詩歌の散歩道



[谷川 俊太郎] [吉野 弘] [栗原 貞子] [宮澤 賢治]
 [金子 みすゞ] [島崎 藤村] [草野 心平] [金井 直] [山村 暮鳥]

中国の詩
[帰去来辞] [木蘭詩]

和歌
[大伯皇女] [大津皇子] [額田王] [中皇命] [持統天皇]
 [弓削皇子] [志貴皇子] [作者未詳1] [作者未詳2] [東歌]
[在原 業平] [上野 岑雄] [よみ人しらず]
 [西行] [若山 牧水] [与謝野 晶子] [斎藤 茂吉]

 自分の好きな詩、和歌、中国の詩を集めてみました。詩歌は、少ない言葉の中に多くの思いが込められている作品であり、想像の幅が広がる世界を持っていると思うのです。わたしなりの捉え方をここでは紹介します。


谷川 俊太郎

「悲しみ」(『二十億光年の孤独』)
 「青い空の波の音が聞こえるあたりにとんでもない落とし物をしてきてしまった」らしい「僕」。でも、何を落としてしまったのかはっきりしない。本当に落としたのかどうかさえよくわからない。すべてが曖昧なのに、なぜか喪失感を感じている。でも、不思議と透明感が漂っているのです。思い浮かぶのは、水色の空にある建物が透明な駅で立ちつくす僕の姿。心の中にぽっかりと穴があく、そんな感覚を味わったわたしは、共感するところが多くあります。多感な10代のうちに出会っておいてよかった。(98/10/25)

「ほほえみ」(『空に小鳥がいなくなった日』)
 ほほえむことができないものは、他の表現でほほえみを伝えようとする。「青空は雲を浮かべる」「木は風にそよぐ」「犬は尾を振」るのだ。では、ほほえむことのできる人間は?自分は、ほほえみをほほえみとして伝えているのだろうか。 (98/10/25)

 

吉野 弘

「I was born」(『消息』)
 I was bornは受身形。そのことに気がついた「僕」は、父に興奮しながら「人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね。」と話しかけた。それを聞いた父が語ったのは、蜉蝣のことだった。生まれてから2,3日で死んでしまうのに、蜉蝣の雌は体の中を卵でいっぱいにしている。そして、「僕」の母は、「僕」を生んだあとまもなく死んだ…。
 中学生の頃、「生んでくれと頼んだ覚えはない。」とよく思いました。そんなわたしが、親がどんな思いで自分の誕生を待ち望んでいたか、自分を生むためにどれだけ苦労してきたかということに気づくきっかけになったのがこの詩です。人間は自分一人で生きているのではない、多くの人に生かされているのだと、この詩を読むと思うのです。 (98/10/25)

 

栗原 貞子

「生ましめんかな」
 被爆直後の広島の夜。負傷者たちが集まるビルディングの地下室で、「赤ん坊が生まれる」という声が聞こえた。負傷者の中から「私が生ませましょう。」と名乗り出た産婆がいた。それは、ついさっきまでうめいていた重傷者だった。暗がりの中で、新しい命は生まれ、産婆は朝を待たずに死んだ。
 以上が詩のだいたいの内容なのですが、この詩は実話を元にして作られたそうです。自分が大怪我をしているのに、新しく生まれてくる生命のために力を尽くした産婆。最後の「生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも」という彼女の思いがとても切なく響きます。確実に死に向かっている彼女が取り上げた生。地獄のような状況下にあってそれでも生まれ出てくる新しい命の尊さを感じずにはいられません。 (98/10/25)

「ヒロシマというとき」
 「生ましめんかな」より26年経ってから作られた詩です。ちょうどベトナム戦争のさなかの作品になります。本当に同じ作者が作ったのかと思うくらい、内容が違います。最初の「<ヒロシマ>というとき <ああ ヒロシマ>と やさしくこたえてくれるだろうか」という問いかけが読む者に非常に重くのしかかってくる、そんな感じがします。わたしたちが太平洋戦争を思い出すとき、被害者としての立場しか思い起こさないのではないだろうか。アジアの人々に対して、加害者であるということを忘れてはいないだろうか。 (98/10/25)

 

宮澤 賢治

「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」(『春と修羅』第一集)
 「きょうのうちに とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ」(『永訣の朝』)
 この詩に出会ったのは、高校生の時でした。それまで宮澤作品は物語しか読んでおらず、詩人としての認識はほとんどありませんでした。
 三作とも、妹トシの死が賢治にとってどれだけショックだったかが痛いほど伝わってきます。自ら修羅を歩いていると言う賢治の孤独との戦い。二つの心が重なり合っている作品のように思います。
 「わたくしのかなしそうな眼をしているのは わたくしのふたつのこころをみつめているためだ ああそんなに かなしく眼をそらしてはいけない」(『無声慟哭』)
 もっとも印象的なのがこの部分でした。 (98/10/25)

 

金子 みすゞ

「私と小鳥と鈴と」(『わらい』)
 私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)を速くは走れない。
 私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
 あの鳴る鈴は私のように たくさんな唄は知らないよ。
 鈴と、小鳥と、それから私、
 みんなちがって、みんないい。

 金子みすゞさんの詩は、最近になって高い評価を受けるようになりました。教科書にも載るようになりました。子どもたちがとても好きな作品が多くあります。なかでも、わたしが一番気に入っているのが、この作品なのです。「それぞれによいところがあるのだから、他と同じである必要はない。どれが一番よいというのもなく、それぞれがみんなよいのだ。」この詩を読むとホッとさせられます。 (98/10/25)

「星とたんぽぽ」(『星とたんぽぽ』)
 青いお空の底深ふかく、海の小石のそのように、
 夜がくるまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
 散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

 印象的なのが、「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」という言葉です。昼間の星も、地中にあるたんぽぽの根も、見えないけれどちゃんと存在している。そういうものは、ほかにもたくさんあると思うのです。人の心もそうではないでしょうか。 (98/10/25)

 

島崎 藤村

「小諸なる古城のほとり」(『落梅集』)
 「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ…」
 田舎が長野県の上田市なのですが、千曲川の雄大な流れにいつも圧倒されます。「上田は山と川しかないよ。」と大学生の時に上田出身の同級生に言われましたが、山のないところに住んでいるわたしには、上田はとても魅力のある土地なのです。
 この詩が好きなのは、上田の隣の小諸を描いているからです。上田の隣にある小諸城址は小さい頃によく行った大好きな場所なのです。この詩は、五七調でリズムがよく、口ずさみやすいのが魅力です。早春の小諸に行って、この詩を思い返せたらいいなと思います。 (98/10/25)

 

草野 心平

「冬眠」
 草野さんの作品はたくさんありますが、特に蛙に関するものが有名です。でも、わたしが感動したのは、「冬眠」という作品です。詩はたった1文字(マーク?)で終わっています。でも、「なるほど、冬眠だ!」と思わせるのです。「詩」という概念を根本からひっくり返されました。 (98/10/25)

 

金井 直

「木琴」
 合唱曲にもなっているので、知っている方も多いと思います。空襲で死んだ妹を思い、平和への願いをうたっています。詩人の高田敏子さんが、この詩を気に入って「戦争で妹さんを亡くされたんですか?」と尋ねたら「あれはフィクションです。」と答えが返ってきたという話を聞いたことがありますが、戦争で亡くなった人を思う気持ちはフィクションではないと思うのです。だから、あの詩に感動する人が大勢いるのではないでしょうか。 (98/10/25)

 

山村 暮鳥

「風景〜純銀もざいく〜」
 いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえ
 いちめんのなのはな
 ……

 どこまでも広がる菜の花畑。黄色の世界。でも、なぜかあたたかい雰囲気がそこにはあります。安房直子さんの『きつねの窓』では、桔梗畑がいっぱいに広がっていました。この青の世界は、なんとなくこわい感じがしましたが、菜の花畑はこわくない。色の持つ雰囲気なのでしょうか。「いちめんのなのはな」の繰り返しの中に入ってくる「かすかなるむぎぶえ」「ひばりのおしゃべり」「やめるはひるのつき」が印象的で、菜の花畑を中心とした風景が鮮やかに思い浮かびます。毎朝、コスモス畑のそばを通って通勤しているのですが、なのはなをコスモスに置き換えて「いちめんのコスモス」と思いながら眺めています。
 この詩は新井素子さんの『緑幻想〜グリーン・レクイエムU』で使われていました。(98/11/01)

[このページの最初に戻る]


中国の詩

『帰去来辞』

 陶潜の作品です。役人になったのですが、性に合わず田園に隠退します。その時に心境を歌ったのが『帰去来辞』です。陶潜の文章では、『桃花源記』も好きです。桃源郷の話です。
「帰りなんいざ、田園将に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる」
 これは、名書き下し文(という言い方でよいのか?)だと思います。こんなに印象的な文は、ほかにないとわたしは思っています。田園での生活ぶりもいいなと思うのですが、陶潜の考え方や生き方が何よりも魅力的です。でも、現代の日本では、こういう生活はできないかもしれませんね。 (98/10/25)

 

『木蘭詩』

 作者は無名氏になっています。『木蘭辞』となっていることもあります。木蘭は年老いた父にかわり、男装して従軍します。このようなことは、当時は結構あったようです。十年以上経って、木蘭は高い官職をもらうことを断り、戦場から帰ります。家に帰ってくつろぎ、女性の身なりに戻っているところに、戦友がやってくるのですが、木蘭の姿を見て驚いてこう言います。「木蘭が女性だとは知らなかった。」それだけ、木蘭が戦場で女性とは思えない活躍をしたということのようです。
 この詩を読んで最初に思ったのが「マンガの方のナウシカに似ているな」ということでした。年老いた父のかわりに出兵するところはそっくりです。また、この詩は田中芳樹さんが『風よ、万里を翔けよ』という作品のモチーフにしています。さらに、ディズニー映画の『ムーラン』もこの詩をもとにしています。それだけ、この作品が魅力的だということなのでしょう。わたしも、木蘭の魅力に参ってしまいました。 (98/10/25)

[このページの最初に戻る]


和歌

『萬葉集』

 萬葉仮名だと読みにくいので、訳文で表記します。なお、訳文はすべて『万葉集 訳文編』(塙書房)を参考にしています。

大伯皇女

    大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首 
  我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし(巻2・105)
  二人行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(巻2・106)

 この二首は、相聞歌に分類されています。大伯皇女は天武天皇の皇女。伊勢神宮の斎宮を務めていました。大伯皇女を訪ねて伊勢までやってきた同母弟の大津皇子が明日香の都に帰るのを見送ったときの歌とされています。この姉弟は、幼い頃に母である大田皇女と死別しています。大田皇女は、天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后である鵜野讃良皇女(持統天皇)の同母姉です。彼女が生存していたら、天武天皇の皇后は大田皇女となり、皇太子の座は大津皇子のものとなったかもしれません。
 父である天武天皇の崩御によって、大津皇子の立場は非常に危うくなりました。現皇太子である草壁皇子は、鵜野皇后の子。しかし、大津皇子がとても評判がよいのに対し、草壁皇子は凡庸だったようです。大津皇子は鵜野皇后に警戒され、謀反を起こしたという理由で死を賜ることになります。そんな大津皇子が伊勢に向かったのはなぜだったのでしょう。死を覚悟し、長い間別れて暮らしていた、たった一人の姉に会いたかったのでしょうか。大伯皇女は、大津皇子を「大和へ遣ると」と言っています。そこには、帰したくはないけれど帰さなければならない、そんな気持ちがあるように思います。また、詞書の「竊かに」が、おだやかならぬ状況を物語っています。大津皇子の伊勢行きは、いくつかの問題を抱えています。天皇以外の男性が伊勢神宮を訪ねていること、天武天皇の病状が思わしくない時期(伊勢行きの時期については天武天皇崩御の前後両方の説があります)に都を離れていることなどです。このことは大津皇子にとって謀反の疑いをかけられる材料になったかもしれません。それを承知で伊勢に行ったのだとすると、自らの死を覚悟していたことになりそうです。大伯皇女もその緊迫 した状況を理解していたからこそ、弟を明日香に帰し、その姿が見えなくなってもなお見送り続けたのかもしれません。たった一人で秋山を越え、明日香へと帰っていく弟を思う大伯皇女の気持ちが痛いほど伝わってきます。

   大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首
  神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに(巻2・163)
  見まく欲り我がする君もあらなくになにしか来けむ馬疲らしに(巻2・164)
   大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首
  うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む(巻2・165)
  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありとはいはなくに(巻2・166)
    右の一首は、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢神宮より京に還る時に路の上に花を見て、感傷哀咽して、
   この歌を作るか。
 大津皇子が死を賜った後の歌です。挽歌に分類されています。大伯皇女の歌は全部で六首『萬葉集』に載っていますが、すべて大津皇子のことを詠んでいます。大津皇子の死後、大伯皇女は伊勢から京へと戻ってきます。「もう、会いたいと思う大津皇子はいないのに、何をしに京へ戻ってきたのだろう。」大津皇子を失った大伯皇女の悲しみの深さがうかがえます。
 二上山に移葬された大津皇子。現世にいる大伯皇女は、二上山を弟として見つめていきます。この後、京に戻った大伯皇女がどのように過ごしたかは、一切記録に残っていません。わかっているのは、大津の死より15年後、41歳で薨去したことだけです。大津皇子を失った悲しみが癒されることはなかったのでしょうか。
 「磯の上に生ふる馬酔木を…」についている注釈ですが、別に移葬の際の歌としてとらえても問題はないような気がしているので、詞書通りにわたしは読んでいます。(98/11/01)

 

大津皇子

   大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首
  あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに(巻2・107)

 作者である大津皇子は『日本書紀』よると天武天皇の第3皇子となっています。大伯皇女の同母弟です。大津皇子は『日本書紀』『懐風藻』の記述を見ると文武両道で人望の厚いすぐれた人物であったようです。大津皇子から詩賦は興ったと『日本書紀』は伝えています。その歌は『万葉集』に全部で四首載っています。
 「あしひきの…」は石川郎女に贈った恋の歌です。相聞歌です。「あなたがなかなか現れないから、しっとりと山の雫に濡れてしまったよ。」大津皇子のように魅力的な男性にこう言わせた女性、石川郎女は次のような歌を返しています。
   石川郎女の和(こた)へ奉る歌一首
  我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを(巻2・108)
 「あなたが私を待って濡れたという山の雫になりたいものです。」なんてうまいのだろう!大津皇子の使った言葉を詠み込みつつ、柔らかい女性の歌にした石川郎女。大津皇子が歌を贈ったのもうなずけます。
 大津皇子の歌で一つ気になるのが「我立ち濡れぬ」という表現です。直前に載っている姉の大伯皇女の歌でも「我が立ち濡れし」と使われているのは、偶然の一致なのでしょうか。

   大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
  ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻3・416)
    右、藤原宮の朱鳥元年の冬十月
 大津皇子が死を賜ったときに作った挽歌です。謀反の罪によって捕らえられたのが10月2日、翌日に刑死となっています。「磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、わたしはこの世を去るのだろうか。」初冬の磐余の池の前で死を迎えようとしている大津皇子の悲痛な心がにじみ出ていると思います。静かに鴨が浮かんでいる夕暮れの磐余の池、その水面は寒々しい初冬の風に軽くゆれている、そんな風景がこの歌から浮かび上がってきます。それは、自らの死を直視している大津皇子の心象風景と重なっているように思うのです。
 「雲隠りなむ」という表現から仮託説が唱えられていますが(石川郎女との相聞歌や大伯皇女の歌も「歌物語」としてとらえ、後世の仮託とする説があります)、これだけ痛切な思いを歌っているものを仮託と解したくはありません。大伯皇女の歌も同様です。(98/11/14)

 

額田王

   天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山万花の艶と秋山千葉の彩とを競い憐れびしめたまふ時に、
  額田王、歌を以て判る歌

  冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 
  草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く 
  そこし恨めし 秋山そ我は(巻1・16)

 作者の額田王は、大海人皇子の娘十市皇女の母です。この歌を詠んだ頃には天智天皇の寵愛を受けていたのかもしれません。額田王の作品は熟田津の歌など有名なものがたくさんありますが、娘の十市皇女が薨じたときには歌を詠んでいません。なぜなのでしょうね。
 ところで、これは春と秋、どちらを好むかという歌なのですが、読んでいてなるほどなあと思いました。こういう感覚は古代人も現代人もあまり変わらないのでしょうね。春秋それぞれのよいところとそうでないところをあげて、それでいて自分は秋が好きだと言う額田王のはっきりとした主張の仕方も好きです。わたしも秋の方が好きです。秋山の紅葉はもちろん、吹く風も涼しげで好きです。

   額田王、近江天皇を偲ひて作る歌一首
  君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋の風吹く(巻4・488,巻8・1606)

 近江天皇は天智天皇のことです。最初大海人皇子のもとにいた額田王ですが、天智天皇の寵愛を受けるようになります。この歌には天智天皇を恋い慕う思いがあふれているように思います。秋の風吹くというところで、天智天皇の訪れを待つ寂しさがにじみ出ているように感じました。 (99/01/02)

 

中皇命

   中皇命、紀の温泉に往く時の御歌
  我が背子は仮廬(かりいほ)作らす草なくは小松が下の草を刈らさね(巻1・11)

 作者の中皇命(なかつすめらみこと)が誰なのかは、諸説あって定かではありません。中継ぎの天皇のことではないかということで有力視されているのが、斉明(皇極)天皇とその娘の間人皇女(孝徳天皇皇后)です。歌の内容から間人皇女ではないかとも思うのですが。
 この歌は文字通りにもとれるし、深読みもできますね。どちらにしても、「我が背子」を思う気持ちが強く伝わってくるのですが。 (99/01/10)

 

持統天皇

   天皇の御製歌
  春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天の香具山(巻1・28)

 持統天皇は天智天皇の第2皇女。鵜野讃良皇女と呼ばれていました。夫である天武天皇の死後称制をとり、天皇位についた女帝です。古代の女帝は中継ぎだとよく言われますが、持統天皇はその中で政治的手腕を大いにふるっていると思います。
 百人一首でもおなじみのこの歌。百人一首では「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」となっていますが、絶対に『萬葉集』の方がいい!!内容はいたって簡単。「春が過ぎて夏が来たようだ。香具山には白い衣が干してある。」それだけなのですが、よく晴れた日、新緑の香具山に純白の衣が風にはためき輝いている、そんな風景が浮かんできます。 (99/01/10)

 

弓削皇子

   吉野宮に幸す時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一首
  古(いにしへ)に恋ふる鳥かもゆづるはの御井の上より鳴き渡り行く(巻2・111)

 弓削皇子は天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大江皇女。『懐風藻』では高市皇子の死後、軽皇子を皇太子とするのに反対しようとしたところ、大友皇子と十市皇女の子である葛野王に叱責されたと伝えています。天武天皇の皇子は数多くいますが、持統天皇の時代にはあまり活躍していません。というより、活躍の場を与えられなかったのかもしれません。弓削皇子もその一人。母は皇女なのだから血筋としては申し分なく、皇位を望んでもおかしくありません。それなのに、自分には活躍する場がない…。やりきれない思いがあったのではないでしょうか。
 この歌は持統天皇に従って吉野へ行ったときに額田王と交わしたものです。「あれは昔を恋うる鳥と言われるほととぎすなのだろうか。ゆずり葉の茂る泉の上を鳴きながら渡っていく。」それに対する額田王の返歌は次の通りです。
   額田王の和へ奉る歌一首 大和の京より進り入る
  古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我が恋ふるごと(巻2・112)

「あなたのおっしゃるとおり、昔を恋う鳥はほととぎす。きっと鳴いたことでしょう。わたしが昔のことを恋しく思っているように。」
 ほととぎすは中国では悲哀の象徴として詠まれていることが多いようです。二人が恋い慕う昔とはおそらく天武天皇の時代だと思われます。弓削皇子は宮廷内に自分の居場所のないことからくる孤独感を、額田王は娘の十市皇女や天智天皇、天武天皇のいない寂しさを思っていたのでしょうか。(99/04/10)

 

志貴皇子

   明日香宮より藤原宮に遷居(うつ)りし後に、志貴皇子の作らす歌
  采女の袖吹き返す明日香風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く(巻1・51)

 志貴皇子は天智天皇の皇子。母は越道君伊羅都売。持統天皇の時代にはほとんど活躍の場が与えられなかったのは、天智系の皇子だったからでしょうか。この歌は、持統天皇の時代に都が明日香から藤原宮に遷った頃の作と言われています。この歌を読むと、その様子が目の前にパッと浮かび上がってきます。美しくきらびやかな采女の衣装を明日香風が翻していてとても華麗なのに、明日香から京が遷ってしまった寂寥感もにじみ出ているように思います。明日香風が吹いているのは秋だと感じるのはわたしだけでしょうか。明日香に行くといつも思い出すのがこの歌なのです。

   志貴皇子の灌(よろこ)びの御歌一首
  石(いは)走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(巻8・1418)

 明日香風の秋のイメージに対し、こちらの歌からは春になった喜びを感じます。萌え出づるという表現が徐々に春がやって来ていることを思わせます。滝の水もしだいに温んでくる、そんな季節がやってきたことを感じさせます。 (99/04/10)

 

作者未詳1

   天平五年癸酉、遣唐使の船難波を発ちて海に入る時に、親母の子に贈る歌一首併せて短歌
  旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(たづむら)(巻9・1791)
   (「歌一首」は省略。反歌のみ紹介します。)

 子を思う母の愛情がとてもよく伝わってくる歌です。この時代は国内の旅ですらとても困難なものであったのに、海を越え大陸に渡っていかなければならない我が子。霜の降りるような寒い時期に何日も野宿を繰り返さなければならない我が子をどうか羽で包み込んでやってほしいと鶴に思いを託す母。いつの時代も子を思う母の気持ちは変わらないのですね。 (99/04/10)

 

作者未詳2

   夏の雑歌 花を詠む
  風に散る花橘を袖に受けて君が御跡(みあと)と偲(しの)ひつるかも(巻10・1966)

 花橘の舞う中、その花びらを恋人と思い、受け止めて立ち尽くしている…。そんな情景が思い浮かびます。手のひらではなく、袖で受けるというところがとても印象的です。花橘を詠んだ歌はたくさんありますが、これが一番好きです。この歌を詠んだのは男性なのか、女性なのか。わたしは勝手に女性かなと思っています。
 この歌は吉田秋生のマンガ『櫻の園』でも使われていました。(99/08/23)

 

東歌

  信濃道は今の墾(は)り道刈りばねに足踏ましむな沓はけ我が背(巻14・3399)
    右の四首、信濃国の歌

 信濃路はこの頃切り拓いたばかりの道だったようです。まだあちこちに切り株が残っていたのでしょう。そこで、出かけていく夫に靴を履いておいきなさいと妻が言っているのですが、この頃靴は簡単に手に入る物だったのでしょうか。京に住む身分の高い人ならともかく、信濃に住む人が簡単に用意できる物ではなかったのではないかと思います。そう考えると、夫を案じる妻の思いがより一層強く伝わってきます。 (99/04/10)

[このページの最初に戻る] 

『古今和歌集』

在原 業平

  世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(巻1・春上・53,『伊勢物語』82)
 桜の咲く頃になると必ず思い出す歌です。桜が咲くのを待ちこがれるのは平安時代の人も同じだったようです。そして、散るのを惜しむ心も。今のわたしたちも、梅が咲くと「次は桜だ。いつ咲くだろう。」と心待ちにしてしまいます。そして、満開の桜を見てその美しさを楽しむのですが、残念なことに長くは楽しめません。あっという間に散っていってしまうのを寂しく思うのです。もし、桜がもう少し長持ちする花であったなら、春は気ぜわしくならずのんびりと過ごせるのかもしれません。

  月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(巻15・恋5・747,『伊勢物語』4)
 この歌はいろいろな解釈ができてしまい難解だといわれています。「月は以前とは違う月なのか、春は昔の春ではないのか。自分だけ変わらず、まわりは変わってしまったみたいだ。」というようにわたしは解釈しています。『伊勢物語』にも出てくるのですが、好きな女性を失ってしまった業平の悲しみが伝わってくるように思います。この歌を読むと、『源氏物語』の朧月夜の入内や紫の上の死を思い出します。業平はもちろん光源氏です。 (99/04/10)

 

上野 岑雄(かみつけのみねを)

  深草の野辺の桜し心あらばことしばかりは墨染めに咲け(巻16・哀傷・832)
 最初にこの歌を読んだのは『あさきゆめみし』でだったと思います。藤壷の宮の死を光源氏が悼んでいる場面でした。あまりにその場面にピッタリの歌だったので、しばらくの間この歌は『源氏物語』の中に出てくるものだと思っていたのですが、原典は『古今集』にありました。大切な人がもし桜の咲く時期に亡くなってしまったら…きっとこういう心境になると思います。 (99/04/10)

 

よみ人しらず

  さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする(巻3・夏・139)
 花の香りで昔親しくしていた人のことを思い出すというのがすてきだと思います。花橘で思い出される人ってどんな人なのだろう。わたしは橘というととても爽やかなイメージがあるので、そういう人だったのかなと勝手に想像しています。 (99/04/10)

 

『新古今和歌集』

西行

  心なき身にもあはれはしられけり鴨(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ(巻4・秋上・362)
 三夕の一つとして有名な歌です。でも、わたしはこれを読むとつい大津皇子の「ももづたふ…」を思い出してしまうのです。確かにこの風景自体はとても趣があって秋だなあと思わせるのですが…。大津皇子の歌を先に知ってしまったからなのでしょうか。

  願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ(『山家集』上・春)
 これも実は大和和紀『はいからさんが通る』を読んでいて出会いました。マンガから知識を得ているのがすぐにわかってしまいますね(^^;)『はいからさんが通る』を読んだのが小学校2年生くらいだったので、最初はこの歌の言っていることがよくわかりませんでした。でも、なぜか心に残ってしまいました。たぶん、桜の花が散っている下で死ぬというのが映像として浮かんでしまったからなのでしょう。あとで、これは釈迦入滅の日のころに死にたいという意味だとわかってびっくりした覚えがあります。 (99/04/10)

 

その他の和歌

若山 牧水

  幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく
 若山牧水の歌は孤独感が漂っているものが多いように思います。この歌からは、いつか寂しさのなくなる国があると信じて旅を続けている牧水の、孤独を感じつつもそれを癒したいと願う心を感じます。

  白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(『海の声』)
 空の青、海の青、どちらにも染まらずただ一人で漂っている白鳥。それは、牧水自身の姿なのかもしれません。どちらにも染まらないのか、染まれないのか、いずれにしてもたった一人で漂う孤独な姿がとても悲しいと思います。(99/04/10) 

 

与謝野 晶子

  金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
 銀杏を見ると思い出すのがこの歌です。わたしの通った高校にはたくさん銀杏が植えられていて、秋になるととてもきれいに色づきました。それが夕日を浴びて本当に金色に輝いて散っていくのです。でも、近所から落ち葉がひどすぎると苦情が来てその見事な銀杏たちもずいぶん切られてしまいました。そういえば、ぎんなんもたくさんできていました。それを近所の子ども(通称・鍋ガキ。鍋山に住む子どもという意味)が拾っては投げていましたっけ…。

  鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
 この歌を知ったのは、実はつい2年ほど前です。6年生の校外学習で鎌倉に行くことになり、その時に一緒の学年を担当した先生が教えてくれたのです。「鎌倉の大仏って美男かなぁ?」などと言いながら下見に行ったのですが、20数年ぶりに見た鎌倉の大仏は思っていたよりもキリッとしていてすてきでした。 (99/04/10)

 

斎藤 茂吉

  死に近き母に添ひ寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり
 茂吉の歌には教科書で出会いました。特に母を想う「死にたまふ母」には圧倒されました。言葉にならないというのは本当にあるのだと思わされました。
 その後、茂吉の息子である北杜夫さんや斎藤茂太さんの書いた作品を読むようになりました。短歌から想像していた茂吉とは違う姿が見られました。『楡家の人びと』はお薦めです。 (99/04/10)

[このページの最初に戻る]


[Topに戻る]