ウォーター


「小熊秀雄」のコーナー



金倉義慧著『北の詩人 小熊秀雄と今野大力』

ふたりとも北海道旭川で暮らし文学的出発をし、東京に出ても革新的な文学活動に熱心に取り組み、弾圧の時代に若くして死んだ小熊秀雄と今野大力。詩人として深い所で理解し合い、切磋琢磨した仲であったことが豊富な資料と、丁寧な読解によってよく伝わる本です。

今野大力は、現在あまり知られていないでしょう。1904年宮城県に生まれ、幼時に北海道旭川市に移りました。1927年に小熊秀雄らと詩誌「円筒帽」を発刊。その後、上京し、「婦人戦旗」等の編集に携わり、1931年日本プロレタリア文化連盟の結成に参加し、「プロレタリア文学」に反戦詩を発表しました。1932年、駒込署に検挙され、その時の拷問がもとで入院。1933年日本共産党入党。1935年に結核で死去しました。宮本百合子と親交があり、宮本の小説「小祝の一家」は今野がモデルです。(ウキペディアを参照)

今野大力は、小熊秀雄とは違って貧しいながら、愛情を受けて育ち、優しく謙虚な性格です。「トンカトントンカッタカッタ」で描かれた過酷な労働に携わる女工は母を含む当時の女性労働者たちの姿を象徴しているでしょう。貧しさ、弟二人を失ったショックが今野大力の共産主義運動への献身に向かわせたと思います。

根本的には、抒情詩人で、詩「北海の夜」の「海辺の街の病める友」
の気持を想像する性格が美点と感じます。
今野大力親子が宮城県から旭川に移住し、小熊秀雄と共に「典型的な北海道二世世代」であったという指摘に注目しました。
初期の「古典の幻影」は、「ああ自由のために/かくは一人の勇士と馬は倒れたるを」と自分の最期を予想したような格調の高い詩です。
「旭川新聞」初出の今野の詩「土の上で」を小熊秀雄が採用し、<土の上で>の詩人、農民であることへのこだわりを一貫して見抜いていたという意見に共感します。
今野大力にアイヌ民族への差別意識がなかったことは印象深いです。「アイヌ人種の生み成せる まことに尊い芸術である」
小熊つね子さんが書く晩年の今野大力との互いの思い遣りの深さに胸打たれます。

北村順一郎ら、当時のプロレタリア文学の公式主義的な批判との論争に今野はよく太刀打ちできず、小熊は実に堂々と<人間の情緒や個性>を認めよ、社会変革は容易ではないと反論し、文学者としての器の大きさを小熊に感じます。

今野の小熊に対する「秩序紊乱の作家」という評価はむしろ小熊讃歌と考えます。後年の小熊についての批判「小ブル詩人の彼」は、時代的背景として「日本の左翼運動に巣くう思想的宿痾ともいうべき内部対立」、公式主義の純粋性を競い合うという弊害があったという推察に
うなずき、二人の根本的な背離ではないでしょう。

宮本百合子や壺井栄の小説から、今野大力・久子夫妻をモデルにし、極貧と危険のなか「戦旗社」での編集活動に誠心誠意取り組んだ様子がよく伝わります。
詩「奪われてなるものか」は、拷問で聴覚が奪われ、耳が聞こえなくなったことによる孤独感、肉体における人間の孤独に注目しました。「音響の全く失われたおれの世界/自分の言葉すら聞えず忘れてゆこうとしている」。もちろん、権力の弾圧が原因であり、権力悪で、「手足まで」「奪われてなるものか」「君の文字が伝えてくるおれたちプロレタリアの側の熱意が」とプロレタリア運動の熱意へ合流していくのですが、妻子に不遇を八つ当たりしたこともあったようで、この人間の根源的な孤独についての自覚が名作「一疋の昆虫」を創出できた由縁でしょう。


一疋の昆虫


一疋の足の細長い昆虫が明るい南の窓から入ってきた
昆虫の目指すは北 薄暗い北
病室のよごれたひびわれたコンクリートの分厚い壁、
この病室には北側にドアーがありいつも南よりはずっと暗い

昆虫は北方へ出口を見出そうとする
天井と北側の壁の白土を叩いて
あゝ幾度往復しても見出されぬ出口
もう三尺下ってドアーの開いている時だけが
昆虫が北へぬける唯一の機会だが、

昆虫には機会がわからず
三尺下ればということもわからぬ
一日、二日、三日まだ北へ出口を求める昆虫は羽ばたき
日を暮らす
南の方へ帰ることを忘れたか
それともいかに寒く薄暗い北であろうと
あるのぞみをかけた方向は捨てられぬのか、

私は病室に想ふ一疋の昆虫の
たゆまぬ努力、或は無智
(一九三五・五・七)
(原本の「虫」は旧字。「白土」の「土」は亞の下に土)


詩「一疋の昆虫」は、対象(昆虫)にたいする冷静で客観的な描写と、主体の内部への透徹した自省が見事に合体した優れた作品です。<小熊秀雄は「一疋の昆虫」を読み、「(農民)の無智の自覚の上に立って闘ふ彼の農民的な苦悶」を直感した。「一疋の昆虫」に農民の家に生まれ育った今野大力の生涯を見た>は本質をとらえています。さらに、貧農の末裔である現在の私たちの姿が如実に表現されていると思います。私たちも「ああ幾度往復しても見出されぬ出口」を求めて無智のなかをたゆまぬ努力を続けているのです。特に詩人は、「いかに寒
く薄暗い北であろうと/あるのぞみをかけた方向は捨てられぬ」のです。
それは「一疋」となったときに見えてくる民衆の根源的な原型でしょう。死を目前にして大力がそこに到達したことに感銘します。
小熊秀雄の「馬の胴体の中で考へていたい」に通じる所を感じます。
この馬は理想の馬ではなく、「北海道の農耕馬」。農村の中から出て、東京でたくさんの言葉を覚えたが、「自由」の二文字も言えなくなった、そのとき故郷の馬の中で考えていたいとはもう一度「農民的な苦悶」の中で考えるということではないでしょうか。「考へていたい」に小熊の知性を思います。
小熊秀雄については、あらためて家庭の愛情に飢えていたこと、「黒さんご」「黒い瞳」の美貌で女性の人気を集めていたことが分かりました。小熊の旺盛な創作情熱と自己表現の強烈さは愛情飢餓から生じているのでしょう。小林葉子あての書簡はつや子さんのことを考えると複雑な思いです。私は、日本近代文学館につや子さんが寄贈した小熊秀雄の書簡などを見に行きましたが、つや子さんへの手紙が多かったと記憶しています。つや子さんは小熊の愛情を一番受けたのは自分だと確かめ、後世に残したかったでしょう。
「焼かれた魚」のような「直接的で切実な生活的な現実からのモティーフ」(土方定一)を童話として書いた独創性にあらためて気づきます。
「飛ぶ橇」の素晴しさにも納得し、「小熊秀雄という詩人の途方もない読書量、想像力・構想力のなせる業」は、さまざまな作品で本当に驚嘆するばかりです。新聞記者時代のこと、新ロシア文学との出会いなども興味深く、多方面で発見することがたくさんある労作です。
(高文研 3200円+税)







特別講演「長長秋夜と韓国の詩人」
(2015年5月16日小熊秀雄賞受賞式で)

 小熊秀雄の「長長秋夜」が発表されたのは『詩精神』という詩誌。『詩精神』は1934年に発行されました。プロレタリア文学が弾圧されていった時代です。『詩精神』の主宰者の新井徹、後藤郁子は、朝鮮に住んでいたことがあります。新井徹は学校の先生でした。
彼は朝鮮にいて、朝鮮の人々が日本の支配を喜んではいないということを感じます。朝鮮の人々の冷たい視線を感じた彼は、こういうことではいけないっていう内容の詩を書きました。それで、内地に送り返されてしまいました。

日本に帰ってきて『詩精神』という詩誌を出し始めます。そこには小熊秀雄もどんどん寄稿しますし、中国の詩人・雷石揄も寄稿します。朝鮮の詩人も盛んに投稿します。小林多喜二が殺されたのは1933年ですが、1935年ぐらいまでは、朝鮮の人が本名で発表し、朝鮮の風物を一部は朝鮮の読み方で表わすことが出来ました。ところが、1939年の創氏改名で、ペンネームも全部日本名になりました。1940年頃からは、今の集団的自衛権じゃないですけど、徴兵制を肯定する詩を朝鮮の詩人たちが書かなくちゃいけなくなります。もちろん、日本詩人も同様で、翼賛的な詩を書きました。そういう時代が、あっという間に訪れるわけです。40年代の総力戦というのは、すごかったんだと思います。全ての新聞が同じことを書く。戦争を遂行するために発行されました。今と40年代とは、同じようには考えられないんですが、人々の考えや精神の持っていかれ方には、似たようなものがあると感じます。

私は、小熊が詩を書いていた時代の朝鮮の詩人の活動を調べて『在日コリアン詩選集』という本に収録しました。1916年から2004年までに書かれた詩が対象です。この本は、亡くなられた加藤周一さんが、朝日新聞の「夕陽妄語」で紹介して下さったんですが、小熊が書いたのが稀なくらいで、当時、朝鮮を支配していたにも拘わらず、日本人は朝鮮に対して関心が薄かったんですね。

「長長秋夜」が発表されたのは1935年ですが、当時の『詩精神』には、朱ヨンソプが朝鮮の本名で詩を発表しています。朱ヨンソプは平壌生まれ。創氏改名で松村永渉となりました。演出家・詩人。彼は東京芸術座を結成し、また同人誌『創作』を発刊。『詩精神』に盛んに投稿しました。朝鮮に帰り、プロレタリア演劇分野で活躍。植民地時代末期には平壌で総力平安南道連盟文化部に属し、平壌詩話会などで作品活動をして、解放後も北朝鮮体制下で演劇サークルなどに従事しました。

1935年に「長長秋夜」が発表されたことは貴重ですし、あんな詩がよく書けたなぁって感心するんですが、小熊の詩によって、朝鮮の詩人たちは励まされたのではないでしょうか。「日本の詩人が、こういうふうに
朝鮮のことを書いてくれたんだ!」って思ったに違いありません。小熊秀雄が書いたように、「すべての朝鮮が泣いている」っていうことです。嘆きとか憤りを抱えつつ、あからさまには抵抗できないで暮らしていた人たちは、すごく多かったんじゃないでしょうか。「長長秋夜」で小熊秀雄が書いた植民地下の朝鮮人像は、現実に近いでしょう。小熊は、朝鮮の人たちの生活に近づくように書いたと思います。

 金光林という韓国詩人が小熊の「長長秋夜」の韓国語訳を発表して下さいました。金さんは北朝鮮生まれ。しかし、家族を置いて一人で南の方に来られました。ですから、金さんには離散家族をテーマにした詩も非常に多い。ただ、それをユーモアの混じった形で書かれるのが特徴で、モダニズムの系統の詩人です。

この間、日本では「侵略の歴史を無かったことにしよう」とか、「朝鮮支配は無かったことにしよう」などという動きが出てきています。そうなってくると、韓国の人たちは大変抵抗を感じるわけです。実際、日本が朝鮮を植民地支配していた時代に、お爺さんやお婆さんで、つらい思いをした人がいっぱいいるわけですから、「そういう負の歴史は無い」などと言われると、韓国の人たちの憤りも非常に激しくなってくるわけです。金光林さんは、小熊秀雄を韓国に紹介された時、「これからは韓国について書いてくれたり、時代に対して抵抗した詩人たちを積極的に韓国に紹介したい」と言われました。

 最後に、手前味噌になりますが、私、去年の11月に韓国の昌原(チャンウォン)市で実施されている昌原KC国際詩文学賞を戴きました。昌原市の詩祭は非常に盛んで、一般市民もたくさん参加します。
日本では詩祭というと詩人しか来ないんですが、韓国は違います。第5回昌原KC国際詩文学賞の授賞式の時受賞者の私の前に高校生ぐらいの若い人たちが「サインして下さい」って並びました。ズーッと列を作って並んでいて中々終わらない。日本では全く考えられない状態でした。それぐらい、韓国では詩が愛好されているし、詩人が尊敬されています。韓国には、詩を文化力として発信していこうっていう意欲があります。昌原市は首都じゃないし、さほど大きくもない地方都市なのに、世界の詩人に賞をあげようと発想するところがすごいと思います。世界的文学賞を一地方都市がやっていこうという気持ち、姿勢がある。それに
私は大変驚きました。 私のどういうところを韓国の人たちが評価して下さったか。韓成禮さんが書かれた文章の一部を読んでみます。

「昌原KC国際詩文学賞の選考委員たちは『佐川亜紀さんの詩には日本の歴史と東アジア諸国への深い考察と人間についての洞察が投影されている。詩語は知的でありながらも叙事的であり、重みがある。思索的でヒューマニズム的な表現も魅力的である』と評価。さらに、『冷却した日韓関係の中で、政治家たちには期待できない働きを詩人が
行っている』と言いながら、『微弱であったとしても詩が架け橋となって日韓の友好を深めることができるという希望を与えているとして、ある面では、詩が民間外交官の役割をも担えることを示したという点で、
満場一致で佐川亜紀さんに決定した』と審査評で明らかにした。佐川亜紀さんはこれに対し、『今の日本で、日韓の平和と友好に反するような言動が見られるのは日本人として大変恥ずかしく残念に思う。日本には歴史を見つめ平和を追求し、韓国との友好を深めたいと努力している人々は私の他にもたくさんおり、私が受賞者として選ばれたこと
は、そうした人々への励ましと思って、とても勇気づけられた』と感想を述べた。
佐川亜紀さんが日本で受賞した〈小熊秀雄賞〉の小熊秀雄詩人は、戦争中に朝鮮支配を批判した『長長秋夜』という長詩を書き、権力を風刺する作品をたくさん残している。佐川亜紀さんは〈小熊秀雄賞〉を受賞したように、反帝国主義を貫く詩人である。」
 小熊賞が私の国際詩文学賞受賞の際にも大きい意味を持っていた訳で、非常に有難く感じています。今後も韓国との交流を深めつつ、小熊についても、北海道の詩人についても、小熊賞を受賞した詩人についても韓国に紹介していきたいと思います。

『しゃべり捲くれ』第14号 小熊秀雄賞市民実行委員会会報より






第48回受賞詩集『中島悦子詩集 藁の服』


※第48回贈呈式では、橋爪弘敬会長、高田庸介事務局長はじめ
小熊秀雄賞市民実行委員会、旭川の皆様に大変ご尽力頂きました。皆様の詩への高い見識と温かい思いが伝わる式でした。
受賞者の中島悦子さんを囲んで親しく話す会も行われました。
私は「長長秋夜と韓国の詩人」というテーマで講演しました。
今後ともよろしくご支援、ご応募のほどお願い申し上げます。


以下は私が「交野が原」に書かせて頂いた書評です。


汚染され続ける魂を洗う果敢な言葉


中島悦子は二〇〇八年刊行の前詩集『マッチ売りの偽書』によりH氏賞を受けた。この本は表現の実験性にあふれ、テーマも言葉と火が緊密に関連づけられ、人間文明の根幹にかかわるものであった。
「受賞のことば」(「2009 現代詩」日本現代詩人会発行)で彼女は「社会の混迷、市場原理主義の蔓延などでどこかおかしくなっている時代に」「時代の呼吸を先端で感じ」「何か新しい自由の通路を見つけるてがかり」となるような「潜水訓練」としての詩作について述べている。物語が崩壊し、詩さえも「偽書」となっていく現代に対して鋭い自己洞察と批判力を持った作品集だった。その三年後、東日本大震災と原発事故が起こり、私達の文明と言葉の偽りが露呈したのだった。しかも、
偽書に偽書を重ね、一層歪んだ虚偽が堂々と流布し共有される事態に陥っているのである。

そうした状況のなか、二〇一四年十月に中島悦子は新詩集『藁の服』を差し出した。日本の、世界の危機的状況に真っ向から対峙しながら、詩で対峙するとはどういうことか非常に深く考え抜かれた画期的作物である。原発事故について優れた芸術性の構造を備えた詩集が登場したことに注目したい。
各編の題名も「〜をめぐる」で統一され、対象の周りをめぐることしかできないのか、めぐる物語の断片の数々なのか、繰り返される事象なのか、「その輪廻のめぐりを反省する」のか、と様々思わせ、周到に破壊し、構築している。一篇の中の各連も飛躍し、無関係かのような断片が並んでいる。
詩「黒をめぐる」では、喪に服す人に対しても感情移入を避けて異化し、フォルム化している。「ごとんというのは、それぞれの黒い頭の重さであり、血の重さである。慰めの手は出てこない」。
大震災、大事故に遭い、くり返される日本人の神話や復興の物語に回収されるのではなく、分裂し、汚染され、混濁した自己を鮮明に見、表現するには、客観と加工が必要だ。現実はまとまりもなく、断片化し、複雑に重層化し、交錯していく。安全地帯にいると幻想していた自分も被災し、欲望が爆発したごとく生活も猥雑なままだ。「きらきら市」という架空の街がベースになるが、福島県や原発立地市だけではなく日本のどこにでも存在する街だ。
「藁の服」は、声を上げて泣く子や悪い子を相互監視する身も凍る制服なのか、東北の鬼の衣装か、放射能をたっぷり吸い込んだ藁で仕立てた毒の服か、それとも無力な防護服か。幻想維持か、鬼か、
毒か、無力か。詩はそのどれにも当てはまろう。記録や祈りでもなく、ここでは本質を露にする行為なのだ。「俺は、安全地帯に逃げたいわけじゃない。現にここで働いている。正気でいたいだけ」。現在、「正気」でいることはどんなに困難なことか。孤立を招き、非国民とレッテルを貼られ、狂人呼ばわりされかねない。「大きな音は、無事だと思っていた魂そのものを支配していきます。魂の形は、守るのに難しい。心は、犯されやすい」という詩句が、迫って来る。

毒の雨は降る。堂々と。今となって隠すことは何もない。こんな雨の日には、ショッキングピンクの長靴を膝まで履いた女が無言でバスに乗ってきて、つかまるところもなく立っている。この抗議のスタイルを内閣総理大臣が見ることはない。だって、大衆のバスだよ、ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。(中略)お茶にも毒。今までだって入っていたんだから安心せよと少しくらい多くても気にするなと全部あとから通達。静かに静かに茶葉に降り注ぐ雨音。季語もさぞ変質しただろう。変質しなければならない。これからの雨は、喜雨も白雨も村時雨も、雨鷽も横時雨も過去とまるで違う。命のあとから降る。
(「屋根をめぐる」部分)

季語も変質する事態だと私達も知っている。生きながら柩に入っている状態だと分かっている。バスごと棄てられ、列島ごと棄てられたのを勘付いている。「家のない人を気の毒に思っていたのに、自分も屋根のない家に住んでいたと気付いて。雨に濡れながら、汚い言葉を捜しているだけとは」。しかし、認めたくない。虚偽の栄光の過去に回帰し、「日本を取り戻す」という訳のわからない標語に酔う。閉鎖的な美の王国に立て籠もるのか。命を生かす汚い言葉を捜すのか。汚染水をたれながし、毎日、私達は洗われなければならない。過酷事故進行中を忘れている者に冷水を浴びせる。直接の被害者でないと、原発事故は書けないなどという議論は放射能被害についての認識が甘い。「毒は、放
っておくと小さな島国全部に広がってしまい、安心な場所はひとつもない」のだ。「小さな島がある。骸骨で埋め尽くされた島だ」。作者は高みから批評しているのではない。大衆の只中にいて、くずれた言葉にまみれ美も汚す雨に濡れている。「高いところから見ているつもりになってグルになるなよ」。元空中ブランコ乗りの彼が出てくるが、足から亡くなるのは「あの毒の処理のために、すでに五百人が神様になった」と語られる作業員と同様で、原発作業は曲芸のように危険だ。詩で現実を切り裂けば切り裂くほど、詩の行く手は隘路になるという非常に困難なところにいるのが実際なのだ。中島悦子にとって、私達にとって、生きるための呼吸訓練のように「憲兵が来る前に」「低音部や言葉にならないパーカッションで、粘り強く思いを支え」る詩の潜水訓練が必要だ。

巻末の詩「奇術をめぐる」で「この胸を割って青い鳥でも出せるなら/奇術を習いたいと思っていた」と書いている。詩は魔法であることが無理なら、せめて奇術でありたいが、奇術さえもできないのか。
詩集が偽書であり、詩が奇声や奇術であると自覚することによって新しい詩の領域を切り開いているのだ。「世界の果ては金属になり/誰ひとり観客はいないと」いう未来は真実味を増している。深い思索を促す刺激に満ちた本詩集の重要さは今後ますます明らかになるだろう。

(「交野が原」78号掲載。)(思潮社 2400円+税)







宮川達二著『海を越える翼―詩人小熊秀雄論―』
をご紹介します。


宮川さんは、旭川で高校生だった時、ある教育実習生より小熊の詩「青年の美しさ」を書き写した手紙をもらったことから、その世界に引かれ始めました。
以来、小熊の示した「旋律的な場所」を探し、2009年7月には、詩人の少年時代の足跡を辿って、ロシア・サハリン州を訪ねています。小熊は樺太で少年時代を過ごし、東京ではロシア文学者の昇曙夢、湯浅芳子と交友し、ロシア詩人に対する憧憬が強く、プーシキン、レールモントフ、マヤコフスキーらに親しみました。1971年にはロシア人翻訳者アナトーリー・マーモノフが翻訳したロシア語の小熊秀雄詩集が出版されています。 小熊の遺稿「親と子の夜」に出てくる「黒い鋲」が、自殺したマヤコフスキーがはいていた大きな大きなすり減った靴に打たれてい た「三角形の鋲」のイメージだという発見にも着目しました。
小熊の故郷が<樺太の「泊居」であること>、そこでアイヌや少数民族、強制連行されてきた朝鮮民族、ロシア人など多民族社会で生き、育てられた感性が詩作品に色濃く反映しています。
生い立ちも暮らしもどん底の不遇でしたが、かえって強烈な反逆精神や新しい世界を切り開く強さが培われました。妻のつね子さんは、苦しい中で、小熊の創作を守り続け、長男・焔を失っても生き続け、小熊の全集出版まで達成しました。
有名な文学者・宮本百合子、湯浅芳子、さらに歌人の斎藤史との出会いも意味深いです。彼女らに強烈な印象を残しました。
アメリカ人の翻訳者・デイヴィッド・グッドマン(1946〜2011)は1989年に『長長秋夜』をアメリカで刊行しました。これには、養子とした韓国生まれの息子・カイが大人になった時、育ての母(グッドマンさんの妻は日本人翻訳者の藤本和子さん)の祖国日本と、自分の生地韓国との不幸な歴史を思ったとき、連帯を訴えた「長長秋夜」を書いた詩人が日本にいたことを分かってもらいたいという想いがあったそうです。
綿密に文献を調べ、丁寧に分析し、また実地にも旅をして、想像力を働かせながら、小熊の世界を的確に豊かに描き出している労作です。交友した詩人、芸術家の群像も興味深いものです。「資料」「小熊秀雄辞典」「年譜」も貴重な研究成果です。
(コールサック社、2000円+税)



小熊秀雄は、海外アメリカ、タイなどでも、詩や童話が紹介され、 関心を呼んでいます。中でも、アメリカのDavid G. Goodmanさんは小熊秀雄の英訳詩選集
『Long,Long Autumn Nights』(『長長秋夜』)を1989年にアメリカで出版されました。 しかも、すばらしいことに、ハードカバーが売れたので、 普及版の柔らかいペーパーバックになるそうです。 世界も注目する小熊秀雄の詩をグッドマンさんの英訳とともにを少し ずつ紹介します。



●漫画『火星探険』の復刻がついに出ました!!




小熊秀雄が台本を書いた日本初のSFストリーマンガ『火星探険』が透土社より、
復刻出版されました。(本体2000円)手塚治虫、松本零士、小松左京らの対談も
収録されています。
 小熊は旭太郎という筆名で少年漫画の台本を書きました。解説の木島始さんが
おっしゃるように晩年病苦と闘いながら、死の直前まで心血を注いだのがこれらの
台本です。松本零士氏、小松左京氏は、科学的知識がしっかりしていて、それまでのおもちゃのようなマンガから質の高い本格的なマンガに変わる母胎となった作品
と評しています。<科学の研究に無駄はない><夢と科学はどちらも大事>など、
今年話題となったノーベル化学賞受賞の田中さんの言葉のような本質的な議論も出てきます。また、想像の火星と火星人はユニークで、火星人は頭が大きな人は考えてばかりいて、小さな人は作ってばかりいて、食べ物はトマトだけで、種は食べないなど、おもしろいです。主人公の星野テン太郎、ねこのニャン子、いぬのピチクン
はかわいらしく、ちょっと生意気なところも愛らしいです。小熊秀雄の才能の豊富さに圧倒され、別の面を見て、またまた感心します。ぜひ、ご覧ください。

★『ぼくの尺度 木島始エッセイ集』今を考えるヒントがいっぱい。

 小熊秀雄の評価・紹介を戦後から続けていらっしゃる木島始さんのエッセイ集が
同じ透土社から発行されました。(1600円)漢字、翻訳、ジャズ、映画、演劇、戦争、
京町家など、多彩な話題にいろいろな考えが広がります。「からだが魂の言葉だった」というフレーズもすてきです。


TV放映「池袋モンパルナス」 *1999年12月18日のNHK教育TV・ETVカルチャースペシャル 「池袋モンパルナス」(芸術家が集ったアトリエ村)をご覧頂き、ご感想 お問い合わせが多数届き、驚いております。ありがとうございました。 早速、小熊秀雄の詩集・全集・名作童話の出版社をご紹介します。

★小熊秀雄の作品集
・ ハンデイでお求めやすいのは、
思潮社・現代詩文庫『小熊秀雄詩集』
岩波文庫(岩田宏編)『小熊秀雄詩集』
・全集・創樹社刊『小熊秀雄全集』
・絵本・英語対訳(アーサー・ビナード訳)『焼かれた魚』透土社刊
(下の写真)
もっとあります。

★小熊関連
・『池袋モンパルナス』宇佐美承著(集英社)(下に説明)
だんだんふやしますので、ご了承ください。

22歳で発表した名作童話「焼かれた魚」




「白い皿の上にのった焼かれた秋刀魚は、たまらなく海
が恋しくなりました。
あのひろびろと拡がった水面に、たくさんの同類たち
と、さまざまな愉快なあそびをしたことを思い出しまし
た,いつか水底の海草のしげみに発見(みつけ)ておいた、
それは、きれいな紅色の珊瑚は、あの頃は小さかったけ
れども、いまではかなり伸びているだろう、それとも誰
か他の魚に発見(みつけ)られてしまったかもしれない、」
という書き出しで始まる、焼かれた魚が自分の身を食べさ
せながら懸命に海に帰るお話。猫のミケには頬の肉を、ど
ぶねずみに半身を、野良犬にもう半身を、カラスに目玉を
与えて運んでもらい、骨をなった身をアリたちにかついで
もらって、やっと海にたどりつきます。しかし、泳いでは
塩水がしみ、目が見えず、最後には砂浜にうずもれてしま
います。自由への憧れと現実の重さを表わしたようなシリ
アスな童話。



日本のパリを夢見た『池袋モンパルナス』




今、池袋といえば、繁華街のイメージが強いですが
以前は田舎でした。「池袋モンパルナスとは、昭和のはじめから、
敗戦まで、東京池袋周辺にあった若く貧しい芸術家たちの集落の
呼称である。
かれらは芸術至上主義的な自由と前衛のむらを形成し、謳歌した。
大正期の起源から、空襲によって壊滅するまでの集落の全貌とそ
こに住まった絵かき、彫刻家、詩人たちの鮮烈な生き方をヴイヴイ
ットに描いた渾身の長篇ノンフィクション」と帯にある宇佐美承さ
んの熱い思いと丁寧な調査に基づいた500余ページの大冊。伝説
的画家・あい(難しい漢字です)光、長谷川利行らとともに小熊秀雄
もここで重要なメンバーとして活躍しました。激動の時代をドラマチ
ックに、ハチャメチャに、真剣に、生きた若き芸術家たちをとても魅
力的に描いています。日本のルネッサンスを夢見て、奔放に、かつ求
道的に創作した彼ら。国家の抑圧と人々の戦時体制へのなだれこみに
より孤立し、破滅した芸術家が多いですが、その破滅も輝いて見えます。
(集英社・1990年刊)


文壇諷刺詩篇(小熊の諷刺の真骨頂)

谷崎潤一郎へ

人生の
クロスワード
人生の
迷路を綿々と語る
大谷崎の作品は
はばたく蛾
鉛を呑んだ蟇
重い、
重い、
寝転んで読むには
勿体ないし
本屋の立ち読みには
長過ぎるし
読者にとっては
手探りで読む
盲目物語だ
作者の肩の凝り方に
読者が御相伴するのも
よかろうが
書籍代より
按摩賃が高くつきそうだ
先生の御作は
そやさかいに
ほんまに
しんどいわ。


しゃべり捲くれ

小熊秀雄

私は君に抗議しようというのではない、
−私の詩が、おしゃべりだと
いうことに就いてだ。
私は、いま幸福なのだ
舌が廻るということが!
沈黙が卑屈の一種だということを
私は、よっく知っているし、
沈黙が、何の意見を
表明したことにも
ならない事も知っているから−。
私はしゃべる、
若い詩人よ、君もしゃべり捲くれ、
我々は、だまっているものを
どんどん黙殺して行進していい、
気取った詩人よ、
また見当ちがいの批評家よ、
私がおしゃべりなら
君はなんだー、
君は舌足らずではないか、
私は同じことを
二度繰り返すことを怖れる、
おしゃべりとは、それを二度三度
四度と繰り返すことを言うのだ、
私の詩は読者に何の強制する権利ももたない、
私は読者に素直に
うなずいて貰えばそれで、
私の詩の仕事の目的は終った、

私が誰のために調子づきー、
君が誰のために舌がもつれているのかー、
もし君がプロレタリア階級のために
舌がもつれているとすれば問題だ、
レーニンは、うまいことを云った
ー集会で、だまっている者、
それは意見のない者だと思え、と
誰も君の口を割ってまで
君に階級的な事柄を
しゃべって貰おうとするものはないだろう。
我々は、いま多忙なんだ
ー発言はありませんか
ーそれでは意見がないとみて
決議をいたします、だ
同志よ、この調子で仕事をすすめたらよい、
私は私の発言権の為に、しゃべる
読者よ、
薔薇は口をもたないから
匂いをもって君の鼻へ語る、
月は、口をもたないから
光をもって君の眼に語っている、
ところで詩人は何をもって語るべきか?
四人の女は、優に一人の男を
だまりこませる程に
仲間の力をもって、しゃべり捲くるものだ、
プロレタリア詩人よ、
我々は大いに、しゃべったらよい、
仲間の結束をもって
仲間の力をもって
敵を沈黙させるほどに
壮烈にー。


Talk Up a Storm
(Shaberimakure)


I do'nt want to argue with you
As to whether my poems are just so much talk.
I am happy now.
My tongue wags freely in my mouth.
I know well enough
That silence is a form of cowardice,
That silence
Does not constitute an expression of opinion.
I talk.
Young poet, you,too, talk up a storm.
We can march on,contemptuous
Of those who say nothing.
You self-important poets,
You wrong-headed critics,
While I am holding forth,
What about you?
Has the car got your tongue?
I fear
Saying the same thing twice.
A real talker is someone
Who repeats himself two,three,four times over.
My poems have no right of coercion over those who read
them.
If my readers
Simply nod in assent,
Then my poetic work has been accomplished.

For whom do I wax eloquent?
On whose account are you inarticulate?

If you are being incoherent for the sake of the proletariat,
Then that presents a problem.
Lenin put it well;
Consider those who keep silent at a meeting
To have no opinion.
No one is going to force you
To talk about aspects of class.
We have better things to say?
Have you anything to say?
If not, we shall assume you have no opinion.
Motion adopted!
Comrades, this is the way to proceed.
I speak in defense of my right to speak.

Readers;
Roses have no mouth,
So they address your nose with their scent.
The moon has no mouth,
So it speaks to your eyes with its light.
Then with what should a poet speak?
Together,four women
Can easily muster enough verbosity
To talk a man into silence.
Proletarian poets;
Talk and keep talking
In solidarity with our comrades,
With the power of our peers,
Talk furiously!
Until our enemies fall silent.



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