかたちで表現されるさまざまの有形の構造が対応し、不可視の構造には、三次元線型空間では表現の困難な高次構造、すなわち、情報や、意識、意味の体系が対応する。色と心に対応する構造的要素を、相互依存の関係で結びつけて行くと、一つの閉じた輪を形成するが、一つの輪はまた一つの要素となって他の輪と相互依存の関係を構成する。このようにして、すべての構造的要素をことごとく相互依存の関係で結びつけると、すべての要素は連鎖する輪でつながって、色と心、全体と個々の要素は一体不可分となる。
このような構造には前後、上下の区分はなく平等であり、始めもなければ終りもなく、原因は同時に結果である。現象(色)は個別的かつ瞬間的なものであり一般に普遍的な構造は認め難いことが多い。時間的要素は不可視の構造に含まれる。したがって、現象のみに目をうばわれると連続的な構造(すなわち、原因と結果のつながり)を見ることは不可能となり、色心の構造の双方に注目するときはじめて普遍的な真実の構造を見出すことができる。個々の現象(色)は、ことごとくみえざる糸(心)でつながって、色と心の変化は相互に依存し、相補的関係を構成する。すべての生命活動(=変換)は色心の輪の接点(縁)で生起するが、その相互作用には常に「相補性」(例えば、対称性など)が関与するため、全く無差別にデタラメな変換が行われることはなく、変換が行われても構造は保存され、変換の体系と構造の不変性は不可分に結びついている。
生命の多様な変換と連続性を同時に可能としているのはこのような色心の構造である。生命の構造は、このように色心が外に開きながら(=連鎖する)、閉じた(=定常状態を保持する)輪が幾重にもつながった変換の体系と考えられる。現代生物学は、生体反応の中に実際にこのような連鎖する閉じた輪の存在を立証しつつある。生体反応ばかりでなく、生体反応のプログラムと考えられるDNA構造においても二重ラセンの両端はつながって閉じた輪になっており、起点と終点は相接し、輪が開かぬままDNAが複製されるという奇妙な事実も明らかにされている。人間と自然を含む宇宙の構造も、このような相互依存性にもとづいて連鎖する輪が多元的につながって、壮大な循環系を形成し、宇宙に存在する一切の事物のリズム(周期性)を作り出しているのだ。
不二の法とはすなわち普遍的な生命の構造を意味するものであり、大自然の法則そのものである。大乗経典「ラリタ・ヴィスタラ」の表現を借りれば、このような構造は「不生不滅、非有の輪であり、無分別なる法の道理を思量する輪であり空の輪である。一つの境でありながら一切法の平等性に入る輪であり法界に結合する輪である」「虚空に同じく不断不常であり、縁起に入ることと相違せず、究竟寂滅なる真実であり、一切衆生の音を語るものである」。
さて、ここで一つの輪(例えば自我)に執着して相互依存の輪が切断されるとどのようになるかを示したものが図2である。

矢印の流れは一方的になり、相互依存の関係は消失する。相互依存の輪が切断された構造は、すなわち、部分観にとらわれた線型構造であり、二元的対立観にもとづく支配の構造である。
現代文明の危機とは、まさにこのような支配の構造が現代社会のあらゆる分野にまんえんしていることにあるのではなかろうか?本来の宇宙のリズムは破壊され、支配するものと、支配されるもの、搾取するものと搾取されるものが生れ、ヒエラルヒー構造や二重構造が生れる。かつては神が人間を支配したが、現代は人間が、自然をはじめ、あらゆるものを支配しようとしている。人間と自然の関係にみられる支配の構造をはじめとして、土地所有から、金融、流通のシステム、企業体の組織運営など、ことごとくがピラミッド型支配構造となっており、現代社会における諸悪の根源はことごとく支配の構造に起因するといっても過言ではなかろう。最近のインフレ、デフレ現象(色)も人間社会の不可視の構造(心)に対応するものであり、疑いなく社会の構造と、無意識も含めた人間の意識の構造において、相互依存のバランスが失われつつあることを示すものであろう。
人間と自然、個人と個人、個人と国家、国と国の関係など、すべての社会の色心構造にバランスのとれた相互依存の関係が要請される。
レヴィ=ストロースは、未開、文明を問わず人類の社会に普遍的にみられる男女の分業や近親相姦の禁忌は、人類が無意識のうちに、男と女、家族と家族の間に合理的な相互依存の関係を創り出したものであり、これによって人類は動物的生活から別れをつげることができたとみている。
モーゼの十戒と、仏教の主要な戒(五戒)を比較した場合にも、両者は依って立つ基盤を全く異にしているにも拘わらず、あまりに類似する点が多いのはどうしたわけであろうか。この類似性は偶然の一致ではなく、人類社会に相互依存の関係を要請するために不可欠な普遍的な規則とみることもできるのである。「殺し」や「盗み」は、動物世界ではいざ知らず、人間社会では、いずれの国でも犯罪的行為とされる。人間社会において、悪とされ、正義とされるものは、洋の東西を問わず普遍性を有することを立証するものであろう。
ルソーによって唱えられた「社会契約説」が、原始仏教典の中にもみられるという中村元氏の指摘(学士会報第七一七号)は注目される。ルソーの社会契約説の特徴は、ある特定の支配者の存在を前提とする従来の服従契約説を全面的にしりぞけ、社会契約を主権者たる個々人相互のあいだの結合契約として把らえようとする点にある。これは明らかに全体と個の間を支配の関係でなく、相互依存の関係で結ぶ考え方である。ルソーは「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を全体の不可分の一部としてひとまとめとして受取るのだ」と述べている。このような契約説は真に革命的なものであった。ルソーの私行に対する、倫理的・道徳的批判を乗りこえて、近代社会に大きな影響を及ぼしたルソーの主張は、古くて新しい問題を提起している。ルソーに対する評価が「近代個人主義の先駆者」と「国家社会主義の創始者」という両極に分かれるのも興味深いことである。ルソーの意識の中では、両者が共存しているにもかかわわらず、現実の場では、どういうわけか一方の立場のみが強調され、支配の構造を生み出してきた。
一方的搾取や、抑圧の行なわれる支配の構造が永続性をもたないことは、人類の歴史が証明するところである。現今においても、全体が個を支配したり、個が全体を支配する社会に悪弊が生ずる事例を見出すことは容易であろう。
資本主義、社会主義を問わず、支配の構造で成立する社会に真の調和はあり得ない。人間と自然の調和、全体と個の調和、個々の人間を結ぶ真の信頼関係の確立、世界の恒久的平和の樹立など、現代社会のかかえている重要課題は、ことごとく支配の体系から、バランスのとれた相互依存の体系へ、すなわち、占有(ピラミッド型)から共有(連帯の輪)の社会へ、色心の構造を転換することによって、はじめて可能となるものと信ずる。
一元居士