水田宗子詩集『サンタバーバラの夏休み』 「RIM」12【書評】『サンタバーバラの夏休み』(思潮社) 生と死が入り混じり輝く時 (「RIM」城西大学・アジア・太平洋女性学研究会会誌) 表紙カバーの思慮深そうなうさぎと瞑想するきりんの絵。森洋子 氏による生き生きした動物と 子どもたちの装画はまるで「ふしぎの 国のアリス」の世界のようである。どこかファンタスティック な語 り口の中にこめられた生と死の循環、人間と動物と無機物の混在、 時間の「ごっちゃまぜ」、 言葉の混合など、まさにアリス的なポス トモダンの世界を思わせる。 冒頭の詩篇にも「シルベニア村のお母 さんみたいに/エプロンかけて孫たちのご飯作り/ 朝はみな引き連 れて海へ散歩」と童話のように柔らかい日差しが降り注いでいる。 だが、この背景には「大切なものを失ったので」という喪失の悲し みが静かに響き続けているのだ。 アリスやうさぎが老年になったときどのような夢を見るのだろう か。「老女になったアリス」や おじいさんうさぎも出てくる。しか しもう、せかせかと遅刻を気にしてぴょんぴょん駆けていかなくて もいい。時間の体は大きくなったり、小さくなったりして、直線で はない。円環するのである。 わたしの夢で うさぎはいつもおじいさん 真っ白な長いひげ チョッキ着て 鼻に眼鏡かけてる アリスの前をさっと横切っていった あのうさぎの晩年? でももうせわしくなく働かない 短距離走者も引退 マラソンはもちろん今でも苦手 今は穴の番人 取ったらすぐに逃げた昔 隠れるが勝ち 略奪品で穴いっぱいにした 晩年は遺失物係 しっかり守るのがビジネス 落としたものは必ず見つかる 失くした時もきっと見つかる ごっちゃまぜになって あの時 この時 どこかに引っかかったままの時も 何でも取り出せる マジシャンの穴袋の番人 覗いてご覧 (「うさぎの夢」部分) 近代の特性は「短距離走者(それも後進国ほど猛ダッシュを強い られる)」であり、 「取ったらすぐに逃げ」「略奪品で穴いっぱい にした」のであり、特に男性はそのような人生を 走らなければなら なかった。常にパーティーに間に合うよう時計を気にしなければな らず、 進歩に向かって時間は直線的に進んでいた。しかし、進歩は 夢かもしれない。夏休みという かっこに入れられた時間こそがワー カホリックの症状を呈している労働を覚醒させ時間を 返してくれる 期間かもしれない。時間は本当は多次元宇宙のように 「ごっちゃま ぜになって/あの時 この時/どこかに引っかかったままの時も/ 何でも取り出せる」のだ。 太陰暦と太陽暦があるように時間も制度 にすぎない。また、内部感覚の時間は一分を長く感じる 場合もあれ ば、一年があっと言う間のこともある。近代はそうした時間を平準 化することに よって成り立ってきた。 水田宗子にとって、近代化と女性は中心的テーマである。女性が 非近代として、近代の男性を批判するというのは有力な方法だった。 茨木のり子も「大男のための子守唄」などで日本の近代化=高度経 済成長を批判している。 「心臓のポンプが軋むほどの/この忙しさ はどこかがひどく間違っている/間違っているのよ// おらが国さ が後進国でも/駈けるばかりが能じゃない/大切なものはごく僅か / 大切なものはごく僅かです/あなたがろくでもないものばかり/ 作っているってわけじゃないけれど」(1) 経済のグローバル化で 一層駈け足競争が激しくなるが、「大切なものはごく僅かです」と いう真理は変わらないだろう。それを大切にするのが女性の役割と 水田宗子は構想していたが、 アジアで異なる現実にも気づく。 「西欧社会や日本では、近代化のプロセスの中で女たちが負わされ てきた 矛盾についての考察がすでに蓄積されている二十世紀の終 わりに、これから 工業社会化する国々では、女性は「遅れてきた 近代人」として開発や経済発展に 編入されるのではなく、西欧の ポスト産業社会を先取りするジェンダーの視点をもって、 そこに 参加し、ある面ではイニシャティブをとる役割を果たすこともで きるのではないかと、 それまで私は考えていたのである。しかし、 ネパールで私は、それが机上の空論にも近い 多難なことであると 考えさせられた。」(2) 女性もまた大急ぎの近代化に巻き込まれ、前近代と近代が混在し た状況で、 女性に矛盾と葛藤の二律背反を引き起こさせる。この矛 盾を深く感得しながら思考し続けるところが 水田宗子の優れた所で 文学の発生地点でもある。「進んでいる」「遅れている」という時 間軸は 相対的な一つの針だろう。近代と高度消費社会の果てに砂漠 の荒野というフリダシの零時 が待っているかもしれない。人に死が あるように。 相対化は、人間の立場についても言える。 被害者は加害者に入れ 替わる。食べられたうさぎは実は世話係を食べていた。 「夢で兄弟 うさぎに出会った/近づくと/耳打ちしてきた/ソフィーを食べち ゃった」 昨今のグローバル化した社会では容易に被害者にも加害者 にもなりやすい。 知らずに食べているし、知らずに食べられている。 男性も遺失物係に変貌する。前に前にと進んで失ったもの、忘れ たものを探すのだ。 近代的価値を改革するには男性の変化がなくて はできない。最大の遺失物は自分自身だろう。 男女問わず、世界中 のだれもが「私はここにいるぞ」と吠えたい。ライゾウは吠える衝 動を抱きしめる。 「ぼくここにいるぞ/吠える衝動抱きしめ/お兄 ちゃんに寄り添って寝る」 おばあさまも寝ながら吠える。「あの日 吠えたかったこと」 アメリカのビート詩人アレン・ギンズバーグの 記念碑的作品が「吠える」であったのを思い出す。 吠えたい衝動は 詩なのだ。 時は幾重にも重なる。ぬいぐるみの感触さえ戦争の記憶を呼び起 こす。 首の長いきりんは子供に不人気で「おばあさまのお握り」。 「きりんと一緒に見る夢/空襲のさなか/ 敵の弾丸逃れて/子ども 引きずって/走った 走った/あの昔」 が手の感触に残っている。 昔が腕の筋肉に刻まれている。 時というものは神経や筋肉のように 痛み、感じ、這いつくばり、引きずり、跳ねる。 「U山火事の夢」は語り手が「わたし」と「ぼく」の子どもにな る。 山火事は環境が破壊された自然のようでもあり、戦争の記憶で もあるように感じる。 「馬や犬、羊や山羊、牛や鶏」を巻き込み、 樹々を燃やす。 馬は炎の美しさに魅せられてしまい、「おじいさん と一緒に死ぬのが本望」と思ってしまう。 その火事を消せるのは、 みんなを生に引き戻すのは魔法を使える子どもだけだ。 今消してしまわなければ 燃え続ける 目の中の黒こげ跡 大人たちはしてくれない 後始末を 魔法のおもちゃでしてるんだ だから ぼくは毎日忙しいんだ (「後始末」部分) 「魔法のおもちゃ」では山火事は消せないと思うのは常識だ。 け れど、大人が知性の常識によってしでかした環境破壊などの不始末 を 乗越える発想は子どもの自由な遊びによる創造しかないかもしれ ない。 神なき近代を乗越えるのはニーチェの言うように子どもであ る。 最近、超訳も出て再読されているニーチェが子どもの創造性を新しい始まりに据えたのは意義深い。 [ 「 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。しし獅子でさえできないこ とが、 どうして幼な子にできるのだろうか?どうして奪取する獅 子が、 さらに幼な子にならなければならないのだろうか? 幼な子はむく無垢である。忘却である。 そしてひとつの新しいはじま りである。ひとつの遊戯である。 ひとつの自力で回転する車輪。 ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定 が必要なのだ。」(3) Uで言葉の混合性においておもしろい表現が出てくる。 「ピンク アカ ブルー」の箇所で、「レッド」ではなく「アカ」とは同じ赤色でも 日本の漆器の赤が混ざっているような意外性があり、「色と りどりのパーティー」が 一層ふくらんで感じられる。この他にも言 葉の混合性が見られるが、 水田宗子はクレオール性について次のよ うに指摘している。 この「多言語文化」というのは、女性にとってはごく普通の状況 なのである。 女性にとって、母のことばとは、幼児語であると同 時に、女性語でもあるからだ。 女性は成人してからも、母のこと ばである女性語と、父のことばである公用語の 二つを使い分けて 生活してきた。」(4) そして、非常に重要な示唆は、娘の成長にとって二種のことばの使い分けより、 二種のことばの「混合性」「雑種性」の肯定が必 要だと述べていることである。 「二つのジェンダーに引き裂かれた 文化と内面に閉じ込められて、 狂気と失語症に陥った、近代の母と 娘のドラマから抜け出すためには、 さらに多様な越境領域や『代理 母』、さらに『雑種』な創造力と表現が求められている」(5) 子どもの成長は死との出会いによって深められるだろう。 この詩 集は、「あとがき」で「二〇〇九年の春、孫たちのヒーロー、おじ いちゃまが亡くなった」 と書かれているように、「V おじいちゃ んの夢 レクイエム」が主調音である。 しかし、「ぼく」が語り手 となって喪失は成長と重なるのである。 おじいちゃんは今は写真 ぼくは怪獣のおもちゃを全部 高い棚の上に乗せた 怪獣はおじいちゃんと 遠いところに行くのだ ぼくの怪獣たちが 宇宙の始まりまで連れて行くんだ 遠くの時間へ いつか裂け目から 怪獣に乗っておじいちゃんが 帰ってくるまで ぼくの怪獣はおじいちゃんの守護神 しっかり守るんだ ぼくはかまきりになって生き残って 待っている いつも見えるところで 鎌振り上げて 合図する (「かまきり」部分) 孫を守ってくれたおじいちゃんは、今度は孫の怪獣に守られる。 「ぼくの怪獣たち」が宇宙の始まりまで連れて行き、また怪獣に乗 って いつかおじいちゃんは帰ってくる。円環する生命の流れの中に 人間もいるのだ。 作品「金魚」は話者の混合性、入れ替わりもおも しろい。 子どもの目から、さらに金魚の視点から語られていて世界 を複数化している。 人間存在にとって最も本質的なのは、生と死の混合であり、祖先 との混合だろう。 私たちは絶えず欠けた生の言葉、生のクレオール 語を話し、 祖先の昔と現在が混在した言語で書いているのだ。 夏は 生命の頂点とも言えるが、すでに冬も始まり、滅びと再生が混じり こんでいる。 八月に弟が生まれた ママはおじいちゃまの生まれ変わりだという (略) 八月生まれのおばあちゃまは その前に亡くなったおばあちゃまのおじいちゃまの 生まれ変わりなんだって かなおばちゃまは 同じ月に亡くなった佳奈のおばあちゃま ぼくのひいおばあちゃまの 生まれ変わりなんだって ゆきおおじちゃまも たくろうおじちゃまも ぼくのひいおじいちゃまの 生まれ変わりだと 自分でも言ってた (「生まれ変わり」部分) 喪失の悲しみは深いだろう。だが、悲しみの湿気や暗さではなく 光と柔らかな風が通り抜けているのは水田宗子の混合性を基盤にし た創造力、 環流する生命思想、ポストモダニズムの技法ゆえだろう。 前詩集『帰路』の冒頭に置かれた詩「青の詩」も 明晰な知性の美し い具象化が印象的だった。(6) 記憶が薄れていく先は 青い空 野原に寝転んで行く先を追う 青が終わるところに昔があるのか 青が虚ろになるところは 白いナッシング 闇でないのがいい (「青の詩」部分) 感情も対象化して清新な作品として差し出す力量と独自の詩世界 の成立を 素晴らしい装画とともに堪能したのだった。 注 (1)『現代詩文庫S 茨木のり子詩集』思潮社 一九六九年 (2)水田宗子『ことばが紡ぐ羽衣』思潮社、一九九八年、二〇九頁。 (3)ニーチェ、(氷上英廣訳)『ツァラトゥストラはこう言った(上)』 岩波文庫、二〇〇一年、四〇頁。 (4)水田宗子『ことばが紡ぐ羽衣』思潮社、一九九八年、九三頁。 (5)水田宗子『ことばが紡ぐ羽衣』思潮社、一九九八年、一〇一頁。 (6)水田宗子『帰路』思潮社、二〇〇八年。 伊藤芳博詩集『誰もやってこない』 2008年12月27日、ガザ空爆始まる 今日もまた 暗闇の向こうから一人の男が現れ 私と瞬間すれ違い 足音と息づかいを残して 背後に消えていく 私もまた 息を切らしながら この暗い遊歩道を 見えないどこかに向かって 毎日走り続ける一人のランナーだ 走っても走っても 人々が殺され続ける 突然 背後から 先とは違う足音と息づかいが近づいてきて 私を抜いていく 彼もまた 一人の時間を走っている 追うことはできるだろうが 私は私のペースを守る なぜ 走っているのだろう こんなにも子どもたちが殺され続けている世界で 走っても走っても 爆弾は落とされ それでも 見知らぬ男は走り去り 私も 自分の影を追ったり追い越されたり ああ ガザ ガザ ではない街を走る 小さな街灯と自分の影を頼りに ※2008年12月27日午前11時半、イスラエルは パレスチナ・ガザ地区に対して空爆を開始。一日で パレスチナ人の死傷者は1000人を超え、、第三次 中東戦争以来の最大の攻撃が、09年に入っても 続いている。(1月10日現在)(原注) *前詩集『家族 そのひかり』(詩学社刊)で介護体験を ふまえ、人と言葉の根源を照らし出した伊藤さんが 世界の悲惨に正面から向き合った第7詩集。 パレスチナに行き、支援活動を行ってきた伊藤さんにとって 2008年12月のガザ空爆は非常な痛みと無力感を 抱かせたでしょう。柔らかい感受性と身近な日常への 視線を失わずに困難を書き続ける姿勢に打たれます。 (ふたば工房TEL088・840・3791。1575円) 岡島弘子詩集『野川』 岡島弘子は、詩集『水滴の日』『つゆ玉になる前のことについて』など、 水の詩人と して、生命の本質をみつめ、 美しく生き生きとした叙情世界を広げてきた。 この度の 詩集『野川』では、水滴が川になり、 より豊かで根源的な流れにたどりついている。 詩集に付けられた「野川と私」というエッセイ文中の 「1+1=1」という生命観の 核になる数式は印象的だ。 岡島弘子は、答えの「1」を生命が還る大きな川の意味で 強調し、 もっともだが、私が注目するのは、 「1+1」の詩表現としての意義である。 二〇〇八年に、詩の世界で物議をかもしたのは吉本隆明の本『日本語のゆくえ』で、 第五章「若い詩人たちの詩」では若い詩人 たちの詩は「無」であり、主原因は「自然」 を失ったことと断じた件である。私は吉本 隆明の熱心な読者ではないが、彼の詩論は 「自己表出」を最高の価値とすると思って いたので、いきなり「自然」が出てきて驚いた。 私見では、日本の自然観は「1=1」だと思う。 「美しい日本」ブームも「変わら ぬ自然美」を背景にしているのである。 だが、近代の個人は自然や生地から一旦引き 離れて自己を意識化し、 新たに自然を発見するという回路を取る。 岡島弘子も、自然 と言葉の原点である子供時代を過ごした山梨からの脱出が、 東京郊外の自然である「野川」の発見、自然の詩としての再構築へと 向かわせたと推察する。 そのため岡島弘子の自然表現は、非常に 斬新である。 冒頭の詩「青空ツアー」の素材は「女郎グモ」で伝統的抒情なら 情念の 化身となるが、「句読点についた八本のながい肢が/ 空を しっかりとつかんでいる」とさわやかな開放性に富んでいる。 詩「帰 る」でも「橋の下にいたんだよ といわれて育った」となれば、 不幸涙物語に展開しそうだが、水裏の本当の家を目指す。 日本 的家も超えて三十九億年前の生命の旅に出 る心の特徴は解放感なのである。 「はだしで はしってきた/はだかの水に/青空が青い服着せても/ たちまち/ぬぎ散らかして/にげる]「青い服 金の服」 また、「ひとりぶん」「一日分」が頻出 し、個を大切にしていることも見逃せない。 [ひとりぶんの輝きがつくる/一晩分の闇]」(「ねむりの海」) 個の体が世界の体に転 換する詩「ひとつのからだ」はおおらかな 官能性が快い。<世界も/海にだかれた ひとつのからだなのだと気づく> 川の豊饒さへの想像力だけではなく、つ ゆ玉の言葉一粒一粒を丁寧に繊細に表現す ることが詩的リアルさを支えている。それは他者のひとりぶんのつゆ玉への 視線にもうかがえる。 詩「かたよる」の電 動車椅子の人が鉄棒で大回転する描写は鮮 やかな存在感を伝える。「1+1」は他者 との出会いでもあろう。 「1+1=1」は一方通行ではなく、左辺と右辺の往還こそ 岡島弘子の詩の魅力であり、モナド(単子化)した 現在に深い示唆を与えている。 (思潮社・二〇〇八年・二五〇〇円+税) 伊藤芳博詩集『家族 そのひかり』
*伊藤芳博さんはこの詩集を「生きる意味 を考えながら」 まとめられたそうです。詩人であるお父様が言葉を失って いく日々は家族にも耐え難い悲しみを抱かせるでしょう。 その時、言葉とは、生きる意味とは、と改めて自分に問わ ずにはいられません。詩集中「意味をもとめてはいけない 雨が降る」という作品があり、もしかしたら生とは意味をも とめてはいけないものなのかもしれません。言葉以前の、 言葉を超えたところに生があるのかもしれませんが、それ でも人間は意味を求めずにはいられない、言葉によって豊 かになる存在でもある、そうした人間の根本の姿が浮かび 上る作品です。三世代の家族の思いが織り成す光。それ はさりげない日常の場面でも他者に共感を抱く伊藤さんの 柔かい想像力を培った場でもあるのでしょう。(詩学社刊) 第11回「詩と思想」新人賞・渡辺めぐみ「恐らくそれは赦しということ」
第34回小熊秀雄賞受賞・こたきこなみ詩集『星の灰』
*文明批評が鋭く、危機意識に溢れ、風刺とユーモアもある詩集です。 福田正夫賞受賞・李美子詩集『遥かな土手』
「詩と思想」新人賞受賞作品「水音」収録 伊藤啓子詩集『ウコギの家』
詩誌「東国」114号
『アンソロジー中村不二夫』
『アンソロジー日原正彦』
『アンソロジー望月苑巳』
第50回H氏賞受賞・龍秀美詩集 『TAIWAN』
第18回現代詩人賞・岩瀬正雄詩集『空』
前原正治詩集『黄泉の蝶』
川中子義勝詩集『ものみな声を』
荒川洋治詩集『空中の茱萸(ぐみ)』 2000年度読売文学賞受賞
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