CODA
―――― All I Want
In My Secret Dream・・・
・・・静かな足音が耳を打つ。煩わしい。もう間もなく命の灯火は消えていく
というのに、何故こんな音に煩わせられなくてはならないのか。
視線を上げたその先に、赤い軍服を纏った青年が美しい唇を噛み締めて佇み、
自分を見下ろしていた。元より白い顔は透き通る程に白く、深い翠の瞳が微
かに曇っている。
口元に苦笑めいた微笑を刻み付け、ルカはふと目を閉じる。
―――― 全く以って、悪くない気分だった。
自分自身でさえその由は定かではなかったが、ずっと意識を囚われていた
ものを視界に映し出し、そして死んでいくというのは、悪くない。あれ程多
くの命を奪ってきた自分に与えられる命の終焉の光景としては、全く甘いもの
だ。神とやらは、一体何をしているのだろう。
もう長いこと自らを癒すことのなかった、穏やかな感情が胸の内に広がる。
―――― 手に入れることが出来ないのなら。
この手で命を奪ってやりたかった。自分のものにならないのであれば、誰の
腕の中にも安息の場を与えたくはなかった。深く澄んだ翠の瞳の奥に、自分は
抗い難い程に甘美な感覚を齎すものを見ていた。
―――― お前が欲しかった。お前を、お前だけが欲しかった。
何一つ意味のあるものは無いこの世界で、カミューだけが甘い現実感
に彩られた姿で、自分の腕の中に在った。触れた唇がかくも甘く、決して自ら
に屈服しない瞳がかくも美しい、その青年だけが。
この感情を何と称するのか、ルカには解らない。
今更それを解き明かした所で、詮無きことだ。
再び目を開いたルカを見下ろすカミューの内部を、烈しい嵐が駆け巡っている。
何故こんなに心が騒ぐのだろう。暴虐の限りを尽くされ、無辜の民を虐殺して
きたこの男が死んでいくことが、どうしてかくも自分の心を乱すのだろう。
―――― 再びカミューに視線を向け、微かに唇を動かして後、悠然と微笑
すると、ルカは傲然とすら称し得る仕草で目を閉じた。
―――― 閉じた目は、二度と開かれなかった。
「・・・終わった・・・のか?俺達は・・・勝ったのか・・・?」
呆然とした口調で、フリックが呟く。感情の揺れが全く存在しない口調で、
軍師が淡々と言った。
「―――― ルカの首を落しましょう。元よりルカが居てこそ彼等は強気で
あったのですから、彼の首を落してルルノイエ市内に晒せば、それだけでハイ
ランドの動揺を誘えます」
「―――― お待ち下さい!」
自分が何を言っているのか、カミューには解らなかった。思考よりも早く
唇から言葉が滑り出ている、とその心の動きを他人事の様に思う。いぶかしげ
な表情のシュウを始めとして、皆の視線がカミューに集中する。
「・・・何か?カミュー殿?」
「―――― 死者の尊厳を損ねるべきでは無い、と思います。何も首を落さず
とも、遺体を返すだけで十分ではありませんか」
私は何を言っているのだ、と意識の何処かで己の心の動きを不思議に思う。
何故こんな事を言い出したのだろう、と。他ならぬルカ自身が多くの人々の首
を落とし、そして残酷に踏み躙ってきた。その本人を、何故私はこうして庇う
様な発言をしているのだろうか。
「・・・私からもお願いします、シュウ殿。ルカ・ブライトは残虐な人となり
でありましたが、我々がそれと同じ轍を踏む必要はなかろうと思います。彼と
我々が違うものを仰いでいることを世に示す為にも、彼を丁重に送り返すべき
ではありませんか」
真摯な表情でそう具申するマイクロトフに一瞥をくれながら、フリックは
軽く髪をかき上げる。
「・・・俺もそう思うぜ、軍師殿。だが、結局決めるのはリーダーだろう?」
フリックの視線を受けた少年は、静かな口調で決断した。
「・・・ルルノイエに丁重に送ってあげようよ。もう十分だと思う」
間髪を入れずに、彼の姉が叫んだ。
「偉い!ゲンカク爺ちゃんも絶対そう言ったよ!それでこそ、私の弟ね!」
それでも何事か言いたげではあったが、諦めた様に軽く首を振ると、低い声
でシュウが応える。
「・・・あなたがそうおっしゃるのでしたら、仕方ありません。どちらにせよ、
今日はもう遅い時刻ですから、城に運び入れましょう。明日の朝、ルルノイエ
に早馬を出します」
シュウは兵に指示を出し、ルカの遺体を搬送するべく手筈を整えた。元より
この場所は城に極めて近い場所であったから、それはさほど困難なことでは
ない。
呆然と佇むカミューの背を、マイクロトフが軽く叩いた。我に返った
カミューに、静かな微笑を向ける。
「・・・帰ろう、カミュー。これで戦いが終わるとは思えないが、とりあえず
今は俺達の家に帰ろう」
先程のルカとの戦いで見せた激しさを一片たりとも伺わせぬ、それは平時と
何ら変わらない静かな表情だった。
「・・・・ああ、そうだな」
そう応えたカミューの髪を軽く掻き回して、マイクロトフが笑う。
マイクロトフと共にゆっくりと歩き出し、最後に振り返ったカミューの視界に、
ゆらゆらと舞う様に天へと昇っていく蛍の光が映し出された。
―――― 蛍は、死者の魂が天に召される光。地上のしがらみと苦痛から
全て解放され、悩み無き天上へと、引き上げられていく。
城ではお祭り騒ぎが沸騰していた。あのルカ・ブライトを斃したのだから、
無理からぬ話であったが。酒場だけでなく、あちこちで酒の瓶が抜かれ、気炎
を上げる者、歌い出す者、とそれぞれが歓喜に満ちた表情でこのひとときに
酔っていた。とりあえず幾杯か付き合いで杯を重ねると、カミューはワインと
グラスを片手に、疲労を理由にその場を辞去した。
ルカの遺体は地下に安置されていた。部屋の前で警護していた兵士に入室を
求めると、中に入る。ひんやりとした空気が肌に触れ、外の喧騒から完全に
切り離される。
ルカの顔は、極めて穏やかだった。微かに笑っている様にさえ見える。
すぐ傍まで歩み寄ると、そっとグラスにワインを満たしてその傍にそっと置く。
手を伸ばして、顔に掛かる髪をそっと払ってやる。冷たい肌の感触に、胸が
激しく痛んだ。
自ら望んでその道を歩んだ訳では無い筈だった。
母があんな事にならなければ。あなたは穏やかな君主となり、そしてハイラ
ンドを善く治めただろう。美しい母を汚された怒りと、自らの力が至らなかっ
た事への絶望。それが絡み合った時、あなたは恐るべき殺戮者へと変貌を遂げた。
カミューの白皙の頬を、熱い液体が一筋伝わり落ちていく。あれ程の暴虐を
加えられた相手ではあったが、魂を天に返した今、憎悪の対象とすべきでは
ない、と自らを律する。
―――― 愛する人間が傍に居たのであれば。妹以外に誰か彼を愛し、また彼に
愛された人間が居たのなら、彼はかくも残虐な気性へと変貌を遂げずに済んだ
筈だった。
あの深い呪詛と憎悪から、彼は解放されただろうか。深く愛した、美しい
母の元へと還れただろうか。
踵を返したカミューの視界に、扉に肩を押し付ける様にして腕を組み、悠然
と佇んでいるマイクロトフの姿が映し出された。硬質に引き締まった顔に、
穏やかな微笑を刻み付けて、彼は自分を見詰めていた。静かに伸ばされた手が、
カミューの白い頬に触れる。温かいその感触が、カミューの心を射た。
「―――― こうする以外に、方法は無かったのだろうか・・・」
マイクロトフの記憶に一度たりとも沈んでいない、それはか細い声だった。
「・・・他に彼を救う術があったのかもしれない・・・」
優しい唇がカミューに触れた。微かに曇ったカミューの瞳を真摯な表情で見
詰めると、静かな口調が告げる。
「カミュー、それは違う。ルカは救いを求めていた訳ではない」
沈黙したままのカミューに、穏やかな口調で続ける。
「・・・彼はただ・・・・」
お前を愛していたのだ、と口にすることは、さすがに憚られた。
「・・・ただ?」
怪訝な表情を浮かべたカミューに、我知らず苦笑が浮かんだ。
―――― 気付いていなかったのだろうか。かくも烈しい感情をルカが抱いて
いたことに。おそらく、本人ですら気付かぬまま、彼はカミューに対して
その感情を抱いていたのだろう。
あの刹那、ルカがカミューの名を呟いた時、それに気付いてしまった。
常に毅然と佇み、しなやかな体躯を赤い軍服に包み込んでいるお前。どんな
時でも決して失われることのない、その矜持。ルカの様な男でさえも、惹かれ
ずにはいられなかっただろう。その秀麗な美貌だけではなく、カミューの内面
はルカの心を激しく揺り動かさずにはいられなかったのだ。
自分が先走る時、怒りに任せて飛び出す時。どんな時でもお前が自分を見
詰め、そして心を砕いてくれることを、マイクロトフは心底感謝した。カミュー
の瞳が自分を見詰めていること、彼の心が自分の元にあるということ。それは
マイクロトフにとって、どれ程大きな癒しになったことだろう。
手に入れたからには、誰にも渡したくはなかった。カミューの心を、誰にも。
俺は誰よりも独占欲が強いのかもしれない、と心の内でマイクロトフは苦笑
する。自分の内部にこんな感情があったことも驚かずにはいられなかったが、
それでもカミューを失いたくはなかった。
傍に居たい。お前が俺を許している限り、いつまでもお前を見詰めていたい。
「―――― お前は自分に出来ることを十分にやったと俺は思う、カミュー。
我々は神では無い。全ての人間を救える訳ではないのだ」
優しい唇がもう一度カミューに触れた。ルカを救えたのかもしれない、と
いうカミューの心の動きを理解することは、マイクロトフにとってはさほど
困難なことではない。カミューはおそらくルカの奥深い場所に在る琴線に触れ
たのだろう。何らかの傷を負ったその心を、何とか救う術はないのか、と考え
るその優しさをも、愛しいと思う。
ルカがその深い場所までカミューに立ち入らせたこと。その事実そのもの
が、彼がカミューに対して抱いたのであろう感情を、言葉よりも尚雄弁に物語る。
「・・・少なくとも、俺はお前に救われている。お前のおかげで、自分の立っ
ている場所を見失わずに済んでいるのだ」
真摯な口調でそう告げると、マイクロトフは穏やかな光を湛えた瞳でカミュー
の顔を見詰めていた。彼の人となりを言葉よりも如実に物語る、この瞳。
「・・・それは違うぞ、マイクロトフ」
「・・・違うのか?」
「―――― 私の方がお前に救われているんだ」
小さく笑うと、マイクロトフは力強い腕を伸ばして、しなやかな体をその
中に抱き留めた。抱き寄せた髪の匂いを感じながら、或いはカミューもまた
ルカの感情に気付いていたのかもしれない、とふと思う。
それからあえて目を反らすことで、カミューは自分への想いを守り通した
のかもしれない。
―――― マイクロトフによって、どれ程自分は救われただろう。彼の存在
そのものによって、何故自分はこれ程に癒されるのだろう。女達が与えてく
れる柔らかな安らぎではなく、庇護されているという意識でも無論なく。
同じものを仰ぎ見ている。同じ旗を仰ぎ、同じ理想を追い求めている。
この感情を抱ける人間が傍に居ることを、心からカミューは感謝した。
―――― 愛している。決して、離さない。
ルカが同盟軍との戦いで命を落したことを、彼の唯一の肉親であるジルに
誰が伝えるのか、クルガンとシードの間ではそれが差し当たっての問題だった。
残虐な兄と異なり、ジルは誰にでも分け隔てなく接し、そして兄の気性を憂
いつつも彼を深く愛していることは広く知られていたから、その彼が死んだの
だと伝えることは躊躇われた。
ましてや、彼が死んだ原因は、自分達にもその一端があるのだから。
「―――― ジル様には、僕が伝えましょう」
静かな表情で、近く彼女の夫になる青年が言った。
「ジョウイ様・・・しかし・・・」
「・・・それが僕の責任だと思います」
少年の域を未だ出ていない彼の整ったかんばせには、明らかな大人への成長
の兆しが現れていた。
兄が出陣している今、ジルはキャロの街に築かれている屋敷に戻っている。
ジョウイが彼女の部屋を訪れると、ジルは侍女達と何事か遊びに興じていた。
若い少女達の無邪気な笑い声が響く中、静かにジルの前に歩みを進める。
「―――― 申し訳ないのですが、二人きりにしてください」
明らかに不満気な侍女達も、ジルに目配せされて渋々退出していった。
最後の一人が扉を閉めて後、ジルが静かな口調で問う。
「―――― お兄さまが、亡くなられたのですね」
思わず言葉に詰まる。ジルが目を伏せた後、ようやく問いかける事が出来た。
「何故それを・・・」
「夢を見たのです。ルカお兄さまが、別れを告げに来られました」
「・・・はい。同盟軍の卑劣な待ち伏せに会いまして、皇王陛下は名誉の戦死
を遂げられました。臣下たる我々の力及ばず、陛下をお護り出来ませんでした。
誠に申し訳ございません」
ジョウイの言葉を静かな面持ちで聞くジルの美しい顔は、白く透き通って何
ら感情の波を伺わせなかった。
「・・・お兄さまは・・・・帰ってこられまして?」
「はい。ただ今ルルノイエの王宮の方に・・・」
「そう・・・では馬を用意して頂けるかしら?」
「かしこまりました。では準備が出来次第、お迎えに上がりますのでしばし
お待ち下さい」
外ではクルガンとシードが心配気な表情でジョウイを待っていた。静かに
微笑して、報告を済ませた事を告げる。
「・・・ルカ様はジル様だけは愛しておられましたから・・・おそらく、貴方
に嫁がせて後は、何らかの理由を以って貴方を処断し、取り戻されるおつもり
だったのでしょう」
クルガンの言葉に、小さくジョウイが笑う。
「・・・そうでしょうね。彼がジル様を手放したとは思えません」
ましてや、自分の様な男に与える筈もない。血を共有する男の心の動きを
それ故に理解して、ジョウイは端正な口元に静かな微笑を刻んだ。
屋敷の外に出ると、抜ける様な青空が広がっていた。その青を見上げながら、
ジョウイは形の良い唇を堅く噛み締める。
後悔などしていない。これは自分が歩むべくして自ら選び取った道。この
血塗れの道の果てに何があろうとも、それが自分の征く道なのだ。
王宮までの馬車の中、ジルは一度も口を開かなかった。ただ静かな眼差しを
窓の外の景色に向けているだけだった。
王宮に到着すると、休息も取らずに兄の元へと駆けつける。衛兵が警護する
その部屋の前までジョウイは従っていたが、彼女は扉の前で静かな口調で言った。
「しばらく二人きりにして下さる?」
うやうやしくこうべを垂れて、ジョウイは彼女を見送る。自らの内部に、
静かに何かが降り積もる音がした。
しっかりとした足取りで、兄の元へと歩みを進める。ルカの死に顔は、極め
て穏やかだった。その人生を染め上げてきた激しい憎悪が全て消え失せた、
そんな表情。
そっと手を伸ばして、冷たい頬に触れる。熱い涙がはらはらと頬を伝わった。
兄の冷たい頬に口付けながら、静かな口調で語りかける。
「・・・あの方がいらしたのですね、ルカ兄さま。お逢いになれましたのね」
ジルの熱い涙がルカの頬を濡らした。指でそれを拭いながら、ジルは
兄に語りかける。
「―――― ルカ兄さま・・・あの方に最後に会えて、満足でらしたでしょう?
あの方にずっと逢いたかったのでしょう?わたくしには解っておりましたわ」
お兄様は、気付いていらっしゃらなかったでしょうけれども。
母の元へと戻ることでのみ、ルカの命が救われることにジルは気付いていた。
最早彼自身でさえも止められぬ激しい焔がルカを包み込んでおり、それが周囲
のものを全て焼き尽くしていく様を、ジルはただ見詰めていることしか出来
なかった。
もう誰も兄を止められない。死ぬことでしか、兄は救われない。
―――― それでも。お兄さまがどれ程に罪深い人生を送ってきたのだと
しても。私はお兄さまには生きていて欲しかった。私の、ただ一人の肉親。
不意に、ルカの体から淡い光を放って蛍が一匹ふわふわと舞い始めた。涙
に霞む目でそれを見上げながら、ジルは懐かしい記憶へと立ち戻っていた。
「―――― また戦に行ってしまわれるの・・・?」
白い鎧を着用し、出陣の準備をしている兄を、微かに涙を浮かべながら
見上げる。
「・・・案ずるな。いずれ帰ってくる。お前を一人にはしない」
小さな妹を軽々と抱き上げて、静かにルカが笑う。その頬に軽くキスをして、
ジルが無邪気に笑った。
「ジルはね、お兄様が大好きよ!」
ルカの整った口元に、穏やかな微笑が浮かぶ。妹の頬に口付けを返して、ルカが言う。
「―――― お前だけだ、ジル」
他には誰も許さない。母の血を引くお前だけが傍に居れば良い。
冷たく凍て付いてしまったその心に、初めて入り込んだ青年。決して力に
屈服することの無かった、しなやかな強靭さ。
深い翠の瞳。その瞳の中に沈む、甘い夢。
―――― 手に入れることが出来なかった、ただ一つ欲しかったもの。
―――― その想いが一体何であるのか、最後まで気付くことなく。何故手に
入れたいと望んだのか、由も解らぬままに。
This Is The End・・・
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