・第三回
「マハル亭」を後にして、クレイとヴァーンは各自の剣を腰と背中に、大寺院の黄色い屋根を目指して歩いている。剣を帯びて歩く者は少なくない。だがそれより多いのは、巡礼の旅姿をした者だ。
目的がそれと一目でわかるように、長い黄色の布を頭に掛けている。首のところでくるりと巻く者、そのままだらりと垂らしている者、長い布を洒落た帽子のリボンよろしく結んでいる者、それは様々だったが、道行く者の凡そ三分の一の頭が黄色い。
その者達は、一様に大通りを寺院への往復方向に歩いている。
「今のは知らんが、前任の大司祭は俺の魔法学校での先輩だ。覚えが悪くて随分長いこと在学してたが、いい人だった。後任の大司祭について尋いてみるのもいいな。会ってみるか?」
必要ない、とクレイはヴァーンの案を却下する。
「ハンザン大司祭本人に会えばいい。魔物が憑いていればすぐにわかる」
じゃあ、とヴァーンは擦れ違う巡礼の黄色い頭を見やる。
「俺達もその辺でチャータイを買うか?」
「ガラシアの零した水の跡やら、アルシナの爪先の跡やらが見たいならそうしろ」
クレイに巡礼の振りをするつもりはないらしい。
「いや、俺はもう拝観したしな」
寺院の周りをうろうろするだけならともかく、そういった「聖なる跡」を拝観するとなると、確かに手順が面倒臭い。ヴァーンが首を振ると、クレイは面白そうに、観て拝みたくなったか? と尋いた。
珍しい顔をするなと思いながら、ヴァーンは片眉を上げて考えた。
「いや……古いものなんだろうしな。特に聖なる波動なんかは感じなかったが。クレイは見たことあるのか」
「あんなものは魔物が抉った跡だ」
ヴァーンはぎょっとして、咄嗟に辺りに気を配った。
「おい、クレイ!」
「かなり前だが、俺が見た時には、魔の臭いがぷんぷんしてたがな」
一国の宗教を引っ繰り返すようなことを、さらりと口にする。
「お前、そんなこと絶対寺院関係者には言うなよ! 下手すりゃ処刑だぞ!」
憎らしいことに、クレイは笑っている。
「……騙したのか?」
「いいや、本当だ」
ならもっと質が悪い。
その辺を歩いている巡礼の誰かに聞かれるだけでも、大事になる内容なのだ。
ヴァーンも官位はないとは言え、魔法を修めるものとして、立派に寺院関係者なのだ。国内十箇所にある魔法学校は、何れも寺院の管轄だ。
ヴァーンは小さく咳払いして、僅かにクレイとの距離を詰めた。
「その……魔が憑いてたらどうする」
「狩る」
「すぐにか?」
「俺は仕入をするだけだ」
「まあ、そうだが」
心配するな、とクレイは言った。
「宗教と喧嘩する気はない」
それはそうなのだろう。この国で寺院に睨まれたら、何処へも行けはしない。否、それ以前に、クレイに魔物以外と事を構える気などないに違いないのだ。今こうして同じ道を歩いているその人この人など、クレイには空気と変わらないのではないか。
自分も、空気の一粒と大差ないのだ。
ヴァーンの歩みが、ぴたと止まった。
「――どうした?」
数歩先に離れたクレイが振り返る。こちらを見る緑の瞳を暫時睨んで、仕方ない、とヴァーンは斜め下に吐き捨てた。
「すっごく気が進まないんだが……確かチャルダ大寺院には叔父貴が勤めてる。かなり高位の多分大司祭付きの僧官のはずだから、そいつを訪ねることにしよう」
クレイは瞬く。
「そういう手があるなら早く言え」
任官しろと煩いんだよ、とヴァーンは唇を突き出して不本意を主張した。
寺院は決して豪奢な造りではないが天井が高い。上階に行くにつれ低くなるのだが、巡礼の者達が溢れ返る一階は、それは灯りが届かぬ程の高さだ。一応階段は設けられていたが、上階に用があるのは魔法の使えるものばかり。なので、行き来に時間が掛かるという不便はなく、魔法の使えぬ部外者の侵入を難くしているのであった。
「ヴァーン……ヴァーン・ハンプクトか……!」
寺院を入ったところで一人の僧を捕まえ、面会の申し込みをしようとしたところ、それはヴァーンの魔法学校時代の同級生であった。
「おお、マンタ! 久し振りだな、おい!」
「ははっお前は、またでかくなって! いよいよ任官する気になったか?」
やめてくれよ、とヴァーンが肩を落とすと、マンタは愉快そうに僧衣を揺すって笑った。
「まったく、お前程の魔法使いが、なんでそうふらふらとしているんだ、もったいない」
「俺の剣の才能を磨かない方が勿体無いさ。へえ、お前上三位(じょうさんい)になったのか。大した出世だ」
ヴァーンがマンタの僧衣の色に気付いてそう言うと、俺でさえこうだ、お前なら今頃僧正様だ、と拝んで見せた。ヴァーンはぷるぷると首を振る。
「そんなもん、爺さん達にやらせとけ」
それはそうと、とヴァーンとマンタは声を合わせた。マンタが譲る。
「……ああ、どうぞ」
「すまない。叔父貴はどこかな。会いたいんだが」
「ああ、大司祭様の事務室においでのはずだ。なんだ、本当に任官じゃないのか?」
違う、とヴァーンは念を押す。マンタは少しがっかりとして、で、そちらは? とヴァーンの後ろに視線を遣った。
「ああ、こいつは……」
ヴァーンは後ろに立っているクレイを振り返る。
クレイは、
どこか酔った人のように、あらぬ方を向いて立っていた。
「――……」
周りにいる巡礼の信者も僧達も、マンタも、ヴァーンも、……寺院の建物でさえ、目に入っていないのではないかと思えたので。
「……おい、クレイ」
ヴァーンは、なるべく刺激を与えないように、クレイを呼んだ。呼ばれてからクレイが反応するまで、僅かに時間差があった。気付いてヴァーンを振り向く様子には確かに、帰って来た、という印象を持った。
「……ああ。ヴァーン、例の跡はどこにあるんだ?」
「あ? 見たことあるんじゃないのか?」
「こんな建物はなかった」
「……なるほど?」
ヴァーンは眉と口をひん曲げる。そっちの、と「聖なる跡」のある方向を指差すと、それはクレイがぼうっと眺めていた方向である。
「……クレイって、剣売りの?」
マンタの問に、ああ、と頷いたのはヴァーン。クレイはまた、ヴァーンの指差した「跡」のある方角を向いている。
クレイという名は珍しくない。マンタが違わず「クレイ」を言い当てたのは、やはりクレイの持つ常ならぬ暗い光を、マンタの聖性が見分けたのだろう。魔物から剣を採る、という噂を聞いていれば、感じることの出来る人間は、間違えたりしないはずだ。
そして、そういう類の人間には、クレイはヤバイ。
(夜じゃなくて良かったぜ……)
クレイを見詰めるマンタの眼を見て、ヴァーンはこっそりそう思う。
「ヴァーン、案内してくれ」
「ああ、じゃあ叔父貴に……」
言い終えもせず、クレイはヴァーンに先んじてすたすたと行く。しかも方角が違う。
「おいおい、そっちは……手順が面倒だから、見ないんじゃなかったのか?」
クレイが行こうとしているのは、明らかに「聖なる跡」だ。クレイは一言、「臭う」と言った。
「に……」
臭う? と言うことは、
「魔物がいる、ということですか?」
続きを言ったのはマンタだ。やはり、そういう噂は、寺院の中にも蔓延しているのだろう。小さな声で、喘ぎながら。
「やはり、やはり大司祭様は……」
クレイが歩を止めた。ふいと左を見る。
奥に続く廊下から、金と黄で作られた僧衣の高僧が、数人の僧官を従えて歩いて来る。
バルダ国第二の大寺院、チャルダ大寺院のハンザン大司祭。
ガラシア・アルシナを奉る天地神教、その事実上のナンバー二だ。
ヴァーンはそっとクレイに寄って、どうだ、と耳打ちした。
威圧的ではないが、それなりの威厳をもって、滑るように歩いて来る大司祭は、今年八十になる老人だ。見る限りでは、魔物が憑いた様子はない。
「憑いてるか?」
「……憑いてはいないようだが、臭うな」
本体はあれじゃない、とクレイが言った時。
大司祭の後ろに控えて従っていたヴァーンの叔父が、ヴァーンに気付いた。ヴァーン、と口が動くのを見て、やばい、と思うより先に、
「……お……おお……」
立ち止まり、皺に埋もれた眼を見開いて、口を開いて愕然と呻き声を発したのは、大司祭だった。
「……ハンザン大司祭様? 如何為されましたか」
僧官達の問を無視して、おお、おおう、と呻いた挙げ句、腕を持ち上げ前方を指し、ついに大司祭は叫んだ。
「捕らえよ! 逃がすでないぞ!」
「はっ……?!」
一同は茫然とする。しながらも、大司祭が指差す方向を見る。そこにいるのは、ヴァーンとクレイだ。
「ヴァーン、お前何を仕出かした!」
「うわ、叔父貴、ひでえ!」
叔父と甥のコミュニケーションの間にも、大司祭はうおう、と呻く。震えている。
「そこな男……黒髪の……」
ばっとクレイを見た。クレイは呆気にとられている。どうやら身に覚えがない。
「捕らえよ……! 捕らえるのだ!」
「は……はっ!」
わからぬまでも、僧官達は言葉の意味だけは理解した。クレイとヴァーン目掛けて、僧衣を翻して駆けて来る。
僧達の足音に、変わらぬ、変わらぬ、と呟く大司祭の声が紛れた。
「くそ、何だか知らんが逃げるぞ!」
クレイの腕を掴んで走り出す。
クレイが寺院から追われる理由はないはずだ。クレイは寺院の敵の魔物を退治して、剣を仕入れている剣売りだ。例え感謝されることはあっても、クレイにその気がない限り、寺院に敵視される筋合いはない。
「ヴァーン!」
叔父とマンタが呼んだ。「悪い、またな!」と双方に叫び、ヴァーンはクレイを掴まえたまま寺院を走り出た。
驚く巡礼者達を擦り抜けるようにして大通りを目指す。僧官達は待て、と追いかけて来る。逃げるには不便な二人連れだ。どちらも目立つ。走りながら、クレイに尋いた。
「おい、クレイ、本当に身に覚えはないんだな?」
「ない。……と思うが」
「頼りない返事だな。宗教と喧嘩する気はないんだろ?」
ない、とクレイは答える。ヴァーンはクレイの腕を放して、そういやあの爺さん、と思い付く。
「変わらぬ、とか言ってたぞ」
クレイは瞬き、ああそう言えば、と言い出した。
「ここに寺院が出来てからも、五十年程昔に一度来ているな。俺の姿を覚えられていたか」
「お前ほんとのところ年は幾つだー?!」
くわっと歯を剥き出し怒鳴るヴァーンに、クレイはさらりと答えた。
「百より先は数えていない」
ヴァーンは口を噤んだ。クレイから眼を逸らし、前を見たまま毒突いた。
「……百越えた爺さんてのは、もっと可愛らしいもんだと思ったがな」
「俺もそうなりたいものだ」
意見が合うな、とヴァーンは笑う。
そうする間にも僧官達は追って来る。クレイもヴァーンも足が早いが、見失わない程度には頑張っている。ヴァーンはそれをちらりと見やって、
「若さの秘訣を聞きたいって訳じゃなさそうだな……おい、他にも理由があるんじゃないのか? 例えば、その昔お前が求婚を断ったとか」
勿論、半分冗談だったのだ。
「……――ああそう言えば」
このボケ爺い、ヴァーンは思い切り口をひん曲げて心中に毒突いた。
「あの司祭はその時の坊さんか。偉くなったもんだ」
「大司祭に求婚されたのかよ!」
その時は一介の坊さんだ、とクレイは訂正する。だから、そういう問題じゃない。
この男、本当に国を傾けかねない。
振られた腹いせではないにしろ、このままでは埒があかない。僧官に追われるヴァーン達を、巡礼者達も訝しげに見ている。
「こうなるなら、チャータイの二枚ぐらい買っとくんだったな」
布を被ったところで、隠せる体格ではあるまい。わかってはいるが、ないよりはましだ。
大通りを脇道に入り、少し走った。店の一つにも入ってしまった方がいいだろうかと、ヴァーンがきょろきょろと目を走らせたところで、クレイが、ぐい、とヴァーンの腕を引いた。
「うわったっ」
ヴァーンの大きな体がよろめく程の強い力で、裏道の建物の壁に背を付けて、クレイはヴァーンを引き寄せる。ドッとぶつかって、何だ、と尋くと、緑の瞳が、随分近くでヴァーンを見ていた。
「俺を消せ」
「……あ?」
「そういう魔法があるだろう」
クレイはヴァーンの体を追手からの壁にするように、自分の体にぴたりと引き付けてヴァーンの腕を掴んでいる。大通りからこの場所は死角だが、確かに長く隠れていられる場所でもない。
「俺は『跡』を見て来る」
臭うと言った、「聖なる跡」。
「以前よりも臭う気がした。ずっと臭っているなら、あの場所で寺院が成り立ち続けたはずがない。魔物が増えたのは去年からだったな?」
「……ああ」
主(ぬし)が帰って来たのかもしれんな、とクレイは呟いた。
「主?」
「魔物にも縄張りはある。ヴァーン、お前は宿に戻ってくれ。俺の連れも追われるかもしれん」
チキが心配だ、と言っている。
「……よし、わかった」
ヴァーンは右腕を胸まで上げ、人差し指を立てた。
「……天のガラシア地のアルシナ、神柄、使徒にこの者をあらゆる目から匿わせ給え」
唱え終わるや否や、クレイの姿はかき消えた。
「ちゃんと術を解いてもらいに戻って来いよ」
ヴァーンの言葉に答はない。クレイの手が、ヴァーンの胸を押し退けて、そして離れる感触があった。
「……俺も消えといた方が良さそうだな」
呟いて、ヴァーンは自分にも魔法をかける。それを見た巡礼が、人の消失に驚いて、捧げ物の果物を地面にばら蒔いた。
姿を消したまま宿屋に戻ったヴァーンは、宛てがわれた部屋に入ってチキがいないことに気付いた。そこで魔法を解き、姿を現して宿の亭主に「チキはどこだ」と尋ねに行ったところ、「いつの間にお帰りで?」と亭主は仰天した。
「お連れの方でしたら、差し出がましいかとも存じましたが、腕のいい医者を紹介致しまして。今、その医者のところに」
場所を尋くとそう遠くない。行ってみると、医者の家には「本日休診」と貼り紙があった。休みのところを無理に診察してもらっているのだろうか。ドアに手を掛けたが動かない。鍵が掛かっている。
(いや、待て、そいつは手際が良過ぎる)
ぞろりと登って来た嫌な気分に首を振った時。
「見付けたぞ、ヴァーン」
(……あいたたた)
ゆっくりと振り向くと、顔から汗を滴らせ、肩で息をしている叔父が、同じように肩を上下させている僧官二人と並んで、睨んでいた。ヴァーンが眼を合わせるなり、一喝する。
「この悪童がッ!」
「悪童って……叔父貴、二十八歳男前を捕まえてそりゃ」
「悪童だろうが! 何故逃げる!」
「いや……そりゃ叔父貴の顔を見たら、なんでかなあ」
「黒髪の連れはどうした」
「……さあ?」
叔父はすっと腕を伸ばすと、自分よりうんと背の高い甥の耳を抓むなり、ぐいぐいと引っ張った。
「いででで……痛いって、叔父貴!」
「痛くしているのだ! 大人しく大司祭様の前に出い!」
「わかった、わかったから……!」
呆れたり脅えたりしている道行く者の視線を浴びながら、ヴァーンは寺院へ戻った。クレイは「跡」を見ているはずだから、却って良かったかもしれない。ヴァーンが一声喚けば、クレイに届くだろう。チキの行方は、わからなくなってしまったのだけれど。
巡礼者の列から外れて、ヴァーンは僧官達に囲まれて廊下を奥へと進んでいた。突き当たりの小部屋は、寺院内の各階にあり、魔法の力で移動する為の場となっている。
僧官の一人が小部屋の中央に設置されている琥珀に光る玉に手を触れた。中にいる者は何も感じないが、これで移動は為されたのだ。小部屋を出ると、案の定、そこは大司祭の部屋がある最上階だった。
促す叔父に従い、廊下を行く。ここはかなり天井が低い。ヴァーンが腕を伸ばして少し跳ねれば、届く程だ。昔、初めて寺院の最上階を訪れたヴァーンが、試したくなって偉い司祭の前でいきなり跳ねた時、同席していた叔父は、恥ずかしいやら腹が立つやら情けないやらで、顔を真っ赤にして既に自分よりでかかったヴァーンの頭を床に擦り付けたものである。
ヴァーンは、大司祭が来賓を迎える時に使用する部屋へと通された。中には、大司祭が供も無しに待っていた。
「ヴァーンを連れて参りました」
叔父が、頭を垂れて、ぎゅっぎゅっと二度手を握る。
「……おお、ハンプクト家の長子か」
望めるのは空ばかりの広い窓を背にこちらを見やる大司祭は、老人とは思えぬ威風さえ漂い、先程の乱れた様子など微塵も見えぬ。
ヴァーンも叔父に倣い、礼を取る。
大司祭は、叔父と他の僧官達に、下がりなさい、と命じた。
「しかし、」
「魔法学校創設以来と噂の才児と話したいのだ」
叔父はヴァーンを少し睨んで、ヴァーンに良く似た四角い顎をぐっと引き、「ははっ」と大司祭に頭を下げた。
出て行く三人の僧官を見送っていると、大司祭はヴァーンに「楽にしなさい」と声を掛けた。ヴァーンが向き直ると、柔和な顔で手招きをする。手招きに従ってヴァーンが数歩歩いて行くと、大司祭はヴァーンに手のひらを向けた。止まれ、と言うことか。
「ヴァーン・ハンプクト君……君の噂は色々と耳に入る」
表情はまるで好々爺だ。
「入学も在学も卒業も難しい魔法学校を常にトップの成績で僅か二年で修了し、在学中から興味のあった剣技を極めん為、数多の任官口を蹴って旅に出た。名門ハンプクト家の長子であるにも関わらず、政治にも宗教にも興味を寄せぬ武骨者……単に面倒臭がり屋なのだとも聞くが」
孫自慢をする顔そのままに、大司祭は言葉を継いだ。
「君が、<あれ>と知り合いとは知らなんだ」
「……あれ?」
ヴァーンは片眉を上げる。
額の皺を持ち上げ、大司祭の眼はヴァーンを射る。選択の余地はない、と告げる声はまだ優しい。
「言ったろう。君の噂は色々と耳に入る」
立ち止まったヴァーンの右手に広い机が鎮座している。その上に、幾つかの手のひら大の玉が台座に乗って並んでいた。
「君は、従妹を大層大事に思っているそうじゃないか」
「……――」
ハンナ。小さな、可愛いハンナ。
ヴァーンが眼を見開くのを見て、大司祭は玉の一つに視線を遣った。ヴァーンに一番近い玉は光り、一人の少女を映し出す。
少女は不安気に目を伏せている。数年振りに見る姿は、記憶と違っているけれど。
(……ハンナ)
映し出されたのは、随分少女らしく育ったハンナの姿。
「ハンナ!」
玉に向かって叫んだヴァーンの声に、映る少女は反応した。ぱっと顔を上げ、ヴァーン兄様、と口が動いて、玉は暗転した。
「君が会いたかろうと、お嬢さんもこの寺院に招待したのだよ。可哀想に、初めての場所に一人切りで淋しい思いをしているのだね」
ヴァーンがクレイの懇意と知って、それからすぐにヴァーンの大事なハンナを連れて来たのだ。
ハンナは、ここから都を挟んで丁度反対側に位置するグリンレイの屋敷にいたはずだ。攫って来るにしたところで、これだけの時間で連れて来られる距離ではない。例え優秀な魔法使いが移動の呪文を使ったとしても……ヴァーンでも、難しいだろう。
ヴァーンの疑念を、睨む眼で大司祭は十分に察したろう。親切に、そして決定的に、大司祭は解答を示した。
「魔の足は疾い……」
魔。
ハンナを連れて来たのは魔か。
ハンナ。ハンナ、どんなにか恐ろしかったことだろう。
関わっているのだ。この大司祭は、魔物に。
「そして良く食べる」
「―――」
優しかった声は凍り付いた。大司祭は、要求を告げる。
「クレイをここへ呼べ」
ヴァーンは唇を噛み締める。足が床から離れぬことに気が付いた。大司祭は呪を掛けておいた一点にヴァーンを立ち止まらせたのだ。
「急ぐが良かろう。娘の番がやって来る」
ぎり、とヴァーンは歯を噛んだ。そして小さく、解、と呟いた。
「ヴァーン兄様……!」
チキを連れて来た僧がドアに手を掛ける前に、部屋の中から叫ぶ声が聞こえて来た。
僧は構わずドアを開ける。入りなさい、と言われて中に入ると、ドアはチキの背中で固く閉じられた。
中にいるのは一人の少女。町の宿屋などより余程上品で立派な部屋に、少女は椅子にも腰かけずに、顔を覆って床にペタリと座っている。薄桃色のドレスが、ふわりと黄緑の絨緞に広がって、花が咲いたようだ。
しゃくり上げる度に飴色の髪を揺らし、ドレスと同じ色のリボンが頭の上で嫌々をしていたが、ドアを入って来たチキに気付いて、怯えたようにこちらを向いた。
「あなた、だあれ……?」
長い睫毛の向こうにけぶる蜂蜜色の瞳に涙を溜めて、少女はチキを見詰める。色の薄いドレスが、白い肌に似合っている。まるで、昔一度だけ食べた綿菓子のようだ、とチキは思う。
「……ねえ、もしかして、ハンナ?」
少女は大きな眼を見開き、ぱちぱちと瞬く。綺麗な涙が、玉になってぽろぽろと落ちた。
「ああ、やっぱり。おいら、チキ。ついさっきまで、ヴァーンと一緒にいたんだよ」
「……ヴァーン兄様と?」
声に、僅かに喜びが混じる。
「うん。ヴァーンに、ハンナのお守り見せてもらった。とっても大事にしてたよ」
「……本当?」
うん、とチキが頷くと、ハンナの顔に笑みが広がり、頬に紅を掃いたようになった。
可憐だ。笑うと花のようだ。白い体は細くて小さいけれど、チキのように不吉に痩せている訳ではない。これはヴァーンが大事に思うのも無理がない。チキでさえ、守ってあげたいと思うのだから。
「あなたも、魔物に連れて来られたの?」
「え?」
私、魔物に連れて来られたの、とハンナは震える。
「毛むくじゃらの手に掴まれて、空を飛んだの。とても怖かったわ」
赤い蕾のような唇を震わせ、堪えるようにきゅっと噤んだ。
「……魔物が、寺院に?……おいらは、お医者が、寺院で診てもらいなさい、って」
ええと、何とかの救済の法がどうとかって……医者の言った寺院へ連れて行く理由を思い出そうとするチキに、『心身に重い病のある者は寺院へ参って捧げよ』ね、とハンナは呟いた。
「ハンザン大司祭様がお触れになった、三つの救済の一つだわ。『自らの罪深きを悔いる者は寺院へ参って捧げよ』『育てられぬ命は寺院へ参って捧げよ』さらば報われん。っていうの」
「……魔法で治してもらえるとか」
ハンナは細い眉を顰め、小さく首を横に振る。
「病の重い者や老人が消えて行くと聞いたの。魔物の餌にされているのかもしれないわ」
「……まさか」
「チャルダ大寺院には魔物を飼っているという噂があるもの。私達、魔物の餌にされるのよ。……ねえ、ヴァーン兄様はどこ?」
ハンナは胸の前で手を揉み絞り、首を傾げてチキを見上げた。
「さっき兄様のお声が聞こえたの。ハンナって、それだけだったけれど」
心細いのだ。慕わしい従兄の声が耳に蘇る程。ハンナの言う通り、魔物に掴まれてここまで来たのなら、生きた心地などしなかったことだろう。チキにも魔物に怯える気持ちはわかる。ウザの宿屋で、チキは九死に一生を得たのだ。救ってくれたのは、クレイとヴァーンだ。
チキは、努めて明るい声を出した。
「……ああ、寺院にいるかもしれないなあ」
クレイとヴァーンは、大寺院に、大司祭の魔物憑きを確かめに行ったのだ。
「本当に?」
「うん。それに、もし魔物がいたって、平気だよ。大丈夫、あの二人、強いんだ」
二人、という言葉にハンナは怪訝そうにしたが、チキは笑って「おいらも、今年で十五になるよ」と言った。ハンナは瞬き、まあ、と微笑む。
「私、つい先月十五になったわ」
クレイに会うまで、自分の生は十四で終わると思っていた。いつも、次の誕生日なんて来ないと思ってた。「今年で十五になる」と言えることがとても嬉しい。
魔物の餌になんて、なってやるものか。
「ねえ、ハンナ、ここから出よう。ヴァーンに会いに行こうよ」
ハンナが瞬く。でも、と躊躇う。
「出られるかしら。さっき試したけれど、ドアは開かないわ。それに、魔物がいるかもしれないし」
「何とかなるよ。うんと高いけど、窓だってあるし。だから、魔物より先に、ヴァーンとクレイに会うんだ」
クレイ? とハンナは尋ねる。
「おいら、ヴァーンとクレイと三人でこの町に来たんだ。途中、魔物にも遭ったけど、二人のお蔭で無事だった。……ヴァーンも強くてかっこいいけど」
チキは、自分の頬が熱くなるのを感じた。自慢する言葉で、胸がときめく。
「クレイも、強くて、綺麗で、かっこいいんだ」
ハンナはじっとチキの顔を見詰めて、ふうわりと笑った。
「私達、お友達になれそうね」
そうして、飴色の髪に両手をやって、柔らかな薄桃色の髪飾りを外すと、立ったままのチキに差し出した。
「これ、あげる。お友達の印よ」
「え……」
チキは慌てて手を振った。
「い、いいよ!」
「あら、どうして? 私ならいいのよ、おうちに帰れば沢山あるもの」
「リ、リボンなんて付けたことないし、」
おいら、似合わないし。チキの呟きを、そんなことないわ、とハンナは否定した。
「付けたことがないなら、似合わないなんて言っちゃ駄目。ほら、付けてあげるからここにお座りなさい」
妹に言い聞かせるお姉さんのように、自分のスカートの先の絨緞をぽんぽんと叩く。チキは迷った。リボンもスカートも、チキは身に着けたことはない。貧しいのも理由だが、何より似合わないからだ。随分迷って、ハンナの手にある、綺麗で柔らかそうなリボンを付けた自分を想像してみて、やっぱり似合わない、と思った。
「……有難う。でもいいよ。ね、行こう、ハンナ。ここから出なきゃ」
「……そう?」
チキの差し出す手を、白い小さな手が取った。互いの細い頼りない手をぐっと握って、ハンナが髪をふわりと揺らして立ち上がった時。
部屋の一方の壁が黒変し、ぐにゃりと曲がった。
「―――」
渦巻く壁から生臭い風が吹き付ける。ハンナの手からリボンが飛ぶ。チキはハンナを抱き締めた。
黒い壁に、黒い生き物がいた。人か猿のように二本足で立っている。大きさも人程だ。ただ頭の形と大きさが異様だった。人ではない。猿でもない。あれは。
キイ、と嫌な音がした。黒い生き物が笑ったのだ。多分、笑ったのだろう。震える声で、ヴァーン兄様、とハンナが呼んだ。
ハンナとチキ目掛けて、にゅっと黒い腕が伸びる。毛むくじゃらの腕。どこか湿ったその手に腕を掴まれて、チキは汗が噴き出した。眼の前が暗くなる。
ハンナの高い悲鳴が耳に残った。
(続く)