「遙天は翠」

・五十一章~五十二章・

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   五十一章


 がくがくと震える体を抱いて、叫んだ。
 峻の、バカヤロウ!!――――――
 ふっと身が軽くなり、床が消えた。
 目が覚めるまで、幻を見た。
 上も下も左右もない暗闇の中で、峻を見た。
 ああ、嘘だよ。バカって言ったのは、嘘だよ。だから、その、手を。
 手を、伸ばした。峻も、まるで波に流されながら、手を伸ばした。峻の手は、血に濡れている。怪我か。怪我をしているのか。自分も流されていく。ゆっくりとか、急流なのか、それすらもわからない。ただ、互いに手を伸ばした。
 峻、峻。
 呼んだ声は届いたか。峻もこちらを呼んだのか。
 見つめ合って、手を伸ばした。手は、指先を掠めて擦れ違う。流れていく。届かない。(ヨウ――――!)
 聞こえた。聞こえた。峻の呼ぶ声。
 姿はもう見えぬ。悲しくて、嬉しかった。
 泣いていたのか。自分は泣いたか。
 姿が見える。……あれは、克己。
「母さん!」
 はっきりと聞こえた。自分の周りがぐるんと回った。
 床に足を着けた時、克己の姿はなかった。
「……克己?」
 夢か、幻か。だだっ広い丸い部屋。一つの気配にぴくりとする。遥を見ているのは少女だ。長い黒髪を一つに束ねている少女。
 克己に、似ている。
「……チョウラの子だな」
 少女の目には憎しみが見える。憎まれる覚えはない。
「……そうだ」
 答えながら思う。思い出す。体が壊れる程に震えた想い。克己の部屋で見た映像。
 この子は。この少女は。
「お前……」
「俺はベル」
 少女は挑戦的に名乗る。
「お前」
「俺はお前に負けぬ。克己はもらう」
「お前――」
 お前の母は誰だ。
 遥は自分で、口に出したかもわからぬ。ただ少女はびくりと震え、黒い瞳で遥を見た。怯えて。
 ここは妖魔界のはずだ。証拠に呼吸が随分楽だ。だが何故か鼓動が止まぬ。力が沸き上がるのが治まらぬ。
 少女は丸い部屋を出た。ドアを閉める。閉じ込めた。閉じ込めてどうする。遥の持て余す力はこんな場所には収まらぬ。
 遥は叫んだ。また周囲が暗闇になった。


   五十二章


 裕太の背で、敏也が目を覚ました。
「父さん」
「パパ」
「ううん……おやっこれは」
 裕太に負ぶわれていることと、見知らぬ場所に驚いたのだろう。裕美の傍らには、妖魔が一人、敏也を見ている。
「大丈夫、パパ」
 裕太の背から下り、うん、と頷く。
「ここは、妖魔界かい」
 尋ねて少し咳き込んだ。
「父さん」
 裕太は敏也の背を摩り、そうだと答える。
「ああ、大丈夫だ。直慣れる」
 再び咳き込み、と思うよ、と付け足した。
「……遥さんと、克己は」
「克己なら、さっき向こうの方に現れたわ。ママは、わかんないけど……」
「お父さん」
 妖魔にいきなり「お父さん」と呼ばれて、敏也は目を白黒とさせた。
「はい?」
「僕は、チンといいます。皆さんは僕が責任を持って、皆さんの世界へお返ししますので。こんなことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思っています」
 深々と頭を下げるチンに、敏也はぱちくりとする。裕太は小さく溜め息を吐いて説明した。
「裕美と、好き合ってるんだそうだ」
「えっ……ええっ?!」
 まあ、一目惚れはあることだから、と裕太は続ける。赤くなって俯く裕美とチンに、敏也は、はあ、でも裕美はまだ三歳にもなってなくて、まあ、そういうことなら、と訳のわからないことを言った。
「……じゃあ、チンくんか、君も、人間界に来るのかね?」
「……いえ」
 顔を上げてチンは答えた。
「父が、許さないでしょう。父は何より、国主の命を重んじる人です」
 言って、チンは振り向いた。そこに、父、ザラサがいた。
「……わかっているなら、何故こんな馬鹿な真似をした」
 ザラサの声は悲痛だ。息子を切ることを、既に決めてしまっているのだ。
「……命乞いはしません」
 チンの返答にぎょっとしたのは敏也だ。
「ちょっと、待って下さい。何故そんな、あなた方は親子なんでしょう」
「我が国主の命です、他国の方は黙って頂きたい」
「黙りません、娘と好き合った人をみすみす見殺しにするような真似ができるもんですか!」
 啖呵を切って、敏也はまた咳き込んだ。パパ、と裕美が背を摩る。
 チンはくすぐったそうな顔をし、ザラサの顔にも、何らかの表情が浮かんだ。だが彼の行動を曲げることは出来なかったのだ。
「……もしここで息子を救おうとするなら、あなたの娘を捕らえねばならぬ。いや、いずれにせよチンの命はない。ならばせめて息子の言う通り、チンを置いてあなた方は去るがいい」
「そうして下さい。穴の場所までお供するつもりでしたが、それもここまで。どうか」
 裕美は、嫌だと叫ぶのを堪えているのだろう。唇を噛み、目には涙が浮かんでいる。
 生まれて初めての恋が、何故こんなことにならねばならぬのか。裕美以上に、敏也と裕太が憤っている。
「国主の命だ、って言ったな。俺が国主を殺すと言ったら」
「ならぬ!!」
 ザラサの体から圧力が迫る。裕太は己の言葉の代償に、暫く息ができなかった。
「国主に仇為す者、俺が許さぬ! 何人なりともだ!」
 怒鳴ってキッとチンを向く。
「……わかっています」
 チンの答えに一瞬遅れて、ザラサは裕太の気弾を受けた。
「なっ」
 裕太に引き摺られてチンは走り出す。
「何を!」
「何をじゃねーだろ! 大人しく殺される奴があるか!」
「しかし、」
「しかしもかかしもねえ!」
「かっ、かかし? とは、何ですか」
 妖魔界にはかかしはないらしい。裕美に支えられながら走る敏也が笑う。
「人間界(むこう)に着いたら教えてあげますよ」
 駆け去る四人を見送って、ザラサは深く息を吐いた。……国主の命に、背く気はない。

 天井から冷却液が降って来た。狭い部屋に白煙が立ち籠める。
 急激に冷やされ、ゴウの体はジュウウウと音を立てている。白煙は熱を持つゴウの体から昇る蒸気だ。ぎしぎしと身が軋む。だがゴウは壁を穿つのを止めぬ。
 会いたい。会いたいのだ。
 ミョウの側に、行かずにおくものか。

 皮膚が裂けるのを止められぬ。克己を、己の有丈の力で包んで穴の出口に押し出した。克己の着地する場所が何処か、確かめる力もない。
 落ちて行く。克己を押し出し落ちる寸前に人間界を垣間見た。いたのは妖魔と人間。だがあの空気は人間界だ。何故か知らんが殺し合っていた。見るのも嫌だったので吹き飛ばした。銃弾を受けた気もする。体の痛みには変わりないので、気にもならぬ。
 落ちる。
 呼吸はとうに止まっている。長くはもたぬ。自分は多分このまま果てる。
 それでも特に構わぬが、最後に一目、会いたかった。
 思った時、一瞬。
 目の前を、ヨウが掠めた。ほんの一瞬。
 手を伸ばし、叫んだ。届かぬ。届かぬ。
 幻だったか。しかし会えた。一目会えた。
 もういい。もう、いい。
 体の痛みがぼんやりとしてくる。
 感じるのを止めようとした、その時、誰かが呼んだ。
 停止しかけた機能が再び動き出す。
 誰だ。
(モク――……)
 ヨウではない。ほんの少しがっかりした。
 応えるのを止めて目を閉じる。
 もういいのだ。ずっと疲れていたのだ、自分は。安らいだ時など……安らいだ、時。
 ……――ヨウ。
 二人切りの、オレンジ色の草原。
(――父さん!!)
 ぐい! と体が引っ張られた。眠ろうとした意識を、べりべりと引き剥される。激痛。 世界が、回った。


(続く)


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