「東遊記(GO EAST)-斉天大聖異聞-」

・第5回・

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 水の中で、たゆたっている。
 いや、水に、沈んだのだ。
 ああ、誰かと、口付けている。
 水の中で、口を合わせている。
 誰だ。
 目を開ける。
 見えるものは。
 赤い髪だ。
 額に嵌まった金輪だ。
(――『悟空』さ――)



 貴史がうとうととして目覚める間も、正臣は貴史を抱き締めたままだったようだ。
 すぐ隣で目を開けた貴史に唇を寄せて、正臣はまた貴史をきゅっと抱く。
(何故――)
 夢の相手は、正臣ではないのだろう。
 この上ない幸せの中で眠りに就いたのに、何故あんな夢を見るのだ。
 貴史がぼんやりしているので、正臣は不安になったらしい。
「……すまない。平気か?」
 激しくしたのが障ったと思ったようだ。
 貴史は、ううん平気、と微笑む。
 微笑って、思い出した。
 ……車の中で、襲われた。
 正臣を見て後ろめたさで一杯になった。
 あんな目に遭ったのだ。当たり前だ。
 それなのに、
 高昌に、自分は笑わなかったか。
 正臣が現れて後ろめたさを感じるまで、
 それで高昌といた時は、あんな目に遭ったことも忘れていたと気付いた。
 あんな目に遭って、どうして自分は笑えたろう。
 何より、こうして正臣と二人幸福で居ながら、何故自分は高昌のことを思うのだろう。……
 正臣は貴史の髪を撫でて、「話だが……」と切り出した。
「以前、お前が言っていた夢のことだが……」
「―――」
「誰かと溺れているようだと言った、覚えているか?」
「……そうだっけ?」
 咄嗟に惚けた。正臣は貴史をじっと見て、「もう見ないのか?」と尋いた。
 うなずく貴史に、そうか、ならいい、と話を変える。
「秋生から聞いたが、武井紅緒という少女に会ったと……いや、いい」
 貴史を襲った男が紅緒の父だと思い至ったか。正臣は貴史を抱き締めて、小さく、すまない、と言った。
「……正臣。俺も尋いていい」
「……ん?」
「何で皆、俺を三蔵法師って言うの」
「……」
「正臣は、知ってるんだろ、何か。秋生ちゃんが猪八戒で、正臣が沙悟浄で、」
 高昌が孫悟空で、という言葉は、正臣のキスで止まった。
「……誰が決めたの。何の為の配役?」
 唇が離れて、貴史は質問を続ける。
「……それとも、俺だけ何かを忘れてる?」
 正臣と会ったのは、<これ>が初めてだよね?
 尋ねる貴史を、正臣はぎゅっと抱き締めた。
 思い出すな。思い出さなくていい。――
 無言の正臣が、まるでそう言っているように、貴史には聞こえる。
「――俺、本当に三蔵法師なの? ……思い出したらもう、正臣とこうしていられなくなる?――」
 正臣は、黙って貴史を抱き締めている。





 岩の下で石猿は、ただひたすらに待った。
 くそったれ如来が約束した、札を剥がす人物を。
 天地開闢(てんちかいびゃく)から花果山に転がっていた大石は、太陽と月の精を吸って、一匹の猿を生んだ。生まれた石猿の金色の目の光は天にも届き、天上界を驚かせたが、所詮は猿と、この時は放って置かれた。
 生まれも非凡な石猿はやがて猿達の王となり、美猴王(びこうおう)を名乗った。仙術を学ぶことを思い立ち、師匠、須菩提祖師(すぼだいそし)から、孫悟空の名を頂いた。
 悟空はその才能のままに、地上でめきめき力を付ける。さてはあの時の石猿め最早放っておけぬと天帝は、悟空に適当な役職を与えて天上に繋ごうと試みた。
 だが与えられた弼馬温(ひっぱおん)は馬屋の長官、下の下の、言ってみれば馬の病気避け、御守りの札のような役とも言えぬ役。知った悟空は怒って地上に戻った。天に斉(ひと)しい大聖人、斉天大聖を名乗り、天上を愚弄した。
 そうして悟空と天上の戦争が始まる。
 悟空は圧倒的だった。天上の精鋭、十二神将もたじたじだった。
 かくして釈迦如来が登場する。乱暴猿めを何とかして頂きたいと助けを求められ、あの有名な賭けを持ち出した。
 この掌を飛び出すことが出来たなら、天帝を追い出し天上界をお前にやろう。もし出来なかったら、お前を地上に落とし、罪を問う。――
 悟空はこの賭けに負けた。一飛び十万八千里のキン斗雲をもってしても、如来の掌から飛び出すことは叶わなかったのだ。
 悟空は落とされ、身の上に正しく山のように岩を乗せられた。六字の真言を書いた札を貼られたせいで、悟空の馬鹿力も効きはしない。
 悟空を埋めた岩は五行山となった。
 手首から先、首から先が辛うじて外に出た姿で、悟空はじっとしていなければならなかった。如来に悟空の世話を頼まれた土地神が、腹が減れば鉄の固まり、喉が渇けば溶かした赤がねを与えたが、それより何より、動けないのが辛い。
 気の短い悟空が、ひたすら待った。待つ他、何もすることがなかった。
 動きたい。自由になりたい。
 早く来てくれ。忌々しい如来の札を剥がしてくれ!
 五百年が経った。
 先触れに、観世音菩薩が悟空の元を訪れた。
 如来の坐(おわ)す天竺は雷音寺まで経文を取りに行く人物を捜しに行く。ついてはその人物が札を剥がすよう仕向けておくから自由になった暁には、その者の供として守り付き従うように――
 <ようやく>だ!
 待って待って待ち続けた。地上に落とされてから、まだ見ぬその者のことばかりを考えていた。
 こんなところ、出ちまえばこっちのものだ。
 出られる。出られる。やっと出られる。
 自由にしてくれ!
 それからまた幾許か。
 悟空の目に、近付き来るその者の姿が漸く見えた。見えてから実際に悟空の元に辿り着くまでも、暫くあった。
 ただの脆弱な人間の僧であるその者は、馬だけを道連れに、この辺境の地へやって来た。
 まだ若い人間の男。旅の埃に薄汚れているが、それでもすらりとした姿と整った容貌からは、意志と知性と慈悲が見て取れる。
 悟空が考え続けていた漠然とした彼に、明確な姿が与えられた。それは不思議と何の齟齬も生まなかったので、彼が件の取経者ではないという疑いは、塵程も持たなかった。
 馬の手綱を引いて、目の前までやって来た僧は、岩に埋まった悟空の異形に怖れるどころか、気にする気配さえなく、黒い真っ直な瞳で、悟空の金の瞳をじっと見た。
 ――こんなところで何をしているのです?
 心底不思議そうに、そう言った。





 待つのは、お手の物だった。
 五百年待った。千三百年待った。
 なのに、今が辛い。
 畜生、と高昌は独り言(ご)ちる。
 正臣と貴史が今頃何をしているかくらい、察しは付く。それとわかって、正臣に渡すしか仕方がなかった。
 彦一郎を家に送り届け、散々脅し付け、以後三蔵に手出し無用のことと、ついでに壊した車と外灯の件も上手く治めるように承知させた。
 貴史を無視して正臣のベッドから貴史を奪い返せるくらいなら、今生で貴史を見付けた時点で、さっさと攫ってしまっている。縛るなり犯すなりして、自分の物にしてしまえばいいのだ。しかしそれでは彦一郎と同じだ。それが出来ないから、こうして途方に暮れている。
 高昌は寺にも帰らずに、一人公園の木の上であぐらをかいている。
 土の上よりも幾分落ち着く。猿の性分が抜けていない。
 畜生、とまた呟いた。
「これは斉天大聖らしくもない」
 不意の声にぎょっとした。
 見ると、公園には一人だけ、白いシャツにベージュのズボンの三十歳程の美丈夫が、大きな犬の散歩の途中だ。
 高昌のいる木の下で、穏やかに笑って、白い犬の毛並みを撫でている。
 男はくいと木を見上げた。
「そのようなところで気落ちなさっているとは。いかがなさった、美猴王。いや、仮にも天帝から頂いた、弼馬温の方がよろしいか」
「――てめえ、こんなとこで何していやがるッ?!」
 叫んだ高昌に、散歩ですよ、たまには地上を、哮天犬(こうてんけん)とね。と男はにこやかに返事する。悟空はあの犬に、がぶりとやられた覚えがある。
「……へ、天帝の神将がこんなとこで犬の散歩か?」
 構わないでしょう、と男は笑う。高昌に呼びかけようとして、
「……そうですね。やはり斉天大聖が良い名だと思うのですが。よろしいか?」
「……よろしくしてくれ」
 天上界との戦いで、悟空とただ一人、互角に渡り合った相手。
 高昌は実はこの男が苦手だ。その昔悟空が斉天大聖を名乗り、天上の他の全ての者がけしからんと憤った時に、この男だけは、天に斉しいとはよく付けたものだと大らかにも褒めた。
 顕聖二郎真君(けんせいじろうしんくん)。天帝の十二神将の一人。
 悟空がこの上なく腹を立てた弼馬温の名の方が良いかと尋くのも、嫌味でも何でもない。真面目なのだ。
 そうか、では斉天大聖、と二郎真君は呼び掛ける。
「お前は何故、三蔵の傍に居らぬ?」
 カアッと高昌は赤くなった。思い切り癇に触れた。
「――うるせえ! てめえの知ったことか! 俺様がどこでどうしていようと勝手じゃねえのか! 天竺にお供で行く用はとっくのとうに済んでらあ!」
「怒ったのか? これはすまん」
「さすが猿だね。木の上で喚いている」
 いきなり現れたもう一つの気配に、高昌は再びぎくりと見た。
「……てめえまで、何しに来やがった、ナタ!」
 今の今までいなかった、帽子を斜に被った利かぬ気らしい十程の子供が、男の隣に、半ズボンのポケットに手を突っ込んで、胸を反らして立つ。
「散歩だよ、散歩、木の上の猿を見物しにね」
 こら、ナタ、と二郎真君が窘める。
 二郎真君と同じく十二神将の一人。
 ナタは帽子のつばを持ち上げて、悪戯そうに高昌を見た。
「こりゃあ駄目だ。如来は今頃、がっかりしているよ。見るだけ無駄だ、帰ろう、二郎真君」
「如来――?」
 おい、と高昌が言う間に、少年の姿は消えた。残った二郎真君が、
「すまんが、長くは地上に留まれない。斉天大聖、伏して頼む。玄奘三蔵の傍に――」
「待てッ!」
 言い切りもせず、一陣の風を置いて消え失せた。
 高昌は木の上に立ち尽くす。
(如来だと……?)
 あの、胸糞悪い、釈迦如来のことに違いない。如来が、何だと?
 では、これは。
 今生の廻り合わせは――



「金ゼン子(きんぜんし)はどうだ?」
「未だ、忘れたまま、でございます」
「そうか……」
 あの魂を呼ぶ時は、いまだに二番弟子だった頃の名を呼んでしまう。
 この場所に、かつての輝きは失せている。事は急を要している。
 かの者に託さねばならない我々が、何とも腑甲斐無く惨めだった。
「ならば、時は満ちぬということじゃ」
 語り合う者の姿も、どこか霞んでいる。
 一人が、腰低く奏上する。
「遣いの言葉は伝わったであろう、と天帝は仰せです」
「……無理もない。神将とて、地上との行き来は、最早……」
 弟子の不確実な言葉を責めるでなく、ただおっとりと溜め息を吐いた。





 腹が減ったと喚き出すのは、相も変わらず八戒が先だった。
「うるせえな。てめえががつがつ食うから袋ん中は空だし、こんな人里離れてちゃあ民家だってねえよ!」
「悟空、私も腹が減った」
 馬上から薄い笑顔で三蔵は主張する。八戒を怒るなと言っているのだ。
「……ちっ、仕方ねえ、果物でもなってねえか見て来るから、お前らこの辺で休んでろ」
 杖代わりにしていた如意棒を脇に挟むなり、悟空はキン斗雲を呼ぶ。
「おっしょさん、こっちの木陰で休みましょう」
 八戒が三蔵を馬から下ろし、木陰の石に座らせると、すっと音もなく、悟浄が三蔵の後ろに立った。
「……悟浄。何おっしょさんと一緒に木陰に入ってるんだよ」
「俺は水妖だ。冷気が使える。側にいれば多少は過ごし易い」
「あっなんか腹立つ、腹減ってるからかな」
「八戒、替わろうか?」
「え、いや、おっしょさんは座ってて!」
 立ち上がりかけた三蔵を再び座らせて、でもやっぱ腹立つ、と八戒は悟浄を睨んだ。
 そこへ、瓶(かめ)を提げた娘が一人現れた。
「ああ嬉しい、お坊様に会えた。私、願を掛けていますの。どうかお布施を受け取って下さい」
 瓶の中身は、粥と汁物だという。八戒は今すぐにでも瓶を受け取りそうな勢いだ。
「おっしょさん、頂きましょうよ、こちとら腹ぺこですもん」
 その時「待てッ!」と空から降って来たのは悟空である。有無を言わさず、如意棒で娘の頭を叩き割った。
 三蔵は驚きの余り、声も出ない。
「あ、あ、兄貴! なんて事するんだようっ?!」
 八戒が駆け寄るが、娘は息絶えている。
「ち、仕留め損ねたな。慌てるなそいつは妖怪だ。脱け殻を置いて本体は逃げやがった。三蔵を食おうと企んだんだ。見ろ、これが粥かよ?」
 悟空は瓶を叩き割る。中から出て来たのは、おぞましい毒虫どもだ。
「あっちに桃がなってたぜ。旨そうなところをもいで来た。ほら、三蔵」
 懐から桃を取り出し、三蔵に差し出す。そうして三蔵の表情に気付いた。
「……おいおい、三蔵、まさか」
「おっしょさん、兄貴の奴、例のまじないが怖いもんだから、瓶の中身を今、術で変えたに違いないよ!」
「なっ、八戒! 何言いやがる!」
 八戒は腹が減る余り、粥を食い損ねたのが悔しくてたまらない。瓶の中身が粥だったと思い込んでいる。だから言葉に説得力が生まれた。何より目の前に転がる娘の死骸が、悟空には分が悪い。
 妖怪だと思って殺してみたら人間だった、という可能性もある、としたら八戒の言うことも、と三蔵は考えてしまったのだ。
「一番眼の良い俺が妖怪だったって言ってんだ! ほら、桃(これ)食って先を急ごうぜ!」
「……人殺しで嘘吐きの桃は頂けない」
「―――」
 ああ、そうかよ! と悟空は桃を全てその場に捨てた。勿体無い、と八戒が拾おうとするので、桃を蹴飛ばした。
 それから幾許もなく、先へ進む一行の前に、老婆が現れた。娘が帰って来ないと泣いている。
「さっきの娘の母親だ」
 八戒が言う。悟空の目には、先程抜け殻を残して逃げた妖怪だと見えていた。だから今度も、三蔵に近寄る暇を与えず、一撃にした。しかし今度も仕留め損ねた。
 三度目には、妖怪は老人に化けて現れた。今度こそ仕留めなければ、この針の筵が延々続くと悟空は思った。そしてとうとう妖怪は、死ぬと同時に白骨となって正体を現した。しかしまた八戒が余計なことを言う。
「兄貴、またこんな幻術でおっしょさんを騙して!」
 仏の顔も三度、と三蔵は言った。
「殺生戒を犯すような者とは共に行けません!」
 悟空は破門を言い渡された。
「天竺まで俺抜きで行けると思ってんのか? 遠いぞ! 危ねえぞ!」
「心配は無用、お前の助けなど死んでも呼びません」
「三蔵……考え直すなら今のうちだぞ?」
「……行きなさい! 行かないと――」
 三蔵が右手を胸に構える。悟空は泡を食って後退る。
「わかったよッ! 畜生ッ!」
 頭を庇いながら、こっそりと悟浄に寄って耳打ちした。
「おい。もし厄介な妖怪に出会ったらこう言うんだぞ。『後から孫悟空が来る』ってな。それで大抵の奴等はびびって……」
「……余計な世話だ」
 ああそうかよ、と悟空はとんぼ返り一つ。キン斗雲に乗って一行をぐんぐんと離れて行く。





 大きな分厚い本のページをぺらとめくって、貴史は驚きに瞬いた。
(三蔵法師って実在したんだ――)
 学校の図書館で百科事典を開いている。まず何を調べたものかと思った挙げ句、取り敢えず棚から運んだ百科事典の「さ」の項に思い掛けず三蔵の項を見付け、それが三つの経典の名前で、三蔵と称された僧は一人ではないこと、よく知られているのが西遊記で馴染みの三蔵法師であると知った。
(架空の人物とばかり思ってた)
 三蔵法師。本名、陳玄奘(ちん げんじょう)。二十六歳の時に唐を密出国し、インドに仏典をより深く学ぶ為に単身旅立ったという。
 高昌国も実在したらしい。事典によれば当時の国王は確かに麹文泰となっている。
(でも、さすがに、孫悟空や猪八戒や沙悟浄は……)
 作りごとだと貴史は思う。
 貴史はわざと大きく溜め息を吐いた。貴重な昼休みを使ってこんなことを調べている自分が馬鹿馬鹿しくなったのだ。
 テスト期間中でもないので、閲覧室も学習室もガラガラだ。
 教室に戻って弁当を食べよう、と思った時に、空きの一杯ある机を無視して、貴史の机に寄って来る者がいた。顔を上げると、にこにことした秋生である。
「秋生ちゃん」
「へへ、一緒におべんと食べよ思て見たら、もう教室におらんかったさかい、捜してもうた。貴史はん、なんか調べもんでっか? あやや、なんか宿題あったやろか、おいら忘れてるわ」
 えらいこっちゃ、と慌て出す。それに貴史はくす、と笑って。
「違うよ。ちょっと調べ物」
 なんでっか? と覗く秋生に見られる前に貴史は事典を閉じた。
「そうだ、今日帰り、秋生ちゃんとこ寄っていい?」
「そらええけど……」
 秋生は忙しなく瞬いて、実は、と聞く者もいないのに声を落とした。
「高昌はん、おるで」
「え?」
「昨日から、おいらんとこにおんねん」
「なんで?」
「いちいち寺から通うの、面倒や、言うてはる」
「通うって」
 そら、貴史はんに会いに、や。当たり前のことを告げるように、秋生は頷く。
 貴史は何故かほっとした。
「……めげてないんだ」
「へ?」
「ううん、なんでも。……そっか。秋生ちゃんに尋きたいことがあったんだけど……『悟空』さ……高昌さんにも尋こうかな」
 尋ねる顔の秋生に、貴史は苦笑して答えた。
「『悟空』って呼ぶなって言われちゃった」
 これに秋生は仰天した。
「へえ?! なんぞあったのん?! 喧嘩でもしはったん?!」
 うん、まあ、と答えた貴史に、そうでっか、と秋生は溜め息を吐く。
「犬も食わんわ。はよ仲直りしてや」
「うん……え?」
 犬も食わない喧嘩って、夫婦のじゃなかったっけ、と思う。正臣と喧嘩したというのならわかるけど、と考えて、夕べの正臣を思い出し、一人勝手に貴史は照れた。





 三蔵の方から俺を追い出したんだ。俺が自由にしていたって、如来に文句は言わせねえぞ。考えてみりゃ、ほんとに久しぶりの自由じゃねえか!
 キン斗雲を飛ばしながら、悟空はそう気分を浮かせようとしたが、どうにも胸が沈んで行く。
(……畜生)
 自分を信じず八戒の与太話を信じたのも腹が立つが、それ以上に、気掛かりで、気掛かりで、どうしようもない。
 あの頑固者め、と三蔵を腹に罵る。
 ああ言ったからには、三蔵は本当に、死ぬ目に遭っても、よしんばあの世の閻魔に逢ったとしても、悟空に助けを求めたりはするまい。それがわかるから、尚更三蔵の旅が気掛かりだ。
 花果山・水簾洞に五百年振りに戻った悟空を、猿達は快く迎え入れた。悟空は再び王様になる。皆が悟空を慕ってくれる。
 だが、満たされない。
 本音を言えば、今すぐにでも追っかけ戻って、三蔵の旅に加わりたい。如来に無理矢理命じられたはずの行動が、今ではもう、悟空の何よりの望みとなっていた。
 ……駄目、だろうな。
 袂を分かったまま、三蔵とは二度と逢うこともなく、……人間の三蔵の方が、うんと早く死んでしまうのだ。
(―――)
 その考えは、ぞっとした。
 見栄も外聞もない。なりふり構わず、三蔵の元へ飛んで行きたい衝動に駆られた。
 駄目だ駄目だ駄目だ。三蔵は、許さない。
 もう、二度と、
 会えないのか――
「兄貴! 助けてくれっおっしょさんが!」
 八戒が水簾洞まで悟空を迎えにやって来た。
 三蔵が寄越した迎えではなかった。
 構うものか。悟空はそれで気が狂わずに済んだのだ。
「てめえらがついていながら何やってやがんだッ!」
 叱りながら、キン斗雲でもんどりうつ。
 三蔵が許さなくてもいい。頭痛経にだって耐えてやる。傍に行って、
 天竺どころか、金輪際に行ったって、離れてなどやるものか――。





(続く)


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