・第1回・
・えんぴつくらぶ、2000年発行済の「ペンギン号18」に掲載されたものです。
いい加減重くなってきた足を引き摺って辿り着いたのは、山間に小さく開けた野っ原のような場所だった。何日間歩き通しだったかなど覚えていない。そこに暫く滞在することを決めたのは、纏ったボロの下に首から下げてある小さな袋の中身が、何だか喜んだような気がしたからだ。
それでシラウは辺りを見回した。季節が春を迎えようとしているのだと漸く気付く。地面には黄緑色の草が生え、土の色を疎らに隠す。更に疎らに、黄色い小さな花が、ぽつぽつと遠慮がちに咲いていた。
細い木立の枝の向こうに、夜になれば何か出そうなあばら屋がひっそりとある。シラウはそれに近付いて、中を改めた。
既に無い戸を開けずに一歩を踏み入れると、埃がもうもうと舞った。気配はない。おそらくはずっと以前から捨て置かれているのだろう。破れた天井から差し込む光が、埃に反射して何処か神々しい。
シラウはニッと笑うと、それでも確認を取る為に、辺りに人を探した。小さな野っ原の向こうには、集落が見える。山肌に畑を作る人々が住んでいるのだろう。シラウがそちらに向けて数歩歩くと、子供の叫び声がした。
「ああーっ、踏んじゃいかん!」
シラウの足は空中でぴたりと静止する。伸びた前髪の隙間から両目を凝らして見ると、殆ど裸足と変わらなくなったシラウの靴の下には、罠にかかったヒバリがいる。
持ち上げた足を後ろに戻したシラウの下に、叫んだ子供が駆けて来た。
「やっとかかったヒバリじゃ。踏まれてたまるかい」
屈んで罠からヒバリを取る子供を、シラウはじっと見た。そうして徐に声をかける。
「――ねえ君」
子供は思い出したようにシラウを振り仰いだ。
「ああそうじゃ、踏まんでくれてありがとう……」
子供は色を無くし、屈めた尻をぺたりとつけた。
「え」
子供の顔にシラウは怪訝に声を出す。
ぬっと立つ自分の背丈が、屈んで見上げる子供にはどう映っているのかなど、シラウには想像が付かぬのだ。ただでさえ大きな体躯。それが薄汚れてボロを纏い、伸びた髪のせいで表情は碌に見えぬ。それが真後ろにずいと聳えているのだから、子供は腰を抜かしても罪などないのだ。
シラウはぱちくりと瞬き、子供の前にしゃがんだ。
「聞きたいことが……あるんだけれど、君はどうかしたのかな」
それで子供は感じた恐怖を半分程には出来たらしい。近くになったシラウの顔と思わず鷲掴んでいたヒバリを交互に見比べた。
「……そうじゃな。ヒバリを踏まんかった人じゃ」
自分を納得させるように呟いて、子供は頷き、シラウを見上げた。
「どうもせん。けど、おまえ、でっかくて汚いな」
シラウは目を見開いて、ああそうか、と得心した。
「この格好はやっぱり駄目かなあ。暫くお風呂に入ってないし」
しゃがんだまま自分の姿を眺めるシラウに、子供は大きく吹き出した。子供が笑ったことに気を良くして、シラウは笑顔で子供に尋ねた。
「ねえ君。あそこの壊れたような家は、誰かのものだったりするのかな」
「壊れたようなって……」
子供はシラウの後ろの廃屋を見て、呆れたように付け足した。
「どう見たって、完全に壊れとろうが」
子供が言うには、あれは、以前流れの炭焼きが住んでいた小屋だという。自分も詳しくは知らぬが、この辺のものが誰かのものだとしたら村の庄屋のものなので、聞いて来てやるという。
礼を言ったシラウに、子供はやっと気付いたというように、半信半疑に尋いた。
「おまえ、住む気か?」
うん、とシラウは笑って答えた。
妙な大男が村の外れの炭焼き小屋に住み着いたと、小さな集落にはほんの半時で知れ渡った。随分汚い大男を見物に来たのは、シラウと最初に知り合った、キジという男子が連れた子供達ばかりではない。
一文無しらしいと聞いて鍋に汁物を入れて来る者、あのボロ小屋を直していると聞いて木切れやとんかちを持って来る者。暫く風呂に入っていないと聞いて、穴の開いた大桶を持ち込み小屋の前で直し出す者、シラウのボロ姿を一目見て、慌てて戻って亭主の古着を持って来る者。
刺激の無い日常のせいばかりではあるまい。この村の者達は、実に親切にシラウを受け入れ、世話を焼いた。
汚れを落とせばどうやら見られる姿のようだと発見したおかみ達は、小屋の修復をするシラウを中途で放り出させ、女達総出で洗い上げた。
「ほれほれ、やっぱり」
戸板の上でずぶ濡れになっているシラウの顔を手拭いで拭き、代わる代わるに覗き込む。そうしてきゃあと嬌声を上げるのだ。
「なんだね、シラウ、あんた思ったよりずっと若くていい男じゃないか」
シラウを女達に取られて、シラウ抜きで小屋の修復をしている男達が、不平の声を上げる。
「せっかくきれいになったんだから、もうシラウにゃさせないよ。あとはあんた達でやっとくれ」
「なんだと、こら、かかあ。ううん、シラウがいい男なのは認めるが、そりゃねえだろうが」
「あの、僕やります。僕が住む家なんですから」
「色男にゃ色男の仕事があんだよ。ほら、体拭いたらこれ着な」
「なんだい、もっといいべべなかったのかい? 色男が霞んじまうよ」
「悪かったね、あたしの亭主のお古さ」
「なんだマヅさんのかい。じゃ仕方がないねえ」
シラウの戸惑いも男達のやっかみも無視して女達は手順を運ぶ。
手拭いで滴を切った生乾きの髪を手櫛で整え、引っ詰め紐で縛る。立たせたシラウに古着を着せて、胸の小袋が濡れているのを一人が見付けた。
「ああ、濡れちまって。だから外しときなって言ったのにさ」
「いいんです。外すよりは、濡れた方が」
なんだいなんだいと女達が集(たか)る。
「シラウ、さては恋人の忘れ形見かなんかだね」
「恋人……」
シラウは呟いて、一寸、困ったように笑った。
「だったら、いいんだけど」
「違うのかい?」
「僕が、勝手に好きだっただけだから」
女達はしんとして、男達のとんてんとボロ屋を繕う音がやけに響いた。シラウはにこっと笑って礼を言う。
「有難うございます。随分さっぱりしました。やっぱりお風呂っていいですねえ」
ばん、と背中を叩かれて、シラウは痛、と声を上げる。
「シラウ、あんたまだ若いんだ、しょぼくれてちゃ駄目だよ!」
「そう、そうだよ、この村にだってべっぴんはともかく、若い女はいるからね」
なにいきなり勢い殺いでんのさ、と女達は笑い合う。シラウはその光景を眺めて、首から下げた小袋を握り締め、微笑んだ。
雨漏りせぬ程度には修理された小屋が、その日からシラウの仮屋になった。
永く留まるつもりはない。胸の玉がここの風景に微笑んだ。だから暫く、彼の為に。
「……ここにはヒバリがいるんだね」
シラウが語りかけるのは、胸の小袋。暗い小屋の中に座り込み、掌に袋を乗せて。
「ここの人は、みんな親切だよ」
シラウは微笑む。
「こんなところで、暮らしたかったね。……そう、思わない?」
掌に、袋の中身を転がした。小さな、玉。
淡い緑に、輝いて。
「……ねえ、シュルヅくん」
愛しそうに、玉に触れる。指先で、そっと、そっと。
玉が、きれいな景色を喜んでいるのがわかった。
萌え出ずる草。花。素朴な心。
「……ここの服はね。布を背中から羽織って、紐で腰を括るんだ。男の人も女の人も、走ると裾が捲れるんだよ。逃げて来た僕の格好と大して変わらないね。こんなこと言ったら、村の人が怒るかな」
くすくすと笑って、シラウは緑の玉を両の掌に握り込み、目を閉じ、祈るように顔に当てた。
「……ここまで来たよ。何処まで行けばいい?……」
言葉に悲壮感はない。手の中のものと共にある幸福さえ、その表情には伺えた。
シラウの元を誰かが訪れぬ日は無かった。村の者は入れ替わり立ち替わり、シラウ、シラウとやって来る。
シラウは村人の畑を耕すのを手伝ったり、子供と釣りを楽しんだり、日がな一日野っ原で座って過ごしたりした。自分の食べる分は魚や木の実をきちんと採集していたが、そんなことをしなくても女達が面倒を見てくれるのである。自然、こんな会話が成り立つ。
「ほれ、シラウ、これ食べな」
「有難うございます。今捕って来た魚ですけど、どうぞ」
「まだ沢の水は冷たいだろう? 助かるよ」
獣が寒さを嫌って姿を現さない季節、村の人々の蛋白源は主に魚だ。シラウは笑って、いいえと答える。
「水がきれいで、嬉しくなっちゃいます」
「シラウは、何処から来たんだい?」
この質問に、シラウは答えない。答えたくないのか、シラウ自身、答を持たぬのか。
「……昨日はありがとね。キジが喜んでたよ」
女はキジの母親だ。膝小僧を丸出しにして野っ原を駆け回る男の子と同じように、彼女の膝も着物の裾から見えて、固く汚れている。
「またキジも大袈裟に言ってるんだろうけどさ。キジがうっかり逃がしたヒバリを、シラウがうんと高く飛んで捕まえたって。シラウはすごいんだって興奮してさ。シラウがでっかい鳥みたいだったって」
「キジはヒバリが好きですね」
「……ああ」
女はシラウの誤解に気が付いた。
「ヒバリは町に持ってくと高く売れるのさ。十日にいっぺん、行商の人が買ってってくれるんだ」
町――は。淀んでいる。ヒバリが、可哀想だ。
「……どうしたんだい、シラウ」
「ここは、きれいなのに」
「え?」
きれいな村だ。だが、貧しい。
「……いいえ」
シラウの薄い笑顔を、女はどう思ったろう。
「あんたは時々」
女はシラウの隣に腰掛ける。
「とんでもなく寂しそうな顔するね。恋人のことかい?」
シラウは胸の袋を、古着の上から握り締めた。女はニッと笑って尋ねる。
「きっといい子だったんだろうね。あんたみたいな子が惚れるんじゃ」
シラウは瞬き、嬉しそうに頷いた。
「とっても、優しい人なんです。ほんとに優しくて、優しくて、……だから、僕が一緒にいることも許してくれた」
「……許す?」
怪訝な顔の女に、シラウは照れたように呟く。
「だって、僕が勝手に好きになったのに、その人は僕の望みを叶えてくれたんだ。僕の望みは、ただ一緒にいたいってことだった。ずっと、ずっと一緒に……言ってくれた。僕を一人にするのは心配だって、ずっと一緒にいるから、泣かないでって。僕の顔に触って……死んでしまう時に、言ってくれた」
女は黙ってシラウを見ている。シラウは幸せそうに微笑んで、胸に手を当て続ける。
だから今も一緒にいる。これからもずっと一緒にいる。幸せだ。寂しくなんかない。
それはシラウの本音だ。ただの一度も、生きた体を抱き締めることがなかったとしても。
「……シラウ、何かしたのかい?」
女は、許すという言葉に拘ったようだ。
「……好きになっちゃったんだ」
シラウは笑う。それが罪だというのなら、人は一日も立ち行きはしないだろう。
「気が付いたら好きだった。どうしようもなくて、側を離れられなくなった。だから僕はお願いしたんだ。側にいさせて下さい、て。許してくれたんだ」
優しい人なんだよ、呟いて、シラウは女を見た。
「有難うナギさん。シュルヅくんの話ができてすごく嬉しかった。誰にも話すことないって思ってたのに」
ナギは軽く眉を寄せ、悲しもうか喜ぼうか迷っているように見えた。シラウが無邪気な喜びに浸されていることはわかるのだろう。溜め息を吐いて、ナギは笑うことにしたようだ。
「……ほんとは、新しい恋人作んなって言おうと思ってたんだけどねえ。……そうかい。シュルヅくんていうのかい。変わった名前だねえ」
「そう?」
「何だか男みたいな名前じゃないかい」
「男の人だよ?」
シラウはケロリと答える。ナギは瞬き、そうかい、と言った。
遠くから、女が一人手を振った。「おおい抜け駆けしなやナギい」
駆けて来る隣家の婦人に、何が抜け駆けだい、とナギは呟く。
「面白いから黙っとこうかね、シラウが惚れてるのが男だって」
「え?」
どうしてナギがニヤリと笑ったのか、シラウにはわからなかったらしい。ナギは立ち上がり、口に手を当てて叫んだ。
「ミヤあ。あんたこそ亭主の着物繕わずに、シラウの着物作ってたじゃないかあ」
ミヤは息を切らし、走りながら手の畳んだ着物を翳した。
「だって、それじゃ気の毒だろお? シラウの体にゃ合ってないよう」
シラウは自分の姿を眺める。ナギはカカカと笑った。
「知らないよミヤあ。シラウの足い隠したって、あたしゃ恨まれたくないねえ」
ボロ屋に向かって駆けて来るミヤの足が、ぴたりと止まった。
「悪い人間じゃあなさそうじゃがなあ……」
村の夜は早い。囲炉裏を囲んで、小さな家の中、何処の家族も背中を丸めて寄り添い合っているだろう。
今のシラウには、こんな夜に体を温とめ合う相手もいないのだ、とナギは思う。
「悪いもんかね。子供が懐く大人に悪人のいた試しがあるかい」
針仕事をしながら言う女房の言葉に、男は傍らの布団で寝息を立てる息子の顔を見た。
「……ちげえねえ」
火掻き棒で囲炉裏の灰を掻き混ぜて、男はもう一方の手でぼりぼりと鼻を掻く。
「けどよう。何の素姓も知れねえけど、ありゃこの辺のもんじゃねえじゃろう。『僕』じゃ『僕』。わしやおいらじゃねえで。一人でこんなところへよう。まさか、都から来たたあ思わねえが、訳ありにゃちげえねえぞ。うちのチビも最近じゃシラウシラウて、誰の子供かわかりゃしねえし」
「なんだい、シラウが色男なんで妬いてんのかい」
そんなんじゃねえやドブス、と亭主は口を尖らせた。
「そのドブスがあんたの女房だよ。……あの子はそんな長くいやしないよ。ここには一寸休みに寄っただけで、きっとまたすぐに行っちまう」
「……だから、それを心配してるんじゃねえか」
ナギは手を止めて亭主を見た。
「村のもんはガキも女も、シラウを好いてるじゃねえか。おめえも、あんま情をかけんなよ」
ナギは瞬き、馬鹿なことを心配してるね、と呟いた。
「だからって、シラウに冷たくできるのかい? 無責任なこと言いなさんな」
ナギは針仕事を続ける。亭主はむにゃむにゃと口の中で呟いて、ざくざくと灰に火掻き棒を突き刺した。
「決めた」
夕暮れ時に、畑の隅で宣言して、ハナは仲間の娘達を仰天させたものである。
「あたい、シラウに夜這いを掛ける」
「えええっ?!」
「ちょ、ちょっとハナ、およしよ」
「なんでさ」
「なんでって」
呆れ怯んだ娘の代わりに別の娘が意見する。
「なんでってあんた、ゲンゴはどうすんの」
「バッカ、あんなのただの幼なじみじゃん。向こうが勝手に惚れてんの」
「たって、気に入って着けてるその櫛、ゲンゴが買ってくれたんじゃないの?」
「櫛は櫛よ。あたいゲンゴなんか全然目じゃないもの」
「そりゃ……」
ハナは多少はすっぱな感じはするものの、村一番のきれいな娘である。それに比べてゲンゴは気の毒な程醜男だった。働き者で気が優しいところが、それでも村の者から認められている若者ではあったが。
ゲンゴは小さい時からハナを大事に大事にして来た。それがハナの鼻っ柱を高くするのに一役も二役も買ってしまったのだと、今になって誰もがそう思う。
シラウを一目見てハナがぽうっとなっているのを、ゲンゴは悲しそうに笑って見ていた。それに気が付いたのは周りにいた者だけで、ハナは一向に気にもしないのだ。
「悪いこと言わないよ、ハナ、止めときな」
「うるさいね、決めたんだ」
ハナは仲間の娘達の忠告を無視して、親兄弟が寝静まった後、夜中に家を抜け出した。こっそりと寝る前に懐に忍ばせておいた紅を唇に、髪に櫛を差す。どちらもゲンゴが買ったものだ。
高鳴る胸に手を当てて、ハナは暗い道を走った。
野っ原を駆け抜けて、シラウの小屋に辿り着く。小屋に明かりはない。シラウは眠っているのか。
ハナはそっと戸の隙間に目を近付けて、最初は誰かに先を越されたのかと思った。
聞き取れぬ程の小さな声で、シラウが何かを話している。暗い小屋の中で、あぐらをかいて座るシラウの姿がぼんやりと浮かび上がる。
淡い緑色に。光っている。いや、緑色の光を受けて、シラウの姿がハナにも見える。
シラウは誰かに話している。楽しそうに。シラウの前に浮かび上がる、薄暗い緑色の姿に。
「―――ひ」
知らず声が出る。
不意に光は消えた。それと同時にシラウがハナを向く。
シラウが立ち上がりハナの目の前で戸を開けるまで、ハナは動けなかった。
「……ハナ……さん?」
シラウはぱちくりと目をしばたく。
「どうしたの、こんな夜更けに」
暗闇の中で、高いところからシラウの声がする。ハナはごくりと唾を飲んで、今見た幻を見間違いだと思うことにした。
「あ……あのさ、あたい……」
ハナはシラウを押し退け、小屋の中に入った。光るものは何処にもない。
「なに?」
背中からシラウの声がする。ハナは振り向いた。暗闇に慣れた目に、ぼんやりとシラウの姿が見える。夜中にシラウの家に二人切りと思うと、今見た幻はもう忘れた。
「その……あたいのこと、どう思う?」
「え?」
シラウは戸口に立ったままハナの方を見ている。ハナはカッカと顔が火照ったが、暗くてどうせシラウには見えていないのだと思うと、大胆になれた。
「あたい、シラウのこと好きだ。シラウは?」
シラウは、ハナが何をしに来たのか悟ったかもしれない。優しい声で、こう告げた。
「お家の人が心配してるよ」
ハナは子供扱いされたと思ったのだ。カッと頭に血が上って、話し方が乱暴になった。
「黙って出て来た、みんな寝てるよ。あたいもう十七だ! 早い子は嫁に行く歳だよ!」
「じゃあ言うけど、僕はハナさんをそんな風には好きじゃない。ごめんね」
にべもない。声や口調は優しい。だが取り付く島はどこにもない。
シラウがこんな風に断ると、ハナは予測していたろうか。自分は村一番のきれいな娘で、シラウは優しい男のはずだ。
ハナは、自分が誰と話しているのかわからなくなった。確認したくて、こう尋いた。
「……シラウは、町から来たんだろ。そりゃ町には、あたいなんかよりずっときれいに化粧した娘がいっぱいいるんだろうけど」
「ハナさんはきれいだよ」
「……やっぱり、その胸の、形見の人が好きなの?」
シラウは手を胸にやった。村の女達の噂話では、シラウは町の金持ちの娘に叶わぬ恋をして、娘が死んだ時にどうにかして、もしかして盗んで手に入れた形見を持って、逃げて来たのではないかと言っている。形見の品はきっと値打ち物なのだろうと言っているが、ハナにはそんなことはどうでもいい。
「……うん。好きなんだ」
答えるシラウが、ハナを打ちのめす。シラウも、胸に下がる小袋も、ハナには憎いものに見えた。
「そんなに、きれいな娘だったの」
「違うよ」
シラウの声は、何処か幸せそうに、笑っている。
「とっても優しい人なんだ。いろんなものをとても好きで、みんなに優しい人なんだ。生き物も町もみんな好きで、僕はこの村の景色や人達をとても好きだけど、それはきっと、その人がここを好きだと思うから。その人はきっとハナさんのことも好きだよ」
「聞きたくないよそんなことッ!」
ハナは足を踏み鳴らして怒鳴った。
「そんな天使様みたいな人間がいるもんか! シラウが勝手にそう思ってるだけだろ!」
シラウの声に僅かに抵抗が混じる。
「そんなことないよ」
「なんだい、シラウこそ、いっつもニコニコしてなんでも許してるみたいな顔してるくせに、あたいの気持ち一つ受けらんないってのかい!」
「……僕は何も許してないよ。許してるのはシュルヅくんだ」
「わかんないこと言わないでよッ!」
なんだいこんなものッ、ハナは叫んで、シラウに掴みかかった。着物の襟に手を突っ込み、袋の紐を引き千切る。
「あっ」
ハナは小屋を駆け出した。シラウがそれを追い掛ける。ハナは小屋の裏手に回り、思い切り右手を振った。
「―――」
シラウの小袋は闇に消える。闇の先は、沢。
ハナは、詰(なじ)られる言葉を覚悟したのだ。顔の一つも殴られるかもしれぬ。
だがシラウは、ものも言わずにハナの横を駆け抜けた。足下も見えぬのに、力一杯に走って行く。
がさがさと草木を分け入る音。ざぶざぶんと水に濡れる音。
シラウの動きに迷いはない。捜し出す気なのだ。あの小さなものを、この暗闇の中で。
ハナは唇を噛み締め、逃げた。村に向かって走って走って、急に酷く惨めになった。
村の端に汲み置いてある火消し用の水を手桶一杯頭から被った。冷たさに身が切れるかと思った。がちがち震えながら自分の家に辿り着いて、眠っている母親を揺さぶり起こした。迷惑そうに目を擦っていた母親は、ずぶ濡れの娘の姿を見て布団を撥ね退けた。どうしたんだと尋ねる母親に、ハナは泣いてこう言った。シラウに、手込めにされたと。
シラウの手も足も、濡れた体は悴んで、既に冷たくも痛くもない。感覚のなくなった身をそれでも動かして、シラウは沢の中を捜す。
石が、光っていた。水底で、たった一つ。切れた紐も袋も何処かへ飛んだか、流されたか。小さな玉だけが、まるでシラウを待っていたように、冷たい流れの中でじっとしていた。
「……ああ、良かった」
それはまるで魂の呟きだ。シラウは沢の中に座り込む。両手で玉を拾い上げ、顔の間近に持ち上げた。
「……そうだね。一緒にいるって、約束してくれたものね」
安堵感に涙が滲む。微笑みが浮かぶ。
「……もう、ほんの少しでも離れるのは嫌だよ」
ちりちりと感じるのは、ほんの僅かな罪悪感。それを押して、掌の上の指の先程の小さな玉を、シラウは口の中へと入れた。酷く痛い幸せな気分で、こくりと玉を嚥下する。突き上げて来る震えは温かい。水の冷たさのせいではない。
――ああ、もっと早く、こうすれば良かったのだ。
もう、これで離れない。咽と胸に手を当てて、幸福と一体感を噛み締めようとする。だが瞼に映る緑色の光に、シラウははっと目を開けた。
玉が、空中に浮かんでいる。今、飲み込んだはずの玉。間違いなく手に入れたはずの緑色の魂(たま)が、シラウの目の前に浮かんでいる。
シラウの浅はかを嗤うように。
交わらぬと、宣告するかのように。
「……そうだね。一緒にいることは許してくれたけど、僕と一つになることは、きっと嫌だね」
シラウは自分の愚かを認めるように微笑んだ。
暫くは触れることも畏れるように。宙に浮く玉を、沢の中で、ただ見つめていた。
夜明けと共に、村人はシラウの小屋にやって来た。ハナの父親が先頭に立って、数人の男が苦い顔で訪れた。
「責任取れたあ言わん。こっから、出てってくれんか」
戸を開けたシラウに、ハナの父親はそう言った。シラウは右手に何かを握り締め、未だ滴の垂れる姿で立っている。父親は、どんな思いでその姿を見たろう。
シラウはぼんやりと何かを考えているようだ。
「ちょいとあんた達!」
そこへ駆けて来たのはナギだ。着物の裾を捲り上げ、物凄い形相でやって来る。シラウと男達の間に割って入って、男達を怒鳴り付けた。
「何考えてんだい! シラウはそんなことする子じゃないよっ!」
「そんじゃ何か、ハナが嘘吐いとる言うんかッ?!」
ハナの父親は理性的に話していたのだ。ナギの言葉に、怒りが破裂したように怒鳴り返した。
「ハナは夜中、泣いて帰って来たんじゃ! こん男がハナに、酷いことしよったちゅうて!」
ナギが何やら言い募る前に、矢はシラウの鼻を掠めて、小屋の戸に突き立った。全員が驚いて振り向いた先には、弓を持ったゲンゴがハナにしがみ付かれて、木の陰から出て来るところだった。
「何で庇うんじゃハナ!」
「バカなことすんじゃないよッ!」
「ハナ、おめえそんなに……」
ゲンゴは悲痛にハナを見る。
「ゲンゴ……」
村の者は皆、ゲンゴの恋を知っている。矢がシラウに当たっていたとしても、誰もゲンゴを責める者はいなかったろう。
皆が揉み合うゲンゴとハナを見ている時に、シラウは口を開いた。
「……ごめんなさい」
ゲンゴとハナまでが動きを止めて、シラウを見た。茫然と、あるいは憤然と。
「なにが……なにがごめんなさいじゃ……」
呟いたのはハナの父親だ。ナギはシラウ、と呼び、殺してやるとゲンゴは叫ぶ。
「……馬鹿にすんなッ!」
咽の限りに叫んだのはハナ。村の者が皆ぎょっとして一斉にハナを見る。
「なんだそれはッ! シラウの天使様がそう言えって言ったのかッ?!」
「ハナ……?」
ハナは悔しそうに、涙を流して怒鳴り罵る。
「バカヤロウッ! 天国でも何処でも行っちまええッ!」
「ハナ!」
踵を返して駆け去るハナを、ゲンゴが追い掛ける。放って置けずに、ハナの父親も他の男達も駆け出した。
ぽつり残されたシラウとナギ。
「……ああ、天国か」
ナギが振り向く先で、シラウがぼんやりと呟いていた。
「行けるものなら行きたいなあ。……シュルヅくんに会えるかもしれない」
「……シラウ」
「……でも何故だか僕は知ってるんだ。僕は死ねない」
ナギはシラウの腕に手を当てて、眉を顰めて優しく言った。
「……なんて冷たいんだい。これじゃほんとに天国に行っちまいそうだね。ほら、濡れたもんを着替えな」
シラウを小屋の中に促して、ナギはがたつく戸を閉めた。
(続く)