ウォーター


詩誌・詩集のコーナー
V





目次

水田宗子詩集『サンタバーバラの夏休み』

伊藤芳博詩集『誰もやってこない』

岡島弘子詩集『野川』

伊藤芳博詩集『家族 そのひかり』

渡辺めぐみ詩集『ベイ・アン』

こたきこなみ詩集『星の灰』

李美子詩集『遥かな土手』

伊藤啓子詩集『ウコギの家』

詩誌「東国」114号

『アンソロジー中村不二夫』

『アンソロジー日原正彦』

『アンソロジー望月苑巳』

龍秀美詩集『TAIWAN』

岩瀬正雄詩集『空』

前原正治詩集『黄泉の蝶』

川中子義勝詩集『ものみな声を』

荒川洋治詩集『空中の茱萸(ぐみ)』



水田宗子詩集『サンタバーバラの夏休み』

「RIM」12【書評】『サンタバーバラの夏休み』(思潮社)
生と死が入り混じり輝く時
(「RIM」城西大学・アジア・太平洋女性学研究会会誌)


表紙カバーの思慮深そうなうさぎと瞑想するきりんの絵。森洋子 氏による生き生きした動物と
子どもたちの装画はまるで「ふしぎの 国のアリス」の世界のようである。どこかファンタスティック
な語 り口の中にこめられた生と死の循環、人間と動物と無機物の混在、 時間の「ごっちゃまぜ」、
言葉の混合など、まさにアリス的なポス トモダンの世界を思わせる。
冒頭の詩篇にも「シルベニア村のお母 さんみたいに/エプロンかけて孫たちのご飯作り/
朝はみな引き連 れて海へ散歩」と童話のように柔らかい日差しが降り注いでいる。
だが、この背景には「大切なものを失ったので」という喪失の悲し みが静かに響き続けているのだ。
アリスやうさぎが老年になったときどのような夢を見るのだろう か。「老女になったアリス」や
おじいさんうさぎも出てくる。しか しもう、せかせかと遅刻を気にしてぴょんぴょん駆けていかなくて
もいい。時間の体は大きくなったり、小さくなったりして、直線で はない。円環するのである。

わたしの夢で
うさぎはいつもおじいさん
真っ白な長いひげ
チョッキ着て
鼻に眼鏡かけてる
アリスの前をさっと横切っていった
あのうさぎの晩年?
でももうせわしくなく働かない
短距離走者も引退
マラソンはもちろん今でも苦手
今は穴の番人
取ったらすぐに逃げた昔
隠れるが勝ち
略奪品で穴いっぱいにした
晩年は遺失物係
しっかり守るのがビジネス
落としたものは必ず見つかる
失くした時もきっと見つかる
ごっちゃまぜになって 
あの時 この時
どこかに引っかかったままの時も
何でも取り出せる
マジシャンの穴袋の番人
覗いてご覧  
(「うさぎの夢」部分)

近代の特性は「短距離走者(それも後進国ほど猛ダッシュを強い られる)」であり、
「取ったらすぐに逃げ」「略奪品で穴いっぱい にした」のであり、特に男性はそのような人生を
走らなければなら なかった。常にパーティーに間に合うよう時計を気にしなければな らず、
進歩に向かって時間は直線的に進んでいた。しかし、進歩は 夢かもしれない。夏休みという
かっこに入れられた時間こそがワー カホリックの症状を呈している労働を覚醒させ時間を
返してくれる 期間かもしれない。時間は本当は多次元宇宙のように
「ごっちゃま ぜになって/あの時 この時/どこかに引っかかったままの時も/ 何でも取り出せる」のだ。
太陰暦と太陽暦があるように時間も制度 にすぎない。また、内部感覚の時間は一分を長く感じる
場合もあれ ば、一年があっと言う間のこともある。近代はそうした時間を平準 化することに
よって成り立ってきた。
水田宗子にとって、近代化と女性は中心的テーマである。女性が
非近代として、近代の男性を批判するというのは有力な方法だった。
茨木のり子も「大男のための子守唄」などで日本の近代化=高度経 済成長を批判している。
「心臓のポンプが軋むほどの/この忙しさ はどこかがひどく間違っている/間違っているのよ//
おらが国さ が後進国でも/駈けるばかりが能じゃない/大切なものはごく僅か /
大切なものはごく僅かです/あなたがろくでもないものばかり/ 作っているってわけじゃないけれど」(1)
経済のグローバル化で 一層駈け足競争が激しくなるが、「大切なものはごく僅かです」と
いう真理は変わらないだろう。それを大切にするのが女性の役割と 水田宗子は構想していたが、
アジアで異なる現実にも気づく。
「西欧社会や日本では、近代化のプロセスの中で女たちが負わされ てきた
矛盾についての考察がすでに蓄積されている二十世紀の終 わりに、これから
工業社会化する国々では、女性は「遅れてきた 近代人」として開発や経済発展に
編入されるのではなく、西欧の ポスト産業社会を先取りするジェンダーの視点をもって、
そこに 参加し、ある面ではイニシャティブをとる役割を果たすこともで きるのではないかと、
それまで私は考えていたのである。しかし、 ネパールで私は、それが机上の空論にも近い
多難なことであると 考えさせられた。」(2)
女性もまた大急ぎの近代化に巻き込まれ、前近代と近代が混在し た状況で、
女性に矛盾と葛藤の二律背反を引き起こさせる。この矛 盾を深く感得しながら思考し続けるところが
水田宗子の優れた所で 文学の発生地点でもある。「進んでいる」「遅れている」という時 間軸は
相対的な一つの針だろう。近代と高度消費社会の果てに砂漠 の荒野というフリダシの零時
が待っているかもしれない。人に死が あるように。
相対化は、人間の立場についても言える。
被害者は加害者に入れ 替わる。食べられたうさぎは実は世話係を食べていた。
「夢で兄弟 うさぎに出会った/近づくと/耳打ちしてきた/ソフィーを食べち ゃった」
昨今のグローバル化した社会では容易に被害者にも加害者 にもなりやすい。
知らずに食べているし、知らずに食べられている。
男性も遺失物係に変貌する。前に前にと進んで失ったもの、忘れ たものを探すのだ。
近代的価値を改革するには男性の変化がなくて はできない。最大の遺失物は自分自身だろう。
男女問わず、世界中 のだれもが「私はここにいるぞ」と吠えたい。ライゾウは吠える衝 動を抱きしめる。
「ぼくここにいるぞ/吠える衝動抱きしめ/お兄 ちゃんに寄り添って寝る」
おばあさまも寝ながら吠える。「あの日 吠えたかったこと」
アメリカのビート詩人アレン・ギンズバーグの 記念碑的作品が「吠える」であったのを思い出す。
吠えたい衝動は 詩なのだ。
時は幾重にも重なる。ぬいぐるみの感触さえ戦争の記憶を呼び起 こす。
首の長いきりんは子供に不人気で「おばあさまのお握り」。 「きりんと一緒に見る夢/空襲のさなか/
敵の弾丸逃れて/子ども 引きずって/走った 走った/あの昔」
が手の感触に残っている。 昔が腕の筋肉に刻まれている。
時というものは神経や筋肉のように 痛み、感じ、這いつくばり、引きずり、跳ねる。
「U山火事の夢」は語り手が「わたし」と「ぼく」の子どもにな る。
山火事は環境が破壊された自然のようでもあり、戦争の記憶で もあるように感じる。
「馬や犬、羊や山羊、牛や鶏」を巻き込み、 樹々を燃やす。
馬は炎の美しさに魅せられてしまい、「おじいさん と一緒に死ぬのが本望」と思ってしまう。
その火事を消せるのは、 みんなを生に引き戻すのは魔法を使える子どもだけだ。

今消してしまわなければ
燃え続ける
目の中の黒こげ跡
大人たちはしてくれない
後始末を
魔法のおもちゃでしてるんだ
だから
ぼくは毎日忙しいんだ
(「後始末」部分)

「魔法のおもちゃ」では山火事は消せないと思うのは常識だ。
け れど、大人が知性の常識によってしでかした環境破壊などの不始末 を
乗越える発想は子どもの自由な遊びによる創造しかないかもしれ ない。
神なき近代を乗越えるのはニーチェの言うように子どもであ る。
最近、超訳も出て再読されているニーチェが子どもの創造性を新しい始まりに据えたのは意義深い。
[
「 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。しし獅子でさえできないこ とが、
どうして幼な子にできるのだろうか?どうして奪取する獅 子が、
さらに幼な子にならなければならないのだろうか?
幼な子はむく無垢である。忘却である。
そしてひとつの新しいはじま りである。ひとつの遊戯である。
ひとつの自力で回転する車輪。 ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。 
そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定 が必要なのだ。」(3)

Uで言葉の混合性においておもしろい表現が出てくる。
「ピンク アカ ブルー」の箇所で、「レッド」ではなく「アカ」とは同じ赤色でも
日本の漆器の赤が混ざっているような意外性があり、「色と りどりのパーティー」が
一層ふくらんで感じられる。この他にも言 葉の混合性が見られるが、
水田宗子はクレオール性について次のよ うに指摘している。
この「多言語文化」というのは、女性にとってはごく普通の状況 なのである。
女性にとって、母のことばとは、幼児語であると同 時に、女性語でもあるからだ。
女性は成人してからも、母のこと ばである女性語と、父のことばである公用語の
二つを使い分けて 生活してきた。」(4)
そして、非常に重要な示唆は、娘の成長にとって二種のことばの使い分けより、
二種のことばの「混合性」「雑種性」の肯定が必 要だと述べていることである。
「二つのジェンダーに引き裂かれた 文化と内面に閉じ込められて、
狂気と失語症に陥った、近代の母と 娘のドラマから抜け出すためには、
さらに多様な越境領域や『代理 母』、さらに『雑種』な創造力と表現が求められている」(5)
子どもの成長は死との出会いによって深められるだろう。
この詩 集は、「あとがき」で「二〇〇九年の春、孫たちのヒーロー、おじ いちゃまが亡くなった」
と書かれているように、「V おじいちゃ んの夢 レクイエム」が主調音である。
しかし、「ぼく」が語り手 となって喪失は成長と重なるのである。

おじいちゃんは今は写真
ぼくは怪獣のおもちゃを全部
高い棚の上に乗せた
怪獣はおじいちゃんと
遠いところに行くのだ
ぼくの怪獣たちが
宇宙の始まりまで連れて行くんだ
遠くの時間へ
いつか裂け目から
怪獣に乗っておじいちゃんが
帰ってくるまで
ぼくの怪獣はおじいちゃんの守護神
しっかり守るんだ
ぼくはかまきりになって生き残って
待っている
いつも見えるところで
鎌振り上げて
合図する
(「かまきり」部分)

孫を守ってくれたおじいちゃんは、今度は孫の怪獣に守られる。
「ぼくの怪獣たち」が宇宙の始まりまで連れて行き、また怪獣に乗 って
いつかおじいちゃんは帰ってくる。円環する生命の流れの中に 人間もいるのだ。
作品「金魚」は話者の混合性、入れ替わりもおも しろい。
子どもの目から、さらに金魚の視点から語られていて世界 を複数化している。
人間存在にとって最も本質的なのは、生と死の混合であり、祖先 との混合だろう。
私たちは絶えず欠けた生の言葉、生のクレオール 語を話し、
祖先の昔と現在が混在した言語で書いているのだ。
夏は 生命の頂点とも言えるが、すでに冬も始まり、滅びと再生が混じり こんでいる。

八月に弟が生まれた
ママはおじいちゃまの生まれ変わりだという (略)
八月生まれのおばあちゃまは
その前に亡くなったおばあちゃまのおじいちゃまの
生まれ変わりなんだって
かなおばちゃまは
同じ月に亡くなった佳奈のおばあちゃま
ぼくのひいおばあちゃまの
生まれ変わりなんだって
ゆきおおじちゃまも
たくろうおじちゃまも
ぼくのひいおじいちゃまの
生まれ変わりだと
自分でも言ってた
(「生まれ変わり」部分)

喪失の悲しみは深いだろう。だが、悲しみの湿気や暗さではなく
光と柔らかな風が通り抜けているのは水田宗子の混合性を基盤にし た創造力、
環流する生命思想、ポストモダニズムの技法ゆえだろう。
前詩集『帰路』の冒頭に置かれた詩「青の詩」も
明晰な知性の美し い具象化が印象的だった。(6)

記憶が薄れていく先は
青い空
野原に寝転んで行く先を追う
青が終わるところに昔があるのか
青が虚ろになるところは
白いナッシング
闇でないのがいい
(「青の詩」部分)

感情も対象化して清新な作品として差し出す力量と独自の詩世界 の成立を
素晴らしい装画とともに堪能したのだった。

注 (1)『現代詩文庫S 茨木のり子詩集』思潮社 一九六九年
(2)水田宗子『ことばが紡ぐ羽衣』思潮社、一九九八年、二〇九頁。
(3)ニーチェ、(氷上英廣訳)『ツァラトゥストラはこう言った(上)』 岩波文庫、二〇〇一年、四〇頁。
(4)水田宗子『ことばが紡ぐ羽衣』思潮社、一九九八年、九三頁。
(5)水田宗子『ことばが紡ぐ羽衣』思潮社、一九九八年、一〇一頁。
(6)水田宗子『帰路』思潮社、二〇〇八年。





伊藤芳博詩集『誰もやってこない』


2008年12月27日、ガザ空爆始まる

今日もまた
暗闇の向こうから一人の男が現れ
私と瞬間すれ違い
足音と息づかいを残して
背後に消えていく
私もまた
息を切らしながら
この暗い遊歩道を
見えないどこかに向かって
毎日走り続ける一人のランナーだ

走っても走っても
人々が殺され続ける

突然
背後から
先とは違う足音と息づかいが近づいてきて
私を抜いていく
彼もまた
一人の時間を走っている
追うことはできるだろうが
私は私のペースを守る

なぜ 走っているのだろう
こんなにも子どもたちが殺され続けている世界で

走っても走っても
爆弾は落とされ
それでも
見知らぬ男は走り去り
私も
自分の影を追ったり追い越されたり

ああ ガザ
ガザ ではない街を走る
小さな街灯と自分の影を頼りに


※2008年12月27日午前11時半、イスラエルは
パレスチナ・ガザ地区に対して空爆を開始。一日で
パレスチナ人の死傷者は1000人を超え、、第三次
中東戦争以来の最大の攻撃が、09年に入っても
続いている。(1月10日現在)(原注)


*前詩集『家族 そのひかり』(詩学社刊)で介護体験を
ふまえ、人と言葉の根源を照らし出した伊藤さんが
世界の悲惨に正面から向き合った第7詩集。
パレスチナに行き、支援活動を行ってきた伊藤さんにとって
2008年12月のガザ空爆は非常な痛みと無力感を
抱かせたでしょう。柔らかい感受性と身近な日常への
視線を失わずに困難を書き続ける姿勢に打たれます。
(ふたば工房TEL088・840・3791。1575円)





岡島弘子詩集『野川』



    岡島弘子は、詩集『水滴の日』『つゆ玉になる前のことについて』など、
水の詩人と して、生命の本質をみつめ、
美しく生き生きとした叙情世界を広げてきた。
この度の 詩集『野川』では、水滴が川になり、
より豊かで根源的な流れにたどりついている。
詩集に付けられた「野川と私」というエッセイ文中の
「1+1=1」という生命観の
核になる数式は印象的だ。
岡島弘子は、答えの「1」を生命が還る大きな川の意味で 強調し、
もっともだが、私が注目するのは、
「1+1」の詩表現としての意義である。

二〇〇八年に、詩の世界で物議をかもしたのは吉本隆明の本『日本語のゆくえ』で、
第五章「若い詩人たちの詩」では若い詩人 たちの詩は「無」であり、主原因は「自然」
を失ったことと断じた件である。私は吉本 隆明の熱心な読者ではないが、彼の詩論は
「自己表出」を最高の価値とすると思って いたので、いきなり「自然」が出てきて驚いた。
私見では、日本の自然観は「1=1」だと思う。
「美しい日本」ブームも「変わら ぬ自然美」を背景にしているのである。
だが、近代の個人は自然や生地から一旦引き 離れて自己を意識化し、
新たに自然を発見するという回路を取る。
岡島弘子も、自然 と言葉の原点である子供時代を過ごした山梨からの脱出が、
東京郊外の自然である「野川」の発見、自然の詩としての再構築へと
向かわせたと推察する。
そのため岡島弘子の自然表現は、非常に 斬新である。
冒頭の詩「青空ツアー」の素材は「女郎グモ」で伝統的抒情なら
情念の 化身となるが、「句読点についた八本のながい肢が/
空を しっかりとつかんでいる」とさわやかな開放性に富んでいる。
詩「帰 る」でも「橋の下にいたんだよ といわれて育った」となれば、
不幸涙物語に展開しそうだが、水裏の本当の家を目指す。
日本 的家も超えて三十九億年前の生命の旅に出
る心の特徴は解放感なのである。
「はだしで はしってきた/はだかの水に/青空が青い服着せても/
たちまち/ぬぎ散らかして/にげる]「青い服 金の服」
また、「ひとりぶん」「一日分」が頻出
し、個を大切にしていることも見逃せない。
[ひとりぶんの輝きがつくる/一晩分の闇]」(「ねむりの海」)
個の体が世界の体に転 換する詩「ひとつのからだ」はおおらかな
官能性が快い。<世界も/海にだかれた ひとつのからだなのだと気づく>
川の豊饒さへの想像力だけではなく、つ ゆ玉の言葉一粒一粒を丁寧に繊細に表現す
ることが詩的リアルさを支えている。それは他者のひとりぶんのつゆ玉への
視線にもうかがえる。
詩「かたよる」の電 動車椅子の人が鉄棒で大回転する描写は鮮
やかな存在感を伝える。「1+1」は他者 との出会いでもあろう。
「1+1=1」は一方通行ではなく、左辺と右辺の往還こそ
岡島弘子の詩の魅力であり、モナド(単子化)した
現在に深い示唆を与えている。

(思潮社・二〇〇八年・二五〇〇円+税)








伊藤芳博詩集『家族 そのひかり』

言葉

理由のわからない痙攣を繰り返し
父は言葉を失っていく
「仕事に行ってくるよ」という言葉に
「ごくろうさん」とだけは応えていた父から
とうとう 言葉が聞かれなくなった
(揺れる僕のネクタイにだけ反応する父が
 悲しい)

そのように 人は言葉を失っていく

なめらかに書けるのであればいい
僕の子どもたちは
日々 意味に追いかけられながら
<豊かな世界>を手に入れようとしている
そのように 人は言葉を獲得していく
失っていく者と得ていく者の世界の総量で
親子が語れるときはいい
だが父の<豊かな世界>は
日々 不意打ちのように崩れていく
(崩れているのかいないのかさえ判らないのだが)

父の口は何か言いたげで
もぐ とだけ動くが
突然 言葉が消え
一瞬 顔をくしゃくしゃにして泣きそうになると
それからまた
他人のように僕を見つめる
そのように父は言葉を失ってきたのだ


なぜ父のことを詩に書くのか
と自分に問う
(問われるのだ)
顔をくしゃくしゃにして泣きそうになる僕の気持ちを
シャンとさせて
それから
言葉によって
(豊かであろうがなかろうが)
失われていく世界と
現れてくる世界の
輪郭だけでもいいから
愛することができたら

自分に
問い返す


*伊藤芳博さんはこの詩集を「生きる意味 を考えながら」
まとめられたそうです。詩人であるお父様が言葉を失って
いく日々は家族にも耐え難い悲しみを抱かせるでしょう。
その時、言葉とは、生きる意味とは、と改めて自分に問わ
ずにはいられません。詩集中「意味をもとめてはいけない
雨が降る」という作品があり、もしかしたら生とは意味をも
とめてはいけないものなのかもしれません。言葉以前の、
言葉を超えたところに生があるのかもしれませんが、それ
でも人間は意味を求めずにはいられない、言葉によって豊
かになる存在でもある、そうした人間の根本の姿が浮かび
上る作品です。三世代の家族の思いが織り成す光。それ
はさりげない日常の場面でも他者に共感を抱く伊藤さんの
柔かい想像力を培った場でもあるのでしょう。(詩学社刊)






第11回「詩と思想」新人賞・渡辺めぐみ「恐らくそれは赦しということ」

恐らくそれは赦しということ

眠り病院を取り囲む広々とした庭にコスモスが揺れる
ここは罪という大河と善という燐光の間隙に落ちた人々が眠る場所
なだれてゆく時間
コスモスがチチチチチと話す微音が聞こえてくる
ここに収容されている人々は
その音の少し哀しい小鳥訛りとともに眠り続ける
過去の影を消すために
あてどなく光と和して
チチチチチ チチチチチ
コスモスが最後に彼らの記憶を飾った日のことを
コスモスが花であることでさえ
完全犯罪的頭脳から捨ててゆく時間

高貴な太陽が目深く小止みなくコスモスに病院を溶かし込む
それは多分
レイ(ray)  レイ(ray) ライ(lie)
レイ(ray)  レイ(ray) ライ(lie)
波動は落ちて下界は闇夜を迎えても
ここ眠り病院は天なる父の格別の計らいにて
レイ(ray)  レイ(ray) ライ(lie)
レイ(ray)  レイ(ray) ライ(lie)
あるいは
レイ(ray)  ライ(lie) レイ(ray) ライ(lie)
の繰り返し
チチチチチ チチチチチ

わたしが眠り病院を訪ねたのは
新世紀を迎えて七日目の朝だった
逢いたい人がいたのだけれど
今それを語れば
良心の格納庫に火が入る
下界も燃え出て
わたしも焦げる  
だからこれだけしか記せない
チチチチチ チチチチチ
いつかもう一度
わたしがあそこへゆくまでは


*19歳で女性誌「ラ・メール」に投稿して以来、自分の独自世界を創り上げてきた渡辺めぐみさん。
 今の若い詩人には珍しいほどの深い形而上性と、現代に対する鋭敏な感受性、新鮮な言語感覚
 が魅力的です。童話、短編も書く多彩な才能はこれからもっとはばたくことでしょう。
 詩集『ベイ・アン』1800円。土曜美術社出版販売。



第34回小熊秀雄賞受賞・こたきこなみ詩集『星の灰』

星屑微塵

遠い夏休みのこと
庭の白楊の枝が払われ 私たちはそれを拾って遊んだ
幹に立てかけて枝を組み 犬小屋ほどの空間を囲った
もぐりこむと厚手の葉がひんやりと涼しく
ジャングルの隠れ家のようだと皆がはしゃいだ
はるか焼跡の東京では同じ年頃の子どもたちが
路上で食をあさり フロージと呼ばれると聞いていた

夕食の後は 小さな弟と子犬を抱えて隠れ家の中だ
葉っぱの天井をすかして夜空がのぞいた
星の光が弟や犬の体温の間に冷たく射しこむ
いつしか夢で この草カゴのゴンドラが吊られ
星々の間をただよっていた さびしく怖かった
流れ星のシッポが闇に消え入った
星たちもひどく寂しげで泣きそうに見えた

今年の夏も 宇宙空間へ果敢に挑む試みがあった
国をあげて莫大な費用をかけて幾人もの命をかけて
そんなことをして何になるのか誰が助かるの
世界中の飢えを救わないくせに
あ わかった
こんなにひどく荒らしてしまったので
やっぱり地球を見限る気ね
土も水も海も空気も絶望的
おまけにどこに行っても硝煙の匂い
どこを掘っても多数の白骨
こんなところは耐えられない
早く 早く替りの天体を開発して逃げ出したい でも
ハコブネ号に乗れるのは特権階級だけ
わが家の子孫なんぞ南極の犬同然置き忘れ組で
万一 行けるとすれば未知の開拓地の露払いだよ

核と火薬と飢餓の3Kの国々
路上生活の子どもたちにTVカメラが向けられる
ルーマニアの一人の少年が言い捨てる
どうせ間もなく僕たちは死ぬんだから」
もっと幼いロシアの男の子は泣くばかり
死ぬのさえ待ってもらえずブラジルの幼児の群れは
市民の銃で邪魔物一掃一まとめに埋められた

星屑微塵粉みじん
死んでお星様になりました なんて
星たちだってとんだ迷惑さ

*文明批評が鋭く、危機意識に溢れ、風刺とユーモアもある詩集です。



福田正夫賞受賞・李美子詩集『遥かな土手』

三日月

夜空で猫が笑う
風に吹かれ 見上げていましたら
青白い頬のあたり
にわかに 削げおちて
はるかな日に
「三日月石鹸」の渾名を進呈した
イム ジュネ
北の祖国に帰って行った友の
しゃくれた横顔が ぽっかり
あらわれた

少女の私を
「皇太子」と呼んだのは
ひょうきん者のあなたらしい仕返し
それとも 青い苛だちだったのか
線路沿いの棟割り長屋から
母をつれ 日本を見限った
イム ジュネ

新義州という
国境の街に住んでいる
鴨緑江の月もしゃくれていますか?
不忍池の紅蓮はたわわです
エーエヘラア
苦い酒くみかわす
遠い日の イム ジョネよ

*李美子(イ ミジャ)さんは、東京足立区に生まれ、東京朝鮮高校
、法政大学英文科を卒業しています。この詩集は、在日の人々の生活
を丁寧にみつめ、観念に陥らず、明暗ともいきいきと描写しています。
風景や物をしっかり書くことで、在日の歴史やくらしがはっきりイメー
ジでき、心に刻まれます。2000年度福田正夫賞受賞。土曜美術社出版販
売・2000円。


「詩と思想」新人賞受賞作品「水音」収録
伊藤啓子詩集『ウコギの家』


半身

大晦日の午後
おせちを作り終えて街に出た
注文していた本を買い
喫茶店に入る
障子張りをしなければとおもいながら
本を取り出す
娘の髪を切ってやるんだったと
あたらしいページをめくる
わたしの半分が
家で何かしているので
半分だけの わたしで
本を読む
カップ片手に
時間が横すべりでながれていくのを
半分の わたしが
ぼんやり見ている
あとの半分が
これからの過ごし方を
せかせか 段取りしている
わたしは いつも
半分のところで
生きているような気がする
と おもったところで
ようやく
わたしが ぜんぶひとつになった

*伊藤啓子さんは、山形市在住。「水音」で第9回「詩と思想」
新人賞受賞。この詩と選考経過については、「詩と思想」2000
年12月号に掲載されています。繊細でどこかこわさのある感性。
「あとがき」で「反すうするくせ、耳を澄ますくせが身につい
ているから、想いも記憶もいやというほど反すうしてみる。」
と述べているように、記憶を何度もすすいで底の真実を透明感
ある言葉で表しています。才気あふれる新人。夢人館。1800円。



詩誌「東国」114号

コップいっぱい
川島完


コップいっぱいに水を注ぐと
すぐ表面張力の構えをする
その曲率が光る朝は
けっしていい一日を約束しない

コップいっぱいに焼酎を注ぎ
それがいつものように溢れ
受皿の方もまあまあに張ると
理由もなく<伴淳三郎>の顔が浮かぶ

コップいっぱいに氷解水を入れると
グラスに真珠のつぶつぶが生え
それが茶褐色の山根の木に変わり
<嬬恋村>の風の峠へつづく

コップいっぱいにビー玉を溜めて
勉強している少年の夜の部屋は
基次郎の「檸檬」も転がっている
それを承知でわたしは数学を押し込む

コップいっぱいにビールを注ぎ
天上界に逃げ込む泡が
間遠になるまで見ている夜更は
後ろ姿もしぐれているような(後略)

*「東国」は、隔月刊の詩誌で、30人近くの同人が集う
たいへん充実した詩誌です。詩、訳詩、エッセイ、評論
とこれを隔月で出す編集者・川島完さん、発行者・小山
和郎さんのご苦労と熱意には敬服します。川島完さんは
東国叢書U期第一巻『ピエタの夜』で2000年度富田砕花
賞を受賞しました。同人の新井啓子さんは群馬県文学賞
を受賞。H氏賞や詩と思想新人賞にも最終候補となりま
した。実力派ぞろいの詩誌。



『アンソロジー中村不二夫』

N・Yメッツ

わけもなく昨日が消されてしまう
そんなひどい夢を見つづけてしまった
メッツが好きだから
すべてのことに耐えられるだろう
もどってこない人の数がしるされ
そのことだけが一つの真実として
未来は争われていくであろう
ニューヨークに五番街はあるが
それらは消えないあかしとして
ぼくたちにはきっとメッツがある
何もないぼくたちのことだけど
D・ストロベリーのことならしっている

アメリカ合衆国国歌が斉唱される
シェイ・スタジアムにいること
ぼくたちのことは誰もしらないけれど
D・ストロベリーがそこにいて
星は世界の終わりを見つめている
ひたすらメッツは何もしたがえず
うつくしい素振りをくりかえす
球場が深い呼吸をはじめるとき
世界の向こうを誰もが
吹いてくる風のように見ていた
そしてはじめることのおそれもなく
一瞬にして立ち去る巨大な円が
はげしくぼくたちに生還してくる
D・ストロベリーのストライドが
遠くの軌道をふみつぶしていく

*中村不二夫さんは、1950年横浜生まれ。現在、東京在住。 
第三詩集『Mets』で、第一回日本詩人クラブ新人賞受賞。さわやかな
スポーツを題材とした作品が多く、第一詩集『ベースランニング』、
第二詩集『ダッグ・アウト』などの詩集名からもうかがえます。しかし、
また、キリスト者として現代の矛盾や悲劇に敏感で、求道的な詩精神です。
抒情と思索、活動性と沈思を合わせ持つすぐれた詩人で、日本詩人クラブ
理事長、「詩と思想」編集委員など詩のニュー・リーダーです。
このアンソロジーで中村さんの第一詩集から最近の作まで主要作品が読めます。
(土曜美術社出版販売・2500円+税)



『アンソロジー日原正彦』

一本の木

一本の木
一列に並んだ木々たちのなかの
一本の木
おなじ背の高さのなかの
一本の木
けれど
はげしくすてられている
ほかの木がほかのほかの木にすてられていない分だけ
ほかの木の孤独から
はてしなくすてられている
一本の木 だから
おまえの根をはる地の名を知らない
おまえの葉を繁らす空の名を知らない
おまえの枝にとまる鳥の名を知らない
一本の木 だから
おまえの木かげでねむるものは
眼をなくす
おまえの木かげで歌うものは
口をなくす
おまえをだきしめるものは
おのれをなくす
そういう
一本の木

*日原正彦さんは、1947年岐阜県生まれ。現在、名古屋市在住。
高校時代より詩作を始め、「詩学」研究会に投稿。第一詩集『輝き術』に
により、第6回東海現代詩人賞受賞。第五詩集『それぞれの雲』『ゆれる葉』
により第24回中日詩賞受賞。1997年の詩小説『かほこ』までふくめると
10冊の詩集をお持ちの抒情詩の第一人者。対象への繊細な感受性、やわらかい
言葉、静けさと激しさのある情のひろがりなど、魅力がいっぱいです。
また、暗示性、形而上性にも富み、詩法としても学ぶべき所が多いです。
日原さんの詩の森の中から厳選された珠玉ばかりのアンソロジー。



『アンソロジー望月苑巳』

紙パック入り雪月花

《雪ゆきくれて修羅の段》
扁平な午後の修羅ゆきくれて
兄さんは淋しいのだよ。
岬へゆくな、岬へゆくな
主のいなくなった机の上で
ヒヤシンスがくだをまいている。
せろふぁんのような東風(こち)
盗っ人のように窓を侵蝕し頬に貼りついて。
嫁いだ妹の後姿が見えなくなったあたりで
夜店が
金魚の放蕩を嘆いていた
あの日から 兄さんは淋しいのだよ。
旗本退屈男が欠伸をするように
新聞を広げると肌寒い地方が
たちのぼってくる。
凶か吉か
まっ赤なランドセルが妹に届いた日
胸の中ではぴゅうぴゅうぴろろ
雪が鳴いていたっけ。

何もうたわない内に力尽きてはいけないよ
空にかかるかりそめの天の川
かりそめの親戚関係は多い
だからといって
咳こむな、咳こむな妹よ
空はいまから干潟になり
修羅しゅしゅしゅとゆきくれるから
雪見酒が体を透かしてゆき
胃のかたちに痛みをつくり
痛みの湖をつくり
さらに痛み止めをあおって
わけもなく兄さんは淋しいのだよ。(後略)

*望月苑巳さんは、1947年東京都生まれ。現在、国分寺市在住。
望月苑巳さんは、方法・構成にとても意識的な詩人です。上記の詩の
題名からも分かるように現代と中世・近世の言葉と文化が交錯し、個
人の思いが、意外な人に転調し、重奏的な高度な詩世界となっていま
す。年譜を見ると、20歳の時、弟さんが喘息で亡くなられています。
2ヶ月後には、お父さんが死去されています。こうしたつらく重い原
体験が「咳こむな妹よ」という苦しんでいる人々へのいたわりの言葉
となっていますが、それをストレートに書かない所に望月さんの恥じらい
と詩があるでしょう。第一詩集『反雅歌』『聖らむね論』『定家卿の思想』
『増殖する、定家』『紙パック入り雪月花』『BACHのクローゼット』か
ら選び抜かれた芸術性高い詩のパックづめ。
(土曜美術社出版販売・2500円+税)



第50回H氏賞受賞・龍秀美詩集 『TAIWAN』

指紋

すぐその下をズキズキと
血と汗と神経が通っている

海流のかたちした渦巻きが
島ひとつでできた小さな台湾(ソコク)をとり囲み
それを凝視(みつ)める眼のような
凝視め返す眼のような

十本の指 全部を採る
ていねいに繰り返し採る
終生不変・万人不同
生きて在る絶対の位置

なだらかな山形をつくる(突起弓状紋)
時雨降る日本の山野
なつかしく あいまいな
愛する日本語(コトバ)の響きの波形
そしてわたしの裸身の曲線(カーブ)

これがすべてと
日本(ソコク)に差し出す

*2000年3月4日第50回H氏賞と第18回現代詩人賞の選考会が
行われました。本年度H氏賞には龍秀美詩集が選ばれました。(選考
委員・以倉紘平、八木忠栄、望月苑巳、原田勇男、山本かずこ、暮尾淳、
佐川亜紀)
『TAIWAN』は台湾人である父と日本人の母から生を受けた作者が
二つの祖国、二つの文化の間で、どちらも愛しながら、どちらにもなり
きれない自己を歴史を通して書いた秀作です。テーマ、問題意識が明確
ですが、落ち着いた態度、切りつめた詩句の中にこもる深い歴史と生活
に含蓄があります。日本を他者の視線で凝視したこと、 自己の詩の根が
しっかりしていることが高く評価されました。
最後まで競った1961年生まれの本間淳子さん(1998年現代詩手
帖賞受賞)の『アーバン・アンモナイト』は自由な想像力と言葉が魅力
です。例えば、「ひきだしは/せいとんしないでね/ぼくのちいさなカ
オスが/いつか/星を生むかもしれないから」など、比喩がすばらしい
です。ただ、レトリックだけに終わっているものがあり、単なる修辞の
空回りになるのか、もっと世界や現実とも切り結べるのか、問われまし
た。期待度は大きいです。
私の予想以上に龍秀美さんの自己の存在から歴史を見つめ直す仕事への
共感が多く、薄れ行く日本の歴史意識へ危機感を抱いている詩人が少な
からずいることが分かりました。
(詩学社・2000円)



第18回現代詩人賞・岩瀬正雄詩集『空』



白木蓮の
しろい炎がかすかにゆれて
季節を告げるとき
母の胎内で呼吸をしていたが
泣声をあげたのはこの世のでてからだ
私がはじめてみたものは何だろう
ふたつの乳房 つぎに父の顔
それから人間という名がついて生きものになった
家のまえの田圃に
お玉杓子がいた
手がはえ足がはえ成長するように私も大きくなった
夏の盛り
休耕田の四万本のヒマワリを見に行った
きらめく花の下できみを抱いた
きみの肢は蛙の肢よりしなやかだった
カマキリがいる
野ネズミが生殖する

私はアフリカの南端の
喜望峰の近くの村で
黒人三人が太陽を鼓いている彫物を買った
どんな音が鳴っていただろう
広島の原子雲
ルワンダの難民の列
北極圏の猟師は
オーロラの下でトナカイの皮をむいて食う
血は凍る

今日の昼
空が青いのは
青い神が空にいるからではない
私がいままで見てきたすべてのもの
母や父や きみや お玉杓子や
原子雲や 喜望峰の黒人が
青い空を運行しているからだ
さようなら さようなら さようなら
こちらを向いて
過ぎ去っていく

*岩瀬正雄さんは、92歳です。詩人が年を重ねることは
難しいことです。詩の新鮮さが失われがちになるからです。
でも、岩瀬さんの詩には、円熟とみずみずしさが両方ありま
す。世界への理解や悟りがありながら、詩句は柔軟で命への
万感がしみじみ伝わってきます。何度も味わいたい詩集です。



前原正治詩集『黄泉の蝶』

たましい

たましいとは
いたましい心が
深い井戸へ声を落下させ
気が遠くなるほど待ちつづけても届かず
それすらも忘れ果てた時空の
その先端の冥暗から
ふっと汲み上げられてくる
黒光りする
重い水のことか

それとも魂とは
文字通り
鬼の吐く言葉の
煮凝りなのだろうか
あるいは
境界のさだかでない
ぼんやりとした闇の
向こう側にうずくまる鬼の顔が
青黒い寒天になることか

黒い水も
煮凝りも寒天も
この世に晒されると
その表面が
かすかに揺れつづけている

●魂という形無きものを深い思索と体験の果てにイメージ化
した形而上的詩集。近頃は、哲学的詩がはやりませんが、
時々このようにじっくり考えさせる詩を読みたいもの。魂
に対してのイメージが暗いのは、死産した弟や近親の死な
ど、生の明暗をみすえているためでしょう。いや、死があ
るからこそ、魂が存在するのかもしれません。「私たち人
間のもつ、ものや人や魂を統一する深ぶかとした温かい感覚
や意識が衰弱し四散してしまったのではないか」(あとがき)
と問いかけています。黄泉の蝶を幻視する感覚を取り戻した
いものです。土井晩翠賞受賞詩人の第六詩集。
(土曜美術社出版販売・1900円)



川中子義勝詩集『ものみな声を』

朝の潮流 Psyche

どこまでも暗いうねりのむこうに
ひらたい光の膜がゆっくりとちかづいてくる
目覚めはいつもどこか
なつかしい入江への浮上に似ているー

はるかな海路のおわりに
還りつく陸地を認めた帆船のように
その舳先を 飛沫を切って
趨る女神のように

あなたは瞼をひらいた
海風の息吹が
若き女神の衣をふくらませ
陸地へと吹きおくるとき

あたらしい水のおもてに
したたる湖の滴をかるがるとぬぎすて
目覚めてもなお
あなたは遠くを見つめたままだ

● ギリシャ的世界から聖書の主題へと、テーマが明確で壮大
な哲学世界ですが、詩の感覚は柔らかく、みずみずしいの
で、難解ではありません。思弁より、生命への愛情が言葉
のふくらみを生み出しています。聖書の言葉のような格調
の高さがあり、どの詩篇にも明るい光が感じられます。


荒川洋治詩集『空中の茱萸(ぐみ)』
2000年度読売文学賞受賞



荒川洋治さんは、今、私が最も注目している詩人の一人です。
雅語を自在に駆使した『水駅』でH氏賞を取られてから、 作風
は変転し、現在は、「詩の社会復帰」に尽力されています。詩の
社会性と言っても、従来のサヨク的詩 と違い、サヨクの石アタマ
を叩き、とんでもない角度から現実に切り込んでいます。また、
詩には、政治性 や社会性はいらないといった詩の固定観念、
無菌志向、詩のナルシシズムも批判し冷水を浴びせ、 両者を
なでぎる独自の地点に立たれています。表現が直球でなく、
カーブ、フォークの変化球なので わかりにくーいと言う方もいる
かもしれませんが、私なんかは、そうそうこれがまさしく「詩の現
在」よ、 「現在の詩」の核心よ、ドンピシャと共感してしまうのです。

朝日新聞10月25日の文化欄で富岡多恵子さんが「ここには、
『現代詩』定型の予定調和を超えていく意志とその成果がは
っきりと見える。これまでの詩の文体をはずして『詩』がそ
こにあり、『詩のようなもの』の氾濫にうんざりしているひ
とに一読をすすめる」と書評をされています。いわゆる抒情
詩を詩と思い込んでいると、場違いな所に来た気がしますが
私は斬新な刺激にワクワクします。

例えば、冒頭の詩「完成交響曲」では、「草木にみちびかれ
て/物が見えなくなっていきます」という象徴的書きだしで
す。フツー、今のエコロジカルな視点でも草木にみちびかれ
て物が見える、抒情の根源も自然なんです。でも、かえって
そういう日本的草木、なんでも自然回帰な所が逆に現実を見
えなくさせているのかもしれません。
しかも、この詩は「神・岡本さん(仮名・昭和の前衛画家/
仏・浜田さん(仮名 昭和の政治家)」のテレビ対談と、観
ていた「ぼく、荒川さん(駆け出しの詩人。当時三四、五歳
か)」の感想でなりたっていて、やっぱり、詩人なら「芸術
は爆発である!」という岡本さんに肩入れするのかと思いき
やそうではない。初めは、フツーの詩人のように「浜田のよ
うな男は芸術の敵だ」「岡本さんがんばって!ぶるぶる、ぶ
るぶる」と声援を送っていますが、「だがこの画面を見てい
るうちにぼくは浜田さんの立場に立っていました。そこに立
つことがむしろ芸術ではないか、と思いました。それどころ
か、不思議な感覚だが、芸術にとってはこのような『人間の
壁』はぜひ必要だ」と思うようになって行きます。浜田さん
には現実のモデルがいると思いますが、ハマコーさんは、日
本の庶民感覚を基盤とした政治家でした。右翼的な面も。だ
から、そーゆー日本の生身の現実を忘れちゃあいけない、そ
ういうの抜きにした芸術はやわなんじゃないかと荒川さんは
言いたいのではないかと推測します。富岡多恵子さんも欧米
風に書かず日本の庶民を冷たい目で見た人です。私は富岡多
恵子さんのファンです。
荒川洋治さんのこの詩集には、他に本の物流を書いた「冬の
紅葉」、全然反戦詩らしくない「石頭」、朝日新聞と産経新
聞じゃ従軍慰安婦の書き方が違うなんてことが出てくる「私
だけの男」もあります。最後に短い詩をご紹介します。
(思潮社・1800円)

文庫

町の人が堂森さんと呼ぶ堂森芳夫さんは
国会に 当選したかとおもうと落選 また落選
堂森さんの政党も政界の主役になれないでいた
それでも町の人は 彼と自分を頼みにしていた
鍵をかけずにみんなで外出する日もあった
「ね、堂森さん」
町立図書館の「堂森文庫」には
堂森さんの読んだ本もらった本などが並んでいた
向坂逸郎、細井和喜蔵、幸徳秋水、新井紀一、森山啓、
北川愛郎、山川均、戸坂潤、与謝野晶子、神原泰・・・・・
赤み黒みの本ばかりだけでもなかった
すべては文章であるところから
桃色の鍵が
かかっていたからだ

子供たちが童話の部屋へ行くとき
そこを通った
おとなたちが夜の歯を磨いていたころ






















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