「クレイソード・サガ」

・第四回

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 二人の僧官に連行されて来たクレイは、腰の剣を奪われ、両手首を呪縄で戒められていた。
 部屋へ入り、動けぬヴァーンを追い越す時に、ちら、とこちらに視線をくれた。眼で、すまん、とヴァーンは謝罪する。
 姿を消す魔法を急に解かれた為、クレイはいきなり姿を現す嵌めになり、目撃した巡礼達が騒いだ為、近くにいた僧官にこうして捕らえられてしまったのだ。
 大司祭に命じられて、僧官の一人がヴァーンの背から剣を取る。クレイとヴァーンの剣二本を抱えて、僧官達は退室した。
 大司祭はゆっくりと、部屋の中央に立つクレイに歩み寄る。
 クレイは静かに見返している。大司祭は歩みを止めて、クレイの髪の先から足先まで、やはりゆっくりと眺め回す。嘗めるような視線を幾度かクレイに這わせて、手首の呪縄で目を留めた。
 呪縄は魔法で戒める力を高められた拘束具で、術を施した魔法使いにしか解けない。戒められた者は、力が抜ける感覚に襲われ続ける。稀に、聖性の強い魔法使いが耐性を示すが、魔法も使えぬクレイが真っ直立っていられるのが、ヴァーンには不思議だ。
 大司祭は呪縄を見たまま口を開いた。
「……変わらぬな。わしは老いた」
「……羨ましいことだ」
「……皮肉か?」
 クレイの声には、皮肉も羨望も込められてはいない。顔を上げた大司祭を見詰める横顔にも、取り立てた色は見えない。
「変わらずお前は美しい……クレイよ、お前は一体何者なのだ?」
 俺は答を持たない、とクレイは言った。
「俺は人間だ。ただ老い方を忘れただけだ」
「ただの人間が何故老い方を忘れる。何故わしの呪縄を施されて立っていられる」
「倒れそうだ」
 嘘を吐け、と大司祭は吐き捨てる。
「お前に効かぬのは証明済だ。五十年の昔にも、お前はそうして平気な顔で立っていた。……そして」
 逃げた、と呟いた。
「お前は魔物だ。その眼でわしを誑かした。退治せねばと思ったのだ。だからお前を捕らえて……」
 大司祭は息を吐き、ゆっくりと首を横に振った。
 これは無意味だ、と呪縄に手を添え、解、と大司祭は唱えた。呪縄ははらりと解け、床に落ちる。
 クレイよ、と大司祭は問う。
「天地神には未だ祈らぬか? 魔物でも帰依出来ようぞ。わしの元で勤しむが良い。お前が老い方を忘れたと言うなら、きっと思い出すも叶う」
 クレイの呪縄の跡を、皺だらけの手で摩る。……ああ、とクレイは口を開く。
「その文句は昔も聞いたな」
 覚えておるとも、と大司祭は小さく頷く。
「『俺は天地神の加護から外れている。だから祈ったところで仕方がない』……お前はそう言ったのだ。一言一句覚えておるとも。そこでわしは」
 ――私は神に仕える身、その私の伴侶となれば、必ずや神のご加護はお前にも……!
「思い出すだに滑稽だ。わしは魔物に求婚したのだ」
 滑稽だと思っている顔には見えない。真剣な眼差しで口説き落とそうとした、図らずもクレイの魔性に搦め捕られてしまった若かりしハンザン僧官の、それは真実の言葉だったに違いないのだ。
「クレイよ、お前に寺院(ここ)の一室を与えよう。わしの元で神の為に仕えぬか」
「断る」
 即答だった。
「俺は神などどうでもいい。神に縋らねば生きられない者にも興味はない。用があるのは……」
 クレイは僅かに眉を顰める。
「この臭いの元だ」
「……」
 動けぬヴァーンの額にうっすらと汗が浮かぶ。自分の内に、少しずつ少しずつ、法力を練り溜めていく。
「縄張りの印に土地を抉った魔物が時間の果てに戻って来たのだろう。来てみたら人間どもがその跡に寺院を建てて、有難がって拝んでいた訳だ。滑稽と言うなら、この事だ」
 大司祭は眼を見開く。魔物だ、やはり魔物なのだな、と声を震わす。
「ただの人が知り得るものか。クレイ、どうでもお前をここに留めようぞ。わし一人の知る秘事を、漏らすことはならぬ」
「俺はこの国にそんな義理はない」
 クレイは冷たく言い放つ。
「魔物をこの場所に留め、餌を与えて被害を抑えているつもりか。魔が真に子飼いになどなるものか」
 餌。餌になる順番を待っているはずのハンナ。
 おお、おお、と大司祭は喘いだ。
「しかし、わしにどんな手段が残されておるのだ。大司祭として守らねばならぬ大勢の民を背に、圧倒的な魔と対峙せねばならぬわしに、手段は最早ない」
 溜めた法力を気取られぬよう、ヴァーンは黙っているつもりだったのだ。
「っ……魔物は倒しゃあいいんだろ、違うのかよ、ええ?! ハンザン様よ!」
 だが、気付いたら、吠えていた。
 クレイは、笑っているのか。
(くっそう、爺いめ)
 腹で罵り、ヴァーンは斜め後ろから見えるクレイの横顔を睨(ね)め付ける。
 大司祭は、一瞥でヴァーンの内に込めた力を見抜いたろう。だが、ヴァーンに寄越したのは、哀れむような愛しむような視線だ。
「ハンプクトの長子よ。わしはお前が妬ましい。若いとは良い事だ。だがお前も優秀な魔法使いであるなら、きゃつと実際に対峙した途端に、己の無力を悟るであろうよ」
 このままでは国は滅びる、大司祭は目を閉じ、深く刻まれた顔の皺に、苦渋の色を濃くした。
「クレイよ。魔物と言えど、お前は真に邪なる者とは違っておろう。わしを手伝え」
 手を挙げるなり、聞き取れぬ程の早口で、大司祭は呪文を唱えた。
(――魔封じ)
 大司祭がカッと目を開くと同時にヴァーンは手を伸ばした。だが呪文が間に合わない。部屋は白く光り、部屋に満ちたエネルギーは一点、クレイに収束した。
「クレイ……!」
 ヴァーンが叫ぶ。視界が利かない。いや目を開けていられない。クレイは。
 静かな声が聞こえた。
「成る程な……これで取り敢えず魔を従えたか」
 光が退いた。閉じた目を開く。
 クレイはまるで、何事もなかったかのように立っていた。
「俺は魔物じゃない。そんなもので調伏はされない」
 馬鹿な、と大司祭は口を開く。本当に、ただの人だと言うのか、と呟く。
 何故だ、何故だ、と譫言のように。クレイの顔に手を伸ばし、悲痛に囁く。
「……おお、わしに手段は、最早、ない」
 おそらく、大司祭はここで負け戦から降りたのだ。
 天井が、ぐるりと回った。
 黒い渦が現れ、大司祭の背に雪崩落ちる。
 酷い臭いだ。喉が灼ける。目に沁みる。肌が、ぴりぴりと痛みを訴えた。
 憑かれたな、とクレイが呟いた。
 咳き込むヴァーンにクレイは言う。「剣を」
 持って行かれた剣。ヴァーンは素早く右の人差し指を立て、二本の剣の行方を探る。押し寄せる気配はヴァーンの肌を泡立たせる。背筋に一本、太い氷の柱を突き刺されたようだ。
 クレイの頬にひたりと手を当てて、大司祭はニタリと笑った。
『成る程、上物だ』
 耳障りな音が大司祭の口から洩れた。
『こんな旨そうな餌をわしから隠そうとしおって、ハンザンめ』
 大司祭が、いや魔物が、舌なめずりをする。垂れる唾液を拭き取りもせず、大司祭に取り憑いた魔物はヴァーンを見た。
「―――」
 息が詰まる。汗が噴き出る。立っているのが辛い。
『おい魔法使い。大人しくしていれば食うのは後回しにしてやるぞ』
 キキキ、と笑った。それでヴァーンは、却って腹に力を込めることが出来た。敵の力量はわかる。確かに並み以上の化け物だ。だが己の非力に絶望する程ではない。素より、ヴァーンの胆力は無力感などに負けはせぬ。
 剣を捜しながら、魔封じの為の力も別に溜めていく。大司祭が言ったように、この魔物には生半な術では効き目がないだろう。準備無しの魔法では封じられないに違いない。
 皺だらけの顔を震わせて、魔物は鼻を鳴らす。クレイの臭いをくんと嗅ぐ。
『ほう……お前はハンザンなどより居心地が良さそうだ。前に魔物(だれか)が耕したな?』
 魔物はニタニタと唾液を流す。クレイは顔色を変えない。
『よし。わしの容物にしてやろう。なに、怯える事はない。今このハンザンも恍惚の淵にいる。齢八十にして、己の欲望に正直にな……』
 お前は随分惚れられている、と魔物は厭な音で嗤う。クレイの顔を撫で回す。
『交わってしまえば何という事もない。委ねてしまえば人間には凡そ求めようもない快楽が手に入るぞ……ああ、お前はもう知っているのだな』
 キッキッキッと魔物は喜ぶ。
『ならば尚更抗えまい。さあ、わしのものになれ』
「生憎だが……」
 クレイは呼吸に支障ないのか。魔物の顔を眼の前にして、話す声は普段と変わらぬ。
「確かに俺は食われたが、生の魔物と交わった訳じゃない。憶えているのは、吐き気だけだ」
『ほう……ならば、わしが最初に快楽を与えてやろう』
「断る」
 魔物はニタリと笑って、クレイを見たままヴァーンに言った。
『物覚えが悪いな。大人しくしておれと言ったぞ魔法使い。お前達の大事な娘達の順番を繰り上げたいか』
 今正に魔封じの魔法を唱えようとしていたヴァーンは、ぐっと呪文を飲み込んだ。
「……娘達?」
 ヴァーンは怪訝に呟く。一人はハンナ。他に大事な娘がいただろうか。
 続くクレイの声が、怒っていた。
「……チキをどうした」
「――は?」
 ヴァーンは、それは間抜けな声を出したものだ。
「……チキ?! 娘?! あいつ女か!! 知ってたのかお前!」
 それで一人部屋をあいつにやったり、坊主じゃないって、そういう……ヴァーンは呆気に取られて状況を忘れ、あんぐりと呟いた。その一瞬、不発に終わった法力が散じた。
『そうか、そうか、お前も愚かな人間か』
 魔物はクレイの顔に嬉しそうに嗤う。魔物の右手がクレイの胸に下りて来る。革のチョッキを破り取り、シャツを毟る。
『小腹を満たそうとしたところで、もっと旨そうな匂いがしたのでな。娘達は後回しだ。お前に取り憑いてから食らうとしよう。……うまく意識を保っておれば、お前にも食らうところがわかるぞ。それとも』
 魔物はニタリと口を開けて、自分の……大司祭の頭を指で、ずぶりと突いた。
『ハンザンが思うような食い方を、先にしてもいいぞ?』
 突いた傷から血を垂らし、キッキッキッと嗤う。ヴァーンは努めて気を静めた。これはヴァーンに向けての挑発だ。魔封じに溜めた力が殺がれたことで、却って剣の探索に向けた気が澄んだ。せっかく澄んだ気を、乱されたくない。
 無駄だ無駄だ魔法使い、魔物は歌うような調子で言う。
『魔物は魔法使いが怖いと思うたか? 可哀想にな、今まで屑しか相手にせなんだらしい』
 吐かせ、とヴァーンは呟く。魔物は小馬鹿にした嗤いを止めない。
『わし程に永らえた魔物に人間風情が何をする。恐ろしいのは天にも地にもただ一人。人は餌、神は蠅、五月蠅いだけよ』
「良く回る口だ」
 ぽつりとクレイが言った。魔物は歯を剥いてクレイを睨む。
『……魔物も蠅と言いた気だな。わしのお零れを頼りに寄り集まって来た小物共に、今すぐ娘達を食わせてもいいのだぞ。……だがお前は別だ。人間の体は長持ちしないが、お前は居心地も良さそうだしな』
 露なクレイの左胸に、魔物は指を当てる。
『有難く思え。契約してやるのだ。お前は他の魔物の餌にはせん……わしのものだ』
 ずぶりと、指がめり込んでいく。
 ヴァーンは目を閉じる。すると魔物は言葉で聞かせる。
『ぬるいぬるい。ぬるい血だ。おう、骨め、わしの伸びる指の邪魔を出来ると思うのか……さあ心臓はそこだ』
 この魔物は魔法が怖くないのだとしても、やっかいだとは思っているのだ。さっきから執拗にヴァーンの集中の邪魔をする。
 それとも捕らえた獲物に恐怖心を与えて、より甘美に食すつもりか。だとしても、ヴァーンにまだかと催促すらしないクレイに、効いているとは思えない。
 ヴァーンは意識的に耳も塞ぐ。それでも魔物の声は小さく聞こえる。
 滴る血が勿体無い。どれ……
 ぴちゃぴちゃと嘗める音がする。
 魔物は黙って嘗めている。余程クレイの血が旨いらしい。
 周囲の音がすうっと引いて消える。ヴァーンは眼をかっと見開いた。
「天のガラシア地のアルシナ」
 ヴァーンは早口に唱える。
 ヴァーンの脳裏に剣が映った。
 所在が見えた――呼べる!
「神柄使徒に思うものを呼び寄せさせ給えッ!」
 二本の剣が! パシンと空気を震わせて、それぞれヴァーンの両手に重量を伴って飛び込んだ!
「クレイ!」
 見もせず、重みで判断した右手の剣を、ヴァーンはクレイ目掛けて放り投げる。
 魔物は屈めていた体を起こし、唾液と血に塗れた顔を歪めて、チッ! と舌打ちした。クレイが、自分の胸に突き立った魔物の腕を左手で抑えている。真横に伸ばした右手に飛んで来る剣を違わず掴み、切っ先に円弧を描かせて、魔物の頭上から振り下ろす!
(――浅い!)
 ヴァーンは目を眇める。剣は、魔物の右肩にめり込んで血飛沫を上げさせたが、命に届く一撃ではない。
 魔物は血を噴き上げ、ニタリと嘲笑(あざわら)う。
『弱い弱い! この爺いを庇ったなあ! どの人間も同じ、弱い、そして心臓はここだッ!』
 剣を魔物の肩に食い込ませたまま、クレイは左手を魔物の肺にドッと突き立てる。中で、ぐっと拳を握った。
『――何?』
 魔物はぽかんと眼を見開く。
 クレイが剣を仕入れるのは、魔物が息絶えた直後。斬撃で弱らせたとは言え、生きた魔物から剣は引き抜けない。
 まさか、と魔物は呟く。
 くそ、とヴァーンは気を振り絞る。大司祭の仕掛けた足止めの魔法を、解、と無理矢理振り解く。
「クレイ!」
 ヴァーンは駆け寄り、クレイの体を抱えるように、クレイの左腕を右手で掴んで共に引っ張る。
『……何故掴める? まさか……おのれ、まさか』
 魔物は青ざめ、クレイの胸から血塗れの指を引き抜いた。
「ぐ……っ」
 クレイの顔が苦痛に歪む。
 剣を仕入れる時に手袋をする意味を以前聞いた。魔物の剣を掴んだ時に、この身は剣……魔の精髄と交わろうとするのだと。魔物に突っ込んだ腕は素手だ。魔物の思う壺のはずであった。
 しかし魔物は愕然と戦いている。顔に恐怖を貼り付けて、クレイから離れようと身を反らす。却ってぐい、と剣を引かれて、魔物は恐慌に陥った。
『キイイイイッ!』
 魔物には最早、クレイから離れる事こそが唯一助かる道だ。魔物は大司祭の体を捨てて逃げようとした。その一瞬をヴァーンは見切る。
「待ってたぜえ!」
 大司祭の後ろに浮かぶ影目掛けて、左手の剣を一閃する!
『まさかッ! ナーク――』
 ヴァーンの剣は違わず、魔物の頭を斬り裂いた!
 途端に抵抗を失って、ずるりとクレイの腕と剣が抜けた。
「うわっ……」
 クレイを抱えたまま、ヴァーンは、どうっと仰向けに倒れた。撥ねた魔物の部分が、ごとん、と絨緞に落ちる。ヴァーンは急いでクレイを退かし、体を起こす。
「やったか……?」
 転がる頭部と、立ったままの小さく不格好になった頭を付けた魔物は、ヴァーンが見る間に霧散する。黒い霧のこちらに、血だらけの大司祭が倒れていた。顔に手を翳すと呼吸を感じる。重傷だが死んでいない。ヴァーンは取り敢えずほっとして、止血の魔法をかけて、肩に食い込むクレイの剣を引き抜いた。
「……おい、クレイ、無事……な訳ねえか」
 大司祭は息があるぞ、と告げて、仰向けに横たわるクレイを覗き込む。
 返り血……大司祭の赤い血、魔物の黒い血が混ざって赤黒くなっている……で酷く汚れていたが、胸の傷口は見た限りでは小さい。だが、魔物の指が心臓に達するところだったのだ。治癒魔法を唱えながら、ヴァーンはクレイの左手を見る。
(……こりゃでかい)
 クレイの手には、魔物から取った剣が握られている。クレイよりも小さく見えたあの魔物の身体のどこに、こんな大きさの剣が入っていたのか。剣の幅はヴァーンの片手を広げた程。長さはヴァーンの背丈の半分以上はある。
 この剣は俺にくれるよな、と言おうとして、ヴァーンは眉を顰めた。治癒魔法は効いているはずなのに、クレイの表情は歪むばかりだ。
「クレイ?」
「……胸より、これをどうにかしてくれ」
 クレイの目線は左手の剣を指している。
「どうにか?」
「とってくれ。……離れない」
 クレイがしっかりと握っているように見える。無感動に、しかし力ない声で、クレイは訴える。
「とってくれ。交ざりたくない」
 鍛冶で言うなら、この剣はまだ熱いうちだったのだ。
「わかった」
 ヴァーンは、力でもぎ取れなければ、聖性を魔法で注ぎ込もうと思ったのだ。だが、クレイの手と剣を両手で持っただけだった。パシン、と何かが爆ぜて、クレイの指は開き、剣は自分の重みでクレイの手を離れ、ごとんと床に転がった。
 クレイは大きく息を吐く。きつく寄せられていた眉間が開いて、楽になったのがわかった。
「大丈夫か?」
「……風呂に入りたい」
 ヴァーンは小さく吹き出す。
「ああ、宿に戻ろう」
「……この剣はお前にやる。お前なら扱えるだろう。それから」
「ああ。チキとハンナは俺が捜す。大司祭の手当ても小魔物共の後始末も何とかする。お前は休め。まだ昼なのに疲れたろ?」
 仰向けに倒れたままヴァーンを見上げるクレイの顔には疲労の色が濃い。そうか、と呟き、クレイは目を閉じた。
 ヴァーンは、まず怪我人の手当てとチキとハンナだなと、嫌々ながら叔父を呼ぼうと立ち上がる。
 そうだ、叔父貴に話して、寺院の風呂を借りるか……そう提案してヴァーンがクレイの顔を再び見やると、クレイは寝息を立てていた。




 ヴァーンに呼ばれて貴賓室にやって来た叔父は、中の血塗れの有様と濃い魔の臭いに顔を顰めて、嫌でも説明してもらうぞ、とヴァーンに告げて、手早く怪我人の手当てに取り掛かった。寺院勤めの優秀な医者と治癒魔法の得意な僧官が、治療室に運ばれたハンザン大司祭とクレイに付けられた。
 チキとハンナは、捜す程のこともなく、同じ最上階の部屋で気を失って倒れていた。
 チキをその部屋に連れて来た僧官は、医者の連れて来た子供が余りに病が重そうだった為、大司祭の定めた部屋割りに従ったに過ぎなかった。部屋の中に連れて来た憶えのない娘もいたが、やはり他の僧官が部屋割りに従って案内した、病の重い子供なのだろうと思ったそうだ。その部屋は、ハンザン大司祭が用意した魔物の餌場だった訳だが、誰もその事を知らなかった。ハンザンが一々、臭いを消していたのだろう。今は強く臭いが残っているのが、その僧官にも感じられたようだ。
 客室にお移ししましょう、と僧官が言うので、ヴァーンはハンナを、僧官はチキを抱え上げた。
 するとハンナとチキは意識を取り戻した。チキは驚いて僧官から下りた。ハンナは目をしばたかせる。
「……ヴァーン兄様?」
 よう、ハンナ、とヴァーンが笑うと、ハンナはわっと泣き出してヴァーンにしがみ付いた。
「あーよしよし、もう大丈夫だ」
 まるで赤ん坊をあやすようにハンナを縦抱きにして、ハンナの小さな背中をとんとんと叩く。
「……ヴァーン、クレイは?」
 とチキが尋ねたので、ハンナは恥じらったように頬を染めてヴァーンの腕から下りた。健気に涙を拭うハンナの頭をぽんと撫でて、「心配ないぞ」とヴァーンは答える。
「疲れて、今は寝ちまってるけどな」
「会える?」
 ヴァーンは一寸躊躇った。クレイに会わせる為に治療室へ案内するのはチキが心配すると思ったし、クレイに貼り付いた血糊がきれいに拭われているかもわからない。それでヴァーンは話を変えた。
「あー……その、何だ、チキ、お前、女の子なんだってな?」
「え……うん」
「まあ、ヴァーン兄様ったら」
 チキは瞬き頷いて、ハンナは呆れた視線をくれた。ヴァーンは慌てて弁解する。
「いや、ほれお前、『おいら』なんて言ってるし、そりゃどんな一人称使おうが構やしないんだが」
 チキはあははと笑い飛ばす。
「仕方ないよ、だっておいらちっとも女らしくないし、一人で旅してる時は男だと思われた方が面倒がなかったし」
「あら、チキは女の子らしいわ。私はすぐにチキが女の子だってわかったもの」
「えっ」
 だって、とハンナは小さく含み笑いする。
「私と同じ、『恋する瞳』をしてるもの」
 チキは赤面し、ハハハ、ハンナ、とばたばたと手を動かした。ヴァーンは、何、と息を飲み、ハンナ! と声を張り上げた。
「お、お前、ハンナ、恋してるのか? まだ早いんじゃないか? もう嫁に行くのかッ!」
「……」
 チキは腹を抱えて大笑いする。ハンナはぷうっと頬を膨れさせ、知らない、と反っぽを向いた。
「知らないってハンナ、俺の知ってる男かっ?」
「チキったら、笑うのね? 悲しんでくれないの?」
「ごめん、だってヴァーンがあんまり……」
「そう、あんまりだわ」
 そりゃあハンナ、随分大きくきれいになったが、まだ十五だぞ、子供だぞ、とヴァーンはおろおろと言い募る。
 チキは笑いを堪え、ハンナは不機嫌な顔を作ってヴァーンを困らせていると、開いたドアからヴァーンを呼ぶ声がした。
「何だ、楽しそうだな」
「叔父貴……俺は今、打ちひしがれてる」
 どうした? と尋ねる叔父に、ハンナが可愛らしく挨拶した。
「ディーン叔父様! お久し振りです」
「おお、ハンナちゃん。大事ないか?」
 はい、と答えるハンナに頷き、久し振りと言っても、そこの放蕩者よりは頻繁に会っているがなあ、と叔父に睨まれ、ヴァーンはますます口をひん曲げた。
 叔父はヴァーンの父の弟で、ハンナはヴァーンの母の妹の子だ。だからディーン叔父とハンナに直接の血の繋がりはないのだが、今ハンプクトの本家にも分家にも女の子がいないので……そうでなくてもハンナは十分に愛らしかったのだが……ハンナは、妻以外の女性のいないハンプクト家のアイドルなのだ。
「ヴァーン、お前に言われた通り、寺院内部と周辺に、魔物への警戒を取らせた」
「……ああ」
 寄らば大樹で集まっていた小魔物や、空いた縄張りを狙って来る魔物に対する警戒だ。すぐにどうという事はないだろうが、用心するに越した事はない。
「大司祭様が伏せって居られる今、取り敢えずの指揮は私が取ることになった。ヴァーン、これから緊急に会議を開く。お前も来い」
 叔父はヴァーンを促して部屋を出る。
「お前達は、客室で休んでなさい」
 とハンナとチキに言い置いて、叔父は足早に行ってしまった。




(続く)


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