・十四~十八章・
十四章
克己は春から、十五歳ということで、敏也の勤める高校に入学することになった。同じく裕美は十三歳ということにして、地元中学に入学する。
「なんでお姉さんのあたしが克己より年下なのよお」
「仕方ないだろ。どう見てもお前より克己の方が老けてるんだから」
裕太は隣町の法律事務所で、経理の事務をやっている。
「老けてるって……裕太にいさん」
「んだってこいつ、『幼い』ってったら怒るんだもんよ」
裕美を指して裕太は言う。この際克己(おまえ)が老けてることにしないと、と付け足すが、克己の見た目はせいぜい十七、八、老けていると言われる程ではないのは確かだ。もっとも、人間の成長速度を基準にするなら、兄弟三人共が老けている。この時点で実際の年齢は、裕太が一歳三か月、裕美が八か月、克己が三か月である。
その生みの母は、相変わらず十代にしか見えぬ顔で、ケラケラと笑っていた。
「いーじゃんか。年なんてすぐどーでもよくなるって」
御年百一歳のお言葉である。重みがあるのやら、ないのやら。
戸籍上は裕太も裕美も克己も皆養子だが、御近所さんには、若いお母さんねえ、と思うに任せている。親戚に預けていた子供達を、少しずつ呼び戻している、とでも思っているかもしれない。
裕太は克己が成長するにつれて、一つ二つ、約束をさせた。
「いいか。服はなるべく明るい色を着ろ。前髪は上げるな、下ろしとけ。もう一つ、メガネをかけろ」
「俺、目悪くないよ」
「伊達でいいんだ」
育つにつれ、克己は峻に似てくる。少しでも印象を遠ざけようと、裕太の苦心の跡が、今の克己のスタイルだった。
眼鏡をかけ、黄色や緑の服を着て、いつもにこにこと笑っている。笑うと眼が細くなって、背の高さも手伝って、克己は敏也似に見えなくもなかった。
(そんなに似てるかな)
幼い頃に(いや、今でも幼いといえばかなり)一度会ったはずの、父の姿を思い出す。
鏡の中の自分の顔を見ながら、克己は毎度こう思う。
(俺、あんなにいい男じゃないぞ)
人生の酸いも甘いも噛み分けたような、深い表情が目の奥にあった。鏡の中の顔は、どう見たってのほほんとした坊ちゃんだ。
確かに、かなり変わった出自ではあったが、克己の笑顔は、一見したくらいでは、そのことを窺い知らせはしない。
妖怪と人間の合いの子、しかも兄弟達とは父親が違う、ということは、克己の精神をねじ曲げる力にはならなかった。ただ、少しずつ、少しずつ、己が育つに連れて、普段は天真爛漫でしかない遥の、時々現れる自分を見る目の痛みを含んだ色には、気付かない訳にはいかなかった。
(ママが一番好きな人の子供なのよ)
母の最愛の男は、自分に一目会って以来、どうやら二度と現れてはいないようだ。その息子の自分は、遥にどうしてやるのが一番良いのだろう。
十五章
克己が高校に入学したその日から仲良くなった友達がいる。名前を、山崎勝太(やまざき しょうた)という。ごく普通の、一般的な元気の良い男子である。どちらかといえば控え目な克己になんやかやとくっついて来てはいろいろと面倒を見てくれる。克己とて人間社会デビュー前に一人で学校生活を送れるくらいには生活力を身につけていたのだが、初めての友達と共にいるという心地よさに、つい甘えてしまうこともあった。
山崎はそばかすの浮いた顔をにっと笑顔にして寄って来る。
「克己、お前のとーちゃん、三年の柊先生だって?」
「うん。……あ、うちに来るの、嫌?」
山崎はブンブンと首を振り。
「やじゃねーよ。そりゃ先生んち行くのってちょっと緊張すっけどな。お前んちに遊びに行くんだし」
「うん。じゃあ今日、約束通り」
「おう」
互いににこっと笑って確認する。放課後二人連れ立って歩き、克己は初めての……家族中で最初の客を家に上げた。
「へえ、克己の友達かあ。あはは、同じ服着てら。待ってろよ、なんか食いもん持って来るからな」
家には遥がいて、機嫌よく山崎を迎え入れる。母親だと克己に教えられて、山崎は暫くものが言えなかった。
「……あはは、若いだろ」
山崎は黙ってこくんとうなずく。やがて裕美が中学校から帰って来た。
「ママ、ねえ、授業参観があるんだって、平日なのどうしよう、パパ来らんないわよねえ……あらっ克己、帰ってたのお帰り」
玄関をばたばたと駆け抜け、二階へ上ろうとしていた克己達と階段の前で会った。お友達? と尋ねる顔で裕美は山崎の方へ首を傾げる。克己が紹介をし、山崎が頭を下げる。「ごゆっくり」と裕美は笑って、再び「ママ」と台所へ駆けて行った。
階段を上りながら、山崎が溜め息をつく。
「お前の妹、かわいいな」
「そう?」
本当は姉だ。
台所で、遥はコップにオレンジジュースを注いでいた。
「授業参観? てあれだろ、俺行くよ。敏さんじゃなくてもいいんだろ」
裕美が「ええー」と不服の声を上げる。遥はムッとして、「いーじゃん俺でも! 俺も学校行ってみたい!」と主張する。
「だってママ、遊びに来ちゃうじゃない。遊びじゃないのよ、授業参観なんだから」
「親も学校行っていいってことじゃねーのかよ」
裕美はもういい、ママもパパも来なくていい、と結論付けたが、遥はまだ未練がありそうにぶつぶつ言っている。これはどうせ当日やって来るに違いない。
部屋に入って、克己はすぐ、「悪いけど、ちょっと着替えるね」と鞄を置くなり学生服を脱ぎ出した。山崎は克己の椅子に座りながら、「おう、いいぜ」と答える。
「やっぱ詰め襟ってしんどいよなー。俺中学ん時ブレザーだったからなおさらさ。お前の中学、どうだった?」
山崎はとうに詰め襟のホックを外して寛いでいる。克己は箪笥を開けて、曖昧に答える。
「……別に詰め襟がしんどい訳じゃないけど……家で黒っぽい服って、なるべく着ないことにしてるんだ」
「へ?」
山崎は腑に落ちない顔をする。学生服を脱いで克己が着たのは、黄色のトレーナーと水色のジーパンだった。
「……へー。またなんで」
克己が答える前に、部屋のドアがノックされ、お盆を持った裕太が現れた。
「あれ、兄さん」
「や、どうもようこそ、克己のお友達の山崎くん。あってるだろ? あはは、仕事の書類忘れて取りに来たんだけど、克己の友達が来てるっていうから、ちょっとあいさつ。はじめまして、兄の裕太です」
「は……ど、どうも、はじめまして」
お盆毎ジュースを置いて行った裕太は、ちらりと克己の服装を確認して行った。それに気付いたのは克己だけで、山崎は半ば呆れて口を開いている。
「……お前んとこの兄ちゃん、男前だなあ……かわいい妹さんも、両方お母さん似だよな」
言って、克己をふっと見る。
「あ、いや別にお前が不細工だって言ってんじゃないぞ。お前どっちかってーとしょうゆ顔で……背も高いし。父親似か?」
にこ、と笑って克己は答える。
「……うん。父親に似たんだ」
階下で、ガタガタする音が暫く響いた。やがて収まると、裕美の階段を上る音。ノックの後、そっとドアから顔を覗かせた裕美は、申し訳なさそうにこう言った。
「克己……ママはりきっちゃってさ。一応これ、ホットケーキ。ママにしちゃ九十点の出来だって、友達に証言しといて」
お盆の上には、お世辞にも丸いとは言えない焼き菓子らしきものが二つ。
「あっすごい」
克己は正直に感動を声にしたが、山崎は裕美の登場に緊張したのと皿の上の物体に怯えたのとでか、声が出なかった。
十六章
夜、遥と裕美が作った食事を皆で食べながら、食卓を囲んで話している。
「パパ、今日のおみそ汁はね、ママが作ったのよ」
「そうですか。おいしいですよ、遥さん」
幸せそうな敏也に、にっこにっこと遥がねだる。
「じゃあさあ、俺、裕美の授業参観に行ってもいいかなあ」
笑ったまま、うーん……と敏也の動作が止まった。遥はぷーと膨れて不服を表す。
「なんだよー、いいじゃんかあ。俺だって学校行ってみたい!」
「ええと、遥さん、大して面白いもんでもないですよ。遥さんがぱーっと暴れられるような場面もありませんし」
宥める敏也に、遥はぶちぶちと訴える。
「別に暴れに行くんじゃないじゃんよお。俺だって裕美の学校見てみたいし、裕美の学校壊すようなことしねーもん……多分」
その「多分」が曲者なのだと、柊家の者は承知している。買い物に行った先で、駅に傘を持って敏也を迎えに行って……出歩かずとも、留守番をしていて家の中で。遥は、この一年で、いろんな物を破壊している。
「だって、触っただけで壊れるなんて思わねーじゃんフツー」
スーパーの商品棚。
「敏さんに傘持ってったのに通せんぼするからさあ……」
駅の改札口。
「止め方わかんなかったんだもん……」
鳴り止まない電話。
確かに遥は大分力の加減に慣れてきたが、それでも興奮すると、つい力が入り過ぎる。怪力は裕太にも受け継がれていたが、初めから人間界で暮らしている分、力の調節は巧く出来た。
唐揚げ(これは裕美の作だ)を一つ飲み下して、裕太は言った。
「まあ母さん。授業参観より面白そうなのがあるよ。今日回覧板で回って来てたんだけどさ。体育の日に、住民運動会があるんだって。裕美の中学のグラウンドで、って書いてあったよ」
遥の前髪の一部がぴくっと反応する。
「うんどーかい?」
声が既に跳ねている。
「あ、うん、そう!」
裕美も思い出した内容に目を煌めかせる。
「ま、もちろん加減は必要だけど、授業参観よりはよっぽど暴れられるよ」
言って、裕太はずず、とみそ汁を流し込む。敏也があんまりはらはらと心配そうな顔をするので、「大丈夫だって」と椀から口を離さずに言った。
「賞品がね、でるの! 町内毎とか、確か個人でも。あのねえ、IHI炊飯器があったのよ。これがあれば、ママでもおいしくご飯が炊けるわ!」
「ほんとか裕美?!」
「うん!」
ぐっと拳を握り合う遥と裕美。克己は敏也の心配を気遣っていたが、あんまり遥が嬉しそうなので、気にするのを止めて喜ぶことにした。
「父さん、一家で参加しようよ。きっと楽しいよ。お弁当持ってさ」
隣の敏也に参加をねだる。
「……私は運動はあんまり得意じゃないんですがねえ……」
その口振りが、運動会への参加を許可していた。裕美が力強く保証する。
「大丈夫! 最初っからパパは戦力外だって期待してないから!」
やや取り繕うように克己が続ける。
「と、父さんの分も俺達が頑張るから」
はあ、そうですね、と情けなさそうに頷いて、敏也は優しく遥を見た。
「遥さん、力の加減、出来ますか?」
「へーきへーき」
にっこ! と笑って遥は請け合う。
「一週間くらい前からずっと敏さんにくっついて寝れば、うんと力安定するし」
敏也は一寸頬を赤らめた。
「……そうですね」
敏さん、イビキうるさいけどね。微笑む敏也に遥が笑った。
十七章
今度は俺んちに来いよ、と山崎が言うので、克己は学校帰りに、山崎と一緒に歩いている。山崎の家は学校の近くで、行くのに電車に乗らなくとも良い。十五分の道のりの途中で、商店街を通った。ふと、克己の昔の記憶が蘇る。昔と言ってもほんの四、五か月前である。克己がまだ、小学生程の体をしていた頃。一度家族の目を盗んで外へと冒険に出た時に、この辺を通らなかったろうか。
「克己さ、服って自分で買うのか」
「え」
丁度洋服屋のショウウィンドウの前を通った時、山崎が克己を一寸見上げて尋いた。
「……Tシャツぐらいなら」
「それも、黄色とか緑とかか?」
「うん」
山崎は立ち止まり、はああ、と溜め息を吐くのだ。
「……お前さあ。こないだ見た格好も、緑のシャツにオレンジのズボンだったろ? あれ絶対ヘンだって。お前せっかくルックスいいんだから、もうちょっとマシなカッコしろよ」
「……そうかなあ」
考え込む克己に、山崎ははっと顔を上げて言い募る。
「お前、まさかマジで自分ブ男だと思ってっか? ない、それないぞ、自信持て」
「え? ……いや……そっちじゃなくて……いや自信とかじゃなくて……そんなに変かな?」
「……」
山崎は、真面目な顔でポン、と克己の肩を叩くと、
「俺が見立ててやる」
「え? ……え?」
そのままずるずると克己を洋服屋に連れ込んだ。
そうして半ば無理矢理山崎に買い込まされた服は、真っ黒な上下だった。
「お前絶対黒似合うって」
山崎の家に辿り着き、山崎の部屋で買って来た服を広げている。
「着てみろよ」
克己は黒の服を眺めながら逡巡していた。こんな服は、きっと家では着る機会がない。別にそれはそれでいいのだが、一方では好奇心もあった。
「……整髪料あるかな」
顔を上げた克己の言葉に、山崎は面白そうに頷き立ち上がる。
「お? やる気になってきたな」
克己は学生服を脱ぎ、眼鏡を外し、黒い服を着て、山崎の持って来た整髪料で前髪を後ろに撫で付けた。言うことを聞かない幾筋かが、はらりと戻って額にかかる。
「……」
山崎は、息を飲んで克己を見た。克己は、鏡の中の姿に、あの日の彼を重ね見た。
(確かに、いくらか若いけど……)
あの時の彼は、確かコートを着ていた気がする。克己は勝手に、目に付いた山崎のコートを取って羽織った。また幾らか、記憶の中の姿に似た。
「……お前、似合い過ぎ」
山崎が言葉を息と共に吐く。克己が目を遣ると、山崎は呆然と克己を見ていた。
「ヘタすっと、こわもてのおにーさんだぞ、克己」
そのカッコで会ってたら、友達になんなかったかもな、と呟く。多分今の克己は、表情もいつもとは違っていただろう。母の最愛の彼の姿を、無意識にしろ己に再現しようとしていたのだから。
「年上のオネーサンもゲットできそうじゃん」
山崎は明るく笑う。だが克己は、裕太が何故あれ程身なりのことを厳しく言うのか、今初めて理解したのだ。
「……着ない方がいいな、黒い服は」
「……へっ? なんで?」
克己が辛そうに笑う意味が、山崎にはわからない。コートを脱いで、克己は加えた。
「父親に、そっくりだから」
克己が髪をくしゃくしゃと戻すのを、山崎は黙って見ていた。克己の言う「父親」が「柊先生」ではないと、気付いたからこその沈黙だった。
「……内緒、な」
にこ、と笑って口止めする克己に、山崎は、「ん」とやはり笑って頷いた。
家に帰ると、克己はすぐに風呂に入った。髪に付いた整髪料を、もやもやした気分と一緒に、洗い流したかった。
裕太も裕美も帰って来ていて、克己は裕太に「シャワー浴びる」と言って風呂場へ行った。学校から汗まみれになって帰って来て、夕飯前にシャワーを使うことは何度かあったので、そのことについては裕太は何も言わなかった。一寸笑って「母さんが台所でまた何か張り切ってるぞ」と新聞から目を上げたが、克己は多分後ろめたかったからだろう、「ふうん」と答えただけで、足早に居間を通り過ぎた。
服を脱衣籠に入れて洗い場に入り、ともかくすぐに髪にシャワーを当てた。冷たい水が出たが、克己はじっと打たれている。頭を冷やすつもりもあった。
自分の父親が母の最愛の人で、それは敏也ではないということは、十分にわかっていたつもりだったのに。
鏡に映った己の姿が、改めて自分に思い知らせた。自分は敏也には似ていない。似ている。よく似ている。自分は彼に、よく似ている。
彼が、現実のものではない虚像を借りて、鏡の向こうから克己を見ていた。
(――お父さん……)
裕太は彼を目の敵にし、裕美は彼の味方をする。克己は判断が付けられずに、彼を憎みもしない代わりに、裕太の言う通り、彼に似て見えぬよう振る舞って来た。
克己は無意識に、風呂場の鏡に向かって、自分の髪をかき上げていた。悲しそうな顔が、似ているような気がする。
「克己ー、せっけんなかっただろー?」
遥の声だ。見ると、シャンプーの隣にある石けんの受け皿には、つと流れて行きそうなちびた石けんしかなかった。
「あ……うん」
洗い場のドアを開ける。すぐそこに遥は、石けんを持って立っていた。
遥は、電流を受けたようにびくりと揺れた。体が強張り、呼吸が止まる。目を見開き、克己を凝視する。ガツン、と遥の手から石けんが落ち、洗い場の床に滑った。
「母さん……?」
克己が怪訝に問いかけた時、遥の後ろから裕太がやって来た。
「母さん、克己入ってただろ?……」
そうして見て取り、息を飲むなり裕太は怒鳴った。
「克己……バカ!!」
「え?」
「髪ッ!!」
言われて克己もはっとした。
「あっ……ごめん!」
慌てて洗い場に引っ込みドアを閉める。ドアの向こう、茫然と突っ立つ遥を、裕太がしっかと掴む姿が視界から消えた。
「母さん、しっかり……克己だよ!」
裕太が遥を揺さぶる気配が、ドア越しにした。
「あ……うん……わかってる。へーき。びっくりしただけ……」
遥の声が頼りない。シャワーの水音でくぐもるせいだけではない。
遥は、克己を食い入るような目で見た。
峻だと、思ったのだ。
愛しい、あの男だと。
克己は、蛇口を思い切り捻った。水が勢いよく体を打つ。水煙が、少しだけ自分と遥を守ってくれる気がした。
十八章
老妖魔は、枯れ木にも似たその体を外(おもて)の風に晒していた。日に一度、こうしてこの妖魔界(せかい)の空気を感じる。彼が妖魔界に君臨していたのは遥かな昔のことだが、これはその時からの変わらぬ癖だ。世界の隅々までを感じ取らぬと、どうにも落ち着かぬ。
彼の体がまだうんと若く、血気も盛んだった頃、彼はこの世界唯一の君主で、日々、彼に取って代わろうとする者達との争いに明け暮れていたものだ。だが今は、それが嘘のように世界は静かだ。彼が己の老いを感じ始めた頃、彼は自分からこの世界を分けた。信の置ける者に、彼一人で担って来たこの世界を、小分けして任せた。今のところは、それが正解だったということになる。世界は静かで、極めて平和だ。妖魔界全体が震える程の力は、どこにも見えない。
だものだから、余所から現れた人間の力を初めて感じ取った時には、彼は死ぬ程仰天したのだ。その時は幸いか、その力は間もなく失せた。しかし程なく風は再び人間のエネルギーを彼の元へと運んで来た。確かめぬうちは、これは重大な脅威だったのだ。
会ってみれば、何のことはない、大人しい平和的な草食竜だった。それでもその力の大きさに影響を案じていたが、心配は不要だった。何せ、あのミョウが懐いたのだ。
「老――……」
風に声を攫われながら、物見櫓に上って来る者がいる。小間使いのベベロだ。
「……ベベロさん。こりゃまた無茶を」
ベベロはひいひい言いながら、背丈の二十倍はある建物のてっぺんにやって来た。敵の襲撃に備えて頑丈には作ってあるが、この櫓も大分古い。ベベロの増えまくった体重に、ぎいぎいと悲鳴を上げていた。
「わたくし、やっぱり痩せるべきですわね、あ、どうも申し訳ない」
老が手を引いてやると、ベベロはよっこらしょ、と最後の段を上り切った。
「昔はこんな階段、一駆けでしたのに」
ふひー、と息を吐いて、悔しそうに言う。
「そうじゃそうじゃ。昔はベベロさんはこーんなにスマートでチャーミングじゃった」
にやっと笑って手のひらを寄せて見せる。老はおっとと、と言って付け足した。
「いやいかん、もちろん今でもチャーミングじゃが」
ベベロは恥じ入る声を出す。
「嫌ですわ。もう……百年も昔ですかねえ」
ふくよか過ぎる頬に膨らんだ手を当て、ベベロは可愛らしく笑った。
百年前は、妖魔界でも一、二と謳われた美貌の持ち主である。笑顔の可愛らしさには、今でも十分面影があった。
「老こそ、昔はモテモテだったじゃありませんか。ヤサさま、ヤサさまーって」
「むう、男にも女にもモテモテじゃった。みーんなわしの命と妖魔界(せかい)を狙った奴じゃった」
あらそんな、とベベロは心外な声を出す。
「それは、わたくしも含めてということですの」
ぷう、とむくれると、ベベロの頬は肩よりも膨らんで見えた。老はかっかと笑い、嘘じゃ、と宥める。
「……名で呼ばれたのも、久しぶりじゃのう」
ヤサという名は、世界に君臨するのを止めた時に捨てた。完全な傍観者となって、残りの命を飄々と生きたいと思ったのだ。
だが、それでもこうして、今でも櫓に上っている。
自分はこの世界を愛しているのだ、と納得して、彼はこの癖を、老人が惚けぬ為の日課だと考えた。
「……百年前といえば、チョウラはどうしたでしょう」
「……」
百年前、ベベロもそれは可愛らしかったが、恐ろしく美しい妖魔が一人いた。
細い腕に見合わぬ強力で、並の力自慢など、触れただけで吹き飛ばされた。それがチョウラだ。
チョウラの気配は、百年前から感じない。
「……うむ。あれは、ミョウとはまた別の意味で、奇跡じゃったな」
奇跡のように美しく、強い魔物。チョウラは、男でもあり、女でもあった。彼に惚れて、子を成そうと寄って来る者には、それこそ男にも女にも不自由しなかった。かくいう若い頃のヤサもその中の一人である。
チョウラの美しさは、今も鮮烈な印象となって老の目に焼きついている。ヤサを見て、ふ、と嘲るように笑った。まさか自分が振られるとは思っていなかったヤサは、かなりショックだったことを覚えている。
ベベロは、その頃から、ヤサを支えてくれている。
チョウラは、多分、死んだのだろう。
誰かと子を成したようだが、その子の気配も近頃消えた。
奇跡のような命は、長くは続かない。
「……さ、そろそろ下りるか。ところでベベロさん、何でまた櫓なんかに上る気に」
ベベロは照れ臭そうに身をゆさゆさと揺する。
「たまには、いいじゃありませんか。久し振りにヤサさまと、二人になりたかったんですよ」
老は一寸目を見開いて、そうかそうか、かっか、と笑った。
「手でもつなぐかね」
「あれ、恥ずかしい」
言いながら、ベベロは老の手をしっかと握って、老に続いて櫓を下りた。
(続く)