「遙天は翠」

・三十九章~四十章・

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   三十九章


 会いたい者に会わせてやるのだと言った。それが本当ならば、何も逆らう必要などない。失敗しても恨むな、とは、道が完全だという保証がない為だ。それでも行こうとしていたのだ。何の躊躇うことがあるだろう。
 成功したなら、と言った。成功したなら――
(ミョウ ミョウ ミョウ ミョウ ミョウミョウ ミョウ ミョウ――)
 考えるのは後で良い。一つの名を繰り返し想うだけ。
 身が軋むのは、再び傷が空間の裂け目に引かれるからだ。理屈は、足場が安定してから頭に浮かんだ。
 傷が開いた。肩口から生温かいものが流れる。
「ぐ……」
 痛む。ここはどこだ。目が見えぬ。いやそれは以前から。己を取り巻く暗闇は変わらぬ。
 ミョウは。ミョウは―――
「ゴウ……?」
 声は、気配を探り始めると同時にした。ゴウは顔を上げる。己の名を呼んだ。聞き違いではないかと耳をそばだてる。
 気配は間近に二つ。いずれも小さい。一つは知らぬ。もう一つは。
「ゴウ?」
 声は再び。
 不安げに呼ぶ。そうだ。俺はゴウだ。お前は。お前は――
「……ミョウ」
 確かめるように呼ぶ声が震えた。寄り添っていたもう一つの気配から離れて、ミョウはゴウに近付いて来る。心配そうに、痛そうな声で。
「どうしたの……怪我してる」
 ミョウだ。ミョウだ。会えたのだ。俺は会えたのだ。ああ、目が見えぬ。お前の、柔らかな姿。
「ゴウ……? 見えないの?」
 見えぬのだ。ミョウ、お前の顔を見たい。姿を見たい。声はすぐ目の前。触れられぬなら、せめて……
「痛いの?」
 痛そうなのは、ミョウの声だ。ああ、目が開かぬ。……せめて、柔らかな気配。柔らかな……
「……―――」
 柔らかな。手が、ゴウの顔に触れた。
 触れられた頬からゴウの全身へと震えが走る。いきなりの福音に対処出来ぬ。震え、痺れ、他が何もわからなくなる。
「……どうして? どうして? ゴウ、痛いの?」
 ミョウの声は泣いている。
「目、痛い? 痛い?……」
 これは、ミョウの手か? ミョウが、俺に触れている。ぬくもり。
 柔らかな。なんと柔らかな。
 ゴウの顔に両手で触れ、しくしくと泣く。
「ミョウ……」
 身が火照る。開かぬ目が熱くなる。溢れ出たのは、血か涙か。
「……ミョウ……ミョウ、お前の手が痛む、汚れる」
 ミョウは手を放さぬ。
「俺は固い。お前が傷む。ミョウ……」
「血が出てる。ゴウ、痛いんだ」
 ミョウは、あんあんと泣き出した。
「痛くない。痛くなどあるものか。痛くなど……」
 嘘ではない。ミョウが触れている。その幸福の他は何も感じぬ。ミョウが泣いていることでさえ、己の為に泣いているのかと思えば、至上なる甘美な響きだ。
 愛おしい。いっそ、この鋼の腕の中に。
 背後に感じた気に、ゴウは背筋を殴られた気がした。
『克己』
 ミョウといたもう一つの気が声を上げた。ミョウの手がゴウから離れる。
『数也伯父さん、彼は?』
 背後の気が口をきく。この気は。似ている。そうだこいつだ。間違いない。
「カツミ……」
 ミョウは呼んで立ち上がる。
「カツミ……ゴウが、ゴウが痛いの」
「ゴウ?」
 泣きながら、ミョウは克己にすがり付く。
 ゴウは振り向いた。ミョウが克己に甘えているのが見えぬ目にもわかる。
 ――成功したなら、と言った。
 考えるまでもない。

『じゃあゴウさんは、ミョウさんに会いに?』
 静かに尋ねるこの家の主は、いい奴だと思う。ゴウはベベロの通訳を聞いて、こくりと頷いた。その向こうに強い魔物がいる。多分これが、チョウラの子だ。
『目も、少しずつ良くなるはずです。見えるようになるといいですね』
 ゴウの瞼に手を当て、敏也は優しく思い遣る。
 ゴウの傷は、敏也のヒーリングで少し良くなっている。少しは効くということは、ぴったりとではないが、波長が合ったということだ。
「すまん」
 ゴウが呟くと、敏也は『何ですか?』とゴウに尋ねてからベベロを見る。
『お礼を言ったんですよ』
『ああ、そうですか。……お礼は良いから、早く良くなって下さい』
 隣にミョウが座っている。
「ミョウ……」
 おそるおそる手を伸べると、柔らかな感触が手に触れた。鋼の体が融けるかと思う。
「ボク、ここだよ、ゴウ」
 ミョウの手が、ふわりとゴウの手を取る。
「ゴウ、見えなくてかわいそう」
「……可哀想なんかじゃない」
 この幸せを、手放せるものか。
「ミョウが元気で、良かった」
 あいつに似た気が部屋に入って来る。
『伯父さん、機械の部品を取って来るって』
『行ってしまったのか?』
『うん。穴を調べている時にゴウさんが現れて、何だかややこしい壊れ方をしたらしいよ』
 ミョウが立ち上がる。あいつが現れると、必ず寄って行く。
「カツミ」
『ミョウ……ええと、数也伯父さんね、出掛けちゃったけどまた戻って来るから』
 気配で、ミョウが克己に抱き付いたのがわかる。まるで、妖魔界(あちら)で、モクに甘えていたように。
『じゃあ、丁度良いという訳じゃないが、ゴウさんには居間で休んでもらいましょう。後で布団を敷きますよ』
『俺持って来るよ』
 敏也の言葉で、裕太が立つ。
『克己はいいから』
 ミョウを腹にぶら下げたまま動こうとした克己を、裕太が止めた。
 裕美は、大人数が犇めく台所で、冷蔵庫を背にして座っている。じっとゴウの方を見ていたが、ふいと立ち上がって冷蔵庫を開けた。
『ベベロさん、プリン食べないの?』
『ええ』
『……じゃあ、もったいないからあたしが食べよ』
 と裕美はカップを一つ取り出して冷蔵庫の扉を閉じる。
『メシもあんまり食わなかったし、ベベロ、調子わりーのか?』
 ベベロは遥に、照れて答える。
『わたくしこのままでは、穴に近付くことも出来ませんもの』
「カツミ、どこいくの」
『トイレだよ』
「いく、ボクも行く」
 気配が離れていく。
「……ミョウ」
 呼び止める声に立ち止まったのは克己。ミョウの手を自分から外して、ミョウの頭を撫でた。
『ゴウさんと一緒にいて』
 部屋を出る克己を見送り、ミョウはゴウの側に戻る。
「なに? ゴウ」
 間近でミョウが自分を呼ぶ。知らず綻んだ顔を、ゴウは左右に振った。
「?……変なゴウ」
 ああ、アカナジの花の一つでも持ってくれば良かったのだ。ミョウはきっと、喜んだはずなのに。

 裕美は首を傾げる。
「裕美?」
「うん。そういう人がいても不思議じゃないのかもしれないけど……」
 隣を見上げて、忠告する。
「克己、気を付けてね」
「え?」
 黒い詰め襟を着ていても、眼鏡をかけて、ぽけっとした顔をすると、然程彼には似て見えない。
「ゴウさんのね。念波が読めないのよ……でも、その……あの人に似てる克己を、あんまりよく思ってない気がする」
「……うん。彼は、ミョウを好きだよね」
 読めずとも、見ていればわかる。ゴウの、ミョウに対する、滑稽な程の好意。
「でも、別にミョウがゴウさんに邪険にしてる訳でもないし。俺が何か気を付けることもないと思うけど」
「……だといいけど」
 十字路で別れ、克己は駅に向かう。互いに笑顔で行ってらっしゃいと手を振ったが、裕美はどうにも胸のもやもやが失せなかった。

 克己は放課後、山崎のバイト風景を覗きに、ファーストフード店に立ち寄った。裕美に何かプレゼントしてやりたいというのである。何がいいかなあと相談されたので、髪を縛るリボンで良いんじゃないか、と答えたのだが、それならと、リボンとお揃いでワンピースの一着も買ってやるんだと、バイトに精出す山崎である。
 裕美は山崎の気持ちを知っているが、気のいい克己の友達、以上には思っていないようだ。
 克己は黙って友人の頑張りを眺める。遥の例もある。種族を越えた結婚だって、あり得ないことはない。克己もいずれは、誰かとそういうことになるのだろう。
(……誰かと)
 それは決して、遥ではあり得ない。
 克己は残りのコーラを飲み干して、席を立った。
 それは、店を出た途端に感じたのだ。暖房の効いた店内から外に出たせいかと疑ったのは一瞬、この寒気はそれではないとすぐに思い直す。
 正面を見据える。繁華街。交差点を行き来する人込みを突き抜けて、こちらを睨む視線にぶつかる。睨まれているのは自分。敵意。
 見知らぬ気。恨まれる覚えはない。道を隔てて、相手の気が膨らむのを感じた。
「……―――っ」
 咄嗟にシールドを張る。空気が歪み、シールドを滑ってエネルギーは店に当たって破裂した。
(……しまった!)
 前触れもなく破壊された店舗に、客や通行人が悲鳴を上げる。二撃が来る。
(何で)
 理不尽を感じながらも克己は対処するしかない。これ以上街中を破壊させる訳にもいかぬ。シールドを、エネルギーを上空に跳ね返すように張り直す。
「克己……ッ?!」
 声にぎょっとする。店員服姿の山崎が、様子を見に出て来た。
「出て来るなッ!」
 気を取られた隙に、敵の二撃が着弾した。仕損じる。店のガラス扉が砕け散る。路上に伏せた山崎が顔を上げ怒鳴る。
「何やってんだ、他の通行人皆逃げてんだろっ!」
「お前こそ店ん中引っ込んでろ!」
 ガラスの破片で顔を切った。滲む血を見て、山崎が悲鳴を上げる。
「克己!」
 腕を掴み、店内に引っ張り込もうとする。だがそれは出来ぬ。自分の周りが粉々になるとわかっていて。
 道を隔てて、第三撃がやって来る。怒りが湧いた。体温が上昇する。山崎の腕を逆にぐっと掴み返して固定する。
「うわ……っ」
 克己の周りが白熱する。
 一瞬、驚く程意識が澄んだ。相手が見える。極間近に敵の存在と気を感じ、それを叩き返す。
 パン、と熱せられた空気が鳴る。道の向こうに、きゃあ、と沸く悲鳴。
「……克己!」
 信号を無視して、車道を駆け抜ける。交差点の向こうでファーストフード店の爆発を眺めていた野次馬が遠巻きに空けている場所には、ペンキをぶちまけたように薄緑色の液体が路面を染めていた。これが血なら、相手は人間ではない。
(どこへ)
 気配はない。仲間が連れ去ったものか。それとも。
「克己」
 山崎が追って来た。汚れた路面を見て息を飲む。
「……なんだこれ?」
 野次馬達が囁き交わす。
「人が、破裂した」
「ああ、確かに」
「映画の撮影?」
「破裂した人、どこいったんだよ」
 山崎は神妙な顔で呼び掛ける。
「克己……」
「……バイトに戻れよ」
「お前、これ……お前が――」
 山崎を見た。克己は、多分泣きそうな顔をしていたのだろう。
「……来いよ。顔」
 山崎は息を吐き、克己の腕を取って背を向ける。
「店に、バンソコあるから」
 克己は黙って引っ張られて行く。混乱で交通渋滞となった道を、俯いて引き返した。

「柊くん、さっき裕美ちゃんから電話で、昼休みに下の喫茶店で待ってるって」
 早く行ってあげれば、とにこにことして言う事務所の先輩経理に、どうも、と礼を言って、裕太は事務所の扉を出た。
 早引けなどする時に裕美を引き合いに出すことが多い為か、事務所の人間は裕太を妹に甘いオ兄チャンだと思っている。裕美を知っている者は、可愛らしさに、無理もない、と考えるようだ。口実としては都合がいいので、裕太も特別否定はしない。
 裕太の勤める法律事務所はビルの三階にある。一階の喫茶店に向かいながら、裕太は気を引き締めていた。
 裕美ならば、電話は必要ないのだ。下で待っているのは、裕美の名を使った何者かだ。
(おトモダチのはずは、まずないな)
 ビルを一旦出て、道路に面した喫茶店の扉に向かう。扉の中の気は、別段異常はないように思える。
(考え過ぎか?)
 そう思った時、敵意は背中から飛んで来た。振り向きざまに身を捻る。悪意の固まりは、裕太を掠めて喫茶店のドアを破砕した。シールドを張り損ねた。顔や手をガラスが切る。
 喫茶店内がどやどやとする。外へと向かう人の気配に「出るな!」と怒鳴って、裕太は敵意に向かって真っ直に駆けた。
 向かいのビル。一階ロビー。
「――?!」
 立ち止まる。気配は一瞬にして三階に移動した。渡り廊下。目を凝らす。気配が消える。
「……」
 人間ではなかった。妖しの気だ。
 狙われる覚えがない。不審に不愉快になりながら事務所に戻ると、皆窓からガラスの飛び散る路上を見てがやがやしていた。
「あ、柊くん、無事だった」
「裕美ちゃんは?」
「裕美じゃありませんでした」
「え?」
 裕太の傷に気付いた女性職員が、救急箱を持って来る。
「じゃ、誰だったの?」
「さあ。あ、そういや、この間友人の彼女、取っちゃったかな」
「え、じゃ、この爆発柊くんのせい?」
「えーっ、やだもう柊くんたら、たらしーっ」
「この色男」
「……って、冗談ですって。聞いてる?」
「うーん、職員の刃傷沙汰はうちで取り扱いかねるなあ」
「……先生」
 ここの事務所の法律家は、真面目な顔で寒い冗談を言う。

 土曜の昼下がり。裕美は足早に家路を急いでいた。
(やだもう。変質者かなあ)
 先程からずっと嫌な気が裕美の後をついて来る。考えていることを読もうとして、裕美ははっと足を止めた。
 読めない。しかもこれは、人ではない。
 裕美は振り向き、相手を見定めようとした。気は感じるが、念波が聞こえて来ないのは、ゴウと同じだ。だがこれはゴウの気ではない。別の妖かしだ。
 こちらからのは聞こえるだろうかと、思い切りきつく<怒鳴って>やる。
(何のつもり?!)
 気配は一瞬変化した。どうやら聞こえた、と思っていると、気配の主はいきなり目の前に現れた。ぴたりと、体が付く程に。
「きゃ……」
 後ろに引き損ねて尻餅を付いた。その上に被さるように、異形の妖しが口を耳まで開く。咄嗟に瞬間移動した。数十メートル後退したが、瞬時に妖しも追い付くのだ。
「ひっ……」
 裕美は息を飲んだ。妖しの手が、自分の胸の膨らみを、ぎゅっと掴んでいる。
「――なにすんのよっ!」
 念波をぶつけた。だが妖しはぶつけられた形にグニャリと頭を歪ませて、ニイと笑って離れない。
「―――……」
(気持ち悪いッ!!)
 ドン、と衝撃と共に妖しの背中に大穴が開いた。
「うちの娘になにしてんだコラッ!!」
 遥だ。買い物籠をぶら下げて、サンダル履きで妖しを睨み付けている。妖しはちらりと遥を見てかき消えた。克己の帽子を被ったミョウが、遥の後ろで震えている。
「大丈夫か? 裕美」
「うん。あー、気持ち悪かった」
「発情期のはぐれ妖魔かな。好みじゃなかったのか」
「んも、ぜんっぜん!」
 裕美は涙目で力説する。ミョウが、ユミ、気持ち悪いのかわいそう、おいしくない、ともらい泣きした。


   四十章


 報告する使者は、床に頭を擦り付けん程に平伏している。
「そうか。もう良い」
 主の一言に死ぬ程ほっとして、しかし退室するまでは、誠に気は抜けぬのだ。とうとう頭を上げぬまま出て行った使者と入れ違いに、「国主」とチンが現れた。
「……なんだ。呼んでおらぬぞ」
 メカナの流し目に身を固くしながら、冷や汗に耐えてチンは進言する。
「イチイの国の能力者を人間界へやったと聞きました。生きて戻ったのは一人だと……」
「それがどうした?」
 チンは二の句に苦慮する。メカナは優雅に椅子の上で足を組み替える。
「一人戻れば十分だ。……フフ、楽しいぞ。あやつの息子が一番手加減無しだったそうだ。思った通り」
 メカナは擽るように喉を鳴らす。愉快で堪らぬと、揺れる髪の先までが言っている。
「……ココの国の者は、まだ戻らぬと聞きます」
 チンの顔を、メカナが見た。
「……っ」
 それだけのことで、チンは全身に痛みを感じた。心泊が上がり、呼吸が難しくなる。
「詰まらぬことを言うな。心臓を止めるぞ」
 ふっと身が楽になり、チンはがくりと膝を付いた。
「……まあいい。お前も他の者に比べたら面白い。行け」
 チンは胸に手を当て、がくがくと立ち上がり、一礼をしてテーブルの上に気付いた。
「……国主。お口に合いませぬか」
「食欲がない」
 チンは意外そうに眉を寄せ、はっとばかり口を開いた。
「馬鹿面を晒すな。早く行け」
「……失礼を」
 チンが消える。メカナはニイと口端を上げ、ク、と喉を鳴らした。
「ククク……フフフ……」
 身を揺らして窓の外を見る。新たに城を建てるまでの仮住まいは、湖の側に建つ避暑用の小さな屋敷だ。天気が良ければ水面に光を受けてオレンジ色の木々がキラキラと揺れるのだが、最早夜半、湖に映るのは屋敷からもれる僅かな灯り。
「……感じるぞ黙。お前の気だ」
 呟く口元は、どこか穏やかだ。水面に何かの生物が、ぴしゃりと跳ねた。


(続く)


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