現代科学と「不二の法」


はじめに

「時間とは何か?と人に聞かれなければ、私はそれを知っている。しかし、人に聞かれれば、私はそれを知らない」これは、アウグスティヌスの有名な言葉である。直観的には自明であっても、言葉による表現に困難を感ずることは、日常しばしば経験するところである。

仏法の重要な哲理とされる「不二」を論ずるときにも、同じようなもどかしさが感じられる。維摩経には、「不二の法門とは何か」との文殊の問いかけに、維摩詰は、一言も答えず沈黙したままであったと述べられている。文殊はこの沈黙の答えに対して「大いに結構、これこそ菩薩が不二に入ることであって、そこには文字もなく、ことばもない、心がはたらくこともない」と称賛している。維摩詰は不二の法門を知らないのではない。不二について理解が深ければ深いほど、不二を語るのに適切な言葉を知らないのであろう。

しかし、現代においては、沈黙は必ずしも称賛されるとはかぎらない。不二の法門を現代に展開するためには、具体的イメージをもって、現代の言葉で不二を語る必要があろう。以下の小論は、その試みの一つである。

「不二の法」の現代的意味

仏法思想には、色心不二、生死不二、依正不二、師弟不二、迷悟不二といった表現や、因果倶時、事相即理体、法譬一体といった表現にみられるように、論理的に、あるいは、一般通念の上で、矛盾、対立する概念を、一体不二とする考え方が普遍的にみられる。このような不二一体という考え方は、古来仏法の中でも、さまざまに異なった表現をとって展開されてきた。

大乗仏教の思想的大成者である竜樹は、仏陀の悟りの核心は「縁起」であるとしている。縁起とは、すべての事物は原因または条件に依存して成立するという意味であり「これがあるときかれがある。これが生起するから、かれが生起する。これがないとき、かれがない。これが消滅するから、かれが消滅する」という表現で示されるように、宇宙に生起するすべての事物は対応関係を有し、相互依存性をもつとみる。対立的異質な存在も例外ではない。相互依存性こそすべての事物、すべての現象に共通する普遍的な法であり、縁起は「法」そのものであることが強調されている。竜樹は又「縁起であるものをわれは即ち空であると説く。それはまた仮の表現である。これが実に中道である」とも述べている。

インドに起こった中道の思想は、さらに中国に入って、さまざまに表現をかえて展開されるが、縁起観、空観、中道の思想の中に一貫して流れている内容は「法」の概念であり「不二」の思想である。

「法」とはサンスクリット語のdharmaを漢訳したもので、原語は「自性を持って変らないもの」を指し、それから転じて、秩序、法則などを意味するようになったといわれる。不二あるいは空、中道として表現される考えこそ仏法思想に特有のものである。しかし、その意味するところは矛盾を内包し、表現は抽象的かつ非論理的であり、現代人にとって理解し難いものになっている。当然の帰結として、中道論の旗色は鮮明を欠き、対立観のとりこになってになっている現代人にとっては、中道主義を唱えるものが「ヌエ的」存在としかみえないのも無理からぬことであろう。

空観は弁証法的な考え方であるともいわれる。たしかに空の概念は、有無の対立を超えつつ両者を包含する弁証的統一を意味するとみられないこともない。意味が不明確のまま、その用例が極めて広範にわたることも類似している。

しかし、不二という概念のもとに否定されているものは、二者択一的な認識のあり方であり、不変性を意味する「法」の概念との対応を考えると、空観は二重否定の論理や、弁証法的矛盾をあらゆる運動、発展の根拠とする考え方とは一致し難いと思われる。むしろ矛盾対立観にとらわれた認識のあり方を否定し、絶えず変転する一切の事物の根底に、すべての存在を結びつけている相互依存性を直観したことが空観の内容になっていると考えられる。宇宙に存在するものは、ことごとく他との依存性、関係性において生起したり、消滅したりするのであり、有も無も絶対不変なものではない。

不二なる「法」は、すなわち、宇宙に生起する一切の事物が「相互依存性を有することにおいてのみ不変であること」を意味していると思われる。このような相互依存の関係で構成される「法」の概念を現代の言葉で語るには「構造」の概念が有効と考えられる。対立的存在は、論理的な矛盾としてとらえるのではなく、多元的な構造という概念をとおして、相互依存の関係で結ばれることを知ることができるからである。

不二の法を多元的な構造という概念で理解すると、仏法は現代科学と決して矛盾対立するものでなく、現代科学の先端的な内容を包含していることがわかる。日蓮の著書、白米一俵御書に「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」との金光明経の文を引かれ、「彼の経々は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」と述べられているが、現代科学の見出した法則が、仏法の全体という関係で結ばれるとき、両者の間にも不二なる関係が成立するのである。

「不二の法」と構造の概念

二十世紀の初頭は科学史上他に類をみない激動期であった。

ブランクの量子仮説にはじまり、アインシュタインの相対性理論の登場は、科学のみならず思想界全般にも深刻な影響をおよぼすものであった。アインシュタインは、量子論の誕生に重要な寄与をしているにもかかわらず量子力学の完成期にはボーアらのコペンハーゲン的解釈を拒否し、終始反対の態度をとったといわれる。しかし、不二論の立場からみると両者には共通するものがある。

興味のもたれる点は、相対論も量子論も抽象的な数学を使用しており、通常の言語をもってしては、表現が困難な内容ををもっていることである。又、その表現された内容は、時間と空間、波動と粒子という対立概念の間に存在する対応関係を明らかにし、対立概念を数学的構造の概念によって融合していることにある。

ニュートンの古典力学では時間、空間は絶対不変のものとされ、これはキリスト教的神の摂理によるものとされた。ニュートンによれば「絶対的な時間は外界のどんなものとも無関係につねに同一であり、かつ不変である」とされる。しかし、スイス特許局の無名の技士、アインシュタインの提起した考え方は従来の古典的世界像を決定的に変革するものであった。アインシュタインは「この核心を見出すために欠くことの出来ない批判的思惟はD・ヒュームとE・マッハの哲学的著作により養われた」と述べているが、こうして生まれた相対論によれば、あらゆる座標系において、

R−(ct)R−(ct’)=0

が成立し、不変のものは空間(RR’)光速(c)、時間(tとt’)の間に成立する関係性である。このような関係が成立するためには観測者の用いる空間と時間の座標は互に「ロレンツ変換」の名で知られる変換式によって結びつかねばならない。このような変換が可能なのは、観測者の用いる座標系が等速並進運動を行っている場合に限られるが、このような変換系においては、空間と時間は他と無関係に独立のものではなく、時間と空間は四次元の構造という概念によって融合され一体不可分のものとなる。この間の事情をミンコフスキーは「今後、空間と時間とは、それ自らの陰にかくれ、それらの組合せだけが存在することになろう」と述べている。一般相対性理論では、座標間の相対変化に加速度が加わる場合が含まれるが、あらゆる観測者に対して、自然法則は同じ形に書けることを主張している。時間と空間の構造は、その中にある物質によりきまる。物質、エネルギーのあり方は時間、空間によって規定されると同時に物質・エネルギーが時間、空間を規定する。すなわち、時間と空間、物質とエネルギーは他と無関係に独立のものではなく、ことごとく相互依存の関係で結ばれることが明らかにされたのである。相対論がこのような内容を持っていることは、相対論が「時空の不二論」であると理解してよいだろう。

十九世紀の物理学を支配したものはニュートンの力学とマックスウェルの電磁気学である。これらの理論体系においては、物質は粒子より成ると考えられ、光は波動として描かれる。そして宇宙に存在するものはことごとくこれらの理論で記述できると信じられてきた。しかし、この考えは今世紀の初頭ブランクの作用量子の発見で破られ、ド・ブロイのすぐれた直観によって「物質は波なり」という概念が提出されるにおよんで、自然認識の概念に一大変革をもたらすことになった。

ド・ブロイの心をとらえた問題は光が「粒子」であると同時に「波」であると考えなければならない奇妙な現象であった。この粒子と波の二重性をどうやって融合するかという問題意識が物質波という概念を生んだのである。アインシュタインが光の粒子性を規定するために導入した式

E=hν

が重要な展開を示すことになった。

この式の左辺Eは光の粒子のエネルギーを示し右辺のνは光の波動性を示している。hはブランク定数である。ド・ブロイはこの式を右からも左からも読むことができることに気づいた。従来全く別のものと考えてきた「粒子」と「波」は対立し、矛盾する存在ではなく、両者の間には密接な対応関係が成立している。1926年シュレーディンガーはド・ブロイのアイデアを数学的に定式化し、有名な波動方程式を完成した。又時を同じくして、ハイゼンベルグらによって提出された行列力学も数学的に同等であることを明らかにした。

光や電子などの素粒子について波なのか粒子なのかという二者択一の解答を求めるならば解答はない。粒子と波は一つのものの二つの側面であり素粒子の空間的な位置のひろがりを問題にするときには波動のような半面が、他の存在物との衝突を問題にするようなときには粒子のような半面が強く現われる。このようにいずれか一方だけでは全容を尽くしていないという事情をボーアは「相補性」と呼んでいるが、仏法で説く而二不二の関係がミクロの世界でも成立していることを量子論は明らかにしたとみることができる。

ミクロの世界では位置(x)と運動量(p)の間にも相補的な関係が成立している。すなわち、

で示される関係が有名なハイゼンベルグの不確定性原理である。粒子の位置の不確かさ△xと運動量の不正確さ△pの間に類似の関係があり、△xと△pの役割を交換することができる。

エネルギー(E)と時間(t)の間にも全く同じ関係が導かれる。すなわち、

が成立する。時間の拡り△tとエネルギーの拡り△Eはお互を制約している。△tを小さくすれば△Eが大きくなり、△Eを小さくすれば△tが大きくなるという相互依存の関係がここにも見出される。
20世紀の二大理論といわれる相対論と量子論のいずれもが対立する概念を数学的構造の概念を導入することによって融合し、不二なる関係が成立していることを立証したのだ。

つづく