・第九回
クレイはメミザを素通りすると言った。すぐにスイレーンに入るつもりらしい。河の魔物はどうする、とヴァーンは尋いた。
「河には魔物がうじゃうじゃいる。住処になってるんじゃねえのか?」
「小物ばかりだ。主(ぬし)はスイレーンにいる」
ヴァーンは目を見開く。ほんとか? と疑っている。
「お前が言うならそうなんだろうが……スイレーンのどこだ、それらしいのはちっとも臭わねえぞ」
主なら、相当の臭いがするはずだ、とヴァーンは主張する。クレイはそれには答えず、「チャルダの『跡』はどうなった」と違う事を尋いた。
「……ああ、拝観を昼間に限って、後は変わらずやってるそうだ」
「……そうか。縄張りは『空き』か」
ヴァーンは目を眇める。
「……おい。そりゃ、スイレーンの主が、今は不在だってことか?」
さてな、とクレイは荷を下ろす。
「だが気配は感じる。……俺にはわかる」
待っているからさっさと行って来い、とクレイはヴァーンを追い払った。メミザ寺院前の大通り、街路樹の下に点々と並ぶ切り株の一つにクレイは腰を下ろす。昔メミザが洪水でやられた時に、ここの街路樹は町の復興の為に、一度切り出されたのである。この土地を捨てる訳には行かなかった人々が植え直した街路樹が、今は青々と茂っている。
「チキは来るか?」
ヴァーンに尋ねられ、チキは迷った。寺院の図書館で本を読むのも魅力だが、クレイと二人、木の下で時間を過ごすのも替え難い。するとクレイは、行って来い、と木に寄り掛かって目を閉じた。少し寝る、とそれ切り黙る。
チキ、とヴァーンは促す。チキは瞬いて、うん、じゃあ、とヴァーンを追い掛けた。
寺院の門を潜り、手近な僧官を捕まえて来院の理由を述べると、伺っております、とヴァーンは客室の一つに案内された。部屋に入って、ヴァーンは目を見開いた。中に、チャルダにいるはずのマンタがいたからだ。
「やあヴァーン、今朝着いたところなんだ」
マンタはにこにこと立ち上がり、ヴァーンに寄って来る。そう言えばこいつは移動魔法が得意だったな、とヴァーンは戸の側で腕を組む。僧官を首になったら、速報せ屋をやれば儲かるに違いない。
「一つ尋いていいか?」
「うん?」
「寺院の用事で来たのか? クレイに会いに来たのか?」
マンタは怒ろうとして、そうかクレイさんと合流出来たのか、と笑った。ヴァーンに座るよう促して、自分も元の椅子に腰かける。
「勿論用事だ。ついでにお前への伝言も預かってるけどな。メミザに行くって、お前、チガチガから連絡寄越しただろう?」
「ああ、まあ」
「このまま、スイレーンに入るのか?」
「そのつもりだ」
そうか、とマンタは小声で呪文を唱え、右手の指を向かいの椅子に座ったヴァーンの額に当てた。
「ハンプクト上一位から預かったものだ。スイレーンの情報も多少入っている。……見えてるか?」
鮮明だ、とヴァーンは答える。
聞いたり見たりした文言や映像を、呪文で包(くる)んで受け渡しする魔法である。眠っている相手に使用すると夢の形になって伝わるが、その場合、受け取り手による情報の物語化が起き易い。純粋な情報に余計な脚色が付いてしまうという弊害があるのだが、送る情報の量が多い時などは、受け取り手が眠っている時の方が成功率は上がるという魔法だ。
「スイレーンに入ったら、これまでのようには支援できない。スイレーンにも天地神教の寺院はあるが、どうもこのところ連絡が滞りがちなんだ」
「……ふーん」
ヴァーンは僅かに口を曲げる。
スイレーン国の中枢で顔触れが変わった訳でもなさそうだ。どんな指針の変化が起きたのか。
頭の中に見える文書やスイレーン国王の顔などを眺めて、少なくともこの段階の情報では魔物に怯える影はない、とヴァーンは思う。
魔物は負界の生き物だ。神世の時代から定められた住処を越境してくる魔物はいたのだろうが、現代に住むヴァーン達には、近年特に縄張りを広げようとやって来る魔物が頻繁に現れているように思われるのだ。人間の数が増えたように、魔物も増えたのかも知れない。バルダ国の寺院は、人間の縄張りを魔物から守ろうという共通の見解の上に立ち、天地神の名の下に国を越えて手を携えようと他国の寺院にも呼びかけている。スイレーン国の寺院は、大勢(たいせい)が天地神教で、ガルダ国の寺院の呼びかけにも、良く応じていたと記憶している。
(宗教紛争でも起きたか?)
しかしそんな話は聞こえて来ない。
ああ、後は、とマンタは新たに呪文を唱える。
「ハンナお嬢さんからの伝言だ」
急に頭の中に広がったハンナの可愛らしい笑顔に、ヴァーンはげふんげふんと咳き込んだ。
「返事はどうする?」
マンタは面白そうに笑って催促をする。
いつものようにヴァーンの口利きで図書館に入ったチキは、なるべく古い文献を見せて下さいと頼んだのだが、生憎メミザは一度洪水で流されたので、余り古い物は残っていないのだと係の僧官は言った。メミザには魔法学校もないので、学生が勉強するような本は殆ど置いていないのだという。
チキが少しがっかりしていると、熱心だね、学生さんかな、と話し掛けて来る禿頭の男がいた。
「修業中のいい匂いがするね。ここから一番近いのは……カラーサの魔法学校から?」
チキがいいえと首を振る前に、僧官が「ヴァーン・ハンプクトのお弟子だそうですよ」と答えた。禿頭の男は、ほう! と声を上げた。チキの師匠は、実際魔法関係者の間では有名人だ。
「ヴァーン・ハンプクトが来てるのか! ではクレイと言う剣売りも?」
僧官はクレイが誰だかわからない顔をして首を傾げた。チキには、尋ねた男の顔こそが熱心に見えたので、「外で、昼寝を」と教えたが、男はそれを聞くなり図書館を出て行った。
チキはその後本を一冊手に取ったが、気も漫ろで、クレイとは? という僧官の問にも、剣売りです、としか答えなかった。
やはりクレイの所に戻ろう、とチキが席を立った時に、図書館にヴァーンとマンタは入って来た。
「ヴァーン……あれっ」
今日は、とマンタは笑顔で挨拶する。チキもマンタに頭を下げて、早かったね、とヴァーンを見上げた。
「おう。マンタのお蔭でさっさと済んだ。文書や感度の悪い玉でちまちまやり取りしなくていいからな」
移動と送受像が上手い奴は便利だ、とマンタを叩く。
「あのね、ヴァーン、さっき……」
禿頭の男の話をすると、ヴァーンは片眉を上げて、ふうん? と四角い顎を摩った。
「心当たりはないが……まあ、俺は有名だからな。クレイも知ってる風か……」
とにかくクレイの所へ戻ろう、と三人で大通りに出ると、クレイは影の長くなった街路樹の下で、別れた時のまま、木に凭れて寝ている。見回したが、チキに話し掛けた禿頭の男は見えなかった。
「おい、クレイ」
ヴァーンは歩み寄って声を掛ける。するとクレイは、ばっと目を開けて一方を見る。その方角にいたマンタは「え?」と瞬き慌てたが、どうやらクレイが見ているのはマンタではない。それに気付いて、マンタも自分の後ろを振り向いた。
「……なんだ?」
ヴァーンもクレイの見る方を眺める。
「……いや」
クレイは立ち上がって荷を背負った。
「何でもない。済んだなら、行こう」
待て待て、とヴァーン。マンタの肩を掴んで、ずい、とクレイの前に押し出した。
「何か月か振りの友人に一言ないか」
「……」
「ヴァ、ヴァーン、いいんだ」
「よかあない。お前もこいつの友達なら、こいつのリハビリに付き合え」
マンタは赤くなって、付き合えって、とおろおろしている。クレイは瞬き、無表情にヴァーンを見た。ヴァーンは口をへの字に曲げる。
「困ったなら困ったって顔しろ。やあ、とか久し振り、でいいんだよ。お前、俺にもチキにも挨拶なしだろ」
こちらも挨拶らしい挨拶はしなかったように思うが、この際ヴァーンは、そんなことはとっくに棚の上なのだろう。
知り合いに会ったら挨拶するんだ、とヴァーンに決め付けられ、クレイはマンタに向き直り口を開く。
「……やあ、久し振り」
言われたマンタは恐縮して、こちらこそお久し振りです、と頭を下げる。ヴァーンは厳格な教師よろしく生真面目な顔を作ってチキを見た。
「チキ。今のは何点だ?」
「……うーん、七十点」
「おい、そりゃ随分甘かねえか?」
「だって」
チキは緩む口元に手を当てる。
「……面白かったからいいか」
ヴァーンも頭に手をやって、その後お元気でしたか、ああ、などという子供の教科書に載りそうなマンタとクレイの会話を眺めていた。
「そうだよ知り合いといやあ、禿げ男がな」
ヴァーンはチキの図書館での話をクレイに伝える。
クレイは目を眇め、先程起きしなに眺めた方向を見た。
「……成る程、知り合いに会ったら挨拶するんだな」
「あ?」
心当たりがあるのか、とヴァーンは尋ねる。
「ある。多分、俺の旧知だ」
「旧知? お前の寝顔を見るだけで帰った奴は昔から禿だったのか」
「知らん」
「知らんて、知り合いなんだろ」
「ああ」
人間じゃないがな、とクレイは付け足す。
「―――」
ヴァーンは、ぐっと眉を寄せた。
「おい、そりゃあ……」
マンタは息を飲み、天地神への祈りを捧げる。
チキ、とヴァーンはチキの顔を覗き込む。
「お前、何もされなかっただろうな? 気配はなかったのか」
「……うん、なにも」
変調は感じない。ヴァーンもチキに異常は見付けられないようだ。
見に来ただけだ、とクレイは言った。
「向こうが何かするまで気付かない……そういう魔物もいる」
臭わない奴もいるんだ、とクレイは船着き場に向けて歩き出した。ヴァーンはその背中に問い掛ける。
「そいつはまさか、スイレーンの主か?」
クレイは答えない。代わりに、もうすぐ逢える、と呟いた。先を歩くクレイの背中が、ぶるりと震えた。
マンタは、メミザからスイレーンに向かう船にいつまでも手を振っていた。今日中にチャルダに帰るのでなければ、一緒に船に乗り込んだに違いない。
船は国境をあっさりと越えて、スイレーンの入口、セイフロに着いた。
船着き場に出入りする時に寺院発行の旅券を見せる。それだけで二国の間を行き来出来るのは、天地神教寺院の働きの成果だ。
「どうだ? 国外旅行も楽になっただろ?」
船着き場から出ながら、ヴァーンはクレイに笑い掛けた。
「……一時期よりはそうだな。もっと昔は、ここに国境はなかった」
ヴァーンは口の端を思い切り下げて、くそ爺い、と罵った。チキはくすくすと笑いを殺す。
スイレーンは西から南に大きな山脈が連なっている。なので、町は殆ど北……バルダ国側に固まっていた。バルダ以外の隣国とは山脈を挟んでいるせいもあって、バルダとの国交は昔から盛んだった。寺院同士のパイプも強くなる道理である。
セイフロの町に入ると、夕闇の迫る視界の右端に寺院の丸屋根、左寄り中央に王宮の尖塔が見えた。セイフロを挟んで、どちらも隣町に建っている。均一な町並みに、にょっきと突き出ているのはその二つ切りだ。
手近な宿屋に部屋を取って……此の度は三人とも一人部屋に泊まる事が出来た……荷物を置いたら食事にしよう、ということになった。
宿屋の中に構えられた食堂は酒場も兼ねていて、後は寝るだけと決めた泊まり客達が、早速朱に顔を染めている。夕飯には少し早い時間か、テーブルにはまだ空きがあった。
「そういやお前は酒を飲まんな」
席に着いたヴァーンは酔漢達をちらりと見て、目の前の椅子に座ったクレイに尋いた。
「下戸か?」
「いや……」
丸テーブルのヴァーンとクレイの間の椅子に収まったチキに、女給が品書きを持って来た。
「酒は飲まないようにしている。絡んでくる人間が激増するんでな」
クレイの返事に、ヴァーンは口の端を下げた。
「……そりゃ賢明だ」
酒は止そう、とヴァーンは品書きを手に取った。
「飲む気だったの? 寺院へは?」
「明日だ明日。今からじゃ夜中になる」
ヴァーンは面倒臭そうに手を振って、二つの肉料理のどちらを選ぶかに真剣だ。
「……そうだな、夜中になるな」
言うとクレイは立ち上がった。
「おい、飯は?」
「出掛けて来る……ヴァーン、チキを一人にするな」
クレイの言葉の後半は、聞き取れない程小声だった。ヴァーンは片眉を上げる。
「……狩りか?」
釣りだ、とクレイは答える。
「おい、待て俺も」
「奴はお前もチキも憶えたぞ」
「……」
わかった、行って来い、とヴァーンは言った。先に寝ていろ、とクレイは食堂を出て行く。
「……どこに行ったの?」
チキの尋ねる声は不安な響きを含んでいた。ヴァーンは笑って、よしお前はこっちの肉料理にしろ、俺はこっちだ、と勝手に決めて、おーい姐さん、と女給を呼んだ。
公務はとうに終わった時間だった。しかし雑務はまだまだ残っている。大臣職は楽ではない。国をぐるりと囲む峻険な山脈と広い河のお蔭で、建国以来侵略を受けた事のない国の王は鷹揚だった。隣国バルダの王は鋭敏だと聞く。いやそれでも、大臣職が多忙である事に変わりはなかっただろうが。
王宮から私邸に帰っても仕事は続く。続けなければ、明日熟す雑務がまた増える。
ナムカンは大きく溜め息を吐いた。今日も家の扉を開けるのは夜中だ。朝出掛けに家を振り返って見る余裕などないナムカンは、もう随分自分の家の外観を見ていない。屋根の色など、思い出せなくなって久しい。
せめて今日は、月明かりが美しいのが慰めだ。
このような月の晩には、思い出す。ナムカンは懐に仕舞ってある物に着物の上から手を当てた。
がさりと、門の脇の植え込みから草を踏む音がした。ぎくりと振り向き、誰だと問うた。この頃魔物が出ると聞く。ナムカンは冷たい汗をかいた。
現れたのは、
美しい想い出だった。
「斯様な夜中に失礼仕ります」
夢か。でなければ月の見せた魔法だ。そこに立っているのは、想い出の中の美しい剣売りだ。いや想い出と違うのは、簡素ながらもスイレーンの訪問着を着ている。また何とその美しい事。
ナムカンは茫然と呟く。
「……これは夢か?」
「スイレーンを通る際は必ず立ち寄れとの仰せでしたので」
言った。確かに。だがあれは二十年も昔……剣売りは変わらず美しい。
「失礼に当たらぬようにとこの国の衣装で参りましたが、こう暗くては余り意味もありませんでしたか。ご不在のようでしたので外でお待ちしておりました……こちらの剣を」
どうぞ、と剣売りは剣を一振り差し出した。豪奢な飾りなどない簡素な剣。それをこの剣売りが持つとどうしてこうも美しいのだろう。
ナムカンは早口で、家に入るようにとまくし立てた。幻が消えて仕舞わぬ内に、自分の縄張りに招き入れようと思った。
剣売りは後をついて来た。主人の帰りを待っていた使用人に人払いを命じて、自室へと招いた。自ら部屋に灯りを点けて、お前から買った短剣はいつもここに持っている、と懐から出して見せた。長剣はさあ、あそこにある、と部屋の壁を示した。剣売りは表情も変えず、ただ軽く頭を下げた。
「――魔物が化けているとは、思われませんでしたか」
剣売りは尋ねた。ナムカンはどきりとした。魔物なのか? と問うと、人ですよ、と剣売りは言った。緊張の反動でナムカンは笑った。近頃、王宮内でも人に化ける魔物の話を聞く。先日も一人の大臣が一時に二箇所で目撃されて、騒ぎになったのだ、と話す。
剣売りはそうですか、と相槌を打つ。
大臣の中にも、魔物を敬えば、神の代わりに我々を守ってくれるのだ、そうすれば恐ろしいと思う騒ぎも消える、という輩もいる始末だ、と……目の前の剣売りの瞳を覗き込んだ。
魔物か、そうか魔物かもしれないな、とナムカンは思った。魔物でもいい、と願った。月が消えてこの剣売りが消えるなら、夜など明けぬがいい。美しい魔物の為に、永遠の夜を。ナムカンは知らず、懐の短剣を掴んでいた。多忙に疲弊するばかりの年月を守り神のように救い続けて来てくれたのは懐の剣だ。幻のように美しい想い出だ。また再び、こうして目の前に立ち現れるとはもう信じていなかった。剣売りに、ここに留まれ、と懇願した。その為なら、魂などいくらでもくれてやると。
口にせぬがいいですよ、と剣売りは言った。
魅入られてしまいます。
魅入られるというなら、とうに魅入られているのだ。この剣を買った、あの時に。
何故引き止めもせず帰してしまったのか、ずっと悔やまれた。せめて一晩なりと飲み明かしてでもいれば、こうまで拘泥しなかったものを。
拘泥していない振りをし続けたのだ。大臣職はそれは忙しく、ふとした暇に剣に触れる事くらいしか出来ない。
――剣に触れる時、この剣売りに触れるつもりではいなかったか。
悔いていたのは酒を飲まなかった事か。
今またこのまま帰すくらいなら。
いっそ、この剣売りと溶け合って仕舞えたら、どんなにか心地良い事だろう。――
「……帰さぬ」
ナムカンは自分の口から洩れる声を聞いた。
「……帰さぬ。良い度胸だ、良くやって来た剣売りめ」
手に持つ短剣を剣売りの胸に突き付けた。ニタリと笑う。
「望み通りに食ってやろう……息を止めるのは最期が良いか?」
はて、どこまでが自分の望みで自分の声だろう。ナムカンは、しかし疑問をいつまでも持ち続けはしなかった。得も言われぬ悦楽に頭が蕩けて、何もわからなくなってしまったからだ。最後に目と耳に届いたのは、短剣を振り回す自分の腕と、キャーッと甲高い使用人の声だった。
隣の部屋の主が帰って来たのを音で知ったヴァーンは、さっとベッドから起き上がった。真夜中だ。なるべく音を立てぬように廊下に出て、隣の戸を開けた。そっと声を掛ける。
「……クレイ」
部屋の中は暗い。窓の外の木立が月明かりを邪魔している。クレイはベッドの上にまだ魔の臭いがする短い剣を放り、左手の手袋を外す所だった。
「……ああ。起こしたか」
すまない、とクレイは謝る。入るぞ、とヴァーンは中に入る。クレイの格好に気が付いた。メミザの服屋で買った小綺麗な衣装だ。
「何が釣れたんだ?」
小物だ、とクレイは答える。服を脱いでベッドに放る。良く見ると服は汚れている。
「チキは?」
「寝てる。異常はない」
そうか、とクレイはいつもの枯れ草色のシャツを着る。
「どこに行ってた?」
「大臣の家だ。王宮の情報を取るつもりだった」
革のチョッキは着けずに、ベッドに腰掛ける。ぶるっと震えた。
「夜風で冷えたか?」
「逢えると思うと体が震える」
ヴァーンは瞬き、眉を寄せる。
王宮(なか)にいる、とクレイは言う。
クレイを食った魔物。それがスイレーンの主と同じという事か。クレイが捜し続けた、憎い敵(かたき)。
「奴なら俺に反応すると思った。案の定だったが、来たのは使い魔……子飼いの魔物だ。奴の体の一部ですらない」
クレイは自分の肩を抱く。首を傾げ、ゆっくりと頭を振って、独り言のように呟いた。
「そうだ、俺は逢いたいんだ。やっと逢える……間違いでなければいい」
そしてまた、ぶるっと震える。
ヴァーンはそっと部屋を出て、自分の部屋に戻った。荷をごそごそと漁って、小さな瓶を取り出す。再びクレイの部屋に戻ると、ベッドに座るクレイの前まで進み出た。
「酒でも?」
手の瓶を振る。クレイは見上げて、頷いた。
「……もらおう」
瓶から直接酒を飲む。ヴァーンはクレイの横に腰を下ろしてクレイが瓶をあおる様を見ていたが、そのまま全部行くんじゃないだろうな、と心配になる勢いだった。ちゃぽん、とヴァーンの手に返された瓶には、まだ半分程取り分が残っていた。
「……イケる口だな」
「そうか? 人と飲み比べた事はないが」
飲まれる前に飲むぜ、とヴァーンは残りの酒を一息にあおった。空の酒瓶を下ろすと、クレイが興味深そうにヴァーンを見ていた。
「……なんだ?」
「いや、人が飲む所をじっくり見るのは初めてだ」
そうかい、と言うとそうだ、とクレイは頷く。もう酔いが回って来たのか、目元がほんのりと赤くなり、こちらを見る目付きも酔っ払い独特の絡み付くような視線である。
(……いかんいかんいかん)
つい見詰め返して、ヴァーンは空の酒瓶を確かめる振りをした。
「空だろう」
「……空だな」
「……何十年振りに飲んだからな」
自分に言い訳するように、クレイはベッドに手を着いた。ふらつくのだろう。酔いの回りが早い。かと思うと、急にくっくっと笑い出した。ヴァーンは驚いてまた見詰める。
「ふ……ふふっ……」
込み上げる笑いに体を揺すっている。
「おっ何だ、笑い上戸か?」
ヴァーンも釣られて声が笑った。
さあ、どうだったか、とクレイは笑う。
「どうだったかって、笑ってるじゃねえか」
「ああ、もうじき終わる」
そう思うと、とクレイは笑う。
「……」
ヴァーンはクレイの肩を掴み、笑いに揺れる体を起こした。
「おい。クレイ」
クレイは笑ったまま、顔をヴァーンに向ける。こいつの笑っている顔をこんなに長く見るのは初めてだ。
なのに、畜生。嬉しくない。
「忘れるなよ。俺がいる。チキもいる。少なくとも、お前のすぐ近くで人が二人泣く」
死ぬなよ。と、囁いた。
クレイは薄く笑って、何も言わずに、ヴァーンの肩に頭をとん、と乗せた。
「クレイ?」
あっと言う間に寝息を立てる。
「寝たのか……」
せめて朝までの安眠を守りたかった。チキの部屋に施したと同じ結界を、この部屋にも張る。ヴァーンにとって寝酒にもならない量だったが、クレイをベッドに横たえて、自分も部屋のベッドに潜って、眠る努力をした。
朝になってみると、クレイはお尋ね者になっていた。
「……どういうことだ」
クレイを叩き起こしたヴァーンに、クレイはいつもの顔で、さあ、と述べる。
「屋敷の使用人に見られたのは、大臣が取り憑かれて短剣を振り回している所だったと思ったが」
俺が物取りで大臣が立ち向かっている、と思ったかもしれんな。クレイの推測をヴァーンは打ち消す。
「じゃあなんで容疑が『大臣の殺害』なんだ?」
死んだのか、とクレイ。知らなかったようだ。
「俺あ用足しに起きた所を宿の女将に尋かれてびっくりしたぜ。『背の高い黒髪の男が大臣を殺したそうだ。あんたの連れにもそういうのがいるね』俺は一緒に酒飲んでました、つったよ」
言葉は足りないが、嘘じゃない。
「そうか……殺されたのでなければ、自殺だろう」
「自殺?」
「突然の自分の堕落に、通常の人間は耐えられない」
「……ああ」
魔物が落ちて、正気に戻った後の事だ。チャルダ寺院の大司祭も自殺を企んだ。魔物を落とさないでいてやる方が親切かといえば、そうも行かないのだから仕方がない。
「……殺されたってのは?」
「魔物が俺に化けたんだろう」
俺の動きを封じるつもりだ。クレイは淡々と分析する。夕べの酔っ払いの影はどこにもない。
トントン、とノックの後にチキの顔が戸から覗いた。
「入っていい?」
おう、入れ、とクレイの部屋なのに許可はヴァーンが出す。「怖い話を聞いたから……」とチキはおずおずと戸を開ける。ヴァーンはきっぱり「クレイじゃねえ」と断言した。チキは「そうだね……そうだよね」と笑った。
「……さて、となるとのんびりもしてられねえな」
ヴァーンは首を左右に曲げる。ああ、とクレイは立ち上がる。
「移動した方がいい」
「王都……サレーンに行くか!」
「寺院は?」
チキに問われて、ヴァーンは口の片端を捩じる。
「そうだな……もしかしたら連絡があるかも……」
考えて、いや、と首を振った。
「主の魔物は手強そうだ。寺院に手が回ってたら目も当てられねえ」
そっか、とチキも得心した。とにかく手が回る前に町を出るぞ、とヴァーンの号令で、荷物を取りに各部屋に散った。
セイフロとサレーンの境界にはヴァーンの背丈程の壁があって、検問により王宮を構える都への犯罪者の流入を防いでいた。
「こんなもんがあっても、魔物にゃ関係ねえのになあ」
などとヴァーンが言うので、ないよりましだろ、とチキは縁もゆかりもないスイレーンを庇った。けれどそのお蔭で今は自分達が検問に引っ掛かっても面白くない訳で、ヴァーンの魔法で姿を消して、見咎められることなくサレーン入りを果たした。
さてまだ昼前だが、王宮近くの宿屋に入るか、それとも野営か突撃か……にしたところでチキは連れて行けないのでどこで寝たいチキ、と相談していると、聞こえるどよめきの中に魔物だ、と叫ぶ声がした。
さっと目を見交わし三人が駆けて行くと、町中(まちなか)に昼間から暴れているのは確かに魔物だ。泣き叫ぶ子供が、逃げる人波に押されて転んだ。猿に似た魔物は悪戯けたように飛び跳ねて、逃げ遅れた子供に躍りかかる。先んじたのはヴァーンだった。背中の大剣を抜き、走り抜けざま猿の魔物に叩き付ける。魔物の体は真っ二つになった。チキは泣く子供を助け起こす。しかし落ちた魔物の体は、二つになっても跳ねていた。三つ、四つに斬られても変わらない。それでクレイが、左腕に手袋を嵌めた。四つの内の一つを見極めて、黒手袋をずっと埋める。鎌のような形の刃物が抜き取られた。途端、四つに別れた魔物の体は、悉く霧散した。
わあっと人々が沸いたのは一瞬。足音高く現れた警備隊によってヴァーン、クレイ、チキが囲まれると、歓声は水を打ったようにしんと静まり、次には人々が固唾を呑む様子が感じられた。
「……おいおいおい」
罠かよ、とヴァーンが眉を顰める。やられたな、とクレイは呟いた。三人を誘き出す為に、魔物はわざと放たれたのだ。チキは込み上げる怒りに震えて、大声で怒鳴った。
「怪我人が出たらどうするつもりだよっ!」
全くだ、とヴァーンは頷く。隣国スイレーンのこの現状を、バルダ国で把握していたとは思えない。国に魔物が食い込んでいる。このままではスイレーンは滅ぶ。隣国の火事は人事ではない。いや、事は二国間だけの問題ではない。
警備隊の一人が、チキから子供を取り上げた。子供はお姉ちゃん、とチキを呼んだが、三人は警備隊に囲まれて、王宮方面へ連行されて行った。
(続く)