「パステル〜、そっちのボウル取って!」
「はいはいーっ」
手にしていたボウルと木ベラをとりあえず机に置いて、わたしはマリーナに言われたボウルに手を伸ばす。と、
「あ〜〜〜〜っ! ダメっ、ルーミィまだ食べちゃ!」
ちょうどわたしの反対側からボウルに伸びた小さな手が、わたしの声にびくんっと震えた。
あーあ、もう。ぽよぽよの眉をきゅっと寄せて上目遣いに見上げた顔は、チョコレートでべたべただ。
「ほら、おいで。顔ふいてあげるから」
ボウルをマリーナに渡しておいてから、ルーミィに手招きする。とことことやってきた彼女は、
「ごめんあしゃーい」
おとなしくわたしの膝におさまった。
はあ、道理で材料がやけに足りないと思った。ルーミィったらさっきからこっそりチョコレート食べてたんだな。
「みんなの分が出来たら、ルーミィの分も作るからね。もうちょっと我慢して?」
マリーナが小さくウインクして、そう言う。
「わかったお! ルーミィもおてつだいすうもん!」
にっこり笑ったルーミィに、わたしもつられて笑った。 今日はバレンタインデー。女の子がチョコレートに想いを託す日。
……とはいってもわたしに愛を告白するような相手も色気もあるはずがなく。
たまたまシルバーリーブに遊びに来ていたマリーナと、パーティのみんなにチョコレートやお菓子を作ろう、ってことになって。みすず旅館のおかみさんに台所を借りて、こうして作り始めたわけなんだけれど。
これがなかなかバタバタしてしまって、ね。思ったより上手くいかないんだよなー。
「ちゃんとできてんのかー?」
いちいち、様子を覗きに来る人とかいますしねっ!
わたしはボウルを持ったままでくるうりとドアの方を向いた。ドアに腕を持たせかけて、にやにやとこちらを眺めているのはトラップだ。
「もう、別にいいでしょ!? 何分おきかに覗きに来なくたって」
そう、こいつはわたしたちがお菓子作りを始めてからずっと、何分おきかに何度も何度も覗きに来るのだ。かといって手伝うわけでもなく、覗いてからかって戻っていくだけ。
わたしが文句を言っても、まったく堪えた様子はない。トラップはひょいっとわたしの持っていたボウルを覗き込んで、
「秘密の調味料なんか、入れてくれるなよ?」
「何のことよ?」
「おめえの血」
「なっ、失礼ね!!」
包丁で指を切ったりするなよ、って言ってるのだ。くうっ。
「あいにく、わたしはそんなに不器用じゃありません!」
「へえ〜、そう。でもまあ、食べる方としては心配なんだよなあ。変なもん入れられやしねえかってさ」
あーもう、むかつく! でもここはぐぐっと泡立て器を握りしめるにとどめておく。
「おや、パステルちゃんったら固まっちゃってどうしたの? もしかして砂糖と塩を間違えたとかー」
プチン。
「うるっさーーーーーい!! 邪魔しないでよもう出てって!」
思わずぶんっと振り上げた泡立て器から、ピュピュッとメレンゲが辺りに飛ぶ。トラップはにやにや笑ったままでひらりとそれをかわすと、なおも口を開いた。
「だからー、食べる方としては心配なんだって言ってるだろ?」
「うるさいっ! 別にトラップだけにあげるわけじゃないんだから!!」
わたしが叫ぶのとほぼ同時、彼はにやにや笑いを浮かべたままでドアから外へと出て行った。
ああ〜、腹が立つなあもう。
くすくすと笑い声が聞こえて、わたしは振り向いた。
「マリーナぁ」
「あはは、ごめんごめん」
マリーナは笑いながらボウルの中身をアルミカップに流し込んでいる。それからふっとこちらを見て、不思議な笑みを浮かべ小さく首を傾げた。
「そっかあ、トラップ『だけ』じゃない、ね」
へ?
わたしが目をぱちくりさせると、なんでもないというように首を振ってマリーナはルーミィに目をとめた。
「あー、ルーミィ、それは混ぜちゃダメ!」
部屋に入ってきたクレイが驚いたように軽く目をみはった。のがわかったので、おれは軽く帽子を持ち上げて目だけで「なんだよ?」と問い返す。
「いや……トラップが昼間っから部屋にいるなんて珍しいな、と思ってさ」
普段はあちこち遊び歩いているのに、そう言いたいんだろう。まあ、そう言われるのも無理はねーけどな。おれはベッドの上で寝返りをうって、クレイに向き直った。
「『今日は』めんどくさいの。おめえもまあ、よくそんだけ持ってこれたよなあ」
腕にいっぱいのピンクや赤の包みを見て、おれは呆れたように肩をすくめる。クレイは困ったように笑ってそれを机の上に置いた。大きな、山ができる。雪崩れそうだ。
「ちょっと歩くたびにいろんな人にもらっちゃってさ。断ることもできないし。今日って、何かあったっけ?」
……覚えてないのかよ。まあクレイらしいっちゃあらしいが。
「バレンタインデーだろうが。だから、めんどくさくって遊びに行く気になれねーんだよ」
人から物をもらうのは悪い気はしないが、それと引き換えにデートを迫られたりお返しをねだられたりするのは勘弁願いたい。それに山ほどのチョコレートをもらったところで持って帰るに不便だし、食べるにはもっと不便だ。
遠い昔、調子に乗ってもらったチョコレートを食べまくって虫歯になった記憶が蘇る。
「あ、そうか、バレンタインか」
のほほんとのんきに納得しているクレイに、おれは心の中で合掌した。もらったからには一ヵ月後のお返し地獄が待っている。まあ、クレイだったら何でもないようにこなせるんだろうが。
「下ではパステルとマリーナが作ってるぜ。今日のディナーはチョコレートで決まりだな、クレイちゃん」
からかうようにそう言うと、クレイはちょっとうつろな笑いを浮かべた。おれはもう一度合掌する。今日のディナーだけでなく、これからしばらくクレイはチョコレート主食の毎日を送ることになるに違いない。
「パステルたちは、誰にあげるんだ?」
クレイの口から飛び出した言葉に、驚いておれはクレイを見た。ざわっと何かが胸を通り過ぎる。
だけどクレイに他意はなかったらしい。相変わらずののほほんとした顔でマントを脱いでいる。
慌てた自分が妙に恥ずかしくて、おれはなんともなしに窓の外を見ながら起き上がる。
……慌てた? 一体何に?
小さく首を振る。そしてなんでもない口調で答えた。
「さあ? さっき覗いたときには『トラップだけにあげるわけじゃない』って追い出されちまったけど。あいつに誰かに愛を告白する色気なんてなさそうだしな」
普通に考えりゃ、作ったもんはパーティみんなで食べることになる、ってことか。あとは世話になってる人にやるとか。
「ふうん?」
クレイがふと手をとめて口元にやった。小さく呟く。
「『だけ』じゃない、か」
「なんだよ?」
おれが小さく眉をしかめるとなんでもないと笑う。変なヤツ。
「おれ、もう一眠りするわ。飯になったら起こしてちょーだい」
おれはそう言ってもう一度横になった。あ、と思い出して付け足す。
「旅館までチョコレート持ってきたヤツがいても、寝てるからって追い返していいから」
「せっかく持ってきてもらったんなら、受け取るぐらいしたらどうだ?」
「んー、それじゃあクレイちゃんが受け取っといて」
「おい、そういう問題じゃ」
クレイが説得モードに入る前に眠りこけたふりをする。寝たふりをしているとわかっていながら、クレイが起こそうともせず溜息をつくのが聞こえた。
だって、いらねえし。
とろとろとまどろみに片足を突っ込みながら思う。
欲しいのは、多分、――――。
ひとつだけなのだ、きっと。
寝息をたて始めたトラップに小さく肩をすくめ、おれはそっと部屋から出た。
トラップの言い分がわからないわけじゃない。あいつはただ、応える気がないから期待させたくはないだけなんだろう。
でもなあ、と苦笑する。わかってるのか、あいつは? そんな風だから余計にパステルがにらまれちゃうんじゃないか。
トラップのファンの子が、パステルによくない感情を抱いてるのはなんとなくわかる。それは多分、肝心なところで自分に冷たいトラップが肝心なところでパステルに優しい、それを妬んでるからなんじゃないか。なんとなくそう思う。
なんとなく、だけれど。
なんとなく、といえば。
さっき、なんだか引っかかったんだっけ。
『トラップだけにあげるわけじゃない』
パステルがそう言った、って聞いて。
「『だけ』……うーん」
ぽつんと口の中で呟いて、考えてみる。何が引っかかったんだろう? よくわからない。よくわからないけれどそこにあるのは多分、、、、、、。
バタン、と下の階でドアの開く音がした。続いて階段を駆け上る音。
いつの間にか階段のところまで歩いてきていたおれは、ふと顔を上げた彼女と自然、目が合った。
「クレイ。帰ってきてたの?」
にっこり笑ってそう言うマリーナにおれは笑い返す。
「うん、さっきね」
「チョコレート、たくさんもらったんじゃない?」
いたずらっ子の目でそう問うマリーナは、いつものみつあみをまとめて頭にバレッタでとめている。たったそれだけで雰囲気がずいぶん変わるんだなあ、とぼんやりと思った。
「ああ、おれ、今日がバレンタインだってさっきまで知らなかったんだよ。どうしてみんなチョコレートくれるのかなあ、って思ってたんだけど」
「あはは、クレイらしー」
くすくすと笑って、マリーナは階段を上りきる。ふわりと空気が揺れて甘い匂いがした。
「マリーナ、いい匂いがする」
「え?」
マリーナはちょっと首を傾げてから、ああ、と納得したように頷いた。
「お菓子、作ってるのよ。ちょうど今、仕上げしてるところ。包装紙とリボンを取りに来たんだけどね」
「ああ、そっか。そういえばさっきからいい匂いがしてるな」
台所から漂う香ばしい匂いにくんくんと鼻を鳴らす。そんなおれにマリーナは笑った。
また、甘い匂いがする。マリーナから、マリーナの纏う風から。
「クレイにもあげるから、もう少し待っててね」
にっこりとそう言ったマリーナに、おれは軽く瞬く。
すとん、っと胸の奥で何かが鳴った。……あれ?
一瞬、マリーナの笑みが小さく揺れた。気がした。けれどそれはすぐに消えて、なんでもなかったかのように口を開く。
「それじゃ、わたし取りに行ってくるから」
笑顔でそう言ってくるりと部屋へ向かったマリーナをぼんやりと見送って、おれはぼんやりと思考をめぐらす。
「……『にも』、かあ」
だからなんだって言うんじゃないんだけどな。けれどなんとなく、こう、……すうすうする。
そしてああ、となんだか納得した。どうして『だけ』が気になったのか。
なんとなく、だけれど。
それは、とくべつ、なのだ。きっと。
楽しげに箱にリボンをかけるパステルを、なんとなくぼんやりと見つめてしまう。
わたしは目にかかりそうな前髪を軽くはらって、握ったリボンを見下ろして溜息をついてしまった。思わず、言葉が漏れる。
「パステルは、強いなあ」
「え?」
小さな小さな声は空気を震わせながらも、パステルの耳には意味を持って届かなかったらしい。きょとんとこちらを見ているパステルに、なんでもないと首を振ってみせる。
「トラップだけにあげるわけじゃない」。そう言える彼女がちょっと羨ましかった。
「トラップにあげるわけじゃない」とは言わず、「トラップ『だけに』あげるわけじゃない」と言ったパステルが。
とっさに出たあの言葉は、多分本人も気づかなかっただろうけれどこれ以上もないほど正しかったんだって思う。
だって。
『だけに』って言葉には、「トラップにあげる」っていう前提が込められているのだから。
もちろん本人は「トラップだけじゃなく全員にあげるんだよ」って言いたかっただけなんだろうけれど。その文章が成立するには、「トラップにあげる」という前提が必要でしょう?
そこにとくべつの気持ちがあるのは、多分本人も気づいていない真実だ。
わたしには言えない。そんなさり気ない言葉さえもセーブしてしまう癖がこの身に染みついてしまっているから。
そんなさり気ない言葉にさえも、気づいてしまうくらいに。
ぼんやりと、さっきのクレイとの会話を思い出す。
押し隠して押し隠して、だからそっけないくらいに何気なくなったセーブされた言葉に、何故だかクレイが揺れた。気がした。
だからわたしも、ちょっとだけ揺れてしまった。
それすらも無視できるくらいに強く強くセーブできていたら、よかったのに。バレンタインデーは鬼門だ。転がり落ちる気持ちはチョコレートでカバーできない。
あまりに甘くなってしまうから。
「マリーナ? どうしたの?」
「どうしたんか?」
リボンを見つめたまま固まっていたわたしを、心配してくれたらしい。はっと顔を上げると、気遣うような二人の視線があった。
「なんでもないよ、ごめん。このリボンと包装紙の色って合うのかなー、って考えこんでただけ」
笑ってそう言うと、安心したように小さく息を吐いてパステルも笑った。そしてまた、箱にリボンをかけ始める。
本当は、と。わたしは転がり落ちる気持ちをもてあそぶようにぼんやりと思考を転がす。
本当は、『にも』なんて言いたくなくて、けれど。わたしにはその言葉しか、許されてないのだ。
気づいてもらえるはずなんてないけれど。それはわたしにとってのとくべつ、なのだ。
|