・第五回
ヴァーンと別れて、チキとハンナは、僧官に連れられて客室へ移る事になった。先導する僧官の背に、チキはあの、と声を掛けた。
「ヴァーンと一緒にいた、黒髪の男の人は……」
僧官は、ああ、と頷いて、怪我は大した事はないと聞いてます、と答えた。
「怪我……」
チキは息を飲む。クレイは怪我をしたのだ。ヴァーンは眠っているとだけ言ったのに。
「会わせて下さい!」
会いますか? と僧官は問う。チキが頷くと、ではこちらへ、と廊下を突き当たりまで案内された。小部屋に入って扉を閉じる。中の黄色い玉に僧官が触れると、間もなくその小部屋を出た。来た時にも不思議だったが、これで階を移動したのだ。
廊下を幾度か曲がって、消毒薬の臭いのする場所に出た。こちらです、と僧官は扉を示す。患者は眠っているはずなので、お静かに願います、と言って、扉を開けた。
中には僧官が一人、椅子に腰かけ、ベッドに向かって手を翳していた。ちら、と入って来たチキとハンナを一瞥したが、気に掛けた様子もなく、またベッドに向き直った。
ベッドにはクレイが寝ている。
「……――」
赤黒い血を、たっぷりと貼り付けて。
チキは震え出した。叫びそうになり、口に手を持って行く。声を堪えると、途端に涙が溢れ出た。
「チキ……」
ハンナが、そっとチキの腕に触れた。
「大丈夫よ、ヴァーン兄様だって何も言わなかったもの、あれはあの人の血じゃないわ」
でもほんとに、と優しく言う。
「綺麗な人ね」
何も出来ないチキがそこにいても邪魔だとわかっていたが、チキは暫くの間動けもせずにただ泣いて突っ立っていた。ハンナは柔らかい手で、その間ずっとチキを抱き締めていた。
円卓を囲んでいるのは、上三位以上の二十名程の僧官だ。年寄りも若い者も、何れも無理矢理不味いものを食わされた顔をして、ディーンの話を聞いている。ヴァーンは叔父の隣の椅子に深く腰掛けて、腕組みして僧官達の様子を眺めていた。
卓上には、クレイが魔物から取ったばかりの剣が、どんと置いてある。
「……こういった事情で、ハンザン様がご本復なさるか、正式に次の大司祭がヘンダル大寺院から指名されるまでは、前任のライ司祭様にご采配頂こうと思っています。ご病気で療養中ではあるが、致し方ないところを良くご説明して、お願いするつもりです」
老いた僧正の一人が、枯れた手で卓上の剣を指した。
「……誠にそれが魔物の腹から取り出した剣だと言うのかな?」
クレイの手から離した後、剣は急速に魔物の臭いを失っている。それでも臭いはかなり残っているのだ。寺院の長、司祭に成り損ね、僧正を長く勤め過ぎて感度の鈍くなった者はともかく、マンタなどは、先程から脂汗を浮かせて、じっと剣を睨んでいる。
叔父はちらとヴァーンを見て、「相違ないな?」と念を押した。
ああ、とヴァーンは頷く。
古老の僧正達が、ううむ、と白い髭を震わせ思案する。
「だとするなら、我々の修める魔法とは系統を異にするものですな」
「その昔、生命の精髄から剣や鏃(やじり)を取り出す事の出来る者がいたとか……」
「古い文献に見える著述ですな。すればそのクレイと言う者は、その鍛冶一族の末裔やもしれませぬぞ」
「しかし、一族が滅んだのは、記録によれば少なくとも既に百年以上の昔……」
「先祖返りですかな」
もしクレイが本当にその一族の者ならば、先祖返りである必要はない。恐らく、クレイ自身が最後の生き残りなのだ。
「いや、著述が正しければ、一族は魔物の襲撃を受けて滅んだはず。今に至る血脈の残るはずが」
「記録は全て正しいとは限りませんでな」
オホン、とディーンは咳払いをした。
「あの青年の出自はともかく、今は、この寺院が守って来た『聖なる跡』が魔物の縄張りを示すものであったという事実を、チャルダ寺院としてはいかに」
信じられんなあ、と老僧官は目をしょぼしょぼとしばたいた。
「クレイとかいう青年が言っているだけなのであろ。確証もない」
ヴァーンが報告したハンザン大司祭の告白は無視したか、忘れられている。
「何、けちのついた物を拝むのが拙いと言うなら、寺院を引っ越しでもしますかな。すると、チャルダ寺院ではなくなりますわなあ」
別の老官が、ふぉ、ふぉ、と笑う。
叔父はぐっと眉間に皺を寄せて、問題はそこではない、と訴えたいようだった。
「しかし、」
と神妙な声を出したのは、古老より少しは若い僧官だ。襟の色は叔父と同じ上一位。
「真偽はともかく、その剣は嫌な波動を出しているようだ。封じてしまわずとも良いものなのかね、ヴァーン君?」
叔父の他にもまともな話が出来る者がいたようだ、とヴァーンは僅かに安堵して、背凭れに預けた身を起こし腕を解いた。こんな古老のような連中ばかりが寺院内で幅を利かせていたのなら、ハンザンが大問題を背負い切れずに半ば自滅の道を選んだのは仕方なかったかも知れない、とほんの少し同情していたところだ。
「そうする場合もあるらしいが、これは別にいいんだろう。俺なら扱えるだろう、と言ってクレイは俺にくれたんだし、もっと邪気の薄い剣なら、普通に売り物にしているしな」
「……売り物?!」
剣の邪気を少なからず感じている者は、ぎょっとしたようだ。それはクレイが剣売りだと知っていたマンタも同様で、魔物から取った剣が、物によっては是程邪を残すとは思っていなかったのだろう。
「……小物の魔物から取った剣なんて、その辺の人間の持つ邪気と何ら変わりゃしないぜ?」
とヴァーンは言ったが、金を取って魔物の邪気をばら蒔くとは、とやはりヴァーンの言葉を聞かない古老達は囁き合った。
そうか問題はないか、と言ったのは封じずとも良いかと尋ねた僧官。「さても」と今度は笑って続ける。
「火急の寺院と大司祭の危機を脱したのは、ヴァーン君の活躍あったればこそ、なら、これはやはりもう、任官して頂かねばなるまいなあ」
げっ、とヴァーンは声に出して言ってしまった。
この親父、さては叔父貴と懇意か。
少しでも使える人材を寺院に入れようと言う腹積もりなのだ。
ヴァーンはこそこそと席を立って逃げ出したかったのだが、そこはそれヴァーンの体躯でこっそりと行くはずがない。
「ヴァーン、話はまだ済んでいないぞ」
と叔父に耳を掴まれた。
ヴァーンが席を立つのを許されたのは日付けが変わった後で、まだ暫くは滞在しろと言う事なのだろう、必要な物は用意させたが足りないようなら遠慮なく言え、と叔父直々に客室の一つに案内された。
「ハンナちゃんとチキ……ちゃんか? 二人はもう眠ったそうだ。それと、ヴァーン」
ドアに手を掛けたヴァーンに、叔父は声を落として告げる。
「申し訳ないが、多分お前以外の者では、彼は警戒するだろう。治療室からここに移って、今は眠っているはずだ」
ヴァーンは目を見開く。
「見張れってのか」
「この際彼の人格の是非は関係ないのだ」
「クレイは寺院なんかにゃ興味ないぜ」
「問題は、彼と魔物の繋がりだ、ヴァーン」
「奴は魔物を嫌ってる」
「それも問題ではない」
「寝る」
言い捨てて、ヴァーンはドアの中に逃げ込んだ。うっすらと、血の臭いがした。明かりを付けずに、廊下から洩れる光で部屋の中を眺めた。
血の臭いがするのは、クレイだ。左右の壁側にある二つのベッドの内、布団が膨らんでいる方へ寄って行く。屈んで覗き込むと、クレイの顔にまだ血糊が残っているのが見えた。余り綺麗に拭いてもらえなかったものとみえる。軽く布団を捲ってみると、胸には包帯が巻かれている。
ヴァーンは暫く思案した。残る血糊を拭いてやろうか、それともこのまま寝せておこうか。
拭いてやれば良かったと、ヴァーンは暫くして後悔する。
寝床に入って漸く緊張が解れてきた体に、眠りに落ちる前の心地良い痺れがやって来た頃。
暗い部屋の中、クレイは突然叫んで飛び起きた。
「お父さん……!」
声が泣いている。ヴァーンはさっと意識が冴えたが、ベッドの中で寝た振りをした。暗闇を透かし見て、クレイの様子をそっと伺う。
はあはあと湿った荒い呼吸をして、顔や肩や腕やに触れ、じっと自分を抱いて息を整える。
そしてちら、とヴァーンの方を見た。
ヴァーンは壁の方を向いて、寝た振りを続ける。
やがて落ち着いたクレイは、ベッドを下りて、ドアに向かった。部屋を出る時に小さく一言。
「洗って来る」
ドアが閉まる。
(……俺の馬鹿め)
ベッドの中で、ヴァーンは己を叱責した。
まんじりともせぬまま翌朝になった。疲れていたが眠れなかった。クレイが部屋に戻って来ない。
ヴァーンは早々に起き出して、クレイを捜しに出掛けた。体を洗って来る、と言って部屋を出たのであるから、風呂場か流しに行ったはずだ。
まさか、とは思ったが、やはり既に風呂場に姿はない。部屋に荷物はあったのだから、さっさと出立した訳ではないだろう。
そしてヴァーンは、チキとハンナの部屋の前でクレイを見付けた。なんとマンタが一緒だ。
「……なにやってんだ」
尋ねたヴァーンに「ああ、おはようヴァーン」と挨拶したのはマンタで、クレイは一瞥しただけだ。見たところ、血糊は綺麗に落ちている。臭いもない。クレイは僧官の白い簡易服を着ている。いや、襟も白いから、任官前の学生が着る長衣だ。腰に縛ってある紐は母校のチャルダ魔法学校のものだ。そう言えばクレイは着替えは持って行かなかったはずだ。マンタが用意したのか。
「お連れの部屋の場所を尋かれたから、案内を」
マンタは随分機嫌がいい。何故か手にタオルを持っている。
「で? 朝っぱらから、ドアの前で何を待ってるんだ?」
マンタは答を知らないようだ。笑ったまま尋ねるようにクレイを見たが、それ以上何も言わないうちに、部屋の中からハンナの声が聞こえて来た。
「待っててね、すぐにお医者を」
ドアが開く。外に三人も男が立っていた事に、ハンナは仰天したようだ。
「……まあ!」
クレイは長衣のポケットから小さな袋を取り出した。「チキに」そう言って、袋を驚いているハンナの手に渡す。
ヴァーンはおはようを言い損ね、呆けてやり取りを眺めた。成る程、チキの薬が切れる頃合いを、クレイは承知していたのだ。
部屋の中から、「クレイ?」とチキの声がした。
「薬だ、飲ませてやってくれ」
クレイに言われて、ハンナが部屋に取って返す。
「……いつから待ってた?」
「……夜中に苦しんで起きるかもしれないと思ったからな」
クレイからマンタに視線を移す。
「……あ、はは。つい、一緒に。どうせ眠れなくて寺院内を巡察していたから」
成る程。マンタの機嫌の良さは、寝不足の興奮も混ざっているのだ。
(って……おい? 夜中中こいつと一緒にいたのか?)
同級生をじいっと見ると、どう思ったか、マンタは顔を赤らめて事情を話す。
「いや、だって夜中に水を使っておいでだったから、急いでお湯を用意して差し上げたんだが……その後廊下で立ちん坊じゃ、風邪を引かれやしないかと」
そこから一緒だったのか。
「髪も濡れたまま行こうとされたから……」
手のタオルを持ち上げて示す。それを持って追っかけた訳だ。
こりゃ捕まったな。ヴァーンは内心に息を吐く。マンタの興奮気味の機嫌の良さは、恋を知り染めた乙女と変わらぬものだったらしい。
「クレイ!」
部屋の中から、元気な声がして、チキが姿を現した。
「ありがとう」
真っ直にクレイを見て、頬を染めて礼を言う。ヴァーンその他は目に入っていない。成る程、確かに恋する瞳だ。自分と同じだからすぐにわかったと、ハンナは言った。
(……うう)
気にはなる。なるが、あんまり問い詰めてハンナに嫌われては本末転倒だ。
クレイは薄く微笑んでいる。こう見えてこいつが実は人間をとても好いているのだと、付き合いの中でヴァーンは気が付いている。ただ、あまり笑って見せるサービスをしない奴だと言う事も承知している。
もう動いているのか元気な連中だ、と廊下の向こうから声が飛んできた。
「ヴァーン、ライ司祭様がお話があるそうだ。来なさい」
四角い顔に汗を浮かべて、叔父が走って来るところだった。
数時間前にはむさ苦しい面相が揃っていた会議室に、ライ司祭は一人で円卓に手を付き、席にも着かずに立っていた。
お久し振りです、と入室したヴァーンに、ああ、卒業以来だね、と青白い顔をくしゃっと笑みにしてライ司祭は手招きした。
知っている頃より皺と白髪が増えた。小柄で迫力などない。健康だった頃からそれは変わらない。魔法の不得手な先輩だった。それでもヴァーンは、この先輩には敬語を使うのだ。
「お加減は如何です」
「うん、大分いい。まあ、激務にどれだけ耐えられるかは約束しかねるけどねえ」
ま、次が決まるまでだ、と小さく頷く。復任を承知したのだ。チャルダ程の大寺院を任せられる人物がそういる訳ではない。果たして次がいつ決まるものか、ライもわかっているだろう。
「お話とは?」
「うん、それだ」
夜中に連絡を受けてねえ、とライは話す。
「とにかく、急いで仕度して、チャルダに来たんだけどね」
「……いつです?」
「夜中の内だよ。それで寺院の様子を眺めて、ディーン・ハンプクトにはついさっき会ったな」
ヴァーンは呆れる。そりゃあ叔父も汗が出る程走るはずだ。夜中から今まで、意図してでなくとも、ライ司祭をほったらかしにしていた訳だから。
「そこで、私は夜中に水音を聞いた」
「……」
ライ司祭は、ほんの一寸、尋ねるようにヴァーンを睨んだ。
「水浴びをしていた<あれ>が、クレイだね?」
ヴァーンは黙って頷いた。ライの目を見て、そこに映ったクレイがどんなものだったのか、透かし見ようとするように。
「……こんな時間に、水音だ。一大事があったようだから、ついさっきまでは寺院の中も喧騒に満ちていたのかもしれないと思ったがね。私がうろついた頃には、人の声も殆どしなかった。誰かが水を止め忘れたのかとも思ったよ。それで、覗いた」
クレイの水浴びを。
ヴァーンにも想像がつく。水に濡れた、しかも夜中のクレイは、さぞ艶っぽいことだろう。……そして、怖い。
「……恥ずかしながら、私は逃げたよ。人がいると思った時には、丁寧に失礼を謝って去ろうと思った。だが、目が合った。……空いた縄張りを早速狙ってやって来た、次の魔物かと思った」
ライの言葉は静かなものだ。だが、ヴァーンは額から汗が流れる。
「ハンザン殿にもお会いした。お気の毒にな……私に『頼む』と言い置かれて……毒を」
「なっ」
「あおられようとするので止めたがな」
ヴァーンは思わず、大司祭まで昇った先輩に「おいっ」と突っ込みを入れそうになった。ハンザンの自殺が未然でほっとした拍子に、そう言えばこの人はこういう人だった、と魔法学校に入学したての頃のことを思い出した。
親子程も年の違う新入生を捕まえては、手のひらに乗せた雛鳥を見せ、この鳥はこれ以上大きくならないんだよ、などと話し掛けるのだ。すぐ隣に、心配そうに親鳥がついて来ている。大人になれば大きくなるでしょう、と親鳥を新入生が指す度に、やっぱり誰も信じないかあ、と笑っていた。ライはヴァーンにも同じように話し掛けた。そこでヴァーンは、大きくならない魔法でも掛けたんですか、と尋ねた。するとライは目を見開いて、そんな可哀想な事をするものか、と言ったのだ。時が経てば大人になってやがて地面に還って行く、それが正しい生命の定めだよ、と諭した。ヴァーンが聞きたかったのは生命の定めではなく、大きくならない鳥の種明かしだった。だから本当はどうなのだと尋いたところ、ああ冗談だよ、とそれが答だった。ライはその後も笑いながら、新入生を捕まえていた。
「……姿が、変わらないそうだな」
魔法が不得手な先輩は、昔から人の心理の洞察に優れていた。
「おそらく、彼は魔物だろう」
「人です」
即座に訂正するヴァーンに、ライは微笑を寄越す。
「……そうだな、ヴァーン。お前にとっては人だ。だがハンザン殿や私には、彼は魔物に見える。私は逃げたが、ハンザン殿は彼の魔力にやられたのだよ。……実はね、ヴァーン」
あの時、とライは宙を指す。
「大きくならない雛鳥と聞いて、異様な興味を示した子がいた」
ヴァーンが新入生当時の事を思い出していたのを、やはり気付いている。
「その子の目はね、まるで、魔に取り憑かれたようだったよ」
「……」
あの時は、そういう子を捜していたんだ。魔法を学んで行くうちに、必ず出て来る道を踏み外す者をね。そう言ってから笑う。
「ああ心配ないよ。その子はちゃんと正しい道に進んだから。今頃は魔法学校で教師をしているよ」
ライに導かれたのだ。こんな風だから、魔法が不得手でも、司祭様、と慕われる。司祭様はぷぷっと吹く。
「お前も、面白い子だったねえ。私は、これは優秀な子が入ったと思ったよ」
事実、たった二年でさっさと卒業して行った、と大仰に頷く。
「大抵の子が親鳥を指して嘘だと言うのに、お前は純粋にその方法を知りたがった。出来るはずもないと切り捨てもせず、老いぬ命に魅入られるでもなく……だからこそだヴァーン」
覚悟があるのかね、と尋ねる。
ライの人の善い顔の小さな目は、ひたとヴァーンを見据えている。
「お前にとっては彼は人だろう。だが時から見放された生命が、神の加護の内にあるとは思えない。お前には痛い言葉だろうが、聞きなさい。クレイは、ただの人ではない。縦しんば魔物でないとしてでも、身内に魔を宿している。その魔を御し通せるかね? 彼と共にあって、自分自身のみならず、周囲の誰もに友人を人として在り続けさせる自信はあるかね? なければ」
ライは言葉を切る。続きがヴァーンにはわかる。
ヴァーンは俯いた。
「ヴァーン」
「あいつは」
声を絞り出す。
「ただの人間だ。気の毒なただの人間だ。……あいつは、普通に年を取りたがってる」
ライは、そっと息を吐いた。そうか、と優しい声で労った。
「責任者なんてものは、こんな嫌な念押しもしなくちゃいけなくってなあ。許しを乞うよ」
嫌な念押しだ。クレイがいよいよ人でなくなった時には。
ヴァーンが、始末を着けねばならぬのだ。
……それより先に、ヴァーンの寿命が尽きた時には、どうしたらよいのだろうか。自分の命以上の責任など、取れるはずもないものを。……クレイは、何れ程の責任を負うと言うのか。負わねばならぬ責があるのか。
「さあ、彼が人でいられるように、友人の側にいてやりなさい。……ああところで」
顔を上げたヴァーンに、ライは尋ねる。
「クレイは、そもそも年は幾つなんだね?」
「……さあ。百から先は数えてないって言ってましたがね」
「……そりゃあ大先輩だ」
ライは大真面目な顔で、両手を二度握る。そうしてから、百年前の彼の町では、お祈りはこれで良かったのかねえ、と尋く。さあ、と一緒に首を傾げて、ヴァーンは「ああそうだ」と声を上げた。にやりと笑って指を立てる。
「覚悟の代わりっちゃなんですが、一つ、先輩にお願いがあるんですがね」
ライはきょとんと目をしばたいた。
すぐに立ち去ろうとしたクレイを強く引き止めたのはハンナで、「ヴァーン兄様のお話が聞きたいわ」とせがんだが、二人を外に待たせて急いでベッドを整えている時に、ハンナはチキに片目を瞑ってみせたから、半分はチキの為だったのだろう。
宛てがわれた客室には椅子が二つだったので、マンタが用意してくれた湯でお茶を煎れて、小さい机を挟んで男二人が椅子に、チキとハンナがベッドに並んで腰掛けて、一寸した茶話会を楽しんだ。
「お二人とも、ヴァーン兄様とは随分仲良しみたい。私、兄様の従妹だけど随分お会いしてなかったわ」
これにマンタはにこにこと応える。
「俺も何年振りかだなあ。魔法学校を卒業してから、一度会った切りだったから」
ハンナはクレイを見て首を傾げる。催促を受けて、クレイは「……俺は」と言いかけて口を噤んだ。
「……クレイ?」
クレイは考え込んでしまった。拳を口元に当て、何か思い出しながら数えている。
ハンナは助け船のつもりで、初めて兄様とお会いになったのはいつ? と尋ねたが、クレイはああ、いや、とはっきりしない。
「……四度……会ったのはこれが四度目だとは思うが……いつ会ったかは憶えていないな」
他の者ならともかく、あれほど強烈な印象を持つヴァーンに会った時を憶えていないとは。
「何時(いつ)と言うなら、夜だった。ヴァーンが言うからそうなんだろう」
自分で憶えている訳ではないのだ。
その後のハンナの問にも、クレイは殆ど満足に答えられない。近頃は物覚えが悪くなったんだ、とどこか喜んでいるように言うクレイに、まあ、物忘れはしない方がいいわ、とハンナは呆れていた。
「チキ、あなたも何かお話なさいな」
顔を覗き込まれて、チキはお茶を喉に詰まらせ掛けた。
正直なところ、チキはクレイに見蕩れていて、話す事を考えていなかった。
「……えっと」
なので、つい今までぼんやりと思っていた事しか口から出て来なかった。
「……白い服、似合ってるね」
まあ、チキったら、とハンナはチキの状態を了解したようだ。ええ、そうね、と我が事のように頬を染めてチキに微笑む。
クレイは、そうか、とマンタを見た。
「なら、こちらの僧官に礼を言わねばな」
「えっ……いいえ、そんな、とんでも」
マンタは慌てて手を振って、勢い余ってお茶を少し零してしまった。
「おっまだここにいたか」
半開きだったドアを勢いよく押し開けたのはヴァーン。背中には荷物の袋と新しく手に入れた大剣。すっかり旅仕度が出来ている。
「ヴァーン?」
尋ねたチキと振り返るクレイを交互に眺めて催促する。
「行くぞ、行くだろ?」
「行くって……」
瞬くチキ。マンタは立ち上がって「おい、ヴァーン」と咎めた。
「お前、こんな急に、まだ出立の許可も出ていないだろうに」
「いいんだよ、ライ司祭と話をつけた」
背中の剣をポン、と叩く。
「これ以上は、足止めもお咎めも没収もなしだ。無論お咎めなんざ、最初っからある訳ねえんだけどな」
ついでに俺の任官もなしだ、と機嫌よく付け足す。
「な……ヴァーン!」
「いや、だから、咎で任官資格剥奪じゃないんだって。俺の希望が通ったんだよ!」
青ざめて食ってかかった同級生に、手を挙げてヴァーンは宥める。
「……そうか」
言ってクレイは立ち上がった。マンタはヴァーンとクレイを交互に見上げながら言い募る。
「もう少しゆっくりしても、クレイさんの傷だってまだ」
治った、とクレイ。
「そんな」
「俺の服は」
表情もなくクレイに尋かれ、どこか淋しげなマンタの肩をぽん、と叩いて、ヴァーンは小さな声で慰めた。
「そんな顔するなマンタ」
「え?」
「初恋は実らないもんさ」
マンタの顔がさっと赤らむ。
「なっなななん」
ヴァーンはにやにやと、更に小声で囁いた。
「クレイに惚れてもいい事ねえぞ?」
「ヴァーン!」
当のクレイは涼しい顔で二人の会話を聞いているのだ。マンタはいたたまれまい。
ヴァーンは、はっは! と笑い飛ばして、マンタの肩を抱いたまま「クレイ」と呼んだ。
「握手くらいしてやれ。こいつはお前と友達になりたいんだ」
クレイは暫く考えてから「……ああ」と右手を差し出した。「ほれマンタ」ヴァーンに促され、緊張した面持ちで、マンタはクレイの右手を取った。黙ったままの二人にヴァーンが再び促す。
「よろしく、くらい言えよ」
「……よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
クレイは特に思うところもなさそうに見えたし、マンタの方はクレイの顔も見られずに緊張して汗までかいている。
ヴァーンは片眉を上げた。徐にクレイに尋ねる。
「……おい。俺たちは握手なんてしたか?」
「……さあ」
ヴァーンは口をひん曲げて、クレイの左手を取った。
「悔しいから握るぞ」
そしてぐっと敵でも睨むようにクレイを見据え、「よろしく」と腹の底から声を出す。
クレイの両手を、男二人がしっかと握っている図は、なかなかに間抜けだった。そこにハンナはチキを押しやろうとする。
「チキ、負けちゃ駄目よ!」
「えっええ?」
ぐいとヴァーンとマンタの間に背中を押されて入ったが、もうクレイの握る手もない。
「ええと……」
困って、目の前にあった、クレイの着ている服の腰紐をきゅっと握った。
「よ、よろしく……」
全員の視線を感じてチキが俯いていると、フッとクレイが吹き出すのが聞こえた。
はっとして顔を上げると、クレイは笑ってチキに言った。
「こちらこそ」
突然恵まれた綺麗な笑顔に、チキは体温が上がっていくようだった。ヴァーンはどこか満足気に笑って、右手でクレイの肩を叩き、握手を外した手でチキの背を叩いた。
「……その服はお持ち下さい」
マンタがクレイの手を離したその手で、ぎゅっぎゅっと天地神への祈りを捧げる。
「クレイさんの服は、破れてしまったり、酷く汚れたりしていたので……」
「……ああ」
有難う、とクレイは礼を言った。マンタは左右に首を振る。そして、ふと思い付いたようにチキを見た。
「……しかし、医者なら、ここにも腕の良いのがいますが」
「来るよな、チキ?」
ヴァーンが誘う。
「グラードまで行くんだもんな」
ヴァーンの明るい笑顔が、一瞬迷ったチキにうんと言わせる。「私も」と叫んだのはハンナだ。ヴァーンはしかつめらしい顔をしてこれを却下する。
「ハンナは迎えが来るまで待ってなさい」
ハンナは可愛らしい顔を小鳥のように傾げて訴えるのだ。
「一緒に行きたいわ、途中まででも」
ヴァーンはぐらりときたようだ。だが、駄目だ、と翻さない。
「俺たちはグリンレイの方へは行かないし、お前の家族はそりゃあもう気を揉んでるところなんだぞ。送って行ければ一番なんだが、今は叔父貴を始めとして寺院はとっても忙しい」
「だから兄様が送って下さればいいんだわ」
「……だから、お前は大人しくここで迎えを待ってるんだ」
ハンナは細い眉を心細く顰めて、しおしおと俯いた。ヴァーンは居心地が悪そうに、慰める言葉を捜しているようだった。
「……私」
俯いたまま、ハンナがぽつりと呟いた。
「それはとても恐ろしかったけれど、魔物に連れて来られて、少しは良かったと思ってるの」
「……ハンナ?」
ハンナは顔を上げる。健気に、にこっと笑って見せる。
「だって、ヴァーン兄様に会えたんだもの。道中のご無事をお祈りしますわ」
そうして、天地神への祈りを捧げた。
ヴァーンは多分、ハンナを抱き締めたくて仕方なかったのだ。我慢しているのが、ありありとわかる。顔に出ている。
「……ハンナ。あのな。その」
口を思い切りねじ曲げて、ヴァーンはその問を口にした。
「……お前が恋している男ってのは、誰だ?」
ハンナもチキも、目を見開いて、口を開けた。この期に及んで。
チキはハンナに目をやって、笑っていい? と尋いた。ええ、笑って頂戴、とハンナは答えて、深呼吸した。
「いいわ。特別に教えてあげます、ヴァーン兄様。その殿方というのはね」
ヴァーンは、まるで娘の口から罪状を聞く父親のような顔をして、じっとハンナを見ている。ハンナはすたすたとヴァーンに歩み寄ると、耳打ちをするような手付きをして、屈んで下さる? と言った。ヴァーンは頷き、その場に屈む。ハンナはヴァーンの耳に口を寄せ、
頬に、キスした。
ヴァーンの驚いた顔と言ったら。
ハンナはさっと身を引いて、朱に染めた頬を隠しもせずにヴァーンに叫んだ。
「これでもまだわからないなんて仰るなら、私、従妹の縁を切るわ!」
「お……」
ヴァーンは眼も口も大きく開けて。
クレイは薄く笑っている。ドアを出て「荷物を取って来よう」と言い残した。
「……俺か?!」
「ヴァーン、手伝ってくれるだろう」
廊下からクレイの声が呼ぶ。
ハンナはとうとう耐え切れずに、顔を覆ってチキの後ろに隠れてしまった。
「ハンナ、」
「いや、兄様、あっちへ行って!」
ヴァーンはマンタに連れられて、振り返りながら部屋を出た。
ハンナはそうっとチキの背から顔を出して、ヴァーンが去ったのを確認すると、その場にぺたりと座り込んだ。
「……すごいよ、ハンナ」
チキも一緒に床に座る。
「どうしようチキ、私心臓が破裂しそう」
「うん。おいらも一緒にどきどきしちゃったよ」
ハンナはチキを見て、いい人ね、と笑う。そして、いいこと、と興奮した顔でチキの鼻を指差す。
「あなたもこれくらいしなくちゃ駄目よ」
「……ええ?」
「だって何だか、ヴァーン兄様と同じくらいぼんやりした人のようだもの」
ぼんやりと評するのが何だか可笑しくて、チキは吹き出して言い訳した。
「でも、おいらじゃ駄目だろうな。ハンナくらいに可愛いのじゃないと」
あら、とハンナは眼をしばたく。
「あなたとても綺麗な瞳(め)をしてるのよ。知らないの?」
「……瞳(め)?」
そうよ、と微笑むハンナはとても愛らしい。ハンナの目なら、それは綺麗だけれど、とチキは思った。
ハンナが、そっとチキの手を握る。
「私達も、握手」
そう言って、ぷっと吹いた。
「面白かったわ、さっきの」
「……うん。そうだね」
くすくすと笑い合う。
「また会えるわね? 私達。チキは病気を治して」
「うん。ハンナも、元気で」
村を出てから初めての同年代の友達は、とても愛らしい女の子。これも、きっと隣の爺さん宛の手紙に書こう。何だかチキは、手紙がとても長い大作になりそうな気がする。
(続く)