【BGMと感情=機械】

 

 その昔,売れまくっていたYMOがBGMというアルバムを出して世間を混乱させました。
 このとてもBGMになりそうになかった実験的で野心的な作品も,いまやリッパにBGMになっています。
 ボーカルがほとんどない故,Chemical BrothersやFat Boy Slim も既にBGMになり,知らず知らずのウチに,テレビ番組を通じて,クラブにもロックにも関係のないおじさん・おばさんの耳に飛び込んできます。
 特にワタシを含む大多数の日本人は英語が分からないので,外国曲は容易くBGMになります。
 クラシックなんぞ最たるモノで,全ての名曲はすべからずBGMです。
 いかにその時点における最先端のサウンドであっても,いかに鮮烈なメッセージが込められていても,いかに熱意を込めて作られたとしても,それらの意味を考える人はファンだけです。
 音楽がディスクに閉じこめられ,メディアを通じてばらまかれた頃からか,音楽が消費されるものになってからか,作られた全ての音楽は速攻でBGMになってしまいます。

 いまや全ての音楽は環境音楽になりました。
 チベットの民族音楽は,チベットをルポしたテレビ番組には欠かせないものであり,酒場のシーンには演歌が欠かせません。
 その場に相応しい,それらしい音が流れていれば,それだけで音楽の仕事は達成されます。
 音楽はイメージを想起するための道具であり,記号であり,アイコンです。

 考えてみれば,ダンスのための音楽は,ダンスに相応しければ良いわけで,それに相応しければ音楽の役割を果たしたことになります。
 

 プロの音楽の作り手は,相応しい音楽を作らなければ,あるいは音を選ばなければなりません。
 実際は,アマチュアの音楽家の方がこの傾向はもっと進んでいるのかもしれません。
 たいていのアマチュアは,何かに相応しい音が鳴れば,それで幸せだったりします。
 

 ロッカーにとって,あるいは芸術的な志が高いミュージシャンにとって,左の耳から右の耳に通り抜けてしまい,何も記憶に残らないような音楽を作りたいとは思わないでしょう。
 左の耳から入ったあと,右の耳を通り抜けるまでに,脳味噌を攪乱したり,腰骨の辺りに響いてくる音楽を作りたいと思っていることでしょう。
 しかし,音楽が消費されるモノになって以来,音楽は次から次へと左から右に通り抜けていくようになり,その通過速度はどんどん増加しております。
 ワタシが歳をとったせいかもしれないけど,消費する速度が速くなればなるほど,通過速度も加速していくように感じます。

 このような状況の行き着く先は,たぶん聴く人が機械になり,作る人が機械になっていくことなのではなかろうか?
 条件反射と言っても良いかも知れません。いわば条件的に反応するだけの機械のことです。
 

 作り手にある意図があったなら,興奮させるための音楽,気持ちを鎮めるための音楽,怒り,哀しみ,喜びといった人の感情を自在に操ることが出来る音楽=道具を作り出すことも可能でしょう。

 聴衆の音楽的レベルとか音楽的素養とか,これまでに聴いてきた音楽が均一化すればするほど,多数の人の感情を操ることが出来るようになるような気がします。

 BGMだった音楽が,人の感情を支配するようになるわけです。
 

 赤ん坊は,お母さんの顔を連想させる−円に目鼻を簡単に書いた絵−に条件反射的に笑顔を表すそうです。
 逆にたいていの大人(子供もそうだけど)は,子供とか動物の赤ちゃんに,条件反射的に反応して,可愛い,愛おしいと感じるようです。

 一時期話題になった書籍(理論)「利己的な遺伝子」によると,こういった感情の動きは遺伝子に支配されており,肉体や感情は遺伝子に支配されたマシンとも言えそうです。

 以前,坂本龍一氏と吉本隆明氏が「音楽機械論」を書き下ろしましたが,音楽が機械なのではなく,人間の感情が実は機械的なのだと思う,今日この頃であります。

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