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詩誌・詩集のコーナー
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目次

『甲田四郎詩集』解説
「びーぐる」33号黒田喜夫特集
『岡野幸江著 平林たい子』
『在日総合誌 抗路』2号
 中村純編著『憲法と京都』
卞宰洙著『朝鮮半島と日本の詩人たち』
『沖縄詩人アンソロジー 潮境』
アジアの他者を創造的に理解するために


『甲田四郎詩集』解説

庶民としての共感と批評 
     

甲田四郎は、生活の詩の名手として知られているが、
現代詩において批評を交えながら日常的な暮らしを書き
続けるのは肝が据わった詩精神が要ることだ。近現代詩
は西欧近代詩の導入から始まり、高村光太郎の詩「根付
の国」のように日本の市井の文化を軽視し西洋的な知性
と感性と方法を移植してきたからだ。

民主的な文学も例外ではなく、マルクス主義の観念と
理想が先走り、ともすると生煮えの思想の言葉が盛られ、
理論と現実、政治と文学の矛盾と乖離についての論争は
一九二〇年代や一九四五年以後一九六〇年を挟み、七〇
年代まではげしく行なわれたことがあったが、しばしば
抽象に傾き過ぎた論争と実作だった。甲田四郎は、派手
な論争や華々しい抵抗運動が下火になったときに、地味
だがしっかりした目と姿勢で登場した観がある。

吉本隆明は、六〇年反安保闘争のあと七〇年代から「
大衆」を思想の基礎に置き、民俗的部分を強調するよう
になった。しかし、「大衆」はバブル経済の下、大手資
本に自ら進んで呑み込まれ、原爆を忘れ、原発に期待し、
アジアを蔑視して追い抜かれ、保守化にやすやすと乗る
者たちだった。その意味で甲田四郎の呈示した「庶民」
は考えさせるさまざまな要素をはらんでいる。

詩史的には、詩集『大手が来る』で受けた小熊秀雄賞
の小熊秀雄のように社会派、プロレタリア詩人の系譜に
つながるだろうが、それにとどまらない人間的な幅広さ
を感じさせる。小熊秀雄については詩「冬の薄日の怒り
うどん」で「思えば怒り憎しみを〈陽気な〉詩の力にし
たのは小熊秀雄ただ一人だった」と述べている。

甲田四郎は、ユーモアを醸し出す日常語で記す描写力
に定評があるが、一方でしたたかな意志と生き生きした
リズムが詩を成り立たせている。詩は散文的な日常を題
材としても、背後に日常を超えた光源を持っている。混
沌とした暮らしをどう見て、どう表すかに作者の視角が
浮き上がる。甲田四郎の詩も、視座を庶民の位置に置き、
ありふれた生活を元にしているものの、背後に批評性、
抗いを強く抱いている。それがなくては、大企業の進出
に抵抗したり、「戦争と平和を考える詩の会」の同人誌
「いのちの籠」を多忙の中で苦労しながら編集発行し続
けたりすることはできない。

二〇一六年七月現在、戦後七一年経って、平和憲法が
改悪されようとしている。日本の民主主義はどれだけ生
活の中に、男女の間に、庶民の内面に根づいたかが問わ
れている。鎗田清太郎は、前の現代詩文庫『甲田四郎詩
集』の解説で能狂言に通じると分析したが、私は落語を
連想した。落語は江戸期の風刺とユーモアと人情噺がメ
インで、庶民が芸能の前面に出て来たことは民主主義が
欧米の移入ばかりではなく、すでに胎動が起っていたこ
とを知らせてくれる。「ベトナムに平和を!市民連合」で
活躍した作家の小田実は、「人間みなチョボチョボや」が
思想の芯だったが、甲田四郎も似た平等の感性だ。

小野十三郎賞を受けた『陣場金次郎洋品店の夏』の表
題詩には、個性がよく現れていると思う。「陣場金次郎
洋品店」は零細自営業者であった。ほとんどの零細自営
業者は大手チェーンスーパーに潰され、コンビニに消費
者を奪われ没落していく。それは中流階級がなくなり、
大資本と非正規雇用の超格差社会が到来するのと並行し
ている。二宮金次郎という勤勉と勤労の象徴がもはや通
用しない金融資本主義の到来を明示しているのだ。
甲田四郎の反権力性が非常に説得力を持つのは、自ら
が実際に零細自営業者として日々暮らしを脅かされ、そ
れに立ち向かっていく気概を実践し、詩の土台にして書
いているからだ。上から目線ではなく同じ高さの目線で
社会的弱者を見ている。

表現では、的確な描写と熱い叫びのリズムが共存して
いる。「金次郎二世店主が奥の商品の陰から/顔を半分
出してこちらを見ていた、/試合中のプロ野球の監督の
ようだが/部下も客もいなくてかれ一人である、/親子
二代六十五年のあいだやっていた店である、」と野球監
督にたとえるユーモアを交えながら人物を丁寧に描写し
ている。行動、様子、経歴の特色ある場面を切り取って
印象深いものにしている。
「陣場金次郎洋品店のネズミ色のシャッターが降りた/
そこに閉店ご挨拶のビラが貼ってなかった/ご挨拶とい
うものは客に向かってするものだ、/その客がいなかっ
た、どこにもだ/私の店はまだ閉めないまいにち天気を
心配する、/今日は晴自分の頭の上だけ晴、/すると日
差しにパラパラ雨が落ちてきた/狐の嫁入りだ」厳しい
現実を直視して率直に即物的に表現している。事柄の本
質を無駄なく乾いた筆致で切り取る技は秀でている。
一方、「バンザイバンザイバンザイと赤い短冊が」「赤
い短冊の文句を我慢我慢我慢と変えて」など、甲田四郎
のリズムは詩において大事な働きをしており、繰り返し
や重ねが主だが、それは共感であるとともに批評になっ
ている。(後略)

新・現代詩文庫『甲田四郎詩集』(土曜美術社出版販売)
1400円+税







「びーぐる」33号黒田喜夫特集

「びーぐる」(高階杞一、細見和之、山田兼士、四元康祐編集)33号で
「黒田喜夫の世界性を問いなおす」という特集が組まれ、私もアンケート
を寄稿しました。黒田喜夫は戦後詩人の中でも重要な存在だったのに、
急速に忘れられて行きました。それは、彼が1984年のバブル景気が
来る時に58歳の若さで亡くなったことも一因でしょう。晩年まで
カンボジアのポルポト政権の虐殺について考え、社会主義に望みを託しながらも左翼の悪の面も抉り出し、共産党に除名された特異な立場は困難な道を歩まずにはいられませんでした。

黒田喜夫は右(農村出身者。保守的)としての自分も撃ち、左(革命主体だが独裁的)としての自分も撃つという二重の否定をし、しかも、身体性として右を捨てきれず、理念として左を捨てきれないという負けがあらかじめ決まっている闘いを孤独にするのですから、バブルで湧き立つ世の
中がそんなめんどくさいことを尊重するわけがありません。吉本隆明のように自己否定より自己肯定にさっさと乗り換えたほうが利口でしょう。
バブルが崩壊し、中流大衆が消失し、全世界が数十人の領主と数十億人の奴隷になりつつある今読み返されています。

今回の特集は、細見和之さんの黒田再評価の意向が大きいと思いますが、新井高子さん、河津聖恵さんら若い世代、この特集には参加していないが、山下洪文さんなども詩論で取り上げ、現在の世界の危機と飢餓を鋭敏に感じている詩人たちが読み直していると思います。

細見和之さんは「黒田喜夫のアクチュアリティ」と題し、代表作「ハンガ
リアの笑い」と「毒虫飼育」が1950年代後半にすでに書かれていた先
見性に注目し、「ハンガリアの笑い」でスターリニズムを批判したにもか
かわらず、革命の夢を捨てなかった黒田に対し、「結局のところスターリ
ニズム的なものを残してしまったという批評がいまでは一種の定型になっ
ているかのようだ。しかし、そんな小器用な批判で黒田喜夫の五〇年代の詩的な認識をはたして超えたことになるのだろうか?」と問いかけます。
新井高子さんは、黒田の表現として「変幻」に着目し、「ファンタジーでは
毛頭なく、時の支配権力、社会構造によって餓死、犠牲死した者たちのな
れの果ての姿」であり、それを人間に還そうとしたと考えています。

河津聖恵さんは、すべてが解体されていく現在にあって「「欠除」と「根源」
がスパークする痛覚の閃光に共振し、ふたたびこの詩人を読むならば、私たちは世界の解体に裂け目を作り、解体を解体する「武器」をたしかに手にするに違いない」と世界性を持つ詩人として読解しています。

以下は私のアンケート寄稿文
黒田喜夫の自己と他者        佐川亜紀

黒田喜夫に対する親近感は、私の父が山形県生まれの
次男で耕す田畑の分け前がなく東京に出て来たという共
通性から始まっている。幻の土地を求めて帝国主義的侵
略をし、難民となり、棄民される。都会で高度経済成長
のときは、中流大衆という幻想のもろい盛土の借地に住
んでいた。「七十年生きて失くした一反歩の桑畑にまだ
憑かれてるこれは何だ/白髪に包まれた小さな頭蓋のな
かに開かれている土地は本当に幻か」(「毒虫飼育」)都
市の毒虫を悪い糸をつなげ張り巡らすように懐深く飼う。
黒田喜夫は土地私有に焦がれる貧相な小作人のいじまし
さを身に染みて知っている。それは日本人の素の顔で、
自らを傷めつける毒に酔う表情だ。だからこそ共有への
切望も捨てなかったのだ。私は<だからこそ>と書いた
が、ここに「戦後詩」の論争点があろう。「私有」に憑
かれるのが「生活」だから、「共有」など絵空事で崩壊し
たというのが主流である。しかし、ごく一部の「私有」
にますます利するシステムで、「共有」を考えなければ
大衆の生存権すらない。私有と共有、自己と他者の相剋
と矛盾のなかに黒田喜夫の詩がある。梁石日との対話で
「他者との存立と共同的に人間の平和を保持していくの
が自然なのか」(『アジア的身体』)と問い、黒田の詩には
自己の欲望と他者性の葛藤、原郷への愛憎があり、それ
が詩の動的エネルギーや創造的グロテスクとなっている。
高良勉は、沖縄の宮古歌謡の感性の力で天皇制的ヤマ
ト感性を撃つ黒田の提起に賛同している。(『言振り』)
世界的に国家や王室回帰の風潮のなか、「原点破壊」の
鬼っ児を産む勇気を取り戻したい。鬼っ児が生きられる
場所はますます困難になっているとしても。「子供の乞
食ではなく子供が乞食した」(「遠くの夏」)
さらに、私が検討したいのは吉本隆明が黒田に向けた
『追悼私記』に表されたようなスターリニスト擁護とす
る断罪と「倫理が痩せ細らせた」という評言だ。飢餓と
貧困が世界にはびこる中で黒田喜夫を再読したい。



『岡野幸江著 平林たい子』

書評 岡野幸江著『平林たい子
 
―交錯する性(ジェンダー)・階級(クラス)・民族(レイス)』
現代を抉る平林たい子の複眼を再発見した注目の研究書  佐川亜紀


平林たい子は、一九二七年に発表した小説「施療室にて」でプロレタリア作家として認められ、以後も非凡な力量を示した作品を多く書いたが、宮本百合子や佐多稲子とくらべ先鋭な左翼女性作家としての印象は薄かった。自伝的作品が有名で、戦後に保守的色彩を濃くしたことが、
積極的な評価をにぶらせたの かもしれない。

しかし、岡野幸江は、平林たい子の知られざる作品まで丁寧に深く読み込むことにより、性、階級、民族の三つの面を意識化し、複雑に交錯する実態を見透し、優れた小説に仕上げた作家として本書で再評価している。

プロレタリア文学では、階級問題が中心になった。それだけでも画期的ではあるが、しばしば観念的な理論のままで、すべてが階級構造に還元されがちで、男女間では因習的関係を繰り返し、他民族への支配・差別について鈍感だった。

平林たい子は、青春期のアナーキスト時代に旧道徳に抵抗して奔放な性愛に生きた。本書の「T <性>規範への挑戦」では左翼文学理論に対する平林の挑戦的作品として「プロレタリヤの星―悲しき愛情」などを取り上げ、ハウスキーパー問題にも果敢に取り組んだ功績を明らかにしている。

また、製糸業の盛んな信州に生まれ、製糸所の倒産で没落した家庭に育ったことから階級や資本主義経済への鋭い知性を培った。「U 照射される<階級>概念」では、「夜風」や「植林主義」で資本や政府に圧迫される農村の人々を、「蛹と一緒に」などは悲惨な労働環境で働く女性労働者たちを描いた平林の社会認識力の高さを詳らかにしている。

特に注目したのは、「V 帝国を撃つ<民族>の視点」における作品発掘と読解だ。平林の「国家と民族の枠組みを相対化する思考」を具体的に挙げている。「一 植民地朝鮮への眼差し」では、関東大震災後の朝鮮人や社会主義者虐殺を細やかに描いた作品「森の中」を再発見している。平林が朝鮮にわたったのは一九二三年で、一九年の三・一独立運動後
に民族弾圧が強化された時だった。「ある朝鮮人」では「朝鮮人と日本人という対立と同時に、金のない者と金のある者という階級的視点、そして男よりなお貧しい女子どもというジェンダー的な視点をももち込み、宗主国の人間による植民地蔑視、そして植民地内部の階級対立、しかもそれが男と子連れの女であるという幾重もの対立や差別の構造が伏在す
ることを浮き彫りにしていくのである」と評価し、内部対立や差別の重層性まで凝視しているのは平林たい子の特長と価値づけている所に同感した

さらに、平林は一九二四年に満州・大連に渡航している。「二 満洲という最前線」では、作品「敷設列車」の先見性を、満洲鉄道の侵略的意図と中国民族抑圧策、技術革新と能率主義など政治・経済的な事情を綿密に調べて実証している。満鉄という支配装置が形成する
日本人の内面的権力も照射しているという指摘も卓見だ。「三 中国人強制連行の闇」では、「盲中国兵」は天皇制存続論議と強制連行の記憶、無関心な大衆を鮮やかに形象化した問題作で、発表日付から日本の加害責任とともに言論統制をしたアメリカの加害責任まで作品に
込められているという洞察を導き出し、目を見張った。

今の時代をも抉る重要な三つの視点をあわせもつ読み返すべき作家であることを知らしめる説得力に富んだ研究書だ。

(「週刊読書人」2016年8月26日号掲載)








『在日総合誌 抗路』2号

第2号の特集は、<「在日」の多様性>です。この題名には、
「在日」の二世以降が日本社会の抑圧の中でも多様な生き方になってきたという面と、「在日」の存在が日本社会に多様性をもたらすという意味を感じます。

イギリスがEUから離脱することが決まり、世界が一国主義に傾いています。移民難民問題を目先の経済や不安から見て、長い歴史や入り組んだ原因をよく考えなくなって、どこもかしこも自分こそ<ファースト>と唱えています。余裕がなくなっているからこそ、他者を排除していくのです。

趙博さんの<在日の「文化的多様性」とは>で、特集の意味は「在日する我々の今日における文化的多様性を示唆している。在日(の)文化は「韓国」「朝鮮」の枠に収まらない、かつ「日本」にも収容されない多様性(diversity)を有すると言いたいのだ」。しかも、ユニークなのは、「在日文化」に拘泥するのは「陳腐で滑稽なものを対置することによって高尚なモデルを転覆させ」たいという企みだという点です。敗戦後、北朝鮮出身の力道山がアメリカ人レスラーを倒す姿に熱狂し、自尊心を回復した仕掛けは、日本社会の欺瞞とフェイクさをあぶりだしています。

今も、国家は「正統で高尚なモデル」ですが、実は、多民族のフェイクとギミックによってこそ成り立っているのです。この視点はおもしろく、大切と思います。

「在日青年座談会」にも注目しました。安保関連法にも「憲法まもれ」「国民なめんな」と積極的に発信しています。本質は戦争法案、侵略法案なので、植民地支配のかつての道と同じと危機感を抱くのです。しかし、日本社会の若い世代はそこまで行かない。むしろ、なんで今苦しいのに戦後補償なのかという気持ちになる。今まで解決しなかった日本の上の世代の責任は大きいです。在日の選挙権の問題も切実に問われています。

ぱくきょんみさんの詩「アンニョン」<ぷっちょんさーじゃのり>
ひらがなで表わしたり、擬音語、擬態語を多用した
リズムがあり、やわらかい詩です。

丁章さんの詩「南の領事館へ」<南北両国が、私のように国籍選択を
保留し、無国籍の立場でいる在日同胞にも観光旅行の道を開くことに
なれば、それが南北分断の国家的論理を超えた、私たち全同胞の
民族的悲願である祖国統一への道を開く一歩となるのではない
でしょうか>。日本の植民地支配によってもたらされた「朝鮮」籍と
いう「無国籍」を祖国統一への一歩と積極的に考えています。

鄭仁さんの詩を久し振りに読めるのも見所です。
「まるいベンチ 小さなせかい」
<北側がぼくの指定席><飢餓は 遠い>
自分の位置を確かめ、冷静に物で描写しています。

高柳俊男さんの「自分がそこにいる歴史を綴る使命と責任」は
尹健次著『「在日」の精神史』についての丁寧な書評です。
精神史論としてだけではなく<歴史の渦中にいた自らの足跡を
振り返りながら>、タブーとなってきたことまでさらし踏み込んで
書かれた尹氏の使命と責任感の強さに打たれます。

黒古一夫さんの「<在日>文学の現在とその行方」は、
磯貝治良さんの論「変容と継承ー<在日>文学の七十年」に
ふれ、作家・詩人における「変容と継承」を詳しく見ています。
ルーツと朝鮮語へのこだわりを「継承」とするとき、
新世代、とくに若い作家はさまざまな「変容」をしています。
それをどう考えるかは、文学の根本にかかわる問いです。

鼎談 「人は国より大きい 国は人より小さい」朴慶南・井筒和幸・佐高信
「北朝鮮に帰った人々の匿されし生と死」石丸次郎
「大阪・補助金裁判の現状と課題」丹羽雅雄 
崔真碩さんの、大学教員として慰安婦問題映画を上映し、
産経新聞で批判され、、ヘイトスピーチにさらされた体験を
書いた「私はあなたにこの言葉を伝えたい」にも心打たれます。
ヘイトにさらされても<魂を失わないこと。私自身が殺られないこと>、
<サラム ひと>共に日本の滅亡を生き抜く言葉に教えられます。
などなど
現在のテーマに鋭く迫り、ユニークな生き方に痛快さも感じる号です。

(発売・クレイン 本体1500円+税)







中村純編著『憲法と京都』


中村純さんは、東日本大震災の原発事故後に3歳のお子さんと京都に避難しました。原発事故中に幼児を育てる不安ばかりではなく、2013年秘密保護法、2014年集団的自衛権、2015年安保法制と次々に強行可決され、憲法が空洞化し、脅かされる事態になりました。京都府は「ポケット憲法」を配布した民主的な土地柄で、そこで生活するユニークな姿勢と言葉を持つ人々と対話した本書は、生きた憲法を知るうえで多くの新鮮な視座と深い示唆を与えてくれます。
詩人であり、クオーターであり、韓国詩人とも交流している中村さんならではの質問、応答も見られます。

「第一章 女性たちは世界を変える」
安保関連法に反対するママの会発起人の西郷南海子さんは、
国境を超えて「だれの子どももころさせない」という意志を
「無名」のママが自分の言葉で語ることを目指しています。
米軍Xバンドレーダー基地反対京都連絡会の水谷麻里子キャロライン
さんは、兄弟3人とも別々の国で育ちました。複数のルーツを持つ人は、
ルーツ同士が戦争をしたら死活問題で、戦争のない国でこそ
安心して子育てができるそうです。

「第二章 学問と平和と表現の自由のために」
<自由と平和のための京大有志の会>の藤原辰史さんは、
「自衛隊員の生命を危険にさらして生命を軽視することと、
労働力を安く買い叩くことは同一線上にあります」と指摘します。
歌人の永田和宏さんの短歌<権力にはきつと容易く屈するだらう
弱きわれゆえ(原本は旧かな)いま発言す>は自粛が容易く
まかり通ってしまう昨今の中で共感します。
論楽社の虫賀宗博さんは、アメリカとともに作った「戦争経済」
の歪みがますます日本に圧し掛かる状態になっていて、
「本当にみじめでさみしいひとりであることから思考」しよう
と呼びかけています。強い国や美しい国という幻想の言葉に
惑わされず、「本当にみじめでさみしいひとり」と自己認識する
ことは非常に大切と私も思います。

「第三章 市民活動の現場から」
弁護士の金杉美和さんは「私たち一人ひとりが、坂道を転げ
落ちていく日本の立憲主義を食い止め」ようと訴えます。

「第四章 いのちを歌え」
僧侶でシンガーソングライターの鈴木君代さんは
「兵丈無用(ひょうがむよう) 武器も兵隊もいらない」と歌い、
風景の一つ一つを大切に思うことが非戦につながると語ります。
障がい者施設代表の川口真由美さんは戦争と福祉は
コインの裏表で、命が大切にされる世界を歌います。

「第五章 言葉と教育 憲法水脈」
同志社大学寮・寮母の蒔田直子さんは、在日コリアン女性
たちの識字教室「オモニ学校」に関わり<朝鮮半島と日本の
歴史を、生きているオモニたちの深い愛を注がれながら
教わる場>と感じ、<オモニたちの言葉>が人権を守る
憲法の言葉に思えると語ります。

他にも、憲法の内実を豊かにする知恵と感性を蓄積された方々が
登場する今読みたい本です。

(かもがわ出版・1200円+税)







卞宰洙著『朝鮮半島と日本の詩人たち』


多彩な作品を丁寧に解説、画期的な大冊
卞宰洙著『朝鮮半島と日本の詩人たち』(スペース伽耶)書評
     佐川亜紀

日本の詩人や歌人が朝鮮の歴史や風物について書いた作品は一定
の文学者以外はあまり知られていない。石川啄木の「韓国併合」を
批判した短歌さえ普及版作品集に収められていないのは、日本と朝
鮮の歴史を隠し、過酷な体験を認めようとしない近年の政治的動き
と通じるものがあるだろう。

そんな中、卞宰洙著『朝鮮半島と日本の詩人たち』は、九〇人の
日本の詩歌人の朝鮮にまつわる作品を挙げ、解説し、作者の経歴と
参考文献を添え、朝鮮学校の日本語教科書への採用作品まで付記し
た画期的な大冊で、文学史的資料としても充実している。
特に興味深いのは、社会派だけではなく抒情詩人・歌人の朝鮮を
テーマにした作品を発掘し、多彩で幅広い視野になっている所だ。

萩原朔太郎は、代表的近代詩人として有名だが、関東大震災翌年に
「朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視(み)
る、何の惨虐(ざんぎゃく)ぞ」という詩「近日所感」を発表した行為は注目すべきだ。卞宰洙氏が指摘するように「朝鮮人」という言葉自体が当時としては差別と蔑視の意識が少ないことを示し、「われ怒りて視(み)る、何の
惨虐(ざんぎゃく)ぞ」という憤りと自責の念を表した詩句は極めてまれである。「この三行詩は日本文学における極めて貴重な文学遺産だと言って
も、過言ではない」と解説された通りで、「単行本詩集のどれにも収
録されていない」欠落はよく考えなければならない。

植民地支配のただなかで、本質や実態を見抜くには日本の文学者
の認識が不足し、与謝野鉄幹のように歌で伊藤博文の悪に触れつつ
も、侵略政策に積極的に加担していった経緯も今また省みたい。

全体的に見ると、収録された詩人は次のように分けられるだろう。

1 小熊秀雄や壺井繁治や槇村浩など社会派。木島始や関根弘など
戦後の詩誌「列島」に参加した人。2 中原中也・新川和江など抒
情詩人として高名な人。3 郡山弘史などほとんど無名の作者の特
記すべき作品。4 河津聖恵やなべくらますみ等、活動や翻訳もし
て積極的に交流してきた詩人たちなど、よく目配りされている。

本書は様々なテーマ別にまとめられていて分かりやすい。「第一 
章 プロレタリア詩」中野重治、新井徹など。「第二章 自然・歴
史・文化・風俗」草野心平、高良留美子、吉野弘など。「第三章 
植民地下の受難」石川逸子の従軍慰安婦への鎮魂歌など。「第四章
在日朝鮮人・朝日親善」辻井喬、中野鈴子、森崎和江、荒川洋治な
ど。「第五章 朝鮮戦争」小野十三郎、井上光晴、浜田知章など。
「第六章 韓国民主化闘争・韓国訪問・南北統一」大岡信、茨木の
り子など。「第七章 抗日抵抗志向」丸山薫、長谷川龍生など。「第
八章 朝鮮民主主義人民共和国」近藤芳美、村松武司、真壁仁など、
各自個性的な作品で朝鮮に寄せる思いを表している。

元々は「朝鮮新報」に連載した一四一人を取り上げたエッセイ「
朝鮮と日本の詩人」からの抜粋だが、一四一人でも作品数は多いと
は言えないだろう。日本近代詩が欧米詩の学習と模倣から始まり、
帝国主義的支配も欧米の模倣の面があり、アジア蔑視は日本近現代
の自己矛盾として現在も歪みを生じている。

また、解説では、作品の技法について詳しく分析しているのも新
鮮である。リズム、対比的比喩、リフレーンなど細部の工夫にも丁
寧に言及している。「若い読者には、詩の読み方について、多少と
も示唆するところがあるものと、ひそかに自負するものである」と
「あとがき」に書かれたように若い人にもぜひ読んでもらいたいし、
得ることが豊富な労作である。

(「朝鮮新報」2016年4月27日掲載)
(スペース伽耶発行 星雲社発売 3000円+税)




『沖縄詩人アンソロジー 潮境』
心打つ根源からの洞察

佐川亜紀

現代詩から批判性が失われている今、沖縄の詩人たちの根源から
洞 察する言葉に心打たれる。

 「沖縄詩人アンソロジー 潮境」が五五人の参加で二月一五日に発
刊された。先達詩人から若い書き手までそろった詩選集は沖縄の詩の
現在を映し、方法やテーマが多様化したこともあらためて印象付けた。

 沖縄戦や基地問題など歴史社会を表す個性が光る。高良勉「ガマ
(洞窟)」、網谷厚子「魂魄風(まぶいかじ)」、うえじょう晶「記憶の
切り岸」、久貝清次「明日へ」、芝憲子「大浦湾」。かわかみまさと
〈「くに」は苦根〉は至言。

 また、「慰安婦」問題や東北福島にも視野が及んでいる。川満信一
「慰安婦」、うらいちら「家族写真」、西銘郁和「遠野物語に描かれ
た幽霊の記録」。

 島言葉の美しさ、豊かさ、秘められた過酷さも際立つ。伊良波盛男
「夜の口(ユイヌフツ)」、上原紀善「ゴホウラ貝」、田中眞人「たはべ
ゆん」、中里友豪「キッチャキ4」、星雅彦「混迷の耳」、ムイ・フユキ
「遥拝(ちむとーし)の丘」など。新城兵一「言葉の受難」の〈狂暴な
鬼〉が現代詩に必要だ。

 内面を風景やイメージで濃密に描いた作品も優れている。佐々木薫
「十月、運河」、下地ヒロユキ「寺向こう」、仲本瑩「ガーブ川・水譜」。
与那覇幹夫「ブラックホール」は青空の下の獄房が鮮烈だ。
 市原千佳子「ひとりの千年」、仲村渠芳江「胃カメラ妄想録」は身体
性とエロスに引かれる。

八重洋一郎の「詩表現自戒十戒」は詩人の矜持と責任感を学んだ。

 若い世代になると歴史より人間関係として普遍化し、感性も繊細だ。
トーマ・ヒロコ「やんわり断る」、キュウリユキコ「哀悼」、伊波泰志
「デラシネさん」、西原裕美「色がつく」、松永朋哉「風はとどまる」、
宮城信大朗「言葉を編むひとびと」。宮城隆尋「協定(2)」は日本社
会を寓話化した秀作だ。
 本土に迫る詩の大波、世界への詩の潮先として一層期待したい。

(「沖縄タイムス」2016年4月2日掲載)







アジアの他者を創造的に理解するために

「往復書簡 2014.2.3 〜2.19 金時鐘 北川透 細見和之」
から戦後詩批評を考える

逆転のダイナミズム

二〇一四年は詩人たちの国際交流において心揺さぶられる
ことが多かった。一〇月一一日は日本詩人クラブ主催で「国
際交流カリブ2014―エドワード・ボゥ博士を迎えて 文
化の復興力―その逆転のダイナミズム」と題し、クレオール
文化やレゲエ音楽で知られるカリブ海諸国の詩について講演
と朗読、演奏によりじかに触れることができた貴重な体験だ
った。フランス、イギリスの過酷な支配の歴史に対し逆転し
て噴出する詩の飛沫に打たれたのだった。何よりもクレオー
ル文化として詩と音楽が発信されたことにあらためて驚異を
覚えたのだった。福島の詩人、斎藤貢氏の被災被曝後の生活
と創作を試練として乗り越えようとする話も胸に迫った。
また、九月二〇日には韓国から高炯烈氏を招いて講演を受
けた。「詩評」というアジアの各国の詩を掲載した詩誌を一
三年間に渡って続け、講演の中でも日本の中国文学者・竹内
好の研究を日韓中の三カ国共同で行うことの意義を述べた。
この時、通訳で一緒に来日された詩人の権宅明氏は、私も翻
訳の指導を長く頂いている方だが、父親が日本兵として戦争
に遣られ、米軍の捕虜になって解放後も帰還が遅れたと初め
て明かされた。それで韓国外換銀行の東京支店に勤めること
になった際も気がすすまなかったそうだ。長年、日韓現代詩
交流に献身的に尽力し、超多忙な仕事の傍ら日韓詩の翻訳や
監修をいつも快く引き受けて下さる姿からは思いやること
のできなかった私の不明に愕然とした。大変な衝撃だった。
日本の責任であるのに日本人が知らないで来た朝鮮半島の
歴史の襞の深みを思った。

理解と批評

アジアの他者をよく知ろうともせず理解もしない思考は戦
後詩批評においても見られることだ。
「現代詩手帖」二〇一四年一一月号に「往復書簡 金時鐘
 北川透 細見和之」が掲載されている。細見和之氏の著書
『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』(岩波書店)が第三
回鮎川信夫賞の評論部門の最終候補に挙がり(受賞は別の本
)、賞贈呈式で北川透氏が述べた選考経過報告をめぐって交
わされた往復書簡だが、批評として重大な問題を孕んでいる
と思う。私は、細見氏の本は、斬新な比較検討を行い、細部の
読み取りまで歴史背景を踏まえ丁寧な解釈が行き届いた画期的
な著書だと感じた。
私は、細見和之氏の北川透氏への二回目の質問文「私の金
時鐘論の余白に」の中の「冷戦的思考という枠を超えて」を
文芸研究誌「論調」《金時鐘特集》第六号(二〇一四年一月
二〇日発行)で読んでいた。けれど、細見氏と浅見洋子氏ら
が携わったこの特集の充実した誌面に感嘆したものの、細
見氏の北川氏へ向けて書いた質問に対しての反応は鈍かった。
北川透氏の主張、少しでも北朝鮮や社会主義を擁護した者に
対して排除的に批判するのはよくあったことなので殊更驚か
なかった。私は往復書簡論争の根元には戦後批評の問題が
よこたわっていると考え、今回のことに局限して述べてい
るわけではない。加藤典洋氏の『敗戦後論』の言葉〈わた
しの理解をいえば、他者が先か、自己が先か、という問いが
日本で生きられたのは、この「政治と文学」という問題枠組
みにおいてにほかならない〉を思い出した。細見和之氏は、
こうした冷戦的な二項対立を超えて新しい領域を切り開こう
とし、金時鐘氏の詩業にはその力があると著作で展開してい
るわけだが、北川透氏のあまりの無理解に愕然としたようだ。
分断され緊張関係が続く朝鮮半島と在日の中で、さらにい
ろいろな面で在日を追い詰める日本において、金時鐘氏につ
いての誤った規定が流布されるのは非常に危険であり、金時
鐘氏の文学存在を毀損することになる。日本と朝鮮半島にお
ける詩人、言論人として大きな業績を評価され、未来に向け
さまざまな提言と働きをなしてきた意義は今後もっと創造的
に研究されるべきであって、不当な断定により貶められるべ
きではない。いかなる詩であろうとも批評は存在するが、詩
人を論じる時、前提に、詩人に対する十分な理解が必要であ
り、その認識がなければ本質を誤解させるような断定的な文
言を控えるのが当然だろう。
問題になっている第三回鮎川信夫賞の贈呈式での選考経過
報告では、北川透氏は金時鐘氏を評価している箇所もあるの
で、当該部分を引用しよう。(「現代詩手帖」二〇一二年八月号)

詩論集のほうに入ります。まず細見和之さんの『ディアス
ポラを生きる詩人 金時鐘』(岩波書店)。これを支持する
選考委員がいなかった。これはなぜなのか。ぼくはこの本
を手にとったとき、今回はこの詩論集が受賞するかな、と
思ったんです。金時鐘という一人の在日朝鮮人の存在。日
本の戦後詩を考えるときに、在日朝鮮人の詩が占める位置、
韓国語という自国語と日本語という外国語のあり方が、在
日の詩人のなかで逆転しているという、言語の暴力性のよ
うなもの、これをどう評価してとらえていくのか、そうい
う問題を孕んでいます。ただ、これはそう簡単ではないで
すね。金時鐘さんはついこの前まで、北朝鮮を評価してい
ました。ここで細見さんが取り上げている『新潟』という
詩集は、社会主義リアリズムの典型を書いた、と本人が言
っている詩集です。金時鐘さんは、詩人ですけれど、同時
に影響力の大きい詩人ですね。その場合の思想の責任。こ
れは北朝鮮で抑圧されている人びとに対する責任、という
問題まで含むわけです。一人の在日の、非常に困難な思想
の歩みを強いられた詩人が、そこで過ちを犯す、矛盾した
ことを書く、十分に説得力のない発言をするということは、
ある意味で当然のことです。その当然のことを在日の詩人
の困難として直視することが大事なのではないか、むしろ、
マイナスを汲み上げるところに、問題性の大きさがある。
ところが、残念ながら、細見さんは金時鐘という詩人をあ
まりに美化しすぎて、批判的な問題を突きだすような書き
方がなされていない。それではかえって問題の切実さが見
失われてしまうんじゃないか、ということでした。

これに対して金時鐘氏が発した最初の書簡の主要点の一つ
は、北川氏の文言「細見さんが取り上げている『新潟』とい
う詩集は、社会主義リアリズムの典型を書いた、と本人が言
っている詩集です」について、金時鐘氏自身はそのようなこ
とは言っていないと訂正を求めている点だ。「新潟」が「社
会主義リアリズムの典型」ではないことは作品を読めば、現
代詩人なら理解できる。しかも「社会主義リアリズムの典型」
とは何かは、考えるべき問題であるし、むしろ金時鐘氏は典
型を批判的に乗り越えてきたのが本来であるし、細見氏も批
判的超越として読解しているし、例え本人がそう謳っていて
も優れた詩ならば多方面から評価すべきだ。宮沢賢治が手帳
に「法華文学ノ創作」と書いていたからといって法華経の観
点に限定するわけではなく、もっと多彩な解釈がされている。
レッテルで詩を評価することはあってはならないことだ。〈ぼ
くは船腹に呑まれて/日本へ釣り上げられた。/病魔にあえ
ぐ/故郷が/いたたまれずにもどした/嘔吐物の一つとして/
日本の砂に/もぐりこんだ。/ぼくは/この地を知らない。/
しかし/ぼくは/この国にはぐくまれた/みみずだ。〉(「新潟」
部分)細見氏が分析解釈したように「ぼく」が変身し、分身が
登場し、記憶の層が重ねられる高度な実験性に富んだ、まれに
見る密度の濃い長編詩だ。
また、二つ目は「金時鐘さんはついこの前まで、北朝鮮を評
価していました」という文言については、金時鐘氏は「今の
『大韓民国』がつくられる当初の、反共の暴圧を身をもって
知っている私には、朝鮮戦争を経るまでの北朝鮮はまぎれもな
く、絶対正義の国であったことも事実です。それも休戦協定が
成り立つまでのことでして、朴憲永が処刑されてからは金日
成神格化の独裁政治に体を張って、在日朝鮮人として反対し
てきました。ために民族反逆者とまで言われて朝鮮総連から
延々と政治的組織的制裁を受けてきました。私への貴方の規
定まがいの発言は、私の自己存在への侵害であり、私の人格
をも中傷するものです」と抗議した。北川透氏は「金時鐘と
いう一人の在日朝鮮人の存在」の重要性を認識してはいるだ
ろう。が、とても一言で言い表せない内実と軌跡を受け止めて
はいない。文学は苦悩と葛藤の軌跡でもあるから、安易にそう
した生きた過程を切り捨てるべきではない。しかも、朝鮮半島
と在日の人生には日本が密接に関与し続けているのだ。金時鐘
氏があえて「ぼくこそ/まぎれもない/北の直系だ!」(「新
潟」)だと書くのは、北朝鮮の困難、朝鮮半島の苦難を自ら
引き受けるために言っているのだ。この逆説的な表現が分か
らなければ金時鐘文学を理解することはできないだろう。北
川透氏の報告の引用部分後半の「過ちを犯す」「マイナス」
などの文言は北の共和国や社会主義を全面的に徹底的に批判
しなかったということに読める。往復書簡でも北川氏は「金
さんが、なぜ、ふっ切れないかというと、社会主義への幻想
があるからだ、と思います」と述べている。
往復書簡は、社会主義論争が大きなテーマになっている
観がある。金時鐘氏が往復書簡で福祉社会的な社会主義への
支持を語っているが、〈共生への模索〉は人類、生命にとっ
て普遍的な価値である。地球自体が〈共生への模索〉なくし
ては即刻自滅する危機に陥っている。ポストコロニアルや二
〇世紀の帝国主義の侵略を問い直す異議申し立ては世界各地
で現在沸騰している。金時鐘氏の詩業や主張は「古臭い」どこ
ろか、今の焦点に即している。

創造的な批評と交流

細見和之氏の本は、在日文学研究としても優れて新しい領域
を切り開いている。在日文学研究は、おおまかに言って、次の
ような経過をたどって来た。1、民族性・政治性への評価 2、
日本語文学の中の独自的領域としての評価 3、世界的な被植
民地文学としての評価。細見和之の著作は題名の「ディアスポ
ラを生きる」という言葉から分かるように、また文中でツエラ
ンやハイネと比較研究しているように、世界文学の観点から金
時鐘を論じる意識が高い。日本だけではなくアメリカやドイツ
など世界の研究者が在日文学を取り上げている。さらに細見氏
の著作は、浅見洋子氏らの尽力によって復元された作品を論ず
ることによって知見を広げている。
金時鐘氏は「はざまを生きる」として、「日本語の美意識
になじまない日本語」を打ち出し、日本の閉鎖性を打ち破ろ
うとしてきた。それを日本文学が、日本語文学の内側ではな
く、新しい創造文学としてどこまで把握できたか疑わしい。
ところで、私は思いがけず二〇一四年一一月一日に、韓国
の昌原KC国際詩文学賞を頂いた。微々たる力ながら日本と
朝鮮半島の歴史等を考え作品化し、韓国詩を地道に紹介して
きたことが認められ大変うれしかった。本誌「詩と思想」でも
何回か韓国詩を特集させて頂いた。日韓関係が悪化している中
で、あえて日本人に授与した韓国の人々の知性と温かさに感銘
を受けた。その昌原市は合併される前は、馬山市といい、かつ
て日本の企業が押し寄せ労働争議が起ったことで有名な輸出自
由地域だった。さらに辿ると港に近く、日本軍が支配し、日本
人町もあり、皇国臣民化のための神社の鳥居も残っていた。そ
の歴史を踏まえての創造的交流の大切さを考えたのだった。
(「詩と思想」2015年1・2月号)













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