・単行本に入り切らなかった未発表の話を載せるために、話の最初っから載せることにしました。『仲良きことは、』の第1話、「仲良きことは、」いざ、どうぞ。
「ああ本間」
「はい」
廊下で呼び止められた彼は、都立南丘(みなみがおか)高校の二年生、本間聡一(ほんま そういち)。二年のくせに生徒会長なども務めている<つわもの>である。南丘始まって以来と言われる程の学業優秀、剣道二段の有段者で剣道部の部長と、文武双方に長ける彼は教師からの信望も厚い。おまけに頭脳明晰を顔に表したような怜悧な美貌、すらりとした高い細身の容姿は、女生徒の人気の的であった。ただ余りに完璧で隙がない、言ってしまえば機械のようなところを持ち合わせた聡一に、面と向かってミーハーに騒げる度胸を持った者はいなかったが。
担任教師の塚本に呼び止められた聡一は、生徒会室から印刷室に校内報の原稿を持って行くところだった。聡一が立ち止まり表情も変えずに振り向くと、塚本は用件を伝えた。
「明日、転校生が一人入ってくる。朝のホームルームはそいつの紹介に使うから、全員席に着けとけ」
毎朝のその時間は、クラス内での仕事を全員が持ち回りですることになっている。
「わかりました」
特に教師からの連絡事項がある時などは、聡一が教室内をいつでも連絡を受けられるよう整然とさせておくのだ。聡一は二年四組の級長も務めていた。
南丘高校はかなりレベルの高い学校である。特に編入試験は手厳しいので有名だ。その試験に合格して転入して来るとなると、明日やって来るという転校生はそれなりの頭脳を持っていることになる。聡一は滅多に他人に興味を持たないのだが、まだ見ぬ転入生に、学業争いができる可能性をほんの少し期待した。
教師と別れて印刷室に入ると、先に来ていた同じく二年四組の野原広史(のはら ひろし)が、輪転機の準備をして聡一を待っていた。広史は生徒会の書記である。
「あ、本間さん、稼動オーケーです」
機械が大分古くなっているので電源を入れてもすぐに動くとは限らない。インクも原版のセットも、コツが必要になっていた。広史はよく印刷を頼まれることもあって、学校の事務員よりこの輪転機の扱いが上手(うま)かった。
「それは何だ」
広史が手に持っている紙の束について聡一が尋ねる。
「ああこれは、三年生の模試原稿だそうです。二十枚あるか確かめてから印刷(つく)ってくれと言われて」
広史は数えているところなのだ。
「……俺はつき合わんぞ」
「えっあ、もちろん校内報を先に印刷ります。これはその後で俺がやりますから」
この人の良い書記は、いつもこうして使われるのだ、と聡一は思う。「俺が一番上手く扱えるので」と広史は言うが、印刷以外でも広史のお人好しは遺憾なく発揮されている。だが確かにそれをこなす能力は備えているのだ。
聡一は広史に、級友、いや学内で一番信を置いているのは間違いなかった。また広史も、聡一と対等に(言葉遣いはどうあれ)口をきける珍しい立場にいることは十分承知していた。だから他の誰も聡一に言わないようなことでも、広史は言う。聡一が耳に痛いことでも決して疎んじたりせず、己に非がある場合は素直に認めると知っているからだ。
もっとも、聡一に非がある場合などは滅多になかったので、広史はそうしょっちゅう聡一に意見している訳ではなかった。ただたまに、聡一に恋心を告白する勇気ある少女に対しての聡一の態度が、あまりにも切って捨てるようににべもないのには、広史も困っているようだった。直接聡一に言える人間は極めて稀だったので、殆どの場合が広史を仲介してのことだったからだ。この完璧に近い生徒会長は、恋愛ごとにはとんと興味がないのだ。
「野原くん、明日二年四組に転入生が来るそうだ」
校内報の印刷は終わっていたが、聡一は印刷ミスのチェックをする振りをして、まだ印刷室に居座っていた。広史は頼まれたプリントの印刷をしている。
「そうですか。男子ですか、女子ですか」
「聞いていないが。明日の朝活は昼にする」
「はい。可愛い女の子だといいですねえ」
「そうかね」
本当に、聡一には興味がないらしい。くすりと笑って、広史は言った。
「待っていなくて結構ですよ、会長」
聡一は広史を見て。
「……そうか。では帰る」
「はい。お気をつけて」
無表情に席を立った聡一を見送って、広史は笑っていた。ちょっと変わってはいるが、同級生を気遣う普通の人なのだと、広史は知っている。
めくっていた校内報をトンと机で揃えると、聡一は生徒会室に戻る為に印刷室を出て行った。
翌日の朝、聡一はクラス全員を席に着かせて、教室で担任教師を待っていた。今日は転校生がやって来るはずだからだ。教室内の誰もが、新しい仲間の登場をわくわくして待っていた。だが塚本はなかなか現れなかった。HRの時間は十分も過ぎて、あと十分もすれば一時間目が始まってしまう。
ガラッと教室のドアが開き、塚本が現れた。だがどうやら一人だ。
「本間」
中にも入らずドアを開けた姿勢のまま、塚本が聡一を呼ぶ。
「はい」
聡一が立ち上がってドアへと歩く間に、塚本は教室の中に向かって言った。
「あと十分だが、HRは一時間目の予習。一時間目と三時間目を入れ替えて、一時間目は国語だ」
塚本は国語の教師だ。どうやら一時間目を臨機応変に使う為の処置らしいが、何があったのだろうと聡一は思った。目の前にまでやって来た聡一に塚本が言う。
「本間、ちょっと手伝ってくれ。転入生が行方不明だ」
「は?」
「なかなか来んので家に電話したら、朝はちゃんと出たというんだ。学校にまだ辿り着いとらんらしい」
二年の教師達は学校近辺を捜しに行くので、留守の間を頼むというのだ。
「他の学年の先生も見に来てくれるが、万一すれ違って転校生が学校に来た場合は、お前の席の隣にでも座らせて、持ってる教科書の点検でもしとってくれ。念の為に名前と顔を教えとく。伊部舞箏(いべ まこと)、そらこいつだ」
塚本が聡一に渡したのは、顔写真のコピーとその横に書きなぐられた名前。
「じゃあ、頼むぞ」
塚本はそう言って駆け去って行った。塚本をほんの少し見送った後、聡一はまじまじとコピーを見た。白黒の不鮮明なコピーではあったが、伊部舞箏という転入生が、随分な美少女であることが見てとれた。
(これが行方不明なのか。人騒がせな迷子だ)
美人の転入生でラッキー、などという感想は聡一の中に浮かばない。聡一は、自分も校舎内を捜すことにした。
「一限目は先生が来るまで自習だ。くれぐれもしっかりとやるように」
ドアから振り向いてこう言った聡一の言葉にあえて逆らおうとする輩はこの学校にはいない。教師に同じことを言われるよりも、ちゃんとしなければという緊張感が伴った。
聡一は、どうせ広史も行方不明の転校生を人一倍心配しているのだ、と正しく洞察していた。が、自分の留守中を広史が守ってくれることもよく知っている。だから聡一も転入生の捜索の為に、安心して教室を抜けて行ける。
聡一はまず職員室に寄って、転校生がまだ発見されていないことを確認した。次に校舎の廊下を一通り眺める。わざと隠れているのでなく、職員室を探してさまよっているのならこれで見つかるはずだ。聡一は念の為、特別教室も一つ一つ覗いてみた。
(いないな)
やはり学校に辿り着けず、道に迷っているのだろうか。玄関の方を確認しがてら、体育館の中も見てみた。今の時間はどの組も使っていないらしく、ガランとしている。聡一が通り過ぎようとすると、笑い声が聞こえた。
(……?)
不審に思い、体育館の中に入る。その際、体育館には専用シューズでないと入れないことになっているので、律儀にも聡一は上履きを脱ぎ、靴下で入った。意識したことではないが、足音が立たない。笑い声の主は聡一に気付かず、時折くすくすと聞こえる声は、どうやら体育用具室からしていた。
「あっやだ、そこはダメ」
(……)
聞こえてきた言葉に聡一は呆れた。
「うん、ダメだったら……」
ダメと言いつつ、言葉の後には含み笑いが続いている。どこの阿呆が授業をさぼって、こんなところで何をしているのだ。聡一は思った。自分は今転校生を捜しているのに、余計な仕事が増えてしまったではないか。忍び笑いが聞こえるドアを、聡一は勢いよく開けた。笑い声は止んで、中にいる二人が驚いて聡一を見る。体の大きな男が着ている学生服は、この学校の制服ではない。もう一人は私服だ。
ドアを開けて、聡一も驚いたのだ。
(いた――)
他校の学生にしなだれかかりこちらを見ているのは、今日自分のクラスに転入して来るはずの、伊部舞箏だったのだ。
コピーの写真などで見るより、ずっと美しい顔だった。ぱっちりとした目をして、まるで人形のようである。ただ、仔猫のような目はくるくると悪戯っぽく、髪は活発そうに短い。襟のあるシャツの上にトレーナーを着て、だぶだぶのズボンをはいていた。そのズボンの中に、相手の男の手が忍び込んでいる。
「伊部舞箏……二年四組の転入生だな?」
ぽかんと聡一を見ていた舞箏は、言われて立場を思い出したらしい。
「あ……ああ、そうそう。そういや、そう」 可愛らしい声で、笑って言う。こんな場面を見られたことなど、何とも思っていないように見える。
「……その転校生が学校に来て何をしている。さっさと職員室に行って届け出たまえ」
「何って……やだ、言わせないでよ。だって道でこの人と気が合っちゃったんだもん」
ぷうと口を尖らせて舞箏。聡一は頭痛を覚えた。
(本当にこいつが、南丘(ここ)の編入試験をパスしたのか?)
とてもそうは思えなかった。だが聡一は、<見つけてしまった>からには、舞箏を教室に迎え入れるべく連れて行かねばならない。どんなに厭でも、このまま見つからなかったことにして、舞箏の存在を闇に葬る訳にもいかないのだ。ましてや聡一は、舞箏が編入するクラスの級長だ。見つけたくなかったと、聡一は強く思ったが。
「……とにかく来たまえ。職員室に案内しよう」
「ちょい待てよ、偉そうな兄ちゃん」
舞箏と並んで運動マットの上に腰かけている男は、まだ舞箏のズボンに手を突っ込んだまま口を開いた。
「黙って聞いてりゃ、俺達これからお楽しみなんだよ。ケガしたくなけりゃ終わるまで向こう行ってな」
男の手に刺激されたのか、舞箏が「あ」と声を上げる。どこぞの高校の札付きの不良なのだろう。聡一をただの教師の腰ぎんちゃくと思ってか、大胆にも聡一が見ている前で舞箏と続きを始めようとした。気の弱い者ならば、確かに見ぬ振りしようとこの場を逃げ出すだろう。だが聡一は、生憎と気が弱くも平和主義でもなかった。
「<本当に残念だが>そうもいかん。十人からの教師が行方不明の転入生を今も捜し回っているんだ。とばっちりを他の職員及び二学年全体が被っている。それに、南丘(うち)の用具室で君らのような好き勝手をされるのは、個人的に非常に腹が立つ。転入生は仕方がないとして、君にはさっさと失せてもらいたい」
動じもせずにこれだけを言うと、聡一は舞箏の腕を掴んで、ぐいと引き上げた。すぐに細い腕を聡一が放したのは、不良学生が舞箏を引っ張り戻したからだ。
(……この野郎)
仕事の遂行を邪魔されて、不良学生への聡一の認識が、不愉快な第三者から積極的な敵意となる。
「わかんねえかなあ。俺達お楽しみなんだよ……ま、見学する分には構わねえぜ」
「ちょ、ちょっと……」
押し倒されて、舞箏は聡一を気にしたようだ。だが不良学生は構わず体を舞箏にのしかけてくる。
「ダメ、やだちょっと……」
「もう一度言う」
聡一が言った。
「とっとと失せろ」
不機嫌が声と言葉と表情ににじみ出ていた。聡一を知る者であれば、今の聡一の前からはすたこらと逃げ出すはずだ。命知らずでもない限り、聡一だけは怒らせるまいと、周りの皆が思うことなのだ。
「何だとお……?」
だがこの不良は聡一のことを知らない。ムカつくぜと呟いて、舞箏から離れて聡一に向き直った。
「いい加減にしろよイイ子ちゃん。人がせっかく平和的に手を打とうとしてるってのによ……失せるのはてめえだ。わかんねえこと言ってると痛い目見るぜ」
立ち上がって聡一の方に歩み寄る。背は聡一と同じ程だったが、体のかさばり具合がはるかに聡一より大きい。聡一は不良を見たまま、左に手を伸ばした。そして冷静に最後通牒を通告する。
「そうかね。では死んでも知らんぞ」
「何言ってやがる!」
聡一が掴んだのは、用具室掃除用の長柄帚の柄だった。金具がとれて、柄とブラシが別れている。それをすい、と聡一が構えた。
舞箏はその瞬間、聡一に見とれた。
沸き上がる白い殺気を感じ取れなかったからといって、不良を責める訳にはいくまい。次の瞬間には、ダン、と強く一歩を踏み込んだ聡一に、彼は文字通り、突き飛ばされていた。
「がはっ……」
強烈な突き。
積み上げてあった跳び箱がなければ、彼はもっと遠くへ飛んでいただろう。激しく背中を打ちつけて、床に落ちた後暫くは息を吸うことが彼の重大な仕事だった。聡一は喉の急所の一寸(いっすん)下を突いた。これで死なれては困る。
「動けるようになったら出て行け」
聡一は言って、帚の柄を元の場所に戻した。
(金具が壊れているな……清掃用具担当の先生に言っておこう)
さて、と聡一はマットに座る舞箏を見た。
「思い切り不本意だが、君を職員室に連れて行くぞ」
「……いい」
「何?」
「いいよ……あんたカッコイイ!」
舞箏は目をキラキラさせて、聡一をうっとりと見ている。
「……俺はあの男と似てるのか?」
今自分が突き飛ばした男を思い、聡一が嫌そうに言った。
「へ? やだなあ、別にそこで伸びてる顔が好みって訳じゃないよ。そいつとはセックスが合いそうだっただけ。全然かっこよくない」
あっけらかんと舞箏は言う。聡一は再び頭痛を覚えた。目の前の舞箏は黙って座っていれば結構な美少女なのだ。なのにその口から出てくる言葉がこれである。これが同級生になるのかと思うと、聡一は級長の仕事を下りたくもなるではないか。
軽く頭を振って、聡一は気を取り直した。
「とにかく行くぞ。立ちたまえ」
「あ、待ってよ」
舞箏が立ち上がり、ズボンのお尻のほこりを払う。先を行く聡一の横にぴたりと並び、顔を見上げて笑顔で尋く。
「あんた名前は? 何年?」
「本間聡一、君の同級生だ」
「へえ同じクラス? 超ラッキー。ねえ彼女とかいる?」
「……」
目の前に回り込んで尋ねる舞箏に、取り直した気分がまたむかむかしてくるのを感じた。
「君は何だ」
「え? 伊部舞箏」
「それはわかっている。これ以上怒らせると転入生でも容赦せんぞ」
「やだ」
聡一の頭痛はどんどん悪化していくようだ。
「ねえ、彼女いないんなら立候補してもいい?」
「何?」
「恋人にしてよ。あんたカッコイイもん」
……相手は女だ、女相手に暴力はいかん、と聡一は舞箏をぶん殴りたいのを我慢した。そしてふざけるのも大概にしろ、と怒鳴ろうとした時だ。
聡一の顔を両手でしっかと挟んで、舞箏が聡一に、キスをした。
(――――)
「……えへ」
聡一から離れた自分の唇をぺろりとなめて、舞箏が照れたように笑う。聡一は、もう少しで目の前のきれいな顔を殴り倒すと思った。だからくるりと背を向けて、一人すたすたと舞箏を置いて歩き出した。
「あ、待ってよう」
舞箏が慌てて追いかける。用具室の中では、ようやく半身を起こした不良学生が、喉をさすりながら二人の消えて行った先を睨みつけていた。
「本間……聡一……」
覚えてろよ、という捨て台詞は、咳き込みながら吐き捨てられた。
職員室に聡一が舞箏を連れて来た時には、もう一限目は始まっていた。外に舞箏を捜しに出た塚本達がまだ帰らないので、聡一は舞箏を教室に連れて行き、塚本の言った通り教科書の確認でもさせようと思った。
「教科書は持って来たのか」
「ううん? 何も」
舞箏が手ぶらの両手をひらひらと振って見せる。聡一は、何をしに学校に来たんだと思ったが、思っただけで黙って教室へ案内した。
教室の窓から、二年四組全員が静かに自習しているのが見えた。聡一と目が合った広史が顔を上げる。少し遅れて、ガラリと戸の開く音で、全員が顔を上げて入口を見た。聡一がドアを入った。そして、
「――――」
教室に、さざ波のように溜め息が流れた。舞箏は聡一の後からドアを入ると、注目されていることに気付いて、にこっと笑って手を振った。
(……おい、めちゃくちゃ可愛いじゃん)
(可愛いって言うか……)
(美人だよ、美人)
(ウッソー)
(きれいな子)
聡一がいなければ、その声はもっと遠慮なく上がっただろう。
「こんにちはあ、はじめまして。伊部舞箏っていいます、よろしく。あっ字はこう書きます」
愛想を振り撒きながら舞箏が自己紹介をする。黒板に名前を書く舞箏を見ながら、(こうしていると普通に見えるのだがな)と聡一は考えていた。
広史は。
茫然と、舞箏を見ている。クラス中が舞箏を見ていたのでなければ、一人くらいは気付いたかもしれない。
広史は舞箏に、<一目惚れ>していた。
そのうち塚本が教室に戻って来た。やれやれという顔をしている。どこまで捜しに行っていたのか、シャツの背中が汗ばんでいた。
「心配したぞ伊部。家には連絡しといたからな」
「すみません先生、ご心配かけました」
しおらしく舞箏が頭を下げる。一つうなずいて、塚本は聡一を見た。
「本間が見付けてくれたそうだな。どの辺にいたんだ」
舞箏はギクリとした。何をしてさぼっていたのか別にばれてもいいのだが、自業自得とはいえ、転校早々のスキャンダルはやっぱり有難くない。舞箏のそんな様子を見て取ってか否か。
「……体育館側から校舎に入ったらしく、準備室の中です」
聡一の言葉を受けて、塚本が納得する。
「ああ……鍵が馬鹿になってるところか。ありゃ一旦閉まると開かんからなあ。早急に修理せんといかんな。大変だったな伊部、閉じ込められたのか」
「え……はあ、まあ……でも本間くんが来てくれたんで」
うんうん良かったと、塚本がうなずく。
舞箏の視線がこっそりと聡一を追ったが、聡一は知らん顔をして自分の席に戻るところだった。自分を庇った聡一の行動で、舞箏は勝手な期待に胸をふくらませたようだ。うれしそうな笑顔が表情に混じった。
「じゃあ自己紹介は済んだんだな。伊部、制服は間に合わなかったのか」
塚本の言葉で舞箏が視線を戻す。
「あ、はい、制服は今日出来るんで、明日から着ます」
「そうか。じゃあ伊部の席は……」
すかさず舞箏が手を挙げて叫ぶ。
「あっ先生、本間くんの隣がいい!」
(なっ……)
聡一は却下したかった。他の男子は、ああやっぱり本間がもてるのか、という顔をしている。塚本はそうだな、とうなずいて。
「本間、暫く級長として面倒見てやれ」
聡一は級長を誰かに譲りたいと思った。今ならなり手は大勢いたろう。聡一の隣に座る広史が、早速舞箏の為に席をあけた。
「伊部さん、どうぞ」
「ありがとう」
舞箏に笑いかけられて、広史の顔は天に昇ってしまいそうに見えた。
舞箏は早速クラスの人気者になった。休憩時間、机の周りに級友たちが集まって来る。
広史は、つい先程まで自分の席だった場所を、新しく移った廊下側の席から見ていた。大勢が集まっている中心に、舞箏がいる。舞箏はくるくると動く目で周りの友人達を見ながら、実に楽しそうに、美しい笑顔を見せていた。広史は息をするのも忘れて、じいっと舞箏が動くのを見ている。心臓がドキドキして、頭がガンガンとした。
「伊部さん、前はどこの学校にいたの」
「ねえねえ、つき合ってる人とかいるの」
「でも本当、美人よねえ」
(うん、ほんとうにきれいだ)
広史も思う。
(どうしてあんなにきれいなんだろう……うそみたいだ)
「そう? そんなに美人? よく言われるけどやっぱりうれしー」
こんな台詞を嫌味なく言ってしまう。美人が持ちがちなお高い雰囲気が舞箏にはないのだ。男子も女子も、舞箏と一緒になって笑っている。
騒ぎに関せず、自分の席でノートをまとめていた聡一が、ふいと立って行ってしまった。
「あ、本間くんどこ行くの」
「ああ、あいつは生徒会長だから忙しいのさ」
舞箏の言葉に男子の一人が答える。
「って、学級長もだよね?」
「本間は超人だよな」
級友達が同意する。聡一の完璧主義的な部分については、皆の意見の一致するところであった。
「あいつがいると、こう、ぴりっと緊張するもんな。迂闊なことできないっていうか……俺達と出来が違いすぎてさ」
聞こえてきた会話に、広史は聡一の人間的なところを教えてやりたいと思った。例えば昨日の印刷室のような。皆がうんうんとうなずくところに、見ていた広史が言葉をはさむ。
「でも、あれで結構気を遣う人だよ」
するとうなずいていた連中が、一斉に広史を見た。見られて広史がドキリとする。
「え?」
「野原は野原で変わってんだよ」
「え?」
「そうそう。なんたって本間と緊張せずに話せるもんな」
「そうそう。尊敬のあまり敬語になっちゃってるけど」
「そうそう」
「そ、そんな、俺は別に……」
全員に「そうそう」と言われて、広史は困った。確かに広史は聡一を尊敬していて、それが言葉遣いに現れている。だが他の級友達と比べて聡一と親しく話せるからといって、それで自分が変わっているとは思わない広史であった。一生懸命話しかければ、必ず聡一は返してくれると思うのだ。それは話しかけるのが広史に限らず。
(あ……)
舞箏のきれいな目が、真っ直に広史を見ていた。舞箏に見られていることに気付き、広史はまた頭の中が鳴り出した。舞箏に聞こえるはずもない胸と頭の音と、ついじっと見つめ返してしまったことをごまかすように、わたわたとして話題を振った。
「そうだ、伊部さん、校舎の案内ってしてもらいましたか」
これは緊張のあまりか、舞箏に対しても丁寧語になっている。
「あっそうだ、伊部さん俺案内してやるよ」
「俺、俺」
その場にいた何人かが名乗りを上げた。だが、舞箏はこう言った。
「本間くんて、忙しいの」
「……」
「本間くんに案内してほしいなあ」
男子は、おのれ本間、と思ったやや恐いもの知らずと、ちくしょうハンサムはいいよなと思ったやや悲観型に別れた。同じく女子は度胸あるわねと思った応援型と、あたしだってほんとはと思った妬み型に大別した。
(そうか、伊部さんは本間さんが気に入ったんだ)
広史は嬉しいようなちょっと悔しいような、大雑把に言えばお人好しな感想を抱いていた。聡一が今度は、無下に扱わなければいいなあ、と考えて。
その日結局放課後に舞箏の望みは叶って、聡一は舞箏を連れて校内を巡った。
「ここが生物室。ここが……」
聡一は事務的に案内しているのだが、舞箏の方はまるでデートでもしているかのように、浮き浮きとしてついて歩いている。また、聡一と舞箏の取り合わせはとても目立った。
背が高く切れ長な目で端正な顔立ち、見ている方も居ずまいを正さねばならなくなるような独特の雰囲気を持つ聡一は、一人で歩いていても目立ったのだが、今は連れがまた目立つ。私服でいることを差し引いても、仔猫のような目をして体中うれしそうに歩くどう見ても美人の舞箏は、隣の聡一の無表情と比較しなくても、十分に豊かな笑顔をしていた。
廊下ですれ違う、あるいは教室の中から彼らを見た生徒達は、皆一様に目を見開いて、息を飲んで見送った。舞箏はそれがまたうれしいらしくて
「恋人同士に見えちゃったりするかな」
と聡一に問うのだが、
「ここは音楽準備室。その向こうが音楽室だ」
「……」
そんなことは無視して、聡一は説明を続けるのだ。
校舎の案内もそろそろ終わる頃、舞箏は聡一に尋ねた。
「ね、一緒に帰ろ?」
「俺はこの後部活がある」
あっさりと聡一は断わる。舞箏は思い出したようだ。今朝体育用具室で見た、聡一の美しいたたずまい。
「剣道部?」
「そうだ」
「見てていい? 待ってるから一緒に帰ろう」
「入部希望者の見学なら許可するが、君には入部は無理だろう。大人しく真っ直家に帰りたまえ」
「何で決めつける訳? それに一緒に帰ってくれるんじゃなきゃ、またどこかの男と迷子になるかもよ」
「……」
「あ、ちょっとトイレ」
このやろう、と聡一は思った。俺を脅迫するとはいい度胸をしている、いやとんでもない性格をしている。聡一は別に舞箏がどこでどんな男と何をしようが構わなかったが、南丘高の生徒、しかも自分の同級生となってしまったからには、周辺の平穏を守る義務も権利も聡一にはある。
(こんなやつがなぜ南丘(ここ)に入って来たりしたのだ?)
腹立ちまぎれの疑問をぶつける相手は、今聡一を離れてトイレに入って行こうとしている。
(――――)
(何?)
「ちょっと待て!」
聡一は怒鳴った。
「え?」
舞箏が驚いて立ち止まる。付近にいた生徒達も、やはりびっくりして振り返った。聡一は舞箏に寄って、きっと睨んで問い質した。
「入口を間違えたのか? それともこちらの認識が誤りなのか?」
「へ? な、何?」
至近距離で睨まれて、舞箏は怖いのとうっとりするのと訳がわからないので忙しいようだ。
「……君が入ろうとしているのは、<男子トイレ>だが」
「……そうだよ?」
返事をしてから、舞箏は聡一の誤解に気が付いた。
「あ……やっだなー、俺女だなんて言ってないよお、伊部舞箏は男です!」
カラカラと笑ってそう言うと、舞箏は男子トイレのドアの向こうに消えた。
聡一は、少なからずダメージを受けていた。トイレのドアの前に立ったまま、右手で頭を支えた。
(――男?)
(あれが?)
(――男だと……)
では、舞箏は男のくせに、男と用具室であんなことをしていたのか。男のくせに男の自分に、あんなことをしたのか。
「お待たせー、……あれ?」
聡一は舞箏を待っていなかった。竹刀を振ることで気を落ち着かせようとしたのだ。聡一は舞箏を置いて、さっさと剣道部に行ってしまった。
そして剣道部員達が怯える。
「今日の主将、なんかいつもより更に怖いな……」
「うん」
一人素振りを続ける、鬼気迫る聡一に近付こうとする命知らずな部員は、誰一人いようはずもない。
翌朝、制服の詰め襟姿で登校して来た舞箏を見て、クラス中(もしかしたら学校中)が一頻パニックに陥った。
「塚本先生、何で伊部は男だって教えてくれなかったんですか!」
「何? 自己紹介は済んどったんじゃないのか?」
殆どの男子が失意にまみれ、女子も驚いたりミーハーの血が騒いだりと、さすがに仰天は隠せなかった。いつもは歯止めになる聡一の存在も今度ばかりは効かない。何しろ聡一自身、昨日受けたショックをまだ引きずっていたのだ。
「男だなんてえ」
男子の嘆きが教室にこだまする。聡一の席の隣に座ったまま聞いていた舞箏は、ぽつりと言った。
「そんなに、がっかりした?」
聡一はギクリとして舞箏を見た。クラスの連中も見た。舞箏は笑っていたがそれは薄皮一枚で、その笑顔の後ろには今にも泣き出しそうに見える「がっかり」が隠れていたのだ。舞箏が「女でない」ことでがっかりされたのは、きっと初めてのことではない。厭きる程にあるのだ。とうに笑い飛ばしたはずの諦めが、舞箏の顔に垣間見えた。
広史も見た。舞箏を見て感じたキリキリとした胸の痛みは、罪悪感と、今舞箏を慰めなければという義務感と。
「そんなこと、ないです!」
廊下側の席を立って、広史が叫ぶ。
「伊部さんは伊部さんです! 関係ないです!」
しんとした空気の中、担任の塚本はこっそりとうなずいた。広史のフォロー能力は、学内一と評価している。
広史を見て、舞箏はとびきりきれいに、うれしそうに笑った。
「……ありがとう」
広史の顔がほっとする。完全に舞箏につかまってしまったとこの時は気付かずに、純粋に心から舞箏の笑顔を喜んだのだ。
「……そうだよな」
「ごめん伊部」
「カンケーないよな」
(あると思うぞ)
聡一の感想は横に置いて、とりあえず舞箏は再びクラスに溶け込むことを許された。舞箏の笑顔も、照れ臭そうなものに変わっている。一つ二つ、問題の芽は個人の胸に残されたままではあったが。
三時間目の授業は体育で、男子は百メートルと千メートルのタイムを計る。
「男ってわかっても、やっぱあんだけ美人だとちょっとドキドキするな」
「ちょっとな」
更衣室で舞箏の着替えが評される。広史は意識的に舞箏の方を見ないようにして着替えた。聡一はもとより、脇目も振らず自分の着替えを済ませてさっさとグラウンドに出てしまう。だから舞箏がちらちらと自分の方を見ていたとは知らない。
無駄な肉が一切ついていない聡一の体を観察した舞箏は合格点を付けていた。聞こえていたら何がだと言うところだが、聡一は無論準備運動に余念がない。
授業が始まり、出席簿順に次々とタイムを計る。舞箏は転校生なので、名簿の一番最後に名前があった。
「次、野原と本間」
広史と聡一は出席番号が続いている。体育以外でもよく二人組になることは多い。並んでスタートラインに立ち、旗が振られると二人同時に駆け出した。二人とも疾い。聡一が相手でなければ、広史はきっと相手の先を走れるのだろう。
「よし、野原十秒九〇、本間十秒〇三」
やっぱ超人だよ、と誰かが言う。広史は聡一に追いつこうと必死で走り、ゴール後膝に手を置いてはあはあと肩で息をしていたが、聡一は多少口で息をしていても、まるで涼しい顔をしている。
追いつけると思っている訳ではないが、聡一と走る度、広史は密かに挑戦しているのだ。
「コンマ〇二秒縮んだな」
うつむく広史の頭の上から不意に聡一が言う。広史は顔を上げた。
聡一は相手を賞賛する笑顔など、滅多に見せない。だが聡一は前回の広史のタイムを覚えていて、今回の頑張りを認めていた。それが広史の励みになると承知した上で、聡一は広史に笑いかけたのだ。
広史の真摯な態度を、聡一はいつも心地よく思う。
広史は聡一の笑顔の意味をよく理解した。それが聡一にも見て取れたので、自分を見上げる広史を置いて、すぐに千メートル計測の方へと歩いて行ってしまった。
百メートルの順番を待ちながら、舞箏は既に走り終わった聡一をちらりと見た。聡一は千メートルの順番を待ちながら舞箏を見ていた。新入りの走りっぷりを見ようと思ってのことだが、舞箏は勝手に照れて、本当は面倒臭いくせに張り切ってしまった。舞箏は最後に吉田という男子と走る。吉田は今まで一人で走っていたのだが、初めて誰かと走る相手が舞箏なので、少し緊張しているようだ。
「お、お手柔らかにな伊部」
「イヤ」
舞箏の即答に吉田がへ? という顔をする。
旗と共に走り出した。舞箏の加速が、ぐんと伸びる。舞箏は吉田を置き去りにして、あっという間にゴールした。
「伊部……十秒七八」
(なっ……)
舞箏は黙って自分を見る聡一にピースをして見せた。
「すげえな伊部!」
級友達が感心して叫ぶ。
「本間と野原の間か? クラス二位だぞ二位!」
「えへへえ」
頭に手をやり、照れ照れっとばかりに舞箏が笑う。でも疲れるからと、舞箏は千メートルの方では手を抜いた。
二百メートルのトラックを五周する間に、舞箏は何度もてれてれと歩いた。もちろん体育教師に怒鳴られる。
「こらあ伊部、真面目に走らんか!」
「だって長距離向いてないんですう」
追い抜きざまに腹でも痛いのか、と心配してくれる級友もいたが、舞箏は悪びれもせず、平気ヘーキと手を振るのだ。とうの昔にトップでゴールしてしまっている聡一は、イライラしながら舞箏を見ていた。
(何故真面目に走らんのだ)
確かに長距離と短距離の差はあるかもしれないが、それにしても明らかに、舞箏は力を抜いている。聡一の三倍もかかってようやく走り終えた舞箏に聡一は怒って尋いた。
「君は自分のタイムを知りたくないのか」
「え? 別に。だって疲れるのキライだもん」
答を聞いて、聡一はますます腹が立った。
四限目は数学だった。
「わかりませーん」
問題を当てられた舞箏の返答がこれだ。聡一は隣で聞きながらやはり苛々した。編入試験に通ってきたのなら、できて当然の問題なのだ。聡一はこのいい加減な級友を何とかしなければ、自分の平穏が乱されると考えた。
そして放課後。
「だから俺は部活に出るんだ」
「じゃあ待ってるから一緒に帰ろうよう」
「君が真面目に学校生活を送るなら考慮してやる」
「ええ? 何それ」
それには応えず、聡一は舞箏を置いて教室を出る。待ってよ、と舞箏は追いかけて、剣道部までついて来てしまった。
「入部する気か」
じろりと聡一が見ると、
「あはは、とりあえず今日は見学……」
舞箏は笑ってごまかした。剣道部員達は、あっ噂の美人転校生だ、と舞箏を見て囁き合った。それが聞こえたので舞箏はにこっと笑って愛想を振り撒く。舞箏の性別を知っていても、何人かが赤くなる。他の部員が舞箏の相手をしている間に、聡一はさっさと着替えに行ってしまった。背後から舞箏の呼ぶ声がしたが、振り向いてもやらない。
道着に着替えた聡一は、一段と凜として見えた。
胴や垂(たれ)はまだ着用していないが、無地の着物と袴姿が、素晴らしく板についている。きっと聡一のこの姿に憧れている女生徒は、何人もいるのだ。
舞箏の自分を見る目を、見とれていると解釈するには、聡一は自分を知らなかったし、恋愛ごとにも疎かった。気の毒に舞箏は、随分厄介な相手に本気になりつつあったのだ。
その時、ガチャガチャとスパイクで走る音がして、グラウンドで活動しているはずの野球部員が、剣道部のいる格技館へと駆け込んで来た。
「本間さん……!」
一年生の野球部員は格技館の入口にぺったりと両手をついて、泣きそうな顔で聡一の名を叫んだ。
「来て下さい、早く……!」
館内がざわめくより早く、聡一は裸足に外履きを履いて、一年生の要請に応えた。左手には忘れずに竹刀を握っている。舞箏はもちろん、他の剣道部員達も聡一達の後を追って出る。
グラウンドには幾重にも人垣が出来ていて、校門の方角に何かが起こっていることを示していた。聡一の姿を認めると、人垣は割れ、進路を譲るのだ。聡一は立ち止まることなく、作られた舞台へと進むことができた。
「……君、どこの生徒だね、馬鹿なことは止めなさい」
教頭の声がした。どうやら闖入者を説得しているらしい。
「うるせえ本間を連れて来い、本間聡一だ!」
聡一を呼んでいるのは闖入者自身のようだ。聡一には声に聞き覚えがあった。昨日の、体育用具室だ。
「本間に何の用だ!」
叫んだのは塚本だ。国語の教師だが、なりだけは体育教師のような男である。その横へすっと聡一が現れたのを見て、塚本は「出て来るな」といった声を出した。
「本間……」
「用があるのは俺のようなので」
聡一の姿を見て、闖入者……やはり昨日聡一に突き飛ばされた不良学生である……は、へへへと笑った。
「そうだよ、てめーに用があるんだ。わかってんだろ、<お礼参り>だよ」
人垣の中で舞箏は肩をすくめた。あの不細工な男がこんなに堂々とお礼参りにやって来るとは思わなかったという風である。
「何を訳のわからんことを言っとるんだ! うちの本間はそんなものを受ける覚えはないぞ!」
塚本は怒鳴ったが聡一は言った。
「心当たりはあります」
「何?!」
叫んだ塚本同様、教師達が驚いて聡一を見る。
「警告を無視した愚行の末の逆恨みではありますが」
淡々と話す聡一に、右手の木刀をずいっと向けて不良が言う。
「おい、勝負しろ。俺が勝ったらてめーの男(スケ)はもらっていくからな」
「……何?」
聡一は考えた。考えた。教師や生徒らギャラリーが驚いている間も考えた。わからないのでもう一度尋いた。
「何のことだ」
「ざけんな、昨日の、そこの美人(マブ)だ!」
怒鳴って不良は木刀の先を舞箏の方へ向け直す。指されて舞箏は両手を頬に当てた。聡一は理解したが、同時に頭痛も覚えた。
「何か誤解があるようだが……」
「誤解」と言い切られて、何だかがっくりした舞箏である。
「何でもいい、勝負するのかしねえのか! その気になるまで待ってたっていいんだぜ!」
手前で見ていた生徒達がびくりとした。不良は木刀を振り回した訳でもない。聡一は、不良を見たまま塚本に尋いた。
「……先生。あいつは何かしたんですか」
「ああ……お前が出て来るまで待つと言ってな。野球部の一年が一人、腕を折られた」
塚本は言いにくそうに口を開いた。言えばどうなるか、塚本はきっと知っていたのだ。
聡一は、静かに塚本に尋ねた。
「先生。生徒会規約十三条、発令して構いませんか」
周りで聞いていた、不良と舞箏以外の全員がぎくりとした。周りの空気を感じて、舞箏がきょろきょろとする。十三条は、聡一が生徒会長になってから定めた条項である。
「本間……」
聡一の顔を見ながら、塚本の口調はよせと言っている。遅れてギャラリーの中に駆け付けていた広史も、(本間さん十三条は)と思っていたのだ。だが聡一は言った。
「生徒会規約十二条……また緊急を要する場合に置いて学校側の指示が間に合わないなどして得られない場合、生徒会は独自の判断を下すことができ、また実行できる。……十三条、発令します」
「本間、」
おびえる生徒達を背後に感じ、塚本が呼ぶ。だが聡一は既に怒りの照準を敵に合わせていた。闖入者の彼は、聡一を怒らせてしまったのだ。
「たった今、生徒会規約十三条により、生徒会長権限を行使します。自治自衛を脅(おびや)かす相手に対し、<全力をもって>対処します」
「よせ本間、相手を殺すぞ!」
「それも仕方ないでしょう」
「本間ああ!」
広史も駆け寄り、聡一に叫ぶ。
「いけません会長! 相手は普通人です!」
「……野原くん、それはどういう意味かね?」
内輪で騒ぎ始めた聡一らを見て、不良はイライラした。
「……うるせえ! まだ待たせるんなら手近な奴を……」
キャアーッと悲鳴が上がった。不良の木刀が振り上げられ、一番側にいた生徒を襲うかと思った。広史が思わず目をつぶりそうになった時だ。
聡一が、ふいっと動いた。左の腰の高さに持っていた竹刀を、動くと同時に右手が掴み、一瞬の内に剣の握りをして飛ぶように不良との距離を詰める。横に構えられた竹刀はダン、と強く踏み込むと同時に瞬速で不良の腹を抜け、聡一の正面に払われた。
胴一本。
「ぐあ……」
不良は、腹を押さえて尻もちをついた。
聡一が言い渡す。
「――失せろ」
(……凄い)
こんな時だというのに、広史は聡一の技に目を奪われた。
うずくまる上から聡一の冷眼に見下されて、不良はプライドを捨てた。
「ちっ……ちくしょう! お前ら手伝え!」
不良は校門の外に、仲間を伏せていたのだ。おおと喚いてなだれ込んで来る不良の数は、二十人近くいた。
(……ああ)
いくら聡一でも、と広史が思う。
「本間、もういい! 警察を呼ぶ」
「塚本先生、一般生徒の安全確保をお願いします」
「おい本間……!」
竹刀を構えて進んでいく聡一に塚本が叫ぶ。
「お前だって生徒なんだぞ! そりゃ生徒会長でその他もちょっとばかり一般離れはしているが!」
言われた訳でもないが、広史はグラウンドに出ていた生徒達を校舎内に誘導する。それがこの場での自分の仕事だと思ったのだ。だが塚本の声に振り向くと、何といつの間にか舞箏が加勢しているではないか。
(いっ……伊部さん?!)
ギョッとした広史は、乱闘の煙の中に飛んで行く。
「無茶です、止めて下さい本間さんも伊部さんも……!」
叫ぶ側から聡一は一人、また一人と竹刀で不良学生どもをのしていく。舞箏も、意外なことにケンカは強かった。
「何でわかんねーんだよ、比べりゃそりゃ本間くん(こっち)の方がいいだろ!」
昨日の不良はどうやら舞箏に言い寄ったらしい。舞箏はこっぴどく振っていた。
「くっ……この」
可愛さ余って、というところだろう、不良はギリッと舞箏を睨むと、舞箏の頭と肩をがしっと掴んだ。
「あっ」
舞箏の体がみしっと音を立てた。圧倒的な力の前では、舞箏の体は細く脆い。舞箏の顔が痛みで歪む。
「あっ……痛つ……っ」
(伊部さん!)
思った途端体は自然に動いていて、広史は舞箏を捕まえる不良を拳で殴っていた。
「あ……」
やってしまった、と自分の手を見る。
「んだこのやろう……」
不良が舞箏を放し、広史の胸倉を掴む。
「野原くん!」
舞箏の声を聞く前に、広史は<対処>してしまっていた。胸倉を掴む相手の腕を取り、体を反転させて背中から懐に潜り込む。不良の体は宙に浮き、広史を越えて地面にズシンと叩き付けられた。一本背負い。
(ああっやってしまった……)
広史は、柔道部員だった。
もうこうなったらやるまでである。
人数入り乱れた乱闘が続き――といっても聡一と広史の技は美事なものだったのだが。剣道と柔道のインターハイ・レベルの美技がこんなところで披露されているのだ――不良の元気が半分以下になった頃、突然の水入りで聡一達も不良らも動きを止めた。
「お前らいい加減にしろ!」
長い長いホースの先を握りしめた塚本が怒鳴る。乱闘していた全員が、ずぶ濡れになっていた。
「先生……」
凄い飛び道具だ。
「お前らこれ以上南丘(うち)で暴れるようなら、警察呼ぶぞ。未成年だからって甘えてると容赦せんからな!」
言うと同時にまた勢いよく放水する。水勢と傷が濡れて痛いのとで、不良どもはようやく撤退を決心した。
「ちくしょう、覚えてろよ」
「ばかモン、覚えとったらお前らブタ箱行きだ」
塚本の声に送られて、不良達は退散した。塚本は後ろにいた自分のクラスの生徒に、おいもういいぞと水を止めさせた。水道の蛇口は随分遠かったので、ホースの口から水が出なくなるのには少し時間がかかったが。
「さて……」
塚本は、濡れた猫のようになっている教え子達を見た。ぺっとりと濡れて、水を滴らせた姿で塚本を見ている。
広史はこんなことになった原因が何かは知らなかったが、聞こえた会話から、舞箏が関わっていそうだということはわかった。舞箏は何と言ってよいかわからぬように、頭をかいて突っ立っている。自分も何を言うのが適切なのかはわからないのだが、広史は舞箏を庇わねばと思い、塚本の前に進み出た。だがそれは二歩も進めはしなかった。聡一の竹刀が、広史を阻んだ。濡れた姿で真っ直に塚本を見ていた聡一は、自分の後方にいた広史を右手の竹刀で止めると、竹刀を左手に持ち替えて下に降ろし、すうっと静かに頭を下げたのだ。
(……本間さん)
聡一を、広史は目を見開いて見た。
塚本も舞箏も、驚いてまるで呆れたように聡一を見ている。
聡一の潔い姿は、十三条を行使した生徒会の代表は自分なのだと言っている。聡一の髪から落ちた滴が、肌をつたって濡れた着物に吸い込まれた。
塚本は目の前の出来すぎた生徒に、何も言えなくなってしまった。
「……わかった。後で本間だけ職員室に来い。後の者については不問に付す」
「先生、」
「本間の気持ちを無駄にするな、野原」
「……っ」
広史はそう言われると、自分も同罪ですとは言えなくなった。塚本はホースを巻きながらすたすたと校舎の方へと戻り、聡一も何も言わずに体を拭く為に格技館へと行ってしまった。
広史はぽつんと立ちながら、やはり行ってしまった聡一を見送って突っ立っている舞箏の方を見た。舞箏は、随分悲しそうな顔で立っているのだ。聡一が何も言わずに、振り向きもせず行ってしまったことで、見捨てられたような気分を味わっているのだろう。
「ほら野原タオル……拭けよ。伊部くんも」
「あ……ありがとう」
広史と同じ柔道部の仲間が、スポーツタオルをわざわざ持って来てくれた。舞箏は受け取ったタオルを口元に当てて、聡一が消えた方をしゅんとして見ていた。広史は顔を拭きながら、聡一の処遇はどうなるのだろうか、万一罰せられるようなことになったら、と思案していた。
「失礼します」
体を拭いて制服に着替えて来た聡一が、職員室に塚本を訪ねた。
「お……来たな」
塚本は吸っていた煙草を灰皿でもみ消し、聡一を伴って職員室隣の相談室に入った。
「ま、座れ」
聡一に椅子を勧め、自分も座る。塚本は話し始めた。
「ケガはなかったか」
「はい」
「そうか」
塚本はぽりぽりと鼻の頭を掻いて尋ねた。
「お礼参りとやらに、心当たりがあると言ったな」
「はい」
聡一は真っ直に塚本を見ている。罰せられることなどしていないといっている。だが、塚本も立場上、訊かない訳にもいかない。
「逆恨みと言っていたのは、どんな内容だ」
「彼が南丘の校舎内に無断で入って出て行かなかったので、一太刀あびせました」
「……」
明らかに情報が欠けている。その程度のことで素人相手に剣を振るう聡一ではないのだ。
「昨日のことだったな。伊部がいなくなってたことに関係あるのか」
「無関係です」
それは嘘だと、塚本にもわかった。見るからにあの不良学生は、舞箏にひどく執着していたではないか。それに、舞箏を聡一の恋人か何かと勘違いしてなかったか?
「……本当か?」
「事実です」
聡一は無表情に、何の動揺も見せずにきっぱりと言い切る。それなら、きっと無関係だとした方が良い状況になる理由が、聡一ではなく舞箏の方にあるのだろう、と塚本は判断したので。
「……わかった。この件はこれ以上突っ込まん。……しかし例の十三条を決めた時は、使うのはひどい災害か戦争でも起こった時だと思ったがな」
「どちらも当てはまりますよ」
事もなげに聡一は言う。十三条とは、平たく言えば生徒会長の判断で、外部からの圧力に対する抵抗ならば何をしても学内では合法とする、という主旨である。強力で完璧に近い聡一が生徒会長であるからこそ通った条文と言える。暴君や馬鹿殿には決して持たせられない法律だが、怒った聡一がそれらの専制君主より余程恐い存在であると、塚本はようっく知っていた。
だが彼は、この生徒会長を確かに信頼しているのだ。
「……行ってよし。十三条に助けられたな、本間」
「十三条がなければこんなことはしません」
この聡一の言葉に、今一つ信憑性を感じられないと思う塚本だ。
失礼します、とドアを出ていく聡一を、塚本はもう少しお手柔らかに学内の平和を守ってくれよ、と考えながら見送った。
「本間さん」
相談室から出て来た聡一を、広史と舞箏が廊下で待っていた。
「……なんだ、何をしてる。用は済んだぞ」
「塚本先生は何て言われたんですか」
広史が心配気に尋ねる。聡一は平然と。
「何もない。何の為の十三条だ。用はそれだけか? なら俺はこれから部活へ行く」
「一緒に帰ろう」
「……」
「待ってたんだ」
きびすを返した聡一に舞箏が言う。まるで何の反省もしていないような口調だった。ふるふると、聡一の拳が震える。目聡く見つけた広史が、慌ててフォローを入れる。
「あ、あの、伊部さんは本間さんに話があるって……だから待ってたんですよね?」
「ほう、話? 聞く耳はもたんが文句を言う口ならあるぞ。とてもここでは言えんような文句だがな」
言うと聡一は舞箏を見もせずに行ってしまった。広史は聡一を呼び止めることもできず、舞箏にかける言葉も見つからないまま、舞箏が聡一とは逆の方へ行ってしまうまでそのままそこに突っ立っていた。
そして塚本は相談室の中で聞いていた。思い切り舞箏が関係していることを匂わせる会話だったが、不問に付すと約束したからには、聡一に任せると決めていた。
竹刀を振っていても、聡一はどうにもすっきりしない。部活動が終わり、格技館に鍵がかかって締め出されても、聡一はまだ校舎の外で、素振りを続けていた。
(……くそ)
舞箏(あいつ)のせいだ、と思う。こんなに苛々させられる相手は、初めてだ。
「……本間さん」
広史が、声をかけた。まだ帰っていなかったのだ。聡一は竹刀を振る手を止めて広史の方を向いた。
「……なんだ」
「……あの」
広史の顔が、出すぎたまねで済みません、と言っている。広史はあれからすぐに声をかけずに、今までずっと迷っていたのだ。
「伊部さんが本間さんに何をしたかは知りませんけど、本間さんだけが職員室に呼ばれている間、伊部さんは本当にしゅんとしてたんですよ」
「……」
本当にお節介な人種だ、と聡一が思う。あちらもこちらも何とかしたいと思うのだろう。
「だから、明日は話、聞いてあげて下さい」
(奇特なものだな)
聡一は、広史に一目置いている。それは運動能力や学業の他にも、理由はあるのだ。
「……ある人物を見ているとイライラしてしようがない。どうしたものかな」
「は……」
聡一が話してみることにした苛々する相手とは明らかに舞箏であるとわかったが、広史は個人名には触れなかった。
「……そうですね。苛々すると言ってもいろいろあると思いますけど……例えばその人を嫌いな場合は存在そのものが不快だし、そうでない場合、例えば親が子供の拙いやり方に、もっと方法があるのにといらつくこともありますよね」
(親?)
聡一はその例えにほんの少し眩暈を覚えた。
「でも間違いないのは、その人にこうあって欲しいという理想像というか、望ましい姿を期待してることでしょうね。少なくとも自分の目の前にいる限りはそうであって欲しいと……嫌いでどうでもいい人なら、会わずに見限れば苛々もしません……と思いますよ」
広史は、偉そうで済みません、と言葉をしめた。
「いや……」
聡一は舞箏を、自分の思う姿になり得るはずだと、評価しているのだ。
「……参考になった」
聡一は広史に礼を言って、鞄や竹刀を手にグラウンドを後にした。
その一方で。
同級生でありながら聡一に意見できる唯一人である広史は、帰る聡一を見送りながら、舞箏のことを考えていた。
(――これで明日、本間さんと伊部さんが仲直りしてくれればいい)
すっかり日が沈んだグラウンドに立って、こう思うのだ。にこりと自分に笑いかけた、舞箏のあのきれいな笑顔をまた見られればいいな……と。
「だって、寝坊したんだもん」
夕べなかなか眠れなかったせいなのだが、昼休みに登校して来た舞箏は、何故遅れて来たと聞いた聡一にぷうと口を尖らせて言ったのだ。聡一は、舞箏が昨日怪我をしていたか何かで病院に行って、それで遅れたのかと思ったのにである。
「……ほう?……」
静かに聡一が相槌を打つ。それでもまだ理由が続くかと、聡一は待ってやったのだ。だが舞箏はそれ以上言わない。寝坊は寝坊。不服そうな顔をして、聡一をじっと見ている。
聡一が怒っていると、まず気付いたのは広史だ。しかしそれはすぐに、クラスの誰もがわかることになった。聡一はにわかに眉間にしわを寄せると、堪忍袋を放り投げ捨てた。
「君にはもう見切りをつけた、級長として君の面倒を見ることは金輪際しない! 野原くん」
「はっはいっ?」
「席を元に戻す、こっちに来たまえ。伊部(こいつ)の席は廊下にでも出せ!」
舞箏はあまりの出来事に、目をぱちくりとさせて立っていた。
ちょっと待って下さいそれはあんまり、と広史は言おうとした。だがそれよりもぶわっと涙を流した舞箏が聡一に抱きつく方が早かったのだ。
「お願い、いい子にするから傍に置いて!」
教室中がびっくりした。聡一も仰天というより呆れて、すがり付く舞箏に離れろと怒るのを忘れた。
(何だこいつは……?)
舞箏は本気で泣いているのだ。
(見切られたのがそんなに悲しかったのか?)
自分の学生服に顔を押しつけておんおん泣く舞箏を、聡一は呆れて、もてあまし気味に眺めた。
広史もショックを受けていた。舞箏は聡一を好きなのだ。どんな風にかはわからないが、とにかく泣く程好きなのだ。わかっていたけれど、そのことにショックを受けている自分がまたショックで、広史は茫然と聡一と舞箏を見ていた。
五時間目は国語の授業で、教室に入って来た塚本は、聡一の机に自分の机をくっつけてまだひくひくといっている舞箏を見た。
「……本間、何泣かしとるんだ」
塚本の言葉に、泣かせようと思って泣かせた訳じゃない、と考えた。
(いい子にするから、だと?)
舞箏は授業も聞かずに、頻りにこっそりと聡一に話しかけて来る。やれば出来るはずなのに、舞箏のやる気はまるで<むら気>だ。机を聡一が離しても、舞箏はまたすぐにくっつけて、えへへえとうれしそうに笑うのだ。
(……どの辺が、いい子なんだ)
可愛らしい笑顔で、聡一を覗き込んで舞箏が言う。
「今日一緒に帰ろ?」
「……」
聡一はやはり舞箏に苛々させられている。
終