・第3回・
部屋着に着替えた紅緒が自室で音楽を聴いていると、「私だ紅緒、お父さんだよ」と部屋のドアをノックする音がした。「どうぞ」と紅緒が返事をすると、紅緒の父の彦一郎は、帽子も脱がずに入って来た。
「お帰り、パパ」
「紅緒!」
ドタバタと紅緒に駆け寄り、娘同様絨毯の上にぺたりと座ると、しっかと娘の肩を掴む。忙しなく頭の先から爪先まで見回して、ほおお、と安堵の息を吐いた。
「……な、なに?」
「女中頭のセイさんから、お前が人におぶわれて帰って来たと聞いて、もう心配で心配で……怪我はないんだね? ほんとにないんだね?」
「もうパパったら」
紅緒はぷっと吹き出す。
「大丈夫よ。ほんとに心配症ね」
「お父さんはその昔、とても大切な人と二度と会えなくなった経験があってね。だから今はもしお前に何かあったらと思うと、ああ、駄目だ、心配だ。その、おぶってくれた人は、何だ、その、変な髪の色をしていたと聞いたが、おかしな人じゃないんだろうね? 本当に、ただの善意の人なんだろうね?」
「……その話、よくするわね。ママよりも大切な人だったの?」
ママに会う、随分前の話だよ、と彦一郎は相好を崩す。
なんでも、彦一郎には、昔とても愛した人がいて、その人を手元に留めておかなかったことを、とてもとても後悔したらしいのだ。
詳しくは語ってくれないが、その話をする彦一郎は、とても幸福そうな顔をする。後悔した、と言ってはいるが、幸せな思い出であるらしい。
だから紅緒は、彦一郎を元気付けたい時、都合の悪い話を逸らしたい時には、そちらへ話を振ることにしている。
遠慮するべき母親は、とっくに他界している。だから尚更彦一郎は、紅緒を大事にするのだろう。
「……本当に、とても素晴らしい人だったんだ」
「また、会いたいと思ってる?」
「……うん、そうだねえ」
「もし会えたら、新しいママにしてあげてもいいわよ」
彦一郎は、複雑そうに笑う。
「……でも、まず二度とは会えないだろうな……あれだけの、素晴らしい人には」
で、紅緒、おぶってくれた人は知らない人なのかい? お礼をしたいと思うんだがね、と彦一郎。ち、逸らせなかったか、と紅緒は可愛らしい笑顔の下で、舌打ちをした。
『てな訳でさ、パパがどうしてもお礼したいって言ってんのよ。あんた暇な小坊主だろ? 家まで来てよ』
「ああ?」
女子(おなご)から電話じゃ、と和尚に言われて、手拭いを被ったまま、子機もない古い黒電話に出てみると、相手は紅緒、電車の中からケータイでかけて来ているらしい。音が悪い。雑音が入る。同時に、この山寺、よく圏外じゃなかったな、と感心する。
「……って、あのなあ。暇じゃねえぜ。このボロ寺、古い癖に広さだけは一人前以上ありやがるんだ。掃除一つだってお前、俺一人でやってるんだぞ」
なにそれ、ダッサーイ、と紅緒がぶうたれる。
『いいじゃん、掃除なんか。なんならうちの人間代わりに送るから、いい? 今日の六時に家まで来てよ。パパ、忙しいのに仕事に都合つけるって言ってさ。もう愛娘も大変よ。わかった?』
「六時? あ、おい!」
ブツッと通話が切れる。我が儘なまんまじゃねえかあの餓鬼、と黒い受話器を睨み付ける高昌の後ろで、
「ボロ寺ですまんかったのう」
と和尚の声がした。
「ほんとだろうが」
ちらりと振り向いて高昌は睨む。
「まあいいじゃろ。行って来い。たまには女子とデエトも楽しかろ」
高昌は、どちらにせよ今日の六時には出掛けているつもりでいた。貴史の学校帰りを捕まえて、ほんの少しでも、共に時間を、と健気な考えだったのだ。
「……女子とデートね」
こちらから紅緒に連絡は取れないし、自宅の番号を調べて断りの電話を入れるのも、と考えた。
「……わかった。じゃ、ちょっと行ってくらあ」
頭の手拭いをシュ、と外す。赤い髪が、ぴっと揺れた。
高昌はまず秋生を捕まえて、ちょっとぐらい遠慮しろ、と脅して貴史を一人にさせた。といっても、貴史と二人でいられるのは、目的地に着くまでの間だけのことである。それでも二人だけで会話するということは、随分魅力的なことだった。
……貴史が悟空を忘れて、今は正臣のものなのだということを差し引いても。
「ほんとに俺も一緒に行っちゃっていいの?」
いいんだって! と高昌は請け合う。自分も貴史と過ごしたい、紅緒の父親も気の毒できない、と考えて、貴史も共に紅緒の家へ連れて行くことにした高昌である。
「あの子、武井建設の社長令嬢だったんだ。ほんとに『悟空』さんの恋人じゃないんだ?」
「違うッ!」
つい、大きな声が出た。必死に否定して、貴史を睨んだ。
「……」
貴史の驚く顔に我に返る。
「……あ」
周囲の通行人のように怯えてはいないが、目を見開き、高昌を見ている。
高昌は反省の色を露に、声を落とす。
「すまねえ、でけえ声出して……」
貴史は微笑み、首を振る。
「……ううん。ごめん」
「あ?」
「何か嫌なこと言っちゃったんだよね。ごめん」
「……」
高昌は下を見て、足下の石ころを蹴飛ばした。石はアスファルトの上を、乾いた音を立てて転がって行く。
……遠い昔の道行きは、乾いた場所を歩くことも多かった。水の一滴さえ無い時でも、こんな風には辛くなかった。
馬を引かれて、三蔵は黙ってついて来る。
目を開けるのも辛い砂混じりの風。それでも、吹き上がる髪の隙間から振り返り見る馬上の三蔵は、きりと唇を引き絞り、俯き気味の瞳には未だ見ぬ天竺国を映し……必ずその眼に本物を見せてやるのだと石猿は……
「……思ってたんだけど」
引かれた気がして、貴史を見た。貴史は、高昌の髪を、一房抓んでいた。
「これ、元々の色? きれいだね」
「―――」
高昌は立ち止まる。
「ほら、夕日に透かすと、金色……どうかした?」
貴史もつられて立ち止まる。
高昌は貴史を凝視する。
遥かな時空の夕暮れの思い出が、高昌の胸を小さく引っ掻く。
「……さんぞ」
「え?」
礼を言えなかった。照れ臭くて、顔も真っ直見られなかった。
ぱさぱさの赤毛を、褒めてくれたのに。
「……何でもねえ」
高昌は目を逸らして歩き出す。貴史もそれについて来る。
やっぱり照れ臭くて、それに少し悲しくて、また礼を言えなかった。
それから会話が減ってしまった。それでも黙って貴史がついて来るのが、何だか嬉しかった。
やがて辿り着いた紅緒の家は、社長宅だからといって、目茶苦茶でかい屋敷ではない。せいぜい普通の住宅が二つくっついたくらいの建物に家一軒分くらいの庭、だ。
それでも貴史は、息を飲んで、目を瞠っていた。こんなもんじゃねえ、国王の城だの如来の寺だの見て来た癖に、と高昌は可笑しくなった。
「来てやったぜえ!」
横柄な高昌の呼ばわりに、貴史はぎょっとしたらしい。堂々としてりゃいいんだよ、客なんだから、と高昌は笑った。
扉を開けたのは、見覚えのある老婆だった。
「よう、婆さん。紅緒に呼ばれちまった」
老婆が何か言う前に、「あーッ!」と叫びが家の中から沸いて出た。
「ちょっと! 何連れて来てんのよ!」
「俺が連れて来たんだ。嫌なら帰るぜ」
「ご、ごめんなさい、呼ばれていないのに」
恐縮する貴史に、気にすんな、と高昌は胸を張る。
しょうがないなあ、と紅緒は膨れる。
紅緒の出で立ちは、赤を基調にした可愛らしい、一寸コケティッシュな短いドレスだ。高昌を誘惑する気でいたらしい。貴史が一緒では、万が一にも高昌がその気にならないだろうと、この一瞬に諦めたようだ。
「パパは奥よ。どうぞ」
二人を先導して長い廊下を奥へと進む。
貴史は、幅の広い廊下や、高い天井から下がる照明などを、見ないようにしながらもやはり気になるようで、ちらっちらっと見ては感心して口を開く。高昌は可笑しくて、「ハッハッ」と声を出して笑った。
貴史は自分が笑われたと気付いたようだ。高昌を振り返り、恥じ入るように微かに赤らむ。
「如来の雷音寺は物凄かったじゃねえか!」
「え?」
貴史は憶えていないのだ。高昌の言葉にきょとんとしても無理はない。
自分を見るその顔があどけない程に可愛らしくて、忘れていることを差し引いても、高昌は何だか気分が良かった。
「なある……そりゃあそうだ」
ハハハハッと高らかに笑う。
高昌が何に一人合点しているのか、貴史にはわからない。腑に落ちない顔で瞬いて、一番しんがりからついて行く。
応接間らしい部屋のドアをノックもなしに、「連れて来たわよ、パパ」と紅緒は引き開けた。
「おおそうか。これはどうも紅緒が……」
椅子に深々と腰掛けていた彦一郎は立ち上がり、現れた客人に挨拶を述べかけて、
「―――」
固まった。
「パパ?」
高昌は気が付いた。彦一郎は、まず高昌を見た。そうして眉を上げ、貴史を見た。……見てしまった。
「……帰るぞ!」
高昌は厳しい顔をして貴史の腕をむんずと掴み、ぐいと今来た廊下へ引き出そうとするのだ。
「……え?」
「ど、どうしたのよ? 悟空?!」
「――そうだ、孫悟空だッ!」
つんざくように叫んだのは彦一郎だ。
「あの赤毛の石猿だ! ……おお、そしてそちらは確かに」
「くそっ、紅(コウ)ッ! てめえ親父は普通の人間だって言ってたじゃねえかッ!」
「エ? エ?」
無理もない。紅孩児は彼と面識はない。それに確かに、彼の以前は人間だった。
彦一郎が叫ぶ。
「三蔵殿……!!」
貴史の足下に跪き、すがり付くように手を押し頂く。
「えっ……?」
「よもや、よもや再びこうして御会い出来ようとは……!」
彦一郎は、はたはたと落涙している。
まさか、紅緒が茫然と呟く。
「……パパが昔愛した人って、三蔵法師だったの……?!」
「触んじゃねえッ!」
高昌はバシッと彦一郎の手を下から叩いた。勢いで彦一郎の体はもんどりうつ。
「パパ!」
床に体を打ち付けて、それでも彦一郎は上体を持ち上げた。
「ぐうっ……、おのれ石猿、またしても邪魔を!」
「てめえなんざにやれるか! 三蔵、来いッ!」
「あっ」
貴史の腕を、力任せに引いて走った。三蔵殿、お待ちを、三蔵殿、と、倒れたまま叫ぶ彦一郎の声が遠くなる。
玄関を出て、門を出て、高昌はやたらに走った。彦一郎が、車で追って来るかもしれないと考えた。
塀ばかりが続く住宅街の坂を越えたところで、
「痛い……『悟空』さん、痛い!」
貴史に訴えられて、
「……すまねえ」
高昌は漸く走り止めた。
「放して」
貴史に言われて手を放す。貴史は腕を摩って、俯き気味に高昌に尋ねた。
「説明してくれるよね?」
怒っている。奇妙なことに、その気配に怯えながら、高昌は懐かしさを感じている。金緊禁のまじないを恐れてつい頭に手をやったが、そこに輪はなく、貴史がまじないを憶えている訳もないのだった。
「……だから」
高昌は頭を掻いて、手の動きをごまかした。
「あれは高昌国王の麹文泰だ。散々困らせてくれた嫌な奴じゃねえか。だから俺は『こうしょう』って呼び名は嫌いなんだよ」
「それが説明?」
「……って」
仕方ねえだろ、本当のことなんだから。拗ねたように高昌は口を尖らせる。貴史はキッと高昌を睨んだ。
「―――」
ああ、この顔は。
「どうしてそんな嘘吐くの。会ったことのない人まで俺を三蔵って、みんなで俺を三蔵法師にして何が楽しいんだ?! わざわざこんなことしてからかって……!」
「ち、違う! そうじゃねえ!」
ああ、駄目だ。
(聞いてくれ三蔵、そうじゃねえんだ!)
(もう聞く耳など持ちません! 悟空、お前のような者は――)
「は……っ、破門は勘弁ッ!」
高昌は両掌を貴史に向けて叫ぶ。
「……破門?」
貴史は一瞬きょとんとし、その意味に気付いてますます険を強くした。
「……そんなに三蔵法師にしたいんだ」
「だから、」
「『悟空』さんのこと怖いって言う友達に、そんなことない、話してみれば普通だよ、って言ってたけど、別の意味で『アブナイ』人だったんだ」
「三蔵……」
「三蔵じゃない、俺は渡辺貴史だ!」
「―――」
(貴史は、俺のものだ)
(大体、お前との一件が、あの方が憶えていたい事だと、本気で思ったか?)
正臣の声がぐるぐると回る。
雷のように閃き、重なる。
睨み付ける貴史。
濡れる体。
無言の三蔵。
――畜生!
「あっ」
悔しくて、思い出して欲しくて、
気が付いたら、貴史をきつく抱き締めて、乱暴に唇を合わせていた。
震えに気付いた。見ると、貴史は泣いていた。
ズキンと、胸の大切なところが痛んだ。
「三蔵……」
「……三蔵法師にこんなことするの?」
放して、と貴史は訴える。高昌は従う。
「……やっぱり嘘だ。三蔵は孫悟空のお師匠さんだろう? こんなことする訳がないじゃないか」
ぐいと涙を拭いて、貴史は宣言する。
「もう話しかけないで。さよなら!」
(――破門です!)
貴史は背を向けて駆け去って行く。
「……勘弁、て、言ったじゃねえか……」
高昌は、背中を見つめて、立ち尽くす。
あの唇を、知ってはいないか。
乱暴なまでに熱い、あの口付けを。
もがいている。
水の中で口を塞がれ、苦しさにもがいている。
ああ、呼気を送り込んでくる。色が見える。赤い。あれは……
(……『悟空』さん?)
「――はっ!」
うたた寝をした。
貴史は夢の内容に愕然とする。
……あんなことがあったからだ。だから、夢の相手が高昌だったのだ。熱い、口付けの相手は……
夢の内容が、以前より少し、鮮明になっていた。
もっとはっきりすれば、きっと相手は正臣だとわかるのだ。
あの夢は、優しい正臣に、あれぐらいにして欲しいという、自分の欲望が見せるイメージに違いないのだ。
そうとも。
「……」
机上に開かれてある参考書をぼんやりと見る。
今日は家庭教師はない。
明日、貴史は正臣の顔を、まともに見られるだろうか。
熱い口付けをして欲しいのは、正臣だ。他の誰でもない。そう考えて、貴史は後ろめたい思いを、飲み込もうとした。
電話が鳴った。階下から母親が呼んだ。
「貴史ー。柴先生からよー」
話があるから会いたいと言う。
貴史は正臣の部屋を訪ねることになった。
高昌はとぼとぼと街中を歩いている。三蔵に破門されても、帰る場所花果山(かかざん)・水簾洞(すいれんどう)も、待っている猿の一族もない。
せいぜい浮かぶのは、あの山のボロ寺である。
こうして歩いていて、いい加減警官に職質されるのにも飽きた。
(電話入れねえとうるせえしな、あの和尚)
ポケットの小銭を確かめて、高昌は電話ボックスに入った。
「……あ?」
『じゃから、電話をかけるんじゃ。今から番号を言うぞ』
寺に掛けてみたら、紅緒から電話があったという。高昌に連絡を取る方法がないので、待っていたらしかった。
一旦置いた受話器を上げて、足りるかな、と思いながら残りの小銭を電話機に入れる。
『悟空?!』
コール半回で紅緒は出た。
『パパが変なの、何とかして!』
「ああ? あいつは昔っから変だぜ」
『そうじゃないよ、あんた達が帰ってから目の色変わっちまって、なんかブツブツ言ってんだよお、気持ち悪いんだ、助けてくれ!』
「ふーん……元に戻ったかな」
『ええ?!』
「わかった、今から行ってやる。待ってな」
受話器を置いて、高昌は電話ボックスを出た。
武井家に着いたのはそれから二十分後だ。
「悟空ッ!」
紅緒は門まで高昌を迎えに出ていて、姿を見るなり、ひしと抱き付いた。
「親父は中……んぶ」
抱き付くついでに、口付ける。
「コラッ! 親父が大変なんじゃねえのかよッ!」
「いいじゃん、ちょっとだけ、ちょっとだけ!」
チュ、チュ、と口を吸って、胸板に頭を押し付ける。
「……ああ、嬉しい……!」
やれやれ、と高昌は紅緒を引き摺って玄関を入る。
「お嬢様、」
三度目に見る老婆が、紅緒に告げる。
「裏口から旦那様が、ご自分でお車を運転なすって……」
「しまったッ!」
叫んだのは高昌だ。
「電話借りるぞ!」
玄関ホールの電話に飛び付き、貴史の家に電話をかける。
「出掛けた?!」
少し前に、正臣の家に向かったということだ。高昌は口を引き結んで受話器を置く。
「いいじゃん、悟浄んとこにいるんなら……それに、パパも三蔵のとこに向かったとは限らないし。ひっ――」
紅緒は、ぐい! と胸倉を引き絞られ、高昌の刺すような目に、至近距離で睨まれた。
「――三蔵に何かあったら許さねえ」
まるで静かな獣の唸りだ。
「お、お嬢様!」
ぺたりと紅緒はその場に尻餅を着く。
高昌はそのまま紅緒を捨てて、武井家を駆け出た。だ、誰か! と老婆は人を呼んだが、紅緒はぽうっとした顔で、自分のスカートの中に手を入れた。
(続く)