「仲良きことは、その後」

・『仲良きことは、』第2話、です。

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「もうやだ――ッ!!」
 叫ぶなり竹刀を放り出したのは伊部舞箏(いべ まこと)。
「こら! 待たんか!」
 逃げる舞箏を怒鳴りつけたのは本間聡一(ほんま そういち)。
 場所は男子剣道部の活動場、学校敷地内の格技館。怒鳴り、舞箏の出て行った格技館の入口を睨みつける聡一は剣道部主将。ついでに言うとここ南丘(みなみがおか)高校の生徒会長であり、二年四組の学級長でもある。文武両道に秀で、教師生徒に信望厚く、おまけに見事に整った怜悧な面(おもて)をしている。その彼がいらいらしながらも舞箏の相手をしている訳は。
 舞箏は一週間程前に聡一の二年四組に転入して来た。その明るい性格と美人としか言いようのない容貌であっという間にクラスに馴染んだ。だが、学業的にも運動能力的にも聡一と互角なものを持っているにも関らず、舞箏はまるで真剣に取り組もうとしなかった。
「えー、めんどくさいもん」
と舞箏は言う。
 ちゃらんぽらんな性格は、尻の軽さにも表れた。転入日早々、舞箏は余所の不良学生を「セックスが合いそうだったから」と体育用具室に連れ込む所業。それを聡一が見つけてしまい、不良学生は追い払われたのだが、それがきっかけで舞箏は聡一に惚れ込んでしまった。いきなり自分の唇を奪った舞箏に聡一が好印象を持つはずなどなく、それでも学級長として生徒会長として乱闘騒ぎまで起こして舞箏の面倒を見ていたが。
 舞箏のちゃらんぽらんは、一向改まる様子はない。
 彼には精神修養が必要だ。そう思い舞箏に剣道の手ほどきを始めた聡一だが、三十分ともたずに舞箏は逃げ出した。
 「いい子にするからそばにおいて」とは、聡一に見捨てられかかった時に言った舞箏の台詞である。
 ぐっと聡一はこらえていたが、周りの剣道部員達は、十二分に彼らの主将の怒りの波動を感じ取っていた。聡一は美男子だ。舞箏とは違うタイプの美形である。だが怒っている時はきれいより何よりただ恐い。舞箏が怒っていても「怒った顔もいいなあ」などと言う輩がいるだろうが、聡一の場合はひたすら恐い。完全主義で自らもこなしてしまう聡一は、普段から居るだけで周りが居ずまいを正すような緊張感を持っているのだ。彼らが責められる訳ではないのだが、居合わせてしまった部員達の憐れなるや、である。
 一方、逃げ出した舞箏。
 借り物の袴姿で、素足に運動靴を引っかけてグラウンドをぶらぶらと歩いている。着ている着物は剣道部の予備の練習着で、聡一のものでないことに少しがっかりしている舞箏である。
 既に校内の有名人になっている舞箏は、そうでなくても美しい容姿、外で活動中の生徒達が通る舞箏を振り返る。舞箏は見られるのは慣れたもので、一向気にせず聡一のことを考えていた。
(本間くん怒ってるかなあ……怒ってるよなあ)
 せっかく聡一が誘ってくれたことを放り出してしまったとちょっと後悔しながら、でもでもと思う。
(俺初心者なんだぞ。もうちょっとやさしく懇切丁寧に、手とり足とり腰とり……教えてくれたって)
 勝手なことをぶつぶつと呟く。確かに聡一は優しい指導者タイプではないのだが。
「あっ……伊部さん」
 通りすがりに同級生の野原広史が嬉しそうに声をかけてきた。
「あ、野原くん。柔道部だっけ、これから行くの?」
 舞箏が知っていてくれたのが広史には嬉しかったのだろう、人の良さそうな顔をあふれんばかりの笑顔にして、力一杯にうなずいた。
「はい! 今日当番だったんで……伊部さんはその格好、剣道部ですよね。本間さんに教えてもらってるんじゃなかったんですか」
 はあああああ――と、舞箏は長い長い溜め息をついた。
「……伊部さん?」
 広史が、途端に心配そうな顔になる。
「それだけどさあ、野原くん……本間くんて、サドっ気ある?」
「はっ?」
 言ったきり、二人暫く黙り込んでしまった。舞箏は両手で頬を押さえ、はあとまた溜め息をついている。
「え……ええと……そんなことはないと思いますけど……?」
 舞箏の意図がわからないのだろう、広史は探るような口調で否定しつつ尋ねた。すると舞箏は目を閉じて、本間くんやさしくない、と呟くのだ。広史は「ああ」と思い至った顔で、やんわりと笑顔で舞箏に言った。
「確かに厳しい人ですけど……本間さんは優しい人です」
 舞箏が目を開けて広史を見る。
 広史は聡一を尊敬している。広史自身も聡一に一目置かれている、生徒会の書記だ。聡一に対して余計な緊張なしに喋れる、数少ない一人である。
 広史は舞箏を女だと思って一目惚れしてしまった。舞箏が男だとわかってもその気持ちを消せないでいる、気の毒な奴だ。
 そのせいかどうか、広史は聡一と舞箏には同学年であるに関わらず、丁寧語で話してしまう。それはそれで変わっている。
 舞箏の視線が広史に据えられてから暫くして、広史はあたふたと言葉を継いだ。
「あ、あの、だから、本間さんは……伊部さんのことを嫌いな訳じゃ、決して」
「……うん。だといいな」
 うっすらと舞箏が笑む。
 広史はこの聡一を思ってのきれいな笑みを、少し悲しそうな顔で、じっと見つめた。
 広史は以前聡一から、舞箏が気になると打ち明けられたことがある。舞箏が聡一を好きだというのは、見ていればわかる。でも広史はこの二人ともが好きだ。仕方がない。
 広史の言う聡一のやさしさに、舞箏も思い当たらない訳ではない。聡一は舞箏を黙って守った。舞箏をかばうことで、己の立場が危うくなる場面でも。ただ、聡一は舞箏でなくてもそうしただろうと思える。それが舞箏には、心許ない。
「……制服、置いてきちゃった」
「戻って、本間さんと練習続けますか」
 広史の笑う顔を見て、舞箏はうーんと考えた。
「本間くん怒るし……竹刀握るの厭きたし、めんどくさいし、いいや。今日このまま帰る」
「……え、袴で、ですか。服や鞄は?」
「めんどくさいから置いてく。このカッコ、ヘン?」
「いえっ……」
 力一杯広史は叫んでしまう。
「似合ってます!」
「あはは、ありがと。野原くんて正直だから好き」
「!」
 広史は瞬速で真っ赤になったが、舞箏は気付いてもやらずに、「じゃーね」と手を振って背を向けた。


(全く……制服や鞄を置いて帰る奴など俺は知らんぞ)
 聡一は舞箏の家を訪ねていた。とうとう戻らなかった舞箏の荷物を持って、部活終了後、担任の塚本に舞箏の家を尋いてやって来たのだ。聡一の家とはまるで反対の方角だった。初めて来る町だということもある。聡一は舞箏の家を知らなかったのだ。この近所では知らぬ者のないらしい純和風の家屋が、今聡一の目の前にある。周囲の家に比べたら、大きな屋敷だ。
(三味線の音……?)
 表札を確認する前に、弦を弾く音が細く聡一の耳に届いた。『伊部』と書かれた表札の横に、こちらも達筆による看板のような大きな札がかかっている。『伊那佐流宗家(いなさりゅうそうけ)』とある。
「舞箏さん!」
 聞こえた呼ぶ声とバタバタという足音に、表札から目線を上げる。
「お母さんが蔦の間でお待ちかねです、どうぞお部屋に……」
「今日は疲れてるんだってば!」
 門から五メートル程奥の玄関に叫んで現れた舞箏は、一歩踏み出したところで外の聡一に気付いた。
「きゃ……」
 後ろから追って来た着物姿の若い女性が、立ち止まった舞箏にぶつかる。
「いたた……舞箏さん?」
 ぶつけた鼻を触る彼女も、すぐに聡一に気が付いた。
「あら……どちら様でしょう」
 聡一は女性の言葉には答えず、不機嫌な声でこう言った。
「明日、どうやって学校に来るつもりだった。この大馬鹿者」
 聡一の左手には聡一の鞄と袋に入った竹刀。右手には舞箏の鞄と、舞箏の制服を入れた紙袋があった。
「本間くん……持って来てくれたの?」
 私服のシャツとズボンに着替えた舞箏が、茫然半分、喜び半分の声を出す。赤いリボンで髪を束ねた女性は、舞箏の後ろで舞箏と聡一の様子を見ていた。どことなく舞箏に似た顔立ちをしているが、男の舞箏の方が数倍美しい。聡一が舞箏に歩み寄った時、彼女は口の中であら、と言った。
「練習着は洗って返せ。部の備品だ」
 聡一が突き出す右手のものを受け取って、舞箏はきまり悪気にうん、と呟く。聡一は舞箏の後ろの女性を見ると、すうっと頭を下げてこう言った。
「失礼しました。帰ります」
「あらっ」
 聡一はそのまま門を向いて帰ろうとした。
「お待ちになって、本間さまとおっしゃるんですのね、どうか、お上がりになって」
 慌てて引き止められ、聡一は立ち止まって振り向いた。
「舞箏さんのお友達なんでしょう? ぜひ上がって頂かなければ。そうだわ、舞箏さん、本間さんに見て頂いたらよろしいのよ。私、お母さんに知らせてきますね。ささ、本間さまどうぞ。舞箏さんご案内よろしく」
「ちょ、ちょっと揚羽(あげは)さん?!」
 ポンと手を打ち、得たりとばかりに一人喋ると、揚羽は自分が追いかけてきたはずの舞箏を置いて、さっさと玄関の中に入って行った。
 残された舞箏は、揚羽の消えた方を見て、そして困った顔で聡一を振り向いた。
「君が踊るのか?」
 途端、聡一に問われて尋き返す。
「え?」
「門のところに『伊那佐流宗家』とあった。日本舞踊だと思ったが」
「……うん。日本舞踊だけど……」
「……だけど?」
 舞箏はきまり悪気に頭をかいた。
「ここんとこ練習してないから、あんまり見られたくない」
 視線を外して言う舞箏に聡一は尋ねる。
「どれくらい練習してないんだ」
「え? 二日程」
(ほう……)
 聡一はそう聞いて、にっと笑った。
「それは是非見てみたい」
「えっ……」
「困るか?」
 いい加減な舞箏が練習してないと言うからどれだけかと思えば、たったの二日だと言う。聡一は興味を引かれた。
「本間くんが見るんなら、俺張り切っちゃうけど……」
 聡一の笑顔は、そうそう拝めるものではない。照れ臭そうにえへへと笑って、舞箏は聡一を玄関に入れた。
 板張りの廊下を舞箏と聡一が歩いていると、向こうの襖が一枚開いて、揚羽が顔を見せた。どうやらそこが蔦の間らしい。
「あ……ちゃんといらしたわ。よかった」
 揚羽に促されて聡一が部屋に入る。後から入った舞箏が襖を閉めた。中は床も壁も板張りで、聡一は剣道の道場を想起した。四十前だろうか、髪をきつく結い上げた和服姿の美しい婦人が一人、部屋の隅に正座していた。
「……まあまあ、何でもうちの馬鹿息子の荷物をわざわざ届けて下すったそうで……」
 座ったまま、婦人はひざを聡一の方に向けた。
「舞箏の母の三恵(みえ)でございます。舞箏(これ)がお世話かけました」
 三恵が三つ指をついて聡一にあいさつをする。聡一はわずかに膝を開いた形で静かに正座をすると、軽く拳を足に置き、三恵に対して頭を下げた。
「本間聡一です」
「……まあ本当ね、揚羽さん」
 三恵がうれしそうに言う。
「本当に美しい居ずまいですこと」
「そうでしょう、お母さん。私、ただ歩く姿を見ただけで、あらっと思ったんだもの」
 怪訝に思った聡一は、横に座った舞箏を見た。
「……君は一人っ子と聞いたが?」
「あ、えっと揚羽さんは遠縁……いとこより遠いの何てんだっけ」
 くすっと笑って舞箏の言葉を揚羽がさらう。
「舞箏さんとは<はとこ>です。母がおりませんので、三恵さんをお母さんと呼ばせて頂いてますの」
「……そうでしたか」
 特に感慨も見せずに聡一は言う。
「舞箏、何座ってるんだい。聡一さんにお見せするんだろう」
「あっうん、じゃあ」
 舞箏ははっと立ち上がると、今入ってきた襖を開けて出て行った。
「シャツにズボンで踊れなくもないんですがねえ」
 三恵が親し気に聡一に笑いかける。
「聡一さんは見たとこ、かなり剣道をやっておいでのようで」
 聡一の横に置かれた竹刀の袋は特に古びてもいない。聡一の身のこなしが、三恵の判断基準だ。
「初めて竹刀に触れたのは十五年前です」
「おや……」
 三恵が呆れたように目をしばたかせる。
「かれこれ二歳の時から、ってことですかえ」
「もっとも、その頃には竹刀を抱えているだけでしたが」
「上達するわけだ」
 三恵は、二言三言で随分聡一に打ち解けた。聡一の薄い笑顔に、にっこり笑ってうなずき返す。
「時にご兄弟は何番目?」
「? 三番の末子ですが」
「まあ、それはよろしいこと」
「おまたせ」
 襖が開いて、舞箏が戻って来た。舞箏は薄い色の浴衣のような着物を着ていた。どうやらこれが踊りの練習着らしい。三恵が、置いてあったカセットデッキの電源を入れた。
「お唄も音もテープで済みませんねえ」
 舞箏は部屋の中央に進み出ると、くるりと聡一の方を向いた。
「本間くん、ほんとにここんとこ踊ってなかったから」
「見苦しいね、何を言い訳しておいでだい。すみませんね聡一さん。この放蕩息子が宗家(うち)の跡取りなんですよ」
 三恵に言われて舞箏がふくれる。
(……ここ二日踊っていないのは、俺が剣道につき合わせたからだ)
 舞箏に何か一つ真剣に取り組ませようと、剣道部を見学させたり剣についての講釈を聞かせたりした。舞箏は剣道そのものよりも、聡一と一緒にいることを楽しんでいるようだったが。
(つまりは毎日踊っている訳だ)
 伊那佐流は日本舞踊三大宗家の一つ。その跡取りというのなら、それこそ二歳の頃から、かなり鍛えられていて然りだ。
 やがてテープが音を流し出した。
「『鏡獅子』はご存じですか?」
 邪魔にならぬ声で、揚羽が尋いた。
「……名前だけは」
 聡一の答に揚羽は微笑む。
「今から舞箏さんが演(や)るのは大奥のお小姓の少女です。第九段まで通し稽古なさるそうですから、ちょうど獅子に取り憑かれるまでですわ。『鏡獅子』を十代で踊れる方は、滅多にいませんのよ」
 三恵は厳しい目で舞箏を見ている。だがどこか誇らしげにも見える顔だ。
――樵歌牧笛(しょうかぼくてき)の声、
  人間万事様々に、世を渡り行くその中に。
  世の恋草をよそに見て我は下萌(したもえ)くむ春風に、
  花の東の宮仕え、忍ぶ便りも長廊下。
 舞箏は正面に向かって、手をついてお辞儀をしていた。ゆっくりと、その顔が上がる。
(―――……)
 そこにいるのは、もう舞箏ではなかった。将軍に所望されて踊る、お小姓の少女、弥生だ。舞箏はもともと美少女のような顔をしている。だがこれはそんなものではない。聡一は日本舞踊を見るのは初めてだ。詳しいことなど何も知らない。だがわかる。舞箏は美しい衣装も化粧もなしに、『世界』を作り出している。舞箏の指の一本一本が、計算され尽くした動きをしている。伏し目がちな目が開くに従ってゆっくりと動く睫毛もまた。だがそこには、わざとらしさのかけらもない。あるのは、統合された『美』だ。
 舞箏の大きな瞳には、いつもの悪戯そうな光はない。妖しい、清純な、何か他のものに例えるのが難しい、踊る魔物の色気があった。手足、首、腰。すべての部分があどけなく、また艶っぽい表情を作る。まるで現実のものではない。そんな気さえしてくる。
――見るたびたびや聞くたびに、憎てらしほどの可愛さの。
  朧月夜や時鳥(ほととぎす)。
――時しも今は牡丹の花の、咲くや乱れて散るは散るは。
 舞箏はいつの間にか小姓の弥生ではなくなっていた。恋想う女。牡丹の精。
 いやまた弥生に戻るのか。
 牡丹の花は、花に見とれる弥生となって、扇を口に当てて静止した。・・
(……っ)
 不意に聡一の目に、化粧をし、かつらを被り本番さながらに衣装をつけて踊る舞箏の姿が見えた。
 ぎょっとして目を凝らすと、目の前では素顔で練習着の舞箏が踊っている。
 一瞬垣間見た幻と何も変わらぬ美しさで。
 美しいのは衣装ではない。舞箏だ。
(――参ったな)
 聡一は静かに一人ごちた。
――世の中に絶えて花香のなかりせば、我はいづくに、宿るべき。
  浮き世も知らで草に寝て、花に遊びてあしたには、
  露を情けの袖枕、羽色に紛う物とては、我に由縁の深見草、
  花のおだまき。花のおだまき繰り返し……

 舞箏は困った顔で、聡一と玄関にいた。舞箏が踊り終わった後、聡一は無表情で「良いものを拝見しました」と三恵に一言いったきり、舞箏には何も言わずに退室したからだ。舞箏が玄関まで送って来たが、聡一は全く口を開かない。気に入らなかったろうかと不安になって、舞箏は靴を履いた聡一に尋ねた。
「……俺のことキライ?」
 剣道の練習を放り出したことも舞箏の不安になっていた。聡一にとって剣道は、きっと大事なものであるはずだから。
 聡一は顔を上げると舞箏を見た。すると無表情のその顔が、ほんの少し笑顔になった。
「キライじゃない」
(……本間くん、怒ってない)
 舞箏は今日二度目に見る聡一の笑顔にすっかり嬉しくなって、はしゃいだ声で追加質問してしまった。
「じゃあ、好き?」
「……」
 途端に聡一は無表情に戻り、舞箏にくるりと背を向けて玄関を出て行った。
「ああっ本間くんっ」
 未練たっぷりに舞箏が叫ぶ。聡一はお構いなしに門を出て、振り返ってもくれなかった。
「お前もヘンな病気うつされる前に、ああいう堅い人に落ち着いてくれれば、少しは安心なんだけどねえ」
 いつの間にかついて玄関まで出て来ていた三恵が、舞箏に話しかけた。
 きれいで才能もある、という跡取りとしては申し分のない一人息子の舞箏を、蝶よ花よと育て、踊り以外は好きにおし、と放任してきたのは三恵である。三恵は聡一が気に入ったようだ。にっこりと笑ってこう付け足した。
「いい男じゃないかえ。舞箏のおムコさんになってくれたらねえ」
「……かーさん俺、男」
 冗談めかしているが、母の場合これは九割方本気だと、舞箏はわかった。でもそれはそれでうれしいかもしれない、と思うあたりが親子である。
「なに、跡継ぎは揚羽さんが産んでくれる」
 母のお気楽な暴言に、舞箏は心配になって尋ねた。
「ちょっと待ってよ。種は誰が仕込むの」
「そりゃあ宗家筋ってたら舞箏(おまえ)だねえ」
 すごく嫌。
 同時に思った。
(本間くんが仕込むよりはマシだけど……)
 怖い考えになって、舞箏はあまりの嫌さに涙ぐんでしまった。三恵は驚いて撤回する。
「な、泣くことがあるかえ。そんなに嫌ならさせやしないよ」
 ぐすんと鼻を鳴らしてあらためて思う。
(……うん。俺本間くんのこと好きだ)
 聡一が誰かとナニかすると思っただけで涙が出た。舞箏は、三恵に言われるまでもなく、聡一に惚れてからは誰とも遊んでないのだが。
 本間くんに好かれるように、いい子にしよう。
 剣道も頑張った方がいいのかなあ。恋する舞箏は健気に思った。


 すっかり暗くなった道を聡一が家に辿り着く頃には、二人の兄が勤めから帰って来ていた。
「どうした聡一。いつも定刻通りのお前が」
 聡一の次兄、太一(二十七歳)が尋ねる。本間家では父と次兄の太一が警察関係者(父は警視、太一は警部補である)だ。
「楽しそうな顔をしているな。何かあったのか」
 長兄の守(三十歳、大学教授)が尋いた。一見無表情の聡一の顔を、さすが守は読むことができる。十以上も年の離れた末の弟を、守はまるで親のような気分で可愛がってきた。
 守に言われ、聡一がわずかに笑む。
「……きれいなものを見て来ました」
「……ほう?」
 守がうれしそうに尋ね返す。だが聡一はそれ以上言わず、鞄と竹刀を持って自分の部屋へと行ってしまった。



 舞箏はあらためて「いい子にしよう」と決めた翌朝、早速寝坊をして学校に遅れた。家の者は舞箏の寝起きの悪さを知っているので、無理矢理起こそうとする者はとうにいなくなっている。
(遅れたもんはしょうがない)
 舞箏は舞箏でそんな考えなものだから、十時も回った朝の道を、てれてれと歩いて登校している。
 歩く先に、覚えのある影が見えた。
(あれ……)
 舞箏がげっと思う先に、向こうも舞箏に気が付いた。どうやら舞箏を待っていたらしい。含み笑いをして寄って来る。
 転入日早々に舞箏が体育用具室に連れ込んだ不良学生だ。学内の平和を守る聡一に散々痛い目に合わされたくせに、まだ舞箏を諦めていないらしい。
「よォ……」
 ニヤニヤと笑って舞箏の側にぴたりと立った。
「随分ゆっくりな出勤だな。それともサボリか?」
 背丈は聡一とそう変わらない。だが体の厚みや肩幅はこの男の方があった。立ち止まって見上げる舞箏の顔をじいっと見て、仲の良いダチを誘うように言った。
「つき合えよ。いいとこ連れてってやっから」
「やだ。俺いい子になるんだ。不良とは遊ばないよ」
 ムッとしたのが、舞箏の言葉を揶揄する声に表れた。
「いい子ォ? よく言うな、重役出勤しといてよ。それに大体が、最初に俺を誘ったのはお前だろうが」
「それは昔の俺。いい子の俺は不良と遊んだりしないんだ」
「不良不良言うな。俺ァ長沢顕(ながさわ あきら)ってんだ、おいちょっと待てよ舞箏」
 すたすたと通り過ぎようとした舞箏の手を顕が掴む。
「気安く呼ぶなよ、本間くんだって伊部くんて呼ぶんだぞ」
 振り向き、舞箏が睨みつける。本間という名に、顕はカッとした。
「……そうか。いい子ってのは……」
「もう一回振って欲しいのかよ、比べりゃ断然本間くんのがいいって。ほらっこの手放せ!」
 顕はものも言わずに、拳を舞箏の腹にぶち当てた。


「伊部さん、どうしたんでしょうね」
 学校にやって来ない舞箏を心配した広史が聡一に尋ねた。広史は昨日舞箏が袴姿で家に帰ったことまでしか知らない。聡一に対して気まずい思いをしていて、舞箏が学校に出て来られないのではないかと思ったのだ。
(昨日は元気そうだったがな)
 聡一は舞箏の健康状態を思った。ただ担任の塚本に欠席の連絡が入っていないらしいのが気になる。
「……制服を置き忘れたんで、登校しづらいんでしょうか」
 広史の台詞に、何だ知っていたのかと聡一は思う。
「そんな繊細な玉じゃない」
 大体制服は、昨日聡一が届けたのだ。
 野原くんはあいつの図々しさを読み誤っているな、と考えたが、
「君は気にしすぎだ、野原くん」
と言うだけにした。
 広史にそう言ったものの、昼休みを迎える頃には聡一自身もまたイライラの虫が頭をもたげて来た。
 舞箏のちゃらんぽらんなところに聡一はいらいらさせられる。踊りに対する舞箏の姿勢を知って、彼にも真摯に取り組むものがあったのだと、聡一は昨日喜んだのだ。舞箏の踊りは、取り組む姿勢も伴う実力も十分認めるに値する、舞箏のきちんとした部分だと評価した。
 そう。舞箏は踊る。あれ程までに美しく。
(……踊り以外は本当にいい加減だな、あいつは)
 舞箏の心配をしたというよりも、自分のいらいら解消の為だと考えて、聡一は職員室の塚本を訪ねた。
「それがな。伊部は十時前に家を出たそうなんだ。家の人はどこかでサボってるんじゃないか、と言うんだが……」
 先程舞箏の家に電話をした結果を、塚本は聡一に話した。
「十時ってのも完璧に遅刻の時間だが、そろそろ一時だ。転入して来た日みたいに道に迷ってたりどこかにハマったりしてるんでなきゃ、とっくに着いてていいんだがな」
 舞箏が不良学生と体育用具室にいるところを発見した聡一は、そのことを誰にも言っていない。
 転入して来た日のように。
(……いい子にすると言っていた)
 学校に遅刻するのは既に舞箏のいい加減なところなのだが、それでもそんな馬鹿なマネは二度としないだろう、と聡一は思いたかった。
 失礼しますと職員室を出て、聡一は校舎玄関脇にある公衆電話で、昨日塚本にもらった名簿を見ながら舞箏の家へ電話した。
 電話に出たのは揚羽だった。
『まあ本間さま、わざわざ……』
「伊部くんから何か連絡はないんですか」
『ええ、舞箏さんたらこういったことはしょっちゅうなもので』
 そうなのだろう、と聡一は思う。
『あ……ちょっとお待ち下さい。お母さんに替わります』
 揚羽の若い声から艶っぽい婦人の声に相手が替わる。第一声を聞いて、聡一は何かがあったと直感した。
『聡一さん……ええあの子はあの通りの子ですけど……あなたに好かれたいと思っているんでしょうね。目が覚めて遅れたと……ええほんの一瞬でしたけど、慌てたのは今日が初めてでした。鞄を道に放り出してどこかへ遊びに行くとは、さすがに考えにくいんですわ』
 聡一は眉をひそめた。
「鞄?」
『ええ。わざわざ聡一さんが持って来て下すった鞄です。つい今し方、御近所さんが道で拾ったと届けて下すったんです』
 背筋のあたりから、ちりちりとした不安が上ってくるのを聡一は感じた。嫌な気がする。舞箏の身に何かが起きた。
「……今からそちらに伺います」
『えっ……あの、聡一さん、学校の時間はまだ……』
 受話器を置くと三恵の声も途切れた。聡一は職員室に取って返し、早退しますと塚本に告げると、塚本の呼ぶ声も聞かず、校舎の外へと駆け出て行った。


 舞箏が目覚めたのは、狭いプレハブの一室だった。白い煙草の煙がもうもうとたち込めている。
「おっ気がついたか」
 顕の声だ。腹に痛みを感じて、そうだこいつに殴られたんだと思い出す。思い出したら怒りも沸いて来た。身を起こすと、顕は舞箏のすぐ横で煙草を吸っていて、向こうの方に似たような不良学生が五、六人、やはり座って煙草をふかしていた。
「……どこだよここ」
 不機嫌な声で舞箏が尋く。
「んー……ま、俺達の溜り場だ。昔卓球部っつー地味ィなのがいてな。目障りだからおん出して今は俺らが使ってやってるワケ。吸うか?」
 顕が自分の吸っていた煙草を、舞箏の口元に持っていく。
「けむい。あっち行け。窓開けろよ」
 顕の仲間がゲラゲラ笑った。
「火事だと思われたら困るからなあ」
「……フン。煙草吸ってるってバレるとヤバいからじゃないの」
 立ち上がりかけた仲間を顕が手で制し、舞箏に顔を近付けてこう言った。
「俺達はなァ。先公なんか怖かねえんだよ。こそこそ吸ってんじゃねえの」
「……わかった。怖いのは本間くんだ」
 薄ら笑いを浮かべていた顕の顔が、ギンと尖った。舞箏の顔を思い切りはたく。
「たっ!」
「本間なんか怖かねえんだよ! あんないい子ちゃん、何で怖ぇんだ!」
「二回も負けてるくせに! 顔ぶったなっ馬鹿ー!!」
「うるせえ! てめえが本間の名前なんざ出すからだ!」
「おいおい顕」
 仲間の一人が立ち上がって寄って来る。
「見せてくれるってのァ痴話ゲンカかよ。おめえが言うからせっかく美人のお休み中に手ェ出すの我慢したんだぜ」
「……るせえ。てめえらなんざそっちでマスかいてろ」
 顕に睨まれて、仲間は舌打ちして元の場所に座った。引き下がった仲間を他の連中が野卑な笑いでからかっている。
 舞箏は嫌な気が的中すると思った。出入り口は、五、六人が溜まっている後ろにある。「あ……あのさ。俺見られるの嫌って、前に言ったことない?」
 顕がニヤリと笑う。
「聞いてねえなあ。でもま、そういうこった。あいつらにやってるとこ見せてやんねえと、ただ我慢させることになっちまうんでな……舞箏、おめえの寝姿、すんげえサイコーかわいいぜ。憎まれ口もきかねえしな……」
 顕は舞箏の手をむんずと掴むと、自分の股間に押し当てた。
「わあ!」
「おめえのこと欲しいんだよ、惚れちまったんだよ舞箏」
「やだやだやだ! 放せ放せ馬鹿! わあ触んな!」
 顕はまたムッとした。
「一週間前はてめえが誘ってあんとかうんとか言ってやがったくせに……」
「もうこんなことしないって決めたの! 本間くん以外とはしない!」
「……ちっくしょう……そんなに本間が……」
「わっわっ」
 顕は舞箏を押し倒すと馬乗りになった。
「どけよ!」
「おまえらこいつ押さえろ! 特等席で見せてやるぜ……」
「えっちょ、ちょっと……」
 ニヤニヤ見ていた連中が煙草を置いて舞箏の周りにやって来た。舞箏の手足を一本一本、力一杯に押さえつける。
「痛っ……」
「……やさしくしてやっからよ、舞箏。俺に惚れたらすぐに言え。こいつら退かしてやる」
 顕が舞箏の服のボタンを外し始める。六人からに押さえつけられては、舞箏の力では動けない。
「や……やだ……やめてよ……やだ……本間くん、本間くんッ!」
「本間なんか呼ぶなッ!」
 舞箏の頬が、パァンと鳴った。


 聡一は舞箏の家で話を聞いた後、舞箏を捜しに出かけた。
 鞄は登校途中の道に落ちていたようだ。三恵は警察沙汰にする気はないらしい。
(幸いというか……御近所さんは舞箏が放蕩息子だって知ってますんでねえ。そう育てちまったのは私なんですけどね……)
 聡一さんに御心配かけてしまって、と三恵は謝り、お手を煩わせるまでしてはと言ったのだが、聡一は自分の気がすっきりしなければ気持ちが悪いから、と舞箏を捜すことを許してもらった。
 舞箏の家から学校までの道を辿ってみる。目撃者を探すつもりだった。
 まだ振り返れば舞箏の家が見える辺りで、聡一は足を止めた。
 舞箏がいた。
 しきりにきょろきょろとして、下を向いて歩いて来る。何かを探しているようだ。
 聡一が駆け寄ると、足音で舞箏は聡一に気付いた。
「あっ……本間くん?」
 聡一は舞箏の顔を見てぎくりとした。赤くなって腫れている。明らかに殴られた跡だ。だが聡一はまず違うことを尋いた。
「……何か探してるのか」
「えっあっか、鞄……ごめんね、本間くんが届けてくれたのにどっかで落っことしちゃったみたいで……あは、鞄なきゃ学校行けないよね……」
 舞箏はぎこちなく笑って頭をかく。
「でも、本間くんどうして……もしかして、俺のこと捜してたりしてた? え? ホント? マジで? うわあどうしよう、うれしい……」
「鞄なら君の家に届いている。今度からは鞄がなくても学校に来い。家の人もクラスメートも心配する」
「えっうん……ごめん」
「誰に殴られた」
 舞箏が、くっと口を閉じた。訊かれると思って緊張していたところに触れられたといった体だ。すぐに答えない舞箏に、聡一は重ねて訊いた。
「君はケンカが弱くもないだろう。複数が相手か」
「え……えっと……複数……だけど一人……」
「理由は何だ」
「え……別に……」
「そんな目にあわされて理由もない訳があるか。それだけのことを君は相手にしたのか。それともただの逆恨みか。なら逆恨みを受ける理由は何だ」
 聡一の言葉は静かだった。だが彼は怒っているのだ。舞箏に対しても多少ある。だがそれよりも、舞箏を殴った相手に対して。
「言えんような理由か」
 舞箏は視線を泳がせて頬を触った。触ってすぐ痛そうに顔を歪めて手を引っ込めた。
「え……えっと……」
 聡一を見ずに笑って言う。
「……なんかさ。俺のこと好きなんだって。ほら俺って美人じゃん。でも扱い悪いから、つき合ってらんなくって、途中で逃げてきた」
「……自分でついて行ったのか」
「ちっ……」
 舞箏は必死の色で聡一を向いた。
「違うよ! 俺やだって言ったんだ。言ったのにあいつ無理矢理押さえつけて……」
(―――)
 舞箏は、つい先程の出来事を鮮明に思い出してしまったようだ。ぶるっと身震いをして、うつむき、我が身をかき抱いた。
「てっ……抵抗したもん……」
 泣きそうな声は震えている。
「……何をされた」
 静かな声で聡一は尋いた。わずかに眉間にしわを寄せて。頭の中でガンガン鳴る音がうるさいと思った。
(えいうるさい。俺は今、こいつに事情を聴いているのだ)
 ガンガンいう音は、きっとそれを聞くなという警戒音だったのだ。
 舞箏は顔を上げて、無理矢理笑った。
「……あは、平気。俺、初めてじゃないし……レイプされんのは初めてだけど……ほら俺もともと尻軽いしさ。本間くんに嫌われちゃうよね、やっぱ……」
 どこまではっきりと聞こえていたか定かでない。ガンガンいう音が消えるのと、何かがプツンと切れるのは同時だった。
「――来い」
「え?」
「いいから来い!」
「痛っ痛い、本間くん……」
 舞箏の腕をむんずと掴むと、聡一は舞箏を引きずる勢いで舞箏の来た方へと駆け出した。


 窓の割れる音がした。
 割れた窓から煙草の煙が流れ出る。石を投げたのは聡一だ。舞箏に案内させて辿り着いた他校の一角に建つプレハブの窓めがけて聡一が石を投げるのを、舞箏は茫然と見た。聡一がこんなマネをするとは思わなかったのだから無理もない。
「何しやがる! 誰だ?!」
 当然のように、中にいた者達は誰何しながら外に出て来る。聡一はそれを思って石を投げた。
 出て来た者の中に顕がいた。
「本間……ッ」
 聡一の姿を認め、憎々し気に呼ぶ。
 聡一は顕達を見据えたまま、背後の舞箏に確認した。
「こいつらか」
「……うん」
「君は下がっていろ」
 言って一歩踏み出す。顕以外の連中が圧(お)されて一歩下がった。
「舞箏……」
 顕は聡一の後ろに立つ舞箏を見て、右手を延べた。
「戻って来たんだろ? 怒らねえからこっち来い」
 舞箏の「嫌」の前に聡一は応えた。
「きさまが来い。殺してやる」
「―――」
 舞箏は目を見開いて、聡一の後ろ姿を見た。
 顕は奥歯が砕けるかと思う程ぎりぎりと噛み締めると、歯の間から聡一に対して呪詛の言葉を吐き出した。
「てめえ……っ」
 顕自身が動く前に、顕の脇にいた男が聡一に向かって駆け出した。
「てめえが死んで来い!」
 振り上げられた男の拳は聡一の顔面を捉えるはずだった。だがそれは叶わず、聡一の耳の横をすり抜けた。わずかに身をひねって拳をかわした聡一が、見事体重の乗った左拳を男の脇腹に食らわせたのは、ほんの一瞬の動作に見えた。
「ぐっ……ぐあっ」
 臓物を吐き出すかのようにうめいて男が沈む。
「次」
 聡一の目は冷酷に顕を見据えた。
「くっ……」
 一発で仲間がのされたのを見て、今度は二人で聡一にかかる。
 顕と後の二人は一旦プレハブに入った。
 二人のうち先に聡一に殴りかかった男は、突き出した腕を軽く聡一にいなされた。手のひらを外側にして相手の腕をいなした聡一は、いなしたその手で腕を掴み、ぐいと引くと同時に物凄い速さで背を向ける。半回転した聡一がもう片方の手で、つかまえた方の上腕を掴み、片足で相手の足を高く跳ね上げた次の瞬間には、男は掴まれたまま背中から地面に叩き付けられていた。
 見ると、もう一人の男は舞箏に蹴りを入れられている。
「どいていろ!」
 怒鳴られてビクッとした舞箏を聡一は違う方を見ながら突き飛ばす。聡一の視線の先では、木刀が振り上げられていた。
「本間くん!」
 かろうじて尻もちをつかなかった舞箏が叫ぶ。ヒュッと空を切る短い音がした。
 木刀は聡一の頭上で静止した。体の位置をわずかに下げた聡一の両手が、左右から木刀をはさんでいる。
「くっ……」
 両手で軽く持っているようなのに、木刀はびくともしない。男が力まかせに引き抜こうとしている木刀を、聡一は両手で持ったまま右へ倒し、相手に対して左肩を向ける。と間髪入れずそのまま両手を木刀の上でシュッと滑らせ、左のひじで相手の右胸を強打した。
「がっ……」
 聞こえた鈍い音は、男のあばらがいかれた音かもしれない。
 構わず、聡一は倒れた男の放した木刀をすいと構えた。
 聡一には、やはり剣が似合う。
 素手での闘いも美事(みごと)だったが、腰の据わり方が違う。醸し出される空気が違う。
 剣を携えた聡一は、踊る舞箏ともちろん違うが、だが同じように美しい。
 舞箏はさっき蹴飛ばした男が起き上がろうとするのをまた踏みつけて、目は聡一にうっとりと吸い寄せられていた。
「野郎……っ」
 顕ではない方の男が、木刀を持ってかかって来る。聡一は小手を強く打ち、木刀を取り落とした男が丸めた背を、左手一本に持たせた木刀で打ちつけた。
「ぎゃっ」
 打たれた男の行く末など見てはいない。聡一は正面の顕を睨み据えている。残るはあと顕のみである。
「本間……」
 顕も木刀を構えて睨み付ける。
「ムカつく野郎だぜ……こんな胸クソ悪ィ野郎は見たことねえ……」
「以後伊部舞箏に手を出すな。これは俺のだ」
 さらりと聡一は言った。
 舞箏も顕も、一瞬正しい反応が出来なかった程、あっさりと言った。
 舞箏は今の聡一の言葉がどういう意味を持つのか、思い至るのに随分時間がかかってしまった。
 顕の方が早く気付いた。多少の誤解はあったが、結果的には同じことだった。
 やはり本間は、舞箏と<デキ>ていたのだ!
「――ブっ殺す!!」
 顕の怒声は顕の後ろに置き去られた。瞬発力一つを見ても、確かに他の聡一にのされた連中よりは顕に能力はあるのだろう。だが聡一のレベルには、はるかに及びはしないのだ。
 カン、と軽く木刀をはじく音がした。
「―――っ」
 声も上げず、顕は飛ばされていた。聡一の突きが、胸とのど、二か所に鋭く突き刺さったのだ。
 以前のような手加減はない。聡一は顕を言葉通り、殺す気で突いた。
 顕は動けない。地面に転がり、声を出すどころか、呼吸すらもままならない。聡一は動かぬ顕の側に立ち、仮に動けるようならもう一度息を止めてやるつもりで、木刀を提げたまま見ていた。
 不意に舞箏の両目から涙がこぼれた。
「うっ……」
 舞箏の声に振り向いた聡一は、涙を見て驚いた。
「うれしい……っ」
 しゃくり上げながら舞箏が言う。聡一は訳がわからずに困惑して尋ねた。
「何を泣く?!」
「だっ……だってっ……」
 舞箏はうつむいてぼろぼろと泣くのだ。聡一は顕を離れて舞箏の傍に寄った。
「怪我をしたのか? 下がっていろというのに出て来るからだ」
「ちっ違っ……うっうれしいっ……」
「……? 何がだ?」
 聡一は本気でわからない。自分の言った告白まがいの言葉など、思い出しもしないのだ。
「俺……俺……っ本間くんに嫌われてなかったあー……」
 泣き止まない舞箏の言葉に溜め息をつく。聡一は呆れたように笑った。
「嫌いじゃないと言っただろう」
 足音と共に、複数の人影がプレハブの陰から現れた。
「あっ これはっ」
 一般生徒が乱闘に気付いて、教師に通報したのだろう。この高校の教師が数名、駆けつけて来たのだ。
 自校の不良学生がことごとく地に倒されているのを見て、さすがに仰天したらしい。普段は目の敵にしている不良どもを助け起こしにかかった。
「おい、しっかりしろ」
「どうしたんだ、長沢!」
 顕は意識を失っている。呼吸が出来ないのだ。
「おいっ救急車だ!」
 教師の一人が駆けて行く。叫んだ教師は顕に人工呼吸を施し始めた。他の教師が聡一と舞箏を睨んで尋ねる。
「君達は? どこの生徒だ。どういうことだ?」
「うっ……そ、そいつ……南丘の本間だっ……」
 舞箏に踏まれた男は比較的軽傷で、言いたいことを言うくらいはできた。それを聞いた教師達は、信じられないという顔で聡一を見た。
「本間……まさか、南丘高の、生徒会長の本間くんか?」
 信じられないのも無理はない。南丘高校は髄一の進学校で、特に聡一の評判というものは、一点の非もないものだったのだ。
 聡一は、呆然とする教師を真っ直に見て言った。
「南丘高の本間です。俺がやりました」
 慌てて舞箏が叫ぶ。
「俺もやった!」
「黙っていろ!!」
 聡一にこの迫力で怒鳴られて、一瞬でも黙らずにいられる者などいないだろう。聡一は再び教師を見ると、先の言葉を続けた。
「謝罪する気はありません。殺すつもりでやりました。事情を言う気もありません。……では俺は学校に戻ります」
 聡一は木刀を捨ててきびすを返すと、舞箏の腕をつかまえて出て行こうとする。
「ま……まて……ほん……」
 息を吹き返した顕が、かすれた声で呼んだ。振り向いた聡一の目を見て、教師はぎょっとした。殺す気だったという聡一の言葉を、彼は確かに信じたろう。
「本間くん、行こっ」
 舞箏に促され、聡一はまた歩き出した。うわごとのような顕の声以外、誰も聡一を呼び止めはしなかった。


 とうに授業は終わっている時間だったが、舞箏を家に送り届けてから、聡一は学校に戻った。真っ直に職員室の塚本のところに行くと、辛そうな顔で「早退にしてあるから今日はもう帰れ」と言われた。顕の学校の教師から、連絡が入っていたらしい。
「電話とったのが校長でな。そうでなくても相手の学校納得させなきゃならん。……殺す気でやった、と言ったそうだな。お前、そりゃ殺人未遂だぞ本間」
「はい」
「はいってな……」
 お前少しは言い訳しろよ、と塚本は頭を抱えた。
「伊部を助けに行ったんじゃないのか?……」
 聡一は答えない。
「向こうも、自分とこの生徒のしたことはわかってる風だったが……っ」
 塚本が息を飲んだのは、聡一が静かに睨んだからだ。ゴクリとつばを飲んで、塚本は肩を落とし頭をかいた。
「……わかった。言及せん。こっちから連絡するまで大人しく家にいろ」
 離れて行く聡一に塚本が尋ねる。
「お前、伊部が来てから少し変わったか?」
 塚本の感想は当たらない。聡一自身は変わりないからだ。ただ聡一にそこまでさせる者が、今まで現れていなかっただけのことで。
 聡一は答えず、ドアの前で一礼をしてから職員室を出た。



 結局、聡一と舞箏には、三日間の自宅謹慎という処分が下った。
 双方学校側に警察沙汰にするつもりはなく、互いに非を認め合っての結果である。聡一にのされた不良学生たちも、相応の処分を受けているはずだった。
 自室で教科書を広げている聡一は、今日の授業で進むはずだったところを自習している。もちろん前後の予復習も欠かさない。そんなことをしなくても聡一の学力は校内一に違いないのだが。もう少ししたら竹刀の素振りをしようと思っている聡一である。
 部屋のドアをノックしたのは、次兄の太一だった。
「聡一、かわいいお客さんが来てるぞ」
 玄関に下りようとすると、太一は客を早くも二階に上げていたらしい。太一に手招きされて姿を現したのは、私服姿も可愛らしい舞箏であった。
「――」
 聡一が呆れ返っていると、太一はにこにこと舞箏に笑いかけてる。聡一の分もと思うのだろう。
「やあ、こんな愛想のない奴んとこによく来てくれたね。俺はこいつの十歳上の兄貴。年上は嫌い?」
 聡一は頭痛を感じながら、まずは舞箏を叱りつけた。
「君は自宅謹慎の意味を知らんのか!」
 びくっとしてから舞箏が応える。
「……知ってる」
 それで太一は自分の誤解に気が付いた。
「ああ、仲良く自宅謹慎食らった伊部くんかあ。ごめんごめん、聡一の彼女が会いに来てくれたと思ったんだ。きれいだから」
 えっいるの?! といった顔で舞箏が太一を見る。太一はその視線に気付いて、やさしく笑った。
「んーん、いないいない。だからめでたいなあと思ってたんだ。太一さんの誤解」
「そう、誤解です」
 聡一が冷静に肯定する。舞箏は、何が聡一の言う誤解なのか、判断に困った顔をした。
聡一に彼女がいるということが誤解なのか、舞箏が彼女(?)ということが誤解なのか、それとも彼女がいないのが誤解なのか?
「聡一、追い返すなんてマネするなよ。塚本には黙っててやるからゆっくりしてってもらえ。じゃあ伊部くん、お兄さんは行かなくちゃならなくてお構いできないけど」
 太一が手を振ってドアを出た。閉じたドアを見ている舞箏に、聡一は説明した。
「二番目の兄だ。警察勤務で不規則でな」
「塚本……って、先生?」
 振り向いた舞箏の言う疑問に気付いて、そちらも話す。
「高校の同期だそうだ」
「へええ」
 舞箏は聡一をじいっと見て、おそるおそる尋ねた。
「……追い返す?」
 聡一は少しの間舞箏を見返してから、諦めの溜め息を吐いた。
「……その辺に座れ」
 舞箏の笑顔のきらめきといったらない。
「うん!」
 喜び勇んでじゅうたんの上に腰を下ろすと、うふふ、とうれしそうに笑った。
「……何だ」
「……うん。本間くんと二人っきり、て思っちゃった」
「……」
 聡一は椅子に座ったまま、再び机の方を向いてしまった。
「……」
 舞箏は立ち上がって、聡一の横から机を覗き込む。
「わあ、本間くん勉強してるの。えっまだそこ授業やってないだろ」
 手も止めずに聡一は応える。
「予習だ」
「ふーん……あ、あのさ、……ありがとう。俺、ほんとうれしかった」
「礼などいらん」
「あ、あの、俺、本間くんのこと……」
「……あまりくっつくな」
 舞箏が聡一の顔を見る。聡一も舞箏の顔を見上げた。
「……なんで?」
 舞箏は聡一の言葉がショックだったようだ。尋ねる声が震えていた。
 聡一は冷たい顔で、迷惑そうに、責めるように舞箏を見ている。
 何故と尋かれて、聡一は説明を始めた。
「もう少しで人を殺すところだった」
 舞箏のせいで。
「本気で死ねばいいと思った」
 聡一は右手を上げて、人差し指で自分のこめかみの辺りを触れた。
「……この辺がプツンといったんだ。これ以上君と関わっていると、きっとそのうち、今度こそ人を殺す。だからくっつくな」
 舞箏は暫く呆然と聡一を見ていたが、やがて頓狂な声で尋ねた。
「……何それ?」
「言った通りだ。くっつくな」
 聡一は自分にわかる範囲で、正直に言ったのだ。訳がわからないままに、予防線を張っている。
 だから舞箏の顔が聡一を見ながらだんだんとにやけていくのが、聡一には怪訝でならない。
「? 何がおかしい」
「――本間くん大好き!」
 叫んで舞箏は聡一に抱きつき、聡一を仰天させた。
「なっこら! 人の話を聞いとらんのか!」
 首に絡む舞箏の腕を引きはがそうとする聡一の話を、確かに舞箏は聞いていないかもしれない。ほんの先刻の悲しそうな顔などまるでうそのように、舞箏は嬉しそうに笑う。
「本間くん、俺のこと、俺のものだって言った」
「知らん!」
「言ったもん、昨日言った!」
「覚えとらん! 離れんか!」
「俺のってことは、こういうことだよね……」
 舞箏の唇が触れそうになり、聡一は椅子を立って舞箏を思い切り突き飛ばした。
「いっ……たああ――! 本間くんひどい!」
「誰がだ!」
 床に転がる舞箏を見下ろし、聡一が怒鳴る。
「俺はそんなことがしたい訳じゃない!」
 舞箏はぱちくりとまばたいた。聡一は本気で怒っている。だが言った台詞は、決して舞箏を嫌いだという内容ではなかった。
「ん――……」
 舞箏は考えながら頭をかいて、それからきちんと正座した。
「?」
「お願いします!」
 三つ指ついて舞箏が頭を下げる。
「本間くんとキスしたいです――……ダメ?」
 頭を上げて、聡一を見る。訴えるような媚びるような表情で、上目使いに見上げる。
「――……何でそんなことがしたいんだ」
「本間くんが好きだから」
 舞箏は即答する。
「――ダメ?」
 聡一が黙っていると、舞箏は泣きそうな顔になった。
「いい子にするから……」
 やれやれ、と聡一は思った。舞箏が泣く度に自分がぎくりとすることは、気が付いているのだ。溜め息をついて、諦めたようにじゅうたんに腰を下ろした。
「……ちょっとだけだぞ」
「――わ!」
 途端に、舞箏は笑顔になる。
「ありがとう本間くん! 俺うれしい、うれしい、うれしい!」
「……いいから早くしろ」
 眩暈を感じて、聡一は左手で顔を覆う。その手を、舞箏がどかした。
 にこーっと笑って聡一を見つめる。
「えへへ。本間くんも、俺のこと好き?」
「……嫌いじゃない」
 唇が触れた。舞箏の唇が自分の唇に触れるのを、聡一は見ていた。舞箏は聡一の左手をぎゅっと握ってキスをしている。
 舞箏のうっとりとした声が、唇からもれた。
 聡一の中で、何かが蠢いた。
 舞箏の唇が離れた。「ちょっとだけ」にしては長かったキスをようやくやめて、上気した顔で聡一を見ようとしたが、それは視点の定まらぬうちに阻まれた。今離れた唇が、再び触れていた。
 聡一が舞箏にキスをしたのだ。
 それはほんの一瞬だった。
 聡一の方が自分の行動に驚いていた。こんなことをしたい訳ではない、と思っていたのにである。
「―――」
「本間くん……」
 聡一は殆ど睨むように舞箏を見ている。
 ほんの一瞬の聡一からのキスが、舞箏の心臓を壊れる程にばくばくいわせていた。
 つないだ手がお互いに熱い。
 舞箏の喜びは、声に十分表れた。
「ほ、本間くん、俺……」
「――帰れ」
「え?」
「帰れ!」
 聡一は手を振り払い、袋のままの竹刀をガッと掴むと、部屋を出て階段を下りて行った。
「あ……待って本間くん、練習するの? 見てていい?」
「帰れ!」
 聡一は照れているなどと、例え指摘されても認めなかっただろう。舞箏は全て承知しているように、帰れと言われてもうれしそうについて行く。
「帰れ! 自宅謹慎中だぞ!」
「やだ。見てる」
 庭で聡一が三十分も竹刀を振っていると、忘れ物を取りに来た太一と、途中で会った仕事帰りの守が揃って現れた。庭石に座ってにこにこと聡一を見ている舞箏を見つけて、太一は楽しそうに声をかける。
「やあ伊部くん、仲良くしてるね、いいことだ。あ、こっちは一番上のお兄さんなんだよ。守さん」
 竹刀を振り続ける聡一をよそに、紹介が始まる。舞箏は、立ち上がるととびっきりの笑顔を守に向けて、可愛らしくあいさつした。
「お兄さんこんにちは、はじめまして。本間くんの同級生で、日舞伊那佐流の跡取りの伊部舞箏といいます。母はすっかりその気なんですけど、いずれ本間くんをうちのおムコに頂くつもりですので、以後家族ぐるみのお付き合いを申し込みます、どうぞよろしくうー」
 聡一は思わずつんのめり、無視を決め込んでいた相手を怒鳴りつけた。
「何の話だ!!」
「えっだって本間くん三男でしょ。いい御縁じゃん」
「男にムコ入りする男がどこにいる!」
 太一はほほう、という顔をして面白そうに笑っている。一方守は、すっかり青ざめているのだ。
「そ、そういち……」
「信じないで下さい!!」
 慌てて兄に怒鳴る気持ちに偽りなどないのだが。
 聡一はほんの少し、目覚めてしまった。さて、彼のムコ入り話はどうなるのであろうか――?
 何にせよ、太一の言う通り『仲の良いのは、良いこと』なのである。


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