「遙天は翠」

・序~四章・

・自分の中では半分方パロディなのですが…元が何だかおわかりになりますか?(笑)

それではどうぞ。

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   序章


 空間が歪んでいた。
 もし側に誰かいたなら、虫食いのように彼の姿が霞んでいくのを見たろう。そこは森の中だった。
 彼がこのポイントを見つけたのは、十年も前になる。外へと迸る己の力を抑え切れず、少しでも周囲に影響を与えぬようにと無我夢中で人里から離れた。偶然だった。今にして思えば、体が、楽になれる場所を知っていたのかもしれぬ。夢中で走り込んだ森の中、ついに吹き出した力の激流は、森も焼かず、我が身も焼かず、いずこかへするすると吸い込まれていくのだ。気が付くと、それはぽつりと開いた異界への穴だった。針の先程もない点であるくせに、それは貪欲に溢れる彼の力を吸い続けた。(このまま吸い尽くされて死ぬのも良い。)はじめ彼はそう思った。だがそれは叶わず、穴はある時点でぴたりと閉じた。体は随分楽になっていた。
 それから、彼は自分を持て余した時、気が腐りかけた時、この穴に役にも立たぬ自分の力を吸わせにやって来る。あれから随分と力の扱いにも慣れはしたが、絶対的に多大過ぎるエネルギーの量だけは、どうにもならぬ。
 彼は、自分が生まれたはずのこの世界では、思い切り発散して、ほう、と溜め息を吐くこともできぬ。物心つく以前から、彼は異端な子供だった。その気がなくても、彼の周囲の者は傷付いた。自然、一人でいることが多くなった。自分にしか見えぬモノ。自分にしか聞こえぬコト。誰とも分け合えぬそれらのことは、思うだけで相手を切り裂ける力と共に、年を追うにつれて肥大していった。
 彼は、いつどこで己が終を迎えても構わないと思っていた。目に見えぬ極小の穴が、彼の全てを吸い尽くせばいいと考えていた。
 彼は、ひどく疲れていたのだ。百九十の身の丈に相応しく、バランスの良いしなやかな筋肉に鎧われた体は、気の力を抑え付ける為に鍛え続けられ、微細な傷に覆われている。涼し気な目元には、厭世観が見て取れる。二十代にして、彼はもう、飽きていた。
 だから、彼がこの穴を広げてやろうと思ったのは、悪戯心などではなかった。常に頭の隅にあった、この生き物に溢れる世界を壊さぬように、という思いもどこかへ行って、自分を、ここではない何処か、上手くすれば、虚無の彼方へと消し去ってはくれぬかと期待した。自分の周りで空間が歪み始め、景色が霞み出した時には、ああついに、と彼は静かに喜んだ。呪わしい己の体も魂も、何処とも知れぬ場所に飲み込まれ、消滅して果てるのだと、感じたことのない平安まで覚えた。
 気が付くと、彼は見知らぬ草原にいた。足首まで埋まる草は、「草色」ではない。枯れている訳ではなさそうなのに、オレンジ色をしていた。空の色は対を成すように翠(みどり)。
 オレンジ色の草原の向こうに、一人の子供が立っていた。子供はじっと彼の方を、大きな目をかっと開いて見つめている。きれいな子供だ。だが彼にはすぐにわかった。あれは人間の子供ではない。
「おまえ……」
 子供が口を開いた。透き通る、きれいな声だ。
「ニンゲン、か?」
 通じていたのは、言葉か、念波か。彼は、子供にそうだ、と答え、子供の名を尋いた。子供は彼をますますもの珍しそうに眺める。猿かリスを思わせる動きで、ほんの二歩、彼に近付いた。
「俺は、ヨウ。ニンゲン、おまえにも名前、あるのか?」
 興味深そうにぴくぴく動く前髪は、まるで触角だ。彼は、ヨウの姿を見ながら考える。ここは、なんと居心地のいいことだろう。今彼は、自分の力を、殆ど抑えてはいない。心地よさに、彼は長いこと忘れていた微笑を、口元に浮かべた。
「……東 峻(あずま しゅん)という。ここは、いいところだな」
 ヨウは峻を不思議そうに見たが、やがてニッと笑うと、「聞いてたニンゲンと少し違う。でもいいや、おまえ強そうだ」と転がるような声で言った。
「なあ、ニンゲンの住むとこってどんなのだ? 連れてってくれよ。見てみたい」
 峻は軽く目を細める。
「大して面白いところでもないぞ」
 ヨウは大笑いしてその場で跳ねると、跳ねているのか走っているのか、ぴょんぴょんと峻の側へと近付いた。間近で峻を見上げるヨウの顔は、生命力に溢れ、世界は面白いことで一杯だと言っている。峻はおそらく、その気に当てられたのだ。
「……わかった。ただし俺も帰り方がわからん。いつ連れて行けるかの約束はできんぞ」
 ニイッと笑うヨウの口からは、八重歯によく似た牙が覗いた。



   一章


 柊敏也(ひいらぎ としや)は、冴えない高校教師である。背は高かったが、ひょろりとしていて、お世辞にも強そうに見えない。どちらかというと気が弱い方だろう。視力も弱くて、度の強い眼鏡をかけている。特に人気者でもないかわりに、敵もいない。人当たりも穏やかで、性格の出た人の良さそうな笑顔は温かだったが、この年になるまで、女性との浮いた話の一つもなかった。今日は敏也の、三十六回目の誕生日である。
 とはいえ、今日が特別な日であるという訳も、教材の入った鞄を抱え、電車に乗って自宅最寄りの駅を降りるまでは、どこにもなかった。敏也は、繁華街からはかなり離れた寂れた町に住んでいる。彼の貯金で買える手頃な一軒家が、その町にあったからなのだが、だから、夕闇の中、無人の駅でベンチに蹲る誰かを見つけた時は、(おや、珍しいな、酔っ払いとは)と考えた。立ち止まり、二、三度まばたきをして、それが子供だと気が付いた。これは酔っ払いではない。敏也は慌てて駆け寄った。
「君、どうしたんだね、気分でも悪いのかい、君……」
 驚いたことに、その子は敏也をギッと睨み、叫んで敏也の手を払いのけた。
「さわるな、あっちイケッ!」
 激しい拒絶にぎょっとしつつ、敏也はその子供の顔を、食い入るように見つめた。
 きれいな子供だ。男の子だろうか、女の子だろうか。いや、こんなにきれいなのだ、薄汚れた短パンにTシャツと男のような格好をしてはいるが、女の子に違いない。年は? 十五、六か。長い睫、大きな瞳。描いたような眉を辛そうに寄せ、可愛らしい唇をぐっと噛んでいる。浮いている汗は脂汗か。
「……そうは言っても、君、どこか痛いんじゃないのかい? 病院へ行った方が……」
 敏也はおどおどと言い募る。
「立てるかい?」
 助け起こそうとして、手を肩に伸ばす。再び睨もうと子供は振り向く。
「さわんな、死んでも知んねーぞッ!!」
 高く叫んだ子供は、しかしはっと口を噤んだ。敏也の手が、肩に触れていた。
「……えっ?」
 真っ直ぐに見られて、敏也が尋ねる。どきりとしたことに、彼女はとてもきれいに笑った。
「へえ……峻とは違うけど、あんたも強いんだ。……気持ちいいや」
 多分、この時もう、敏也は恋していたに違いない。
 汗を滴らせた顔で微笑んだまま、彼女は敏也の胸にもたれかかった。
「き、君……」
 頭の隅で、何を年甲斐もなくどぎまぎしているのだろう、と敏也は考えた。自分の半分も無さそうな年の少女は、敏也の背に腕を回し、ぎゅうと抱き付いてくる。少女は細身で、当たる胸の感触も殆どない。
「な、何を、わ、わた、私は……」
 ほんの少し、高校教師、スキャンダル、などという新聞の見出しが浮かんだかもしれない。そんなことは知らず、少女は敏也のワイシャツにきれいな顔をすりつける。その度、色の薄い茶色い髪が、目の前でゆらゆらと揺れた。
「……気持ちいいや」
 声に偽りはなかった。先程まで急な病気としか見えなかった様子が、今はすっかり消えている。
「……気持ちいいのかい?」
「うん。あんたといると気持ちいいや。こういうニンゲンもいるんだな」
 落ち着いてみると、少女はかなり埃っぽかった。軽装で山歩きでもしたかのような姿だ。もしかしたら、家出少女かもしれない。そうでなくともこのまま放って置くことは、敏也にはできなかった。
「……君、年は幾つ? 家は?」
「……百」
「誰かと一緒じゃないのかい? 連絡しないと……え?」
 質問を続けていた敏也は、ぽつりと答えた少女の声に言葉を止めた。聞き損ねたと思ったのだ。
「あ、ああ、ごめん。年は、幾つだって?」
「百」
 今度は聞き間違えたと思った。
「え?」
「百だよ。ちょうど。一緒にいたのは峻。ニンゲンの言葉も峻に教わった。でもはぐれたんだ。……置いていかれた」
 少女の言葉は力をなくし、きれいな顔に陰りが差す。俯き、きゅっと唇を噛んだ。それを見ながら、敏也は二つの可能性を考えた。
 少女が、虚言癖のある病人であること。もう一つは、本当に、この少女が、美貌の人外のものであるということ。……
 だが、敏也がこの手の不思議に出くわすのは、初めてではなかったので。
 少女(?)は、悲しそうに、泣き出しそうに俯いている。敏也は、彼女を安心させるよう穏やかに笑って、名前を尋いた。
「……君、名前は?」
 悲し気な顔のまま、敏也を見上げて答える。
「……ヨウ」
「ヨウさんか。名字はあるの?」
「ミョウジ?」
「私は柊敏也というんだ。柊が名字だよ。ヨウさんは、ヨウの上に名前はないのかい」
「……ない」
 ヨウは、一寸笑って付け足した。
「でも、峻にはあるよ。東。ニンゲンはみんなミョウジ、あるの?」
「……東、峻?……」
 その名が、敏也の記憶のいずこかに触れた。奥に泡(あぶく)が浮き上がるのを感じる。その内容が正しいならば、敏也はますます、ヨウを捨てては行けなくなった。敏也はヨウに笑いかける。
「……よかったら、私の家に来ないかい。気兼ねはいらないよ、住んでるのは私一人だ。行くところがないなら、来るといい」
 ヨウは、ぱちぱちとまばたいて敏也を見ている。
「……それから、人間皆じゃないけど、この国に住む人たちは、皆名字を持ってる。……ヨウさんに、柊の名字をあげたいけど、どうかな」
「え?」
「気に入らないかい?」
 ヨウは黙って、首を振った。
「いい。行く。ミョウジもらう。あんたは気持ちいい」
「……良かった」
 敏也が笑うと、細い目が糸のようになる。ヨウはそれを見て、シーペナマのようだ、と笑った。後から知ったことには、それはヨウの故郷に棲息する、糸ミミズのようなもののことだった。



   二章


 ヨウは、柊 遥(ヨウ)という名前をもらって、敏也の家族の一員になった。役所に届けを出す時に、敏也は随分苦労したのだ。
「遥さん、遥さんは『女性』でいいんですよね?」
 年はさすがに百とは書けず、二十歳ということで手を打った。それでも随分若く見える二十歳だ。
「ジョセイ? って?」
「ええと、子供を産むことができる性ですよ」
「あ、んじゃそうだ」
「はい」
「俺の一族、みんなジョセイだな」
「……は?」
 用紙に書き込むペンを持つ手がぴたりと止まる。もちろん役所から用紙をもらってきて、書いているのは自宅だ。こんな妙ちくりんな会話を、お役所の役人の前でできる訳がない。
 台所と一体になっている食堂のテーブルから、敏也はゆっくりと顔を上げた。
「……どういうことですか?」
 敏也は、遥が人間でないことは承知していたが、人間とどう違うのかは、まだ把握し切っていない。
「え? だから、みんな子供産むんだよ」
 遥はけろんと言ってのける。
「……男性はいないんですか?」
「ダンセイって?」
「……その、女性に子供を宿す手伝いをする性です」
「あ、んじゃみんなダンセイだ」
「……」
 要するに、遥の一族は両性具有らしいのだ。場合によって、男性女性、どちらの役割を演じるかが決まるらしい。
「……そうですか。じゃあ……そうですね」
 敏也は遥の性別を女性と書いた。
「ニンゲンって、どっちかしかないのか? ふべんだなー。敏さんはどっち?」
「私は、男性です」
 力なく、敏也は答えた。
 そっか、じゃ子供産めねーんだ、と遥は気の毒がる。敏也は用紙に記入しながら、こっそりと持って来たもう一枚の用紙のことを考えた。
「……あの、遥さん」
「ん?」
 言いかけて、敏也は引っ込めた。
「いえ、やっぱりいいです」
「……なんだよー、気持ち悪いなー」
 テーブルに腰かけていた遥が、ぴょんと下りて敏也に近付く。
「言えよ敏さん、おらおら」
「よ、遥さん」
 悪戯けて、敏也にぐりぐりと身を寄せてくる。
「ほんとに、何でもないんです」
「ウソつけー。うりうり」
「……遥さん、書きにくいです」
「離れてやんない」
 椅子の後ろから首に抱き付き、敏也の背中にもたれかかる。その感触は、子供のように柔らかい。
「遥さん、困ってるんですが」
「敏さん気持ちいいんだもん」
 風呂上りに、タオルを持って追いかける敏也を無視し、「あーさっぱりした」と少女のような裸体を晒して平気で闊歩する。この妖しのものを、気持ちよく感じているのは、敏也の方だ。
「……遥さん、結婚しませんか」
「……ケッコンて?」
 期待通りの返答に、敏也は小さく笑った。



   三章


 その時、敏也はまだ大学生だった。高校の数学教師になると決めたのは大学に入ってからだ。教師になること自体は中学の時に決めていた。高校に行って数学が好きになり、研究者と教師とで悩んだ挙げ句、小中学よりは専門色の強い、高校の教師を選んだ。
 大学二年の夏。一般教養授業も終了し、九月からはいよいよ教職課程が始まる夏休み。敏也は大学の図書館で目当ての本を数冊借りて、自分のアパートへ帰るところだった。図書館には冷房が効いている。自分の部屋には扇風機しかない。それでもひょろりとした自分の体に体力を付けようとしての行動だ。ハンカチで首の汗を拭いながら、自分にそう言い聞かせ、歩を進める。
 その歩が止まったのは、首筋から背中にかけて、すうっと冷たい空気を感じたからだ。暑さの為とは違う汗が流れ始める。敏也は俗に言う霊感体質だ。この世のものではないモノが近くを通ると、冬だろうが夏だろうが、神経の内側が寒くなる。敏也は懸命に知らん振りをし、再び足を運び始める。だが行けども行けども、寒さは止まらない。ソレは敏也についてきているのか、もしやこの辺り一帯に異物が充満しているのか。
 大学からアパートへの見慣れた道のはずが、まるで違う景色に見えてくる。太陽は高い。そのはずなのに、雨雲が一面に立ち籠めたような薄暗さは、気のせいではなかった。自分がどこに向かって歩いているのかわからなくなり、敏也は呼吸を荒くした。
 一瞬、敏也の神経がカッと熱くなった。はっとしてまばたくと、景色は明るさを取り戻している。見知った道が、敏也の目の前にある。寒さはない。流れる汗は、暑さの為だ。聞こえるのは蝉の声。敏也は、先程まで音も失っていたと気が付いた。
 子供がいた。十歳頃か、黒いシャツに白い短パンの少年が、いつの間にかそこに立っている。二メートル程向こうから敏也をじっと見ている。鼻筋の通った、大人びた顔の子供である。真っ黒い髪が太陽光を艶々と照り返している。敏也は気が付いた。少年は、汗をかいていない。この炎天下、まるで涼しい顔をして、じっと敏也を向いて立っている。
 敏也は、彼に声をかけようとした。と、子供は不意に背を向けた。足音が聞こえないのは、蝉の声に掻き消された為か。
 消えていく背中を見ながら、敏也は確信していた。自分を迷路から解き放ってくれたのは、彼だ。
 数年後、敏也はまた彼に会う機会があった。その出来事自体は、敏也にとっては有難くないことである。自分はどうもこの世以外のものにとって居心地がいいらしいとは、敏也は随分前から承知してはいたのだが、自分としては、この世の人間達に未練はある。稀に、人間達の中にも敏也の力を必要とする者がいたから、尚更だ。
 波長が合えば、敏也はヒーリングの力を発揮する。
 誰彼にも効くという訳ではないから、敏也が治した怪我や病気は多くはないし、話も広がらない。それでもわざわざ遠くからやって来て、敏也と波長が合わずに帰っていく人がいると、自分のせいではないのに、敏也はとても申し訳ない気分になる。そんな時は、自分の力がもっと強かったらいいのに、と思うのだが、異界のモノが擦り寄ってくる時に感じる寒さを覚える度、こんな厄介な感覚は、無ければ良いと思う。
 こんなことがあった。アパートの部屋の電灯が薄暗くなったな、と思ったらちりちりと首の後ろが冷たくなった。すわ、また妖しのものか、と気を張ったところへ、開けた覚えもないドアから女が一人入って来た。女は、どう見ても人間にしては腕が長過ぎる。彼女は赤ん坊を抱いていて、この子に触れて下さいと言わんばかりに敏也に腕を差し出した。敵意を感じなかったせいもあるだろう。敏也は素直に手を触れた。赤ん坊が腹を患っているのが感じられた。つまり、波長が合ったのだ。よく表情のわからない顔だったが、女は嬉しそうに笑ったようだった。入って来た時と同じようにドアを開けずに部屋を出ていく。女が消えると、部屋の灯りも元に戻った。敏也は立ち上がり、ドアを開けた。見ると、ドアのわずか十センチばかり向こうを、大きな蜘蛛が背に子蜘蛛を乗せて、壁に沿うように這って行く。ぼんやりと敏也が見送っていると、隣の部屋のドアが開き、住人がぎゃっと声を上げ、スリッパで蜘蛛を叩き潰した。何だかひどく遣り切れない気持ちで、敏也は自分の部屋のドアを閉めた。
 敏也の力を丸毎欲しいと思う妖しがいたのだ。
 正体は、年老いた鼬(いたち)だった。生命に執着する余りのことだったのだろう。
 敏也はまだ一軒家を購入しておらず、大学時代から引き続きアパートの一角に住んでいた。家族はない。親戚はかなり縁の遠い伯父が一人いるきりだ。この伯父も多少異界を感じる。
お蔭で敏也は、力のことで独りぼっちにならずに済んだ。
 いずれは自分の城を持とうと働き始めて、教師四年目の秋。試験の採点を済ませて校舎に鍵をかけて家路についたのが夜の八時。他の教師はとっくに帰り、今頃は家族との食事も終わり団欒を楽しんでいるだろう。敏也は独り暮らしなので、自分の想像した内容を羨ましく思いながらも、星空を眺めてのほほんと歩いていた。きれいな星空だった。その空が、ぐにゃりと歪んだ。
 神経の内側がぞっとする。身の危険。この類の信号は間違えたことが無い。悪いことに、今迄で最大級の「虫の知らせ」だった。 体ががくがくとして、動けなくなった。突風。なのに校庭の木々は静かだ。敏也の力は、感じるだけだ。自分の身を守るようには出来ていない。妙に肉感のある風が当たる。息をするのが辛くなった。目を開けていられない。ぎゅっと瞑る、それでも敏也には悪意が見える。体が内側から壊れるかと思った。体毎食われるような、中から蝕まれるような、逃げ出したくなる感覚。
 立っていられなくなり、敏也は座り込んだ。吹き付ける風は足下の土埃さえ巻き上げない。放り出したくなり、いやいや負けるものかと心に踏ん張る。手放せ、食われろ、と声がした。
「食われてなどやるか!」
 敏也が叫んだその時に、いや、声は出ていなかったに違いない。瞑った目にも眩い光が、温度を伴って辺りに満ちた。
 悪意が消えて行く。眇めた目に一瞬見えたのは、干からびたような鼬、……真っ直ぐに立つ、黒衣の青年。
 敏也ははっとした。眩しいのを我慢して目を見開いた。彼だった。数年前に比してまず背が伸びている。小学生だったであろう彼は、黒い詰め襟服を着て、やはり大人びた倦んだ顔で、じっと立っている。この制服は、どこの高校のものだっただろうか、敏也は半ば無意識に検索した。
「君――」
 敏也の掠れた声に、学生服の彼は振り向いた。切れ長な目とすっとした眉は、敏也を見ても表情を変えない。何も言わず、彼は立ち去ろうとした。
「あ……き、君!」
 彼は立ち止まらない。情けないことに敏也は腰が抜けていて、追うことができなかったのだ。
 彼が、東 峻だった。
 後日、調べた。彼は隣県の学生だった。成績は悪くないが、欠席がちで、説教をしようにもどこにいるのかわからないのだと、彼の担任だという教師は言った。どこで彼に会いましたかと、敏也は逆に尋ねられた。このままでは進級が危ないと、同業者の敏也に安心してか、そんなことまで喋った。



   四章


 峻が妖魔界にやって来てから、一体何度日が昇ったろう。ここの太陽は人間界のそれより更に攻撃的だ。また世界を満たしている空気も明らかに成分が違う。普通の人間はここで一日を過ごすことも満足には出来ぬだろう。だが峻はここを、この異質な世界を、心地良いと感じていた。
 峻はどう贔目に見ても、帰ることに一生懸命ではなかった。
「なあ、いつ行けるんだ? ニンゲン界」
 ヨウがせがむ。
「そうだな。俺も来ようと思ってここに来た訳じゃないんでな」
 帰り方がわからないというのだが、方法を模索する様子もない。ヨウはぷうとふくれて、灰色の木の幹にもたれかかり座る峻によじ登る。
「……こら」
「だってつまんねーんだもんよー。せめて相手しろよ」
 丸切り子供にしか見えぬヨウが、自分の何倍も生きている妖怪だと、会ったその日に知った。妖魔界は広く、人間界に比べて遥かに生き物の分布は疎らだ。植物はともかく、動物、まして知能を有する人型の(人型はやはり知能の発達に有利であったらしい)ある程度以上のエネルギーを備えた者と出会うのは稀らしい。町らしきものを形成している仲間もいるが、こんなはずれの原っぱで、自分と同等かそれ以上のエネルギー源に会ったのは、初めてだとヨウは言った。
 ヨウはそれで、峻に付き纏って離れないのだ。
 峻にとっても、ヨウは初めての、パワーを抑えなくてもよい相手である。
 人間界と妖魔界と、どちらが己の世界であるか、明確だった。
「峻、食べないのか?」
 峻は一月程食べなくとも平気である。妖魔界に来てから、水を少し飲んだだけだった。ヨウは木からするすると下りて来て、紫色の実を峻に示した。峻は実ではなくヨウを見上げ、「お前が食べろ」と短く言った。
 木に逆さにくっついていたヨウは、つまらなそうな顔をして、ひらりと身をひねって峻の横に尻から下りた。
「峻が弱って遊べなくなったらつまんないよ」
 ヨウにとって自分は、完全に遊び相手らしい、と峻は考え、小さく吹いた。峻にとっての遊び相手は(相手にあるのが敵意でしかなくとも)、今も昔も、この世のものではなかった。――この世とは、人間界のことだが。
 ヨウは確かに、この世のものではない。
「……そうか。わかった。じゃあ半分もらおう」
 ヨウはぱっと笑うと、木の実を峻の眼前に差し出した。峻は受け取り、軽く服で実を擦って歯を立てた。青臭い味がしたが、食えない程ではない。飛び散る異形の体液よりは、余程芳醇だ。
 見ていたヨウが、峻が三度(みたび)くわえた実に峻の横から噛み付いた。そうは見えなかったろうが、峻はぎょっとした。ヨウは何も考えていないようにむしゃむしゃと実を食べている。峻は口を離し、自分の手の実をはぐはぐと噛むヨウを見ていた。ふとヨウが気付いて食うのを止める。
「もう食べないの?」
 不満そうな顔だ。
「……先に食え」
 今度は不思議そうな顔をして、「うん」とヨウは続きを始めた。ヨウはそのまま、峻に実を持たせて食べている。
 日を追うにつれ、峻はこの妖怪を愛しいと思うようになっていた。だから、彼の我が儘を聞いてやろうという気になったのだろう。峻はもう一度、人間界に戻る気になった。


 連れて行ってみると、ヨウは人間界を気に入った。峻とここに住みたいと言う。だが峻は二度とこの世界で暮らす気はなかった。だから峻は、ヨウを置いて、一人で妖魔界に戻った。

(続く)


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