「クレイソード・サガ」

・第二回

「ここだけ劇場」へ戻る


 チキは一人部屋のベッドに潜り込んで、初めて店番をしたことやら、初めて見た魔法のことやら、沢山思い出すことがあって、なかなか寝付けなかった。体がかっかと火照っているのは興奮しているからだ。そう言えば昼間、酷く疲れたら飲んでおけ、とクレイから薬を一欠けらもらっていたのを思い出した。明日の為にもちゃんと休まないと、と思い、チキは薬を水差しの水で飲んで、その後はすぐに眠りに就いた。



 僅かな音にヴァーンが眼を開けると、幽かな月明かりに、クレイが身支度している姿が浮かんでいた。
 脱がせてやったチョッキもブーツも、すっかり身に着けている。
 ベッドから身を起こしてヴァーンは尋ねる。
「相変わらず夜型か」
 クレイは父親の忘れ形見の剣を腰に差して、ヴァーンを見ずに応える。
「そうでもない。最近は昼に動くようにしている。人は昼活動するものだろう」
「そうしてくれ。昼でさえお前、あれだってのに」
「お前は大丈夫だろう」
「信用してくれて有難いがな」
(そのうち襲うぞこの野郎)
 返り討ちは目に見えている。
 クレイは、ちらりとヴァーンを見た。
「……なんだ。お前でも感知するのか?」
 押し寄せて来る、邪な波動。ヴァーンは、視線に酔いそうになる。
「当たり前だ。忘れてるかもしれないが、俺は魔法使いだぞ」
「知ってる。お前程の白い魔法使いなら、平気なものだと思ったが」
 平気な訳がない。常人よりも魔に対する感度が良いのだ。一度欲してしまえば、溺れる具合は凡人の比ではないだろう。破滅する。
 クレイは言わないが、実際この男に破滅させられた人間はいるのだろう。こいつが女だったら、きっと国の一つも傾いていたに違いない。正しく魔性の女、と言う奴だ。
 ヴァーンがクレイに出会ったのは夜だった。クレイはただ、月明かりも薄い闇の道に立っていただけだったのだが、寄越された視線にヴァーンは初めての金縛りを体験した。目を逸らすことも出来ず、魂を食われる恐怖と、それに身を委ねる甘美の狭間でヴァーンの中では恐ろしい程の葛藤があった。だがそれはほんの一瞬の、クレイが瞬きをする間の時間でしかなかったらしい。
 魔法使いか、とクレイは静かに口を開いた。それはまるで解呪の言葉で、ヴァーンは忘れていた呼吸(いき)をすることが出来た。
 十二年前、ヴァーンがまだ十六の少年で、背中に一本剣を差して旅に出た年であったが、クレイの姿は、少なくとも、その頃から変わらない。
 クレイは、魔に食われたのだ。
 魔物自体は、既にクレイの中から失せている。クレイの体にあるのは魔の残滓(ざんし)だ。本体を思うとゾッとする。
 魔の邪気は夜に強まる。それはクレイの望むところではないのだが。そして夜には、クレイはヴァーンより更に、魔に対して鼻が利く。
 近い、とクレイは呟いた。
「……いるのか?」
「ああ。大物ではないようだが」
 小物か、とヴァーンはがっかりとする。出番も、欲しい大振りの剣もなさそうだ。
 それにしても、とヴァーンはさりげなく視線を逸らす。チキが寝ているはずの方向を向く。
「お前と会うまで、良く無事に歩いて来たもんだ」
 押し寄せる気配が微妙に和む。ヴァーンは笑って目線をクレイに戻した。
「いい子だな。ヤバイくらいに冒されてるが、眼だけは綺麗だ。いい光を持ってる」
「……チキは薬を飲んだかもしれんな」
「ああ、さっきチキに、軽く臭い消しの魔法をかけておいたが」
 そうか、とクレイは安堵したようだ。クレイの薬は魔物から作る。特に夜には人の鼻に感じない臭いは強く、仲間を食らう類の同族を呼び易くなる。
「なら、放っておいていいだろう」
「お前も魔法を覚えろよ。難しくないぞ?」
「魔法に優秀過ぎて、魔法学校も名のある家も放り出して剣術修業の旅に出たような奴に言われてもな」
 朝には戻る、とクレイは部屋を出て行った。狩りに行くのだ。ヴァーンは一度ベッドに転がったが、再び起きると、脛までの丈のブーツに足を突っ込み、上着を身に着け、ベルトを巻いた。




 まだ夜のうちにチキが目を覚ましたのは、久し振りにベッドで寝たからだろう。却って眠りが浅かった。寝返りを打って、窓の方を見た。
(あれ……?)
 人影が一つ。はっきりとは見えなかったが、あれは昼間の嫌な剣売りではないか。人目を忍ぶ風をして、クレイ達が寝ている部屋の方へと歩いて行く。チキはベッドを抜け出して、そっと窓に顔を押し付けて見た。間違いない、痩せた男はチキを突き飛ばし、ヴァーンに懲らしめられたあの男だ。男はきょろきょろと辺りを伺い、二つ向こうの……多分クレイ達の部屋の中を覗き見ると、懐から何やら道具を取り出して、窓のガラスを切り始めた。
(泥棒――)
 チキが口を開いて、しかしそれを声にしなかったのは、泥棒を働く男の遥か向こうの空に、大きな鳥のような影を見たからだ。
 あれは、何。
 思う間に影は、ぐんと近付く。窓に穴を空け、鍵を跳ね上げようと腕を突っ込んでいる男は気付かない。羽毛はない。鳥と言うよりトカゲ。翼には腕が付いていて、太い尻尾はチキの体より長そうだ。巨大なトカゲにコウモリの翼が付いたバケモノ。そう判断出来る頃には、バケモノは男のすぐそこにいた。かっと、尖った歯が並んだ口を大きく開けて。
「――危ない!」
 盗みに夢中になっていた男は、チキの声でそれに気付いた。襲い来る獣に目を遣り、
「ひ――」
 しかし悲鳴は続かなかった。声を上げる間もなく、男は頭から食われた。血飛沫が、チキが顔を付ける窓までびしゃりと届く。
 窓に突っ込んだ片腕を残して、食い千切られた男の半身が、勢いに引き摺られてどさりと倒れる。信じられない程静かに地面に降り立って、バケモノは二度、三度と咀嚼する。
 男の邪心を飲み込んで、魔物はケエ、と一鳴きした。
 そう、――魔物だ。
 チキは動けない。体が痺れて、目も逸らせない。
 魔物はチキに気付いている。証拠に、魔物はじっと、チキを見ている。次の獲物を見定めている。
 肝が冷えると言う奴だろう。体の芯が凍えて、逃げた方がいいとわかっているのに、動けない。いや、逃げたくないのかもしれないとまで錯覚させる。
 ――自分は、食われたいのかもしれない。
「喝ッ!」
 びくんと声に振り向くのと、太い腕に抱えられてその場を飛びすさるのは同時だった。「ヴァーン……!」
 ヴァーンは右手に剣を持ち、左手にチキを抱えて、一足飛びに廊下まで下がった。ドアの鍵はいつの間にかヴァーンが斬り壊していたものらしい。チキがいた窓際は、部屋の半分以上と一緒に、魔物の突進でその一瞬に噛み千切られた。
「動けるな? よし」
 チキを降ろして押さえるように頭を撫でると、ヴァーンはその手をばっと前に出し、人差し指一本を立てて、早口で唱え始めた。
「天のガラシア地のアルシナ、神柄(かむから)、使徒に思う者共を守らせ給え」
 魔物は再び口を開いて、宿屋ごとチキを齧る勢いだった。だが、何かに弾き返されるように、魔物はそれ以上こちらへはやって来ない。ヴァーンが軽く指を振ると、魔物は外へと押し出されて行く。
 ケエ、と鳴いて、魔物は足を踏み鳴らした。入れないのだ。ヴァーンが作った見えない壁のこちら側に。
 ヴァーンは右手の剣をぐっと握り直し、今正に飛び出して行くかと思った時。ふっと、見通しの良くなった空を壊れた屋根越しに見上げて、来たか、と呟いた。
 ――空から、
 クレイが、降って来た。
 一閃。魔物の頭頂から真っ直に剣が振り下ろされる。降り立ったクレイは一振り剣の汚れを払って、腰の鞘に収めた。腰の紐には、もう一本、柄も鞘もない細身の剣が下がっている。
 クレイに遅れて、空から斬られた魔物目掛けて、同種の魔物が落ちて来た。クレイは僅か半歩下がる。ぶつかった魔物同士は、クレイを掠めて、地を揺らして横たわった。どちらも絶命しているようだ。
 解(かい)、と唱えて、ヴァーンは魔法を解いた。危機は去った、ということだろう。
 クレイ、と駆け寄ろうとしたチキを、ヴァーンは「待て待て」と引き止めた。
「奴は今からお仕事だ」
 クレイは、今斬ったばかりの魔物に近付くと、左手を掲げ……見ると、クレイは左手に手袋をしている。肘までの黒い手袋だ。その左手で、徐に魔物の腹に触った。……様に見えた。手は、ずぶずぶと、倒れる魔物の腹に飲み込まれて行くのである。クレイの斬った傷から、魔物の黒い血は流れていた。だが、クレイの腕が入り込んで行くのに、血は一切流れない。腕の半分を魔物の腹に飲み込ませて、クレイはやがて腕を引き出した。黒手袋が外に現れ、クレイの拳が出ても尚……その先に。クレイは、剣を握っていた。
 クレイが腰に差しているのと良く似た、細身の剣。柄も鞘もない。
 剣が出て来た魔物の腹には、傷すらない。
 クレイは、取り出したばかりの剣を腰紐に差して、手袋を乱暴に剥ぎ取り、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「小物だな」
 ヴァーンの声に、ようようこちらを振り向いた。
「宿全体に結界を張ったのか。助かった」
「どう致しましてだ。当てにしてた癖に」
 そうしてヴァーンは溜め息を吐く。
「邪心をぷんぷんさせた小悪党が、魔の良い餌になるのは承知だろうが」
 食われた男のことを言っているのだ。
「魔物ばっかり追いかけてるから、人に目が行かないんだろう」
「ああ……そうだな」
 男の邪心に引かれて、魔物が宿屋の方に来ると知っていてもいなくても、ヴァーンはクレイに落ち度があると言いた気だ。
 事実、それでチキは危険な目に遭った。でもそれは、男が盗みに来ようなどと考えたからなのだし、実際はヴァーンの
お蔭で、他の客共々事なきを得た。
 これでまた、不必要に別嬪なのがいけない、等と言われても、クレイが気の毒と言うものだろう。
 チキは、魔物の死骸から庇うように立っているヴァーンの陰から、クレイに駆け寄る。
「クレイは、怪我は、ない?」
「……ああ」
 饐(す)えた臭いがした。魔物の血の臭いか。これを洗い流す為に、クレイは仕入の後に石鹸を使うのだ。月の光では見えないけれど、きっと革のチョッキには、また汚れが増えている。
「お前は無事か?」
「うん。ヴァーンが助けてくれたし」
 振り向くと、ヴァーンの後ろには、宿の主人をはじめ、泊まり客達が恐る恐る、壊れた部屋の向こうから伺っていた。
「あんた、クレイかい」
 呼び掛けたのは、宿屋の主人の息子だった。




 チキの為に宿屋の息子は自分のベッドを一晩譲ってくれて、朝迄の数時間を、取り敢えずチキは他の宿泊客達と同様、まともな部屋とベッドで眠った。
 魔物の死骸をどう片付けたものかと悩んでいた宿屋の主人にヴァーンが言っていた通り、朝になって覗いてみると、外に転がっていた魔物は二体ともきれいに無くなっていた。死んだ魔物は体の形を保てなくて霧散するのだそうだ。その前に同類を食う類の魔物が掃除しに来ることもあるからと、ヴァーンは死骸に向けて何やら魔法を使っていた。だからクレイに倒された魔物は二匹とも、霧となって消えたのだろう。
 クレイは破壊された部屋の償いにと、仕入れたばかりの剣を一振り宿に置いて来た。
 とんでもない、頼み事まで聞いてもらうのに、と宿の主人は固辞したが、クレイの剣なら買いたい、と言う者が泊まり客の中にいたので、なら宿代代わりに置いていくから交渉はここの御主人とやってくれ、と半ば強引に押し付けたのだ。泊まり賃は先に支払ってあった。剣を抱えて主人があうあう言っている隙に、さっさと出立したのである。
 チキ達三人はウザを出て、チャルダという町に向かっている。
 グラードに向かう道からは少し外れるが、宿屋の息子に頼まれた用事は、チャルダにある。
 チャルダは大きな寺院がある町で、そこに住んでいる宿の主人の親戚も熱心な信者だそうだ。ところが、最近着任した大司祭が、どうにも妙な法を触れ出した。魔物も頻繁に出没するようになった。大司祭様は、魔物に憑かれてしまったのではないか、と専らの噂なのだそうだ。
 もし魔物の仕業だったとしたら、クレイに退治して欲しいと、こういう訳だ。そうでなくても、チャルダは今魔物が良く出るそうだから、仕入れにはいいだろうと。
「まあ……魔物が増えたのは、どこでも同じだがなあ」
 ヴァーンは四角い顎を擦ってついて来る。でかい剣を手に入れるまでは、同行するのだと主張している。
 それは、昨日のあの魔物よりも、もっと大きな恐ろしい魔物に出遭うのを待っている、とそういうことなのだろう。
 チキは、思い出すと、それはやはり恐ろしいのだ。でも、恐ろしさと一緒に、夜の闇に溶けるように舞うように剣を振るった、クレイの姿も思い出すのだ。
 あれは、とても綺麗だった。
 そして、クレイは何だか、痛そうだった。
 怪我をしていないのは本当らしい。今も普通に、チキの隣を歩いている。
 魔物を倒して仕入れる為に、剣売りの男は歩いている。
「……ねえ、どうしてクレイは剣売りになったの?」
 クレイは黙って、ちらとチキを見る。
「魔物から剣を取り出すなんて、普通出来ないよね」
 見上げるチキにクレイが何か言う前に、ヴァーンの低い声がした。
「……おい。香炉売りの爺さんに黙って来たな」
「あっ」
 チキも、クレイもはっとする。
「……そう言えばそうだな」
「まったく、今頃爺さんは空の場所を守っているぞ」
 ヴァーンは、やれやれとばかり、首を振るのだ。それをクレイは肩越しに振り返る。「お前も忘れていたんだろうに」というクレイの視線を、ヴァーンは無視する。
「がっかりしているだろうな。爺さん、チキを気に入ってたようだから」
「……おいら?」
 チキは驚いて、真後ろのヴァーンを振り仰ぐ。だってこんな、とチキは自分の面相のことを言おうとしたのだ。
「素直ないい子は、特に年寄りにはウケがいいのさ」
 ヴァーンは後ろからチキの頭をぽんぽんと叩いて、はっは、と笑う。手加減しているのだろうが、チキはつんのめって転びそうになる。ヴァーンはチキの鞄の紐を掴んで助け、「なある、それでか」と呟いた。
「え?」
「クレイがチキを気に入っている理由さ」
 まるでクレイが年寄りのような言い方をする。
 チキは少しドキッとして、今度はクレイを振り向いた。
「気、気に入って……?」
 クレイは何も言わずに歩いている。ヴァーンは構わず言葉を継ぐ。
「でなけりゃあ、こいつが一緒に旅出来るもんかよ。勿論、だから俺のことも気に入ってる訳だ!」
 わっはっは、と大きな声で笑いながら、ヴァーンはクレイをドンドンと叩いた。クレイは低く長い溜め息を吐く。
「お前は勝手について来ているんだろう」
「好きなら好きと素直に言え、でないと年寄りにウケないぞ!」
 ヴァーンは喚く。クレイはそれをまるで無視する。
 長身の二人は、会った最初からずっと、小さな自分に歩を合わせてくれている。チキは随分和んだ気分で、綻んだ口元で小さく小さく、ありがとう、と礼を言った。
 するとチキの考えが聞こえたように、
「なあに、俺達はゆっくり歩くのも好きなんだ」
 ヴァーンが独り言のように口にした。クレイも軽く返事する。
「ああ」
「ついでに俺のことも好きだろ?」
 これには何の返事もない。チキはとうとう、明るい声を上げて笑った。




 チャルダに入ると、ウザの宿屋の親戚の家はすぐに見付かった。大通りに面した、割りに大きな宿屋である。看板には太い朱書きで「マハル亭」。聞いていた通り、食堂も兼ねているようだ。町の外からも見ることが出来た大寺院の丸い屋根が、その宿屋からも良く見えた。
「ようこそ。亭主のマハルでございます。ウザからの報せは届いておりますので」
 ウザの宿の主人は、親戚に速報(はやしら)せを出していたらしい。金髪の大男と黒髪長身の美男子と小さな痩せた子供の三人連れが宿の扉を潜った途端、名乗る前に宿の亭主が進み出て挨拶をした。
 案内されたのは三人一緒に泊まれる広い部屋で、元は四人部屋らしい。部屋代は要りませんので、と亭主が言ったその時に、クレイはきっと、剣を置いて行くことを決めていただろう。
「お食事はすぐにご用意出来ますが」
 昼を少し回ったところだ。ウザを発つ時に宿の主人が用意してくれた弁当を道中食って来たことであるし、食事はすぐには必要なかった。
 話を聞かせて下さい、とクレイが言うと、亭主は女房にお茶を持って来させて、恐縮しながら話し始めた。
「御存知の通り、ここチャルダは、都のヘンダルを除けば国一番の大寺院がある町です。歴任の大司祭様は、その大層な魔法のお力で、町を守って下すってました。また多くの信者がそうであるように、チャルダの大寺院を訪ねる者は引きも切らず、町は賑っていたのです。それが、前任のライ大司祭様が御病気で退任なされて」
 次官の僧正が、去年大司祭に任官した。
 その頃から、チャルダに魔物が出没し始めたのだという。
 亭主は手のひらを擦り合わせて、親指以外の四本を揃えたまま、左右の手を九十度ずらしてぎゅっ、また反対にずらしてぎゅっと握った。
「他の町よりはましなのかもしれないと残る者も多いのですが、町を去っていく者も少なくはなく……」
 亭主はまた、手をぎゅっぎゅっと握る。天に坐すとされるガラシア神、地を治めるとされるアルシナ神を信仰する、ここバルダ国の多くの者がする仕草だ。
 因にガラシア神だけを信奉する者は左手を上に、アルシナ神のみの信者は右手を上にして、一度だけ手を握る。地方によって差はあるが、この国の者は大抵二度手を握る。それが隣国、そのまた隣と離れて行くと、左右どちらかしか握らない者、あるいはガラシア・アルシナ姉妹の父と言われているダラーシャを信奉し、両手を広げて頭上から足先まで腕を大きく動かすのが主流の国もある。
 昔はこの国にも、そうしたダラーシャ神の信者は多くいた。しかし宗教の統一を図ろうとした寺院の決定で、今ではダラーシャは引退し、娘達に座を譲ったのだと言われて、信仰の対象にはされていない。
 戦争から遠退いて久しい国では、戦と創造を司る父神よりも、共に平和と豊饒を司る姉妹神の方が、奉るに相応しいのだ。
「で?」
 ヴァーンは促す。
「今のその、ハンザン大司祭が魔物に憑かれていたとして、どうするんだ、俺達は大司祭を殺しちまっていいのか?」
「そ、それは」
 出来れば憑いている魔物の方だけを、とマハルは断る。司祭殺しは重罪だ。そんなことを依頼したとなれば、宿屋をやるどころではない、亭主の首も飛ぶだろう。女房も、ひいっとんでもない、と俯きながら手を握っている。ぎゅっぎゅっ。
「……とにかく様子を見て来よう。魔が憑いているかどうか確認しないと仕様がない」
 クレイの言葉に、宿屋の女房が顔を上げる。
「じゃ、じゃあ、大司祭様とこの町を、助けて下さるんで?」
「心配要らない。俺は魔にしか用がない」
 クレイは言った。宿屋の夫婦は顔を見合わせて、それから、お願いします、と頭を下げた。
 立ち上がったクレイとヴァーンと一緒にチキも立とうとすると、「お前は残れ」と声がした。クレイは荷袋から自分の剣を取り腰に差す。
「着いたばかりだ。少し休むといい」
 そうだな、とヴァーンも同意して、土産を買って来てやるよ、と手を振った。
 部屋を出るクレイとヴァーンを見送って、チキがふうと小さく息を吐くと、宿屋の女房が優しく話し掛けて来た。
「どっちかと御兄弟かい?」
「え、いいえ」
「そう。髪の色からしたら、大きい人がお兄さんかと思ったけれど」
 ヴァーンの髪は薄く明るい金。チキは金系とはいえ、酷くくすんで不健康な色だ。クレイの濡れたような黒と比べたら、確かに近いかも知れないけれど。
「おいら、病気で……グラードに行くまで、一緒についてかせてもらってるだけです」
 病気かい、と女房は瞬いた。一見して、ただの痩せ過ぎだとは思わなかったろうに。
「グラードはお医者が沢山いるからねえ」
 そうだお前、と亭主は女房を呼んだ。
「ほら、あいつの倅が確か……」
 ああ、そうだそうだ、と女房は手を打つ。
「知り合いにね、グラードで勉強して来たお医者がいるんだよ。そうだ、呼んであげようね」
 勿論、お代を取るなんて言わせないよ。女房はいそいそと部屋を出た。チキは慌てて手を伸ばす。
「えっあの、でも」
「うんうん、それがいい、グラードに行く途中こっちに寄り道したのは、きっと姉妹神様のお導きだ。心配ないよ、手前の友人の倅でね、若いが、腕はいい医者だから」
 ほら、座ってお茶を飲みなさい、と頷く亭主と二人、チキは断り損ねて、お茶を飲み飲み、待つことになった。




(続く)


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