・二十九~三十一章・
※●はハートマークです…勘弁して下さい。
二十九章
あのう、と帰ったはずのベベロが訪ねて来たのは、翌日だった。朝の忙しい時である。裕美は家族の朝食を作り、壁屋に電話をしたところだった。
昨日やって来た遥に似た妖魔の子供は、克己の部屋でまだ寝ている。あれから自分が人違いをしていると知って、少し泣いた。それでも克己が宥めてやると、気持ちよさそうに耳を伏せ、うとうとと眠った。
「あら、お忙しいところでしょうか」
裕太がまた、あからさまに嫌そうな顔をする。ベベロは恐縮して体を小さくしたが、かさは大して減っていなかった。
知らん振りをしてパンをバク付く遥にぺこりとベベロはお辞儀して、新聞を広げる敏也に向かって話し出した。
「あのう、どうも調子が狂ってしまったみたいで、わたくし、帰れなくなってしまって。あの、すぐにはという意味で、ずっとではありませんので。それで、あの、わたくし、困りましたわ、どうしましょう」
帰り道が復旧するまではここにいさせて欲しい、と言うに言えず、といったところか。
「……そうですか、お困りですか」
敏也がやはり困った顔でそう言った時、二階で子供が泣き叫んだ。
「……あら?」
ベベロが不審そうに見上げる。
「あ、起きたみたい」
裕美がエプロンを外しながら言う。
「克己、見て来て」
言われて克己が牛乳のカップをテーブルに下ろす前に、部屋を飛び出た泣き声の主は、階段の上から克己を見付けた。
『あー、あー、カツミー!』
転がるように下りて来る子供を、ベベロは呆れたように見ている。椅子を立った克己に飛び付いて、全ての安心がここにあるとばかりに、子供はふにふにと身を擦り付ける。
ベベロが声を上げる前に、裕美は事情を読んでいた。
「お知り合いみたいね」
『ミョウちゃん!』
『……あれ。おじいちゃんとこのベベロさんだ』
耳をぴくりと動かして、それでも克己からは離れずに、ミョウはにこーっと笑った。
『あらまあ、一体全体、まあ、でも、まあ、元気になって、あらまあ』
敏也はうーんと唸ってから、新聞を畳んでこう言った。
「仕方ありません。私たちはもう出掛けなくてはいけないし、ベベロさん、ええと、この子はミョウちゃんと言うんですね? お知り合いのようだし、ここにいて下さい。……ただ」
「はい」
「……家の者が遥さんだけになりますが、どうか、知らない間に連れて行ったりは、しないで下さいね」
敏也の顔に、ベベロは二、三度瞬いて、こっくりと頷いた。
「承知しました。決して」
お邪魔致します、有難うございます、とベベロは家人が出かけていくまで幾度も頭を下げていた。
『カツミ、いや、どこいくの、一緒に行く』
ミョウがなかなか克己を放さなかったが、ベベロがいい子にして待っていればすぐに戻ると言い聞かせてくれたので、泣かずに手を放すことができた。
いってきます、と出掛ける家族に、おういっといで、と見送って、遥は客人二人を振り返った。
ここにいるのは、自分の仲間だ。
妖魔界で生まれ育った者達。
「……さて」
遥は、ミョウに向かい合うように、台所のテーブルの椅子に座った。ベベロは椅子に座れないので、テーブルの横に立っている。
「ミョウ?」
ミョウが、こくんとうなずく。遥が、自分の顔を指差す。
「俺は、遥だ」
『……ヨウ?』
「ん」
遥は、ズボンの後ろのポケットに突っ込んであった帽子を、ぱん、と一つ叩いて、ミョウの頭に乗せた。
「克己の帽子だ。淋しいだろうけど、帰って来るまでそれで我慢しな」
『……? カツミ、ニ?』
『克己の、帽子』
ミョウが目をぱちくりとさせる。
『しゃべったー!』
遥は吹き出す。
『え、え、どうして? ニンゲンじゃないの?』
「あはは、おもしれーガキー」
遥は笑って身を反らせ、そのままの姿勢でベベロを見た。
「……ベベロ?」
「はい」
「こいつの言うモクって、やっぱ峻のことか?」
「……はい」
姿勢を戻し、そっか、と言う。ミョウは、頭から帽子を掴んで下ろし、眺めたり匂いを嗅いだりしている。
「な、ミョウ」
ミョウが顔を上げる。
『克己のこと、好きか』
『うん。好き』
にこ、と笑って答える。
『そっか。……モクは?』
『うん。好き』
にぱあーっと笑う。手の帽子をぎゅっと抱いて、嬉しそうに、遥に話す。
『あのねえ、カツミね、モクに似てるの。気持ちよくってね、おいしいの』
『ふーん。……モクは、優しくしてくれるか?』
『……うん』
答えて、ミョウは俯いた。やがてぱたぱたと涙を零し出す。
『……ミョウ?』
『……う……うええ……ん』
声を上げて泣き出したミョウの背中を、ベベロはそっと摩ってやった。
「……克己さんのお蔭で元気になったようですけれど」
遥に、ベベロが訴える。
「シュン様が、ヨウ様を想う分だけ、ミョウが辛い想いをしています……」
ギッ、と、遥は背中を椅子に預けた。
「なーんだ。……モテてんじゃん。峻の奴」
「ヨウ様……」
言いにくそうに、ベベロは続ける。
「そのおつもりがなくとも、シュン様には、ミョウはヨウ様の代わりですわ」
「……で、ミョウ(こいつ)には克己は峻の代わりか?……」
「……ヨウ様」
「代わりなんていねーよ。代わりになんて、できない」
克己に黒い服を着せた。これは、自分に向けた言葉だ。
ミョウは、遥とベベロが何を話しているのかも知らず、ただ悲しくて、ひくひくと泣いていた。
克己が帰って来る頃には玄関は新しくなっていて、新品のドアノブを回して引いた、その瞬間に、転がるように出て来たミョウが、克己の腹にぶつかった。
「カツミー!」
「うっわ、」
危うく後ろに転げるところである。鞄を持った手でミョウを抱えると、寄り掛かったままミョウは、ふにふにふにふにと克己に顔を擦り付ける。
「あっはっは、甘えられてんなー、克己ー」
「……ただいま、母さん」
ミョウを抱えたまま家の中に入る。台所では、遥とベベロがお茶を飲んでいた。
「……ミョウ、着替えて来るから、一寸離れて」
克己の困った声は無視して、ミョウと名前を呼ばれたことに喜んだ。顔を上げ、覚えたての言葉で応える。
「カツミ、好き●」
克己は一瞬固まって、次にぼっと赤くなった。遥はげらげらと笑うのだ。
「かっ母さん! 何教えてるんだよっ!」
「ええー? 俺のせいかあー? ミョウが教えてくれっての、教えただけだぜえー?」
応えて尚も高笑いする。気の毒に克己は、その間もミョウの「好き●」の笑顔に晒されていた。
「き、着替えて来るから」
「カツミ? いっしょ、いく、いく」
ずるずると引きずるように、克己はミョウを連れて階段を上った。部屋に入っても、階下の笑い声は聞こえて来る。
「もう……」
ミョウは幸せそうに克己にくっついている。これでは着替えられない。
「ミョウ、あのね」
「うん」
にっこにっこと真下から見上げる。ぴったりと、体を寄せて。
遥に似た顔。遥よりも軟らかな体。克己が振り払えば、きっとこの腕の一つくらい、簡単に折れてしまうだろう。
克己は軽く頭を振って、ふうと息を吐いた。
「ミョウ、着替えるから。わかる? き、が、え」
「き、か、え?」
ミョウを抱き付かせたまま、克己はクローゼットに手を伸ばし、扉を開けた。服を一つ取り、着ている服を摘んで、もう一度言う。
「き、が、え」
「あ」
ミョウはわかったのか、うん、と言って克己から離れた。しかしじっと克己を見るのは止めない。仕方なく、克己はミョウに見られたまま、着替えを始めた。
「……そうだ」
自分の着替えを済ませて、克己はもう一着黄色いシャツを出す。それをミョウの胸に当て、
「ミョウも、着替え。その格好じゃ、目立つからな」
「きかえ」
ミョウはぱっと笑って、服を脱ぎ出した。克己は一瞬慌てたが、ミョウの胸はつるんとしていて、股間には見慣れたものが付いていた。自分と違うのは、尻に尻尾が付いているくらいのものだ。くっつかれた時に気付いてもよかったな、と思いながら、
「ミョウ、一遍に全部脱がなくてもいいんだよ」
と、小さな弟の世話をしているような心持ちになった克己だ。
勿論克己の服はミョウには大きい。袖や裾を捲り、耳が隠れる程の帽子を被ると、ミョウは遥に似ている分、本当に克己の弟のように見えた。
「へええ?」
遥は面白そうに着替えたミョウを見ている。
「これなら、その辺散歩するくらいはできるだろ?」
「うん、うん、イケる」
丁度帰って来た裕美も喜んで、制服のままミョウの横に屈み、ミョウの顔をつつく。
「かわいー● 妹みたーい。あたしの服も着せたーい」
「弟だよ、裕美」
「え? そ、そうなの?」
うん、と頷く克己にぱちくりとする裕美。裕美はてっきり、ミョウを女の子だと思っていたのだ。峻や克己にあれ程強い気持ちを持っているのを見たのだから、無理もない。
「……ママみたいに両性具有じゃなくて?」
「? 違うと思うよ」
克己が思い浮かべた映像を盗み見てか、あ、そう、と裕美は引き下がる。
「へー、かわいいなあ」
ただいまより先にこう言ったのは裕太だ。ミョウの側に寄って行き、帽子の上から頭をぐりぐりと撫でる。
「うちに子供らしい子供がいるのって、初めてじゃないか?」
自分も子供らしくない子供だったくせに、そんなことを言う。
ミョウは彼らの好意に囲まれて、ほんのりと頬を染めていた。うっとりとした目で、周りの人々を見つめている。
「ただいま。……おや、小さい遥さんのようだ。可愛いですねえー」
細い目を眼鏡の奥でますます細くして、敏也が前屈みでやって来る。
「ただいま、ミョウさん。気分はいかがですか?」
ミョウは敏也を見て暫く首を傾げてから、「ただいま」と応えた。台所がどっと沸く。笑いながら、遥が尋ねる。
「な、な、ミョウ。俺達の中で、誰が一番好きだ?」
尋ねてから、えーと、と言い直す。
『一番好き、誰?』
指でぐるりと自分達を指す。ミョウは遥の指の動きを目で追って、くりんと克己を向いた。
「カツミ、好き●」
言葉と共に、行動に表す。ぐっと克己に抱き付いたミョウに、「やっぱりなー」と場は再び沸いた。
ベベロは先程から、にこにことこれを見ている。敏也はちらりとベベロを見て、楽しそうに笑う遥を見た。
三十章
地震か爆撃に遭ったようである。屋敷はすっかり瓦礫と化して、吹く風に晒されている。所々破壊の具合が違うのは、屋敷の中にいた者達が、爆発の際にそれぞれにシールドを張った結果であろう。
「おお……」
有様を見て、老が呻く。こんな光景は百年来見たことがなかった。己が未だ若い頃、地上の覇を飽きもせず奪い合っていた日々の幻影。――
「向こうに固まっているな」
高い位置から黙の声がする。自分も背が低い方ではなかったが、今ではすっかり縮んでしまって、隣に立つ黙と話すのは骨が折れる。
「……向こうは、別宅のあった方じゃな」
黙の見る方角には、元の姿とは多少変わってしまった建物の影が見える。
「行こう」
おそらくそこに、生き残った者達が寄り添っているのだ。老が瓦礫を後にして歩き始める。だが黙が付いて来ない。
「ん? どうした」
黙は黙って瓦礫に踏み入って行く。
「あ、これ」
足場の悪さを微塵も感じさせず、黙はザッザッと進む。少し遅れて、老は飛び石を渡るように、黙を追いかけた。
「何じゃ、どうした」
普段はこれこの通り、口数が少な過ぎて困る、と腹の中で黙を評する。黙は立ち止まり、瓦礫の一点を見つめた。老が追い付く先に、見つめる瓦礫をひょいひょいと退け始める。
「むっ」
黙が掘り始めたことで、その一点に集中した。瓦礫の下に、弱々しいが、知った気がある。
「――ゴウ!」
見える先に、呼びかけた。老の声に、埋まっている気が反応した。ガラリと、崩れた瓦礫の下から、ゴウの顔が現れた。
「……なんと」
酷い傷だ。青黒い血液が、額と言わず腕と言わず、体中から流れている。
「……老か」
掠れた、力ない声。どうやら、両眼が潰れている。
「お前、お前、……良いか、死ぬでないぞ」
見えぬ目を凝らすように、ゴウが顔を顰めた。
「……モクか」
「……そうだ」
「ゴウ、黙が、見付けてくれたのじゃ。お前がこれ程の傷とは……ここが爆心か」
「ミョウ……そうだ、ミョウは、ミョウはどこだ!! ミョウは?!」
力む度に、ゴウの傷から血が吹き出る。
「落ち着けゴウ、傷に障る」
抑える老の手が青黒く染まる。
「ミョウは!!」
「ここにはいない」
黙が、静かに答える。
「気を感じない。いるとしたらかなり遠くだ」
<いる>としたら、その言葉がゴウの神経を引っ掻いた。
「――キサマッ、キサマのせいだっ! キサマがミョウを拒んだりしなければこんなことには……キサマがッ!!」
「ゴウ!」
「俺はキサマを許さん! 決して許さん!!」
「止めんか!」
ゴウの両眼から血が流れる。黙はそれをじっと見て、ゴウを抑える老の背に話しかけた。
「……老」
「な、何じゃ」
背中に感じる気配に、老はゴクリと唾を飲んだ。そっと振り向く。黙は無表情だ。
「サンの国とはどこにある」
「……黙」
「ここを破壊した気は感じるが、移動している。国主とやらに直接会いたい」
黙の周りが、陽炎のようにゆらりと揺れた。
「うっ」
ぶわっと地面から風が立ち上る。風は上空で、巻き上げた瓦礫を微塵に砕いて消失した。
「……どこにある」
見えぬゴウも、老のように押し黙って黙を向いている。質問に答えずにいることが、それだけで己の命を削るような面持ちで。
「……黙。メカナに会うのか」
会わずには済むまい、とは思う。だが会うのは自分の役目と思っていた。世界を次世代に渡し損ねたかもしれぬ、老い耄れの役目だと。
もしや、渡すべき相手は、この目の前の男だったのか?
好むと好まざると、この男は周りを騒然とさせてしまう。だが今の方が、洞窟でじっとしていたこの男より生き生きとして見えるのは、年寄りの贔目だろうか。
「――わしも、行くがの」
軽く息を吐いて答えた。老の言葉に被さるように、黙が身を緊張させる。それに驚いて老もゴウも身構えた。
ズン、と地が響いた。五メートルと離れていない場所に、鉄屑のような物が降って来たのだ。それは、潰れた黒い箱だった。
「な……?」
「何があったんだ、老」
ゴウに、老が説明してやる。聞き進むにつれ、ゴウは青ざめた。最早動くことも難しいはずの体を起こす。
「それは、多分ミョウが入っていた箱だ! 中にシャナ色の布団が敷いてあった、中にミョウが入れられて」
「……ああ。それらしい物が見える」
黙は潰れた箱をじっと見つめ、眉を寄せて何かを考えている。
「何故箱が潰れているんだ、ミョウは、ミョウはどうした?!」
「これ、ゴウ」
瀕死の怪我人は思いの他強い力で老の手を振り解こうとする。
「落ち着かんか、ミョウは入っておらん! 潰れとるのは箱だけじゃ!」
黙は口に手を当て、これは、と呟いた。
「何じゃ、黙、何を見付けた?」
「……いや。何でもない」
黙は箱に興味をなくしたように、老を振り向いた。
「ミョウがサンにいる可能性は低いが、行く必要はある。俺はすぐにでも立つが、老はどうする」
「ま、待て待て、わしも一緒に行くのじゃ、そう急ぐな。ゴウを、別宅に移さねばならんしの。それに……」
ミョウがサンにおらんとは、どういうことじゃ、と尋ねる間もなく、黙は動いた。
「ではそうしよう。怪我人を運ぶ」
黙はちらりと潰れた箱を見た。と、箱は一瞬、ぎ、と揺らぎ、轟音と共に破裂した。露になった赤い(シャナの)布団を、黙が掴み上げる。ゴウに近付くと、布団をゴウの上に乗せた。そのまま布団毎ゴウを抱え、肩の上に担ぎ上げる。
行くぞ、も言わず、黙は歩き出した。老は慌てて追い掛ける。黙の肩の上で、ゴウが震えているのが見えた。
「う……」
泣いている。赤い布団を血の涙で青黒く染めて、ゴウはすすり泣いていた。
「……ミョウの匂いだ……」
呟く声には、悲しみに、幸せも混じっているように聞こえた。
三十一章
ベベロには、仕方がないので台所で寝てもらっている。隣の居間にテーブルを入れてしまえば、一番広く使えるのが台所なのだ。互いの不便は我慢することにして、食事は居間で取っている。
ベベロはプリンを気に入って、毎三食の間に、必ず一つは食べている。最初はカッププリンを買って来ていたが、そのうち不経済だと言うので、裕美がプリンの粉を買って来て作り置きしている。お蔭で家族達にもおやつができた。
食事時にもミョウは克己にくっついて、気持ちよさそうにしている。それがミョウの食事なのだが、食事時以外にものべつ幕無しにくっついているので、ミョウがいつ食事をしているかはわからなかった。
克己は食事時毎にこう言う。
「ミョウ、今俺が食べてるから、後にしてくれる?」
ミョウの返事は決まってこうだ。
「ボクも、一緒に食べる」
何をするにも克己と一緒が良いのだ。
学校に宿題のプリントを忘れて取りに行った時も、ミョウはついて来た。
「カツミ、好き● カツミ、好き●」
歩きながら、歌うように繰り返す。
「あのね、ミョウ」
「うん」
「あんまり、歩きながら言う言葉じゃないよ」
ミョウが悲しそうな顔をするものだから、まあ、いいけど、と言ってしまう。
「カツミ、好き● カツミ、好き●」
結局、ミョウは克己にぶら下がりながら歌っている。
「おさんぽ、好き● カツミと、好き●」
克己と一緒に歩くのが楽しいらしい。
「ミョウはいつも、何してるの」
「いつも?」
「ミョウの国で、どうしてた?」
「モクのおひざ」
うれしそうに、にこっと笑う。
「おひざの上。おいしい」
モクってやっぱり、だよな、と思う。
「モクに似てるから、カツミ、好き●」
「……似てるから、好き?」
「うん。おいしい●」
克己が立ち止まったので、ミョウはたたらを踏んで、克己を見上げた。
「……カツミ?」
顔を見て、泣きそうになった。
「カツミ、ボク、きらい? きらい?……」
泣きたいのは、克己の方であったのに。
「……嫌いじゃないよ。正直だな、ミョウは」
思ってはいてもはっきり言われると、きつい。事の最初から、ミョウは克己をモクと言って抱き付いたのだ。
「きらいなんだ。ボク、きらいなんだ。モクと一緒、モクの顔と一緒……」
ポロリと、ミョウの目から涙が落ちる。
「カツミもボクの顔、見たくないんだ……」
往来で、あんあんと泣き出した。
「ミョウ……」
通行人が眺めていく。
「そんなことないよ。泣くなよ」
体を屈めて、ミョウの顔に手を伸ばす。
「泣くな……」
伸ばした手はミョウに触れず、拳を作り、克己自身の顔に当てられた。
「……母さんに似た顔で泣くな」
まるで二人、親に捨てられた兄弟であった。通り掛かった山崎が見つけるまで、克己はミョウを抱き締めて、声を出さずに泣いていた。
「全く、何やってんだよ」
山崎に引っ張られて、喫茶店に入った。四人掛けのテーブルに、山崎と向かい合い、ミョウと並んで腰かける。ミョウはまだひくひくとしゃくり上げていたが、克己が頭を撫でてやると、おそるおそる、身を擦り寄せて来た。ちらりと克己を見上げる。克己が笑うと、安心したように克己の膝に頭を乗せた。
「……お前んとこのかーさんに似てるけど、親戚か?」
「……まあ、そんなとこかな」
ミョウの頭を耳隠しの帽子の上から撫でながら答える。山崎はコーヒーをずず、とすすっている。克己とミョウの前にも山崎が注文したコーヒーとジュースがあったが、ミョウは飲まない。
「……あのさあ、克己。お前時々、すっげー淋しそうな顔すんの、気付いてる?」
「……」
「やっぱ、あれか? 親父さんの……こと」
克己は目を閉じたミョウの顔を見て、そう? と言った。
「そう? って……」
山崎はコーヒーカップの中を見て、呟くように言った。
「ま、俺が口出すことじゃねーんだろうけど」
ず、とカップを空にして、山崎は椅子に凭れる。
「俺の、飲めよ」
「え、飲まねーの?」
「俺、ジュース飲むから」
「その子は? あ、寝ちまった?」
「ん……」
じゃあ、と山崎は克己の前のカップを取る。砂糖とミルクを入れて、スプーンでかき混ぜた。
克己は、ミョウを見たまま。
「――なあ、勝太。もし、俺が……俺、人間じゃない、て言ったら」
「……あ?」
山崎はくわえた二杯目のカップを離して、
「は!」
笑おうとした。その顔が、次第に真顔になる。
「どういうことだよ?」
克己は俯いたまま、薄く笑った。
「やっぱり笑った」
「笑わねーよ。言え」
「この子、ミョウっていうんだ」
克己は違うことを言った。
「……」
「俺に懐いてくれてるんだけど……母さんと故郷が一緒で……好きなタイプまで一緒で……振られたとこまで一緒なんだ」
「……て、おい、それ」
「俺さあ。父親に似てるって言ったろ」
「……克己」
「……お前、俺の父親のこと、知らないんだよな。知らなくて、俺と付き合ってるんだよな」
「あ? ああ……知らねーよ」
「……うれしい」
克己の頬に、涙が伝う。
「……克己?」
山崎は戸惑う。克己は泣きながら笑っている。目を擦り、手を濡らしながら、口は笑っているのだ。
「な、何だよ、お前、悲しいのか、嬉しいのか、どっちだよ?」
克己は俯いて涙を擦りながら、山崎の狼狽が可笑しくて肩を揺すっている。
「何だよもう、人が心配してりゃ、もう……」
山崎は前に倒していた体を背もたれに預け、カップをかっと空にして、かたん、とテーブルに置いた。
「……でもよう。それじゃお前の親父って、顔の好みはっきりした、遊び人?」
克己はあははと笑って、どうだろ、と言った。
最初に気付いたのはベベロだった。予定の場所に何時迄経っても穴が開かないので、もしや、と思い、仕掛けの場所を変えたのだ。
家の中を自由に歩ける程スリムではないので、台所に仕掛けた。途端に振子がピリリと振れた。
ミョウが家の中に現れたと聞いてから、疑ってはいたのだ。何らかの切欠で、場所がずれることはある。間違いなくこの家の中に、穴が開いている。
(続く)