「遙天は翠」

・二十五~二十八章

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   二十五章


「まあ、ほんとに、申し訳ございません」
 わたくし、ベベロと申します、とよくまあこれ程、と思う程に太った婦人は、案外に可愛らしい笑顔を見せて、巨大な体をぺこりと折り曲げた。
 ベベロは家の中の掃除を手伝おうとしたのだが、ベベロには家の中の空間が狭いのだ。動く度にパリンパリンと新しい仕事を増やすので、恐縮した挙げ句、動かないのが最良だと判断したらしい。今は、テーブルを余所にやった台所の床に直に座って(座布団が小さくて役に立たなかった)、敏也と裕太を前にしている。
「人間のお茶ですけど、お口に合うかしら」
「まあまあ、すみません」
 裕美が注れたのは緑茶だが、普通の茶碗がベベロの前だと、ぐい飲みのおちょこのようである。
「まあ! きれいな空色」
「……空色?」
 ベベロはあっと笑って、敏也に説明する。
「わたくしの国の空は、こういう色なんですの」
 はあ、と敏也は茶碗の中を覗き込む。裕太は先程から、警戒心も露にベベロを見ていた。(裕太ったら)という裕美の声も聞こえていたが、裕太はベベロを睨むのを止めない。
 ベベロは、一寸困ったように、裕太に話しかけた。
「あの、そんなに嫌わなくても、別に」
「妖魔がわざわざ母さんに用なんだ。いい話の訳がない」
 ベベロは首を少し傾げて、はあ、と言った。
「人間と結婚して、お子さんまでいらっしゃるとは思いませんでした」
 階段を下りて来る音に、台所の全員が顔を向けた。克己が、青い服に着替えて、ゆっくりと下りて来るところだった。眼鏡は、壊れてしまった。今迄泣いていたのか、目が、少し腫れぼったい。
「……お客さん?」
 克己が尋ねるのと、ベベロが声を上げて立ち上がるのは同時だった。
「……まあ、まあ、まあまあ!」
 空色のお茶は床にこぼれ、ベベロのスカートにも染みを作ったが、ベベロは一切気にしなかった。
「まあ、まあ! なんて、よく似て!」
 裕太の気配が、一層剣呑になった。
 克己は、いや柊家の全員が、その一言で客が何者かを悟った。ベベロは、峻の為に、遥を連れ戻しに来たのだ。
「まあ、ほんとに……やっぱり、やっぱりそうなんですね?」
 ベベロは嬉しそうに言い募る。裕太は立ち上がり、きっぱりと言った。
「帰って下さい。この家にあの男の入る余地なんかない。あんな男の話を持ち込むな。帰れ!」
 ベベロは驚いて裕太を見る。裕太、と宥めたのは敏也だった。
「……父さん?!」
「頭ごなしに、失礼だろう。ちゃんとお話を聞いて、断るならそれからだ」
「何を聞くんだ?! この人は、母さんをあいつのところに連れて行こうとしてる! 父さんは、何を聞こうって言うんだ!」
「聞かせて下さい」
 敏也が静かにベベロに乞うので、裕太は驚いて黙ってしまった。
「……父さん」
「……峻くんは、どうしていますか。御存知なんでしょう。彼は、誰かと一緒にいるんですか」
 敏也が峻の名を口にするのを、初めて聞いた。しかも、優しく。消息の知れない教え子を労るような口調で。
 ベベロは、一寸首を傾げ、やがて、「ああ」と得心の声を上げた。
「こちらでは、シュン、という名でいらっしゃるんですのね」
 幾度か頷き、「はい、存じております」と答える。
「シュン様は、お一人で暮らしておいでです。余り、人と関わるのを喜んでいらっしゃらないようですねえ」
「……そうですか」
 敏也は、多分その答を予測していたのだ。声には、やっぱり、という響きがある。
「……峻くんが、遥さんを呼んでいるんですか?」
 ベベロは、一寸黙ってしまった。俯き、「いいえ」と答える。
「……ただ、見ていて辛いと、老が……わたくしの仕える主人が申しますので」
 敏也は目を伏せ、やがて目を閉じた。そうですか、と、極々小さく、呟いた。
 裕太は、敏也の隣にすとんと腰を下ろした。床を睨んで、「自業自得だ」と吐き捨てる。
 裕美は何かにはっとしたように顔を上げた。見る先には、克己がいる。克己は階段の手摺に捕まったまま、じっとベベロを見ていた。やがて、ゆっくりと口を開く。
「……俺は、そんなに似てますか」
 全員が克己を見た。
「俺の父親は、そんなに苦しんでいるんですか」
「克己……」
 「父親」という言葉に反応して、裕太が克己を軽く叱る。
「東峻という人は、そんなに母さんを愛してるんですか?」
 だが克己は止めない。何を確かめようとしているのか、言葉はベベロにか、それとも。
「俺にそっくりの男は、どれ程母さんを大事に思ってるんですか? 欲しいんですか、欲しくないんですか。抱き締めたいと思ってますか。掴えて、放したくないと、自分だけのものにしたいと、俺は」
「克己!」
 裕美が叫んだ。一瞬で、克己の前に立ち、克己の顔を両手でぐっと挟む。額を着けた。
(それ以上言っちゃダメ)
「―――」
 克己にだけ聞こえた裕美の声は、克己を辛うじて黙らせた。だが、裕太にも、敏也にも、もしかしたらベベロにも、克己の声は届いてしまったかもしれぬ。
 玄関だった場所に、遥がいた。外はもう暗くなっている。ぽっかり開いた家の穴に、遥は裸足で入り込んだ。汚れている。靴を履かずに駆け出ていたのだ。
「……峻に会えるの?」
 遥の声は細く、抑揚もない。無表情に、しかしどこかすがるようにベベロを見て、一歩を踏み出す。
「……母さん」
 裕太の声は、泣きそうな非難を含んでいる。
「……会えるの?」
 ベベロは遥を見て、ああチョウラ、と呟いた。
 敏也は立ち上がり、そっと遥の前に立った。
「……会いたいんですか?」
 遥は敏也をじっと見る。
「もう、ここに戻って来られないかもしれないんですよ」
 遥は敏也を見たまま、顔を歪めて、泣き出した。
「……ああ、遥さん」
 指で、敏也は遥の涙を擦ってやる。
「遥さんを苛めようと思ったんじゃないんですよ」
 静かに涙を流す遥を、敏也は胸に抱き寄せた。優しく、髪を撫でてやる。
「……いやだ」
 小さく、遥の涙声がする。
「会えなくなるのは、嫌だ」
 峻にか。この家族にか。
「……はい」
 敏也はどちらかわからぬ答に返事して、遥を抱いたまま軽く揺すった。
「……克己」
 裕美は弟の名を呼んで、その手をきつく握った。克己は、抱き合う両親を、じっと、無表情に見ている。
 ベベロは眉を寄せ、その様子を見ていた。裕太が、もう一度、「帰ってくれ」と今度は静かに懇願した。


   二十六章


 妖魔界を大きく揺すった力はあの人間だと、国主達だけでなく、老の屋敷でミョウに付き切りのゴウもまた、正しく推察していた。老が厳しい顔をして出掛けて行ってから、間もなくのことだった。草籠の中で眠るミョウも、遠くからのモクの気配に、ぴくりと身を震わせた。モクの夢を、見ているのだろう。それはゴウには辛いと同時に、ほっとする想像だった。
 自分では役に立てぬ。それは厳しい現実だ。せめてミョウの安眠の為に、寝ずの番をしよう。そう決めて、今日でもう五日になる。ミョウはゴウの見守り続ける目の前で、少しずつ、弱っている。
 ベベロはまだか。
 老が、人間界にヨウという妖魔を迎えにやらせた。それが戻れば、幾らか事態は良くなるはずだと、老は言っていた。
 ゴウは、自分も碌に食べていないのだが、自分より遥かに痩せ細っていくミョウを毎日見ているせいで、自分も弱っているのだと、気付かずにいた。
 老が人間の洞窟から戻る前に、その事件は起きた。
 使者は、丁寧にあいさつして現れた。
「ミョウ殿を、治療せよとの仰せを受けて」
 やって来たのだと、恭しく述べた。
 サンの国の紋章を着けていた。比較的大国である。作物も豊かに実る国だと聞いた。
 使者の側に、案内して来た老の屋敷の使用人が控えている。特に怪しいところは見受けられなかったということだろう。老の留守の間に、こうして屋敷の奥まで通したということは。
「……ミョウを連れて行くのか」
「そのように承っております」
 ならば自分も同行しようと立ち上がったゴウを、サンの国の使者は拒んだ。
「ミョウ殿だけをお連れせよと」
 ゴウは引かなかった。ミョウの側から離れては、最早自分自身に意味はない。自分も連れて行かねばミョウは渡さぬと頑強なゴウに、使者は折れたかに見えた。ではご一緒にと一礼し、運び込んだ箱にミョウを移す。
箱は随分冷たく見えた。自分が籠で抱えて行くと言ったが、道行きが長いので、と使者は断る。ゴウは心配して箱を覗き込んだ。すると中にはふわりとした布団が敷いてあり、ミョウはすっぽりとシャナ色の布団に沈み込んで、柔らかく守られていた。それで安心した隙に、使者は箱の蓋を閉めた。これでは息ができない、そう抗議しようとした時、ゴウの目は何も見えなくなってしまった。

 神経を嫌な音がきつく擦り付けて行った。老は一点を睨み、何ということじゃ、と口中に呟く。
「……あれは、わしの家じゃ」
 ここからは視認出来るはずもない距離の彼方に老の屋敷はある。いや、<あった>。ようやく冷え出した地面に立ち尽くし、老は内側から湧き出る吐き気と嫌な汗に耐えている。
 老の後ろで、黙もまた同じ方向を見ている。ただじっと立っているだけのその気配が、やがてじりじりと老の背中を焼き出した。
 はっとして振り向く。黙は先程とは何等変わらぬ、無表情でそこにいる。しかし感じられるのは、明らかに「怒り」。
 老は初めて、黙の怒るところを見た。
「……黙」
「ミョウがいない」
「なに?」
「あんたの家を壊した奴は、ミョウが目的だったらしいな」
 仰天して屋敷の方を向く。老には、破裂で歪んだ空間が邪魔をして、誰の気が感じられぬかなどわからない。ただわかるのは、彼の屋敷を微塵にした気が、知っている者の悪意だということだけだ。
「……ミョウじゃと」
 この気はサンの国のナンバー二。国主の片腕、ザラサのものだ。サンがミョウに何の用だ。自分の屋敷を破壊する訳はどこにある。皆は無事か。屋敷にいた他の者達は。
「幾つかの気は感じるが……かなり減った」
 黙は静かに、言葉にしない老の問いに答える。抑揚のない声と、背に感じる力がアンバランスだった。怒っている。黙は、怒っている。ゆっくりと、老は振り向く。
「……ここで俺に殺された奴とあんたの屋敷を壊した奴は関係があるのか」
「……直にはない。ここに来た三人は、イチイ、ヒチ、ココの国の主じゃ。あれはサンの国の国主仕えじゃ。国主は国におるはずじゃ。おい、黙」
「気分としては、国毎潰しても構わんところだがな。ミョウを奪られたことだしそうもいかん」
 黙は笑って、老を見た。
「以前にあんたが駄目だと言う」
「……ああ、それはそうじゃが」
 老の戸惑いに気付いたか、黙は笑うのを止めて真面目に言った。
「笑うのは変か? 俺は呵責なしに相手を潰せると思うと笑いが込み上げる。手加減してやる必要を感じないと気分が高揚する。滅多にはないが……変なんだろうな。なんだ。心配しなくても結果的に手加減はする」
「……いや。珍しくお前が饒舌なんでな。……怒っとる、と思ったんじゃが」
 黙は笑って、ああ、と頷く。ミョウに接する時の穏やかさを知らねば、これが危険な笑顔だと到底気付かぬ爽やかさだ。
「手加減、と言ったが」
「やったことはないが、月の一つも落としてみせるぞ」
 あまりにあっさりと黙は告げる。国の真上に、月を落とすと。
 その気になれば、黙には確かに出来るのだろう。敵がミョウを連れて行ったのは、保険の為か。
(ああ、敵、か)
 自分の認識に愕然とする。妖魔界が、割れてしまった。
 サンの国は、ミョウを保険と考えたのかもしれない。だが同時に、この恐ろしい力を持った男を、敵に回したのだ。
 黙は薄く笑って、何をか考えている。怒りの波動を、笑うことで抑えているようにも見える。
 黙が、笑ったまま呟く。
「俺に関わるから、こうなる」
 どこか辛そうな笑顔で。ミョウのことか、老のことか、サンの国のことか。
(ま、わしも、部外者では有り得んしのう)
「……さて、先にわしの屋敷……じゃったところへ行かんとな。様子が知りたい」
 ザ、と黙が歩み出す。洞窟にずっと座っていた男が動き出す。
 遠く遙かな空からいつも誰かを遙念していたこの男を、何とかしてやりたいと思った。果たして自分に何とか出来る男なのかと、老は歩みながら疑った。自分が連れているのは、いつ破裂するとも知れぬ危険物だ。
 いやいや、と老は首を振る。
 確かにこの男はバランスが悪い。だが正当な怒りを感じる神経は持ち合わせているのだ。少なくとも、世界を狙って悪くしようと考える類ではない。
 この男に欠けているものを与えてやれば良い。さすれば均衡は美しくなり、彼は危険物ではなくなる。
(ベベロさんは、出掛けていて幸いじゃったな)
 愛らしい使用人を思い遣る。無事人間界に辿り着けたろうか。目的の妖魔に逢えただろうか。
 帰って来る家が無くなったのだなと、老はようやく寂しい実感を伴って考えた。


   二十七章


 ベベロが帰って行った後、そう言えば、と敏也は思い出したように口にした。
「遥さんに会ってからは、この世のものでないものには、会ってませんでしたねえ」
 なんだそんなこと、と裕美は笑う。
「だって、あたし達がいるもの」
 敏也は霊感体質で、特に独り暮らしの時には、蜘蛛だの鼬だのの化け物によく脅かされていたものなのだ。
「俺たちがいるってわかってて、父さんにちょっかい出す小物はいないよ」
 当然だろ? とばかりに裕太が受ける。
 敏也は、それで初めて家族が自分の防壁になっていたのだと気が付いた。遥を初め、裕太、裕美、克己の力は、その辺の妖かしが太刀打ち出来るものではないのだ。
「……はあ。そうでしたか」
 それは感謝しなくては、と間抜けなことを言うものだから、裕美も裕太も声を上げて笑った。
 家の中は粗方片付いていたが、玄関だけはどうにも風通しが良過ぎる。今は応急に家中の長いカーテンを集めて貼りつけてあるが、冬に向かう季節、とても快適とは言えない始末だった。明日一番に業者に電話して、壁とドアを直してもらわねば。
 幸い、ガスや電気は無事だった。テレビ画面に流れた地震情報は、震源地を間違いなくこの辺りだとしている。
「この程度で済んでよかったよ」
 ソファに凭れて裕太が呟く。
「もうすぐ、ご飯できるからね」
 台所で裕美が呼ぶ。「ママと克己呼んで来て」
 遥と克己は、それぞれの部屋に閉じ籠っていた。二人の心中が穏やかになるには今暫くかかるだろうと皆が思っていたが、食事は家族全員で食べるのだ。それが気持ちの回復方法にもなる。
「遥さんは、私が呼んで来よう」
 敏也が立ち上がり、台所の横の寝室に向かう。
「んじゃ、克己を」
 裕太は克己を呼ぶべく、階段を上った。
 ただならぬ物音と克己の悲鳴は、裕太が二歩程進んだところで響き渡った。
「克己ッ?!」
 裕太が階段を駆け上がる。敏也は寝室に手を掛けたまま振り向き、裕美は真上に意識を飛ばして玉杓子を握り締める。
「克己、克己ッ!」
 ドアが開かない。
「どうしたッ?!」
 裕太はドンドンとドアを叩く。裕太の力ならドアは軽くひしゃげて開くはずである。なのに、内側に結界のような何かがある。
「……っドアから下がれ、克己!」
 念を込める。ビキビキと、ドアに無数の亀裂が走った。触れずにドアを弾き飛ばす。
「克己!」
 ようやく見えた部屋の中に克己の姿を探す。克己は、壊れたベッドの上に腰かけていた。茫然と、裕太の足元を見つめている。
「……?」
 見た。足下を。箱があった。黒い箱。
「……なんだ?」
 大きな箱だ。事務室に良くあるスチール製の机程もある。それが、半分程床に埋まっているのである。良く見ると、部屋の中の本棚やベッドのシーツやらが、一様に箱に向かってお辞儀している。
「どういうことだ?」
 克己は首を横に振る。
「……わからない。急に引っ張られたと思ったんだ。物凄い力で、吸い込まれないように踏ん張ったら、<これ>が、……湧いて出た」
「何があったんです」
 敏也が、裕太の後ろに現れた。
「……箱?」
 裕太は、箱の蓋らしきものに手を掛けた。
「兄さん」
 気を付けて、と克己が促す。裕太は、ゆっくりと蓋を持ち上げた。気を張り詰めて、何事にも対処出来るように。だが、箱の中身は静かだった。おそるおそる覗き込むと、中には、一人の子供。
「えっ……」
 裕太が息を飲む。隣で敏也が眼鏡を外し、ばちばちと瞬いた。
「……遥さん?」
「え、何?」
 裕太と敏也がぎょっとして振り向く。
「何があったんだ?」
 遥が、様子を見に上がって来ていた。箱に気付き、覗き込む。
「……あれ? どっかでみた顔」
「……かーさんだよ」
「え? 俺? あ、そーいや……」
 裕太の脱力はほんの一瞬だった。うん、と、箱の中の子供が身じろぎしたのだ。
 敏也と裕太と遥が見守る中で、白い服を着た子供は目を覚ました。ぼーっと、半覚醒の顔で、覗き込む顔を見上げる。
『……あれ? どっかで見た……』
 可愛らしい、鈴を鳴らすような子供の声だ。
「え? 何て?」
「俺と同じこと言った」
 丸めていた身をぴくりと震わせ、子供は箱の中で半身を起こした。ぴんと耳が立つ。顔の横で、長い耳がまるで草食獣のように気配を伺う。やがて子供は捜し当てた。くるりと首を捻らせ、目に入ったものにぱっと笑う。
『モク!』
 箱を飛び出し、一足飛びに抱き付いた。克己に。
「え……?」
『モク! モク! モク!』
 子犬が久し振りに会った飼い主にじゃれつくようである。胸に抱き付き、頻りに顔を擦り付ける。克己は困って、遥を向いた。このどうやら人間ではないらしい子供が、克己を誰かと間違えているのは必至だ。
『モク、モク、抱っこして、頭撫でて』
「……克己、頭撫でてやんな」
 遥に言われて、克己が子供の頭に触る。くすんくすんと、子供は泣き出した。
『うれしい……おいしい、モク、おいしい』
 暫くそうして泣く子を宥めていると、ぐしゃ、とひしゃげる音がして、見ると、子供の入っていた箱は小さく潰れて、すっと消えてしまった。
 台所では、裕美が天井を見上げて、頭を抱えていた。箱がめり込んでいたはずの天井には何の損傷もない。
「どういうこと?……これ」
 いきなりやって来た妖魔の子供が目を覚ますなり求めたのが東峻であると、裕美には見えていた。克己をモクと呼んだ、その子供自身には、事情がさっぱりわかっていないことも。


   二十八章


 サンの国では、ザラサが国主の前でじっとうなだれていた。
「申し訳ございません」
 先程から何度目か最早わからぬ。国主は、ザラサを責めぬ。代わりに、何も言わぬ。横を見たまま、ただ黙っている。この沈黙が、ザラサには恐ろしい。
 あの人間を手中にする為に、か弱い妖魔を一匹、手に入れるはずだった。ヤサの屋敷に行って、一寸連れて来る、簡単な仕事のはずだった。しつこい鋼族の妖魔を追い払うついでにヤサの屋敷を破壊したのが間違いだった。ザラサは空間移動が使える。ミョウを入れた箱も、一緒にサンに連れて来たつもりだった。ところが、間違いは起きたのだ。
「……空間が、既に歪んでいた、ということ……」
 国主が口を開いた。はっとして顔を上げると、国主は、次第ににやりと笑っていく。
「……モクという人間が、お前の先に爆発を起こしている。それであの辺りが歪(ひず)んでいたのだ。フフ……」
 国主は機嫌が良さそうだ。ザラサはほんの少し息を吐いて、もう一度「申し訳ございません」と言った。
「時軸か地軸か、歪んでいることに気付けば、ミョウという子供もなくすことなく、メカナ様の計画に支障もございませんでしたのに」
 国主が立ち上がる。ザラサはびくりと黙り込んだ。ザラサは体格の良い、武骨な作りの男だ。それが、ほっそりとした色の白い、美しい女のような顔をした国主の一挙手一投足に、一々過剰に反応する。
 過敏にもなる。ヤサからサンの国を元々与えられたのはメカナではない。メカナは国主であった自分の夫を食らって、二代目の国主になったのだ。それぞれの国の内政には口を出さぬと、初めにヤサが決めていた。以来メカナは、サンの国を、自分が良かれと思うように治めている。結果、それが国の為になるか、部下が痛い目を見るかは、おまけでしかないのだ。
 サンの国の民には、二種類しかいない。メカナを恐れて服従するものと、メカナに心酔して平伏(ひれふ)すものと。ザラサは少し特殊だった。何故なら、彼はメカナを、恐れながらも、愛していたからだ。
「……ザラサ」
「は」
「人間はここへ来るだろう。丁重にもてなすように」
「……は」
 低く頭を垂れて、ザラサは国主の前を辞した。


(続く)


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