アルドの漫画のタイトルは『君という緩やかな河』。今決めた(笑)



『来々軒へいらっしゃい』



来々軒の2階、テーブルさえないヒルダの部屋で、タルは胡坐をかいて雑誌を開いている。畳の上には、雑誌と一緒にタルが買ってきたまんじゅうの箱と、麦茶の入ったコップが二つ。こうしてタルが訪ねる様になってから、ヒルダの冷蔵庫にはお茶が常備されるようになった。
8つ入りのまんじゅうは、残り3つになっている。そのうちタルが食べたのは一つだけ。ヒルダが遠慮しないようにと最初に摘んだ一つだけだ。ヒルダはタルの隣で、まんじゅうを頬張りながらタルが開く雑誌を覗き込んでいる。小ぶりのまんじゅうだが、タルに勧められて一つ食べたら、止まらなくなった。自分の頬を見てタルが笑っている気がしたが、何だかとても嬉しくて美味しくて、ヒルダはもぐもぐしている。
「……お、これだ、ほら、アルドさんの」
『コミック☆ゲンスイ』の11月号、アルドの連載漫画を探し当てて、タルはヒルダに雑誌の頁を傾けて見せた。扉絵横の柱にあるキャラクター紹介を指して、これ俺かな。お、これヒルダだろ。と当たりをつける。ヒルダがモデルをしたキャラクターは、女の子で、しかももう死んでいるらしい。
「ヒルダは主人公の親友かー」
ヒルダじゃなくて「ひとみ」だよ、と言いたかったが、まんじゅうで口がもごもごしただけだった。タルは続けてさらりと言う。
「俺は主人公の彼氏の友達か。へー、俺ヒルダを好きなんだってよ」
ぐっと息が詰まった。タルの言うのが「わたるがひとみを好き」だとわかるが、ヒルダはコップのお茶をごくごくと飲んだ。
味わっていたまんじゅうを流し込んでしまって、少し残念に思いながら、コップを口元に持ったまま、ちら、とタルを見た。タルは漫画を読み始めている。
まんじゅうは8つだった。自分はもう4つ食べている。なら、残りの3つは、タルの分だ。
夜中の工事現場のバイトを減らしたのだとタルは言った。
お陰で、ヒルダは来々軒の仕事の後、こうしてタルと過ごすことが出来ている。仕事が引けた後2階の部屋に遊びに来て、そのまま泊まって翌日一緒に店の準備を始めたりすることも増えた。
こんな風に、一緒に過ごせる誰かが現れるとは思ってなかった。
タルはちっとも怖くない。それどころか、気持ちがいい。
タルがモデルをしたキャラが、自分がモデルをしたキャラを好きだという。漫画の設定とはいえ、なんだかじんわりとくすぐったい。
そして、まんじゅうも美味しい。
まんじゅうをちらちら見ながら、タルの横で漫画を読んだ。
きっと頼めば、タルは譲ってくれるだろう。……こんな甘えた考えをしている自分が、ヒルダは何だかとても不思議だ。
残り3つのまんじゅうに、じいっと名残惜しげに視線を注ぐ。
静かになったな、と気付いてふと見たら、タルは雑誌を見て泣いていた。
「……―――」
ヒルダは目を見開いた。
「っと、つい感動して」
ぐしっと手のひらで鼻を押さえて啜り上げる。次いでごしごしと目を擦る。ヒルダは胸の辺りに柔らかいものが湧いてくるのを感じて、自然笑顔になった。
「……タル、優しいね」
「へ……いや、これ名作だって! 漫画なんてあんま読んだことねえけど!」
タルは力説するのだ。
「死んじまった好きな子の親友を一生懸命助けてさ、なんか、みんないい奴だな、いい話だな! アルドさんすげえな! 今度サインもらうか! ははは!」
泣いてしまった事の照れもあるのだろう。少し早口にそう言った。
わたる、いい奴だな~俺なんか絵のモデルで、なんか申し訳ねえな~。そしてタルは、洗濯機の終了音に救われたように立ち上がる。
「お、洗濯終わったな、干すか!」
一緒に立ち上がりながら、ヒルダはこっそり、いい奴だから、タルのイメージなんだろうに、と考えた。
最早勝手知ったる、でタルは脱衣場の洗濯機の蓋を開け、籠にざかざか脱水済みの洗濯物を移す。タルがそうして場所を取ってしまうと、ヒルダは後ろで待っているしかない。洗濯物を突っ込んだ籠を抱えて移動するタルに、ちょこちょこと付いて行く。小さなベランダに続くサッシをガラッと開けるのが、ヒルダの役になっていた。先にサッシを開けて置けばいいのだが、何故だか、ヒルダはタルの後を付いて行きたいのだ。本来客であるタルに任せてしまうのが心苦しいのも本当だったが、ほんの少し動く時間にも交わされる会話が、ヒルダは好きなのだろう。
洗濯物を籠に移しながらタルは言う。
「やべえな、続き気になるな、毎号買うか? 金続くか?」
どこか独り言っぽく、しかしヒルダに向けて言っているのはわかる。
「交代で買おうか」
ヒルダが言うと、ぱっと顔だけ振り向けた。
「お、いいか?!」
そうして、ははは、と笑う。
「何少女マンガ雑誌買う相談してんだかな!」
些細な会話が、ヒルダは嬉しい。
籠を抱えてベランダに出ると、タルは籠を下に置いてまずは一番上に乗っていたタオルを掴んだ。二人並んで出るとベランダは狭い。ヒルダは部屋の中から籠に手を伸ばし、洗濯物を取ってパンと広げて、タルに渡した。
ヒルダはフンギに頼まれて、来々軒のタオルやエプロンやコックコートなども洗濯している。今もタルが干しているのは、来々軒、と黒マジックで手書きされたタオルだ。
「はい」
「おう」
ヒルダから受け取ったのはフンギのコックコート。いつも干し易いようヒルダがきちんとした形で渡すので、タルは今まで気付かなかったのだろう。
パン、パン、と干したコートの裾を叩いて、ん、とタルは頭をコックコートに近付けた。
「……がいえん?」
胸にもあったはずの刺繍は解かれて無い。タルが見つけたのは、コートの裏地にあった『外苑』という刺繍文字。
「フンギさんが、以前働いてたレストランだよ」
ヒルダが言うと、タルは瞬いて振り向いた。
「へえ?」
「結構有名な、高級レストランだよ」
タルは納得したように大きく肯く。
「へーすげえな。あの人のメシ旨いもんなー。なんでラーメン屋やってんだ?」
「ラーメンを作りたかったんだって。レストランじゃ、メニューにないから」
タルはやたらと肯きながら、今干したコックコートを叩いて眺める。
「へーそっか、ふーん。……やっぱすげえな、フンギさん。……ヒルダは?」
「え?」
「フンギさんの働いてたレストランとか、詳しいじゃねえか。やっぱり、フンギさんと一緒に働いてたのか?」
ドキン。心臓が一つ大きく打った。
「は……話を、聞いただけ」
「そうなのか? でも、来々軒に誘ってくれたんだろ?」
「……声は、掛けてくれたけど、押しかけたようなものだから」
「……ふうん?」
次の洗濯物を渡そうとして、ぎゅうっと握っていたことに気が付いた。ヒルダがエプロンをくしゃくしゃのまま渡したことを、タルは変に思わなかったろうか。



前回泊まった時に、タルは布団をヒルダの部屋に持ち込んだ。しょっちゅう泊めて貰う事がわかったし、秋も深まって、流石に一つの布団ではみ出て眠るのは良くないだろう。自分のアパートには毛布を一枚残してある。このままもっと寒くなれば、その毛布も、こっちに持ち込むことになりそうな気はしている。
いっそ、部屋を引き払って、自分もこっちへ。
そう思わないでもなかったが、フンギとヒルダがいいよ、と言わないうちに考えに入れるのは、幾らなんでも図々しすぎるというものだ。
布団を並べて敷いて、それぞれの布団で眠りに就く。タルは自分の寝付きがいいと思っていたが、弟と一緒に寝ていた時は、弟より先には寝なかった。ヒルダがいつも先に眠ってしまうのは、きっとそのせいだろう。今も、眠い頭で眠ってしまったヒルダを見ている。眠ってしまうと、ヒルダはもぞもぞとタルの方へと寄って来る。布団の境目で苦しんでいる様なので、タルは自分の布団を捲って、ヒルダが寄って来易い様にしてやった。
持ち込んだ布団の意味がないようだが、ヒルダの背に、ちゃんと1人分以上の掛け布団を宛がうことが出来ている。敷布団から落ちないという余裕もあるから、いいのだ。
明日の朝も、自分の布団を空にしてタルの布団で寝ていたことに、ヒルダは顔を赤くして謝るのだろう。すっかり自分にくっついて寝息を立てているヒルダを見て思う。
(かわいいな)
重い瞼をしばたいて、ぼんやりと考えた。
まんじゅうを喜んで食っていた。また買ってこよう。
わたるがこいつを好きな気持ちもわかるぜ。こいつの大事な親友も守りたくなるよな……でも、ほんとはやっぱり、こいつを守りたかったんだろうにな……。うん? わたるは俺か。よし、俺が守ろう……
きっと途中からは、夢の中で考えていた。




タルが出前から戻ると、店に客は誰も居らず、フンギがカウンター席に腰掛けて、漫画雑誌を読んでいた。
「あーお帰り。ヒルダは出前に出てるよ。へっくんは厨房」
戸が開く音に顔を上げて、フンギはタルの訊きたい事を先取りした。
「そっすか」
カウンターに近付いて、空の出前箱を置く。フンギが読んでいるのは、『コミック☆ゲンスイ』だ。
にこっと笑って、雑誌を少し掲げて見せた。
「俺も読みたいから俺が買うよ。店に置いとくから好きに読んで」
わたるがタル君だろ。すぐわかった。これ? これはさっき、テッドって編集さんが置いてったよ。店員さんたちにお世話になってます、ってさ、これで続き買う気にさせるんだから、巧いよね~。
にこにことフンギは、雑誌社の編集事情まで分析してみせる。
ぱたんと雑誌を閉じて、フンギは人差し指で上を示した。
「最近、よく泊まるんだって?」
「はあ……あ、まずいすか?」
「いや? ぜんぜん」
にこ、と笑ってフンギは請合う。ほっとして笑ったタルに、少し声を落として、フンギは続けた。
「君の前のバイトはね。ヒルダと一緒に、ここに住み込みだったんだ」
自分と同じように、2階のあの部屋でヒルダと寝起きした者が居たことに、少し驚いた。
「……そうなんすか」
「10日でクビにした」
笑顔のまま、さらりとフンギは告げた。
「……はあ」
「雇ったときはね。明るくて、力持ちで、そう、君みたい。いい子だと思ったんだよ」
「じゃあ、なんで……」
「……10日目の朝ね。俺が家から店に来ると、ヒルダが店の外で震えてた」
「え……追い出したってことすか?!」
フンギは首を横に振る。
「逃げたんだ」
「……え?」
逃げたって、誰が。どっちが。
「ひどいことしようとする相手から」
「……!」
「ソッコー、クビにしたよ。ヒルダは悪くない。告げ口さえしなかった。でも、見ればわかるよ。何されようとしたか」
「…………」
にこ、とフンギは笑んだ。
「……嫌な話したね」
知らず詰めていた息を、タルはそっと吐き出した。
「……いえ。……話してくれて、よかったっす」
「うん。君ならそう言うと思った」
ふと思って、タルは瞬いた。
「……でも、じゃあ、よく俺を雇う気になったすね? 似たタイプだったんすよね」
「まあ、人手は欲しかったし。君はいい奴に見えたし。……君の弟君たちが訪ねて来た時に確信した。タル君は大丈夫、って。ヒルダにひどいことなんてしないだろ?」
「! しないっすよ!」
「うんうん、ごめん、あははは。でも俺もね。実はちょっとへこんだんだよ? 人を見る目がなかったのかってさあ。でも君は当たってた」
肩を揺すって笑ってから、いつもの笑顔でフンギは言う。
「ヒルダを、頼むよ。いい子なんだ」
「知ってますって」
にかっとタルは笑う。笑って、次第にそわそわとし始める。
「……でも、そういうこと聞くと、なんか……あ。それでヒルダ、出前に出ること、あんまないんすね?」
「うん。心配だろ? どこでどんなバカに目を付けられるか……」
「……俺ちょっとそこまで見てきますっ」
言葉尻はもう、店の外だった。
フンギは一瞬ぽかんとし、次いでぷっと吹き出した。
「ま、いいか、昼のラッシュは終わったし」
もう見えないタルを見送ると、また『コミック☆ゲンスイ』を膝に広げた。



小走りにきょろきょろとしながら、そういえばどこへ出前に出たのかも聞いてなかった、と思い出す。間抜け振りに呆れつつ、走り止めないのはその方が安心できるからだ。
……可愛くて、細くて、やっぱり、強そうには見えねえもんなあ。
力が強いと、やたら振るいたがる奴ってのは、いるからなあ。
昔っから、苛められたりしたんかな。殴られて……怖い思い、したんだろうな。
思い浮かんだのは、ヒルダの笑った顔だった。
(タルは、怖くない)
……よかった。心底からそう思う。
くっついて眠る姿を思い出す。大事にしよう。なくしてからでは、ヒルダ自身を大事には出来ない、と思ったのは、アルドの漫画の影響だろう。
四つ角の向こうからタルを見つけたヒルダは、驚いたようだ。
出前箱を揺らして駆けて来る。箱は空か。どうやら出前は済ませたらしい。
「どうしたの?」
タルは出前箱も持たず、自転車にも乗らずに走ってきたのだ、それは驚くだろう。
ヒルダの無事な顔にほっとして、そこで初めて、何と言ったものかと考えた。
暫くポリポリと頭を掻いて。
「え、いや……迎えに」
「……」
出たのは何の捻りもない正直な理由だ。
ヒルダはきっと呆れている。タルは頭を左右に傾げて、兄としての己を省みた。
「あれ? 俺って過保護か?」
「……どうだろう?」
小さく答えて、ヒルダはくっと口を結んだ。どこかくすぐったそうに口を震わせ俯くと、ぷっと吹いた。
笑われた。
「ほんとに迎えに来たの? 用事じゃなくて?」
「おう……いや、まあ、おう」
ヒルダは少し赤い顔を上げて、じゃあ一緒に帰ろう、と笑った。
タルは何だか手持ち無沙汰で、ヒルダの持つ空の出前箱を持とうとしたが、軽いからいいよ、と断られた。それでもタルが持とうとするので、店までの道のりを、出前箱の奪い合いをしながら走って帰った。
二人ぜーはー言いながら来々軒の暖簾を潜る。驚いたヘルムートが、氷なしの水をコップで二つ、持って来てくれた。




夕食時のラッシュにはまだほんの少し早い。
5時過ぎに注文を受けて、タルは近くの高校までラーメンの出前に来ていた。
例の、ポーラ先生の注文だ。
店を出るときの会話を思い出す。
「はい、タル君、よろしく」
フンギがどんとカウンターに置いたのは、ラーメンと、フルーツを盛った皿。
「へえ、デザートすか?」
「いや、トッピング」
「……へ?」
「特注なんだよ、あの先生、フルーツ大好きなんだってさ」
フルーティラーメン、forポーラ。
「…………そっすか」
(変だろ……!!)
腹で突っ込みを入れていると、元気な声に名を呼ばれた。
「あ! タルっちだ!」
(タルっちて……)
見ると、ミニスカ女子高生のジュエルがぴょんぴょんと跳ねて寄って来る。
「ども。な、職員室どっち?」
「あ、さてはポーラちゃんだな! 今日は出前か~あたし、案内したげるよ!」
ジュエルの顔には、フルーツのおこぼれ~と書いてある。
とっくに放課後なのだろう。グラウンドや校舎内には、制服や体操服姿の生徒達が、思い思いに部活動をしたりただお喋りを楽しんだりしている。
廊下を行きながらなんとなくドキドキするのは、学校というものに、余り縁が無かったからだ。小学校の間はそうでもなかったが、中学に入ってからは、タルは立派に家族の稼ぎ頭だったから、何とか卒業できる程度にしか、通学しなかった。高校は、勿論行ってない。
誰でも取得できる! と謳ってある資格や免許は、意外と高卒以上でないとダメだったりするし、無論資金も要る。タルは勉強が苦手だったし、貧乏を恨むタチでもないので、高卒でなくとも働ける仕事の方を、有難い、と感謝する。
タルを先導していたジュエルが、なんの躊躇も無くガラッと職員室の戸を開けた。
「ポーラちゃーん」
戸の中に向かって、嬉しげに手を振る。タルが言う前に、ジュエルはタルの口真似をする。
「ども~来々軒でーっす」
ポーラは自分の机で、大量のレポートを採点していた。にこりと笑って、ジュエルにだかタルにだか手を振った。
やっぱり耳はとんがっていた。




「今日は、俺の考えたプランを持ってきたんです、是非添削して下さい」
眼鏡の奥の目をきらりと輝かせて、レポート用紙をフンギに差し出すのはケネスだ。
カウンターで、ラップの掛かったラーメンを出前箱に入れながら、タルは横目で胡散臭げに眺めた。
(工学生かしたラーメン、とかいうやつか……)
タルにはどうも、美味そうには聞こえない。
まるで聞こえたように、ケネスはくるりとタルを向いた。
「何か言いたそうだね?」
「え」
「部外者がメニューの提案をするのは不満か。うん、わかるよ」
(いやそれは別に、てか工学が気になる……!)
フンギはケネスの示したレシピプランを見て、油で一面覆っちゃうんだ、ふーん結構大胆な油量設定だねえ、と肯いている。
ケネスはタルを見てぶつぶつと値踏みする。
「君は調理師? それともパティシエ? ソムリエは……必要ないよな」
(工学も必要ねえだろー?!)
調理師はともかく、パンとかハムとかは理解できなかったタルだ。
「いや……俺はそういうの持ってねえから」
「えっ……」
くるりとケネスはフンギを向く。
「チーフ、俺一刻も早く調理師になります、待っててください!」
ケネスの力強く宣言する様に、心強いね~とフンギは笑う。
(けんか売ってんのかこいつ……?)
何かがふつふつと沸くのを感じるタルだ。
「油使いすぎじゃねえ?……機械油じゃねえだろうな」
「油は必要だぞ! 君はラーメンにおける油の重要性を理解していない!」
(機械油を否定しろよ……!!)
特別調合の薬味を入れた小鉢を持って、ヘルムートが厨房から出て来た。それを受け取り出前箱に納める。
「いいか、舌触りと咽越しとスープの温度の密接なる関係は……聞いてるのか?!」
「出前行ってきま~す」
「うん、占い館のジーンさんとこねー」
フンギの確認に、ういっす、と答えて店を出た。



艶やかな色のイルミネーションに縁取られた館の中には、やはり艶やかな人が居た。
「うふふふふ……あら……初めてね……ふふ……」
出前を持ってきたタルを見て、面積の小さい服を着た美しい人は、艶然と微笑む。
「ま、まいど……」
(こんな綺麗な人がスタミナラーメン食べるのか)
「あら……ふふふ、いけない? スタミナラーメン」
「いっ……いいえ! べつに! ちっとも!」
ばれた?! と疑ったのは、ワンテンポ後だった。
濡れたような唇をくいっと横に引いて、ジーンは目の前の水晶球に手を当て、愛おしむように撫で回す。
「うふふ。お近づきのしるしに、特別に一回タダでしてあげるわ」
タルは、ラーメンを何処に置けばいいのだろう、と考えている。テーブルは今ジーンが弄っている玉の乗った小さいものだけ。床はなんだかいろいろと不規則に盛り上がって、どうも安心して丼を置けない。テーブルを挟んでジーンと向かい合っている座面の小さい椅子が、唯一平面らしいだろうか。
「あら……ふうん……うふふ……」
ジーンは水晶球を覗き込んで、嬉しそうに目を細め、含み笑う。
「なんすか」
「……うふふふ」
(気になるーー!)
うふふふふふふふふ、とジーンは笑う。こちらへ身を乗り出すと、豊かな胸が水晶球に乗った。
「……アナタ、とってもステキよ。そのままのアナタでいてね。……うふふ」
「はあ……。?」
(あ……じゃあ、ヒルダも占ってもらったりしたんかな)
「そうね……あの子も占ったわ」
(うわ、なんでわかった?!)
ジーンは、ちょっと透かし見るように目を眇めた。
「……随分面白い星の子。……うふふふふ……」
(……気になる……!)
ラーメンはそこに置いて、とジーンはやはり向かいの椅子を指した。差す指も美しい。
出前箱からラーメンと小鉢を出して何とか椅子の座面に並べると、ジーンは立ち上がってタルの側に寄り、美しく立ち止まった。深いスリットから丸見えの長い足が心臓に悪い。ジーンは右手の指を2本、深い胸の谷間にすっと差し入れる。抜かれた指には、畳んだお札が一枚挟まっていた。
「はい、千円。どんぶり、後で取りに来てね……ふふふふふふふ」
札と指をタルのエプロンのポケットにねじ込む。ねじ込む拍子に、笑ったジーンの胸がたぷんと揺れた。




タオルやエプロンやの洗濯物を脱衣所の洗濯機に放り込んで、昨日お風呂入ってないんでしょ、とヒルダは訊いた。
来々軒の2階の部屋に今日も泊めてもらうタルは、ゆったりと畳に胡坐をかいている。
「お……臭うか?」
自分の腕を鼻に近付けて、くんくんと嗅ぐ。食い物屋だから、前よか気い使って風呂増やしてんだけどな、と言い終える前に、タルは自分の臭いで咳き込んだ。
汗とラーメンの臭いはいつものことだが、今日はジーンに擦り寄られた時に移った甘い香りがきつく混じって、何とも言えない臭いを発している。
むせたタルにちょっと困ったように笑って、自分も畳に座りながらヒルダは訊いた。
「……占い館、凄かったろ、色とか匂いとか」
「……あー、どこにどんぶり置こうか迷った」
ヒルダはくすくすと同意する。
「ぼくも、最初出前に行った時、どこに置こうかきょろきょろしたんだ。その、目のやり場に困ったのもあるんだけど」
「おお、すげえカッコしてたよな」
「……美人だよね、ジーンさんて」
「そうだな。美人もスタミナラーメン食うんだよな」
タルがしみじみと言うので、ヒルダはまた小さく笑った。
「お風呂、使っていくといいよ」
「おっ悪いな! はは、銭湯代も馬鹿になんなくってよ!」
期待してたんだ、と頭を掻くと、ヒルダはまた少し笑う。
「そうだ、背中流しっこするか」
タルの申し出に、ヒルダはびっくりして固まった。暫くして赤くなり、俯いて首を横に振る。
「……お風呂、狭いし……」
「んなことねえよ。親戚んちで弟達と入った時の方が、もっとぎゅうぎゅうだったぜ?」
俺んちは風呂ねえから銭湯通いだったしな、とタルは笑う。
「……は、はずかしいし……」
更に小さくなった声で訴えられて、タルは瞬き、諦めた。
「……そか。無理には言わねえからよ」
「ご、ごめんね……」
「いいって」
大らかに笑い飛ばし、そういやあ、と話題を変える。
「占い、お前もやってもらったんだって? 俺もやってもらったんだけど、ジーンさん、うふふふふふふって笑うばっかりでよ、何やらさっぱりわかんねえんだ。お前のことは、なんか面白いとか言ってたけど、ちゃんと占い結果教えてもらったか?」
しかしヒルダは、話題の切り替えについて行けていなかった。
俯いたまま、相槌も打たずに、膝の上で拳を握っている。
「……どうした?」
心配げに問うタルに、ぶるっと震えたヒルダは答えず、そっと、おずおずと、タルにくっつき、きゅ、とタルのシャツを掴んだ。
「……ヒルダ?」
ヒルダは首を横に振るばかりだ。
服を掴む手と肩が小さく震えているのを見て、タルはヒルダの肩に腕を回して、よしよし、と頭を撫でた。
「兄ちゃんが、いるからな」
こくん、とヒルダは肯く。



タルは安心させるようにヒルダの背をぽんぽんと叩く。
「誰かに背中流しっこしよう、って言われたこともねえんだろ?」
弟をあやす兄の声で、笑いながらタルは尋ねる。ヒルダは首を横に振る。
「……ううん」
「お? そうなのか」
タルはヒルダの背をぽんぽんと叩く。どこか安心したように、誉めるように。


……誰かと風呂に入ったことが無い訳じゃない。

わかってる。タルが言うのはそういう事じゃない。

わかってる。けど他に何が出来る。


ヒルダはタルからそっと離れ身を起こすと、おもむろに服のボタン外し始めた。
「……お、風呂か?」
タルは訊きながら、でもこっから脱いでくって珍しいな、恥ずかしいの克服しようとしてんのかな、などと考えた。それより、湯を張る水音がしなかった気がして、
「風呂の湯、もう入ってんだっけか。先、入るか?」
ヒルダは答えず、脱いだシャツを胸に当てると、再びタルに身を寄せた。
小さな声が、震えていた。
「……タル、は、優しくしてくれるから……」
「……?」
「タルに、ぼくは、もらうばっかりだから」
何か、返したくて。ヒルダの声だか吐息だかが、タルの心臓の上にかかる。
「ぼくを、可愛いって、言ったよね?」
「おう……? ……おい」
「……ぼくが、あげられるの、……これくらいだから」
「ちょ、ちょっと待て? ちょっと待て?!」
タルはぐいっとヒルダを押し返し、
「俺の、勘違いかも知れねえんだけど!」
叫び、ヒルダの手からシャツを取って、ばっさと着せた。
「返すとか、そんな、考えなくていいんだからな?!」
見返す目は夢から醒めた人のようで。――ヒルダはかくんと力が抜けて、肩を掴むタルの手に体重を預けた。
「そうだよね。……タルは、ぼくが悪いと思ってないもんね」
虚ろに呟く。瞬く目から、涙が落ちる。
「お前が悪いんだ、って、……今までひどいことした人は、――お前が可愛いからいけないんだ、って、恨むなら自分を恨めって―――タルは、言わないんだね」
「……―――――」
ひどいこと、とは。
ただ、殴られたり、苛められていたのだと。それだとて、許せることではないのだけれど。
「~~~~~っ」
タルは、ヒルダを抱きしめた。ヒルダの体に抵抗は無い。そうだ、ヒルダはタルを怖くないのだ。それなのに、こんなことを手段として考えてしまうほど、ヒルダは。
噛み締めるような、声が出た。
「……もう、誰もお前に、ひどいことなんかしないからな。俺が、させないからな―――」
そのままヒルダを抱きしめて、タルは一夜を明かした。途中眠ったヒルダの髪を撫で、寒くないよう自分の服を掛け。
翌朝ヒルダが目を覚ましてから、風呂へは二人別々に入った。




彼は、ヒルダを追って来たのだ。
見覚えのある高級車が、すいっと目の前を塞いで停まった。
運転席から下りて来たのは……ああ、彼だ。
「ヒルダ……」
嬉しそうに、ヒルダを呼ぶ。
まだ中身入りの出前箱をぎゅうっと持ち直して、駆け寄る彼の向こうに、通る隙間が無いか探している。
構わず、彼はヒルダの目の前までやって来て、自分の用事を話すのだ。こちらの事情を汲む気は見えない。
……相変わらずだね、スノウ。
「父さんの言うことなんか、気にすることない。戻っておいで、ヒルダ」
「……」
「ヒルダ」
「……悪いのは、ぼくなんでしょ?」
「……それは……そうさ。君がいけないんだ。このぼくを、素直に受け入れないから!」
「……仕事中だから」
すっと横を行こうとするヒルダの腕を、ぐっと掴む。
「待てよヒルダ! ぼくが! 全部あげるって言ってるじゃないか! 君は、君だけをぼくにくれればいい! 何が不満なんだ!」
「……放してください」
「いやだ! 君がうんと言うまで!」
「いや……」
両腕をきつく掴まれ、重い出前箱を提げたヒルダは思うように動けない。返事を迫るスノウの顔を逸らしながら、身を捩るのがせいぜいだ。
「ヒルダ……ヒルダ、どうしてわからないんだ!」
ドガン! と響いた音は随分近く。はっとして振り向くと、路上駐車されているスノウの車の横に、出前箱を提げたタルが立っていて、
「……邪魔っすよ」
「……!」
睨んで寄越すタルは片足を下ろすところだ。すぐ側の黄色い車体が、ものの見事に、ベゴン! と凹んでいた。
驚き、瞬き、ヒルダは呼ぶ。
「タル……」
「ラーメン伸びちまうぞ。行けよ」
辛うじてその声は、いつものタルのものだったか。
呆然とするスノウを離れて、ヒルダが去っていく。
スノウはふらふらと愛車に寄って、抗議の声を上げた。
「君……なんて事」
「……聞いたら手加減出来なくなるから聞かないでやる」
「え?」


―――ヒルダに『ひどいこと』をしたのかどうか。

「殺されないうちにさっさと失せろ……!!」





順調に商談は纏まり、巨大企業のトップが、どちらとも無く右手を差し出し握手した。
するすると話が決まるのがいつものことなら、その後雑談が始まるのもいつものことだ。一回り程も年の違う社長同士だが、年嵩の方は、若い方の親父の代から知っている。息子ほどではないにしろ、身内意識が働いても無理は無い。
秘書共が後ろでがたがた今次会談の決定事項や次の移動の確認を行っている間、二人はのんびりと、自宅の居間の様に話し始めた。
「……おう、そういやあ、お前さんとこの……なんとかっての、ラーメン屋で見かけたぞ。なんかやらかしたのか」
顎鬚を指で擦りつつ、年嵩の方の社長は尋ねた。若い方には、ちゃんと心当たりがあるらしい。話題に上った青年の名を口にする。
「カラムーチョか」
「……そんな名前だったかな?」
首を傾げる盟友に、若い彼は訊き返す。
「……あなたの会社からは随分と遠くはないか」
「おう、たまたまな。つまんねー講演会とかに呼ばれてよ。こっち来てたんだ」
「夜会を抜け出したか」
「そのとーり。で?」
訊かれて彼は指を組む。
「彼は鋭意返済中だ」
「……お前さんとこをクビって訳じゃねえんだな」
「む。何故クビにする必要があるのだ。理解できぬ」
「いや知らねえよ、珍しくあんたと一緒じゃねえから」
「だから鋭意返済中だ」
「……なんのだよ」
「秘密だ……!」
鋭く言い放つ若に、彼はぽりぽりと頭を掻く。
ま、良いけどよ。コルトン爺もまだまだ大変だぜ。と独りごちる。
「……おう、ラーメン屋で息子といやあ……」
「む?」
「……いや、ちょっとな。」
「……秘密でないなら話せ」
秘密ってもんでもねえなあ……彼はポリポリと顎を掻く。
「……昔よ。15年も前の話だ……」
彼には息子が居るはずだった。
「くっそつまんねえ理由でよお……」
昔の仕事のライバルが、彼に手を引かせようとして生まれたばかりの息子を誘拐した、
その犯人は捕まる前に事故で死んで、息子の行方は未だ知れずだ……と話す。女房はその時の心労で死んじまうしよ、ったく、と愚痴る。そこまで話して、彼は、ふっと笑った。
「……こないだ、たまたま入ったそのラーメン屋でよ。生きてたら、ちょうどこんな具合かもしれねえな、てな子供が、働いてんだ。うっかり何度か通っちまったぜ。はは」
若い彼は軽く眉を持ち上げた。彼自身も通ったラーメン屋だ。昼ならば、彼ら二人が鉢合わせただろう。会っていないということは、年嵩の彼が通ったのは夜なのだ。そして、来々軒に夜も確実にいるバイトは1人だけ。
「……ヒルダ君か」
「な、に―――ヒルダ?!」
呟いた名に、息子をなくした彼はがたっと立ち上がった。
部屋の隅に居た、秘書でもある彼の娘のフレアも、はっとこちらを伺い見る。若い彼は目を眇めた。
「……同じ名か」
珍しく取り乱した彼は、顔に手を当て、すとんと椅子に座りなおす。
「……ああ……だが……まさかな……とうに、諦めてる……」
「らしくない。良ければこちらでも調べよう」
承諾の言葉を、口にするのに、多分、勇気が要ったのだろう。
「…………ああ、すまん」
期待するのは、その後の絶望と常に隣り合わせだ。
「気にするな。俺は親切なんだ」
軽口にも思える言葉を、この若い彼は常に本気で口にしている。彼は苦渋の滲みた口元で、ぷっと吹いた。
「……オヤジさんの、教えだったか?」
「唯一のな」
若い彼は、今日の商談が始まって初めて、笑顔を見せた。






(続く)

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