・十~十三章・
十章
黙がいなくなったと言って、ミョウは泣き叫んだ。
ゴウはおろおろと、ミョウの周りで立ち尽くすだけである。
ゴウは、自分の体は固くて、撫でてもミョウを「おいしく」してやれないことを知っている。ぎゅっと抱いても、ミョウに「痛い」と言わせてしまうのが落ちなのだ。
だから、ゴウは我慢している。なるべくミョウに触らぬように、愛しい、この奇跡のような生き物を、見守るだけで満足している。いや、満足していた。
あの、人間が来るまでは。
あの人間は、ミョウをとても心地よくする。あの人間が現れてから、ミョウは毎日腹一杯に「快」を食べた。初めは悔しかった。いや今でも悔しい。自分には逆立ちしたって叶わぬことを、あの人間は簡単にやってのけたのだ。だがミョウが心地よいなら。そう思って、我慢した。特に危害を加える風でもない。持っている力の割りには、大人しい気性のようだ。心配はいらない。そう、安心しようとした。
いなくなればいいと、正直言えば考えた。ミョウの過ごす時間が、少しでも自分の元に帰ってくればいいと願った。だが。
ミョウが泣くことは、望んでいなかったのだ。ゴウは今、後悔している。黙よ消えろと願ったことを。ミョウが側にいるのは嬉しい。だがそれ以上に、ミョウが泣いているのは、辛い。
「……ミョウ、な、きっと今頃、アカナジの花が満開だ。見に行こう。な、淡(うす)ナジ色で一面で、きっときれいだぞ。……そうだ、カサージの町で、きれいな服を見つけた。柔らかい布で、お前の好きなメメン色だった。買いに行こうか。な」
ミョウは泣き止まない。小さな声で、モク、モクとあの人間の名を呼んでいる。
「……ミョウ」
ゴウは、わかっていて、ミョウを抱き締めた。辛くて、愛しくて、胸にぎゅっとかき抱いた。
「……いやだ、おいしくない、おいしくない……」
予測通り。いやいやするミョウを、痛い気持ちで放した。ゴウはミョウを、気持ちよくさせてやれないのだ。
ゴウは鉱物を食べる。この金属臭い体は、そんなものを栄養とする。自分の一族は古くから妖魔界に存在する。酷な環境を生き抜く為に淘汰されてきた体だ。それを思うと、ミョウの存在はまさしく奇跡だ。こんなにふわふわしていて、「快」の感情などを食べる。妖魔界が少しは豊かになってきた証しなのだろうが、それでもミョウは、明らかに生存競争には不向きな生き物だ。
ゴウはミョウが大事だ。何物にも代え難いと思っている。
例え、長い一生、二度とミョウに触れることが叶わずとも。
十一章
裕美は、遥が知らないうちに生まれてきた。昼寝から目を覚ますと、腹の中にいなかったのだ。仰天して広くもない家の中を走り回った。水音がするので風呂場を覗くと、裕美は一人で産湯を使っていた。
「……裕美か?」
裕美は既に三歳児程に見えた。ドアを開けた遥ににこーっと笑って言ったものだ。
「はーい、ママ。あたし急いで大きくなるの。ママのこと、守ったげるからね」
「……お前、どうやって」
「自分で出たのよ、ママの中から」
裕美には、念波と、瞬間移動の力が備わっているようだ。直接お風呂場に来たから、どこも汚してないと思うわ、と裕美はぺたんこの胸を張った。
帰ってきた敏也と裕太は、もちろん驚いたのだ。敏也は、裕美の成長ぶりに。裕太は、口には出さなかったが、裕美の考えていることに。
その晩、裕太は裕美をこっそり家から連れ出し、問い詰めた。
「どういうつもりだ、裕美」
「あら、なにが?」
裕太は渋い顔をする。
「とぼけるな。お前、母さんをあの男に、一度や二度じゃない、会わせてるだろう」
「いけないの?」
裕美はしれっと肯定する。端から見れば、成人した男と幼稚園児がまじめに口論しているように見える。二人とも遥に似た、目の大きいきれいな顔をして、互いを見上げ見下ろし、睨み合っている。敏也の遺伝子はまるで入ってないように見えるが、遥のDNAの方が強い、ということなのだろうか。
「ママはね、あの人が一番好きなの。裕太だってわかってるでしょ? ママは、あの人といる時が一番きれいなんだから」
「馬鹿言うな。あいつは母さんを苦しめたんだぞ。そんな奴に今さら会わせて、どうしようってつもりなんだ。大体、父さんのことは考えたのか」
「敏也パパだって、知ってるわ。全部承知で、ママの旦那さんになったんだから」
「そうじゃないだろ。だから、今母さんは父さんの妻なんだ。俺たちの母さんなんだ。なんで今さらあの男に会わせる必要があるんだよ」
「ママが会いたがってるからよ。あの人だって、ママに会いたがってるわ」
「そんなの許せるか!」
「許したっていいじゃない。愛し合ってるのよ、あの二人」
裕太は、ここにいない男を念じ殺すような顔をした。
「……だったら何で、母さんを苦しめる。裕美、お前には聞こえてるんだろう。あの男の声も。母さんはあいつに捨てられたんだ。今さらどんないい訳をして、母さんに近付くんだ?」
「いい訳なんかしないわ。あの人は、何も言わないもの。黙って、ママとほんの少し、空気を感じるだけ」
裕太はぎりっ、と歯を噛んだ。
「……裕太、ね、あたし達はママを好きよね。ママもあたし達を好きよ。ママ、いなくなったりしないわ。ね、裕太」
裕太は唇を噛み、黙り込む。
「あの人だって、そんなこと望んでないもの。あの人、ママも好きだし、敏也パパも好きなの。だから……」
「……俺は、許さないからな」
言い捨てて、裕太は家の中に戻った。裕美には、裕太が遥を心配している声が聞こえる。敏也を案ずる声が聞こえる。
「……だって、あの人といる時は、ママ、ほんとにきれいなんだもん」
裕美は呟き、少し遅れて家の中に入った。
十月。裕美は、小学生程度に成長していた。
「ママ、お散歩いこう」
裕美がこういう時には何が起こるか遥はもうわかっていたので、ドキドキしながら「うん」と答えた。急成長途中の裕美を余り人目にさらしたくはないが、もしご近所に尋ねられたら、親戚の子ということで対処しようと思った。
天気は薄曇りだったが、裕美は帽子を被って出掛けた。遥はきちんと戸締まりをして、先を行く裕美の後をついて行った。
意外と目的地は近かった。隣町の公園。土曜日の昼間なので、子供連れの母親が他にもかなりいた。
「こんにちは。あまり見かけない方ですけど……」
一人の婦人が、愛想よく遥に話しかけた。
「え……えっと、よそものなんで……」
「ママ、あたしあっちで遊んでくるね」
裕美は元気よく砂場の方へ駆けて行く。
「可愛らしいお嬢さんですねえ」
若く見える遥を新米ママさんと思ってか、裕美を見ながら、婦人はやさしく遥に話した。
こんなに人がいては、きっと峻は現れない。現れたとしても、遥の側には決して来ない。ここで、待つしかないのだろうか。遥はぼんやりと、余所の子供と遊ぶ裕美を見た。もしかしたら裕美は、子供と遊んでみたかっただけなのかもしれぬ。そう思い当たって、遥はほんの少しちくりと痛くなった。途端に、裕美の声が聞こえてくる。
(ママ、心配しないで。あたしはママの味方だって言ったでしょ?)
砂場から、裕美がばちんとウインクを寄越した。遥はぱちくりとして、ぷっと吹き、投げキスを返してやった。見ていた婦人が、どう思ったか、口に手を当て、ころころと笑った。
日が暮れ始め、先程の愛想のいい婦人も、自分の子供を連れて「お先に」と公園を出て行った。遥はベンチに腰かけ、裕美と遊んでいた最後の子供が、お迎えが来て帰って行くのを見た。裕美は立ち上がり、ぱんぱんとスカートの砂を払い、水飲み場で手を洗い始めた。
ぼんやりと、空気が変わるのを感じていた。夕方から誰そ彼時を経て夜になる。逢魔が時とも言われる時間帯、まるで空気に溶け込むように、彼は、そこに立っていた。
公園の入口。水飲み場の側。目が合った裕美はにこっと笑って、洗い終わった手をハンカチで拭き、ブランコの方へと駆けて行った。
「……」
峻、と、呼びかけたかった。またどうせ、彼はあの場所から回れ右をして、遠ざかって行くのだ。遥はベンチから立ち上がることも出来ずに、せめてと空気を感じている。ところが、裕美を見送っていた峻は、向きを変えて、遥の座るベンチへと近付いて来るではないか。半信半疑の遥の隣に峻が座る。裕美はそれを見て、ブランコを下り、公園を出て行った。
「……元気そうだ」
声。峻の声だ。
「……うん。峻も」
少し、震えた。互いに顔は見ていない。別々に前を向いて、世間話のように。
「いい子だな」
「だろ? 裕美ってんだ」
もしかして、裕美なのだろうか。峻に、こうして話せと言ったのは。
「……幸せか?」
「……うん」
「……そうか」
峻は立ち上がった。遥は咄嗟に、峻のコートを握った。峻は振り向かない。
「……話せて楽しかった」
静かな声で峻は言う。「手を放せ」と、言外で言っている。遥は震えて、放すことも、行くなと言うことも出来なかった。ただコートの裾を握って、震えている。峻が振り向いた。
「……ヨウ、泣くな」
ぽろぽろと、言われて涙がこぼれ出た。
「誰が泣けと言った。俺は泣くなと言ったんだ」
「だっ……だってっ……」
もう我慢できない。
「だってっ……だって……!!」
立ち上がり、峻に思い切りしがみ付く。常人ならば、骨がぼろぼろに砕ける程に。
「あっ……あっ逢いたかった……逢いたかったっ……!!」
ひんひんと泣いて、遥は峻を掴える。峻はされるままに黙って見ていたが、やがて小さく溜め息を吐き、もう一度「泣くな」と言った。
「決心が鈍る。頼むから泣くな」
遥は尋ねるように顔を上げ、峻の手に顔を擦られた。
「何て顔だ」
峻は笑っている。遥の涙は、拭いても拭いても後から出て来る。何度もごしごしと手で擦って、峻は諦めたように遥の頭を撫でた。
「……ここは居心地がいいか?」
峻を見たまま、遥は答える。
「……うん」
「先生は大事にしてくれるだろう」
「うん……知ってんの? 敏さんのこと」
答えてから、遥は目を見開き峻に尋ねる。峻は、笑っただけで答えなかった。
遥は峻の胸に顔をぐっと押し付けて、思い切り息を吸った。
「ああ、峻だ」
溜め息のような、くぐもった声。安心する響き。
「俺、何べんも夢で見た。峻が、おはよう、って返事するの。俺の声に、返事する……」
ごろんと転がって、寝て起きたら、そこにまず峻がいる。幸せな夢を、何度も見た。
「……そうか」
「気持ちいい……」
離れなければならないと考える程、遥は切なく、離れられなくなった。もう日は沈み切って、空には一番星が見える。
「……ヨウ」
峻の声は、もう帰れと言っている。遥は反発するようにぎゅうっと峻を抱き締める。
「……先生が心配する」
「いま敏さんのこと言うな……っ!」
遥の目から、再び涙が溢れ出す。
「……泣くな」
静かに、峻が言う。
「頼むから、泣くな」
「きいてやるか、バカ!」
泣き顔をきっと峻に向けた。
「バカヤロー、峻のバカ、バカ、バ……っ」
峻が、遥を抱き締めた。
「……峻?」
ぎゅっと、ぎゅうっと、折れん程に。
おそらくそれは、峻にとってのタブーだったのだ。愛しいものを、想いのままにその手に抱く、ということは。
遥は初めて峻に抱き締められて、血がカッと熱くなるのを感じた。多分初めて、遥は発情した。
「……峻」
熱くてどうしようもない体を治める方法を、遥の本能は知っていた。
「……峻」
自分は、好きな男の、子を産むのだ。
遥は顔を上げ、峻の唇を求めた。峻は応えた。体が震える。幸せでガクガクと震える。互いの体をしっかりと抱いて、幾度か接吻を繰り返した。自分の背の力強い峻の腕。
「好き……峻、好き……」
言葉に峻は答えないが、抱き締める腕が、答えていた。口付けを止めても、まだ離れ難く、暫くは二人、互いに体を押し付け合っていた。
十二章
遥が三人目を妊娠したと気付いた時、敏也は複雑な顔をした。
「……そうですか。それは、良かったですね」
大事にしないと、と敏也は笑う。自分に覚えがない以上、遥の相手が誰か、明確だった。意に染まぬ相手に許す程、遥は軟弱ではない。
(裕美、ちょっと来い)
念波で、裕太は裕美に呼びかけた。だが裕美は聞こえない振りをして、「さーて食事の準備」と台所へ行くのだ。
(生まれて来る子が可哀想だと思わないのか!)
自分達を置くにしてもだ。裕太は思ったが、彼は家族を、何より母親を愛していたので、遥のあんな顔を前にしては、何も言うことができなかった。
遥は、幸せそうな顔をしていた。心(しん)から望んだことなのだと、見ればわかった。どこか男のようで女性、母親とは遠い人だと思っていた。だが両性具有ということは、ちゃんとどちらかになれるということなのだと裕太は再認識した。
敏也の気持ちを思い遣った。簡単に言ってしまえば、彼は最愛の妻を間男されてしまったのである。この場合誰を罵ればいいのかと頭をばりばり掻いていると、敏也が引っ込んでいた自分の部屋から紙切れを持って現れた。
「男の子でも女の子でも、『克己(かつみ)』という名はどうでしょう」
紙切れには、幾つも名前を書いては消した後がある。裕太は呆れ、感動し、自分の父親を誇りに思った。
「……いいね。『己に克つ』か。いいんじゃない、父さん」
まず裕太に支持され、敏也は嬉しそうな顔をした。
「へえ? いい名前なんだ? じゃそれしよう、それ」
遥は何も考えていないようにあっけらかんと笑って同意する。
「賛成。じゃあたしの弟は克己ね」
「え、そうなの裕美?」
台所から顔を出した裕美に遥が尋く。こっくりとうなずく裕美は、
「きっといい子だよ」
と付け足した。
裕美の予言通り、二か月後には男の子が生まれた。「きた」と一言いうと、遥は風呂場に駆け込んだ。その日は日曜で、家族全員が家にいた。遥を追って皆が風呂場へ向かう。洗い場に俯く遥の背中を、敏也がさすってやった。赤ん坊が激しく落ちて怪我をしないようにと、裕美がタオルを持って待機する。
裕太は、脱衣場から見ていた。まだ気持ちに整理は付いていない。子供に罪はないと思いながらも、このままあの男の子供を家族の一員として平気な顔で迎えられる自信がなかった。
「遥さん、しっかり」
「ママ、頑張って!」
励まされながら、苦しいのだろう、遥は涙を流して身を揺すっている。やがて、子供は出て来た。遥の喉を擦り付け、口から、裕美の広げるタオルへと。
小さい。大人の手のひら一つ分程しか、その赤ん坊はなかった。静かだ。ぴくりともしない。
「……克己?」
裕美がタオルの中を覗き込む。息をしていない。
「――どいて!」
裕太は洗い場に駆け込んだ。右腕を伸ばし、手のひらを激しく克己の胸に当てる。気を送り込んだ。
「きゃ……」
裕美は克己を取り落としそうになり、慌てて抱え込み直す。腕の中から、極めて遠慮がちな泣き声が聞こえ始めた。
「……やった!」
ぱっと裕美が笑う。ふうと裕太が息を吐く。
「遥さん、良かったですね!」
遥の肩を抱いて敏也が笑う。遥は、ぼんやりと、生まれた子供を見ていた。涙を流して、そっと、裕美の差し出すタオルに手を伸ばす。触れて、ぽつりと呟いた。
「ちっせー……」
タオル毎、ぎゅっと抱いた。
「おっきくなれよ」
遥のその願いが届いてか、克己はやがて、柊家一大きな背丈になるのだ。
髪の色で、もうその予感はあった。克己は、峻似だ。
裕太も裕美も、遥によく似た茶系の髪で、目もぱっちりと大きく、ちょっと派手めな美男美女である。だが克己は、真っ黒い髪に、切れ長な目……黒髪に細い目というのは敏也もその通りだったのだが、その顔立ちは、明らかに敏也ではなく、峻に似ていた。
一週間で一歳程に育った克己を見て、以前敏さんが裕太と裕美が俺似なのは遥さんの方が強いからでしょうかねえ、て言ってたけど、じゃあ克己が峻に似てるってのは、俺より峻のが強いってことなのか? と考えて、遥は少しムッとした。
克己は、遥の胃にいる時から、(お前はママが一番好きな人の子供なのよ)と裕美に聞かされ続けていたので、自分だけが敏也の子ではないのだと知っても、自殺を選ぶ程にはショックを受けなかった。
なにより、家族みんなが、他の家族を愛していた。克己も確かに、その中に含まれていたのだ。
克己が小学生程に育った時、遥が寝ている隙に、一人で外に遊びに出たことがある。敏也と裕太は仕事に、裕美はまだ人間社会デビュー前だったが、寝てしまった遥の代わりに晩ご飯のおかずを買いに出掛けていて留守だった。
裕美には多分、聞こえていたはずだ。側にやって来た、峻の決意が。聞こえていて、裕美は遥を起こさず、克己が外に出るのを黙認した。
克己はドキドキとしながら外を眺めた。自分はまだ子供の姿なのだから、大きくなるまで二度と出なければ大丈夫、そう考えての冒険だ。初めての世界に頬を紅潮させて、克己は人通りの少ない、昼下がりの住宅街を駆けていた。
つい調子に乗って、遠出した。日が暮れ出して、帰らなくっちゃと思った時には、帰り道がわからなくなっていた。
慌てて、きょろきょろして走っていたせいだろう。克己は誰もいないと思っていた道で、人とぶつかってしまった。しまった、覚えられないようにしなくちゃ、と考えながら、「ごめんなさい」と謝った。行き過ぎようとして、ふと立ち止まった。
その人は、とても背が高かった。敏也よりも高いだろう。一瞬、一寸驚いた顔をして、薄い色のコートを着たその人は、高い位置から、西日を背にして、じっと克己の顔を見ていた。その人の顔は――もしや自分に、似てはいなかったか。
「あの……」
その人の顔を見る為、克己は思い切り見上げねばならなかった。
背の高い人は、克己の前に屈んだ。涼しげな目が、やさしく笑んでいた。
なんだか、その目が、淋しそうにも見えて。
克己は尋ねた。
「おとうさん……?」
答を聞かずとも、わかっているという気がした。
彼は、すっと右手を横に伸ばして指差した。
「……家族の人が心配している。家に帰りなさい」
頭を撫でようとしたのか、右手は克己の方に向けられ、躊躇って、結局その手は下ろされた。
彼はそのまま、立ち上がって克己に背を向け、遠ざかって行った。
克己は彼を見送った。あれが、お母さんの一番好きな人なのだ、と確信して。
十三章
ゴウは弱り果てていた。ミョウが、何も食べぬのだ。きれいな服も、いい匂いの花も、ミョウは心地よいと感じぬらしい。悲しくて悲しくて、何を見ても触っても、「快」の感情が湧かぬのだ。これも、拒食症というのだろうか。
「老、あの人間はどこに行ったんだ」
ゴウは老妖魔に尋ねた。以前妖魔界に来た峻に、いろいろと質問を試みた妖魔だ。
「ミョウが何も食べない。このままでは死ぬ」
老妖魔は自分の屋敷に来て泣きながら訴えるゴウの様子を見て、死にそうなのはこっちの方じゃないのかと思った。
「教えてくれ老! どうしたらあの人間に会える。ミョウを治してやれる!」
「これこれ、落ち着かぬか、お前の腕でそう叩かれては床が抜ける」
目の前でガンガンと床を叩くゴウを諫めて、老はふう、と溜め息を吐いた。
「……俺はどうせこんなだ。金物臭い役立たずだ」
「そんな風に言うな。ゴウ。しかしお前はまたなんで……」
ミョウにそこまで、と言おうとして、花咲く森の中で生まれたてのミョウを見付けたのはこのゴウで、あまりの柔らかさに怯えて抱えることも出来ず、誰か運ぶ者を、とここに飛び込んで来た日のことを思い出した。
ゴウはその日から、ミョウを大事に、大事に見守って来たのだ。
やれやれ、と老は心中に呟く。違い過ぎるものに惚れ抜くと、斯様に痛い目に遭うものだ。
「……俺は、どうしたらいい」
ゴウはすっかり萎(しぼ)んでしまって、剛腕のゴウと謳われた日の影など、まるで見えない。
どうせ世界の気紛れで生まれた、生き延びるには不向きな子供だったのだ、と、老は言うに言えないでいた。このゴウを前にして、諦めろ、などと何故言える。
がたんがたんと、廊下を走って来る音がした。この重たげな音は、わたくし太り過ぎで痩せなくっちゃ、と言いながら間食を止めない、小間使いのベベロさんじゃな、と老が思う間に、ゴウの後ろの扉が開いた。老の予測通り、扉の幅より広い体が、ぎしっという音と共に覗いた。
「老、老、サジの林にあの人間が……」
ゴウは皆まで聞かずに飛び出した。「あれえ」と叫ぶベベロを弾き飛ばして、老の声も聞かずに走って行く。
林を抜けたところで、ゴウは峻を見付けた。見るなり駆け寄り、物凄い形相でグッと峻の腕を掴んだ。
「来い!」
峻は、驚くでもなく問うでもなく、何もない涼しい顔をしている。ゴウは峻に、必死に泣き喚く。
「お前のせいで、ミョウが死ぬところなんだぞッ!!」
峻は、ほんの少し目を見開いた。ゴウが引くままに、逆らうでもなく駆けるでもなく、ついて行く。
ミョウは、峻が住み着いていた洞窟にいた。せめて、とゴウが持ち込んだ敷物を敷いて、じっと穴の中で横たわっていた。
元々細い腕が痩せ細り、掴んだだけで折れそうに見えた。萎(しお)れたような耳が、ぴくり、と動いた。
「……ゴウ?」
洞窟の入口に立ったゴウの足音を、ミョウは聞き分けた。
「うん、俺だ、ミョウ」
「……だれか、いるの」
ゴウの後ろに、峻がいる。ゴウは峻を振り向き、じっと見た。俯き、峻に前を譲る。
俯いたまま、ミョウを頼む、と言った。
「……撫でてやってくれ。ミョウを……抱いてやってくれ」
「……ゴウ? だれ?」
ミョウは、体を起こそうとしているようだ。ゴウが連れて来たのが誰か、見ようとしている。峻はゴウを見て、「君は」と言った。途端、ミョウの両耳がぴんと立った。
「モク?……モク? ねえ……」
ゴウが叫ぶ。
「早く!」
「モク?!」
峻はゴウを見るのを止め、洞窟の中へと進んだ。ミョウは身を捻るように起こし、顔を峻へと向けていた。その顔は、震えている。幸せの予感に、震えている。
「……モク」
側に屈んだ峻に、腕を伸ばし、すがり付く。ふわふわと壊れ物のようだったミョウの腕は、更に貧弱になっていた。こちらが手を出さずとも、ミョウが自分で抱き付いただけで、ぽきりといきそうだった。
「わかった、寝ていろ」
峻は静かに言って、ミョウの腕を取り、そっとさすった。
「……おいしい……」
涙を浮かべて、ミョウが呟く。
「そうか。良かったな」
「うん……」
見つめ続けるのが辛くなり、ゴウは洞窟を後にした。目を擦り、こう思う。自分のは、涙でさえ金属臭い。
(続く)