「聞いてたんだろ。あの話」
マリーナはひとつ、頷く。
「正確には、聞こえてた、っていう方だけど。いよいよなんでしょ?修行の旅。出発はいつになるの?」
めいっぱいの明るい声で、マリーナはそう訊いた。 そう。クレイとトラップは行ってしまう。「修行の旅に出る」という言葉を、マリーナは聞いてしまったのだった。一瞬ピンと来なかったけれど、その意味が頭に染みとおると急に辛くなってしまった。
当たり前のことだったはずなのだ。クレイもトラップもそれぞれに将来がある。そのために冒険者となって修行に出ること、それはずっと昔……三人でクエストごっこを始めたくらいから分かりきっていたことだった。
でも、それ以上にマリーナには三人でいることが当たり前のことになっていたから。だから忘れていた。二人と離れてしまうことを。
「すぐにじゃないよ。まだいろいろと準備とかしなくちゃならないし。勉強とかもやっとかなきゃだしさ。……多分、夏ごろになると思う」
「そうなんだ。じゃ、ちゃんと勉強しとかないとね。筆記試験で落ちちゃったら、笑い話にもならないし」
声は震えていないだろうか。ちゃんと明るく聞こえているだろうか。けして雨音は大きくないはずなのに、なぜか自分の声がよく聞こえない。クレイの声は痛いくらいによく聞こえるのに。
クレイは笑って、それからふっと視線を宙に浮かせた。何かを考えるように黙り込んでいたが、やがて決心したようにマリーナを見た。
「マリーナ……よかったら、マリーナも一緒に冒険者にならないか。俺達も、マリーナみたいな子がいたらすごく助かるし」
「え……」
思いがけないことだった。二人が旅立ってしまえば一緒にはいられない。ずっとそう思っていたから。それなのに、一緒にいてもいいと言ってくれるの? ……だけど。
マリーナは首を振った。クレイが軽く目をみはる。
「マリーナ……」
「ありがと、そう言ってくれて。すっごくうれしい。でもね、わたしは行けない」
マリーナはもたれていた木から離れて、クレイと向かい合うように立った。
「クレイとトラップには将来がある。だからそのために修行に出る。でも、わたしは? ただ二人の幼なじみでちょっとした冒険好きってだけで、他には何もない。ここで、幼なじみだからって二人に甘えちゃうのはよくないんだと思うの。わたしにとっても、二人にとっても」
三人でいるのがあまりに楽だから。だから居心地がよすぎてその状態でずっといたいと願ってしまう。でも、それじゃいけない。そんなことでお互いを縛ってしまったらいけないのだ。
口にすることで、その事実に慣れてしまおう。それはあまりに痛くて、でもどうしようもなくそこにあるものだから。
それに。心の底にある想いに気づいてしまった今、クレイのそばにいることなんてできない。何事もなかったように隣で笑ってなんていられない……。
クレイはちょっと寂しげに笑ってみせた。
「そうか」
「うん。ねえ、修行の旅なんだから、ちゃんと一回りも二回りも大きくなってかっこよくなって帰ってきなさいよ? わたしも、もっといい女になってるからさ」
笑いながらマリーナは、クレイを肘でつついた。クレイも笑って……やさしい瞳でマリーナを見つめた。
「泣きたかったら、遠慮なく泣いていいんだよ」
その瞳に、言葉に、おもわず泣いてしまいそうになって、マリーナは首を振った。まっすぐに瞳を見つめ返して、言う。
「わたしは、思いを押し付けるだけのような泣き方はしない。だから……大丈夫だよ。気にしないで」
クレイは黙って頷いた。マリーナは小さく微笑んだ。
雨粒が、マリーナを包み込む。そのやさしい音に、マリーナの唇からメロディが滑り出た。
雨音と溶け合い、それはやさしく辺りに広がる。遠い昔に聞いた懐かしい調べに、クレイは瞬きした。
「これって……」
いたずらっぽくマリーナはクレイを見つめた。
「子守唄。クレイのお母さんがよくうたってくれたよね。わたしには、クレイのお母さんほどうまくうたえないけど」
詩人だったクレイの母は、三人がまだ本当に小さかったころ、遊びつかれて眠る三人にこの子守唄を聞かせてくれた。風のささやきに似たそのメロディは三人の頬をやさしく撫でながら包み込んでくれて、そのときは必ずいい夢が見られた。
もう、あのころには戻れないけれど。それでも、あの思い出も消えることはない。
いつだったか、外は雨だった。いつものようにうつらうつらとし始めたマリーナの耳に、子守唄が聞こえてきた。夢と現実の狭間、まどろみの中で聞いたその曲は、雨音と溶け合ってやさしく、それでいて哀しく聞こえた。
いつもは安心して眠ることができるのに、なぜかその日だけ妙に寂しくなってしまって、閉じた瞳からにじみ出る涙を止められなくて。
そんなマリーナの瞳に触れた、小さな手があった。目を開けるとそこにはやさしい瞳。
『マリーナ、どうしたの?』
あたたかくて、やさしくて、安心してしまって、マリーナはクレイの手を握ったまま泣き出してしまった。クレイは困ったような顔をしてから、ぎこちなく頭を撫でてくれた。
あのときからクレイの瞳は変わらない。やさしくて、泣きたいくらいになってしまう。
不意に、クレイの唇からもあの曲がこぼれた。数小節うたったところでクレイは苦笑しながら歌を止める。
「だめだ、やっぱり高すぎてうたえない」
「だったら、音を下げてうたえばいいのに」
マリーナはくすくすと笑った。それは、マリーナが今日という日の中で初めて見せた、心からの笑みだった。
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