・第十回
チキは途中でクレイ、ヴァーンと離され、目隠しをされて、多分、王宮の奥へと連れて行かれた。ずっと掴まれていた腕を離され、目隠しを取られた時、チキは眩しさに目を細めた。
「やあ、お嬢さん」
そこにいるのは、メミザの図書館でチキに話し掛けた禿頭の男。
「またお会いしたね」
にこにこと、チキに一つ切りの椅子を勧める。部屋は狭く、床に奇妙な紋様があるだけで、他に家具はない。部屋の壁は、ぐるりと丸い。
「私は、この国の宰相だ」
ダルダーレと言います、と名乗った。
チキは瞬き、拳を握って尋ねた。
「……どうするつもりなんですか?」
ダルダーレはチキに歩み寄った。チキは下がったが、すぐ後ろが閉じた扉で行き止まった。
「……うん。やはりいい匂いだ。容物としてはもってこいだね」
ニイ、とダルダーレは笑った。チキは背中に、冷たい氷を当てられたような気がして、大きく息を吸った。
チキと離された後、クレイとヴァーンは腕を後ろ手に戒められ目隠しをされて、下へ、下へと階段を下りた。いきなり止まったと思ったら、腕を放され、背後でガシャンと音がする。遠ざかる足音にヴァーンは怒鳴った。
「こらっ目隠し取って行きやがれっ!」
足音以上に声は反響し、その内吸い込まれるように消えて行った。
「くそ、クレイ、いるか?」
ああ、と声がする。少し遠い。ヴァーンは魔法を試みる。腕の縄が解けた。急いで目隠しを外し、辺りを眺めた。
一見してわかった。石造りの地下牢だ。
「……くそっ」
鉄格子の中には自分一人だ。クレイは別の牢の中にいるのだろう。
「おい、クレイ返事しろ。場所がわかれば何とかなる」
ああ、とクレイは応え、次には多分靴を鳴らした。そしてもう一度、ここだと言う。
大まかな位置はわかった。その方角に意識を凝らすと、クレイの姿が見える。距離は殆どない。牢屋が二つ三つといったところだ。
「……動くなよ!」
呪文を唱え、次の瞬間、ヴァーンの体は移動した。
「……うわ!」
着地したのはクレイの上だ。
「すまん! 悪い!」
移動魔法の着地だけは、他の魔法に比べるとどうにも精度が低い。元々難しい魔法なのだが、ヴァーンは魔法全体のレベルが高いだけに、そこだけ練度が凹んでいる印象を受ける。尤も、移動魔法自体が使えない魔法使いも多いのだから、そんな凹みはヴァーンのプライドが感じるだけの話なのだが。
重い、とクレイは文句を言った。お前に敷かれる恋人は気の毒だな、とまで言うのだから、余程重かったのだ。
「悪かったって」
クレイを起こし、腕の縄を解いて目隠しを取った。さっと牢内に目を走らせて、剣はどこだ、とクレイは尋いた。ああ、今捜す、とヴァーンはぐるりに気を巡らせる。
「チキはわかるか?」
「……ああ、一遍に言うな」
チキはな、と剣を捜しながらヴァーンは言う。
「やっぱり目隠しされてたんだろうな。昇ってる感じしか掴めなかった。一応追尾の呪文をかけといたんだが……駄目だな。向こうにも術使いがいる」
そうか、とクレイ。
「……王宮内に邪法を王に唆す臣下がいる。くそ、こっちじゃねえか。……今頃はきっと、天地神教の者が企んで我が国の大臣を殺した、とか喧伝してるぞきっと。悪くすりゃ国家間、宗教間で戦争だ」
ヴァーンはちら、とクレイを見て、ったく冷静な顔しやがって、と評した。こういう顔だ、とクレイは返す。
「そりゃ悪かった……あったッ!」
ヴァーンは指を立てて剣を呼ぶ。ヴァーンの大剣もクレイの剣も売り物の剣も、纏めてどさりと降って来た。
「……」
「悪かった悪かった!」
重いと言われる前に、ヴァーンは謝った。少しは役に立ってるだろうが! と主張もして。
牢の鍵を魔法で外して……もう一度移動魔法で牢の外へ出る事も出来たのだが……鉄格子を潜って、でかい体をうん、と伸ばした。
「さて、どうする。やっぱりチキを助けるのが先決か?」
この間のように人質に捕られたままでは遣り難い事この上ない。チキには、内緒なのだが。
「チキは任せる」
「うん?」
「あの魔物は臭いがしない。正確には、魔法使いの鼻をごまかせる位に化けることが出来る。正体を現し、襲ってくるまで魔物だと気付かない」
正体を現さないと、襲われても魔物の仕業だと気が付かない、と言う訳だ。
「俺ならわかる」
「……」
まあ、待て、作戦を立てよう、とヴァーンはその場に尻を下ろした。クレイは一寸眉を寄せ、ヴァーンの隣に腰を下ろす。
「いいか、問題はだ、チキの居場所が明確じゃない事、魔物の居場所が明確じゃない事。向こうにも術者がいる限り、ばらばらに動くのは賢い方法じゃない」
クレイは俯いた。ヴァーンはだからだな、と言葉を続ける。クレイは顔を背ける。
「……おい、クレイ?」
呼ばれて、クレイはこちらを向いた。じっとヴァーンの顔を見たかと思うと、ヴァーンの首に片腕を回し、ぐいと頭を引き寄せ、頬に手を添えて口付けた。
(なっ……)
ヴァーンは仰天して目を見開く。
ぬるりと口の中を嘗められた。苦味が走る。途端、ヴァーンの体は痺れた。心臓が早鐘のように打ち、目が霞む。
これは。
ヴァーンにはすぐに正体が知れた。クレイの薬は、体内に魔を持たない者にとっては毒になる。
クレイはヴァーンを放して立ち上がった。ヴァーンはどさりと床に倒れる。
「ク……クレイ……」
返事はない。剣の袋を背負って遠ざかる気配と足音がどんどん小さくなるばかりだ。
(俺を置いて行くつもりか……!)
痺れは体の細部にまで広がって、魔法を唱える事も出来ない。唇が、舌が動かない。
(くそ! 動け!……動け!)
必死に解毒の魔法を唱えるが、正しい呪文は紡がれない。
畜生。
クレイ一人で魔物退治に行ってしまう。
ちくしょう。
毒は致死量では有り得ない。足止め程度に調整してある。
チクショウ!
――手間増やしやがって!
ヴァーンは苦労して口の中を噛み、痛みに感覚を引き戻させようとした。
「て……んのガ……ラシア……ちの……アル……シナ……!」
見てろよ、と震える指を一本立てる!
「……神柄、使徒に、<是非>思う者の元へ馳せ参じさせ給え……!」
ドサッとヴァーンの体が落ちたのは大仰な広間。――倒れた頭の先には王の玉座。立派な玉座に鎮座する王は目を見開いて突如降って来たヴァーンを見ている。どよどよと闖入者を取り沙汰すのは左右に並ぶ臣下達。ヴァーンが倒れ込む広い深紅の絨緞は、真っ直玉座まで伸びている。――謁見の間だ。
ヴァーンは震える腕に力を込めて、何とか上半身を起こした。居場所が掴めなかった目標の人物は、ヴァーンの隣に突っ立っている。チキだ。
移動目標と自分が一緒にいるイメージを無理矢理現実にする、ある意味高等魔法、ある意味無駄の多い力技である。ヴァーン並みに魔法力量が豊富でないと使えない。だから普通の魔法使いは、通常の移動魔法で一杯一杯で、こんな術まで憶えようとはしないのだ。
ざまあみろ、とクレイに思う。お前がチキは任せると言ったんだからな。頼れる魔法使いをこんなへろへろにしやがって。守り切れなくても知らねえぞ。
「よー無事か、チキ……?」
チキはヴァーンに気付かぬ素振りで立っている。チキの向こうには、少し離れて禿頭の男が立っていた。ヴァーンは、あっと声を上げる。
「さてはチキの言ってた禿げ頭の親父はてめえだな!」
と叫んだつもりだが、あまり鮮明に言葉は出なかった。この顔には憶えがある。確かスイレーン国の宰相だ。居並ぶ他の大臣達と比べては兎も角、国王よりも威厳のあるやり手だったと記憶している。心当たりにないはずだ。幾ら俺が有名でも、隣国の宰相に知り合い扱いされているとはさすがのヴァーン様も思わないだろ、と自分で納得する。
痺れと疲れで立ち上がる事も出来ないヴァーンを眺めて、宰相は瞬き、やがて大声で喜んだ。
「ははは! 勝手に役立たずになっているじゃないか、ヴァーン・ハンプクト!」
「……ああ?」
「魔法使いが呂律が回らないとは! はははは!」
きしょう、クレイめ、と今は腹で罵るだけにする。殴るのは後だ。後。
「魔法の早打ち、数打ち、大技、小技、魔法力持久力、総合力! 当代一の魔法使いが、ははは、これは可笑しい!」
「……俺あお宅さんに何かしましたっけかね?」
ヴァーンは不快を表して尋ねた。当代一と評してくれるのも、こうなれば皮肉にしか聞こえない。
したとも、と禿頭の男は決め付ける。
「せっかくの才能を天地神なんぞに捧げおって、愚か者めが」
「はあ? んなこた知るか!」
怒鳴ると息が切れる。今は呼吸も一仕事だ。
「……そうか。となると、あんたが邪教を勧める奸臣て奴だな?」
「邪教? ふふふ……呼び方なぞどうでもいいが、魔王物教とでも呼ぶがいい。我らは皆、最高神に換わる魔王の持ち物だ」
一昨日ほざけ、とヴァーンは吐く。
「あんたもどうせ魔物に操られてるんだろ、いい加減な所で目え覚ましとかないと、後できついぞ。面倒見ねえぜ?」
禿頭の男は空を向いて笑う。
「わっはっは、私は操られてなどいないよ」
操り人形は得てして、自分が操られている認識など持たないものだ。
男はにこにこと笑って両腕を広げ、広い袖の着物をばさっと鳴らした。「さあ、方々」居並ぶ臣下達に向けて朗々と言い渡す。
「ここに参ったは天地神教、当代屈指の魔法使いと名高いハンプクト。この者申す所の邪教がより優秀で信奉すべきものであると示す良い機会が生じますれば」
ふわりと玉座を向いて、男は禿頭を垂れた。
「王よ、どうぞご覧じろ」
――途端に、チキが物凄い声で怒鳴った。
『この俺を見せ物にするつもりかッ!』
びりびりと空気が歪む。目に見えぬ圧力が謁見の間を押し潰しかけた。
「……?!」
『――控えよ』
この威厳は何だ。禿頭の男は、チキに恭しく礼を取る。居並ぶ大臣達はあんぐりと口を開く。尻餅を付いている者もいた。王はぽかんと玉座の中で腰を抜かしているようだ。
「チキ……?」
何かが入っている。しかし魔物の臭いはしなかった……断じて!
腰の引けた大臣が一人、震える手でチキを指差した。
「……ダ、ダルダーレ宰相、そ、その娘は……」
宰相はにこりと笑って顔を上げる。
「先程この娘に、我らが信奉すべき魔王をお降ろし致しました。力の一端などお披露目を……」
そうしてチキを向き、頭を垂れる。チキは憂鬱そうに目を眇め、ゆっくりと尋ねた。
『何が望みだ?』
宰相は王を促した。だが王は玉座でぽかんとしたまま。口が利けない。見て取った宰相は代わりにチキに向かって奏上した。
「この国を手始めに、世を魔王閣下のお力で快楽溢れる桃源郷と成したいと存じますれば、まずは天地神に誑かされております民草の頭にも分かり易く、閣下のお力を示して頂きたく」
『……下らぬ』
チキは玉座の王を指す。
『そこで男が呆けておるのは、俺の力を知ったからではないのか。それとも王とはただの口を閉じぬ置き物か』
そこまで言われても、王はまだ口を開いている。何卒、と宰相は禿頭を下げる。
『ふん』
天窓に何かが当たる音がした。見上げると、窓の上で魚が跳ねている。びたん。びたんびたん、びたん。二匹、四匹、魚が降って来る。天窓は魚で埋まり、重みに耐えられず割れた窓から、どっと魚が落ちて来た。窓ガラスの破片と魚が床で跳ねる。
「こ、これは……」
大臣達がどよめく。赤い絨緞が堆く積もる魚に覆われる。
『魔物一匹につき魚を一匹、河から運ばせた』
何という数の魚。同じだけ魔物が、今王宮の上にいたというのか。しかし確かに、この魚達からは薄く魔の臭いがする。
『まだ何か見たいか』
宰相は恭しく礼を述べ、大臣達を眺め、王を促した。
「如何です。斯様な奇跡を天地神は示してくれましょうか」
おい! とヴァーンは叫んだ。大分痺れが抜けて来た。
「黙って聞いてりゃ、要するに国を魔物に明け渡そうって話だろうが! 魔物は人を食うんだぞ! 餌にされるに決まってるだろうが!」
大臣達に動揺が走る。何を今頃動揺してやがる、とヴァーンは腹が立った。忍び込んだ魔物に思考を緩やかにされていたのかもしれない。
「何で魔物と人間の住処が分けられてると思ってる! わざわざ呼んで奉る気か! 偶に越境してくる魔物にさえ、人間は太刀打ちするのが難しいんだぞ!」
「それは天地神教の考え方だ」
宰相はにたりと笑う。
「人は増えると余所の国を侵略するだろう。それと何が違う」
ヴァーンは息を飲む。この宰相は食われている。桃源郷を成したいと言いながら、それは魔物にとっての極楽だ。魔物を利用して人間の世界で伸し上がろうとしている輩かと思ったが、違う。この男は、魔物の世界を作ろうとしている。
魚の他に臭いはしない。本当にここに魔物はいるのか?
ガチャリ、と金属が擦れる音がした。
「……負界に還れとは言わん。俺が消してやる」
全員が大扉を振り返る。謁見の間に入って来たのはクレイ。売り物の剣は肩の袋。ヴァーンの大剣も混じっている。腰には父親の形見の剣を帯びている。
何だ、誰だ、と大臣達は問い質す。宰相はばっと腕を上げて、クレイを指した。
「罪人です! 我が国の勤勉な罪もないナムカン大臣を殺した男ですぞ、そこな天地神教の魔法使いハンプクトが、脱獄を手伝ったのです、方々!」
はっと息を飲んだ何人かが、クレイに腕を伸ばした。捕らえようと近寄る人々に、クレイは一言告げる。
「人を斬るつもりはない。どいてろ」
剣を振り回した訳ではない。大臣達は立ち止まり、歩を進めるクレイに圧(お)されるように下がり、行く手を空けた。
未だ立てないヴァーンの横までやって来て、クレイは呟く。
「熟(つくづく)頑丈だな」
屈んだままクレイを見上げて、ヴァーンは軽い調子で呼び掛けた。
「よう先生。後で殴らせろよ」
「……わかった」
「いつもあんな手を使ってたのか」
「飲めと言って素直に飲むか? 食い物に混ぜてもお前は気付くだろう」
それは確かに、とヴァーンは思う。あの状況でいきなり食え、と出されても……いや、もしかしたら、戦う前に腹拵えを、と食っていたかもしれない。それも有り得る。以前に臭いで気付くだろうが。
よっこらしょ、とヴァーンは立ち上がる。まだふらついたが、座っているのが癪だった。目線より下になったクレイを睨み付ける。
「ったく……薬無しでも痺れるかどうか試してみたいとこだが」
クレイはちらりと視線をくれた。
「……今はまだ口の中に残ってるぞ」
「ばっ……!」
真っ赤になってヴァーンは怒鳴る。
「本当にやる訳ねえだろ! 冗談だ冗談!」
「そうか」
軽く流してクレイはヴァーンを追い越して行く。ヴァーンは口をひん曲げた。
「まさかここに来るまで、邪魔な王宮の人間を全部あの手で」
「……その手もあったか」
おい、と突っ込むヴァーンに、心配するな、とクレイは言った。
「あれを健常者に使うと体に魔が残ったり、魔が憑き易くなったりすることがある。そんな非道な真似はせん」
「俺は?! いいのかよ!」
「お前は平気だろう」
「……そーですかい」
普通人と同等に扱え、という気は毛頭ないが、やはりこいつは俺を乱暴に扱っても壊れない丈夫で便利な多機能道具ぐらいに思っているぞ、とヴァーンはクレイの背中を見て考えた。
クレイはチキにもちらと視線をやって、宰相の方へと進んで行く。『ほう……』とチキは目を眇めた。チキの状態に気付いたはずだが、クレイはこれといった興味も示さず、見返すチキから目を外し、宰相の前で立ち止まる。
「スガルダ国から遥々お前に会いに来た……」
「――スガルダ国?」
それはどこだね、と宰相は尋ねる。
『そこの男はまた随分と良い容物だな』
チキの中のものは、クレイに興味を持ったようだ。
「見てわかるだろうが、チキに何か入ってるぞ。主かもしれねえ」
ヴァーンの言葉を聞いていたか。それぞれが好きに喋る。
「罪人がうろついて良い場所ではない。牢へ戻れ。裁きを受けるがいい」
『気に入った。最初の捧げ物はその男にするがいい。奉られてやってもよいぞ』
「――黙っていろ」
クレイは腰から剣を鞘ごと引き抜く。と、振り向くなりチキの腹に鋭い一撃を叩き込んだ。みしっ、と鳴ったのは鞘か、チキの骨か。チキはその場に頽(くずお)れた。
「中身はお前の尻尾だな」
クレイは鞘から剣を抜く。鞘を捨てて宰相に向き直った。
「……お、おいクレイ、そいつは操られてるだけじゃ……?」
言う間にクレイは剣を振り上げる。宰相は一歩下がったが、斬撃を避けられはしなかった。
繁吹(しぶ)くは赤い血。謁見の間に悲鳴が満ちた。宰相はよろけ尻餅を付く。王が初めて口を開いた。
「何をしておる! 賊を捕らえよ、狼藉を許すな!」
そう言えば衛兵の類はいないのか。大臣の一人が慌てふためいて大扉を出て行く。
「誰ぞおらんか! 誰ぞ!」
「脱獄した罪人を捕らえに行った連中なら、そこかしこで寝ていると思うが」
宰相を見たままクレイは告げる。
地下牢からここまで、クレイを止めようとした兵達は、悉く鞘の一撃を食らったのだろう。扉の外を覗いた大臣が、皆倒れ伏している、と青い顔で戻って来た。
「さすがに良く化ける。血が赤いとは思わなかった。……だが、どんな魔法使いを騙せても、俺をごまかせはしない」
「な、何を、このような事をして……」
宰相は脂汗を浮かべ、血が流れ出すにつれ青ざめて行く。
「この程度の斬撃がお前に効くとは思っていない。俺相手に芝居は必要ない。それとも俺から逃げおおせた後の事を考えているのか? そんな余裕がお前にあるか?」
知っているぞ、とクレイは言う。
「俺に残ったお前の欠けらが教える。……父を追って自刃しようとした時、素手で持った俺の手に、剣のお前が混じった。お前が俺をわかるように俺はお前がわかる。知っているぞ、封を解かれたお前が回復を図りながら俺から逃げていた事を。俺を内から堕落させる事は簡単だと高を括っていたお前は、封じられてから失敗に気が付いた。俺の中に封じられて、俺も消耗していたが、お前こそが魔としての消耗が激しかった。俺が動けぬ内に国を滅ぼし、しかし再び封じられる事を恐れて姿を晦ました。お前に気付くのは俺だけだ。どんな優秀な魔法使いも姿さえごまかせばお前を魔物とは思わない。人の寿命は短い。お前は逃げおおせるはずだった」
誰ぞ、誰ぞこの男を、と宰相は助けを求める。
「人に化ける魔物は他にもいるが、それとて臭いまではごまかせない。お前は人の臭いがする。……本物の宰相は丸呑みしたな?」
この男は狂人だ! と宰相はクレイを指差す。クレイは剣を宰相に突き付ける。
「俺が生きているのを承知で再び動き出したのは、力の回復に自信があるという事だ。遁走するか俺を殺すか……他にないのは承知だろう」
ズン! と空気が重くなった。ヴァーンはよろけて膝を付く。床の魚がみるみる腐って行く。悪臭が立つ。チキがゆっくりと立ち上がる。宰相は高笑いをした。
「わっはっは! 我が信奉する魔王がお怒りだ! せめて好きな神に祈るがいい!」
「生憎」
クレイは背の袋に手を伸ばす。
「神は信じていない」
『許さぬぞ小僧。容物にするのも止めだ。覚悟するがいい』
人に小僧呼ばわりされるよりは真実味が有る、とクレイは柄のない剣を一本抜いた。
「令」
呟くなりチキの体に剣を埋める。
「隷」
響いたのは魔物の悲鳴か、一瞬チキの体が膨らんだ。黒い霧は、現れたかと思うとすぐに消えた。チキはぐたりと仰向けに倒れた。
「……尻尾を失ったな」
クレイは宰相に向かって微笑む。
「覚悟は出来たようだ」
謁見の間に伸し掛かる圧力は減じていない。血を流す宰相はクレイを睨み、口を開く。
「……憎らしい奴だ」
伸し掛かる空気には魔物の悪意が溶けているようだ。じわじわと押し潰される人間の中に染み込んで来る。
この気配には憶えがある。夜に増す、クレイの中の残滓。酷似している。いや、桁が違う。体が皮膚から腐食していく熱さ、同時に芯が抜き取られるような凍えが襲う。
チキの中のものが失せてはっきりとした。悪意の出所は、宰相だ。
では、こいつが。本当に。
スイレーンの主で、その昔クレイの国を滅ぼした――クレイを食った魔物なのだ!
大臣達は次々に膝を付き、吐き気を訴え、床に伏した。
ヴァーンも床に手を付き、悪寒と戦っている。魔の気配が侵入して来る。
「飲め」
見ると、ヴァーンの顔の前に、クレイが例の薬を差し出している。
「なっ毒だろ!」
「迎え酒のようなもんだ。後で反動がでかいが今は楽になる」
ヴァーンは汗をかいて震える体を支えている。腕を上げるのも大儀なのに、クレイは呼吸も乱れていない。
「……っくそ!」
ヴァーンはクレイの手の薬を口で迎えに行って、ぱくっと銜え、ごくんと飲んだ。成る程、染みて来た魔物の悪意が、中和されて行く気がする。
しかし粘り着く気配は濃くなっている。奇声を発していた大臣達も意識を無くし、血を吐き、痙攣している者もいる。宰相の流した血は赤い霧となって浮かんでいた。それを呼吸で吸い込む度、皮膚に触れる度、体が邪に侵される。
「クレイ、長引かせる訳にはいかねえぞ」
「どちらにしろすぐに済む」
クレイの静かな応(いら)えは、ヴァーンに嫌な予感を思い出させる。クレイ、と呼ぶ前に、クレイは宰相に向き直った。
「全く、憎らしい奴よ……ナークレイの末裔め!」
「憎いのは御互い様だ」
霧の赤が濃厚になる。守りを頼む、とクレイは促す。ヴァーンは横目で倒れる大臣の数を確認し、両手を開いて腕を伸ばした。
「誰かさんのお蔭で無駄遣いしちまったからな、大技は使えそうにねえ。小技の連発で行く、呪文の間は責任持てよ!」
わかった、の代わりに、俺にはかけるな、とクレイは言った。袋から柄の無い剣を抜くなり「令」と命ずる。
ヴァーンは腕の各所に細かく点を設定し、魔法力を溜めていく。
「天のガラシア地のアルシナ、今この地に臥す者達を邪なる一切から守らせ給え。神柄、使徒に道を開かせ給わん、ひ、ふ、み、よ、……」
血の霧は凝って、幾体もの臓物に似た赤黒い魔物を生んだ。「隷」の声と共にクレイの手の剣は黒い魚の群れに似た魔物に還り、霧に浮かぶ赤黒い物へとそれぞれが向かって行く。ぶつかった瞬間、黒い魚は赤黒い臓物に飲み込まれそうになったが、再び「隷!」とびいんと響くクレイの命令を受けて、臓物共々気化して消えた。クレイはまた柄の無い剣を一振り取る。「令」
「発!」
ヴァーンは左手の小指を折る。薬指、中指と順に折る。倒れる大臣各個に強固な結界を張っていく。右の指も全て折った。左手首。
「隷」
剣は黒い猿となって跳ねて行く。赤黒い魔物は次々生まれ、人に取り憑こうと襲い来る。ヴァーンの結界に弾かれ跳ね返るところを、クレイに従わされた猿の魔物に切り裂かれた。
「発!」
左肘を曲げる。これで結界の外にいるのはクレイとヴァーンと魔物だけだ。最後に自分に毒消しをと右肘を曲げようとした。
「―――」
急に下半身が萎えて、ヴァーンは膝を付いた。
『……やれやれ、魔法使いめは漸く落ちたか』
ニタリと笑う宰相の顔は、血の気が失せて青黒くなっている。
『白い者は読み易い。屑を守って己を疎かにする。さりとて俺の血に塗れて良くもったものよ。どれ、褒美に堕としてやろうかの……』
ざっと音がして、赤い濃霧は流れとなってヴァーン目掛けて雪崩込む。瞬間、視界が赤くなった。吐き気と悪寒。皮膚が寒気立つ。
(さあ、望み通りにするがいい)
「……ああ?」
聞こえた声に顰めた顔を上げた。ヴァーンの視界一杯に、膨張した宰相の顔があった。
虚を突かれた。
(それ、そこの剣売りだ)
宰相の顔が消えると、血塗れのクレイの死骸が見えた。
「……っ」
動揺した。
ぞろりと異物が髄に侵入する気配があった。
(しまっ――)
<憑かれた>。
重い熱病に罹ったのに似ている。寒いのに熱い。ヴァーンに入った異物はぞろぞろと動く。不快だ。死ぬ程不快だ。
「て……んのガラシア……地の……」
(無駄だ無駄だ。魔物(おれ)が憑いたのだ。神とのパイプなど塞がったわ。さあ、望んで楽になれ。お前はあれが欲しいのだろう)
霞む視界にクレイの死骸だけが見える。
(あれが死なぬのが気に入らんのだ。己が先に死ぬるのが嫌なのだ。共にありたいのであろう。手に入れたいのだろう。死ぬれば、あれはお前のものだ。心のままに望め……さあ、欲せ)
血塗れのクレイがむくりと起きた。ヴァーンに向けて手を述べる。
(一度(ひとたび)欲せば楽になる。さあ――)
死人のクレイは乞うている。共に永劫の褥(しとね)に、と訴える。
幻だ。
「ふざ……けん……な」
身内がざわざわと騒ぐ。ぎりぎりと力を込めた。心に。体に。
「んなこと望むか! 死んで共になんざ、真っ平ごめんだッ!」
ガシャン! と足元から響く金属音、「ヴァーン!」と呼ぶ声。
幻はかき消え、霧の晴れた謁見の間に、一人立って大剣を構えるクレイの姿があった。
「ヴァーン、でかいぞ、耐えろ」
剣の荷袋と大剣の鞘が床にうち捨てられてある。己の剣は腰に下げ、ヴァーンにくれたチャルダの主を従えた大剣を、クレイは両手で確と握る。
ヴァーンは吐き気を飲むように、ぐっと口を噛む。
「よし……来い!」
「令」
内で魔物が騒ぐ気配があった。
「隷!」
クレイは剣を真っ直に突き刺す。剣で突かれる痛みは殆どなかった。ただ内側で突如暴れ出したのは間違いなくあの時のチャルダの魔物だ。
「ぐっ……」
壊れる、と思った。体が、精神が膨らんで弾ける。実際、ヴァーンの体はめりっと音を立てて膨張した。ぶちっと血管や筋肉が切れる音がする。千切れ飛ばずに済んだのは、消滅せぬにしろ、激しい損失を怖れた魔物が、ヴァーンから逃げ出したからだ。瞬間、クレイは何も無いヴァーンの頭の横を左手でくっと握った。ヴァーンは床に倒れ伏す。ずるりとチャルダの主の剣がヴァーンから抜けた。クレイの右手に残ったそれは、元の大剣どころか、普通の剣より随分細身になっていた。
「逢いたかったぞ……」
殆ど幸せそうな、と言っていい声の響きに、ヴァーンは千切れそうな体の痛みを押して床から顔を上げた。
クレイの左手は、不定型の何やら禍々しい黒い靄を掴んでいる。靄は淫らにうねりながら、徐々に小さくなっている。
――クレイは、素手だ。
「……さあ、来い!」
「クレ――」
待て、とヴァーンは言いたかったのだ。
靄はするするとクレイの左手から吸い込まれて行く。……そこから先は、瞬きする間の出来事だった。
クレイは右手の剣を捨て、腰の剣を逆手に握った。靄を吸い切るや否や、左手は自分の胴の中に突っ込まれ、床に赤い血を撒いた。体の中で、手は、魔物を掴んでいるのだろう。逃げられぬ魔物が力を振り絞るのがわかった。ヴァーンは指を一本立てる。クレイが形見の剣で自分の腹を貫く姿が、ぐにゃりと歪んだ。クレイと自分に結界を張るのが精一杯だった。果たしてクレイには届いたか。魔物の力が空気を押し歪めた。そして、
音も無く、王宮は崩壊した。
(続く)