「有形の幻」

・第2回・

「ここだけ劇場」へ戻る


 いつ出会ったのかも覚えていない。気が付いたらそこにいた。出会ったその瞬間から自分にとっての大事な何かが回り始めたように、それまでの記憶は要らぬものだと言わんばかりに切り捨てられた。
 何も思い出せない訳ではない。じっと考えれば親の顔だって思い浮かぶ。ただそれは確かなようなあやふやなような。自分にとって大切なのは、彼に出会ってから先なのだと確認する程度の役にしか立たぬ記憶。
 それは何も苦痛ではなかった。彼の側にいられぬようになるのではないかと思う不安の方が、幾倍もの苦痛。
 何故自分はこんなに彼を好きなのだろう。何度も考えたそれはいつも答は得られなかった。自分が彼と共に在りたいと思っている現実には、何の効力も示しはしない。
 彼は平凡な町の労働者の息子だった。初めて見た彼は、学校の帰り道だったのだろう。自分は仕事帰りだっただろうか。彼は、傷付いたネズミを抱いていた。
 自分の確かな記憶はここから始まる。何故かその姿に酷く心を掴まれて、それ以来自分の家に帰ることも止めてしまった。だから自分の家が何処に在ったかも、何の仕事をしていたかも、実は思い出せないのだ。
 彼以上に自分がうろたえた。会って数時間の内に側にいさせてくれと頼み込む自分。彼は逡巡した。数瞬後だったかもしれぬ。数分後だったかもしれぬ。彼には自分が、傷付いたネズミと同じように見えていたかもしれぬ。彼は微笑んだ。微笑んで頷いた。自分は許されたのだ。世界の全てが許されたような安堵と感動。自分にとってそれが正しいことなのだと、確信せざるを得なかった。
 彼の側で彼の存在を感じていること。ただそれだけが望みだった。誓ってもいい。自分からはただの一度も彼に触れたことはない。彼は偶に優しく自分に触れた。その度に熱く満たされる思いが恋と呼ばれるものであったかどうかは、今もわからない。ただ彼を離れると思うと酷く不完全な気持ちになる。それが怖かった。
 彼は父親と二人暮らしだったはずだ。だが父親の顔は思い出せない。いつも不機嫌な顔をしていた、そんな印象しか残さぬ男だった。しかし彼は父親を許していた。世界の全てと同じように許していた。
 だから、彼は父親に刺された時も笑っていたのだ。
 酒に酔った父親は、酒場に迎えに行った彼を刺したのだ。何の気に入らないことがあったか知らない。理由など力を持たない。彼はその傷が原因で死んだ。
 父親は刑務所に連れて行かれた。彼は病院に連れて行かれた。自分は彼のベッドの脇で、ただ泣くことしかできなかった。行かないでくれと、置いて行かないでくれと、駄々を捏ねることしかできなかった。
 彼は笑った。笑って、自分の顔に手を伸ばした。その手は、既に冷たかったような気がする。


 泣かないで、ね。何処にも行かないから。ずっと一緒にいるから。
 ……ほんとう?
 うん。心配で、一人になんかできやしないよ。それに、約束したじゃないか。会った最初の日に。ずっと一緒にいるよ。
 ……ほんとうに?
 ほんとうだよ。
 僕を嫌いじゃない?
 え?
 ずっと心配だったんだ。シュルヅくんは、僕を嫌いじゃないかって。
 どうして? 俺は嫌いな人と一緒にいたりしないよ。
 ほんとに? ……僕を好き?
 うん。
 ……そうだね。シュルヅくんは、なんでもかんでも好きだね。
 ……お願いがあるんだ。
 なに?
 ……俺、いろんなところに行ってみたいなあ。


 彼が一緒にいてくれるなら、彼が世界と共にある手伝いをする。
 彼が息を引き取った時、彼の胸から、すうと小さな玉が浮かび上がった。一目でわかった。淡い緑に輝くそれは、彼の魂だ。




 ゲンゴは何度も何度も確かめて、涙を流して、良かった、良かった、とハナを抱き締めた。
 ハナの父親は、真実を漸く口にした娘を一言叱るなり家を駆け出た。だがシラウは、既に村を出た後だった。


 シラウはナギの作ってくれた新しい袋を首から下げて、林の中を進んでいた。袋も紐も鹿の皮だから丈夫だよとナギは言った。
 わずかばかりの食料と金もナギは持たせてくれた。要らないとシラウは返したのだが、返すなら捨てるよ、とナギは言ったので。
 緑色の玉は新しい袋を気に入っているのか、旅立ちを喜んでいるのか、浮き浮きとしているようだ。シラウも、早目に村を出ることになって良かったのかもしれぬ、と思う。余り一つところに留まると、もしかしてまたあの不愉快な追手がやって来るかもしれぬのだ。


 ナギはシラウを見送って、野っ原をゆっくりと村に向かって歩いていた。村の方向から見知らぬ男が歩いて来るのに気付いたが、自分に用のあるはずもなし、と知らぬ顔をして行き過ぎようとした。
 男は見慣れぬ姿をしていた。偶にやって来る行商人とも違う格好だ。腰の上と下で分かれた服は、革とも布とも違うもので出来ているようだ。短めに刈った髪は、きっと都風なのだろう。不自然な薄い色をして、風景にそぐわない。
「……おい女」
 男はナギを呼び止めた。
「体格も歳も俺と同じ程の、若い男が来なかったか」
 もしやと思った。ここにやって来た時のシラウの姿がぼろぼろだったことを思い出す。
「……さあねえ」
 ナギは咄嗟に嘘を吐いた。
「ほお?」
 男は目を眇めた。惚けた口調で言葉を続ける。
「村の連中が言ったことはじゃあ嘘か。嘘はいかんな嘘は。お仕置きしといて正解だった」
 ナギは瞬き、男を睨んだ。男は口端を上げた。笑ったようだ。
「俺は優しい男なんだ。お前が正直に答えたら、村の皆殺しは避けられるぞ。……シラウはどっちに行った」
 男はきっと、とんでもない大ボラ吹きに違いない。皆殺しなどがあったのなら、ここまで悲鳴の一つも聞こえてこぬ訳がない。何という不愉快で不謹慎なホラ吹きなのだ!
「知らないね! 知ってたって教えるかい!あんたみたいなやな奴にまで親切出来る程、こちとら人間出来ちゃいないんだよっ!」
 ナギの憤慨をどこ吹く風と男はぽりぽりと頭を掻く。
「教えてくれねえかなあ。頼むよ。あいつは御門(みかど)の宝盗んだ罪人だぜ? 逃がしたってあんたの得にゃならねえ」
 ナギは耳慣れぬ言葉に一瞬瞬いた。御門。そういえばそんなお人が世の中を仕切っているとかいないとか。自分達の生活とは普段何の関わりもない、せいぜいが天の雲の上の出来事である。ナギにはそんな作り事臭い名前より、実際に見て触れたシラウが罪人扱いされたことの方が、はっきり嘘だとわかるのだ。
「……シラウが盗人? 馬鹿言っちゃいけないよ!」
 やっぱり知ってるんじゃねえか。この村の人間は嘘吐きばっかりだ。男は呟き、溜め息を吐く。
「嘘吐きはどっちだい! 村のもん皆殺しにしただって? あたしゃ家を空けたのはせいぜい一時さ! 脅すんならもっとましな嘘吐くんだね!」
「……やっぱり無駄な説明だったか」
 男はその辺の蠅でも追うような動きで、ナギの頭に腕を伸ばした。男の手に額を掴まれた途端、どういう訳か、ナギは動けなくなった。
「もう一遍だけ尋くぞ。言ったろ、俺は優しいんだ」
 ナギは男から離れたいのだ。
「……シラウはどっち行った?」
 ナギは口を開けた。声は出なかった。
 男は舌打ちをした。皆殺しか。しゃあねえな。
 男の指に、何かを吸い取られるような感覚があった。多分その瞬間、ナギの心臓は止まったのだ。なのにどういう訳か、少しの間意識はあった。ナギの体は地面に倒れ、男が向こうか、と呟く声が聞こえた。
 シラウが行った方向に男が去って行くのを感じながら、ナギは逃げな、逃げなシラウ、と考えていた。村にいるはずの亭主や息子が死んでしまっているなど、ナギは信じることができなかったのだから、自分が死に行くことも理解できないでいるナギが一番に案じるのは、シラウのことであったのだ。


 山の斜面を越える頃、シラウは足を止めて振り向いた。
 気のせいか。そうしてシラウは目を眇め、奥歯を噛み締めた。違う。気のせいではない。背中を上って来るこの嫌な感じに覚えがある。あれは彼の玉と一緒に町を出て三日目。初めて知らぬ町の宿屋に泊まった日の朝のこと。
 目を凝らす先に、人の姿が小さく見えた。やがてそれは見知った男へと影を整える。
「よ。久し振り」
 不吉な男はシラウが立ち止まって自分を見ていると知り、軽々にシラウに手を上げ、あいさつをした。シラウを眺め、男は笑う。
「……伸びたな。髪が」
 シラウは唇を曲げ男を睨んだ。シラウの不安などは無視して、男はずんずんとシラウに近付いて来る。
「……まさか」
 シラウは呟いた。
「あ? なんだって?」
 まさか。
 あれはその町をも逃げ出して、漸く落ち着いた海辺の村でのこと。
 この男を見たのはその二回、これで三度目だ。今までの経験が、今度もそうだとシラウに教える。
「まさか……まさか君はまた……」
 握り締める拳が震える。男は瞬き、ああ、と口の端を上げた。
「ナギ……だったかな? 最後の一人は」
 シラウの泊まった宿屋の主人は無理に引き起こされた心臓発作で息を引き取り、それを見ていた他の客達も細く長い針のようなもので刺されて全員が死んだ。
 シラウに親切にした漁師達は砂浜に赤い血を撒き散らし、泣き喚く赤子の咽は煩いとばかりにぱくりと裂かれた。
 シラウの体はわなわなと震え、怒りの痛みに涙が滲んだ。
「どうして……どうして君は……」
「いい加減覚えてくれ。俺はセージだ」
「どうして君は僕からいろんなものを奪(と)るんだ!」
 叫ぶシラウに、やれやれとセージは耳を掻く。
「そんなつもりはねえ。俺が取り戻したいのは、お前が胸に下げてるその玉だけさ」
 セージは右手の人差し指でシラウの胸の辺りを指す。
「お前が怒るのは筋違いってもんだぜ。俺は仕事でやってんだ。お前がさっさとその玉ぁ渡せば、何も俺だってしたくもねえ人殺しする必要はねえ。どいつもこいつも罪人庇って口を割らねえから命を落とすことになんのさ。ほら、いいから御門の玉、寄越せ」
 掌を上に向けて差し出すセージを、シラウはきつく睨み付けた。
「……ふざけるな。御門なんて人は知らないし、僕は罪人なんかじゃない。殺された人達は死ぬ必要なんかなかったんだ。勝手に殺したのは君じゃないか。もう訳のわからない理由で付き纏うのは止めてくれ。僕は君が大嫌いなんだ」
「好き嫌いじゃねえんだよ。わからねえ奴だな。仕事だって言ったろ。追っかける理由も言ったはずだぜ。いいからその玉こっちに寄越せ!」
 シラウは噛み付くように声を絞り出す。
「……この玉だけは譲らない」
 セージはそれに憎々しげに答える。
「……たとえ他の人間全てを殺されても……か。とんでもねえ罪人だ」
 セージは軽く首を左右に曲げる。
「……そうだな。お前は罪人じゃねえかもしれねえ。自分の役目を忘れちまった人形だ。壊れた人形には自分が何してるかなんてわからねえだろうしな」
「前にも言った、僕は人形じゃないし、壊れてもいない!」
「壊れてる奴は自分が壊れてるなんて気付かねえもんさ」
「違う!」
「壊れた人形は、処分されても仕方がねえな……」
 指をぱきぱき鳴らしたと思うと、セージは腕を素早く振った。右の袖口から飛び出した細い針のような剣の切っ先が、シラウの胸元を掠めて過ぎた。
「あっ……」
 シラウの着物の胸元はぱっくりと裂け、ナギが丈夫だと言って作ってくれた鹿の革の紐も一緒に切れた。セージは器用に剣先を操り、ほんの一瞬宙に浮いた玉の袋を手元に引く。
「っ返せ!」
 咄嗟に伸ばすシラウの手は届かず、袋はセージの手に握られた。
「馬鹿言え、こっちが返してもらったんだ」
 玉を掴むセージの左手にシラウは突進する。
「お前は役立たずだ。俺の仕事の邪魔をするな」
「シュルヅくんを返せっ!」
「言ったろ、これは<シュルヅくん>じゃねえ」
「違うっ!」
 わからねえ奴だ、身を引きながらセージは吐く。シラウはひたすら左手を追う。
「返せ! 僕からシュルヅくんを奪るな!」
 たった一つのおもちゃを取り上げられた子供でさえ、これ程我が儘に叫びはしないだろう。シラウはぐしゃぐしゃに泣いている。堪らないのだ。痛くて堪らぬ。引き離されるのが、血肉を裂かれるより。
 セージはシラウの顔を不機嫌に見た。怒鳴るように吐き捨てる。
「てめえはてめえの仕事も同僚も忘れやがって! 思い出せねえならせめてじっとしてろ!」
 細い剣が、シラウの顔面に振り下ろされる。瞬間聞こえたのは、シラウの<声ではない声>。
『こわれろ!』
「……?!」
 シラウに触れる前に粉々に砕け散った剣の屑を、セージは愕然と眺めた。
「まさか……お前力が、戻っ……」
 シラウは両手を突き出した。セージは腹の内側に衝撃を受け、玉を握る手が緩んだ。
「がっ」
 そのまま、遥か後方に弾け飛ぶ。地面に叩き付けられて、セージはがはがはと咳をした。
「……っの野郎……記憶と一緒に力も無くしたと思って手加減してやってりゃあ……思いっきり吹っ飛ばしやがって」
 シラウは地面に落ちた袋を拾い、大事そうに胸に抱える。セージは半身を起こし、咳と一緒に出た唾液を手の甲で拭ってシラウに怒鳴った。
「いい加減思い出せ馬鹿野郎! てめえはその力で御門の御魂(みたま)を守り届けるのが仕事だろうが!」
「御門なんて人は知らない!」
 俯いたままのシラウの即答に、セージはぎりりと歯を鳴らす。
「殴るぞ、てめえ」
「殴られたって、シュルヅくんは渡さない」
 誰にも、邪魔なんかさせない。
 呟き、シラウはセージに背を向け、離れて行く。セージは体に力が入らぬようだ。「待て」「チクショウ」という声をシラウの背にかけるだけで、追い掛けては来なかった。


 切れた鹿の革の紐を結び直して首から掛けると、丁度切られた胸の傷に袋が当たった。
「……ああ、血が着いちゃったなあ……」
 切られて滲んだ血が鹿の袋に着いた。シラウは眉を寄せ、ごめんよ、シュルヅくんと謝る。傷が擦れて痛むのは構わぬが、彼の玉が血に汚れるのは嫌だ。
 シラウは袋を着物の外に出し、握り締めた。
「何処までも一緒に行くよ。シュルヅくん」
 手の中で、玉が淡く光ったようだ。彼がそれを望んでいるのだと思い、シラウは嬉しくなって微笑んだ。




 ったく誰がてめえの尻拭いしてやってると思ってんだ。
 セージは憎々しげに呟く。内臓の痛みにかはっと胃液を吐く。
 少しの間、シラウとは同僚だった。都を警護する軍隊のセージと同じ部隊に、シラウは中途入隊して来たのだ。
 武人というよりも文人のようだとセージは思った。体は確かに自分と同じ程にも立派だが、およそ争い事には不向きだと思えるシラウに、入隊以前は何をしていたかと尋ねたことがある。確か大学で学問をしていたのだとか言われて、やっぱりなと思った覚えがある。
 シラウに実は特別な任務が与えられていたのだと知ったのは、シラウがその任務を逸脱したから援護しろとセージに仕事が回って来た為である。シラウの特殊能力に付いて教えられたのもその時だ。
 シラウは故障しているが、シラウの完全なる破壊、機能停止は禁じられた。生かしたまま連れ帰れということだろう。正当なる任務と一緒に特殊能力も忘れたシラウ相手ならば、それも出来たはずだった。
 シラウの力を実際に食らったのは初めてだ。打たれた直後もだが、後に引くダメージが大きい。通常の人間なら飯が食えなくなるか、悪くすれば死んでいるかもしれない。
 与えられた題目通りに仕事を遂行する為には、手を打つ必要があるだろう。
 セージは近付く足音を、胸が悪くなりながら聞いた。
 都は、ちゃんと何処かで見ているのだ。
 シラウの動きも、自分の動きも。もしかしたら、ただの民間人の生き死にさえ。
「へえ。立てないセージを見るのは初めてだ」
 腹を摩るセージの前に、おかっぱの髪の人形のような顔をした女が立っていた。
「……なんだてめえが来たのか。胸クソ悪ぃ」
 えらい言われ様だね。吐き捨てるセージの言葉に、女の表情は変わらなかった。




 幸い雨が降る気配も無かったので、シラウは林道を少し外れた巨木の根本を一夜の宿に決めた。
 ここならば、万一あの不愉快な追手がやって来たとしても、巻き添えになる村人はいない。シラウはごろりと体を横たえた。枝に生え揃い始めた葉の間から、空の星が見える。
「……きれいだね」
 シラウは呟いて目を閉じた。その夜、シラウは幸せな夢を見た。


 シラウは寝入り端を揺さ振り起こされた。
「シラウ、シラウ起きて、流れ星だよ」
「……え?」
 暗い部屋の中、シュルヅがとても楽しそうにシラウを揺すっているのが見えた。
 シラウの部屋はシュルヅの隣だ。無理に頼み込んで側に置いてもらってから、物置だった部屋を使うことを許され、シラウは自分で住めるように片付けた。
「ほら、早く、終わっちゃう」
 シュルヅはシラウの腕を掴んでぐいぐいと引っ張るのだ。シラウは半ば寝ぼけて、シュルヅの引っ張るままに外に出た。寝ぼけてはいるが、彼が自分を掴んでいるのだという幸せはぼんやりと感じている。
「ほら」
 シュルヅは空を指差した。
「……うわあ」
 流星群という奴なのだろう。空を幾筋もの光る糸が流れて行く。シラウは完全に目が覚めて、シュルヅと共に空を見上げた。
「お願い」
「え?」
「流れ星に叶えてもらおう」
 言って、シュルヅは目を閉じ、指を組んだ。シラウの隣で、じっとそうして祈っている。
 静かな青い夜だ。シラウよりもずっと小さなシュルヅの体が、流れる星に照らされてぼんやりと見える。シラウの、すぐ傍らに。俯く顔はよくは見えない。けれどもシラウにはこの世で唯一の神聖なものと見える。シラウは暫くシュルヅの顔を見つめてから、自分もシュルヅのように目を閉じた。
 シラウが目を開けた時、星はもう流れていなかった。シュルヅがシラウの顔を眺めていて、「何をお願いしたの?」と尋ねた。
「……シュルヅくんと、ずっと一緒にいられますようにって」
 シラウは少し照れて答えたのだ。だがシュルヅは目をぱちくりとさせて、「なんだそんなこと」と言ったのだ。
「え?」
「星に頼むんだから、もっと別の事にすれば良かったのに」
「え……だって」
 シラウの望みは、他にあろうはずも無いものを。
 シュルヅは笑うのだ。
「だって、それはもう決まってることじゃないか。せっかく星に頼むんだから、叶いそうもないことにすれば良かったんだよ」
「……」
「え? どうかした?」
 シラウは、はたはたと泣いていた。
「あ……あれ? 泣くつもりじゃないんだけど……なんだかうれしくて……」
 シュルヅは微笑う。優しく。優しく。
「シラウは泣き虫だね」
「うん。……ごめんね、シュルヅくん」
 涙を擦って、シラウも笑う。ぐすんと鼻を一つすすって、今度はシュルヅに尋ねた。
「シュルヅくんは、どんなお願いしたの」
「俺? 俺はね」
 静寂を取り戻した空を見上げて、内緒、とシュルヅは呟いた。
「え、そんなのずるいよ、僕はちゃんと言ったのに」
「あはは」
 約束が、守られますように、って。
 シュルヅは、小さく答えた。
「……約束?」
「……忘れられた約束でも、守られたらいいな、って、思ったんだ」
 シュルヅはシラウの寝巻きの袖を握った。
 空の星からシラウの顔に、視線を降ろす。
「守ってね」
 微笑んで言った一言は、一体何を伝えたいのだろう。
「……守るよ。シュルヅくんのことなら、僕はどうしたって守る」
「うん」
 シラウの真剣な言葉と眼差しを、シュルヅは軽く受け流す。シュルヅは再び空を見る。シラウの袖を握ったまま。
「……シュルヅくん。どうして僕を起こしたの? お父さんは、寝てるんでしょう」
「シラウは、俺と星を見たかっただろ?」
 にこりと笑ってシラウを見た。
 ……ああ。自分は彼が好きだ。このまま、 このまま彼と、ずっと、ずっと――星よ。
「……うん。起こしてくれてうれしい。シュルヅくんも、僕と星を見たかった?」
 笑っただけで、答えなかった。答をもらうことは、過ぎたことなのだと、シラウは自分で考えていたので。
 放されない袖が、それだけでシラウには幸福だった。




 シラウを呼ぶのは、女の声だ。
「起きて。シラウ――ごはんできてるわよ」
 いい匂いがする。朝食の支度が整っているのだ。ベッドの上に身を起こして、シラウは拳で目を擦った。
 ……おや?
 自分はベッドで寝ていたろうか?
「起きた? やあね、寝ぼけた顔」
 女の声が近付いて来る。女の顔。知っている気がする。誰だったろう。
「……シュルヅくんは?」
 惚けたまま呟いた。女はぱちくりと瞬く。そうして軽く吹き出し、優しく微笑む。
「また寝ぼけてる。でもシラウのそういうとこ好きよ」
 子供みたいで可愛くて。女はシラウのベッドに腰掛けて、シラウの頬に口付けをした。ああ、そうだ。彼女の名はミツキ。自分の妻だ。
「いい加減夢の世界から戻ってね。シラウの好きなスープが冷めるわ」
「……ミツキ?」
「そうよ」
 やあね、ほんとに寝ぼけてる。
 ミツキは苦笑し、夕べあたしを抱き締めたことも忘れたなんて言わないでよ、とシラウに抱き付いた。
 柔らかい体。いい匂い。
「……ああ、そうだっけ。夕べは……」
 ……本当に僕はこれを知っているか?
「シラウ?」
 眉を寄せたシラウを見て、重傷ね、とミツキは言った。
「いいわ。シラウが寝ぼけるのは初めてじゃないもの。何処から思い出そうか? あたし達が結婚したとこ? それとも……とりあえず夕べのこと? それでもいいけど、ご飯が冷めるわ。先に食べちゃって。今日は休みでしょ? 夕べのこと思い出すのはそれからでもゆっくり出来るわ」
 髪の長い、きれいに化粧をした女の顔が近付いて来る。女の口がシラウの口に、頬に、触れた。
 違う。
 何が? 何が違う。
 シラウは首に回された女の腕をそっと外す。女は微笑んだ。
「ご飯にしましょ」
 シラウが触れたいのはこの女ではない。
 女は立ち上がり、シラウが付いて来ないのに気付いて立ち止まった。
「どうしたの?」
 誰だったろうか。一体、誰だ。
「……誰だ」
 女は怪訝に目をしばたかす。
「君は、誰だ。君なんか知らない」
「……何言ってるの? ちょっと、嫌よシラウ」
 一体誰だった? 目が覚めて、最初に呼んだ名は。
 誰だ。自分は誰を忘れている。
「シラウ、しっかりして。結婚したばかりのお嫁さんのこと忘れちゃったの?」
 目が覚めて、この女に尋ねたのは誰のことだったろうか。いや、違う。自分は目が覚めていないのだ。こんなことは違う。違う、違う、違う―――
「好き合って、やっと結婚したんじゃない。新居だって構えて、あたし達、幸せなのよ。このままずっとこの生活……」
「嘘だ。君なんか知らない」
「シラウ!」
 シラウは首を振る。
「やめろ! 勝手に僕の中に――」


『はいるな!』

「ギャッ!!」
 バキンと音がした。見ると、人形のような美しい女の顔がひび割れている。セージは身構えると同時に、腹の中でざまあみろ、と考えた。
「うううう……」
 顔を抑え、おかっぱの髪の女はよろよろと後退る。その向こうで、木の下に横たわっていたシラウの体が、むくりと起き上がった。酷く汗をかいている。夢食いの攻撃を受けて、著しく心力を消耗している。それでもこちらを睨み付けるシラウの目は、大事なものを奪われそうになった恨みを激しく訴えていた。
「失敗したな。マナキ」
「おのれ……おおのれええ……」
 セージの声は聞こえぬようだ。美しい仮面を打ち砕かれた恨みで、こちらもシラウをしか睨んではいない。押さえる手の隙間から、ぽろぽろと仮面の欠けらが砕けて落ちた。
「よくもッ! オノレっ!」
 ふーっふーっと荒く息をするマナキは、怒りで己を見失っている。シラウを生かしたまま捕らえて玉を奪う為にやって来たはずのマナキが、このままではシラウを私怨で殺しかねない。
「……お前だな、シュルヅくんを奪り上げようとしたのは」
 シラウは体を巨木に預けて立ち上がる。憎くて叶わぬとマナキを睨み付け、歯をぎりりと噛んで、悔しそうに怒鳴った。
「……それでも殺したら、シュルヅくんが悲しむ。僕に構うな、向こうへ行けっ!」
「ふざけるなあああ!!!」
 パキパキとマナキの体が崩れ落ちる。
「お前が俺を殺すだと! 殺してやるのは俺の方だッ! よくも、よくも俺のカラダをおおおッッ!」
 絶叫と共にマナキの体は壊れ、内側にいた小男の姿が露になった。それがマナキの本体だ。
「お俺のカラダっ! 美しい俺の体、返しやがれてめええ!」
 病的に痩せた、肉の殆ど付いていない体に黒い衣を纏って、マナキは弾丸のようにシラウに突っ込んで行く。
「都の覚えめでてえてめえに、せっかくいい夢見せてやったってのによおおお! バカヤロウガアア! こんなことなら生きながら虫に食い潰される夢でも見せてやりゃあよかったぜええ!」
 カスが、とセージは口の中で吐き捨てる。
 死なれては困るが邪魔だという人間の処分に、マナキの力は使われる。自ら命を絶つことも出来ない犠牲者に、マナキは好んで残酷な夢を使う。それを知っていてマナキを使う都の上の人間も、セージは胸クソが悪いと思う。
「……いい夢なもんか!」
 シラウは血を吐くように怒鳴る。
「シュルヅくんを忘れて、どうしてそれがいい夢なんだ!」
「……だったらお前が『シュルヅくんと末永く幸せに暮らしましたとさ』ってな夢だったら、お前はそれでいい夢なのか?」
「……!」
 口を挟んだセージの言葉が、シラウの動きを止めた。シラウの半分程しかないマナキの体が、シラウの腹に突き刺さる。飛びすさりざま、マナキは爪でシラウの首を切り裂き、紐の切れた玉の袋を鷲掴んで離れた。
「っ返せえっ!」
 吹き出す首の血にも構わず、シラウはマナキに腕を伸ばす。マナキは耳障りな音で甲高く笑う。必死なシラウの様子をあざ笑う。
「欲しいか! 欲しいか! ひひゃひゃ、いいザマだ! お前に似合いの夢をやろう! 動けぬお前の目の前で<シュルヅくん>が大勢に汚されまくるのと、お前と二人、生きながらウジムシに食まれるのと! さあ、選べ!」
 シラウの顔が、怒りと憎しみと嫌悪に引き歪んだ。
「べっ!」
 だがシラウのその表情は一瞬だった。茫然とした驚愕で見るその先は、マナキの顔が脳天から下顎にかけて、セージの細剣に串刺しにされる絵だった。
「にゃ……、にゃんで、だ、セージ……」
 背後のセージを振り向きも出来ぬマナキの問いに、セージは無表情に答える。
「悪ぃな。俺あ前っからてめえの脳味噌は嫌いだったんだよ」
 セージが剣を放すと、マナキはそのまま地面に崩れた。血の一滴も零しはしない殺人を、シラウは信じ難いという眼差しで見ている。
「……君の、仲間じゃないのか……」
「そうだ。お前の仲間でもある」
 シラウは、違う、と叫ぼうとしたのか。
「一つ教えろ。さっきの質問だ。……お前が『シュルヅくんと末永く幸せに暮らしましたとさ』ってな夢だったら、お前は……」
 シラウは目を見開く。息を飲む。セージはそれにイエスを見た。
「……だったらてめえにこれはいらねえな」
 セージは身を屈め、マナキの握る袋を取った。シラウは浅い息を繰り返しながら、セージが袋を取るのを見ている。セージの手の袋を、セージの懐に仕舞われる袋を、じっと目で追う。
「……さあ、お前も一緒に来い。壊れたとこを治してもらえ。そうすりゃあ『シュルヅくん』なんて夢も忘れて、元に戻れる」
「……治す?」
「ああ。もしかしたら、お前の望み通り、『末永く幸せに』ってな夢を見せてもらえるかもしれねえぞ。都の学者に治してもらえ」
「……」
 シラウは口を震わせて、玉の袋の仕舞われたセージの懐から目を反らさぬ。目を眇め、瞬き、でもそれは夢だ、と呟いた。
「……あ?」
「シュルヅくんは本当にはいない。……苦しいんだ。ほんの少し離れただけで、こんなに苦しい」
「だからそれを忘れさせてもらえってんだよ。苦しいのは首の傷のせいだろ。深そうだ。それも治してもらえ」
「嫌だ」
「何?」
「僕はシュルヅくんとの約束を守る。君がシュルヅくんを返してくれないなら、僕は君を殺してでも取り返す」
「……あのなあ」
 セージは歯を剥いてシラウを睨み付けた。シラウはセージの懐から目を反らさぬ。ぱりぱりと、シラウから押し寄せるのは殺気か。シラウが一歩を踏み出した。セージは自分が一歩引いたことに驚いた。
 初めて入隊して来たこいつに会った時に、何故文人だなどと思ったものか。目の前のこいつは、一流の殺人者にひけを取らぬではないか。
「シュルヅくんを返せ」
 目を合わさずに歩み寄るシラウの殺気が、セージに剣を抜かせた。袖口から振り出した剣先が空を切り、僅かにシラウの髪を宙に舞わせる。シラウの体は沈み、セージの懐に腕を伸ばす。セージは引くのを懸命に堪えた。
 シラウと目が合った。瞬間、急所を外して攻撃することが不可能になる。殺らなければ確実に殺られる。ぞっとする確信が突き上げて、セージは剣先をシラウの眉間に向けた。
 切っ先がシラウの額に届くかという時。
 目的を一にした機械のような目が瞬いて、それはシラウの顔に現れた。
『この者の生命活動を完全に停止させることは罷りならぬ』
「―――?!」
 それは。
 逆らうことを許さぬ、絶対的なもの。
 再びシラウが瞬きをした後には消え失せていた。
 セージは無意識に切っ先を反らした。セージの剣など見えていないかのように踏み込み、歯をぎりと噛み縛ったシラウがセージの胸を激しく掌で打つ。まともに食らった。この時、死んだと思ったのだ。だが地面に激しく叩き付けられた身は、せいぜい呼吸がままならぬ程度であった。シラウは、仰向けに転がるセージの上に屈み込み、懐を探る。
 セージは、おい、と言いたかった。
 今のは何だ。そう尋ねたくとも声が出ぬ。
 果たして尋ねられて、シラウは答を持っているものか。
 シラウの首から垂れる血がセージの顔に落ちた。シラウの頬に付いた新しい傷は、今セージの剣で切ったものだろう。
 セージの上で、シラウの顔は忽ち安堵と幸福に緩む。玉の袋を見付けたのだ。
 もう二度と来るなとも、付き纏うなとも言わず、シラウは袋を持って立ち去って行く。振り向きもせず、シラウはきっともうそれで、何の過不足もないのに違いない。
 セージは懸命に呼吸をして、消えて行くシラウを見送った。
 知っていると思った。セージが一瞬、本気でシラウの命を奪ろうとした時、シラウの顔に現れた、あの人物を。
 ――御門だ。
 セージは御門に会ったことはない。だが、シラウの言葉を借りてあの瞬間にセージに命令を下したのは、間違いなく御門だと確信がもてる。
 確信がもてる自分が信用ならなかった。都は、御門は、シラウに、自分に、何をしたのだ。




(続く)


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