なぜだか分からないが、ずきりと胸が痛んだ。それはここしばらく体をしめつけていた不安が急に胸に集まったような、そんな奇妙な痛みかただった。
ギアはその痛みになぜか懐かしさを感じた。……この痛みを知っている……?「『金の糸は天使が生み出した光のかけら』。ギアを縛っている金の糸が光のかけらってことは前に言ったと思うけど。この『光のかけら』はもちろん、さっきからの話に出ている『光』の『かけら』なんだよね。つまり、ギアも立派に『光でとらえられた人』の条件を満たしてるんだ」
どの辺りが「立派」なのか分からないが、アクシーズはそんなことを言った。
「それじゃあ、おれが『闇』に還る可能性もゼロではないってことか?」
アクシーズは首を振る。
「いや、ギアに関して言うならゼロだ。光でとらえられた『人』が『闇』に還るのにもまた条件がある。ギアはその条件を満たしてないからね。そしてその『条件』っていうのを満たす者が現れるのは本当にまれなんだ。
ただ、ギアを縛る金の糸……つまり『光』は『赤』によって『闇』に還る。う〜ん、さっきも言ったように、『確実に』ってわけじゃないんだけどね。これが『闇に光を還す』っていう言葉の意味」
ギアの頭に再び違和感がひっかかった。『闇に光を還す』……?
「『光』は『闇』から生まれた、そういうような意味ということか? どうして『光』が『闇』に還る必要があるのか、それがいまいち分からない」
そう、『光』と『闇』は正反対なもののはず。『光』が『闇』に還るなんて、不自然なことのように思えたのだ。
アクシーズはきょとんとして首を傾げた。
「どうして? それじゃ訊くけど、『闇』と『光』ってなんだと思う? いや、今言ってるような伝承の中での意味じゃなくて、本質として……つまり、本当の意味での、『闇』や『光』の意味」
突然訊かれて、ギアは少し驚いた。いきなり訊かれて答えられるほど単純な問題ではない。
明るさの違いだろうか? 光があるかないかの違い。……いや、そうではないだろう。それは「明るい」と「暗い」の違いだ。そもそも、『光』が何かと訊かれているのに答えが「光があるということ」では意味が通らない。
『闇』……『光』がないということだ。それでは『闇』は『光』がなければ存在しないということなのだろうか?
『光』……けれどこれも、明るい場所では目立たない。あるものなのにあると思わない。『闇』の中でこそ、輝くものなのだ。『闇』があるから、『光』が『見える』のだ。
悩むギアに、アクシーズはにっこり笑った。
「ね? 考えれば考えるほど『鶏が先か、卵が先か』って感じの問題になっちゃうだろう?
『闇』があるから『光』が見える。『光』があるから『闇』を感じる。どちらがどちらから生まれたわけでもない。それは生まれたときから共にあったもの。
なぜだか、『光』と『闇』ってのは切り離されて考えられることが多い。正反対だととらえられることが多い。でもさ、こうやって考えてみるとこの二つって同じものに思えない? ほんの少し何かが間違ってたら、『闇』が『光』だったかもしれないんだし。
だって、『光』がこの世になかったら、『闇』なんて感じられないだろう?」
もちろん、そんなことはありえない。しかしギアにはなぜだか納得できた。言葉から納得したのとは違う。感覚で理解したような、奇妙な感じだった。
おそらくは、あの夢。光以外に何もなく、影すらもないあの夢。
目が慣れてしまえば『光』は『光』でもなんでもなかった。息苦しいほどのその風景は逆に『闇』を連想させた。あれは、『光の闇』だ……。
それを知っていたからこそ。だからこそ、理解できてしまった。
胸の奥で何かがうずく。胸騒ぎ……? 違う。もっと別なもの……痛みでもない、不思議と体を動かす力……。軽く瞳を閉じかけて、まぶたの裏に浮かんだ「あの映像」に、どきりとしてギアは目を開いた。
「だから、『闇』に『光』が還ったって不思議はないんだよ。不自然でもなければ、自然でもない。
君の夢で、ぼろぼろと崩れて行く光。あの『光』は『闇』に還ったのだと君も無意識の中で感じていただろ。言葉で改めて聞くと違和感を感じても、実際にその光景に出会ったらなぜか自然に感じられる、そういうこともあるからね」
言われてから思い出した。確かにその通りだ。
……それにしても。アクシーズは「縛り付けられた者の夢を見ることができる」と言っていたが、彼の話ぶりを聞いていると「夢をのぞくこと」は「夢を見ている者の意識と同化すること」のようだ。
ギアは複雑な気分でアクシーズを見た。自分の心をのぞかれたも同じことだ。呪いをとくため、ギアを縛るものを見極めるために仕方ないことだったのかもしれないが、勝手であることは間違いない。
ギアの視線の意味を感じ取ったのだろうか、アクシーズも複雑な表情で微笑み、すぐに目をそらした。そして、ぽつりと呟いた。
「ねぇ、天使は何から出来ているんだと思う? 人間に羽根をつけたところで、天使になんかはなれないよね。それなら何が違うんだと思う? 人間はどうして天使にはなれないんだと思う?」
あまりに唐突な質問に、ギアは軽く目をみはった。
天からの使いと書いて天使と読む。
それは翼を持った人ならぬものだ。異形の、もの。
美しい姿をした、一見人間にそっくりな姿であっても、いってしまえば異質な存在。
人が空にあこがれた、そのあこがれが作り出した、幻想なのかもしれない。
この世にいるという……舞い降りたという伝説は数多くある。しかし本当にいるのかなんて誰にも分からない。天使は、天からの使いなのだから。
「……人の、幻想」
アクシーズの問いへの答えとして、ギアは小さく口にした。
「なかなかに哲学的だね」
苦笑を浮かべながらアクシーズは言った。
「実際にいるのかは分からないだろう? けれどその存在を信じられている。見た者の方が少ないというのにな。だったら、人の幻想からできていると言ってもいいと思うが?」
「うん、当たらずといえども遠からず、ってところじゃないかな。まあ、神がいるんだから天使だって実際にいてもおかしくないんだけど」
その口ぶりにギアは「おや?」と思った。質問をしたのは自分なのに、まるで答えを知っているかのようなセリフだ。しかしギアはあえて追求することなく、続けるようにして口を開いた。
「だから、人間は天使にはなれない。幻想だけで生きていくことができない人間には、天使になることはできない」
照れくさいセリフだった。しかし不思議なほどにすんなりと、口から言葉がすべり出ていた。
アクシーズはちょっと首を傾げた。
「それじゃ、天使は何のために存在するんだろう? 天からの使いと書いて、天使。だけど何のための使いなんだろう? 人の幻想から生まれたのなら、人はどうして天使を生み出したんだろう?」
別にギアを困らせようとしているのでもないのだろう。アクシーズの表情はただ純粋にギアの答えを知りたがる者の顔だった。
ギアは簡単に答えることもできず、しばらく無言で歩きつづけてから考え考え話し出した。
「人のあこがれ……幻想の受け皿として。天にあこがれ、救われることを望んだ者が作り出した遠い夢の存在として」
人間は幻想だけで生きてはいけない。だが逆に、幻想なしに生きていくことも難しいことだ。その受け皿のひとつが天使という形をとっている、そんな気がした。
「そっか」
寂しげに微笑んで、アクシーズはぽつりと呟いた。
「だとしたら、天使って哀しいよね。人の思いに縛り付けられてるんだ……」
翼が自由の証であるとしたら。
だとしたら、これほど皮肉なことはない。天使はその翼ゆえに縛り付けられているのだから。
人の夢、幻想のために。
「僕は……天使が、光でできているような気がするんだ。もちろんそれは闇でもあって……だから、天使はひどくあいまいな存在であるような気がする」
どこか遠くを見るようにして、アクシーズはぽつんと口にした。
「それを確かなものにするには……きっと、天使の羽根をもぎとるしかないんだよ。けれどその瞬間、天使は天使ではなくなってしまう。だからずっと、人は天使を探し求めるんだ」
風をその手のひらに止まらせるかのように、そっと腕を伸ばした。ゆるやかに空気は流れ、時の流れを映し出す。とらえることのできないその風は、人の幻想であるかのようだった。それでも確かにそこにある。
「天って……なんなんだろうね。空とはまた違うのかな。人は天使に何を求めるんだろう? 天からの使いである天使に」
問いでありながら、それは独り言でもあった。彼の目には夕焼けのように赤く染まって映る空を見ながら答えを求めるでもなくアクシーズは続けた。
「『闇』は空なんだ、って誰かが言ってた。天は『闇』じゃないんだから、やっぱり空は天とは違うのかな。『闇』が空なら、『光』は何になるんだろう?」
答えられる者は、誰もいない。
言葉は風に乗せられて、ただ時をさまよった。
|