あの大震災から半年。三陸鉄道目指して大移動編


2011年 3月11日。14時46分。

日本中が大きく揺れました。

太平洋三陸沖を震源として発生した東北地方太平洋沖地震。東日本大震災が発生したのです。

その地震の際に発生した大津波が岩手、宮城、福島、茨城、千葉の東日本太平洋沿岸地域に大きな被害をもたらしました。

TVで流れるその大きな被害の模様は日を増すごとに、その被害の大きさを如実にあらわにしていきました。

沿岸近くの多くの集落、そして暮らす人々、そこを走る鉄道が津波により流されたのです。

地震が起こる2年前。私は三陸鉄道に訪れた事がありました。

その地震発生からずっと目を疑いたくなるような光景が連日報道され、日に日にその被害の様子が流れました。

私が訪れたことのある路線、駅舎や街が無残にも変わり果てた姿になってしまっていたのです。

その中の三陸鉄道の島越駅はそこに駅があったのかわからないほど跡形もなく津波に流されてしまっていました。

そして地震が起きたのが私が三陸を訪れてた時だったら。発生したその時間。まさに島越駅に向かっていた矢先。もしくは盛駅に居た時だったんです。

ちなみに盛駅も報道はされてなかったんですが津波により浸水被害をしてました。しかもそこにいた気動車車輌の床下まで達したそうです。

もし私が三陸を訪れていたときにこの地震に見舞われていたと思うと。とても他人事のように思えませんでした。


そして地震発生の2ヵ月後の5月。
少しずつでも復興に向けて走り出した三陸鉄道に私も何か出来ないかと、後藤彩花さんの協力を頂き、応援イラストと僅かばかりの義援金を贈りました。

ひだりのまいちゃん、みぎのみゆきちゃんイラストは部屋で大事に飾ってます♪

そこから3ヵ月後。9月末に3連休が頂ける事になり、「これは今年中に三陸に行く最後のチャンスだ!」という事で三陸行きを計画。
しかし未だ、東北地区の空港や鉄道路線も完全ではないのでどうやって現地まで行くか本当に悩みました。そこで出た結論。

「ウチのデリカD:5で行く」

片道約1000km。そして14時間にも及ぶ行程。でも現地での移動効率を考えるとこのほうが確実という結論でした。
なので9月29日深夜から三陸に向けての大移動を開始です。現地に向かうのに本気で一日がかりなんです(^^;;)
かくいう駅長も一日で片道1000kmの移動は初めての経験なので(日帰り往復700kmくらいはあるんだけどね。)こういう運行表を作成です。

9月29日、22:00。家を出庫。伊勢湾岸道、東名高速、首都高速経由で東北自動車道へ。
9月30日、3:45。東北自動車道を疾走。八戸自動車道を経由し、12時に三陸・久慈駅到着。九時ー陸中野田間の復興支援列車に乗車。宮古で一泊。
10月1日。宮古ー小本間の復興支援列車に乗車。龍泉洞を巡りつつ沿線撮影。深夜より帰路に就く。
10月2日。宝川温泉リベンジ。土合駅、湯檜曽駅で撮影。上田電鉄を経由して21時に自宅着予定。

出発の当日まではやっぱ自分の車で自分で運転してって事なので色々と準備です。車のエンジンオイル交換して万全に備えたり。
そして支援イラストを贈る際にお世話になった三陸鉄道の方に連絡して久慈駅でお会いする約束を取り付け、いよいよ出発です。


9月29日。21時。
出発準備も終わったために予定より早く家を出発。
ちなみに移動距離が長いので、旅行記では3〜4行くらいかも知れませんがホントに14時間掛かってるんです(苦笑)
なんか去年の四国のときにも同じようなこと書いてたような(笑)今回の時間配分は一昨年に乗った名古屋ー仙台の夜行バスを参考にしてます。

刈谷ハイウェイオアシスに寄り道して海老名SAで燃料補給。2時に都内の首都高速へ。予定よりも1時間早く通過。
約300km走ったら給油、仮眠休憩を繰り返して、八戸自動車道へ入ったのは9時。11時には久慈市内へ到着。11時半に久慈駅に到着です。

9月30日。12時・久慈駅。
・・・東北道を通過するあたりからずっと雨が降ってて今日はイマイチ天気悪いなあ(汗)



久慈駅に到着してまずは支援列車の走る区間のきっぷを購入。そして皆さんから届いた支援イラスト等を拝見。ちゃんとありましたよ〜!(喜)
前に贈った後藤さんのイラストが。私の写真も飾られてました。ちなみにその下にはホリプロの南田さんの寄せ色紙がありました。
支援列車に乗車するまでの少しの間ですが、三陸鉄道の橋上様にお会いしてお話を色々お聞きしてきました。



いろいろお話を頂いたのですが、やっぱり現地に来ないと判らなかった事実が多い事多い事。この半年間、鉄道雑誌とかでも被害の状況を
いろいろと報じられてましたが、やっぱり伝わりきれてない事は多いそうで、北リアス線は津波による路盤流出被害があまりにも大きく、
南リアス線は地震による橋脚損害が大きいのと、盛駅の津波被害で車輌が水没しエンジンが完全にダメになってしまって動かす事も出来ないとの事。
でも、地震から半年。前向きに元気に強く復興を目指してがんばる姿に改めて感銘を受けました。お話を下さった橋上様。本当にありがとうございました。
名古屋お土産に宙花こより先生繋がりって事で知多娘。パン缶詰をお渡ししてきました(笑)
地震直後に走り始めた支援列車に貼られてた支援列車ヘッドマークと記念写真。今は掲示してないとの事ですが完全手作りのため雨風に弱いそうです(苦笑)

久慈駅13時発の陸中野田行きの復興支援列車に乗り込んで列車が動いてる区間の乗車に出向きます。
駅としては2駅分。でも距離は11km。制限45km/hだとしても本当に貴重な交通機関です。



隣を走る八戸線は久慈より先の線路が津波で流されてしまい、ずっとこの駅で寝たまま。でもいつでも動かせるように定期的にエンジンは廻してるそうです。
13時に久慈駅を出発。17分に陸中野田に到着。折り返しで40分に久慈行き。57分にまた久慈駅に戻ります。
久慈駅に戻って「ぜひともダルマにメッセージを残してください」ってのがあったんで応援メッセージを残してきました。
道の駅「くじ」に寄り道をして今日の宿である宮古駅へ向かい始めます。でも堀内駅と普代駅には寄りたいので今日はこの2駅に寄り道をして宮古駅へ。
先ほど列車でやってきた陸中野田駅の脇を通過してしばらくすると津波で街が流された地区の脇を通ります。がれきの山を横目に多くの重機が現地に入って
路盤の工事や街の修復に当たってます。もはやそこには建物があったのかも判らないくらいに何もない平野が続いてました。・・・胸を潰される思いです・・・。



久慈を出て30分ほどで堀内駅に到着。以前、ここで写真を撮った場所です。今は列車がやってこないだけで2年前と変わらない光景がそこにはありました。
こうやって海を望んでいるとまさか津波がやってきて街を脅威に落とし入れたとは到底想像も着きません・・・。
そしてこの堀内駅で撮影してたときに雲の晴れ間から光が差して、なんと虹が現れたんです。30秒ほどでしたけど驚きました。復興を目指す希望の虹となって欲しいですね。

また車を走らせて普代駅へ。ここには久慈方面も宮古方面も線路が流されてしまって行き場を失ってしまった車輌が止まったままになってます。
実はこの列車は宮古行きだった子なんです。そう、私が2年前に三陸に来てた時、この時間の列車で宮古に向かってたんです。
橋上様と話をしてた時も「あと数分、地震が遅れてたら車輌が島越駅で巻き込まれてた可能性があったんです。」とお聞きしました。
ちなみに今回の震災では被災地区で運行してた列車での乗客の死者負傷者はなんと誰も被害なく0人なんです。津波に流された車輌は居たけど
乗務員の機転と誘導がしっかりなされ、近くの高台へ非難してたおかげで奇跡的に誰一人とケガもなく済んだんです。



今の普代駅は駅票が外されて、一両だけ取り残された子が中に乗っているダルマと共に今か今かと走り出す日を待っていました。
よーく車内を覗き込んで見ると運転席にも座席にもダルマがいっぱい居るんです(笑)

普代駅を出発したのは16時を廻った頃。まだ宮古までは48kmほどの道のりがあります。
宮古に向かう途中には小本、田老地区を通るのですがそれは明日にでも書くとしましょう。今日はこのまま一直線に宮古の宿へ。
2年前に宮古へ来たときにもお世話になったビジネスホテルです。駅の近くなのと駐車場が広いのでウチのデリカD:5には最適な宿でした(笑)

幸いにも宮古駅周辺は津波被害も大きくなかったらしく、かつての活気であふれていました。
・・・・でもここから2kmも離れない場所は津波が防潮堤を乗り越えて、甚大な被害が出た市役所があるんですよね。
今日は駅前のお寿司屋さんで夕飯を食べて、長旅の疲れと明日に備えて早めに寝るのでした。明日へ続く!!


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