「有形の幻」

・第3回(最終回)・

「ここだけ劇場」へ戻る


 この世界は重篤だ。
 セージ自身、都に足を踏み入れるのは随分と久し振りであった。
(……つまんねー街だぜ)
 いつからこの街の人々の目が死んだ魚のようになったのか、セージには記憶がない。最初からこうだった気もするし、シラウを追って出掛ける時に初めて気付いたような気もする。
 いずれにせよ、都の権勢は傾きつつあるのだ。いや、実はとうに崩れ去っているのかもしれない。昔の幻にしがみ付く人々が、街も身も滅びた今も、夢を離れ難く、この場所に漂っているだけなのかもしれぬ。
 都に向けて戻りながら、セージは気付いた。シラウと玉を追って通った町や村には活気があった。例え貧しくとも、人の心が活き活きとしていた。
 しかもそれは、行きと帰りで違っていた。セージが皆殺しにした場所はともかくも、ただ通り過ぎただけの村でも、シラウと玉の後を行った時の方が、都に戻るセージが通る時より遥かに人々に力があった。
 御門の玉の影響か。あの玉の近くにあれば人は力を得られると言うのなら、この都の衰退は、明らかに御門不在のせいである。一刻も早く御門の玉をあるべき場所に戻さねばならぬ。それはシラウの役目であり、セージの役目であるのだ。
 ならば何故御門はセージの邪魔をしたのだ?
 玉の仕業にしても、シラウに組み込まれたものだとしても、あの時セージを止めたのは明らかに御門だ。
 御門が世界の潤いなら、玉が永遠に失われれば、世界は渇いて滅びるだろう。
 それは別にセージにはどうでもいいことである。自分の警護する都がどんなにくだらない場所であっても、己に与えられた仕事が遂行出来ればそれで良い。
 セージは生まれた時から兵士であった。そう生まれた時から。セージには兵士になる以前の記憶がない。生まれた場所も親の顔も小さい時に好きだった女の子の顔も覚えてはいるのだが、それらはどうにも他人の記憶の借り物という気がしている。だからセージは、自分は生まれながらの兵士だと思う。ぼんやりと、そう決めたのは御門だという気がしている。
 御門は自分を兵士にしておいて、その仕事を邪魔したのだ。
 その理由だけは、セージは確かめずにはいられなかった。


 死に行く世界を、御門は見限ろうというのだろうか。
 何処へ行っても、世界の中から出ることは叶わぬというのに。
 世界が滅びれば、人はもちろん、御門とて共に滅びるしかないものを。
 何を、望んでいるのだろう。
 シラウは、望んでいるのだ。御門の玉と共に在ることを。あの馬鹿野郎は、あれを<シュルヅくん>とかいう子供の魂だと思っている。何処で何を間違えたのか。
 それとも、あいつは間違わされているのか。誰に。何の為に。
(――胸クソが悪い)
 踏み締めるこの足下もでたらめに思えてくる。セージは初めて御門の宮殿の中を歩いている。たかが一兵卒のセージに許可が下りるとは実は思っていなかった。セージは御門に謁見を申し込んだのだ。
 実際に御門に会えはしないだろう。大体が今御門は魂が不在なのだ。公表はされていないから、御門に会いたいと言うこと自体は可能だ。適当にエライ人が出て来て話を聞いてくれるというだけのことなのだろうが、それにしても、仮にも世界の中枢御門の御許で、宮殿の中に入って、誰にも出会わぬのはどういう訳だ。大概都も死んだような街だと思っていたが、この中はまるで<死に絶えている>。生きた者の誰もない棺の中にセージを招き入れて、この死んだ箱は何を企んでいるのだろう。いいや、企みも感じぬ。この場所は死んでいる。
 行け、と指示された部屋に辿り着くまでは、セージは本当に二度とこの場所から出ることは叶わぬのだと信じるところだった。
 その部屋には、幽かに息吹が在った。しょっちゅうではなくとも、使用されているとわかる。広いが、殺風景な部屋。宮殿の中というより罪人の部屋だ。それでもセージは知らず息を吐いた。
 何処かで、セージが辿り着くのを見ていたのだろう。待つ程もなく、奥のドアが開いた。ゆっくりとドアを鳴らして現れた、宮殿に入って初めて出会うその人物の顔は、
 ―――シラウだった。
(……なっ―――)
 セージは目を見開き、口を開いた。信じられぬ。シラウのはずがない。シラウは玉を連れて都を離れ、自分は一旦追うのを止めて真っ直都に戻って来たのだ。
 睨むように見入るセージの顔に、彼はふっと微笑んだ。
「驚いているね。まあ仕方がないけれど」
 シラウではない。どうやら本当にシラウではない。
 髪を短く整えて、眼鏡を掛けて白衣を着たその男は、兵隊になる前は学問をしていたと言ったシラウの言葉を思い出させた。
「君がここに来た理由は分かってる」
 だがこれはシラウではない。一目見た時には仰天して気付かなかったことにセージは気が付き始めた。
 目が。
 眼鏡の奥の表情が。セージを見る、語る眼が。
 シラウの眼は、こんな風に荒んで、諦め切ってはいなかった。
 玉を抱えて見せる微笑みは、本当に心(しん)から幸せそうだった。
 この男の微笑みは、見る者までを絶望させる。
「……あれは、壊れてなどいない」
 セージははっと瞬いた。それがシラウのことを言ったのだと気が付いて、初めて男に口をきいた。
「……どういうことだ」
 男はにこりと微笑むのだ。その表情が、殺風景な寒い部屋に似合う。
「言葉通りだ。あれはあのようにプログラムされている。自分の役目を、きちんと果たしているんだよ」
「……」
「君もね、セージ」
 セージはぴくりと眉を上げる。
「奇しくも君はあれのことを人形と言った。あれが人形なら、君もそうだよセージ。……ほんの少し意外だったのは、君が予定より早くここへやって来たこと。それだけ君が仕事熱心だということだ。でも安心していいよ。君の役目に変わりはないから」
「……ちょっと待てくそったれ」
 セージは汗をかいている。嫌な汗だ。男は涼しい顔でそれを眺める。
「俺が人形だ?……てめえ、シラウと俺に何しやがった。御門の御魂使って、何企んでやがる?」
「……知らなくていいんだよ。君の役目に変わりはないから」
「――ふざけんな!」
 激するセージに男は笑う。
「本当に君は……君が寂しそうにしてるから仕事をやったんじゃないか。……ああ、あれは君じゃないね。ごめんごめん、混乱させたかな。フフ」
 男は楽しそうに見える。その笑いが何処か純粋で、歪んでいる。御魂を抱えて壊れたように幸せに笑うシラウと同じものに見えて、セージは吐き気を覚えて、ぶるりと震えた。
「どうした? セージ。まさか君が疲れた?」
「あんた……何者だ……」
 僕? と男は、優しく……多分、優しく、笑ったのだろう。
「僕はシラウだよ。知っているじゃないか」
 眼鏡の奥の目を細め、<シラウの真似>をしているように見える。
 一体、何が本当だ。
 白衣の男は、医者が病人にするように宣告した。
「さあ、もう時間だ。お帰り、セージ。君の出来ることだけをして、無理をしないようにね」
 僕に噛み付こうとするから、疲れただろう?
 男は微笑む。無理はいけないよ。壊れたくなければね。
 セージは汗をだらだらと流し、口を開けた。尋きたいことはまだ沢山あるのだ。だがスイッチが入ったように、意に反して足は男に背を向ける。男は笑って見送っている。
 そこからどうやって宮殿の外に出たものか、全く以て記憶になかった。


 この宮殿に動くものが自分達以外に無くなって久しい。久し振りに訪れた生者……玩具ではあったが……が帰って行くのを見送って、白衣の男は殺風景な謁見の間を後にした。
(ああ、そうだ、武人のメンテナンスをしなくては)
 中指で軽く眼鏡を押し上げ、毎日足を運ぶ部屋の一つに向かう。
 その部屋に入る前から、幽かな振動音が床を這っていた。
「……やあ、誠二」
 白衣の男は、笑顔で部屋の住人に声を掛ける。しかし彼は男の笑顔は見えていないだろう。部屋一杯にまるで繁殖したような機械に繋がれて、彼は椅子かベッドかわからぬ物の上で虚ろな顔をしている。彼の耳に届くのは、白衣の男の声のみだ。
「……ああ、志朗か」
 僅かに唇を動かし、起伏の無い声で答える。半開きの眼は天井を眺め、何も映すことはない。歩み寄る男の足音は彼の脳に届かぬ。年老いた老人。しかし虚ろな男の顔は、セージにそっくりだ。
「御門は御健勝か」
「これからお伺いするよ。君が守ってくれる
お蔭で都は安泰だ。御門は労っておられた」
「有難い」
 彼が見ているのは造られた現実。脳に直接映し出される偽りの世界。
 白衣の男の造り出した、仮想の空間。
「今日は西で小競り合いがあった。俺の小隊一つですぐにけりは着いたが」
「さすがだ、誠二」
 男は、話しながら武人の体に繋がる機械を弄る。彼は自分が現実で何をされているのか、知る由もない。
 彼が見ているのは、華やかな宮殿で古い友人と一日を語り合う場面だ。
「どうだ、久し振りに今夜は飲まないか」
「ああ、いいね」
 男は機械を整え、動かぬ武人の側から立ち上がる。
「後で僕が行こう。じゃあ御門の御機嫌伺いに行って来るよ」
 ああ、と彼は虚ろに答える。部屋を出て、白衣の男は耐えがたいというようにくすくすと笑った。
「……誠二、誠二。君のコピーはとても君に似ているよ。素晴らしい出来だ。……君に見せられないのが残念だね……」
 そして廊下で立ち竦む。
「……僕のコピーは……やはり僕にそっくりなんだろうな……」
 歪に笑う。
「……さて僕の場合は、どちらがコピーなんだろうね。……もう、確かめる術がないんだよ」
 聞く者もない宮殿の中で、男は一人言を続ける。もう随分前に身に付いてしまった癖だ。誠二を機械に繋いでから、宮中を自由に歩き回れるのは自分だけになってしまった。この時の止まったような歪んだ空間の中で、一体誰が正常な精神を持ち続けられるというのだろう。
「……あなたの望んだことですよ。御門」
 志朗の笑顔は壊れている。壊れ始めた時はわかっているつもりだ。
 あの時。御門が自分を置いて逝ってしまった時。
 いいや、もしかしたら、幼い少年の彼に出会ってしまった時から、既に。
「……あなたは僕に永遠の命を与えた。……永過ぎる約束です。何て永い……」
 その部屋の中には、棺が一つ。
「……残酷だとは、思いもよらないのでしょうね」
 志朗は棺の中に語り掛ける。
「あなたにとっては、世界も、時間も、蚤の命も、宇宙の命も、全てが等しい。多分あなたはこの世界そのものだ。そんなものに恋してしまった僕を、あなたは哀れと思ったのでしょう」
 横たわるのは一人の青年。遺体だ。
 この青年は病死したのだ。死ぬ前に彼は志朗に命じた。今一度戻って来る前に、この身を治せと。
「……約束を、こんなに気の遠くなる約束をそれでも僕は信じたかった。でも余りに永くて……」
 志朗は棺に手を当てる。棺の中身は抜け殻だ。志朗は抜け殻を守り続けている。志朗の言葉は冷たい無機質な空気に溶ける。
「……今あなたの側にいるのは、コピーでしょうか。本当の僕でしょうか。僕は昔分身を造って……自分自身があなたの側にいたいと、思わなかったでしょうか?……」
 望んだのは共に在ること。御魂の側にいるのは、一体誰だ。




 志朗は学生だった。学問をする為に都に出て来て、才能を早くに認められた。志朗の専門は生命学だった。大学で研究を続けるうち、宮廷からお声がかかった。
 御門が治らぬ病に罹っているという話は聞いたことがあった。志朗に命ぜられたのは、御門の体から病を完全に追い出すことであった。
 きらびやかな宮中で志朗がお言葉を賜ったのは、見覚えのある少年。志朗は一度彼に会っていた。
 思えば、まだ御門となる前の彼が、田舎に療養に来ていたのだろう。野の草の上で胸を押さえて蹲る幼い少年を、志朗はそれと知らずに介抱したことがある。少しは呼吸を楽にした彼は、夢中で鳥を追って無理をしてしまった、と志朗に説明した。連れがいるはずだという方向に、志朗は少年を抱えて歩き出した。細く痩せた少年は、志朗の腕に随分と軽く、甘えたように志朗に身を任せる病弱な少年は幼気(いたいけ)だった。
 連れだという大人達が志朗に抱えられた少年を見て皇(きみ)様、と叫んだ時には驚いたのだ。少年が御門の玉子(ぎょくし)だと、その時に知った。
 お前が私を治すと知っている、と御門になった少年は言った。
 志朗は途中から、彼の為に学問をしたようなものだ。何時しか志朗は望んでいたのだ。彼と、共に在ることを。
 だが少年はこうも言った。お前の業(わざ)は間に合わぬだろうと。自分の体は一旦死ぬ。しかし何時か必ず戻って来るから、その時にはこの身を完きものにしておくようにと。
 御門は志朗に微笑んだ。
「昔、お前の腕に抱かれた時に見えたのだ。お前の魂はそのように出来ている。魂に良く従い私を守り切った暁には褒美を取らすぞ。何が良い。望みを言え」
 彼と共に在るのが魂の仕事なら、志朗にそれ以上の望みなどなかった。何も、と志朗は俯いた。彼は微笑み、そうか、と言った。
「よくわかった。私が戻ったその時には、次には私の腕でお前を抱こう」
 何という甘美な呪縛であったことか。志朗はその為に、どんな永劫の時も待てるだろう。
 そう、思ったのだ。
 しかし流れる時間は滞ったかと思う程ゆっくりで、志朗だけを取り残して行く。
 志朗の知らぬ場所で御門の魂は転生を繰り返す。御門が逝く前に志朗に与えた不老不死の力は、確かに御門を待つには必要なものだったが。
 永い時間の内に、世界は中心から荒れ、渇いていった。
 世界には形骸ばかりが残っていく。
 志朗は、老い悲しんで死んでいく友を見兼ねて、機械に繋いだ。
 誰もいなくなった宮殿の中で繰り返される戯事のような日常。
 今世界の何処かで生きて動いている御門の魂は、果たして自分との約束を覚えているか。
 志朗は、不安になったのだ。
 志朗は分身を造った。何よりの望みは、彼の側に在ることだ。
 魂がそうなっていると、御門が言ったのだ。
 志朗は迷いの余地を残しながら、今この時を、彼と共にいることを、選んだ。




 胸の玉が、微かに緑色に光った。
「……シュルヅくん?」
(約束を、忘れないで)
「え……なに?」
 声が聞こえたような気がした。シラウは立ち止まり、胸の袋を持ち上げた。じっと見つめるが、もう声は感じない。
「星を、見たかったの?」
 空を見上げる。だが曇天だ。
「……残念だね。明日は晴れるかなあ」
 星に、何かを願った。
 シュルヅくんと、一緒にいられますように。それは自分の願いだ。
 シュルヅくんの願いは。
(……?)
 思い出せない。共に空を見上げて、流れる星に祈った。彼は、あの時、何を願ったと言っていたろうか。
「……何だっけ? シュルヅくん」
 思い出せずとも、今のシラウには大した事ではない。魂が、満ちたりている。
「……今夜はここで寝ようか」
 柔らかく草の茂った地面の上に、シラウは身を横たえた。
「目が覚めたら、今度はどっちに行きたい?」
 シラウは玉に語り掛けている。だが端から見れば一人言だ。
「……お休み、シュルヅくん」
 彼が一人で逝ってしまってから身に付いた癖だ。
 シラウは、ずうっと、こうして行くのだ。彼の望むままに。自分の望むままに。
 彼と二人でいるのは、何と甘美なことだろう。




「どうしたセージ」
 兵舎のドアを開けたセージに、同僚が声を掛けた。既に一杯引っかけた後で、皆顔を赤くしている。それでもセージの不機嫌な顔に気付いたようだ。
「別に。俺にもくれ」
 セージは空いている椅子の一つにどかりと座った。
「やっぱり御門のお顔は拝めなかったのか。『御門にゃ会えねえだろう』って、てめえも言ってたじゃねえか。そうぶうたれんなよ」
 セージは仲間の慰めとは別のことを尋く。
「……おい。お前ら自分がいつ入隊したか覚えてるか」
「……あ?」
 何だ急に、と瞬いてから、仲間同士で顔を見合わせた。
 そうだな、俺は学校出てすぐにだから十八の時か。俺は脱サラして。俺は……
 それぞれが記憶を語り出す。
「俺が入った時にはもうお前が幅ァ利かせてたよなセージ」
 セージの為に酒の入ったコップを持って来た男が、笑いながらコップをセージの前に置く。
「……ばかやろう。新入りがデカイ顔してやがった癖によ」
 ちげえねえ、と男はがははと笑う。
 セージはもう信用がならない。コップの中身を飲み干しながら考える。
 こいつらには自分が人形だという自覚はあるのか?
 ある訳がない。セージには信用がならない。
 この虚ろな都を警護するという空疎な任務を与えられた自分らは、どうせ全てが、あの空っぽな宮殿の中に棲んでいる、シラウによく似た男の仕業に違いないのだ。
「……お前ら、シラウって奴覚えてるか」
「シラウ……?」
 その場にいる同僚が、記憶をまさぐるように眉を上げ天井を見る。
「ああ、確か、体だけはでかい奴だったな」
 隣のテーブルの同僚が顎を掻く。
「一寸だけ、隊にいた奴でよ。眼鏡、かけてたか?」
「かけてねえだろ」
 眼鏡を掛けているのは宮殿の男だ。
「それがどうした、セージ」
 セージの仕事も、マナキの死んだ理由も、彼らは知らない。
「……いや。なんでもねえ」
 ケチケチすんなもっと注げ、とセージはコップを差し出す。うるせえ自分で注ぎに来い、と叱られて、セージはしぶしぶ椅子を立った。
 虚ろな世界の中で自分達がこうしているのが全てあの男の仕組んだことならば。
 だとしたらこれは何の為の遊戯だ。
 自分によく似た男を造り、御門の御魂を持ち逃げさせる。
 その一方で、セージにシラウを追い掛けさせる。
 空っぽの宮殿の中で、あの男は何の遊びをしている。自分にだけ駒の立場を自覚させたのは意味があるのか。それともただの気紛れか。
 ……あの死んだような建物の中には、もしかしたら自分そっくりの男も眠っているのかもしれない。
「何だセージ、もう止めか? 二杯目じゃねえか」
 セージはコップを置いた。飲んでも、いい酔い方は出来そうになかった。




 ほんの少し、志朗はうたた寝したのだ。
 夢から覚めて、気が付いた時には、武人の機械は止まっていた。
 昔の夢を見ていた。志朗はきっと、そこから戻りたくなくて、目が覚めるのが遅れたのだ。
 微動もしなくなった機械と一体の旧友を見て、志朗は薄く微笑んだ。
「……ずるいな。ひとりで楽になるなんて」
 志朗は本当に一人になった。もう何も、することがなくなってしまった。
 志朗は約束通り、棺の中の青年の体から病を追い出した。魂の容物を守って、永い時間を、抜け殻の側で過ごして来た。
 志朗にはもう一歩を動く気力もない。先に逝ってしまった友人の部屋で、抜け殻の側に戻ることも放棄した。
「……どうしたら僕も逝けるだろう」
 御門の抜け殻は、放置しておけば朽ち果てる。志朗だけが、時間の恩恵から外れている。
 志朗は、自分の分身を羨んだ。今頃は、きっと満ちたりて在ることだろう。
 彼の魂と、共に。
「……やっぱり、コピーは僕だね」
 志朗は笑う。
「だって、そうだろう。こんな辛い、耐え難いことを、そうと知ってて選ぶ訳がない。どうしたって、幸せな方を選ぶ……残酷な僕は、自分の分身に嫌な仕事を押し付けて、それで本当の自分はあなたの側で幸せになることを選んだんだ。だから、あなたと一緒にいるのは、本当の僕でしょう? ……そうでしょう? どうか、そう思わせて……」
 笑いながら、泣いている。渇いている自分に涙が残っていることに、ほんの少し、志朗は驚いた。




 胸の玉が光る。シラウを、何処かへ誘う。
「……シュルヅくん?」
 草の上、シラウは身を起こす。星もない夜。玉の気配に目を凝らす。
「何処に行くの?」
 シラウは立ち上がった。何処へでも行く。彼と共に在れるなら。彼の行きたい処へ行く。
 胸の玉を唯一の明かりに、シラウは歩き出す。


 夜が明けて気付いた。シラウが向かっているのは都の方角だ。
 行きたくない気もするし、行かねばならない気もする。しかしそのことについてはシラウは深く考えなかった。いずれにせよ、彼の行きたい処へ行くのだ。
「……こっちには、鳥もいないよ」
 そう胸の玉に助言するだけにして、シラウは歩みを止めはしない。




 それでもいつか約束が守られる日があるのだろうかと、友人の分身に己の我が儘を追い掛けさせた。
 矛盾している。永遠に彼といたいと願う自分。信じられずに自分を分けた。彼が大事で約束を守りたがっている。この身が何故朽ちぬのかと恨んでいる。
 疲れ果て、心ばかりは時間に素直に朽ちていくというのに。




 自分の役目は何だ。
 セージは思う。あの男の思い通りになど、もう動いてやるものか。しかし、そう考えること自体があの男の計算通りだとしたら。
 自分は駒でしかないのだ。しかも考えることを許された駒だ。自分で考えて選んだはずの道が、全てあの男の思い通りなのかもしれぬと怯えることを許された。
 しかしそれで動けなくなることをセージは許せぬ。じっと怯えて動けぬことがあの男の予めの計算だと思うのは我慢ならぬ。ならばどうにせよ動く他はない。それが確かに、あの男の思うが儘なのだとしても。
 だったら、自分はシラウを追うしかないではないか。
 追い掛けて、シラウと、自分と、御魂の行方を見定める他、納得出来る道はないではないか。
 その先にあの男が何を用意していようが、セージには知ったことではないし、どうにも出来ることではない。
 宮中で、思い知った。あの男の言葉に、体が勝手に従うのだ。セージには、あの男のゲーム板上で戦うより方法がない。
 それをセージに知らしめたのが、もしかしたらあの男にとってセージが他の駒とは違う特別な意味を持っている為なのだとしたら、セージにもまだ戦う術はあるはずだ。
 特別な駒は両刃の剣だ。斬るのはあの男か、セージ自身か。
 あるいは、ただの思い上がった考えかもしれぬ。自分はあの男が気紛れに裏向きに置いた、ただの歩かもしれぬのだ。確かめる術は何処にもない。セージはただ、動くしかない。




 渇き切った街道を抜け、都の入口に入る頃、シラウは眼を眇めて立ち止まった。
 向かって来るのはセージだ。向こうはこちらを見付けている。胸の玉は何故かこのまま進めと言っているようだ。
 シラウは止めていた足を再び動かした。セージを知らぬ顔してやり過ごすことができるなら……
「よお、シラウ」
 ……しかしやはりそれは出来ることではなかったのだ。
 セージは擦れ違い様にシラウの腕を掴んだ。
「都行きか?」
 馴れ馴れしい笑顔で尋いて来る。
「都のどこへ行く?」
「……君には関係ない」
 セージはシラウの腕を放さぬまま、きょろきょろと辺りを見回した。
「……この辺もちょっと前まではまだ潤いってもんがあったんだがなあ」
 ちょっと前。いつだそれは。
 都の近辺がまだ森や泉に囲まれ、行き交う人々で賑っていた風景を、シラウも思い出すことができた。
 だがそれは本当に『ちょっと前』の出来事か?
 今この辺りにあるのは風と砂埃。命の潤いの気配はない。
 あれはもう随分昔。世界が渇くに十分な時間の以前。
「……君と一緒に田舎から出て来た時には、沢山の鳥が住んでいた」
 ザザ、と砂嵐のような混乱が、ほんの一瞬、シラウの頭の中を走った。
「……何?」
 セージはシラウを怪訝に見る。
「いつのことだそれは」
「……え?」
 シラウは自分が言ったことを覚えていない。浮かんだ風景は砂嵐に浸食されて、記憶の中の時間の齟齬を修正する。
「俺と一緒に出て来ただと? お前とは都で初めて会ったんだぞ」
 セージは言いながら、その言葉さえ疑っているかのようにシラウを見ている。シラウは瞬き、「何のことだ」と尋ねた。セージは片眉を上げる。そうして溜め息を吐いた。
「そうか。お前も駒か。違えねえ」
 今度はシラウが眉を寄せる。
「……何のことだ」
「お前の仕事はなんもかも忘れてその玉を持ち逃げすることか? ならなんで都に戻って来た」
「持ち逃げじゃない! 戻るも何も僕はシュルヅくんが行きたい処へ行くだけだ、仕事でもない!」
「……玉が?」
 セージは目を見開き、くっくっと、やがてわははと笑い出した。
「何が可笑しい!」
 シラウはセージの腕を振り払う。セージは睨まれながらも、尚も可笑しくて堪らぬと笑い続ける。
「……なるほど。こりゃあどっちが黒幕かわからなくなってきたぜ。駒を動かしてるマスターはあの男か御門か……」
「御門なんて人は知らない!」
 シラウの叫びに、セージはにやりと腕を振った。
「――試してみるか?」
 言葉に間髪を入れず、セージの細剣の切っ先が走る。シラウは身を引いた。後退した足で踏み止まり、地を蹴って横へと身を滑らせる。胸の玉を握る。セージの狙いは玉だ。
「その玉ぁ割ったら、どうなるかな?!」
 突き出される剣先はシラウの胸の一点を狙っている。シラウは右手で玉を庇い、左手をセージに向け真っ直に伸ばした。
「なっ……?!」
 飛ぶ血はシラウのものだ。掌を突き抜け、セージの剣はまるでシラウの手の甲から生えている。シラウの左手はセージの手首を確と掴む。右手も同様にもう一方の腕を掴む。
 シラウはニッと笑った。
「次の剣が出せないね」
「……っのヤロウ……」
 剣から垂れる血の滴が、徐々に剣先へと移動する。じりじりと、セージが押している。
「……んなもん、これ一本で十分だ……!」
 入る力に顔を歪め、互いの目的を果たそうとする。シラウの血に塗れた剣はぽたぽたと滴を垂らしながら、少しずつ剣先をシラウの胸に向けていく。胸の袋が血に濡れた。シラウは左手がますます裂けるのも構わず、セージの暴力を押し返そうとする。
「……君にはこの玉は要らないだろうっ!」
「るせえ! 確かめてえことができちまったんだ! その玉粉々に……」
「許すもんか!」
 セージの剣は骨をも断った。シラウが左手をセージの胸に押し当てる瞬間、手の小指側に剣はぶつっと外れた。剣が砕けたのはその後である。セージは後ろに吹き飛ばされる一瞬に、両の袖から次の剣を振り出した。しかしそれは悉く命中する前に破砕した。
 リン、と空気が鳴ったのだ。
「……?!」
 シラウの仕業ではなかった。
 玉が光っている。激しく、鮮やかに。
「……シュルヅくん?」
 シラウはぽかんと玉に尋ねた。セージは起き上がれない。振動する空気に痺れて、立ち上がれないでいる。
「ち……く、しょう……」
 血を吐く口で悔しげに呟く。
「……てめえ、その玉、割っちまえ!」
 もちろんシラウに聞く耳などない。
 聞いているのは胸の玉の声。
「……うん。行こう」
 蹲るセージのことは既に忘れたように、シラウはセージに背を向ける。抱くように右手を胸の袋に当てて、都へと入って行く。左手から滴る血は、何事もなかったかのように渇いた地に染みていく。
 セージはちくしょうと罵り続ける。セージは、二度と立ち上がれまい。彼はゲームを逸脱してしまった。


 一体これは誰のゲームだ?



 世界は、ずっと以前に死んでしまっているのだ。
 生気に満ちていた時代。それは常に御門と共に在った。世界を造ったと言われる御門は幾度も幾度も生まれ変わり、まるで責任を取るように自分の世界を幸福にしてきた。
 世界の幸福は、約束されていたのだ。人々は安寧な生活に慣れ、都で自分達を見守る御門の存在など考えもしなくなっていた。それほど御門は見事に世界を治めていたのだ。
 誰が悪かったということではないのだ。世界が肥大すれば、目の届かぬ暗闇も増えてくる。
 世界を造ったとされる御門でさえ、己の居場所に飽いてくる。
 永い永い間、御門は一人きりだったのだ。
 御門の力が衰えたから現れたのか、果たして、それを造ったばかりに衰えたのか。
 一人きりで疲れた魂に、片割れのような魂。ほんの少し、そうほんの少し甘えてみたくなったのだとしても、誰が彼を責められるだろう。
 さて、造られたのは誰だ。
 誰が、誰を造ったのだ。
 約束されたはずの世界を、渇き切るまで放っておいたのは誰だ。




 都の人々は、全てが眠るように息絶えていた。何か悪いものが通りでもしたようだ。道端で知り合いと話している途中に息絶えた者もいるのだろう。全てが地面に伏して、しかし残酷な匂いは何処にもしない。既に死んだようだった街が、漸く仕事を許されて眠りに就いた。そう思える死の景色であった。
「……皆、死んでるの? シュルヅくん」
 シラウは無感動に胸の玉に尋ねる。点々と赤く滴るシラウの血だけが、この世界で生きているものの証のようだった。血の跡はシラウの歩む後をついて行く。世界に最後の生き物は、とうに死んでいる建物へと歩いて行く。


 建物の中には、すっかり飽いた屍が三つ。そのうちの一つはまだ生きていたが(正確には、死ぬことができぬのだが)、生きることを止めたがっているのだから、死んでいると言って構わないだろう。
 彼は武人の死体が繋がれたままの部屋の隅で、むしり取った機械の破片で左腕を切っていた。ざくざく。ざくざく。しかし赤い血が流れ出て動きが鈍くなるだけで、一向死が迫ってくる気配はない。彼の左腕には幾つもの古い傷が在った。試し済なのだ。何度も、何度も。
 経験的に知っている。自分は死ねはしないのだ。
 彼はぶつぶつと呟いている。
「……前に試したのは何時だったかな。百年……二百年……まさか千年は経っていないだろう……経っているのか?……」
 では幼い自分が村で誠二に泣かされていたのは何時の話だ。
「……体はでかいんだからもっと鍛えろって、僕は知っていたからいいけれど、君はまるでいじめっ子だったね誠二。佐竹さんのところの誠二くんは大きい子も小さい子も泣かすガキ大将だって……フフ、君も言われていただろう。少しは須磨さんのところの志朗くんを見習って勉強しなさいって。あの時は……こんな世界だったろうか……?」
 時を経て世界は様変わりする。志朗の名も誠二の名も、正しい表記は今残っている文字では無理だ。それで、シラウにセージ。
「……あの時は、どんな世界だったろう。少なくとも世界は愛されていた。始まりと共に御門が在るなら、全てが御門に愛されて……いや、僕はそこにいたろうか?……」
 カラン、と志朗は右手の破片を床に捨てた。
「……君はいたね、誠二。間違いなくオリジナルは君だ」
 志朗は右手を見る。御門が触れた記憶の残る手。
「……あなたは『この手で私を治すのだ』と仰って……」
 祝福を与えるように、両手で挟んだ。志朗はそれから年をとらない。
 ……ならば。
 志朗は目を見開いた。左手で、捨てた破片を拾う。
 今まで志朗は、右手だけは傷付ける気になれなかった。それも御門の残した暗示だったのだとしたら。
「……あなたの力は、この手に宿っているのですか……?」
 志朗は破片を持った左手を、ゆっくりと振り上げた。


 こつん、こつんと、足音が響く。玉はあれからずっと緑色の光を発したまま。幾分大人しくなった明かりで、シラウを死に絶えた宮殿の奥へと連れて行く。
 これが誰かのゲームなら、間違いなくエンディングは近い。だが登場人物達は、そんなことは知る由もない。描かれた予定の行動を取り続けるばかりだ。
「……誰もいないね」
 己の分身が今まさに最後の自殺を目論んでいるなどと、シラウは考えもしない。愛おしい者の魂と共に、これからもずっと、時を過ごしていくのだと思っている。
「……この部屋は?」
 扉を開けた。暗い部屋だ。今まで歩いていた廊下よりも一層。足下も見えぬが、シラウは怖れげもなく歩を進める。胸の玉がそうしろと言っている。
 部屋の中央に来たのか。こつんと足に当たる物があった。
「……?」
 シラウは屈み、手を伸ばす。
 つるりとした箱。それは棺であった。
 玉の光で、中で横たわっている者の顔がぼんやりと見えた。知らない顔だ。中の遺体は、既に半分朽ちている。
「……誰だろう。あっ」
 ぷつりと、紐が切れた。シラウの首から離れて、胸の袋は棺の上に落ちる。だがこつんとぶつかる音はしなかった。棺の上に乗ったのは袋だけで、玉は袋を、棺をすり抜けて更に落ちていく。
「シュルヅくん……!」
 シラウが棺にすがった、その時。
 玉は、遺体に触れたか。
「!」
 玉が弾けた。目にも眩しい光が辺りを一瞬包む。
 シラウは咄嗟に閉じた目をゆっくりと開けた。
 呼ばれた気が、した。
 そこには、緑色に光る彼の人の姿。実体ではない。透けている。
「シュルヅくん……?」
 棺の上にぼんやりと浮かび、微笑んでシラウを見下ろしている。
 シュルヅではない。棺の中にいた彼の姿。彼が笑って、シラウ、と呼ぶ。いや違う。呼ばれたのは、志朗。


(よくわかった。私が戻ったその時には、次には私の腕でお前を抱こう)

 甘美な呪縛。
 ぱきんと、シラウの中で、何かの封が解けた。
 彼の透ける腕が、志朗へと伸べられる。
「あ……ああ……」
 約束。そうだ。彼と約束をした。


(……そうだね。一緒にいることは許してくれたけど、僕と一つになることは、きっと嫌だね)

 融け合ってしまっては、この約束は果たせなかった。
 彼は、約束を守ったのだ。
 唯一の名が口を突く。
 ……みかど。
『――さあ、約束を果たそう』
 ぽろぽろと涙が零れる。彼を見つめ、彼に手を伸べ。
 永い時間は、終わりを告げる。
 生命は疲弊している。
 最後の約束を果たした最初で最後の魂は、世界を慈しむのを止めにした。






 何もないところに、何かが存在した。
 思考している。失敗だ、と考える。


(――これで六十三の世界が滅びた)
(――やはり有形の生命(もの)の拘りは、時と共に滅ぶ他ないのか)
(いや、まだサンプルはある。諦めるのは早い)
(しかし――)
(まあいいではないか。格好の暇潰しだ。次のサンプルには、もう少し長持ちしてもらいたいものだな)
(今一番育っているのは?――)
(これだな。屑星の中のなかなか奇麗な青い星だ。随分育ちに時間がかかっているようだが……)
(そこには玉は落とさなかった)
(なるほど。だが荒れも進んでいるぞ。手を加えるか)
(それでは玉を落とさなかった意味がない)
(それもそうだ。では――)


 無形の意志が観察を続ける。
 決して手に入らない幻を見続ける。





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