雰囲気だけでも、バレンタインにしよう。
そんな、ほんのちょっとした三人の決め事だった。
パステルとルーミィとわたし、三人でまとめてパーティのみんなに、ってことじゃなくって、一人一人から一人一人へあげよう、って。
それぞれへの想いの形は違うから。だから、心を込めて一人一人のチョコレートを包んで、そしてあげよう、って。
だけど、考えてなんかいなかったはずだ。わたしも、パステルも、そしてもちろんルーミィも。
そこに本当の、おおきなとくべつが紛れ込むなんてこと、考えてもみなかったはずだ。
たとえばリボンの色を悩んでみたり、ひどく慎重に箱を包んでみたり。そんな些細なことが妙に気恥ずかしく感じられる。
それを「とくべつ」だと感じてしまうとくべつが、紛れ込んでしまうなんてこと。 包み終わったチョコレートを抱えて、台所を出たときだった。
「あれ、マリーナ。もう出来たのか?」
クレイに声をかけられて、どきっとして包みを取り落としそうになってしまった。落とさないようにと動いたつもりが逆にバランスを崩して、よろけそうになったときそっと受け止められた。
わたしが。
「大丈夫か?」
頭のすぐ上のクレイの声に、普段だったら平静を保てただろう。だけど何故かそのとき、胸の奥がきゅっと痺れた。
指先が熱い。――痛い。
できるかぎり気にしないふりで、わたしはそっと体勢を戻した。クレイの身体から離れる。
「ごめん、ありがとう。あ、そうだ、これ」
不自然にならないように、気持ちを流す。言葉を続ける。
クレイに宛てた青い包装紙を探しあて、その包みをクレイに渡した。必死で作った笑顔はぎこちなくはなかったみたいだ。クレイは笑ってその包みを受け取る。
「ありがとう。おれにもくれるんだ」
『にも』。
「違う!」
反射的にわたしはそう叫んでしまった。そしてあっと声を飲み込む。
……わたし、何て?
「あ、……そうじゃ、なくて」
戸惑った様子のクレイに、何と言ったらいいのかわからない。普段なら取り繕えるはずの気持ちが、ごまかしきれない。
「ごめん!」
何が何だかわからなかった。ただ、そこにいることができなくて。
わたしは走り出していた。クレイから逃げるように。
そうじゃないんだ。『にも』じゃ、ない。
手の中の包みが妙にひんやりとしている気がした。それが直前まで冷蔵庫に入れられていたせいなんだって気づくのに、少し時間がかかった。
そっと、手のひらを口元にやる。まいったな、と口の中だけで呟いた。
自分の中で、『にも』って言葉がやけに重かったことに今更気がついた。知らないところでずっとうずくまっていて、だから。
何気ない言葉にそれが出てしまったんだ。結果的にマリーナを傷つけてしまった。
そう言うつもりなんて、なかったのに。
謝らなきゃ。
おれは、マリーナの部屋へと向かった。
ノックを三回。
「マリーナ?」
呼んでも声はない。だけど、マリーナがそこにいる気配はわかった。
「マリーナ、ごめん。おれ、無神経だった」
ちょっとだけ間があって。それから、ドアはそのままで声だけが返る。
「……どうして、クレイが謝るの?」
かすかに揺れて聞こえるのはきっと気のせいじゃない。おれはそっと額をドアにあてて続けた。
「ごめん、わかったから」
何が『違う』のか、わかったから。
「え?」
きい、と小さく音がしてノブが回った。ドアから身体を離す。かすかに開いたその向こうに、マリーナが驚いたようにしてこっちを見上げている。
その瞳を見つめ返して、頷く。
「わかったんだ。上手く言えないんだけどさ、ありがとう」
ありがとう。
とけないように冷蔵庫に入れられていたチョコレートの包みに、わかってしまった。それがどういう気持ちであれ、マリーナにとってこのチョコレートは、おれ『にも』じゃないんだって。
だってそうだろう? あたたかい部屋で包装されたチョコレートなんだから。
冷蔵庫に入れられていたのは、早めに包まれていた証拠だ。時間が来るまでずっと、とけないように守られていたチョコレート。
それがどういう気持ちであれ、大切に想われたチョコレートだ。
「ありがとう。これを、おれにくれて」
にっこり微笑むと、マリーナが泣きそうな顔でくるりと背を向けた。
「わたしこそ、ごめんなさい」
小さい頃からのマリーナの癖。泣くときは絶対にこっちを向かない。
それがわかっているから、おれはそっとマリーナの頭に手を乗せた。彼女の肩が震える。
おれはちょっとだけためらって、軽く彼女の肩を抱いた。
泣き顔には、気づかないふりで。
それでいいんだ、となんとなく思ったのだ。冷えたチョコレートはひどくあたたかい。
それがとくべつなのかは、まだわからないけれど。
夢を見ていたような気がする。
だけどそれがどんな夢だったのかはよくわからなくて、ただその夢の感触というか、名残というか。そんなものが思考に漂っていた。
開けた目に飛び込んできたのは赤い赤い夕日で、おれはしっかりすっかり眠りこけてしまっていたらしかった。ベッドの上でうんっと一つ伸びをして、けれど起き上がることはせずにそのまま天井を見上げていた。
ぼんやりと、見るともなしに。
胸の奥がざわざわする。寝る前の感覚を引きずってるみたいに。それはひょっとしたら夢の名残なのかもしれない。そんな夢まで見ていたのかもしれない。
本当に欲しいものなんて、忘れた。
見えないふりをしてしまいこんだつもりだった。
それならどうして、あのとき慌てたんだ? ひょっとしたら、誰かがあいつの手をとるんじゃないかと。
どうして、それを恐れた?
唐突に、夢の内容を思い出した。
手に入らないなら、そばに置くもんじゃない。ショーウインドウの向こう、ただ眺めるだけで幸せだったあの頃に戻ればいい。
それでも戻れなくて、もがいた。手を伸ばせば触れられるかもしれない、けれど伸ばすことが恐くて。
欲しいだなんて、言えない。
おれはその点において、誰よりもおれ自身を信じていない。
あいつを幸せにできるかどうかという、ただその点において。
らしくねえ。
どうしてあんな夢を見たんだ? ぐっと顔をこする。夢の名残を消そうとする。
赤い赤い、夕日。
紗のかかったような思考の彼方、ドアのノックを聞いたのはちょうどそのとき。
忘れていなかった、それがいいことだったのかなんて、わからない。
さて、バトル開始。
部屋のドアの前に立って、握りしめた手を軽く挙げたまま、わたしはしばし固まっている。
きゅっと握ったこぶしで、ドアを叩くこと数回。
気だるげにドアを開けたトラップを、わたしはにらむように見上げた。
「あんだよ?」
わたしの勢いにちょっと驚いたのか、トラップは軽く目をみはってそう尋ねた。
先手必勝、隙は見せない。わたしはひるむことなく手の中の包みをトラップに押し付ける。
みんなには一人一人手渡してきた。これで最後だ。トラップを最後に回したことに、深い意味なんてないんだけれど。
「おれにくれるわけ? ちゃんと食べられるもんなんだろうな?」
むかっ。もう、こいつは人をむかつかせずにいられないんだろうか?
「いらないんなら、別にいいけど」
「いや、いらないとは言ってないけど、心配だな〜ってだけで」
取り返そうとするとひょいっとかわし、にやにやとわたしを見下ろす。く〜っ、憎たらしいなあ。
「味は保証するわよ。チョコレートもカップケーキも、しっかり食べられます!」
「口では何とでも言えるんだよなあ」
むかむかむかっ。
「あのねえ、トラップには絶対文句言わせないって思って作ったんだから! 文句言うなら食べてから言ってよね!」
そう一息に言ってしまって。
目をぱちくりとさせたトラップと、しっかり目が合った。
……あれ?
さらにからかいの言葉を口にするかと思ったけれど、意外にもトラップは口元に優しい笑みを浮かべた。
と思ったのも、ほんの一瞬。
次に浮かんだのは、あのにやにや笑い。
「へえ〜、おれのために作ってくれたのか」
なっ!
「だ、誰がそんなこと言ったのよ!?」
「え? だってそういうことじゃねーの? おれに文句を言わせないために作ったんだろ?」
「そ、それはそうだけど」
「じゃあおれのために作った、ってことじゃねーか」
「そう言うとなんだか誤解をまねくでしょ!?」
「おれはいいけど?」
トラップはひょいっとわたしのパンチをよけて、顔を覗き込んだ。
からかわれてるってわかってても、顔が熱くなってしまう。
「あーもう、そんな風にからかうんなら返してよ!」
「やだね。一度もらったもんを返すのは盗賊の信条に反する」
「なによそれー!」
つかみかかろうとするわたしの手をトラップはするりするりとすり抜ける。と、わたしはバランスを崩してよろけてしまった。
「きゃっ」
地面にぶつかりそうになった、そのとき。ぐっと伸びた腕がわたしを支えた。
「チョコレート、サンキュな」
ささやくように耳元で言われ、びっくりする。
向き直った瞳でとらえたのは、にやっと笑ったままのトラップの顔。
あー、もう。
「どういたしまして!」
そう返しながらも、なんだか笑いが抑えられない。
胸の奥があたたかくて、どうして嬉しいのかはわからなかったんだけれど。
それもいいのかな、なんて思ってみた。
きっとそれが、想いのかたちだから。
〜END〜
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