「東遊記(GO EAST)-斉天大聖異聞-」

・第2回・

「ここだけ劇場」へ戻る


 道なき道を行きながら、悟空の兄貴の術は大したもんだよな、と八戒が言うので、「へへっ、違えねえ、人間の仙人に師事(つい)て、修業を積んだからな」と悟空は自慢した。馬に揺られて、三蔵は微笑んで尋ねる。
「人間がお師匠なのか。それはお前から望んだ修業か?」
「おう、うんと強くなりたかったからな」
 悟空は馬上を見上げ、胸を張る。
「そうか。では修業は楽しかったことだろう。私も修業は楽しいと思う」
「なんだ、三蔵は仏教が楽しいのか?」
 勿論、と三蔵は答える。
「学ぶということは、人の喜びだ。己を高めることは、仏の施しと同じ程に貴い……」
 おっしょさんは、一石二鳥だね、と八戒。そうありたいと思っているよ、と三蔵は頷いた。
 悟空は、くん、と空気を嗅いだ。
「急ごうぜ。一雨来そうだ」
「えっ……」
 三蔵は空を見上げ、怪訝な顔をする。その三蔵に、これを、と悟浄が雨避けの布を懐から差し出した。有難う、と三蔵が受け取るものだから、
「なんでえ、悟浄が言えば信用するのかよ」
 と悟空が拗ねた。
「そういう訳では……これ、悟空」
 はいはい急ぎましょ、と八戒が、身軽く馬の手綱を取って小走りした。三蔵は宥める間もなく、悟空の先へ引かれて行く。振り向く三蔵から、悟空はふいと目を逸らした。
「悟空」
 三蔵は呼ぶが、悟空は返事をしない。幾度か悟空、と呼んだ後、三蔵は前を向いて、右手を胸に構えるなりぶつぶつと呟いた。途端に悟空は激痛に飛び上がる。
「いでえええッ?!」
 頭の金輪がギュッと締まる!
「何しやがんだッ!」
「悟空」
「何だよッ?!」
 呪を解いて、良かった、と三蔵は微笑む。
「聞こえないのかと思ったのだ」
 手綱を持つ八戒はくすくすと笑う。後に続く悟浄までがにやにやとする。悟空は涙目で訴えた。
「そんなことでブツブツやんなッ!」
「聞こえてなによりだ。それで悟空、お前の言葉を信用しなかった訳ではないのだよ」
 だってこの空を御覧、と三蔵は続けるので、もういい、と悟空は諦めた。





 高昌は今、夕刻の通学路をうろついている。
 学校帰りの制服達の中で、赤いタンクトップに赤い長髪の高昌の姿は浮き上がる。あからさまにじろじろと眺める者も、高昌を恐ろしい乱暴者と見てか(あながち間違いではない)遠巻きにしていく者もいる。高昌は所在なげに、ただ行ったり来たり、うろうろとする。
 諦めるなど出来なかった。未練がましかろうが何だろうが、高昌がここにこうして存在している意義は、他にないのだ。
 三蔵の魂を諦めて、何故この世に留まれるだろう。
(――貴史は、俺のものだ)
 高昌は首を振る。おのれ腐れ河童、と腹に罵る。
(たった一度の、昔の事だ)
 ……その、通りなのだ。
 しかもその一度の事が、……
「……あれ?」
 声に振り向いた。笑ってこちらを見ている、貴史がいた。
 微笑みかけられ、高昌の心臓はどきりと打った。
「……よ、よう」
 駆け寄って来る貴史の周囲に、秋生と正臣を捜した。いるのは、ええ、あれと知り合いか? と目配せを寄越す、貴史の同級生ばかりだった。
「……豚と河童はいねえんだな」
 貴史は一瞬ぱちくりとして、それからくっくっと笑った。
「うん。秋生ちゃんは掃除当番、正臣は大体、大学生で今日はまだ講義の最中だよ、<こうしょう>さん」
「……こうしょう?」
 高昌は片目を眇める。
「秋生ちゃんから聞いた。高昌(こうしょう)さん、お坊さんなんだって? 全然見えない」
「よせやい。俺は出家してねえよ。ただの下働きだ」
「……学校は?」
「んなもん行ってねえ」
 貴史の顔に、一種の同情が宿った。が次の瞬間には、ぱっと明るく輝くのだ。
「そうだ、ねえ、高昌さん、俺が勉強見てあげようか」
「……あ?」
「そうしよう、勉強はした方がいいよ!」
 高昌は面食らう。
 千三百年前に生きていた学僧と、同じような事を言う。――
「……いらねえよ。大体俺ぁ立身出世……」
「駄目だよ、駄目駄目、出世がどうのじゃないんだから! それに勉強って楽しいんだよ? 難しくないよ、高昌さん」
「……」
 眺めていく通行人の中で、高昌と貴史は見つめ合う。貴史の真っ直な瞳を見るうちに、高昌は笑い出した。
「は、はっはっはっはッ!」
「え?」
「わあったよ! 習うとしよう。でな、『こうしょう』はやめてくれ。高昌(たかまさ)か、……出来りゃ、悟空がいい」
「……『悟空』さん?」
 よっぽど孫悟空が好きなんだね、と笑う貴史に、だから俺が悟空なんだ、と高昌は繰り返す。
「……だったらその輪、頭にしなきゃ」
 貴史は高昌の腕を指す。
 高昌はぶるりと頭を振った。
「……せっかく外れたのに、また嵌めるのはごめんだ。……それから、<さん>付けはよしてくれ。気持ちが悪い」
「じゃあ『悟空』さん」
 高昌の主張は、無視された。
「どうして『こうしょう』はいやなの?」
「……そりゃ……嫌な奴が、いたんだよ」
 取経の旅の途中に立ち寄った国。高昌(こうしょう)国の国王、麹文泰(きくぶんたい)。
 この国王は、三蔵一行にとても良くしてくれた。頭脳明晰、人格高潔、眉目秀麗の若い三蔵に、すっかり惚れ込んでいたからだ。
 惚れ込み過ぎて、何とか三蔵を手元に置きたいと出国を許さなかった。三蔵には取経という目的があった。強硬に引き止める国王に対し意志を貫く為、三蔵は絶食という手を使ったのである。
 さすがに国王は折れた。天竺からの帰りにも必ず立ち寄るようにと約束をさせ、一日で往復できるぎりぎりの距離まで国王自ら見送りに来て、三蔵を抱き締めて長いこと放さなかった。
 その上三蔵達が天竺から戻る頃には、高昌国王は国毎滅んで死んでいた。三蔵は酷くがっかりとして、うちひしがれたものだ。
「……お前も、閉口してただろうがよ」
「……?」
 ま、いいけどよ、高昌は呟き捨てた。
 周囲が騒々としだした。
 高昌を遠巻きに囁く声ではない。スゲエ、カワイイ、と浮き立つ声がうねりになる。
「……あ、ほんとだ、可愛い。聖女の制服だね」
 ざわめきの元を発見したらしい貴史の視線を追って、高昌も振り返る。
「せいじょ?」
「知らない? 聖愛女学園。有名なお嬢様学園だよ」
 知らねえな、と答えて、道の向こうにいる者の正体に、高昌は気が付いた。同時に向こうも、高昌を見付けた。
「お前……っ」
「キャ――ッ!」
 歓声を上げ、ぱっちりとした目の頗る付きの美少女が、真っ黒な長過ぎるポニーテールを跳ねさせて、真っ直に高昌目掛けて飛んで来る。
「紅孩児(こうがいじ)か!」
「会いたかったよォー、悟空ー!」
 短いスカートの裾から下着が覗くのも構わず、小柄な体を高昌にぶっつける。美しい目を喜びに細めて高昌にしがみ付き、胸板に顔を擦り付ける。
「こいつぁ魂消た、てめえ女か!」
「だってだって女に生まれたらって思って……ゲッ!」
 貴史に気付いた少女の口から、顔に似合わぬ驚嘆が出る。
「良く見りゃ、三蔵じゃねーかッ! てめえ性懲りもなくまた悟空に付き纏……んむぐ」
「悪ぃ、また今度なッ!」
 ぽかんとした顔の貴史を置いて、高昌は少女の口を押さえ胴体を抱え、脱兎の勢いで駆け出した。
 端から見たら、まるで人さらいである。
 街角の建設中のビルを覆う、ビニールシートの中に潜り込んだ。幸い中に人影はない。と見るや、高昌が抱えた体を地面に下ろすか下ろさないうちに、少女は高昌の首を抱え込み、思い切り口に吸い付いた。
「ぶ、こらッ! 何しやがる!」
 振り払う高昌の手を、蔦のように搦め捕る。
「しよ! しよ! 今すぐしよ!」
「だあああーッ! 何考えてやがんだてめえはッ?!」
「何って……」
 ヤダ、ナニに決まってんじゃん、と美しい顔を赤らめた。
 メキッという音は、建設資材の鉄パイプを、高昌がもぎ取った音だ。
 如意棒よろしくビシッと構えて、高昌は宣言する。
「――そのへんにしとけよ」
「……」
 少女はぶるっと震えた。
 恐怖と恍惚。
 得物こそ如意棒ではないが、腰に纏う虎の毛皮も有りはしないが。
 高昌の、その構え、その視線、その殺気。
 ――かつての。
 違(たが)うことなき、斉天大聖、孫悟空である。
 地上には、いや天上にも、如来をおいては……適う者はいなかった。
 ゴクリと唾を飲み込んで、少女は火照った体をぎゅっと抱いた。
 顔に上って来るのは、死に瀕した武芸者のぎりぎりの喜び、マゾヒスティックな淫猥な快感。十六、七の少女には似合わぬ表情を湛えて、降参の印に両手を挙げた。
「……わかったよ。今日は諦める」
 高昌は構えを解かずに続ける。
「確認しとくぞ」
「え?」
「三蔵の転生は知らなかったんだな?」
「……」
 妖怪の生を生きていた時代、紅孩児は妖怪が食えば長生きすると言われていた坊主の肉を食らう為に、三蔵を捕えて縛り上げた。
 悟空はそれを、まだ許していないのだ。
 今再び現れた紅孩児を、三蔵に害為す者ではないかと疑っている。「今日は諦める」と言った紅孩児の言葉を、乙女の強がりだと理解していない。
 紅孩児の少女は、高昌の殺気の理由に気付いて、ぷうっと膨れた。
 この石猿の頭は、女のことに関しては、中身までも石なのだ!
「知らなかったよっ!」
 それで高昌は構えを解いた。手のパイプをじっと見て、「壊しちまったな」と呟いた。
「……平気だよ。だってここ、うちの会社が造ってるビルだもん」
「……あ?」
 少女は今度は、無邪気ににっと笑って見せた。
「今のあたしはね、お金持ちのお嬢様なの。武井紅緒(たけいべにを)、武井建設社長の一人娘よん」
「……へー」
 鼻糞でもほじりそうな無関心さだった。
「へーって……ちょっと、それだけ? これでもあたし、幅広い年齢層にモテモテなのよ、ヤキモキしたりしな……」
「で、牛魔王(てめえのオヤジ)は?」
「……」
 紅緒はぷーっと可愛らしく膨れた。
「知らないわよっあんなウシ! 武井はただの人間よ、親も親戚も、学校の友達も、周りはみーんな知らない人間! ……初めて会えたのが、あんただもん」
 涙ぐむ紅緒に、それで心細くてトチ狂ったのか、と高昌は善意の解釈をした。
「そうか、そりゃ寂しかったな」
「二人目があの三蔵よ! 悔しいっ!」
「……」
 今度はキイイッと地団駄を踏む。かつて武芸、妖術の天才と言われた、牛魔王の息子、紅孩児も、すっかり人間の女の暮らしが身に付いたようだなと、高昌は感慨を深くした。
 紅緒は、キッと高昌を向く。
「ねえ! 今生では三蔵とどうなってんの?! 俺は三蔵についててやらなきゃいけねえとか言って、昔コクったあたしを袖にしたのは憶えてるでしょ?! すっごい恥ずかしかったんだから! 誰かに負けを認めるのも、石猿なんかに惚れた自分を認めるのも! あたしがプライド高いの知ってるでしょ?! どうなの! あんたたち、今でもべったりなのっ?!」
 高昌は口をへの字に曲げた。紅緒は聡くそれに気付く。
「……え?」
「三蔵は、何も憶えちゃいねえよ」
「……うそ」
 ぽかんとして尋ねる。
「三蔵が? なんにも?」
「おまけに河童とラブラブだ」
「――ええ?!」
 紅緒は目を口を大きく開け、やがて口を手で覆い、……大爆笑を始めた。
「ウッソオー! 河童って、沙悟浄ー?! ギャハハハハー! へええ、悟浄もいるんだ、じゃ豚は? へー八戒もいるの? ヒャヒャヒャヒャ、孫悟空ともあろう者が、悟浄ごときに遅れを取るとは」
 ビタッと紅緒の喉元に、高昌が脇に抱えた鉄パイプの切っ先が宛てがわれた。
「笑い過ぎだ」
「……ご、ごめん」
 冷や汗をかきつつも、紅緒は紅潮して身を捩る。――感じたらしい。
「と、とにかくさ、ええと……」
 鉄パイプの先端をそっと外して、紅緒は高昌に身を寄せた。
「あんたの今の名前と居場所、教えてよ。そこに行けば、他の連中も集まってるんだろ?」
 名前は西庭高昌(にしばたかまさ)、と言いかけて、高昌はふいに思った。
 紅緒の言う通りだ。
 ――揃い過ぎる。
(会えただけで十分幸せやん。凄い偶然やねんで?)
 凄い偶然。
 秋生はそう言ったが、この地、この時に居合わせるあの頃の者が、この分ではまだ他にもいそうだ。
「悟空? ……ちょっと」
 それに、どうも自分だけが親も持たず人に転生したようだ。元々が親のない、岩の卵から産まれた石猿だからか。
 死なぬはずだった自分をそのようにしてまで敢えてここに放り込む必要があったのか。……一体、誰が。
「……んぶっ」
 高昌の思考は、紅緒の濃厚なキスに邪魔された。
「……っいい加減にしやがれッ! 紅(コウ)の字ッ!」
「あん」
 高昌に撥ね除けられ、だってえ、と尻餅を付いた姿勢でかぶりを振る。
「名前も教えてくれないで、どうせ三蔵のこと考えてたんだもん! 善財童子(ぜんざいどうじ)とかいって観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)のお弟子にさせられてからだって、ずっとあんたのこと好きだったんだ! 畜生! 千三百何十年もずっと好きだったんだぞ! いいじゃんかキスぐらい!」
 尻を付いたまま足をばたばたと踏み鳴らし、あんあんと泣き出した。昔の駄々っ子に戻っている。
 悟空と牛魔王は義兄弟の杯を交わした仲だ。よって牛魔王の息子の紅孩児は、悟空にとっては甥っ子のようなものである。
 高昌は、ふう、と眉尻を下げた。
「……おい、わかったから、そう泣くな。悪かった。邪険にして、おじさんが悪かったよ」
 紅緒はひっくとしゃくり上げる。目の前に屈んだ高昌に、半信半疑の視線を送る。
「……俺のこと子供だと思ってるだろ。だからおじさんなんて言うんだ、馬鹿にして」
「まあ子供は子供だが、馬鹿にはしてねえよ」
 紅緒はむっとする。
「そりゃあ、あんたの方がうんと長生きしてるけど、<今は>せいぜい二つ三つの差だぜ!」
「わかった、子供じゃねえよ」
「じゃあキスして」
 あんたから、キスして。紅緒は涙目で訴える。
「セックスは、勘弁してやるから」
「……ウシが聞いたら泣くなあ」
 いや泣くのは羅刹女(らせつじょ)かな、と紅孩児の母親を思う。気性の激しい女でしかも子煩悩だから、よくも可愛い坊やを振ったね、とこっちが責められるかもしれない。
「……しない気? じゃあいいよ、大声で人を呼ぶから。こういう時、男と女、どっちの言い分が通ると思う?」
 高昌は渋い顔をした。「悪餓鬼め」
「ちゃんと口にしてよ。舌も入れてよ」
 額に口付けて茶を濁そうとしたのを見抜かれている。
 仕方ねえなあ、と高昌は呟いた。
「仕方なくするのでも、いいから」
 紅緒は目を閉じる。高昌は紅緒の注文に応えた。
 短いキスだった。それでも紅緒は震えて、唇が自由になるとすぐに、高昌にしがみ付き、叫んだ。
「好き、好きい、悟空っ!」
 ぽんぽん、と肩を叩いてやった。
「……も、いいだろ。俺は行くぞ」
「……腰、砕けちゃった。うちまでおぶって」
「……」
 えへへえ、と泣き笑う紅緒を、仕方ねえな、と高昌はおぶった。



「へえ、そんなべっぴんはんやったん」
 さくさくと掃除を終わらせた秋生は、下校途中の貴史を上手く捕まえる事ができた。今日は正臣の家庭教師もないので、貴史を放課後どこかに誘おうと思っていたら掃除当番だった、という秋生だ。貴史と一緒にいたさに、雑巾をかけるスピードも上がろうというものだ。
「うん。でも意外と大胆な子だったなあ。聖女のイメージ変わっちゃった」
 途中、高昌に会ったという。その顛末の話をしながら、CDショップに向かって歩いていた。
「秋生ちゃんの知ってる子かもね。高昌さんのこと悟空って言ってたし、『悟空』さんもその子のこと、コウ……ええと」
「コウ?」
 コウ、コウ……何だっけ、と貴史は首を捻る。
 秋生は言ってみる。
「……紅孩児?」
「あ、そうそう、それ」
 それもやっぱり『西遊記』の登場人物? と尋ねる貴史に、うん、と答えて、秋生は考える。
 紅孩児が悟空に惚れていたのを知っている。悟空が振ったのも知っている。
(紅孩児は、兄貴を追っかけて来たんやろなあ)
 それにしてもよくよく――
「……あ、あの人」
 貴史の視線の先を見やる。
(あらあ、ほんまや。兄貴と、紅孩児やん。あの暴れん坊主、ほんまに女の子やど)
 ちょうど建設中のビルのシートから、二人一緒に出て来たところだ。高昌が紅緒をおぶっている。そうでなくても目立つ二人連れだ。
 何してたんだろ、と貴史が呟いた時、かなり離れているにも関わらず、高昌は気付いたようにこちらをバッと振り向いた。貴史の顔を認めた途端、背中の少女を振り落とす。
「違う! 違うぞッ!」
 必死な様子で叫んでいる。落とされた少女は、高昌に向かって、何やらぎゃあぎゃあと喚いた。高昌は少女をきっと睨むと横抱きにひっ抱え、矢庭に駆け出し、あっという間に見えなくなった。
 貴史は、ぽつりと秋生に尋ねた。
「『悟空』さんの恋人さんかな」
「……違う、言うてたけど?」
 秋生はこっそり、高昌を気の毒がる。
 二人が見えなくなってからも十秒くらいその場に佇んで、秋生は貴史と一緒に歩き出した。



 多分、そこは水の中だったのだろう。
 自由に動くことが出来なかった。
 声を出すことも。いや、呼吸すら儘ならぬ。
 誰かと一緒だった。その誰かは、自分の体を掴んでいた。
 怖かった気もするし、怖くなかった気もする。
 自分は水の中で、もがいていた。
 貴史は目が覚めてから、ぼんやりとした夢の破片を、天井を眺めて回想していた。
 ここは正臣のベッドの中だ。
 体には、夕べの正臣と、多分今朝方見た夢、両方の余韻が混在している。
 ……あれは、ただ溺れていたのではない。
 夢の自分は、水の中で、何をしていたのだろう。
 一緒にいたのは、誰だろう。
「……起きたのか」
 正臣はコーヒーを注れて来たようだ。そっと開けられたドアの音の後に、正臣の静かな声と、コーヒーのいい香りがした。
「……いい匂い」
 正臣は独り暮らしだ。貴史は時々こうして、正臣の部屋に泊まりに来る。親には、やはり独り暮らしの、秋生のところに泊まると言って。
 秋生は全て承知して、口裏を合わせてくれる。自分も嘘を付くし秋生にも嘘を付かせている。恋人は男だし、死んでも天国には行けないな、などと貴史は思う。
 正臣は、ボタンもベルトも閉めずに服を着ている。正臣のこんな崩れた着方を見られるのは、やはりこういった朝だけだ。幸福に、思わず笑みが溢れた。
「……いいや。今が天国だから」
「ん?」
 なんでもない、と貴史は、顔だけを残して布団を被る。布団は正臣の匂いがする。正臣はコーヒーカップを机に置いて、ベッドの縁に腰掛けた。
 貴史は、匂いに酔ったように、聞かせるともなく話し出す。
「……変な夢見たんだ」
「夢?」
「誰かと一緒に水の中で溺れてるみたいな……」
 正臣は眉を顰(ひそ)めた。
「……あ、別に苦しくもなかったんだ。よくは憶えていないけど……」
 正臣は貴史が被った布団をゆっくりと剥ぐ。露になった裸体を、するりと撫でた。
 体を倒して、唇を合わせる。
「……好きだ」
「……うん」
 俺も。
 はにかんで笑う貴史の頬を摩って、正臣は再び口付けた。深いけれど優しいキス。貴史は正臣の首に腕を絡めて、穏やかな幸福を貪る。
 夢の余韻が消えていく。――と思った時。
 ふいに夢の部分を思い出す。
 水の中で、自分は口付けをしていなかったか。……
 ならば、一緒にいたのは、正臣だ。
 貴史は他に、唇を知りはしないのだから。
 優しいキスは続いている。夢の余韻は霧散する。





 火雲洞(かうんどう)の主、紅孩児が使う三昧真火(さんまいしんか)は、誠に厄介な代物だった。雨水の効かぬ、菩薩の持つ甘露でなければ消せぬという恐ろしい火だったのだ。
 だが方法があるのならこっちのもの、観世音菩薩を担ぎ出して火を消させた後は、悟空様の出番である。火遊びの過ぎる子供は、きっちり打ち据えて、躾をし直さなければならぬというものだ。義理の甥ということで、多少の手心も加えてやったつもりだ。
 そうして悪童の後始末を菩薩に任せて、三蔵を洞内に捜しに行こうとした時だ。
「待って! 待って悟空のおじさん!」
 赤い体をしたざんばら髪の子供が、悟空を呼び止めた。
「何だ、まだやるのか」
「そうじゃない」
「じゃあ何だ。俺は今急いでる」
 元々赤い子供が周りの温度を上げる程、かあと赤くなった。
「俺の負けだ!」
「……ああそりゃわかってる」
 紅孩児から、しゅうしゅうと湯気が出る。
「……うう」
 唸ったきり何も言わないので、悟空は「行くぞ」と踵を返す。
「ま、待って!」
「だから何だ!」
 悟空は気の長い方ではない。はっきりしない紅孩児に、歯を向き、ぎっと睨み付けた。
「……まさか、もう三蔵を食っちまった、てえんじゃねえだろうなッ?!」
 睨まれて、食べてない、と子供は震える。
「じゃあ何だ、早く言え!」
「じゃあ言う、言うぞ、畜生!」
 ぎゅっと目を瞑り、拳を握って、紅孩児は叫ぶのだ。
「――惚れたッ! 好きだ!! 俺をあんたのものにしてくれッ!」
 悟空は困って、口をへの字に、眉をハにした。
「……悪ぃ。そういうのはナシだ」
「ちょ、ちょっとぐらい考えてくれたっていいんじゃねえのかよ!」
 俺は一応三蔵のお弟子で、奴を無事天竺まで届けなけりゃいけねえ。今はそれで一杯だ、というようなことを言って、悟空は洞内に駆け入った。
 畜生、ウス馬鹿、誰が石猿になんか本気で惚れるか、という罵声に続いて、イデデデデデエエッ! という悲鳴が後ろでした。紅孩児に金・緊・禁の輪の一つ、金箍児の輪が嵌められ、菩薩が金緊禁のまじないを唱えたのだ。紅孩児は否も応もなく菩薩の弟子だ。
「三蔵! 三蔵ッ! 聞こえたら返事しろッ!」
 洞内を揺るがす程の大声で、悟空は三蔵を捜し回った。
「兄貴、兄貴! 悟空の兄貴!」
 捕えられ、天井の梁に吊されている八戒が、声を聞き付け悟空を呼ぶ。
「来てくれたんだねえ、兄貴い!」
 涙ながらに喜びむせる。
「八戒、三蔵はどっちだ!」
「おっしょさんなら多分、あっちの厨房に……あっ兄貴、おいらも降ろしてくれよう!」
 八戒を放って厨房へと走る。
「さんぞ……ッ」
 三蔵はいた。調理する途中で放り出されたか。
 気を失って、床に転がっている。
 衣服を剥がれ、豚か狸のように手首足首を一遍に縛り上げられ、水で洗われたものか、ずぶ濡れになって。
 ――その裸体は、ひどく清浄で、淫猥だ。
 悟空は、八戒の元へ引き返した。
「あれ? 兄貴、おっしょさんは?」
 悟空は八戒の戒めを解いてやる。
「まさか、もう」
「食われてねえよ」
 八戒は大きく安堵する。
「じゃあ、なんで?」
「お前が行け」
「へ?」
「駄目だ。俺は触れねえ」
 ぽかんと考え込む八戒に、行けッ! と悟空は蹴りをくれる。
 蹴飛ばされて、八戒は厨房の方へと消えていく。ひゃあ、おっしょさん、寒そうな格好で! と八戒が叫ぶのが聞こえた。


(続く)


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