「仲良きことは、よきことかな」後編

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 日曜の朝は気持ちよく晴れて、絶好の外出日和だった。
「起きてよ顕、動物園行くんだろ」
 舞箏は顕を叩き起こして昨日の約束を遂行させた。顕は殊勝にもベッドを舞箏に譲って床で寝ていたのだ。一緒に寝ていると食いたくなるというのがその理由である。
 舞箏は昨日泣いていたとは思えない程元気で、園内中顕を振り回して動物を見て歩いた。
「あはは、あの猿ガン飛ばしてるー、顕みたーい」
「……ああ?」
 目付きの悪いものは全て顕に例えられたが、聡一の名が出て来ないだけ、顕はよしとした。
 天気は昼頃から陰り始めた。



 広史は一人、舞箏を捜して歩いている。昨日は二時間程眠っただろうか。昼も夜も、人のいそうなところへ行って舞箏の人相を尋いて回っている。手がかりはなかった。
(伊部さん……)
 舞箏は捜して欲しいのだという。きっと心細い思いで、迎えを待っているに違いないのだ。
(ちゃんと、暖かいところにいてくれればいいけど……)
 白い息を吐きながら、広史は舞箏を案じる。舞箏が本当は誰に迎えに来て欲しいのか、広史は知っていた。家出の理由は知らなくても、誰が迎えに行けば一番うれしいのかはわかっていた。
 だが彼は、まるで舞箏を案じていないように見えた。舞箏の気持ちを知らないように、必要以上に冷静に思えた。
(役不足でも、何でも)
 広史は舞箏を捜すのだ。
 夕方から、雪が降り始めた。



 自宅の庭で竹刀を振っていると、ちらちらと雪が舞い出した。聡一は手を止めて天を仰いだ。熱を帯びた顔に雪が当たり、融ける。聡一は空からの頼りない落下物を見ながら、暫くそうして立っていた。
(……どんな格好で、家を出たと言ったかな)
 長沢顕の家にいるのなら、少なくともこの雪から身を守ることはできているのだ。冷えた空気に凍えることはない。
(心配すんな。おめえの知らねえとこで、もっと大事にされてっからよ)
 道場で見た、顕の歪な笑顔が浮かぶ。深見師範の甥だという。では顕は深見に剣道を習い始めたのだ。
(もっと大事にされてっからよ)
 甥ならば、顕の家を深見は知っているのだろう。顕はきっと舞箏の相手をする為に、稽古を休むと言いに来たのだ。
(大事に)
 聡一は空に向けていた顔を元に戻した。竹刀を止めると、くだらないことばかりが頭に浮かぶ。聡一は再び竹刀を振り始めた。
 しかし聡一はやがて竹刀を振り上げるのを止め、家の中へと入って行った。
「……なんだ聡一、まだ外で振ってたのか。雪が降っているだろう」
 居間で新聞を読む守の言葉には応えず、聡一は居間の隅の電話の横に竹刀を立てかけ、受話器を取った。
 今日は道場は休みだ。
『はい深見ですが』
 深見師範が出た。
「――本間です」
『ああ聡一くんか。どうしたね。家にかけてくるとは珍しいな』
 聡一は深見に何を尋こうとしたのだ?
「いえ……」
『ん?』
「……もし師範の都合がよろしければ、稽古に付き合って頂けないかと思いまして」
『……そうか。うん、構わんよ。付き合おう。そうだな、三十分後には道場を開けられるから、慌てずに来なさい』
「……有難うございます」
「……聡一」
 受話器を置いた聡一に、守が話しかけた。
「道場にこれから行くのか?」
「……はい。夕飯には戻るようにします」
「竹刀を振って落ち着けるうちはいいが」
 竹刀を持って居間を出ようとした聡一が立ち止まる。
「……車で送らなくて良いか?」
「……はい。すみません」
 聡一は守に薄く笑って、出かけて行った。


 深見は道場で待っていた。練習着に着替えようとした聡一を深見が呼び止める。
「ああ構わん。そのまま来なさい」
「……はい」
 聡一は竹刀を袋から出し、中央で待つ深見の元へ行く。
「無理をきいて頂いて……」
「構わん。さあ、聡一くん」
 深見は早速構えるように聡一を促す。聡一は深見と向かい合い、竹刀を握って礼の姿勢をとった。
 先手を取ったのは聡一だが、籠手を決めたのは深見だった。
 防具を着けていない分、痛みが直に伝わる。
「どうした聡一くん!」
「……もう一本お願いします!」
 だが聡一が打ち込んでも、深見の体にはかすりもしない。
「どうした、どうした! 防具を着けていないからと言って、遠慮しているのではないだろうな!」
 深見の竹刀が聡一の胴に決まる。
「……もう一本!」
 打ち合う時に聡一が遠慮などしないのは、深見も心得ている。だから深見も、防具なしの聡一に遠慮なく打ち込んで来るのだ。
 聡一の竹刀が右にいなされ、深見の籠手が聡一に入った。聡一が竹刀を取り落とすと同時に、深見の怒声が聡一に飛ぶ。
「気が乱れているぞ、聡一くん!」
 竹刀の転がる先も見ずに、聡一は深見の声を噛みしめていた。
「そんなことでは、いくら打ち合ったところで上達なぞ望める訳がない!」
 聡一は道場の床に膝を付いた。
「……参りました」
 頭を下げる。深見が聡一に声をかけるまで、暫くの間があった。
「……立ちなさい。まあ、なんだな」
 聡一が立ち上がると、深見は聡一の竹刀を拾うところだった。聡一に竹刀を差し出して深見が言う。
「申し訳ないと、思ってる。昨夜、顕の母親から電話があってね」
「―――」
「顕の部屋に一週間程いる娘さんのことで相談されたんだが……その娘さんは、聡一くんの恋人なのかな」
「……いいえ」
 大体が「娘さん」じゃない。
「……そうか。顕を病院送りにしたのが聡一くんなら、よほどその娘さんが大事なんだろうと思ったんでな。あ、いや謝らなくていい。顕がそれだけのことをしたんだろうからね」
 深見はそこまで言うと、ズボンのポケットから一枚の紙片を取り出した。
「顕の家の住所だ。簡単な地図もつけておいた。……お手柔らかに頼むよ」
 深見はこれをいつ準備したのだろう。昨夜顕の母親に相談されたという時か。先程聡一が電話を入れた時か。いずれにせよ、聡一と顕の確執の原因が舞箏(娘だと誤解はあるようだが)だと理解した後のことだろう。
 聡一は深見の手の紙を見つめたまま、受け取らなかった。
「……聡一くん? どうした。いらんのか」
 聡一はまだ迷っていた。自分は一体どうしたいのだろうか。舞箏が自分で帰って来るのを待つのが良いのか、それとも広史の言うように、舞箏を迎えに行って、それですぐに舞箏が帰って来るのなら……
「……いえ、頂きます」
 聡一は深見から紙を受け取った。まだ答は出なかったが、万一迎えに行くという選択をした場合に、後で悔やむことのないように。
 カタリと、道場の入口が開いた。洋服姿の、揚羽がいた。
 少し驚く聡一と深見に、揚羽はぺこりと会釈した。
「深見さんの甥のところにいる友人の親戚の方です」
 小さく深見に説明をすると、深見はああ、と申し訳なさそうな声を出し、揚羽に会釈した。
「……すみません。聡一さんのお兄さんに、電話でこちらだと伺いましたの」
 揚羽の声には元気がない。舞箏が帰って来ないので、おそらく三恵も揚羽も、疲れ切っているのだ。
「聡一くん、今日はおしまいだ。行ってあげなさい」
 深見の言葉に、聡一が頭を下げる。
「深見師範、今日は申し訳ありませんでした」
「いや、なに、こちらこそだよ」
 聡一は揚羽を伴って道場を出た。聞かずとも、揚羽の用件はわかっている。聡一はまだそれに答を出していない。
「……今日はいつもの髪型と違いますね」
 いつもの揚羽は、無地のリボンで後ろ髪を一つに束ねているだけである。少し複雑な編み方をしてあるようだが、聡一に髪型の名前はわからない。
「……こんなことでもして、気を紛らわせているんですわ。私にはもう、舞箏さんを捜せないんです」
「……捜せない?」
 揚羽は答えず、ただ黙々と聡一に並んで歩いていた。揚羽は何をしに来たのだろう。聡一に、舞箏を連れ戻しに行くよう頼みに来たのではないのだろうか。
「電車に乗りますが、揚羽さんも乗りますね?」
 揚羽はうなずく。聡一も揚羽も、自身の家に帰るには車か電車が必要だった。切符を買って改札をくぐる。ホームに出ると、揚羽はぽつりと話し出した。
「……私、舞箏さんが好きでした」
 ホームに電車が入って来た。日曜の夕方にしては五割ぐらいの乗車率で、さほど混んでいる感じもしない。聡一は揚羽に座るように言ったが、揚羽は首を振り、聡一と一緒に立っていた。
「多分、初恋だったと思います」
 先程の続きだろう、揚羽は再び口を開いた。
「きれいで踊りが上手でやさしい舞箏さんが大好きでした。舞箏さんも私を大事にしてくれました。舞箏さんも、私を好きだったんだと思います」
 揚羽は何故、こんな話をするのだろう。
「……小学生の頃は、私が舞箏さんを守ってました。だって、舞箏さんはやさしくて、苛められっ子だったんです。男の子のくせにきれいな顔だからといって、それはひどいことをする人もいたんです。……でも中学に上がる頃には舞箏さんも強くなって」
 電車が動き出す。
 揚羽は少し笑った。
「『踊りをするには、きれいな顔とたくさんの経験はあって損するもんじゃない』って、ええ、今のように、開き直ったんですわ」
 揚羽の笑顔に舞箏の笑顔を思い出す。鮮やかに笑うと、それはきれいだ。
 舞箏の顔を、聡一は暫く見ていない。
「その頃には私も少しは女らしくなっていて、私なんかに言い寄って来る男の人も何人かいたんです。悪い虫がついちゃいけないっていうんで、舞箏さんは片っ端からその男の人達を<引き受けて>くれて……また男の人達もちゃあんとわかるんですね、舞箏さんのがきれいだってことが。本当に、
お蔭で私は助かってたんですけれど……でも、多分そのせいで、舞箏さんは<ああ>なってしまったんですわ」
(<ああ>なってしまった)
(<ああ>とは、)
 舞箏が聡一の高校に転入して来た日、聡一が初めて会った舞箏は、体育用具室で自ら連れ込んだ長沢顕にしなだれかかっていた。
「――……」
 聡一の口の中に、苦いものが込み上げる。
「……もし聡一さんがそれで、舞箏さんを迎えに行くのが嫌だとおっしゃるのなら、それは、私のせいなんです……!」
 揚羽の声が詰まる。逸らしていた視線を戻すと、揚羽は両手で顔を覆ってしまっていた。泣いているのだ。
「……揚羽さん」
「どうか、どうか聡一さん、舞箏さんを……」
 電車が揺れた。吊り皮を放してしまっている揚羽を支える為に、聡一は左手で揚羽の肩を抱いた。揚羽がびくりと震えたようだが、聡一は何も言わず、揚羽が泣き止むまでそうしていた。






 中学に上がった舞箏には、伸びる盛りの草木の持つ、えも言われぬ色気があった。舞箏が中一、揚羽は中学三年である。
 暑いから夏服を着ているのだが、夏服を着ていても暑いものは暑い。白い薄手のセーラー服が汗で体にくっついて、揚羽は気持ちが悪かった。家に帰ったら三恵お母さんに言って、シャワーを使わせてもらおう。
(あっ……)
 揚羽はいつもの通り道に、近くの男子校の生徒が立っているのを見つけた。彼は昨日揚羽に交際を申し込んで、揚羽はそれを断ったのだ。揚羽は何となくばつが悪い。うつむいて通り過ぎようとすると、男は「待てよ」と呼び止めた。
「……昨日のお話でしたら、お断りしたはずですけれど」
「納得いかねえんだ。つき合ってる奴いないんだろ?」
「でも、私まだ中学生ですし」
「関係ねえよ」
「あっ揚羽ちゃんだー!」
 大きな声に驚いて、男も揚羽もびくりと振り向く。舞箏だ。舞箏はかなり離れたところから、手を振り振り揚羽のところへ駆けて来る。
「舞箏ちゃん……」
 大抵の場合は、これで揚羽に言い寄る男は退散した。だが今日の男は舞箏が揚羽のすぐ側まで来ても立ち去らない。ほんのり頬を上気させて、走って来た舞箏はまず揚羽に尋ねた。
「揚羽ちゃんの彼氏?」
 揚羽は首を横に振る。去年までは揚羽の方が背が高かったのに、今では殆ど変わらない。来年にはきっと、舞箏の方が揚羽より大きくなるのだろう。
「ふーん……」
 舞箏はじろじろと今回の虫を見ている。
「何だお前……」
「……ねえ。こっちの地味な美人より、俺のがイイと思わない?」
「――何?」
 中には、舞箏に笑いかけられただけで、真っ赤になって去っていく男もいた。今でもその男は、揚羽でなく舞箏の後を追っかけているのだが。
「って、お前男だろ?」
「そ、男。でも美人でしょ? ほら……」
 日舞の役柄というには多少淫靡な流し目一つ。今のところ、これで揚羽より舞箏を選ばなかった虫はいないのだ。
「ふ……ふーん、男でも、美人はいるもんだな」
「でしょお?」
 男が舞箏に欲情しているのが見て取れる。
「ていうかよ、お前ほんとに男かよ。そこらの女より、よっぽど……」
 着ているのは男子の夏服である。制服というアイテムがなければ、すぐに舞箏を男と判断するのは難しい。細身の体に着る物を変えれば、少女にしか見えなかったろう。
「……胸、ねーもんなあ」
「触ってみる?」
「舞箏ちゃん……」
「あ、揚羽ちゃん、俺これからこのお兄さんと付き合って来るから、帰り遅くなるって母さんに言っといて」
 舞箏はそう言うと男の腕を取って、「ねえどこ連れてってくれる?」と揚羽を置いて行ってしまった。


 舞箏がその日帰って来たのは、夜の十一時を回っていた。
 忍び足で廊下を歩く気配に、揚羽は布団から出てふすまを開けた。揚羽と目が合った舞箏は、悪びれもせず手を振り、笑ってみせる。
「……舞箏ちゃん。お母さんが心配してらしたわ」
「いいのいいの。『踊り以外は好きにおし』って言われてるんだから」
「……今まで、あの男子高校生と一緒にいたの?」
「ん……あ、あんまり側寄らないで」
 舞箏の言葉で前に踏み出した揚羽の足が止まる。
「……ごめん。俺いろいろ臭いから」
「お酒飲んだの?」
「うん……おフロ入ってすっきりしたいけど、今からじゃ水音で迷惑だろうし。朝まで我慢して優雅に朝ブロにする」
 揚羽は気が付いた。暗がりではっきりとはしないが、舞箏のシャツに隠れ切れていない、あざのような跡は何だろう?
「舞箏ちゃん、それどうしたの、ぶたれたの?」
「え?」
「見せて、薬ぬったげる。ごめんね、舞箏ちゃん私のせいで……」
「……ああ」
 舞箏は苦笑した。
「ちがうよ揚羽ちゃん、これは痛くないんだ。ええと……その、実は今日初めて最後までいっちゃって」
「……え?」
「暫く立てなくて帰るの遅くなっちゃったんだ。意外と紳士的な奴だったよ。殴ったりされてないから。これからも付き合うことになってさ、クセになっちゃったらどうしようなんて……あれっ揚羽ちゃん」
 揚羽は手で口を覆って泣き出した。
「どうしたんだよ、揚羽ちゃんが泣くことないじゃないか」
「ごめんね、ごめんね舞箏ちゃん、私のせいで……」
「何言ってんだよ、俺好きでやってるのに」
「……だって。だって……」
 声に詰まって揚羽はうつむく。
「ほんとは好きじゃないでしょう? 会ったばかりの好きでもない人と、そんなことするなんて……」
「……」
 舞箏は揚羽の前にしゃがみ込んで、揚羽の顔を覗いた。
「揚羽ちゃん、心配することないよ。俺ほんとに嫌だったら、殴り倒して逃げるから。八代目、去年庭に落ちて頭打っただろ。あれ俺が突き飛ばしたんだもん」
「――」
「八代目より今日の男がいいと思ったんだよね。あはは、八代目あの世で悔しがってるかも」
「……舞箏ちゃん」
 妻、須磨子が先立ってから、八代目は頻繁に舞箏を寝所に誘うようになっていた。今年の春に八代目藤次郎は逝ってしまい、今は舞箏の父が九代目を名乗っている。
「……それに、ほんとに好きな人が出来たら、こんなことしないから。そんな気がするんだ。俺って結構一途だろ? だから心配いらないよ」
 ……どこかで、舞箏はまだ舞箏を捜しているのだ。舞箏を捜し出して、しっかりと捕まえられる誰かは、どこにいるのだろう。
 舞箏がもう、迷わなくてすむように。
 せめてその人が現れるまでは、自分が舞箏を捜そう。そう思う揚羽である。
 いつか現れる舞箏の為のその人を、愛してしまうとこの時は知らずに。






 舞箏は随分機嫌良く動物園を出た。頭の隅には「こうしている理由」が去りもせずあったが、少なくとも表面上は、子供のようにはしゃいでいた。
「わあ、雪降ってきたよ顕ぁ」
 舞箏が空を見上げる。後からゲートを出た顕が、背中から舞箏に抱きついた。
「わっ何すんだ往来でッ」
「いいじゃねえかよ、俺ァ動物園三つもつき合わせれてバテてんだぞ」
「何言ってんだよ、一コ目の動物園の後、行きたいとこ連れてってやるって言ったのは顕だろ。たまたま全部動物園だっただけ」
 通りすがりの若い親子連れや老夫婦が、二人の会話を聞いてクスクスと笑っている。
「な。俺達恋人に見えてっかな」
 舞箏の耳元で顕が言う。舞箏は顕の額に裏拳を一発食らわせて、顕の腕から抜け出た。
「ってえな、何すんだ!」
「誰と誰が恋人だ!」
「照れんなよ」
「照れるかバカ!」
(いったああ、本間くんひどい、恋人になにすんの)
(誰が恋人だ!)
(やっだ本間くん、照れなくたって)
(何故照れる?! この馬鹿者!)
 聡一は、本気で舞箏を嫌がっていたのだろうか。
 雪が降っていた。聡一は親しげに、女性に傘を差しかけていた。
(雪……)
「……帰ろ顕。寒くなってきた」
「舞箏?」
 帰る。帰りたいのはどこだろう。
 肩を抱こうと伸ばされた顕の腕をするりと抜けて、舞箏は駆け出した。
「あはは賢いっ走れば寒くない! 顕、駅までダッシュ!」
「おい、マジか?!」
 一瞬呆然としてから顕も駆け出す。舞箏を追いかけながら顕はわめいた。
「舞箏、おめえ足速え、スピード落とせ!」
「顕が遅いんだよーだ、煙草なんか吸ってるから体力落ちるの!」
「るせえ!」
 それでも聡一に次いでクラス二位の舞箏の足に顕はついて来る。
 駅に着いて、顕はぜいぜいと息をした。
「ち……くしょ……運動の後の一服はうめえだろうな……」
「煙草やめたら?」
 舞箏もはあはあと言いながら、膝に手をつく顕を笑って眺める。
「るせえな……おら電車乗んだろ」
 行くぞ、と顕は肩で息をしながら舞箏の先を歩いた。切符を買って改札を抜けると、丁度ホームに電車が来ていた。
「あ、ラッキー。そんなに混んでないし」
 舞箏と顕が電車に乗り込む。顕は座れる場所を探してシートを見ている。舞箏は隣の車両に、
 聡一を見つけた。
 ドクンと心臓が鳴る。一週間振りに聡一の顔を見た。
(本間くん……)
 姿を見ただけで、自分が幸せになっているのがわかる。どうしよう。今そこのドアを開けて、聡一の胸に飛び込もうか。
 発車ベルが鳴る。乗客が動いて、陰になっていた部分が見えた。
 聡一が、どこかの女の肩を抱いている。
「……舞箏?!」
 舞箏は電車を飛び降りた。ドアが閉まる寸前、かろうじて顕も降りる。
 舞箏は電車を降りるなり、ホームにしゃがみ込んでしまった。背後で電車が発車する。
「危ねえな、どうしたんだ舞箏」
「……キスして」
「あ?」
「キスしてもいいよ」
「……ここでか?」
 顕は面食らったのだろう、いやそりゃうれしいけどよ、と言いながら、舞箏の横で膝に手をついたままだ。
「……気が変わった。もう触るのもダメ」
「あ?……おい、舞箏!」
 舞箏は走り出した。顕が咄嗟に舞箏の腕を捕まえる。
「触んなって言ったろ!」
 振り向きざまに、舞箏が顕の手を払う。
「……のヤロ……言ってることわかんねーよ! 何言ってやがんだ!」
 怒鳴る顕に、舞箏は抱きついた。
 顕の首に抱きついて、肩に顔を埋めて舞箏は消え入りそうな声で言う。
「しよ、顕。抱いてよ」
「――」
 顕は舞箏の言動に翻弄されながらも、言葉そのものの意味は取り違えなかったので。
「……おい、本気にするぞ」
「うん。して」
 舞箏をぎゅっと抱きしめて、ホームに立ったまま顕は舞箏にキスをした。
「……家に着くまでに気が変わったってのはなしだからな」
「うん……変わらない」
 すぐ後ろに次の電車が入って来る。顕は舞箏の手を握って、開いたドアから乗車した。




 夢の中の聡一はやさしくて、舞箏を抱きしめ、頬や額にキスしてくれるのだ。舞箏がねだると、ちゃんと唇にもキスしてくれる。
 やさしい笑顔は、舞箏に向けられている。
「本間くん……」


 舞箏の首筋を吸っていた顕は顔を上げた。舞箏の腕は自分の背に絡んでいるというのに。
(……ちくしょう)
 顕は信じがたい程の自制心で舞箏から身を離すと、冷えた床に座り込んだ。




 月曜、試験最終日。広史は昨日から一睡もしていない。寝不足で目の奥あたりが痛んだが、寝不足のせいで、ましてや舞箏を捜していたせいで試験が不出来だったとは言われたくない。聡一への意地もあるが、自分自身へのプライドもあった。
 随分早くに登校してしまったと思ったが、見ると教室内には既に学生鞄が一つある。聡一の鞄だ。もしやと思い、広史は自分の鞄を机に置いて、格技館に足を向けた。
 格技館入口の鍵は案の定開いていて、広史がそっとドアを引き開けると、中にはいつからやっているのか、練習着に着替えた聡一が一人、汗まみれになって竹刀を振っていた。
「……おはようございます」
 広史が声をかけるが、聡一の返事はない。竹刀を一振りする度に、聡一から汗のしずくが散った。
 と、急に聡一は素振りをやめた。真っ直に、広史の方へ歩いて来る。いや、ドアの方へと歩いて来る。広史を無視してドアを出ると、聡一はそのまま裸足で歩き続けた。
「どこへ行くんですか?」
 広史は聡一を追いかける。聡一は広史を見もせず、竹刀を提げてグラウンドに出る。
「本間さん、靴は」
 前を見たまま、無表情に聡一は言った。
「長沢顕を殺す」
「は……」
 聡一は今、冷静な声で何と言ったのか。
「え……ええ?!」
 広史は仰天して、聡一の正面に回り込んだ。
「いけません本間さん、駄目です!」
 進路を塞がれても聡一は止まらない。
「本間さん!」
 叫びながら、広史は理解していた。
 舞箏は長沢顕のところにいるのだ。
 聡一は本気だ。本気で、長沢顕を殺す。
 咄嗟に体が動いた。
「――失礼しますッ!」
 広史は聡一の練習着を掴むと、体を半回転させ素早く聡一に技をかけた。
 背負い投げ。
 聡一は受け身も取らずに、地面に叩きつけられた。
 あっという間の出来事である。投げてしまってから広史は、心臓が鳴り出した。
(あ……ああっ……本間さんを投げてしまった……)
 血の気が引く思いをしながら、あおむけに倒れた聡一に声をかける。
「――すみません本間さん、大丈夫ですか」
「……感謝する」
(えっ……)
 聡一は、ゆっくりと身を起こし、落とした竹刀を拾って格技館へと戻って行った。
(本間さん……)
 では聡一は、心のどこかで広史が止めてくれることを期待していたのだ。
 あの聡一が、自分自身では止められぬ程。
(……それ程に、伊部さんを――)
 広史は聡一の消えた格技館に向かって一礼をすると、きりりと唇を噛んで、聡一を待たず教室に戻った。


 その日試験が終わって放課後、帰り仕度をする広史に聡一が言った。
「今日も捜しに行くのか」
 聡一は鞄と竹刀、コートも手に持っているところを見ると、これから部活に行くのだろう。
「……はい。あの、今朝はすみませんでした」
「外は雪だ。これを着て行け」
 聡一は自分のコートを差し出した。
「―――」
「俺は部活に出ている。後で返してくれればいい」
 広史のコートは廊下にかかっている。
「……はい。お借りします」
 だが広史はコートを受け取った。コートと一緒に、聡一の気持ちを受け取った。聡一には、きっとこれが精一杯なのだ。
 聡一は竹刀と鞄を持って教室を出た。広史はそれを見送ってから、聡一のコートに袖を通した。


 顕の家の住所は、顕の学校に問い合わせたらすぐにわかった。雪はさほど激しくはない。学校を出てから五十分後には、広史は顕の家のドアを叩いていた。ドアを開けたのは、顕の母親だろう。
「こちらに、伊部舞箏さんという方がおられませんか」
 すぐに舞箏の迎えだと察したのだろう、彼女は一旦引っ込むと、今度は舞箏を伴って現れた。
(……ああ、伊部さんだ……)
 舞箏は、広史を見てきょとんとした顔をしている。
「……伊部さん」
「野原くん……どうして?」
 舞箏には『どうして』なのだろう。広史が舞箏を迎えに来る理由はどこにもないのだ。
 顕が出てきた。聡一が来たと思ったか、険しい目付きで広史を睨んでから、少し意外そうな顔をした。
「伊部さんを迎えに来ました」
「迎えにって、どうしてここが……」
 舞箏の台詞が止まった。目は、広史の着たコートを見ている。
「気が付きましたか」
 広史は笑う。
「それ……」
「伊部さんを迎えに行くなら着て行けと、本間さんが貸してくれたんです」
 舞箏は大きく目を見開いて、ゆっくりと両手を持ち上げた。かすかに震える唇を押さえるように両手で隠すと、舞箏はうつむき、やがて小さな声で、はっきりと呟いた。
「……帰る。帰る」
(帰るぞ、馬鹿者)
 聡一の、そんな声が聞こえそうだ。
 舞箏は口を押さえたまま玄関に下りて来て、自分のくつを履いた。広史は聡一のコートを脱いで、舞箏に着せてやる。
「……舞箏」
 顕の声に、舞箏は振り向かない。聡一のコートの襟を、幸せそうに掴んでいるばかりだ。
 顕を振り向いたのは広史だ。顕の母親を一瞥し、顕に視線を戻す。
 殺意が沸かなかったとは言わない。だが広史は自分の気持ちを押し殺して、顕に頭を下げた。
「……お邪魔しました」
 さあ伊部さん、と舞箏を促し、玄関を出る。学校に辿り着くまで、舞箏はまるで夢の中を歩いているように見えた。




 試験が終わったとはいえ、本来は今日まで部活動は休みである。ただ禁止ではないので、聡一のように早速部活に精を出す連中はいるが、大勢ではない。
 剣道部も、やはり通常の三分の一程度が格技館にやって来ていた。三十分程素振りをして帰って行った者もいる。
 聡一は替えの練習着を着て、延々と竹刀を振り続けていた。朝着ていたものは、汗まみれ泥まみれになっていたからだ。
 今日はもう千本程打ち込んだだろうか。聡一は竹刀を振った数を数えるのを止めてしまっていた。
「主将、先に上がって構いませんか」
「構わん」
 振る手を止めずに聡一は応える。律儀にも副主将は、聡一に頭を下げてから練習着を着替えに行った。
 着替えた副主将が鞄を持って格技館を出ようとすると、ドアの向こうにいた者と鉢合わせをしてしまったらしい。
「あっすみません」
「いえ、こちらこそ」
 聞こえた声に、聡一は動きを止めた。ドアを振り向く。出て行く副主将と入れ違いに入って来たのは、広史と、舞箏だった。
 広史と舞箏も、すぐに中の聡一を見つけたようだ。歩み寄って行く聡一を、黙って見守っていた。
 舞箏の前に立ち止まった聡一に、広史が言う。
「ただ今、戻りました」
 聡一は広史の言葉には応えず、舞箏を見据え、おもむろに右手を振り上げた。
「――本間さん?!」
 舞箏の頬に平手打ち一発。
 ふっとびかかった舞箏を迎えるように、返す手でもう一発。
「やめて下さい本間さん!」
 広史が間に割って入る。居合わせた剣道部員にはそんな度胸はない。聡一の怒りの波動に仰天し、怯えているだけである。
 舞箏はぶつかった壁にもたれかかって、ようよう立っていた。ぶたれた頬に手も当てず、ずっとコートの襟を握っている。
「……そのコートは野原くんに貸したものだが」
「あっ、俺が伊部さんに貸したんです」
 舞箏への質問に、広史は聡一の腕を押さえながら答える。聡一は広史を見もせず、舞箏を睨みつけていた。
「……出たまえ野原くん」
「え?」
「剣道部員もだ。格技館から出ろ」
 聡一は舞箏を見たまま言っている。広史は了承するのをしぶった。
「本間さん、でも」
「出ろと言っている!」
 剣道部員達がばたばたと出る。広史は暫く聡一を見据え、舞箏を見、
「……はい」
 ゆっくりと、振り返りながらドアを出た。
 格技館には、聡一と舞箏の二人だけになった。壁際で、二人互いに見つめ合って動かない。舞箏が口を開いた。
「……殴るの?」
 広史もそれを心配したから、ここを出るのをしぶったのだろう。
「……何人が迷惑したと思っているんだ。家出だと? 小さい子供じゃあるまいし。貴様の家の、三恵さんも揚羽さんもひどく心配していた。野原くんもだ」
「……本間くんは?」
 舞箏は聡一を見つめて尋ねてくる。
「本間くんは?」
「……それは俺のコートだ。返せ」
 舞箏はコートの襟を掴む手に、ぐっと力を入れた。
「返せと言っている」
「やだ」
「返さんか!」
「やだ! 本間くんが……来てくれたと思ったもん、本間くんが来てくれたと思ったもん!」
 聡一は舞箏の腕を掴み、ぐいと引っ張った。コートの襟が引かれ、舞箏の喉が露になる。
(―――)
 見えてしまった。この跡は、何だ?
(舞箏さんは誰より、聡一さんに来て欲しいと思ってるはずですわ)
(知っててどうして捜さないんですか! 伊部さんは誰より……)
(本間くんは?)
(本間さんは伊部さんに冷たすぎます!)
(来てくれたと思ったもん、本間くんが来てくれたと思ったもん!)
 舞箏は必死でコートの襟を掴んでいる。そこに見えた赤い跡は、まるで引き金のように聡一の箍(たが)を外した。
 壁を背に立つ舞箏を、思い切り抱きしめた。
「え……ほ、本間くん……」
 舞箏の背と壁の間に手を入れて、舞箏の体を自身の体に引き付ける。
「本間くん……?」
 震える声の舞箏を折れんばかりに抱きしめて、聡一は舞箏に口付けた。
「んっ……」
 舞箏は腕をびくびくと震わせて、コートの襟を放した。腕を下ろし、聡一の背中を掴もうとしている。
「んっ……んっ……」
 舞箏は泣いている。舞箏の涙が、聡一の頬にも流れた。舞箏は力が抜けたように、壁をずるずると下がっていく。聡一は舞箏を抱きしめ口付けたまま、舞箏と一緒に床に座り込んだ。
 舞箏の腕が聡一の背中を抱いた。少しずつ、少しずつ抱く腕に力がこもる。
 随分長い間、聡一と舞箏はそうして動かずにいた。


 格技館の外では、広史と幾人かの剣道部員が待っており、出て来た舞箏が泣いているので心配した広史は大丈夫かと尋ねた。だが舞箏が顔を赤らめたので、広史はそれ以上尋くことをしなかった。
「すまなかったな。野原くんは、今日はゆっくり休みたまえ」
「本間さんは?」
「これから伊部くんの家に行って追試対策だ」
「追試? 何それ」
 舞箏のとぼけた返答に、聡一は眉間にしわを寄せる。
「期末試験を丸々すっぽかしたということをわかっているのだろうな。それとも本当にわかっていないのか?」
「え? 期末?」
(……長沢顕め伝言を伝えなかったな)
 聡一は拳を握り締める。
「十二日から今日まで、期末試験だったんですよ。伊部さん、知らなかったんですか?」
「え、知らないよ。何、もうそんな時期なんだ」
 広史の説明にも、舞箏は特に悪びれた風もなくあっけらかんとして答える。聡一は苦い顔をして舞箏を睨み付けた。
 どうせこいつは、試験期間中だと知っていたとしても、家出をしていたに違いないのだ。ここでその関心の無さを責めても詮ないことだ。解決にはならない。
「でも本間くんうちに来るんだ、やった!」
 詮ないこととは思いながらも、舞箏のこの的の外れた喜びの声に、聡一は言ってやりたくなるのである。
「君は事態がわかっているのか?!」
「え、うん。これからうちで本間くんと時を共に過ごすの」
「……」
 もう一度舞箏を長沢顕の所に捨てて来ようかと、聡一は奥歯を噛んで考えた。
「……伊部くん。何度も言うようだが、それは俺のコートなんだが」
「いや」
 結局舞箏は、家まで聡一のコートを着たまま御機嫌であった。



 伊部家の門を入った所で、聡一と舞箏は三恵と揚羽に出迎えられた。三恵も揚羽も、舞箏を抱きしめて無事を喜んだ。
「全くお前は人騒がせだねえ……おや顔が赤いね、ちょっとはれてないかえ?」
「あ、これはいーの。愛のビンタだから」
(……なにが)
 両頬を押さえて浮かれた声を出す舞箏に聡一は頭痛を覚える。
「聡一さん、御無理をきいて頂いて、本当に……」
 先程まで泣いていたような目をして、揚羽が深々と頭を下げる。今日の揚羽は、和服にこの間の髪型だった。
「いいえ。それよりも伊部くんの試験の方が問題です」
「試験?」
「期末試験中ずっと欠席していたので、追試を受けさせてもらえるよう担任に頼んではあるのですが」
「まあまあ、本当に何から何まで、これ舞箏! 聡一さんによっく教えてもらうんだよッ」
「あれっ揚羽さん髪型が違う……」
 伊部家の玄関先で、三恵に舞箏、聡一、揚羽の声が交錯する。
「聞いてるのかい、舞箏ッ」
「ああ、先日は洋服でしたが、和服にも合うものですね」
 聡一の言葉に、困ったように揚羽はうつむく。舞箏は怪訝そうに尋ねた。
「先日?」
「言ったろう。揚羽さんはひどく心配して俺のところまで君を捜しに来たんだ。反省したまえ」
「聡一さん、そんな……」
 困る揚羽に、聡一は「これぐらい言ってやるべきです」と言う。舞箏は二人を見ていて、突然「あっ」と声を上げた。
「何だ?」
「舞箏さん? どうか……」
 舞箏は何が可笑しいのか、込み上げる笑いに堪え兼ねるように吹き出した。
「あっはははは! 何だ、なーんだそっかあ、あっははは……」
 揚羽と三恵はぽかんとしている。
「伊部くん……やる気がないなら俺は見捨てて帰るぞ」
「あっいやーん帰っちゃダメーん」
 舞箏はどこか安心した顔に涙まで浮かべて、冷たく言った聡一の腕に抱きついた。
 舞箏の部屋に向かいながら、腕に絡みつく舞箏を引きはがそうとするのだが、「いやーん」「やだーん」とその度くっつき直されて、聡一は諦めてそのままにしていた。
 部屋に入って勉強を始めようとしても、まだ舞箏は聡一から離れない。
「伊部くん。誰の為の追試対策だ」
「俺の。ねえ本間くん、チューしよ、チュー……ぶっ」
 聡一の手のひらに顔を押されて、舞箏がのけぞる。
「ぷは、本間くん苦しい」
「貴様はちゃんとやればできるんだ、真面目にやれ!」
「……本間くんコワイ」
 聡一に怒鳴られ、ようやく舞箏が机に向かう。隣で問題集をめくる聡一に、ノートを広げながら舞箏が下から覗き込んで言った。
「で、何点取ればごほうびくれる?」
「ごほうび?」
「チューとかナニとか」
「……」
「ごほうびの前借りしちゃダメ?」
「馬鹿者!!」
 本間くん、痛い。と舞箏は涙を浮かべて、殴られた頭をさすって呟いた。
 聡一は箪笥の上に置かれた、舞箏の舞台写真を見つけた。化粧やライトのせいもあるのだろうが、全く女性にしか見えない、誠に美しい写真だった。
 舞箏はぶつぶつ言いながら、聡一の出した問題に取り組んでいる。
「……踊りは続けるんだろう?」
 不意に言った聡一の問いに、舞箏は虚を突かれたように振り向いた。問題に集中していたのだ。
「え?……うん」
 全くこの集中力を常日頃から発揮してくれていれば、と聡一は思う。舞箏は聡一が見た写真に気付いたらしい。
「あ……それ? いい写真だろ。他にもあるよ、ビデオとかも。見る?」
「……いや、いつか本物を見に行く」
「ホント?」
 舞箏はうれしそうだ。
「ああ。それまで君が踊りをやめなければな」
「やめる訳ないじゃん、踊りは好きだもん。続けるよ」
「それがいい」
 聡一が剣道をやめるなど考えもしないように、きっと舞箏は踊りに対してそうなのだろう。聡一は、例えば踊りに、例えば今こうして勉学に集中して打ち込んでいる舞箏が好きだと思った。
「……そうだな」
 聡一は提案した。
「もしも総合成績で野原くんに勝つことがあれば、ごほうびをやろう」
「え!」
 舞箏は目をきらめかせた。
「ホント?!」
「だが野原くんは前回俺に次いで学年二位だぞ」
「やるやる、頑張る!」
 舞箏はまるで鬨の声を上げるように腕を突き出し、ノートの問題に戻った。その様子に聡一が少し笑顔になった時。
「ねえ」
 舞箏はまた振り向いた。
「やっぱり、ごほうびの前借り、ダメ?」
「……」




 三月に入って発表された試験の結果を見て、聡一は思ったのだ。
(しまった……)
 広史は舞箏のせいの寝不足状態で試験に臨んだのである。いやそれとも、本当に舞箏が頑張ったのか。
「本間くんっ本間くんっ」
 舞箏は先刻からぐるぐると聡一の周りを回っている。
 広史は手放しで舞箏を誉めている。
「すごいですよ伊部さん、本試験より追試の方が難しいんですよ」
「うふふふ、ありがとー」
(ひょっとして、自分の首を自分で締めたのか? 俺は。伊部くんが勉強を頑張ったのはうれしいが)
 三学期末考査、
 学年一位、本間聡一。
   二位、伊部舞箏。
   三位、野原広史。
「ねっ本間くんっ」
 舞箏はにっこにっこと聡一にまとわりついてくる。
「……離れんか。今はやらんぞ」
「わーい、後でごほうび、後でごほうび」
(ええい大声ではしゃぐな)
「ごほうびって何ですか?」
 広史は笑顔で舞箏に尋ねる。
「うふふ、内緒」
 広史にそう答えておいて、舞箏は聡一に叫ぶのだ。
「ねえ本間くん、格技館の時より激しいのじゃないとヤだなー」
「……!」
 気のせいか、広史の笑顔がひきつっている。聡一は拳を震わせながら、ごほうびは拳骨にしようか平手にしようかと考えていた。





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