・第6回・
貴史と共に自分のアパートに歩きながら、秋生は考えていた。
――頼んだぜ八戒。
いきなり夕べ押し掛けて来て、厳しい顔で言った高昌の言葉。
――さすがに学校の中までは付いていられねえからな。
……どういうことやねん。
高昌は詳しいことは言わず、一つしかない秋生の布団をぶんどって、倒れ込むなり寝入ってしまった。それから多分、今朝までずっと。秋生が登校する時間まで、高昌は眠り続けている。
夕べ、どうも厄介事があったようなのはわかるのだが、貴史は正臣と一緒だったようだし、秋生には今一つ事態が把握出来ていない。
うちに帰ったら尋こうと思っていたのだが、貴史が一緒でも、高昌は話してくれるだろうか。
「ただいまあ」
部屋の鍵は一つしかないので、施錠せずに出掛けた。ドアを開けると、狭い部屋は一目で見渡せる。
見渡して――
「あ」
秋生は間抜けな声を上げた。
「いやーっこのデバ豚! ノックしてよねっ!」
自分の部屋だというのに、秋生は詰られて、すんまへん、と謝ってしまった。
中には、高昌が聖女の制服姿の紅緒に押し倒されて口を吸われている図、があった。
「あ……あっ!」
高昌は貴史を見付けて身を跳ね起こす。気付いて紅緒は、貴史を睨み付け、高昌の腕をぎゅっと捕まえた。
「……やっぱり恋人さんじゃないか」
ね、秋生ちゃん、と貴史は軽い調子で秋生に同意を求めた。
高昌は渋い顔をして貴史を見るばかりだ。秋生は、そ、そうやろか、としか言えない。
ほな、貴史はん上がって、と勧めると、いきなり紅緒は立ち上がり、「ちょっと!」と貴史を捕まえて、そのまま外へ連れて行ってしまった。
「あ、あの、ちょお?」
「八戒」
追おうとした秋生を、高昌は呼び止めた。振り向いた秋生に、如来だ、と言う。
「……へ?」
夕べと同じ、厳しい顔で。
「俺たちがここに集まったのは、如来の仕業だ」
紅緒は貴史をアパートの外まで連れ出して、勢いよく腕を放した。
「あの?……」
貴史の怪訝な顔に、きつく一瞥をくれる。
「言っとくけど! 悟空は渡さないから!」
「……え?」
「昔は昔、今は今よ! あたしはどうしたって悟空を手に入れてみせるんだから! あんたなんかに渡さないわよ!」
知らずライバル視されていたと貴史は気付く。きょとんとして、それから、柔らかく微笑んだ。
「……うん。いいよ」
「徹底交戦の構えで……は?」
「付き合ってる人、別にいるし」
「……」
紅緒はぽかんと貴史を見る。そりゃ、河童がどうのって、聞いてたけど、でも、悟空は? 悟空なのよ? と、納得がつかない様子だ。
「だってあんた達……あんなにべったりだったじゃない」
いつのことか知らないけど、と貴史は言う。
「昔は昔、今は今って言ったの、君だよ?」
「……」
そうね、そうよね。紅緒は呟く。バン! と貴史の肩を叩いた。
「なあんだ、あんた意外と良い奴じゃないよ! あっはっは!」
貴史は一緒に微笑みながら、どことなく自分の表情に違和感を覚えた。
そうそう、夕べはうちの馬鹿親父がごめんね! と明るく叫ばれて、どこまで知られているのだろうと、今度は貴史は真っ赤になった。
「二郎真君とナタが来た」
「へえっ?!」
また何しに?! と叫ぶ秋生に、どうやら如来の遣いらしい、と高昌は呟いた。
「如来て……釈迦如来でっか?」
多分な、と高昌。
「何で?」
「さあな。そこまではわからねえ。だが何か企んでるのはちげえねえぜ。俺に三蔵から離れるなと言いやがった」
秋生は一寸考える。
「……それ、悟浄に?」
言ってねえ、と高昌はむくれる。
「言う暇がいつあったよ?」
夕べはともかく(貴史と正臣が何をしていたか察しが付くだけに……)、その気になれば今朝から今まで、大学に正臣を訪ねるだけの時間はあったはずだ。高昌はどうもふて寝をしていたようだった。
「たっだいまー!」
そこへ、紅緒と貴史が戻って来た。
紅緒は妙に機嫌よく、さ、入った入った、と他人の部屋に、貴史をにこやかに招き入れる。
「……お前、どうした?」
高昌は面食らって、紅緒に尋ねる。
「あたし達、仲良くなったんだもんねー!」
笑顔で貴史に同意を求める紅緒を、高昌と秋生はぽかんと見ている。
紅緒は部屋に上がり込んで、馬鹿面二つを眺めた。
「なに鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してんのよ」
言い得て妙な分、本来立場がないはずの紅緒は、へいちゃらな顔をしている。
「……どういう心境の変化だ?」
「話してみたらいい奴だからさ、お互いの恋を応援し合うことにしたの」
「……」
そういうことかよ、と高昌は面白くなさそうな顔をした。
「そんな顔も今のうちよっ、いまにあたしの紅蓮の炎でアッチッチにしてあげるから!」
三昧真火は質(たち)が悪い、と高昌はぼやいた。
それから高昌は、部屋の隅に転がって「寝る」と宣言した。キャ、それって誘ってるゥ? と紅緒は身を捩ったが、どこからもどんな反応もない。
仕方なく秋生は、貴史の用事を進めた。
「……で、貴史はんの尋きたいことって、なんやろ。その前にジュースでも出そか」
「あ、あたしがやる!」
挙手した紅緒に、すんまへん、と礼を言って、秋生は貴史を振り返った。
「高昌はんは寝てもうたけど、あは、よう寝るわ。ゆんべから赤んぼみたいによう寝るで」
そないに疲れることあったんやろか、と笑い掛ける。
貴史はほんの少し迷ったような顔をした。
「……紅緒さんも『紅孩児』だから、仲間なんだよね」
立ち上がり、流しに向かう紅緒が立ち止まる。
「秋生ちゃんは知ってるよね。何で俺が三蔵なの? 『西遊記』の名前を付けてるのは、何の為?」
そらあ、と秋生は口籠った。
「馬っ鹿ねえ、」
付けてるんじゃなくて、と紅緒が言いかけた。
「言っても信じやしねえよ」
高昌が、口を挟んだ。
「あ、兄貴、起きてたん?」
寝転がったまま、視線だけを寄越す。
「どんな答が聞きてえんだか。<奴>には尋いたのかよ?」
「……正臣は、教えてくれなかった」
けっ、河童め、都合の悪いことはだんまりか。そう吐いて、身を起こす。
「<本物>だから、つっても信じねえんだから、尋くだけ無駄だ。……今日は<お勉強会>はなしか? まだ帰る時間じゃねえのか? 送ってってやるぜ」
貴史ははっとする。
「……思い出した。お勉強会だ」
高昌は立ち上がる。
「ほれ、先生を待たせちゃいけねえぜ」
貴史はにこっと笑った。
「そうじゃないよ。先生は俺」
「あ?」
「約束したじゃない。高昌さんに勉強教えてあげるって!」
「―――」
そういやしたな、と高昌は口の端を下げた。貴史は早速、自分の鞄を広げて、ノートと筆入れを取り出すのだ。やけに嬉しそうな貴史を、高昌は立ったまま見た。
「だろ。いい機会だからさ。中学の復習からでいい?」
「行ってねえ」
「え?」
「だから、学校に行ってねえ」
高昌を振り返り、まさか、と貴史は手を止める。
「……中学も? 小学校も?」
「おう」
紅緒も秋生も仰天だ。
「うそおーっ?!」
「兄貴、今時そんなん、よう今まで!」
「だからこいつを捜して寺を転々としてたんだよ!」
高昌は貴史を指差す。貴史は目をぱちくりさせる。
「何それ、俺のせいで学校行ってないって言うの?!」
「おうそうだ、恐れ入ったか!」
うひゃあ、と秋生は感心して尋ねる。
「何も言われへんかったん? おいらの親、高校入ってからやで、自由にさしてくれたん!」
「親なんざねえよ! 和尚が川で拾ったんだ!」
「うっわ、マジ?!」
「おうよ、そん時には緊箍児を首に……そういや紅(コウ)、お前金箍児はどうした」
「えっその腕の緊箍児?! 信じらんない、何でそんなもん持って来るんだ、置いて来たよ勿論! ていうか、持って来られるか普通?!」
「――勉強しよう! 高昌さん!」
不意に貴史の強い、しかし湿った声がした。見ると、貴史は目に涙を溜めている。
高昌は驚き、困惑した。
「……お前、何で泣いてんだよ?」
「勉強しよう! かけ算九九は出来る?!」
「馬鹿にしてんのかッ?!」
思いも掛けず、その後は勉強会となった。初めは高昌一人に三人掛かりで教えていたのだが、意外に高昌が物知りなので、最後には全員が互いに何かを教え合っていた。
気付いた時には外が暗くなっていて、高昌が紅緒と貴史を送って行くことになった。
紅緒は高昌に腕を組み、嬉しそうに歩いている。
「言っとくけどな、お前の心配なんざしてねえからな。ついでだ、ついで」
「もう! 何でそういうこと言うかなあ」
じゃあ、心配されているのは俺なのかな、と会話を聞きながら貴史は思う。
いいから手え放しやがれ、と高昌は紅緒を振り払う。あん、と紅緒は口を尖らせ、まあいいか、ついでならここで別れるし、と諦めた。
「じゃあね。あたしこっちだから。三蔵、またね」
手を振る紅緒に振り返そうと貴史が手を上げる。紅緒は貴史の手が振られるのを見ずに、一瞬の隙に高昌の首を抱えて口付けた。
「……紅孩児ッ!」
じゃあねえ! と高昌の怒声を無視して、紅緒は駆けて行く。
「……ったく! あの糞餓鬼……」
貴史を向いて、高昌は瞬きし、どうした、と尋いた。
「え?」
「何か怒ってねえか?」
どきっとした。確かに不愉快にはなったが、いきなり高昌に看破された。
「……別に」
「別にって……おい?」
高昌が近付いて、貴史の顔を覗き込む。貴史は顔を逸らしながら、自分の不愉快の原因に気が付いた。
気が付いたら、それを自分にも高昌にもごまかしたくなって、大慌てで話題を変えた。笑顔で振り向き、声を励ます。
「でもほんとに驚いた。高昌さん、歴史に詳しいんだもん」
「あ? だからよ、詳しいったって、見て来たこととか風の噂に聞いたこととかだぜ」
高昌は簡単に逸らされている。
「またまた。それじゃ高昌さん、千年以上生きてるよ」
「千年なんてもんじゃねえぜ。前の生は……何年生きたんだったかな?」
空を見て、忘れちまった、と高昌は呟く。
高昌は、もう貴史が不愉快だったことを忘れている。なのに貴史の中ではその気持ちがわだかまって、「大体二千歳くらいだと思うがな」と笑って貴史に顔を戻した高昌から、不自然に目を逸らしてしまった。
高昌は片眉を上げる。
「やっぱり何か怒ってねえか? 俺にか? 何をだ、言ってみろ」
あっ、嘘吐いてるとか言うんだったら、そりゃあしょうがねえぞ、俺あ本当のことを言ってるんだからなッ、と高昌は当て推量で反論する。
貴史は、ごまかし通すつもりだったのだ。
「……どうしてキスしたの」
なのに口からするりと問が出た。
言って自分でぎくりとしたが、言ってしまうと、もう問い詰めねばいられない気持ちになった。
「え?」
高昌はぽかんとし、先程の出来事だと思ったか、
「……いやありゃ紅(コウ)が」
「……そうじゃなくて、紅緒さんがいるのに、どうして俺に」
貴史は高昌が見られない。
そっちかあ? と、高昌は呆れたようだ。
「何だよ、それはもう怒ってねえって言ってたじゃねえか」
「そうだけど、」
「それに俺は紅孩児のことなんざ別に……」
そこまで言って、高昌は目を見開いた。
気付かれた。そう思った途端、心臓がドキドキと鳴り出した。
貴史はやきもちを焼いている。自分にキスをした高昌が、紅緒とキスを交わすのを、不愉快に思っている。
視野の端で、目を見開いた高昌は、頬を赤らめて、ゴクリと唾を飲んだ。
「……お前、俺を好きか?」
貴史は、自分がカアッと赤くなるのがわかった。
俯く貴史の顔を追うように、高昌は覗き込む。
心臓が鳴る。ガンガン鳴る。
多分、高昌の心臓も、ドキドキドキドキ……
おい、と高昌が呼んだ。貴史は顔を上げた。貴史は面と向かって耐えられずに、悲鳴のように叫んだ。
「……嫌いだよッ!」
ガアーン! 高昌の顔はそう読めた。
言葉を訂正することも出来ずに、貴史は身を翻して逃げた。
高昌は追って来なかった。
――これは、正臣に対する、裏切りだ。
酷くそんな気がして、涙が出た。
高昌とどうこうなりたい訳ではない。
高昌と口付ける夢を見る。
高昌が紅緒と口付けるのが気に入らない。
そして実際に、高昌に唇を奪われている。
それで十分だ。
貴史は電話ボックスに飛び込んだ。
『榎本研究室です』
「……正臣?」
声の調子で、正臣にはわかっただろう。
『今どこだ。そこから動くな、俺が行く』
「……ごめん、まだ途中?」
『いい。気にするな』
正臣が好きだ。愛している。
知り合ったその日に、キスをした。翌日にまた会って、セックスをした。どちらも貴史には、生まれて初めてのことだった。
会ったばかりの人間とそんなことをするなんて、貴史は今でも信じられない。
正臣だからだ。運命だったのだ。
正臣は貴史を落ち着かせてくれる。初めて会った時から。初対面とは思えない程。
(――そいつは悟浄で)
耳に、高昌の声が閃いた。
(こいつが八戒、)
……秋生といるのは楽しかった。
(……俺は、孫悟空だッ!)
高昌と、いるのは。
胸が躍る。とても不思議な気分になる。あの瞳と、髪の色のせいだ。
頼もしく思う。揺るぎない程の安心がある。あの敏捷で頑強そうな肉体のせいだ。彦一郎から救ってくれたせいだ。
キスなどをされても、そう思う。
(……あんたは、三蔵で、)
貴史は首を振る。
正臣に感じる深い落ち着きも、
秋生に感じる愉快も、
高昌に感じる安堵と高揚も、
決して過去に縁(えにし)があるからではない。
高昌の唇を知っている気がしたのは、
正しく、気のせいだ。
これは、恋ではない。
断じて違う。
自分は、正臣を、好きなのだ。
嫌われた。その認識が、暫く高昌を動けなくした。
貴史が、やきもちを焼いたと思ったのだ。だから高昌は、有頂天にならないように用心深く、俺を好きか、と尋いたのだ。体はポッポと熱くなって、気持ちは弾み出しそうだった。
照れていると、思ったのだ。だから俯く顔を覗き込んだ。自分を好いたらしく思っている顔を見たくて、また悟空と呼んで欲しくて。
あれは、だから怒っていたのだ。
紅緒とどうのではない。自分に無理矢理口付けた高昌を、本当には許していなかったのだ。
そうだろう。貴史は、正臣のものなのだ。
「……勘弁」
呟いて、高昌の足はやっと動いた。走り出す。猛烈な勢いで追い掛ける。
(嫌わないでくれ……嫌わないでくれ!)
――あの方が憶えていたい事だと、本気で思ったか?
正臣の声が、高昌の足を邪魔する。
(……畜生!)
嫌われたら傍にいられない。
岩の中で待つのとは訳が違う。
それだけは……それだけは!
二千年に及ぶ命の中、悟空が三蔵と共に在ったのは、僅か二十年にも満たない。だがその二十年の前にも後にも、悟空は、三蔵を想い続けていた。二千年の魂の、殆ど全てを賭けて。……代わりの存在など、どこにも在り得る訳もない。
貴史を見付けた! 電話ボックスの中だ。壁に寄りかかって、ぼんやりしている。
そのドアを、ノックする者がいた。――正臣だ。
高昌は走るのを止めた。立ち止まった高昌が見つめる先で、貴史は電話ボックスの扉を開け、通行人が見るにも関わらず、正臣に抱き付き、自分からキスをした。
……おい、如来。
こんなものを見せる為に、俺を転生させたのか?
抱き合う二人は、どう見たって恋人同士だ。
(……あんまりだぜ)
向こうからこちらは見えまい。高昌の良過ぎる目が、今初めて、恨めしい。
*
八戒の鼻がひくひくと動く。ぱっと笑うなり「水だ!」と叫んだ。
「おっしょさん、近くに水があるよ! 休めるよ!」
馬上の三蔵は柔らかく微笑む。「お前の鼻は大したものだ」
もとより千里眼の悟空も、水妖である悟浄も水の存在には気付いていたのだが、三蔵に褒められて八戒が余りに嬉しそうなので黙っていた。
村を出てから野宿が続いている。せめて水辺で三蔵をゆっくりさせたいと弟子三人共が思っていた。
尤も、弟子達は村に着いても野宿することが多かった。宿の親父が気味悪がって、泊めてくれないのである。
「お坊様はともかく、そっちの得体の知れない妖怪は」
「この者達は皆私の弟子です」
それで泊めてもらえることもままあったが、お弟子と言われましても妖怪でしょう、と難色を示されることが殆どだ。
弟子が宿泊を拒否される度に、では私も泊まる訳にはいきませんと言う三蔵を、お師匠は俺達と違って人間なんだから、少しでも疲れを取っておいてもらわないとこっちも困る、と悟空達は毎度説得するのである。
人の身で、よく唐から天竺まで行こうなどと思ったものだ。それ程魅力的な経典が天竺にあるのか。目的が物欲などではないのを知っている。この若い僧は本気で、見ず知らずの世の人々の為に、こんな無茶な旅をしている。
三蔵は疲れても、それを滅多に顔に出さない。
悟空は馬上をちらと見て、後どのくらいで水辺か見てくらあ、と飛び上がった。
水は二百平米程の歪な円に満々として、ちょっとしたオアシスになっていた。隊商が利用したらしい薪の後も見られた。妖怪のものらしい邪気もない。
やがて一行は池の辺(ほとり)で食事を採った。水がたっぷり使えるので、八戒が喜んで汁物を作った。
夜をそこで明かすことになり、悟空は火の番をしながら、皆が眠りに就くのを見ていた。八戒は相変わらず寝相が悪い。対照的に悟浄は木に凭れ掛かって座ったまま、微動だにせず寝入っている。
悟空は火を絶やさぬ為に木切れを捜しに立ち上がった。戻ってみると、草の上に横たわって眠っていたはずの三蔵の姿がない。
――水音がした。
木切れを火に放り入れ、悟空は池の方へと歩いた。木の枝に、着物が掛けてあるのを見付けた。
三蔵は、水浴びをしていた。
悟空はすぐに背を向けるつもりだったのだ。足音に気付いた三蔵が、「――悟空?」と呼んだ。
「……ああ。こんな時間に、風邪引くぜ」
「どうしても、水浴びをしたくなって」
次に体を洗えるのがいつになるかわからない。無理ないことだ。
「捜しに来てくれたのだろう? すまない」
月は雲に隠れている。三蔵の形をした影が、口をきく。
悟空は背を向ける。見えなくても、つい想像してしまうものから遠ざかろうとする。
「手早く済ませろよ」
「洗ってあげよう、おいで」
「―――」
何を言い出すのかと思って、立ち止まった。
「この前の村でも、その前でも、風呂に入らなかったろう」
「……俺は、いい」
「遠慮をするものではないよ」
五百年振りの風呂には喜んで入ったではないか、と三蔵は笑っている。悟空が何れ程の努力で辛抱しているのか、知らずに笑う。
いらねえって、と悟空が断わった時、「あっ」と声と同時にばしゃん、と水音がした。
「三蔵?」
三蔵の影が水に沈む。あっと思う間に悟空は池に駆け入った。
「どうしたッ!」
腕を掴んで、ぐいと三蔵を引き上げた。
「……何でもない。多分魚が足を」
さあっと月の光が差した。雲が流れて、悟空の目に、濡れた三蔵の姿を明らかにする。
「―――」
つるりとした肌に、水はいやらしく絡んでいる。体のそこにも、ここにも……隅々を濡らす。
「お前は服毎濡れたね。すまない」
雫がつうと滑り落ちる。顔を、首を、胸を、腹を、……その下へと、……水は、三蔵の裸体を嘗めて行く。
悟空が考えないようにとしていた姿よりも、よほど美しく、浄(きよ)らで、淫らだ。
悟空は食い入るように三蔵を見る。
「……悟空?」
月の光は、三蔵の怪訝な顔を照らし出す。
悟空の、抑えた情欲も照らし出す。
悟空は三蔵を抱き締めて、そのまま水に倒れ込んだ。
水音と共に池に沈む。三蔵はただ驚いている。その口を、口で塞いだ。三蔵はもがく。もがく拍子に、空気を吐いた。悟空は再び口付けて、三蔵の口に呼気を送った。
口付けをしながら、三蔵の体を逃がさぬように抱え込む。口の中を、浄らな肌を、舌で、指で、愛撫する。
悟空を押し退けようと三蔵はもがく。水の中で口を塞がれ、金緊禁のまじないも唱えられぬ。
悟空は水中にあってなお熱を持って固く反り立つ己のもので、三蔵の股の奥を乱暴に突いた。
三蔵はびくりと跳ねた。
口付けをしながら、悟空は三蔵を水中で揺する。
貫かれて、三蔵は大人しくなった。幾度も幾度も腰をぶつけて、三蔵を突き続ける悟空が、口を合わせたままぐううと呻いて三蔵の中に液を撃ち付けるまで、三蔵は死んだように動かなかった。
行為が終わり、二人水の上に顔を出した。
はあはあと息をして、悟空は頭痛経を覚悟した。
三蔵は呼吸を整えると、何も言わずに水を出た。目で追う悟空を振り返りもせずに、とうとう一言も言わず、一瞥もくれず、濡れた体に着物を巻いて、焚火とは違う方向へと歩いて行った。
*
(――大体、お前との一件が、あの方が憶えていたい事だと、本気で思ったか?)
言葉がぐるぐると回る。
あれは、強姦(レイプ)だった。
それでも三蔵は約束してくれた。
(生まれ変わっても、――きっと)
あれは、自分だけではなかったのだ。
悟浄にも、八戒にも、その約束は交わされた。
あんなことがあった後も、三蔵は変わらなかった。だから自分は許されているのだと、悟空は信じた。
生まれ変わって、出逢えさえすれば、
また三蔵は、自分のものになるのだと。
再会の約束は、三蔵の愛の告白に相違ないと、疑っていなかった。
愚かしくて、涙が出る。
*
――何故。
何故悟空はあのようなことを――
冷えた体を抱き締めて、三蔵は土の上に跪いた。
「……南無観世音菩薩。教えて下さい。私は……資格を失ったのではないでしょうか。悟空に、この身を荒らされました。悟空の色欲を祓うことも出来ず、仏に仕えるこの身を守ることも出来ず、ただ、自分の信心が己の肉欲に負けぬようにと耐えることが精一杯でした。私は……私は、もう、仏門に居ることは……天竺に向かうことは、許されないのではありますまいか。このように汚(けが)れた身で、私は、……」
三蔵は泣いている。途方に暮れて泣いている。
貫かれた痛みよりも、ショックの方が大きかった。
悟空が一時(いっとき)の勢いであのようなことを仕出かしたとは思えない。ならば尚更、悟空が自分をそのように想っていたのだと、まるで知らなかった己が恥ずかしい。
自分が悟空を追い込んだのだ。
これから悟空に、どう接すれば良いのだ。
後の二人に、なんと言えば良いのだ。
この身を、どう処すれば良いのだ。
全てが混乱していて、三蔵は俯き、涙する。
ああ、この旅は、これにて一巻の終わりとなるのか。……
『――三蔵』
響いた声に、はっとした。
顔を上げ、三蔵は胸の前で両手を合わせる。
「南無観世音菩薩……!」
暗闇の空(くう)に、白光が降った。
光の中から、声がする。いや、声は直接、三蔵の頭に響く。
『お前は、何故自分が汚(けが)れたと思うのです』
「――……」
三蔵は瞬いた。菩薩の声に、責める響きがなかったからだ。
「……私は、この身を、悟空に……」
『己の肉欲に負けたのですか?』
「――いいえ!」
断じて、と三蔵は強く言う。菩薩の声は微笑んだ。
『ならば、取経の旅を続けるのに、何の障害がありましょう』
「観世音菩薩……しかし、このような私が、如来様の御前に出られますものか」
『恥じているのですか?』
「……この身は不浄です。私は、己も悟空も、救うことが叶わなかったのです」
『三蔵。不浄とは、己の心が為すものです。お前は己の身を荒らす悟空を救うことまで考えました。悟空を憎みますか?』
「いいえ」
『それでいいのです。心配は要りません。三蔵、お前の精神(こころ)は浄いばかりです。悟空を愛しく想いこそすれ、憎もうとは思わぬはず。しかし悟空の行動は誤りです。お前を愛しく想う余りの過ちです。三蔵、悟空はお前の弟子です。わかりますね?』
「……このまま、共に旅を続けよ、と」
菩薩の気配が微笑んだ。
三蔵の迷いがすうと引いて行く。連なるように、空の光も、すうと消えた。
*
(続く)