・ノベルズ用に書き下ろした『仲良きことは、』第4話です。
長いから、半分ずつ(笑)。
二月も第二週に入る頃、雪の中を三恵は本間家にやって来た。幸か不幸か、その第二土曜日の午後三時には、本間家は全員が揃っていたのである。
玄関に三恵を出迎えたのは、聡一の母であった。
「伊部舞箏の母でございます」
そう言って深々と頭を下げた和服姿も麗しい三恵の姿を、節子はどう見たであろう。
数分後、本間家の応接室は、静かなパニックに見舞われる。
「聡一さんを、いずれ伊部の養子に頂きたいと存じます」
聡一を含めて全員が、三恵の言葉を一瞬では理解しかねた。
「……なんと、おっしゃいました?」
父の隆は耳を疑ったように尋き返す。
「ええ、ですから」
三恵は美しく笑って、ぽかんとしている五人の為に繰り返した。
「本間さんの御三男の聡一さんを、私ども伊部の養子に、と望んでるんです」
父も母も兄二人も、ゆっくりと聡一を見た。当の聡一は、驚くより呆れるより、怒ってさえ見える顔である。
「……しかし、何故聡一を。こいつは踊りなんか何も知りませんが」
隆は舞箏という聡一の友人について知らない。何故聡一が日本舞踊の宗家に欲されるのか、納得がいかないのだ。
「聡一の同級生の舞箏さんという方が、跡取りだと伺ってますけれど」
それは母の節子も同じだ。兄二人と聡一だけが、嫌な予感に怯えている。
「ええ、その跡取りの舞箏が」
(きた――)
「聡一さんを随分好いておりまして。できることなら添わせてやりたいとの親馬鹿心でございます」
長兄の守は青ざめている。次兄の太一は隣に座る聡一の肩を、ポンと力なく叩いた。
(何を考えているんだ伊部の母子(このおやこ)は!)
「おや……」
「まあ……」
表情から、両親が舞箏の性別を誤解したのは、聡一には見て取れた。
「では養子とは、婿養子……?」
「まあ聡一、お前いつの間にそんな人が」
頭を抱えてしまった聡一に節子が言う。
「そんなことにはちっとも興味がないと思っていたのに、お前何にも言わないで。舞箏さんとはちゃんとお付き合いしているの? 聡一、答えなさい」
(何を答えろというんだ)
「まあ、お母さま、聡一さんはちゃんとしてらっしゃいますよ」
(何がだ、何がだ?!)
「しかし何分、まだ高校生ですし」
賛成に傾いている父親の態度にギョッとした。父も母も、これを逃したら聡一に次はないとでも思っているのかもしれない。
「ええもちろん、今すぐという訳じゃあありません。気が早いと笑われると思いますが、聡一さんに予約を入れておかないと心配だったんですよ」
「何をおっしゃる、この朴念息子に予約なんか要るもんですか」
次第に打ち解けていく親達を、これ以上このまま放置しておく訳にはいかなかった。
「お言葉ですが」
聡一は顔を上げて三恵を見据えた。
「養子縁組みの話はお断りします」
「……」
「聡一!」
三恵は黙り込み、父は仰天して聡一を呼んだ。
「今すぐの話じゃないと言っとられるんだ。早々に返事を出すこともないだろう」
「伊部さん、申し訳ありませんがお引き取り下さい」
「聡一!」
今度は節子が聡一をたしなめた。聡一は席を立って、話を打ち切る意志を見せた。
「兄さん達は知ってますが、伊部舞箏くんは男です。他に理由が要りますか」
父も母も黙り込んで、隆はあんぐりと口を開け、節子は目をしばたかせた。二人の兄は気まずそうに、守は視線を床へ、太一は天井を見上げている。
「そういう訳ですので、伊部くんにもはっきりと『断る』と伝えておいて下さい。失礼します」
聡一は軽く一礼して、応接室を後にした。
「あれっ母さんどこ行ってたんだよ。もうお弟子さん来て待ってるよ」
玄関で融けた雪のしずくを払っている三恵を見つけて、舞箏は声を上げた。
「俺これから稽古着に着替えてくるけど、早く蔦の間に行ってよね」
「うん……母さんね、舞箏」
母の元気のない声に気付いて、舞箏は通り過ぎようとした足を止めた。
「……どうしたの?」
「本間さんちに行って来たんだよ。聡一さんを、お前のおムコにもらおうと思ってね」
「え……ええ?!」
舞箏は赤くなって、思わず踊りの一ポーズを取った。
「やっやっやだなーっ母さんっ照れるじゃないかーっ」
よくよく見れば練習中の『鏡獅子』だとわかるが、日舞とはとても思えぬスピードで、舞箏はくるくると動いた。
「……断られちゃったよ」
「――え」
舞箏の動きがぴたりと止まる。
「聡一さんが、伊部くんにもはっきり断ると伝えといて下さいって。……母さん、余計なことしたのかねえ?」
「……あ、あ、そう……」
舞箏は中途なポーズで静止したまま、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「そっ……そうだよなー、本間くんがうんって言うはずないもん。母さん気にすることないから。ほらお弟子さん達待たせてるよ」
「舞箏……」
舞箏は三恵に手をひらひらと振ってみせると、止めていた足を再び部屋の方へと動かした。
舞箏はこの日、とうとう蔦の間には現れなかった。
*
日曜日、本間家にはぎこちない空気が漂っていた。種はもちろん、三恵が撒いていったものである。
「はい」
ノックに聡一が応えると、太一がドアから顔を覗かせた。
「聡一、お茶を注れたら飲むか?」
「……はい」
「お、勉強か。そうかそろそろ期末試験だな。母さんも今部屋で中学の試験問題作ってるよ」
聡一が勉強をするのは試験に限ったことではないのだが、中学校教師の節子が問題作成に取りかかっていることもあって、学生生活から離れて暫くする太一は一種感慨を持ったのだろう。
「父さんは? 先程車の音がしましたが」
「ああ、呼び出しがかかって警視庁に行った。何か事件でも起きたんだろ」
今、隆にとって息子が男に惚れられていること以上の事件など、ありはしなかったのだろうが。
「兄さんはいいんですか」
太一も警察官である。
「ああ、俺は管轄が違うから。違うと言えば守兄(まもるにい)、あの人学生にレポート百枚書かせたんだな。卒論の練習させたんだろうけど、今あの人その百枚にいちいち目を通してるところだよ。やさしいっていうか面倒見がいいっていうか、もちろん四年生の書いた本物の卒論も見なきゃならないってのに」
「……守兄さんは教育者としての資質を母さんから引き継いでますから」
「……」
「何ですか」
「お前のその冷静なところは誰に似たんだろうな」
太一は面白そうに聡一の顔を見る。
「顔は、父さんよりは母さん似だな。俺と守兄は父さん似だが」
「……太一兄さんの性格は父さん似ですね」
「……そうか?」
「そうです」
「そうかなあ?」
「そうです。……母さんが前に言ってました。俺は祖父似だと」
聡一は椅子を立って、お茶を飲む為にドアを出た。
「ああ、じいさん似か。帝国軍人だったっていう」
太一はそう言ってドアを出ると大笑いした。その声は学生のレポートや試験問題と取り組む守と節子を、部屋の中から引きずり出した。
「何事だ、太一」
「ああ兄さん、お茶注れますよ。母さんも飲みますよね」
そうかそうか、じいさん似か、と何がそんなに気に入ったのか、太一は聡一の背中を押して、階下のキッチンへと歩いて行った。
揚羽がやって来たのは、夜の七時を回っていた。玄関に出たのは、今度は太一だった。
「あの……夜分に……」
雪が降り出したのは六時頃だ。では揚羽は、それ以前から出歩いていたのか。彼女の髪や肩に、雪がしみた跡があった。
「……伊部舞箏くんの、お姉さんかな、それとも」
太一の言葉を聞いて、揚羽はぱっと顔を上げた。
「伊部舞箏のはとこの、神田揚羽といいます。あの、舞箏さんはこちらには……」
「え?」
揚羽の様子から、太一はおよその事態を把握した。
「……いえ、舞箏くんは来てません。揚羽さんと舞箏くんの顔が似ているのでそう言っただけです」
「……」
揚羽は沈んでうつむいた。
「……まあ、上がってお茶でも」
冷えているらしい揚羽の体を温める為にも、太一は半ば強引に揚羽を招き入れた。
「聡一」
ノックと共に聡一を呼ぶのは太一の声だ。聡一が返事をする前にドアは開き、振り向く聡一が姿を確認する前に太一は言った。
「舞箏くんのはとこの揚羽さんて人が来てる」
「……揚羽さんが?」
太一はうなずき、立ち上がる弟に続きを聞かせる。
「今下でお茶を飲んでもらってるが、どうも舞箏くんが行方不明らしいな。俺達に詳しい話は言いたくないようだから、聡一、お前揚羽さんを送って来い」
(――何だって?)
太一は舞箏が行方不明だと言ったのか。聡一は呆れながらも階下に下りた。
揚羽は応接室で節子に相手をされていた。テーブルの上のタオルは、揚羽に体を拭かせたものだろう。聡一が応接室のドアを入ると、揚羽はすがるように聡一を見て立ち上がった。
「聡一さん……」
節子も立ち上がり、聡一に言う。
「聡一、送って差し上げて」
「そのつもりです」
ドアを出る時に、「何も言わないのよ」と心配げに節子はささやいた。揚羽はしきりにすみません、と頭を下げて聡一と玄関を出た。
雪は止んでいたので、二本持って出た傘は聡一の手に提げられたままである。聡一は歩きながら、まず気が付いたことを口にした。
「洋服姿も似合いますね。和服しか見たことがありませんでしたが」
聡一が揚羽に会うのは、いつも舞箏の家である。三恵も揚羽も、大抵和服を着ていた。
揚羽は意外な言葉を聞いたように目をしばたかせ、やがてうつむき、こう呟いた。
「……舞箏さんに叱られます」
「……何故です?」
「なぜって……」
揚羽は聡一を見上げ、自分を見つめる聡一の目とぶつかってしまった。聡一は本当に理由がわからないので、問うように揚羽を見ている。揚羽は暫く聡一の目を見ていたが、ふいっと反っぽを向いて言葉を続けた。
「……今朝から舞箏さんを見た者がいないんです。ひょっとして聡一さんのところじゃないかと思って……お電話すればよかったんですけれど、番号を控えずに出て来たもので」
やはり揚羽は、一日舞箏を捜していたのだ。
「いなくなった原因は何です?」
「……捜して欲しいんだと思います」
「捜して欲しい?」
揚羽は聡一を振り向いて、心当たりの理由を述べた。
「舞箏さんは昔、小学生の頃に、やっぱり捜して欲しくて家出したことがあるんです。舞箏さんは踊りが本当に好きですから、伊部の家から本気で逃げる気はないんです。……でも、捜して欲しくて、舞箏さんを捜して欲しくて……だから私、捜すんですわ」
「……」
雪が、また降り始めていた。
舞箏は、ぼんやりと歩いていた。まんじりともせずに明けた朝、家を出てからずっと一人で歩いていた。
(疲れちゃったな)
思ったので足を止めた。
(立ってんのやだな)
思ったので座り込んだ。
雪が降ったり止んだりの天気である。腹が空いていたが、そんなことより頭の芯が空いていた。
聡一が、自分を振った。
(……だってだってだって本間くんだもん。俺わかってるもん。男にムコ入りする男がどこにいるーって怒ってたもん。男にムコ入りする訳ないじゃん。養子とかそんな、そんなこと関係ないもん、俺本間くん好きだもん。本間くんだって、……)
舞箏はすっくと立ち上がった。
本間くんに会いたい。
そう思ったので、舞箏は聡一の家に向けて駆け出した。
聡一に、キスしてもらおう。そうすれば、こんな不安は何でもなくなる。怒られても怒鳴られても、キスしてもらうまで居座るのだ。そうに決まった。
舞箏は、家出をするつもりで出て来たのではなかったのだ。
(あ……)
不安に対抗する気持ちさえ落ち着けば、その日のうちにも家に帰るつもりだった。
(本間くん……)
雪の降る路上に聡一の姿を見つけた。聡一は傘をさし――
(……え?)
連れの女性に差しかけてやっていた。
聡一はとてもやさしい顔をして、女に何をか語りかけている。
舞箏はどこをどう走ったか、自分で覚えていなかった。何度目かに(立ってるのやだな)と思った場所に座り込んでから、じっと動かなかった。
雪は舞箏の頭や肩に降り積もっていく。降りかかる雪が融ける程の熱は、もう舞箏にはない。
(……ヘンなの)
空っぽな頭で考えた。
(息をするのもいやだ)
誰かが自分の前に立ち止まっているのは見えていたが、それが人の足で自分の方を向いているという認識は浮かばなかった。
「舞箏……?」
それが聞いたことのある声だと、呼んだ相手を見上げてから思い至った。
食い入るような顔をして、長沢顕が舞箏を見ていた。
*
八代目、伊那佐藤次郎(いなさ とうじろう)は御機嫌であった。彼の孫の舞箏が、彼の誕生日の為に『藤娘』を踊って見せたからである。
「見い、見い、こんな愛らしい『藤娘』見たことあるか。おお舞箏、来い、こっち来い」
舞箏は小学三年生、揚羽は五年生であった。
「八代、揚羽の『鷺娘』はいかがでした」
「んむ……揚羽は、踊りより三味線か唄の方が良かないか」
「八代……」
「揚羽も、そう思います。三恵おかあさんにもそう言われました。揚羽は三味線を習おうと思います」
「うん、それがいい。おお、よしよし舞箏や……」
藤次郎は藤娘の舞箏を愛しそうに膝に抱き、頬ずりせんばかりに撫でている。揚羽の父はそれを憮然と眺め、揚羽は舞箏がうれしそうに藤次郎に抱かれているのを見ていた。
「……八代っ着物が汚れます。退きや、舞箏」
八代の妻、舞箏の祖母の須磨子がとうとう声を上げた。
「えいうるさいの。わしの誕生日ぐらいわしの好きにさせい。のう、舞箏。ばばは舞箏が可愛らしいので妬いておるのだ。ばばはみにくいのう……」
「八代ッ!」
舞箏は藤次郎の腕を抜けて、控えの間へと駆け出した。
「これ、舞箏。ほれ見い、須磨子が恐ろしゅうて逃げてしもうた」
「大勢の弟子の前で、慎みなされませ!」
「孫を可愛がって何が悪い」
揚羽は舞箏を追いかけて、自分も控えの間に入った。
舞箏は二人の兄弟子達に着物を脱がせてもらっていた。
「舞箏ちゃん」
舞箏は揚羽の呼びかけに応えようとしたが、かつらを取られ、化粧をとられる為に引っ張って行かれたので、返事をすることができなかった。
舞箏はいずれ伊那佐藤次郎の十代目を襲名する。舞箏が生まれる前は、八代目藤次郎の弟の孫である揚羽が十代目かと目されていた。だが舞箏が生まれ、育つにつれての美貌と踊りの才能は、八代目を夢中にさせた。一部の弟子や、妻須磨子を嫉妬させる程に。
すっかり衣装をはがれて普段着に戻った舞箏が、着替える途中の揚羽のところにやって来る。伊那佐傍流の神田家に嫁に出た揚羽の母が死んでから、宗家で姉弟同様に育っている二人である。
「揚羽ちゃん、『いまわしい』って知ってる?」
突然の舞箏の質問に、揚羽が目をしばたかせる。
「……ううん、知らない。どうして?」
「おばあちゃんが言ったんだ。『いまわしい姿で八代目をまどわす化け物』って。……でも化け物なんだから、きっといい意味じゃないよね」
揚羽の衣装を畳んでいた弟子が急に口をはさんだ。
「舞箏さん、おばあさまの悪口なんか言うもんじゃありませんよ」
「えっ……違うよ、悪口じゃないよ」
舞箏はただ言葉の意味を訊いただけなのだ。
「じゃあ意味は私が教えてあげます。忌まわしいっていうのは、良くない不吉なこと、て意味です。さあ、舞箏さんも揚羽さんも、もう向こうに行って下さいな」
舞箏と揚羽は控え室を追い出された。
「……舞箏ちゃん」
下を向いて立ち尽くす舞箏を、揚羽が慰める。
「そんなことないよ、だって舞箏ちゃんきれいだもん、大きくなったらもっときれいになるわよ、踊りやる人はきれいな方がいいのよ」
そこへ、酒の入った八代目がやって来た。
「おお舞箏、おったか、ここにおったか。よしよし、怖いばばはおらんぞ、ここにおいで」
藤次郎は揚羽はまるで目に入っていないようである。舞箏がちらりと揚羽を見ると、揚羽は「おじいちゃん呼んでるよ」と笑って促した。
「おお、舞箏や」
駆け寄った舞箏を抱き上げて、藤次郎は頬を押し当てた。
「八代、主役が座を抜けられては……」
「うるさいの、わしは酔いを醒ましに来たんだ」
弟子は叱られてすごすごと去って行く。
「のう舞箏や。踊りは好きか」
「うん。好き」
「そうか。良い子だの。じじは好きか」
「うん。おじいちゃん好き」
「おお、そうかそうか……今日はじじと一緒に寝るか? なに、ばばに文句は言わせんわい」
「……うん」
ためらいがちにうなずいた舞箏を、藤次郎は機嫌よく揺すった。
その夜、家の者は皆、舞箏の泣き声で叩き起こされることになる。
舞箏が生まれる前から祖父と祖母の寝室は別だったので、大人しくしていれば、祖父と添い寝していることはばれなかったはずである。
舞箏は随分久し振りに大好きな祖父と一緒に寝たので、うれしくて暫くは寝つけなかった。いつしかうとうとと眠り込んだ時に、舞箏は虫に這われる夢を見て目を覚ました。
(――っ)
夢だと思った感触が、目が覚めても胸にあった。
「おっおじいちゃん」
怖くて、隣に寝ているはずの祖父を呼んだ。
「うん?」
ところが祖父の声は、舞箏の顔のすぐ下から聞こえて来たのだ。
「どうした? 舞箏」
祖父が喋ると、あの虫の感触はなくなる。舞箏をすっぽりと包む闇が、祖父の振りをして舞箏を騙しているような気がした。
「な……に、してるの?」
闇から祖父の声が答える。
「うん? なに、舞箏があんまり可愛いんでなあ……」
祖父が黙るとまた胸に虫が這う。
「なにしてるのおじいちゃん?」
「……なに、怖いことはない。全ては芸の肥やしだ」
虫が、胸から腹へ這って行く。
「こ……わいよ……」
「……舞箏はいい子だの」
「やだ、こわい! おじいちゃんこわいよ!」
パッと明かりが点いた。須磨子が、半裸の舞箏を組み敷く藤次郎を鬼の顔で見ていた。
「……この魔性が!」
「……須磨子、」
「えいこの物怪(もののけ)め! 汚らわしい! それ以上八代目を誑(たぶら)かすか! 去ねや!」
舞箏は須磨子に打たれて叫び声を上げた。この騒ぎで屋敷中の者が目を覚ました。部屋部屋に明かりが点き、廊下に様子見が出る。
「須磨子、これは舞箏だ、物怪ではない」
「だから物怪と言うております、えい八代目も八代目、こんな小魔物に誑かされて」
「落ち着かんか! あっこれ舞箏!」
舞箏は祖父の部屋を走り出し、母の部屋へ逃げ込んだ。三恵は泣きじゃくる舞箏を叱りつけた。
「お前、おじいさまに何を<おいた>したんだえ? おじいさまはいろいろと教えて頂く師匠(せんせい)なんだよ? お前は十代目になるんだってことをわかってかい!」
舞箏は母の部屋も飛び出した。
この屋敷の中に味方はいない。誰も恐ろしい目に遭った舞箏を背中に庇ってくれる者はいないのだ。
大好きだった祖父は恐ろしい闇の化け物に化け、母はその化け物の言うことをきけという。
いや、祖母が言うには、舞箏の方が化け物なのだ。化け物の舞箏が、祖父を誑かしたのだと言う。なぜ祖父は化け物に化けたのだろう。祖父が好きな舞箏の踊りと舞箏の姿と、どちらが祖父を化け物にしたのだろう。
『忌まわしい』と、祖母は言った。『良くない不吉なこと』が、起きてしまったではないか……
苛められるのは平気だった。踊りの上手な大好きな祖父が、舞箏の踊りを誉めてくれたから。だがその踊る姿が祖父を化け物に変えてしまったのだとしたら、舞箏は、どうしたらよいのだろう。
舞箏は膝を抱えて、じっとしていた。恐ろしいものから身を隠すように。伊部の屋敷から離れた社の中で、屋敷から聞こえてくる騒ぎに耳を塞いで、自分の姿にも目を瞑って、他に身を守る手段を知らぬように、じっとしていた。そのうち、何故自分がじっとしているのかがわからなくなってきた。わからなくなりながらも、動く理由も見つからないのでじっとしている。誰かが、連れ出しに来てくれればいいのだ。舞箏が動く理由を持って、ここから、この不安定で怖い場所から……
「舞箏ちゃん?」
顔を上げた。揚羽がいた。ああ揚羽だと思ってから、聞こえた声が揚羽だったと気付いた。
「……かぜ、ひくよ。うちに帰ろうね」
「――ああ、今ね」
「え?」
「迎えに来て欲しいなあって考えてたんだ。おじいちゃんでもお母さんでもいやだった。よかった、揚羽ちゃんで」
「……舞箏ちゃん」
舞箏は立ち上がらずに、ぼろぼろと涙を流した。
屋敷の方で、祖父達の声がする。
「わしは舞箏を慈しんどったんだ。それを須磨子が物怪のと騒ぎ立ておって舞箏を打つからこうなる」
「あれは物怪です! 三恵さん、舞箏は本当に伊部の子、いいえ、人の子ですか?!」
「お義母(かあ)さん、それはあんまり……」
「いい加減にせんか、須磨子!」
祖父の溺愛は、二歳の頃までは揚羽のものだった。もしかしたら今頃は、揚羽が舞箏のような目に遭っていたかもしれないのだ。
「……舞箏ちゃん、大丈夫よ」
揚羽は言った。
「みんな、舞箏ちゃんが好きよ。きれいな舞箏ちゃんも、十代目を継ぐ舞箏ちゃんも、どれも全部舞箏ちゃんだもの。大丈夫よ。私、はとこじゃなくても舞箏ちゃんが好きよ」
「……うん」
舞箏は涙を拭い立ち上がると、揚羽と手をつないで騒ぎの治まらぬ屋敷へと戻った。
この夜舞箏に何が起きたのかを理解した三恵は、以降舞箏に「踊り以外は好きにおし」と、十代目をあまり意識しない教育方針へと切り替えた。舞箏は良くも悪くも、一部のびのびと育つこととなった。
*
昨日の建国記念の日を間にはさんで、舞箏は月曜水曜と学校を休んだ。舞箏が見つかったという話は聞いていない。
(あの馬鹿が……今日から期末試験だと覚えているのだろうな)
「伊部さんの風邪は、重いんでしょうか」
広史が聡一を振り向いて尋ねた。広史と聡一は出席番号が続いているので、試験の時の席は前後になる。
広史は月曜にも、やはり聡一に尋ねた。一時間目が始まる時間までちらちらと舞箏の席を見、一時間目が終わっても空の席を見て、休憩時間に聡一の席までやって来た。
「伊部さんは、どうしたんでしょうね」
聡一は級長なので、担任の塚本から何か聞いていると思うのだろうか。広史は舞箏がなかなか姿を見せないと、必ず聡一に尋いた。大抵の場合は聡一も理由を知らず、塚本に尋きに行ったり「寝坊じゃないのか」と答えたりするのだが、舞箏が本当にただの寝坊で、遅れてでも無事に登校して来ると、広史はほっとした顔をするのだ。
一昨日聡一は「さあな」と答えたきり担任に確かめにも行かずにいると、広史は自分で塚本のところに行って来たようだった。
「伊部さんは風邪だそうです」
律儀に聡一にも教えてくれる。では三恵は、学校には舞箏が風邪で休むということにしたのだ、と聡一は思った。舞箏が家に帰って来たのなら、三恵なり揚羽なりから連絡があるはずだからである。
連絡は今朝までない。舞箏はまだ、戻ってないのだ。
舞箏の風邪を心配する広史に、聡一は「さあな」とだけ答えて、試験が始まるから前を向くようにと促した。
放課後、広史は舞箏を見舞いに行くと言う。
放っておいても良かったのだが、聡一は広史を伴って玄関脇の公衆電話へ行き、三恵に電話をかけた。舞箏はやはり、まだ戻っていない。
「……野原くん」
「はい」
広史は不安そうな顔をしている。舞箏の風邪がよほど重いと思ったかもしれない。しかし続く聡一の言葉で、広史はあんぐりと口を開き、更にただならぬ事態を理解して険しい顔付きになった。
「伊部くんは家出中だ。まだ帰ってないらしい」
聡一を睨み据えて、途切れ途切れに尋ねる。
「家出?……どういう……ことですか?」
電話中の聡一の態度を見て、広史は気付いたろう。
「……本間さんは、知ってたんですか?」
聡一は事態を知りつつも、何の対策も取っていないのだ。
「伊部さんの家出を、」
「知ったからどうなる。そういう訳だ野原くん、見舞いに行く必要はないぞ」
「知っててどうして捜さないんですか!」
腹が立つより何より、聡一は驚いた。広史が、聡一を怒っている。
「伊部さんは、伊部さんは……誰より」
広史は言葉を飲み込んだ。うつむいて、何かに耐えている。
(伊部くんが誰より、何だというんだ)
確かに彼は誰よりわがままではあるが。聡一は考えたが、広史の思うことと違うだろうということだけはわかった。うつむく広史が辛そうなので、持っている情報を話すことにする。
「伊部くんの家人の話では、伊部くんは捜して欲しくて家出したそうだ。前にもそんなことがあったらしい」
広史は顔を上げて聡一に言った。
「じゃあやっぱり捜さないと。捜して欲しいのなら捜してあげた方が」
「小学生の子供じゃあるまいし。甘やかしてどうするんだ」
「本間さんは伊部さんに冷たすぎます!」
聡一は黙った。少なからず害された心情が、口を開くと表れそうだった。
「……俺は、伊部さんを捜します。家出の原因は知りませんが、伊部さんが捜して欲しいのなら、捜します」
広史は一礼をして聡一の前から消えた。試験期間中だというのに、広史は早速今から舞箏を捜すのだろう。
(何故俺が野原くんに怒られねばならんのだ?)
理不尽なものを感じ、それを舞箏のせいだと思う。いてもいなくても、舞箏は聡一を苛苛とさせた。
家出の理由?
三恵の持って来た婿入り話を断った直後のことだ。
(……まさかな)
それではあまりにも聡一の理解の外だ。
翌日も広史は試験が終わるとすぐに舞箏を捜しに出かけた。聡一は家に帰って来てから広史と一言も口をきかなかったのだと気が付いた。
「聡一、誕生日だな。おめでとう」
守の言葉で今日が自分の誕生日だったと思い出す。昨年も試験期間中で、学校で広史からも一言祝ってもらったのだ。
(言葉だけでも、うれしいものだろうと思って)
そう言って広史は、クラス中の人間の誕生日に、おめでとうの言葉を贈っていた。
(……律儀な奴だと思ったものだ)
そういえば今年は、広史はクラス全員に言葉を贈っていたろうか? 自分だけがもらい損ねたのではないのか?
どちらでも良いことだと思いながら、舞箏と広史までが、どこかへ行ってしまったような気がした。
「聡一? どうかしたのか」
守がやさしく尋いてくる。この長兄は人の表情を読むのが上手いのだ。
「いえ……試験中で少し疲れてるかもしれません」
ただの無表情に見える聡一の顔の変化を、母親よりわかるかもしれない。
「……そうか。あまり根を詰めるなよ」
守にうなずいて見せて、聡一は自室に引っ込んだ。
翌日広史は、いかにも寝不足という顔で登校して来た。そんな状態で試験に臨んでもろくな結果が出る訳がないと聡一が思った通り、後ろから回収する時に見えた広史の答案はひどいものだった。聡一は思わず広史の横に立ち止まり、広史の答案を指差した。
「……野原くん」
「え……あっ」
聡一の言わんとすることを、広史はすぐに気が付いた。解答欄が違う、記号で答えるべきところを名詞で答えている、等々。広史らしからぬ、明らかな間違いが幾つも目についた。
「随分と間抜けな答案だな。馬鹿を捜していることが原因なら、捜すのを止めることを勧めるが」
広史は噛んでいた唇を放して答える。
「……いえ。止めません」
「……」
聡一は前列まで答案を回収していく。実は聡一もあまり眠っていないのだが、眠れないのではなく、あくまで試験勉強で机に向かっていたからだと、聡一は理由付けていた。
次の日の広史の答案は多少ましになっていたが、おそらくそれは聡一に対する意地だろう。広史は舞箏捜しも試験も、両方頑張るつもりなのだ。舞箏を捜さない聡一を責めた以上、広史はどちらも手を抜く訳にはいかない。
(……馬鹿者め。貴様のせいで野原くんが倒れる寸前だぞ)
聡一は心中に舞箏を責める。
返事はない。
その日は土曜で、聡一は月二回の出稽古に出かけた。少し離れた街の剣道場で小中学生を教える代わりに、自分も上級者に稽古をつけてもらうのだ。先週の第二土曜が道場の都合で休みだったので、試験を受けた後、聡一は学校から道場に向かった。
先週の第二土曜に、三恵が家にやって来たのだ。では舞箏がいなくなってから、一週間が経つ。
「やあ聡一くん、悪いね試験期間中なのに」
「いいえ」
道場の師範、深見四段が、現れた聡一に声をかけた。
「そうか。普段からやっていれば、試験の時に慌てて勉強する必要もないか」
もっとも試験の時ぐらい慌てて勉強してくれればと思うのもいるがなあ、と深見は笑いながら言う。
「おっさん!」
その時現れたのは顕である。学校帰りという出で立ちで、道場の入口に立っていた。
「稽古今日パス……あっ……ああ!」
顕は自分を見る聡一を、大口を開けて指差した。
「なっなんでてめえが……!」
深見はそれで事情を察したらしい。
「なんだ顕……そうか、お前をコテンパンにした鬼のように強い高校生というのは、聡一くんのことか。ハハハハハ」
深見は面白そうに高笑いした。顕は深見にかみつく。
「何笑ってんだ!」
「顕、聡一くんは道場(うち)の師範代だ。聡一くん、こいつは甥でね、姉の息子なんだよ。何だかいつも世話をかけているようだね、いやすまない」
「何謝ってんだクソジジイ!」
顕がぎりっと聡一を睨む。見返す聡一に、やがて顕は笑ってみせた。
「へ……気のせいか、あんまり元気ねえじゃねえかよ。心配事でもあんじゃねえのか?」
「……何のことだ」
聡一はまさか、と思ったのだ。まさか、まさか……こいつのところに?
顕は笑う。
「大事なモンが行方不明なんじゃねえのか? ま、心配すんな。おめえの知らねえとこで、もっと大事にされてっからよ。……おっさん、暫く俺ァ来らんねえからよ。ちっと忙しいんだ。じゃあな」
(……まさか)
(長沢顕は、君にひどいことをした奴ではないのか?)
顕が道場を出て行った。顕のいたところを見て立ち尽くす聡一に、深見は遠慮がちに問いかけた。
「……大丈夫かね?」
自分は今、どんな顔をしていたのだろう?
「……失礼。電話をかけてきます」
聡一は深見を見ずに稽古場を出た。電話の在り処に向かう途中、自動販売機で買ったコーヒーを飲んでいる顕を見つけた。
「……んだ?」
自分を見て立ち止まる聡一に顕が視線を寄越す。聡一は言った。
「伝言を」
「ああ?」
「試験期間中だとわかっているかと伝えてくれ」
「……!」
顕は口を歪め、手中の缶をペキッと鳴らした。聡一は顕を通り過ぎ、道場の外の公衆電話ボックスに入った。
呼び出し音の後、三恵が出た。
「本間です」
『まあ、聡一さん。舞箏はまだ……』
「伊部くんですが、どうやら彼の知人のところにいるようですので、とりあえず心配なさらないようにと思い御連絡を」
『まあ!』
三恵は溜め息のような悲鳴を上げた。
『まあ! まあ! 舞箏はそこに? 無事で?』
「……無事だと思います。では」
『あッ聡一さん――』
用件だけを伝えて、聡一は早々に受話器を置いた。道場に戻る途中には、もう顕の姿はなかった。
練習着に着替えて、聡一は集まって来た門下生達に基礎を教えていた。すると揚羽が、道場を訪ねて来たではないか。
「聡一くん、お客さんだ」
「あっいいえ、お稽古中なら……」
師範の一人の隣に、揚羽が申し訳なさそうに立っている。
聡一は門下生にそのまま素振りを続けるように言うと、浅田師範に置き去りにされ一人で入り口に立つ揚羽の方へと向かった。美人だな、師範代の彼女かな、という声が、後ろから聞こえた。
「……すみません、お稽古中に」
聡一に揚羽は頭を下げる。
揚羽は、舞箏よりは大人しい感じの美人である。楚々とした和服姿の揚羽が、袴姿の聡一に似合った。
「お願い?」
「お母さんから、聡一さんが舞箏さんの居処を御存知だと伺いましたの。どうか、聡一さんが舞箏さんを迎えに行ってあげて下さい。舞箏さんは誰より、聡一さんに来て欲しいと思っているはずですから」
(舞箏さんは誰より)
誰より? あいつは誰よりわがままだという話だったか。いや、野原くんが言ったのは……
「勝手なお願いだとは知っています。聡一さん、どうか」
「お断りします」
揚羽は、哀しそうな顔をした。
「……そうですか」
力なく頭を下げて、揚羽はその場を辞した。
「聡一くん」
深見が、こっそりと声をかけて来た。
「良かったのかね。何かあったのなら、力になれるかもしれないが」
「……いいえ」
聡一は深見の横を抜けて、稽古に戻った。
母親のみどりが、家に戻った顕に尋ねた。
「顕、あの娘さんはどこの人なんだい。もう一週間もいるじゃないか。おうちにはちゃんと連絡してあるんだろうね」
「るっせえなクソババア、毎日毎日同じことを……てめえにゃ関係ねえだろうが」
行き過ぎようとして、顕はみどりを振り返る。
「舞箏にゃ余計なこと言ってねえだろうな」
「言ってないよ……でもきれいな娘さんだけど元気がないねえ。今日も食事を残したんだよ」
「……てめえのメシがまずいからじゃねえのかよ」
言い捨てて、顕は自分の部屋へと向かった。部屋では舞箏が、顕の帰りを待っていた。
「よォ舞箏」
開いたドアを舞箏が振り向く。舞箏は顕のベッドで寝ていたらしく、身を起こしたところだった。顕の声で目が覚めたらしい。顕は部屋の中がきちんと片付いていることに驚いた。
「……誰が掃除したんだ」
「あ、俺。なんかヒマだったし、長居しちゃってて悪いし。それで疲れて寝てたんだけど」
「バッカ……んなこと構わねーのによ」
ベッドの舞箏に顕が近寄る。舞箏は顕を見たまま含み笑いをした。
「あ?」
「……見ちゃった。エロ本」
「……ベッドの下の?」
「うん。すっごいの。顕のスケベ」
「……るせえな! てめえはそういうの見ねえのかよ!」
「うん。あんまり見ない。俺、男の方が好きだもん」
「……」
赤くなって怒鳴った顕は、さらりとした舞箏の返事を聞いて勢いを殺がれた。
「金髪モデルのもあったけど、俺西洋人の美人ってよくわかんないなあ。やっぱり勃ったりする訳?」
「……おめえのがきれーだよ」
舞箏が真顔の顕を見る。
「舞箏が一番美人だ」
「……やっだ、そんなほんとのこと……」
「いてて」
舞箏は笑って顕の腕を強(したた)か叩いた。舞箏の不元気が心配した程ではなかったので、顕は笑ってこう言った。
「メシ、まずいんでなきゃちゃんと食えよ。抱いた時に折れちまったら困るからな」
「……誰が抱かせてやると言いました。時に試験はどうだったのさ」
「う……」
顕の頭の中に、殆ど何も書けなかった答案と、剣道場での聡一の台詞が思い浮かんで、顕は途端むっつりとした。
(試験期間中だとわかっているかと伝えてくれ)
誰が、伝えてなんかやるか。
「……るせーな、大体おめえが『試験ぐらい受けて来い』つーから行って来てやったんだぞ。出来なんざ関係あるか」
「あはは、出来なかったんだ」
「笑うな!」
しかし舞箏は笑うのを止めない。くすくすと、楽しそうに笑い続けている。そういえばこんな笑い方を見るのは初めてなのだと気が付いて、顕は舞箏に尋ねた。
「……なんだ、機嫌がいいな」
自然、顕の顔にも笑みが浮かぶ。舞箏と一緒にいることは、顕にはとても楽しいことだ。舞箏が愉快そうにしていれば、顕はそれはうれしい。
「……あのね」
「なんだ」
「怒らない?」
「……なんだよ。怒らねえよ」
「……うん。あのね」
舞箏は、幸せそうに、幸せそうに微笑んだ。
「いい夢見たんだ」
「夢?」
「本間くんが、すごくやさしかった」
(――……)
顕は、額の血が引いていくのを感じた。
舞箏はきれいに笑っている。夢の中の出来事を思い出しているように、自分で自分の腕を抱いていた。
(やさしかった?)
(奴がか。あの、本間がか)
舞箏の安否を気遣う一言も口にせず、冷たく奴は何と言った?
試験期間中だとわかっているか、だと!
「舞箏……」
顕の声を、舞箏は聞いていない。目を閉じて、きっと夢の中の聡一を感じているのだ。
「――っ」
顕はぎりっと歯を噛んで、舞箏に抱きつきベッドに押し倒した。舞箏が抗議の声を上げる。
「何すんだ、こらッ!」
「あんなヤローやめて、俺にしろ、舞箏」
「どけってば! 放せバカ! やだ……」
「本間はおめえのこと、これっぽっちも好きじゃねえ。俺のがよっぽどおめえに惚れてる。俺にしろ」
舞箏は暴れるのを止めて急に静かになった。キスをしようとして顕が顔を上げると、舞箏は泣いていた。
「……舞箏」
「……そんなことないもん」
天井のどこかを見つめた目から、目尻を伝って涙が流れ落ちる。
「そんなことないもん……そんなこと……本間くん、キスしてくれたもん……キスしてくれたもん……キスしてくれたもん……」
目を閉じて、呪文のように繰り返す。顕は気が付いた。
「……もしかしてお前ら、キスしただけか? ……最後までやったんじゃねえのかよ」
キスしてくれたもん、と舞箏は呟く。顕は舞箏の頭をそっと抱いて、頬を押し当てた。
「すまねえ舞箏。わるかった。……なあ、明日、動物園行こうぜ。こないだ見て気に入ったクマやらペンギンもっぺん見るか? 別んとこの動物園でもいいぜ……」
舞箏は顕の下で小さくしゃくり上げて、顕の服の裾をくっと握り締めた。
(続く)