・二十三~二十四章・
二十三章
遥が、黒い服を着て見せてくれと言う。
家の中に、二人切りだった。裕美と克己が学校から帰って来て、敏也と裕太が仕事から帰るにはまだ間がある時間。夕食までには帰るわ、と言って、裕美は友達の家に出かけていた。
「……え?」
克己は、一度は空惚けたのだ。頭の片隅に残っている良識が、『応えてはいけない』と信号を送っている。
「ちょっとだけ……さ」
遥は要求を引っ込めなかった。克己は軽く頷いて、自分の部屋へと階段を上った。
知っている。自分はこの為に、あの服を捨てずにいたのだ。あれから新たに、紙袋の中に服と一緒に忍ばせてある、未使用の整髪剤も。
部屋に入り、着替える。自分の服を脱ぐのは、まるで自分の性質そのものを脱ぎ捨てるようだった。替わりに着込む黒い服。身に着けるのは、服だけではない。思い出す。彼についての全ての情報。裕美に聞かされた話。何より、直に出逢った、あの深く、悲しげな目。
髪を整髪剤の付いた両手で掻き上げる。クローゼットの鏡に映るのは、あの男だ。
(俺は……誰だ?)
ぼんやりと、遠いところで声がした。克己はそれを無視し、意識の奥に蓋をした。
遥が階段を上って来る。足音が部屋の前で止まる。克己はドアを開けた。ドアの前で、遥は俯いている。遥が顔を上げるのを、克己は待った。遥はなかなか動かない。それでもじっと待っていると、俯いたまま、遥は部屋の中へと歩み入った。克己はドアを閉め、遥の背中を見ていた。
克己は焦れて、かあさん、と呼び掛けるところだった。奥に仕舞った自分が、蓋を開けて戻ろうとした、その時、遥が、振り向いた。
懐かしそうに、自分を見た。その視線が、克己をまた『彼』にした。
「……びっくり」
言葉程、遥に動揺はない。少なくとも、表には現れていない。
「よく似てんなあ……ヨウ、て、呼んでみてくれる」
悪戯(ふざ)けた口調だった。笑って、克己にねだる。元より克己は、どんなことにも応えるつもりだった。彼の声を真似て、彼の表情を真似て、低く、優しく、呼び掛ける。
「……ヨウ」
悪戯けた影が、遥から消える。
「……なに。……」
小さく返事し、峻、と呼ぶ。眇めた目に涙が滲み、堪え切れず俯きながらの謝罪は、口に当てられた手と溢れた涙に遮られてくぐもっていた。
「ごめ……」
遥はもう克己を見ない。ただ俯き、泣くだけだ。克己は遥を抱き締めた。肩を、背を、ぎゅっと我が身に引き寄せる。
「……っ」
胸で遥が短く息を吸ったが、克己は構わず遥の頭を抱え、自分の頭を擦り付ける。
遥を抱いているのは誰だろう。
愛しさに胸が痛いのは誰だろう。
「……かあさん」
聞こえたのは誰の声だ。口を突いたのは誰の言葉だ。
「克己……?」
遥の不安そうな声。遥が呼んだのは自分か? 自分だ。遥は、自分を呼んだ。自分が、遥を抱いているのだ。愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、――唯一のひと。
遥が、何か言った。声も、愛しい。言葉も。言葉と共に出る吐息も。何もかも。
(―――克己、ダメ!!)
ドアが激しく開いたのは、裕美の念波が届くのと同時だった。腕を掴まれ、顔を激しく殴られて、克己は我に返った。
「バカ野郎!!」
裕太の拳に吹っ飛ばされて、克己はベッドに激突した。直撃を受けたベッドは、無残にも音を立てて二つに裂けた。
「……にいさん」
克己はぽかんと裕太を見た。裕太は憤怒の表情で、仁王のように克己を睨み付けている。
「裕太、違う、俺が、俺が……っ」
勢いで壁に飛ばされていた遥が、慌てて裕太にしがみ付く。
「俺が悪いんだ! 克己は悪くないっ!」
「お前は! 母さんに自分の子を生ませる気かッ?!」
ハッとした。夢のような甘美の中、自分の唇は、遥のそれに触れなかったか。成されたのか未遂なのか。記憶に自信がない。
「あ……」
青ざめた克己の隣に、裕美が現れた。大急ぎで友達と別れて、瞬間移動でやって来た。
「克己、克己、大丈夫よ、大丈夫」
裕美自身青い顔をして、克己を慰める。傷に気付いて、ポケットから出したハンカチで、克己の口の血を拭った。
「あ……ごめ……んなさい……ごめん……」
克己は震えて、自身の肩を抱き、頭を抱える。裕美は克己の横に膝を付いて、克己の頭を抱いた。
「大丈夫、誰も克己のこと嫌いになったりしないわ。ね、克己」
震える声で克己は呼ぶ。
「……かあさん」
「ママだってそうよ。ね」
裕美が遥を向く。裕太に掴まっていた遥は、克己の視線に合って部屋を逃げ出した。
「ママ……?!」
裕太は遥を追おうとしたが、髪を引かれたように部屋に留まった。振り向く先で、克己は目を見開きがくがくと震えている。
「克己、克己」
裕美が宥めるが、克己の目はぼろぼろと涙を溢し続ける。
「裕美、手伝え!」
言うが早いか、裕太は部屋全体にシールドを張る。裕美は、言われる前に、克己を包むようにシールドを張っていた。
「克己、大丈夫よ、落ち着いて!」
おそらく、どちらか一人では間に合わなかった。克己の力は、兄弟三人の中で、一番強い。そして、脆い。
耐えられず、自暴自棄になった克己が解放した気は、それでも全体の何分の一かに過ぎなかったのだ。隣町辺りまで、震度四程度の揺れが伝わった。無論、柊の家の中はそれ以上、震度五を記録していた。棚の物が倒れ、窓が幾枚か割れた。これでも被害は小さかったとするべきだろう。
家の揺れで、克己はすぐに自分を取り戻した。びくりと顔を上げ、一点を見つめた。見つめる先の、ドアが開いた。裕太のシールドが効いているはずのドアを潜り抜けて、敏也が部屋に入って来た。
「父さん……」
裕太が、戸惑った声を出す。敏也は、部屋の中を一瞥して、事情を察したらしい。ほんの一瞬、悲しそうな顔をして、次に、薄く微笑んだ。
「……遥さんが、物凄い勢いで家を出て行ったんで、一体どうしたのかと思ったんだが」
鞄を提げた仕事帰りの格好で、敏也は克己に近付いていく。壊れたベッドに凭れるように座り込む克己の前に屈んで、敏也は左手で克己の顔をぺちんと叩いた。
「パパ」
「駄目じゃないか克己。裕太と裕美が抑えてくれなかったら、今頃御近所は大パニックだ。力を抑えるのは慣れているはずだろう? ……これはここまで」
克己は目をぱちくりとさせて、敏也を見ている。
「……克己。お前は克己なんだ。他の誰になる必要もない。遥さんだって、お前に別人になって欲しいとは思ってないぞ。誰かが誰かに似ていることは、この世に普通にあることだ。特別変わったことじゃない。似ている人に心まで囚われるな。お前はお前なんだ。いいな」
今度は左手で、優しく撫でる。自分より大きく育った息子の頭を、二度、三度。
克己は、俯き、頷いた。敏也に、小さく、涙声で。
「……ごめんなさい、父さん」
敏也は、うん、と言って立ち上がった。部屋を出る時、裕太に家の中の片付けを手伝うように言う。
裕太は、ちらりと克己を見てから部屋を出た。裕美は暫く克己を見つめて、労るように声をかけた。
「大丈夫? 克己」
「うん」
克己は笑って頷いて見せる。強がりは裕美に対して無効だと知っているが、今は笑って頷くしかない。克己の心情を読める裕美に、少なくとも虚勢を張れる程度には平気なのだと知らせて、多少の安心をしてもらうのだ。
「……そ」
裕美はにこ、と笑って、立ち上がった。
「おなか空いたら下りといでね。ママも、おなかが空いたら帰って来るに決まってるんだから」
裕美を見送って、一人になった部屋で俯いた。
両手で顔を覆う。かあさん、と呟いた。
台所の窓が割れているのは、克己の部屋の真下だからだろう。
「ああ、やれやれ」
遥の気に入りのコップが割れているのを見付けて、敏也は溜め息を付いた。
「父さん……」
片付けを始めている敏也に、階段を下りて来た裕太が話しかける。敏也は割れたコップを見たまま、うん、と言った。それから階段の裕太を見て、にこっと笑う。
「大丈夫だよ。遥さんは、今は私の奥さんなんだから」
敏也はビニール袋に、やっぱりこれは捨てた方がいいでしょうねえ、と言って、割れたコップを放り込んだ。カシャン、カシャン、と壊れた食器や窓ガラスを袋に入れていく。
裕太の後ろに、裕美が下りて来た。裕美は重い顔をして、敏也を見ている。誰にも言えぬ克己の心情が、峻のせいなのか克己のせいなのか、裕美だけが知っている。
裕太が階段を下り切った時、玄関の方で物凄い音がした。めりめり、ばきん、ぐしゃん、続いて、あれあれ、という女性の声。
玄関は随分風通しが良く、敏也達の位置から訪問者が丸見えになっていた。
「まあまあ、どうしましょう、わたくし、だわね、わたくしが壊したんだわねえ。あら、まあ、ほんとうにごめんなさい、壊すつもりじゃなかったんですのよ、わたくし、あの、御用があって、ええと、こちらにヨウ様とおっしゃるお方が、いらっしゃいませんかしら」
婦人は申し訳なさそうに、自分を注視する家人に尋ねる。
克己の力で、壁にひびぐらい入っていたかもしれない。玄関のドアは周りの壁毎剥されていて、かなりふくよかなその婦人の体がつかえる心配はなさそうだった。
二十四章
峻を訪ねて来た妖魔は、その日それで三人目だった。
老が妖魔界を幾つかに分けてから、百年と少し経つ。世界を分けた当初は、老自身が睨みを効かせていたこともあり、以降は分けられた国同士が巧く機能し合って、妖魔界全体を揺さぶるような争いは今のところ起きていない。飛び抜けた実力者が現れなかったこともある。だが今、ほんの少し事情は変わっていた。
峻が妖魔界に現れてから所謂有力者が接触を試みなかったのは、様子見の為だった。峻自身の性質ももちろん、他の国の出方。峻の力が膨大なものであるのは、どの国も把握していた。だがその膨大さ故に、手を出し兼ねていたのだ。
かつての統治者、老が峻に接触したのは、現国主達にとってもっけの幸いだった。これで峻の性質が知れる。力の程が知れる。
国主達は、峻を扱い易しと判断した。人間界から来た異分子は、老や、出来損ないの妖魔にさえ、害を与えずに接している。十二分に懐柔する余地があると解釈したのだ。
そこで国々は動き出した。使いを立て、あるいは国主自ら、峻の力を我国のものにしようとやって来た。峻に直接会う前に、他国の国主に鉢合わせ、追い返された使者もいた。
そうして追い返された者や、あるいは遅れて出発した者達は、運が良かったのだ。
峻の洞窟には、三人の妖魔が雁首を並べて座っていた。互いに牽制し合い、峻の気を引こうとする。三人はいずれもかつて老に国を分け与えられた者達だった。
「我が国は景色がいい。おそらくそなたの故郷に似た部分もあるはずだ」
一人が言う。
「こんなところでは碌に食料もないだろう。何を食べるのか教えて頂ければ、望みの物が用意できる」
また一人が言う。
峻は、何度も「帰れ」と言ったのだ。ここで一人だけ引く訳にはいかぬ、そんな風に考えたのだろう。三人は誰も立たなかった。そしてそのまま、立たず仕舞いだった。
峻は、誰にも会いたくなかったのだ。ましてこんな詰まらぬ話を、延々聞かされるのは迷惑だった。
一人が言った。
「黙殿は、想う妖魔がいると聞いた。我々なら出来る。すぐに捜し当て、連れて参ろう」
これが止めだった。峻は閉じていた目をカッと開くと、相手を思い遣るのを止めた。
峻は、目を開いて見ただけだった。目の前にいた三人の妖魔は、洞窟の壁に影だけを残して、消え失せた。
峻は、三人の妖魔を殺した。
膨大な熱量を感じて、老は峻の洞窟へと急いだ。かつての自分の部下達の気配がそこへ集まるのを感じ、向かう途中だった。外から見た限りでは、洞窟には何の変化もない。
「黙や」
入口から声を掛けた。一歩を踏み入れる。皮膚がぴりぴりと痛んだ。凶悪とも言えるエネルギーが通り過ぎた後だ。だが残留する力からは、憎しみも敵意も感じ取れぬ。
「黙……」
再び呼んだ。洞窟の主は、奥まった彼の席に鎮座したまま、目を閉じて何も返さぬ。
ふと、壁の影に気付いた。それが何物であるか理解するにつれ、老の目は見開かれていく。
「お……おお、おおお……」
口から、獣のような声が漏れた。
「黙……お前、……何ということを」
国の主が、三人消えた。余所の世界の人間によって。妖魔界の混乱は、必至だ。
「……うるさくてかなわん」
ぽつりと、小さく応(いら)えがあった。
「……なに?」
峻は、どこか楽しそうに呟く。
「邪魔だと思ったら、勝手に消えた」
老は、身の震えを止めることができなかった。
「は! ……はははは」
峻は笑う。笑ったまま、老を見た。
「壊れるのが嫌なら、どこかへ行け」
震えるのは、何の為か。何とかせねばならぬ。何とかせねば。このままでは、この男はどこへも行けぬ。ここにも居られぬ。
「……黙よ」
「行け」
言い放つ。
老は、命の終わりを覚悟した。
「……ヨウを、呼び戻す」
峻の体が、激しく一つ震えた。堪(こら)えている。峻は堪えている。老を、殺したくないのだ。
「お前はこのままでは駄目になる。お前を救えるのは、ヨウしかおらんのだろう。ヨウを側に置くしか、お前は……」
洞窟が、弾けた。
次には己の体が弾けるのだと、老は峻を見据えて待った。
ズガン、ガガン、と岩山が砕ける。巨大な石が降って来る。老の上に落下したそれは、不思議なことに幾千の破片に砕け散った。
「……お前」
誰の仕業かすぐにわかった。黙は震えている。震えながら、目を閉じ、自分の体をきつく抱いている。抑えようとしている。気の乱れを整え、いつもの自分に、平静な自分に戻ろうとしている。
辛いはずだ。どんな攻撃を受けるより、自分の力の暴走を抑えることが、黙には。その混乱の中で、黙は老を守っているのだ。愛情のかけらをもはや置いてしまった相手には、微塵の痛みも与えたくはないのだ。
老は、瓦礫と化してしまった足場をふらふらと進んだ。まだ地響きは止まぬ。足下に亀裂が入る。黙は、涙を流さずに泣いている。
黙の側に辿り着いて、老は屈み、黙の肩に手を置いた。
「……どうどう。もう良い。お前も辛いのう……」
老はきょろきょろと遠くを見透かすように辺りを見渡した。
「うーむ……今さらじゃが、確かにこりゃいい場所じゃ」
そしてぽんぽんと黙の肩を叩く。
「構わん。わしが許す。いっぺんどわーっとやってみい。うん?」
黙が顔を上げ、老を見た。「うん」と今一度頷いて見せる。
「我慢は体に悪いじゃろう」
黙は老をじっと見て、顔を正面に向けた。探るような気配を見せたと思うと、徐に老の腕を掴み、自分の膝に引き倒した。
「お……何じゃ?!」
ぐっと抱え込まれ目を白黒させた一瞬後、老は自分の皮膚の一寸上を、巨大な熱と光が通り過ぎるのを感じた。
「―――……」
何というエネルギー。自分はまさに爆心地にいるのだ。目を開けていても何も見えず、空気、いや空間が歪むのを感じるだけだ。黙は特に何の力も入れていない。腕の力は、老を自分から放さぬ為だ。
老は周囲の被害を心配した。自分が許すと言っておきながら、誰も死んでおらぬとは思えなかった。
だが、徐々に視界が利くようになり、エネルギーと爆圧で歪んだ感覚も戻る頃には、黙が、生命、少なくとも人型知的生命……妖魔達の生活は壊さぬ程度を認知しての爆発範囲だと知れた。それでも見渡す限りは、見る影もない地形の変化を遂げている。
「……黙。お前、これで力のどれ程じゃ?」
「……半分……以下だな」
知らず黙の腹にしがみ付いていたと気付き、咳払いをして立ち上がる。
黙は、少しはすっきりした顔をして、老にすまない、と礼を言った。
むにゃむにゃと老はごまかして、まだ冷え切っていない、波打った地面を見た。
さて、とりあえず黙は落ち着いたようだが、この後が大変じゃぞ、と老は考える。
これだけのエネルギーの爆発を、国主達が見逃すはずがないのだ。主をなくした三つの国についても考えねばならぬ。
(ベベロさんは、うまくやっとるかのう)
さて、どうしたものか。ちらりと黙を見ると、黙は冷めた目で、緑色の空を見ていた。
(続く)