「遙天は翠」

・三十五章~三十六章・

「ここだけ劇場」へ戻る


   三十五章


 ミョウは二階の克己の部屋で寝ている。台所に、遥とベベロだけであった。
「ベベロ」
 妖魔界の空の色をしたお茶を飲みながら。
「俺、峻に会いたい」
 はい、とベベロは頷く。
「でも、敏さん達と別れるのは嫌だ」
 はい、とベベロは頷く。数日この家で共に過ごして、ベベロは遥の言葉の出所となる心情を、よく理解した。ここにいるのは遥にとって掛替えの無い愛しい家族で、例え最愛の男の為とはいえ、捨てて行くことは出来ないのだ。また峻は正しく最愛の男で、永の別れが、遥を酷く苦しめている。
「俺、我が儘かな」
「……でも、素敵です」
 ベベロには小さ過ぎる湯飲みを両手に抱えて、振り返る遥に言葉を紡ぐ。
「ヨウ様は、大切なものを沢山お持ちです」
「……素敵かな」
「はい」
 ベベロは頷く。お茶を一口ず、と飲んで、おいしいですねえ、と笑う。
「チョウラ様は……」
「……おふくろ?」
「はい。……やっぱり、とても激しい方でした。やっぱり、沢山の方に愛されて……結局は、ただ一人の方を、選ばれたのですけれど……」
「……」
「はっきりとは、わかりません。急に姿をお隠しになって、一体誰がチョウラ様を射止めたのか、それは随分と取り沙汰されたものでした」
「あはは、モテたんだ、おふくろ」
「はい、それはもう」
 遥は鼻の辺りがむず痒くなって、右手で鼻を摘んだ。
「俺はおふくろとはちょっとしか一緒にいなかったけど……ニンゲンて奴が、弱いくせに面白くて、つい俺を生んじまった、なんて言うんだよな。弱くてすぐに死んじまったらしいけど、弱っちいのも結構面白い、なんて言うからさ、俺ずーっと人間ってどんなんだろうって、興味あったんだ。……そしたら、俺が初めて会った人間が、えれえ強くって。……話違うじゃん、て……」
「……」
「でもさ、やっぱこれが面白くって。こいつの生まれたとこ、どんなだろうって。こいつの生きてたとこ、どんなだって……」
 遥は、ベベロから顔を反らす。
「……いいとこじゃん、人間界(ここ)。……」
「……はい」
 ベベロは、気付かない振りをする。
「何で峻、嫌いなんかな。俺、結構好きだけどな。……」
 遥は涙声で、言葉を続ける。あいつの生まれたとこじゃん。敏さんもいるし。俺ここ、好きだ。
 ベベロは、よいしょ、と立ち上がった。それだけで汗が出る。ふう、と息を吐いて、わたくしやっぱり痩せなくては、と台所を出て行った。
「……峻」
 一人になって、涙が溢れた。ベベロやミョウがやって来て、昼間も一人になることがなくなっていた。峻を求めて泣くことが、ここ暫く出来なかった。
「会いたいよお……峻……ちくしょお……ばかやろ……」
 口汚くも、恋人を恋う。峻、と呼ぶ声が、見えぬ壁を超えて届けばいい。

 うとうととして目を覚ますと、誰もいなかった。モクも、克己も。
 じわりと泣けて来る。自分はどうしてここに一人でいるのだろう。
「……カツミ?」
 克己は学校だ。夕方まで帰らない。夕方、夕方はいつやって来るのだろう。
 モクはどこだ。いつ戻るのだろう。戻るの か? モクは自分を嫌ってはいないか――
『うっ……えっ……えっ……』
 どうしようもなく悲しくなった。気持ちよくない。おいしくない。
『う……わあああああーん』
 誰か助けて。モク。モク。カツミ。
『ああああーん、あああーん……』
 泣き声は階下にも響いた。階段を上って来るのは誰だろう。ドアが開く。ああ、遥だ。
「ミョウ……」
 何だか遥も泣いている。その顔を見てもっと悲しくなった。
『モクー、モクー……』
 とめどなく涙が溢れる。遥も自分の目を擦って、擦って擦って、座り込んで泣き出した。
「……峻ー!」
 階段を上れないベベロは、きっと階下でオロオロしているのだろう。
「ばかやろー! 峻のバカー!」
『モクー!』
 二人駄々っ子のように泣き叫ぶ。腹が減るまで泣き止まないかと思われた。声の限りにわんわんと泣く。
 ぐん、と部屋が揺れた。
 遥が泣き止む。ミョウはまだ泣いている。遥が濡れた目を凝らすと、部屋の中に透明な球体が見えた。咄嗟に遥はミョウを抱える。危険かもしれぬものからミョウを庇う。
 抱きかかえられて、ミョウも泣き止んだ。遥と一緒に、訳のわからないものをじっと見る。
『……あっ』
 球体の中に見えるのは。見えるのは!
『モク!』
「峻!」
 同時に叫んだ。
「峻! 峻! こっち見ろ、峻!」
 声が届いたかと思う程。横顔を見せていた彼はこちらを向いた。じっと見て、こちらを認めた。ばっと身をこちらに開き、一言叫ぶ。叫んだのは、「ミョウ!」か。
 それで仕舞いだった。遥は慌てて手を伸ばしたが、消える球体には届かなかった。
「……峻」
 両手で口を覆う。ぱたぱたと、遥の目から涙が落ちる。
『……シュン?』
 不思議そうに、ミョウは遥を見た。遥がモクをシュンと呼ぶことの意味を考えた。自分と遥が似ていることの意味を、モクが自分に優しくしてくれたことの意味を、顔を見たくないと言ったことの意味を。
 ――モクが叫んだのは、「ヨウ!」かもしれぬ。


   三十六章


 ゴウの傷は思ったより治りが遅かった。爆発による傷より、裂けた空間に引っ張られて出来た傷が、質が悪い。サンの国から来た医者は絶対安静を告げている。老の身内を閉じ込める為の施設は、半分方怪我人の収容所だ。そのベッドの一つに縛り付けられるようにして、ゴウは包帯だらけの体を横たえていた。
「どうじゃ、具合は」
 拳をぐっと握り締めているので、起きているとわかる。ゴウの目は包帯に巻かれていて、開けることが叶わぬ。
「老、俺はいつここを出られる、ミョウを探しに行ける」
 会うと同じことを尋く。老も同じことを答える。
「これ、そう暴れるから、傷が治らんのじゃ。じっとせんか」
 ゴウの肩と腹は太いベルトでベッドに固定してある。幾度も脱走しようとする聞き分けのない患者を無理矢理安静にさせる為だ。ゴウが身もだえする度、包帯の下の傷が擦れて悪くなる。
「じっとせいと言うのに。傷が治ったところでその目では、のう。とにかくお前は体を治せ」
「目がなんだ! 俺がミョウをわからんものか!」
「わかった、わかった、じっとせい!」
 ゴウは急に静かになった。唇を噛み、うなだれる。幾度も考えたことだろう。触れられずとも見るだけで良い、と思っていたミョウの姿を、二度と見られぬかもしれぬ、と。
「……ミョウじゃがの」
 ゴウが顔を上げた。
「人間界におるやもしれん、と黙が言ってきた」
「……なに?」
「チョウラの子のヨウと一緒におるところを見たそうじゃ」
 夕べの、と老は自分の頭を突いて、ゴウには見えぬと思い直した。
「念波で知らせて来た。メカナが覗きの鏡で見せてくれたそうじゃ。屋敷跡に開いた穴に連動させてある、と言っておったそうじゃから、多分お前が怪我をした時に飛ばされたんじゃろう」
「……行くぞ俺は! 人間界へ行くぞ!」
「えい、じっとせんか!」
 ゴウを叱りながら、気になるのは、と考える。
(――俺を自由にし過ぎる。あんたにこうして情報を送るのも、邪魔しようと思えば出来るはずだ)
 黙を気に入ったから、というだけではあるまい。城中を好きに歩き回らせ、人間界の愛しい者を覗かせ、囚われとなった老に自由に話させる。
 黙を味方に付けようとするなら、巧い手ばかりではない。
(黙に、何を期待しとるのじゃ?)
「ヨウのところにおるなら、ベベロが行っておるはずじゃ。お前が行くまでもないわい。こりゃゴウ」
 えい、仕方ない、と、老はゴウの額に手を当てた。途端、ゴウは弛緩する。脳に直接念波で麻酔をかけた。これで暫くは大人しくなる。
 一度、屋敷跡を見に行かねばならんな。老はちらりと背後を盗み見る。彼に付けられた監視は、トイレの中にまで付いて来るのだ。

「お待ち下さい!」
 チンが廊下を駆けて来る。
「城は出ん。そこから外を見るだけだ」
「では、わたくしも」
 峻が城の外側に向かうと、決まってチンが現れる。常に監視はされているのだ。ただ行動に制限を加えられることが、殆どない。
 廊下の端にベランダがある。眼下に町、視界を遮る山、その向こうに老の屋敷だった場所がある。じっと彼方を見て立つ峻の横にチンは並び、町並みを愛しそうに眺めた。
「……俺が何をしているかわかっているんだろう。何故止めん」
 顔を上げ、峻を見た。
「……国を出る以外は好きにさせよ、との国主の仰せなので」
「……」
 峻は彼方を見たまま呟いた。
「変わった国主だな」
 チンの表情が、意外そうに崩れる。
「は?」
「いや……一人言だ」
 波打つ亜麻(飛びリラ)色の髪を邪険にしたり細々と手入れしたりするように、メカナはどこか気紛れだ。
 ヨウが国主になってもあんな感じかもしれんな、と考えて、懐かしい記憶が蘇る。
 せめて相手しろよ。そう言って、ヨウにじゃれ付かれたオレンジ色の草原。
 遊び相手を見付けたのだ。
「……黙殿?」
 僅かに目を見開き眉を寄せた峻に、チンが不審そうに呼び掛ける。
 メカナの意図が、見えた気がした。

 湯舟に、豊かな飛びリラ色の髪がたゆたゆと広がっている。天井にはカチ鋼がはめてあり、美しいメカナの裸体を艶々と映す。
 湯に体を浮かべ、メカナは一人天を仰いでいる。想うのはあの男。出会ってからずっと、体の芯が欲しがっている。
 つ、と指が唇をなぞった。触れたい。早く触れたい。あの男と子を成したい。
 これ程にあれを欲するのは、生物としてか。国主としてか。身が、心が、喜びの予感に震える。
 俺の味方として働くのでも、俺の邪魔をするのでも良い。動け。黙よ、動け。
 意地でも動かぬというのなら、こちらも意地でも動かすまで。
 この想像は、メカナにはエクスタシーだ。
 指が口の中に入り、舌を押した。
 ニイ、と唇の端が上がった。


(続く)


「ここだけ劇場」へ戻る