・五~九章・
五章
敏也は慌てていたので、職員室を出る時、開き切っていない戸に自分の足を強か打ち付けてしまった。
「あっあたたたたっ」
足を抱えて鞄を落とし、慌てて拾う。
「柊先生、大丈夫ですか?」
同僚の呆れた声に笑って振り向く。
「は、はい、大丈夫です。失敗失敗」
「柊先生は、奥さんのことが気がかりなんですよね」
くすくすと笑って女教師が助け船を出す。
「おめでとうございます、おめでたですって?」
「へえ、そうなんですか。こないだご結婚されたばかりでしょう? 意外とやりますねえ柊先生」
「い、いや、そんな」
敏也は真っ赤になって頭を掻く。鞄を抱え直して頭を下げた。
「それじゃ、お先に失礼します」
「奥さんお大事にね」
「はい」
背中の声に返事して、敏也は職員室の戸を閉めた。
「ただいま」と家のドアを開けた途端に聞こえた破壊音に、敏也は靴を放るように脱ぎ捨て玄関に駆け込んだ。
「どうしたんですか遥さん?!」
台所では、遥が呆けた顔をして、冷蔵庫のドアを握っていた。
「……あ、敏さん。おかえり」
「……た、ただいま」
冷蔵庫は、見事に横転していた。だが、ドアが、丸毎遥の手に残っている。
「のどかわいたから、なんか飲もうと思ったんだけどさあ……」
冷蔵庫のドアを開けようと引いた拍子に、冷蔵庫本体が倒れ、めりめりとそのままドアが外れたのだ。
「……そうですか」
「ニンゲンのモノって、ほんともろいな。力の加減、慣れたと思ったんだけど……孕んでて、調子狂ったかな……」
不本意そうに遥は言う。遥はその細い腕からは想像もつかない程の怪力の持ち主だ。この小さくて軟らかい体のどこに、と敏也が思ったのは、一度や二度ではない。
「……ごめん、敏さん」
上目使いに遥が謝る。家具を破壊してしまうのは、最近ようやく日常茶飯事ではなくなってきていたのだ。
「いいですよ、遥さん。それより、怪我なんか、しませんでしたか?」
大事な体なんだから、と敏也は遥の体をさする。遥は嬉しそうに敏也に抱き付き、おねだりをした。
「今度さ、あれ買おう、あれ。かわりばん庫ってやつ。テレビでやってる」
「……はい」
多少は呆れた声が出た。敏也はこうして何度も、遥が壊しては薦める家具を買ったのだ。それでも敏也はこの妻がとても愛しかったので、
「わかりました。かわりばんこですね」
軟らかい体をぎゅっと抱き、壊れた代わりの家具を決める。敏也の力は、遥にはとても心地よいらしい。抱きしめる具合も、溢れるエネルギーを和らげる気の具合も。
「ああそうだ遥さん、ゼリーみたいなものなら食べられますか?」
遥は胃で子供を育てる。妊娠したら、生まれるまで何も食べないのだ。取るのはわずかな水分だけ。
「んー、やめとく。こないだつまんないから食おうとして吐いちゃったしな。ガキまで吐いたらシャレなんねー」
「……そうですね。あと何か月かかるんでしょう」
「わかんねーや、俺孕むの初めてだし」
「……」
「……なに? 敏さん」
「あっいいえ!」
「なんだよにやにやして」
遥が百年も生きてきた妖怪だと知って、敏也は遥と結婚した。百年の間にロマンスの一度や二度はあったのだろうと覚悟していた。
「なんだよー?」
「好きですよ、遥さん」
「え? うん」
一寸、いやかなり幸せな気分になって、敏也が遥を再びぎゅうっと抱き締めたくなっても、責められはしないだろう。敏也は遥を妻と認識していたので、孕ませた場合についての考慮はすとんと欠落していたのだが。
「ねえ敏さん、気持ちいいけど、冷蔵庫、片付けなくていいの?」
「あ、そうですね」
そう言いながらも、暫くは離れ難く、遥に頬擦りをする敏也だ。
そうして男の子が生まれたのは、遥が妊娠して三か月目のことだった。
「いやー、気持ち悪くてさー、なんかつまみ食いしたっけ? て考えてたら、げろげろって。口から」
敏也が学校から帰ってきて唖然としたのは、遥が口から子供を産んだからでも三か月で生まれたからでも……いや少しはそれもあるが……ない。子供が、立って、歩いているのだ。
「よ……遥さん」
「やー、でかくなるわなるわ。朝、げろってやったんだけどさ。朝の、もう倍くらいにはなってんじゃねーかな」
まさしく生まれたままの姿で歩き回っている子供を、敏也は風呂に入れて、服の代わりにタオルで巻いてやった。
親馬鹿丸出しで「私がお父さんですよー。ごめんねーまだ名前も決めてないんだよー」とやっていると、子供は円な目でじっと敏也を見て、「おとーさん」とやった。敏也は仰天して子供を抱えて遥のところへ走る。
「えー? そんなもんじゃないの?」
遥はけろっとこう言うのだ。どうやら子供の成長の具合も、人間とは著しく違うらしい。
日に日に育つ息子に、敏也は、これは普通に通学させるのは無理だなと諦めた。成長速度が落ち着くまでは、外に出すことも憚られる。
「えー、なんでー?」
「別に悪いことじゃないんですが、ご近所さんにばれると、いろいろ面倒なことになるんですよ。我慢して下さい」
仕方なく、遥は子供と一緒に家に閉じこもることになる。
「しょうがないなー。おかーさん、おとーさんの言うこときこう」
ふくれた遥を、人間の二歳児程に育った裕太(ゆうた)がなだめた。
敏也が学校に行っている間、遥が家でどうしているか、裕太は多分、遥の胃にいる時から知っていた。一人でいる時、遥は大抵ぼうっとしている。テレビを見て笑っている時もあるのだが、ふといつも思い出すことがある。そうなると、会いたくてたまらなくなる。まるで体が痛いように、身を抱いて蹲る。敏也の前では、裕太の前でも、遥はそうしなかったが、裕太はそれを知っていた。
ある日、裕太は遥と並んで昼寝した。
「寝る子は育つっていうし」
自分が眠いのだろう、と小学校高学年くらいに育った裕太は思ったが、それでも添い寝するうちうとうととして、眠ってしまった。はっと気付くと、遥は眠っている。泣きながら、眠っている。
夢を、見ているのだろう。胸が苦しくなって、裕太は遥の頭にそっと触れた。遥は身じろぎして裕太に近付き、峻、と言った。
遥を苦しめているのは、峻というやつなのだ、と裕太は認識した。
六章
峻は妖魔界で、黙(もく)という名で呼ばれていた。ふらりと現れて岩場の洞窟に住み着いてしまった人間をもの珍しそうに覗きにやって来る妖魔達は、多くはないがいた。大抵は一度峻を見て、その気の大きさに怯えて二度とはやって来ない。
年を取った妖魔が、新入りにいろいろと訊きに来たことがあった。本能的にびくびくしながらも、峻に敵意が無いのを読み取ったのだろう。どこから来たのか、名は何というのか、行く気があるならここから一番近い町を教えてやるがと、震える声で尋ねた。だが峻は何も言わず、額にはらりと落ちた前髪の間から老妖魔をちらりと見ただけで、口も開かず仕舞いだった。
「やれやれ、黙して語らずじゃ」と老妖魔が仲間に言ったのが切欠で、峻は黙と呼ばれることになった。
ある時、一寸変わった妖魔が峻を訪れた。噂の人間を見に来たのは同じなのだが、見た後の反応が変わっていた。長い尖った耳をぴんと立て、顔中にわくわくと書いた好奇心でそろりそろりと洞窟の中に這入ってくる。覗きに来た相手が近寄ってくるのを感じて、峻はそちらに目を遣った。
遣って、ぎくりとした。似ているのだ。ヨウに。
「……誰だ」
思わず尋ねた。
「……喋ったー! 喋れるんだ!」
子供子供した声が、妖魔の口から迸った。紅潮し、耳はぴくぴくと動いている。ヨウでないのはわかっている。まず感じる気の量が遥かに小さい。ヨウよりは見た目も若い。この小学生程の子供に峻の全エネルギーを浴びせれば消滅するだろう。耳が違う。ヨウは外見からは人間との違いは見えない。ふわふわした感じのする白い子供だ。子供はぷるぷると感動に震えて、四つ足でばたばたと峻に近寄った。子犬が駆け寄るに似ている。
「ねえ、ねえ、ほんとにニンゲン? 喋れるの、なんで? なんでニンゲンなのにここにいるの?」
「ミョウ!!」
固い声がした。見ると、入口から洞窟の中に駆け込んで来る影がある。
「ゴウ」
ゴウと呼ばれた妖魔は、青い顔をして……いや彼は元々そんな顔色なのだ。彼が駆けて来ると、金属臭がした。
「わっ」
ゴウは矢庭にミョウを抱えると、峻をキッと睨んであっという間に出て行った。ミョウはただびっくりして、ゴウの行動に文句の一つも言う暇がなかったのだ。
そうして暫くは静かな日が続いていたが、またあのふわふわした白い子供が訪ねて来た。
「えへへ」
「……ミョウ、というのだったな」
峻が言うと、ミョウは目をキラキラさせて、わあ、と喜んだ。ヨウと、名前まで似ている。
「ゴウという友達が心配しないか」
たたたと峻に寄って来るミョウに、峻は尋く。
「ゴウはね、モクが強いから心配してるけど、でもモクはいじめたりしないよね」
「モク……?」
隣に屈み込んで、ミョウはぱちくりとする。
「名前、違うの?」
峻は特に訂正しなかった。
「俺が怖くないのか?」
「うん。どうして?」
気持ちが、ほんの少しほだされた。それで峻は、ミョウの頭にぽんと手を置いた。
「わあ……――」
ミョウは耳をぺたんと寝せて、気持ちよさそうに目を細めた。
「おいしいー……」
ミョウは幸せそうにじっとしている。ミョウの食事は「快」の感情であると、後で知った。
「……妙な子供のミョウか」
ぽつんと峻は呟いた。
「……もっと食べる」
ミョウは峻のあぐらの上にころんと横になり、「撫でて」と言わんばかりに耳が動く。服の下で尻が動いているのは、どうやら小さな尻尾らしかった。
峻は、洞窟の入口に目を遣った。姿は見えないが、ゴウがそこにいる。白い子犬のようなミョウを、おそらくゴウは大事に思っている。傷付ける意志はないと知らせるように、峻はミョウの頭をそっと撫でた。
七章
生まれてから六か月で、どうやら裕太の成長は一段落したようだ。見た限りでは、立派な青年に育っていた。遥によく似たきれいな顔で、結構な男前である。そろそろ外に出してもいいだろうというので、敏也達は話し合いをした。
「年は……そうだな、うーん、十八ということにして……高校卒業後、ということにしませんか」
学力に関しては、敏也が責任を持って裕太に教え込んだ。
「待ってよ父さん、母さんが今二十歳だろ? それで十八の息子ってのはちょっと……」
「ん? なんかまずいのか?」
母より息子の方が余程人間社会に精通している。額に指を当ててかーさん、と訴える裕太に、敏也は「うん、それで」と切り出した。
「不本意ではあるんだが、生まれた子供は死んだということにして、養子をもらったことにしようかと考えてるんだよ」
「え?」
訳のわからない顔をした遥、ぴーんと閃いたらしい裕太。
「なるほど。でも父さん、それって結構面倒臭いんじゃないか? 戸籍とか」
「うん。それで」
敏也は遠縁の伯父を頼ることにしたのだ。一体何をやっているものか、敏也の唯一の親戚は、そういった怪しい仕事にも明るいのだ。だがそのお蔭で晴れて、裕太は十八歳の社会人として、人間社会にデビューすることができた。
話の途中で遥の気分が悪そうなので、敏也は心配して声をかけた。
「遥さん?」
「……うん。ちょっとハラ気持ち悪い。裕太孕んだ時と似てる」
「え?」
敏也は、赤くなって言い訳した。
「で、ででも、裕太ができてからは、キスしかしてませんよ」
「はー……」
溜め息を吐いたのは裕太だ。
「父さん。母さん、人間じゃないんだから」
「……。あっ!」
「え? ……あ、そうなの?」
遥はキスで妊娠するのだと、今、気付いた間抜けな夫婦がここにいた。
「うわー……二人目ですか。頑張って働かないと」
照れてはいるが、敏也はどこから見ても幸せそうで、
「……またメシ食えねーのかー」
不服そうではあったが、遥もまた照れ臭そうだった。
裕美(ゆみ)は、遥に、腹の中から話しかけた。
(裕子よりは裕美がいい)
どうせまた早く生まれるだろうからと、名前を考えている時だった。男名を考え、女名を考えていると、腹の中から主張が聞こえた。
「……裕美がいいってさ」
「えっ?」
「自分で言ってる。こりゃ、女の子だな」
遥の報告に、敏也は半ば唖然とした。また明らかに、普通ではない子供が生まれようとしている。それでも愛しい遥と自分の子だ。
「……そうですか。じゃあ、裕美にしましょう」
「ん」
おい、おまえは裕美だ、と遥は腹に向かって話しかける。敏也は笑って、私がお父さんですよーと遥の腹をさすった。
今度は経験を生かして、遥が妊娠したのは内緒にした。裕美が生まれてある程度育ってから、裕太のように、養女として戸籍に入れることにした。
だが、裕美はなかなか生まれなかった。裕太が生まれた三か月は過ぎ、やがて五か月になろうとしている。
「きっと、個人差があるんですよ」
敏也はそう遥を慰めたが、裕美と念波で会話できるのでなければ、遥はかなりのストレスを感じていたはずだ。何せ、食事ができないのだ。食欲は、平時よりは落ちている。それでもストレスを感じると、何かを食べたくなる。力を発揮して暴れる訳にもいかない。
「おい裕美ぃ、いーかげん出てこいよおー」
遥はぶうたれて腹の中の裕美に言う。裕美はこのところ、遥の声に返事をすることが減っていた。
胃の中で育つにつれて、遥の深いところの声が聞こえて来る。裕美はそれで、生まれて来るのを躊躇っているのだ。
「裕美? 寝てんの?」
――自分は、ママの最愛の人の子供ではないのだ。
八章
ヨウによく似たミョウは、毎日のように可愛らしい笑顔を峻に見せに来る。峻の手に撫でてもらうのが、余程気に入ったらしいのだ。嫌でも峻は、ヨウを思い出す。
峻は、ヨウが嫌いで置いて来たのではないのだ。
むしろ、大事に思えたから。峻は今迄もそうやって、大事なものは自分から遠ざけて来た。自分が側にいない方が、安穏な生活が送れると知っているからだ。
その癖が、つい出た。ヨウは人間でないと、承知していたはずなのに。ヨウは脆くはない。本気でやり合ったことはないが、試しにお互いの力をぶつけ合ったことはある。周囲の見渡す限りの草木が、一瞬にして蒸発した。抉れ、地形が変化した。これはいかんというので以来試しでもやっていない。ひどく気持ち良かった。こんな相手には二度と会えぬだろうと思った。……にも関わらず、峻はいつもの癖が出たのだ。離れたくないならば、ヨウも共に妖魔界に連れ帰れば良かったのだ。だが、ヨウが人間界を気に入っていた。誰かの気持ちを曲げて強く自分の意志を通すことは、峻には慣れないことだった。
それで今、ひどくつまらない思いをしている。妖魔界の居心地は良い。自分の居場所はここだと思える。だが何かが足りない。ヨウだ。
「モク?……どうしたの」
峻の膝の上から身を起こし、ミョウがぴくりと耳を動かす。
「……ああ、何でもない」
ミョウは言葉に納得せぬように、少し悲し気に峻を見た。
「モク、おなかすいてるの? 気持ちよくない?」
「快」の感情を食べる妖怪。苛烈な妖魔界で、よくこんな種の生命が生まれたものだと思う。ふわふわとした子犬。まるで壊れ物だ。
「……ああ。少し、すいているかな」
「……ボク、おいしくないかなあ……」
ミョウは峻の胸に頭をすりつける。柔らかい感触。どこか懐かしい。
「ミョウ、俺は<それ>は食べられないんだよ」
笑みを含んだ声で峻は言う。ミョウはぱちくりと峻を見上げ、心底悲しそうに言った。
「……ほんと? モクはおいしいのに……モク、かわいそう……モクも、ボクがおいしかったらいいのに」
自分を可哀想だと思ったことはない。それはないが、今こうして痛そうに自分を見ているミョウを見ていると、何かしらひどく愛おしい気持ちになってくる。
「……お前が悲しくなることはない。俺がおいしいか? ならお前はちゃんと食べろ」
ミョウはまだ悲しい顔のまま、モク、と呼んで峻の首に飛び付いた。細い腕で、ぎゅう、と抱き付いてくる。
峻は、ミョウの頭を撫でてやった。軽く背中を抱き締める。
「……おいしい」
途端にミョウは幸せそうな声を出した。
「すごくおいしい。……モク、大好き」
柔らかな子供。
これはヨウではない。
子が親に抱かれて気持ちよくなるように、ミョウにはそれが「おいしい」のだ。
峻はミョウに「快」を与えながら、一度は考え止めたことを再び想起した。
ヨウは、ちゃんとあの男に拾われただろうか。あの男がいることを知っていて、ヨウをあの町に置き去りにした。
……確かめるだけ。確かめるだけなら。
おいしい、とミョウがうっとりとした声を出す。
峻は、ミョウをぎゅっと抱き締めた。
これは、ヨウではない。
九章
腹の中から、裕美が話しかけてきた。
(ママ、お散歩いこう)
「……あ?」
平日の昼間。敏也も裕太も、仕事に出ていて家にいるのは遥、と裕美。
「いーけど」
天気は良い。中に子がいるとはわからぬ程に遥の腹はぺたんこだ。外に知れる心配もないので、敏也も最近は遥に外に出るよう薦めている。遥の気晴らしになればと思っているのだ。
裕美も、そう思ったか。遥はTシャツにジーパンそのままの格好に帽子だけをきゅっと被って、出掛けようとした。
(ママ、お財布持ってって)
「あ?」
買い物でもさせようというのか。遥は財布をジーパンのポケットに突っ込んで家を出た。
玄関を出てすぐから、裕美は遥を操縦するように指示を出した。左に曲がって。道を渡って。そっちじゃないの、うん、そっち。
駅に出て、電車に乗った。乗る電車も、裕美が指示した。
「おい裕美、どこ連れてくつもりだ?」
裕美は答えない。電車を、知らない町で下りた。知らない道を、裕美は何を目指してか、遥を案内していく。
日が暮れ始めた。一寸散歩のつもりだった遥は、家に鍵すら掛けていない。
(敏さん、帰って来てるかな……心配してるかも)
遥が家のことを考えた時だ。見覚えのない景色に、知っている気配を感じた。向こうは、遥に気付いたろうか。
(ママ、止まっちゃだめ)
裕美に言われて、立ち止まっていたことに気付いた。遥は、再び歩み始める。姿はまだ見えない。だがこれは。恐ろしく抑えているが、この気配は。
胸がドキドキした。いや、体中が、脈打っている。呼吸をし忘れている気がして、大きく息を吸い込んだ。吸い込み過ぎたか、胸が痛い。体中が痛い。
かすかに、見えた。背の高い姿。向こうはまるで知らん顔をして、信号待ちをしている。通る車に時折見えなくなる姿。あれは。
峻だ。
頭がガンガンして、足が震えた。それでも止まることをしないでいると、少しずつ峻との距離が縮まる。信号が青に変わり、峻は歩き始めた。今は七月。峻は季節外れの薄い色のコートを着て、涼しい顔で歩いてくる。周りの人間達は、まるで峻の存在に気付いていないように見える。誰も峻を振り返らない。
峻はこちらへやって来る。遥も峻の方へと進んでいる。やがて目の前に迫る。だが進行方向は見ていても、互いに顔は見なかった。擦れ違う。峻の気配が背後へ遠ざかる。
遥は横断歩道を渡り切ると、峻が信号待ちをしていた場所で立ち止まり、しゃがみ込んだ。
顔色も変えずに、峻は行った。しかし、自分に気付いたはずだ。自分の顔を、見たはずだ。
(……ママ?)
遥は、ぽろぽろと涙を流した。会えた。会えたのだ。ずっと、ずっと会いたかった顔に。
地面に座り込み、涙も拭かぬまま、遥はかすかに笑っていた。
「……なあ裕美。こんな偶然、またあるかなあ……?」
腹にやさしく手を当て、問いかける。
会社帰りの通行人が、大丈夫ですかと遥に声をかけた。遥は涙を拭いて、大丈夫、と立ち上がった。
遥は空を向いて、あははと笑った。遥は幸せそうだった。通行人が心配そうに遥を見たが、遥は構わず歩き出した。
裕美は、遥をきれいだと思った。
(あの人と会ってる時のママが、一番きれい)
裕美は、自分が遥の味方になるのだと思った。
(ママ、あたしは、ママの味方だよ)
「あ?」
裕美は、生まれてくることを決めた。
家では敏也と裕太が心配していた。心配かけてごめん、散歩してたんだ、と遥は言ったが、敏也は一寸悲しそうな顔でそうですか、と言い、裕太は怒ったような顔で、遥の腹の辺りを睨んだ。おそらく敏也も裕太も、ここにはいない峻の気配を感じたに違いない。
(続く)