若様はきっと天然です……へっくん大変。



『来々軒へいらっしゃい』



上品な音楽の流れる客席はざわざわと混み始めている。コックコートを着たケヴィンと私服姿のフンギは、客席のフロアと厨房を繋ぐ扉の前、厨房ではなく、客席側で話している。
「ごめんね、挨拶がこんな時間になって」
フンギの言葉に、ケヴィンはフン、と鼻を鳴らす。
「どうせ支配人が、挨拶に行ったお前をなかなか放さなかったんだろ。あわよくばそのままずるずると今日も厨房に入れるつもりで」
フンギはにこっと肯定する。
「まあね。俺って当てにされてたし」
惜しいのは俺も一緒だぞ、とケヴィンは諦め半分に笑う。
「ラーメン屋でうちのコックコート使い回すってホントかい」
「うん。使える物は使うよ。あれ、結構着慣れて動きやすいしね」
ケヴィンは手にした紙マッチに目を落とす。
「もっと店舗や土地に金掛けりゃいいのに。ほんとにこの住所に店出すのか? 住宅街の、わかり難いとこだぞ?」
「学生街だよ。資金は、食材と器具に使いたかったからね。いいんだ。ラーメンが美味しければお客は来るし、店の名前もイイでしょ?」
「来々軒、か……」
ひょっとして呆れてる? とフンギは訊く。ケヴィンは返答に詰まる。
入店してきた客が、ボーイに案内されて客席の奥へ行く。眺めの良い、予約席だ。
一行が離れて、到底こちらの声が聞こえるはずもなくなってから、ケヴィンは吐き捨てるように口にした。
「また来てる……パトロン面して。うちの店の味もわからない癖にな」
「……有名で高級なレストランに金を出すのが好きなだけなんだから。無理言っちゃ気の毒だよ」
丁度ボーイが厨房から料理を運び出して来たものだから、にこーっと微笑んで弁護したフンギに、ケヴィンは冷や汗をかくところだった。
「お前のがこっそり酷いぞ?……気が付かないくらいに毒舌だよな」
「そうかな?」
笑顔のままフンギは続ける。
「……でも、確かにああいうのは嫌いだな。ケヴィン、コックコート貸して」
「へ?」
「出資者の1人に挨拶してくるだけだよ」
おいおいと言いながら、ケヴィンは着ているコートを脱いだ。それをばさっと手早く着ると、フンギは颯爽と客席フロアを奥まで歩く。
予約席には客が3人。レストラン「外苑」に出資しているフィンガーフート市議会議員と、その向かいに座する、多分フィンガーフートの本日のゲスト、持て成されるべき彼は、やはり見たことのある県議会議員だ。そして、議員二人の間にもう1人。こうしてフィンガーフートが誰かを持て成す時には大抵伴われている少年は、毎回違う装いに身を包んでいる。今日の彼は、どこか少女めいたフリルの服に、薄化粧まで施されている。おそらくこれが、今日の県議会議員の好みなのだ。
「これはようこそ御出で下さいましたフィンガーフート様、実は私本日付で外苑の厨房を離れますもので、これまでお世話になりましたご挨拶を一言と、このお席にお邪魔を承知で参りました次第です」
深々と頭を下げながら、フンギはこっそりとテーブルの下の少年の手に、紙マッチを握らせた。一瞬少年はぱっとフンギを見たが、何を言うこともなく、再び俯き、紙マッチを握り込んだ。
下げた頭を上げしなに、フンギは少年の耳に小声で告げる。
「逃げたくなったら、おいで」
適当に並べた美辞麗句に、フィンガーフートはいちいち嬉しそうに肯く。県会議員にもそつなく挨拶を交わし、フンギはテーブルを離れた。
厨房への扉前でそわそわと待っていたケヴィンに脱いだコックコートを返す。
「ありがと。じゃ、パムさんにもよろしく」
未練なく踵を返すフンギの背に、いつでも戻れよ、とケヴィンの声がした。






「……これは社長秘書のフレア様からお聞きしたので確実な情報ですが、リノ様は夫人が懐妊した際に、『いやんパパは女の子がいい~』と駄々をこねて、二人目の名前を女名以外認めなかったそうです。幾つかの候補から夫人がヒルダと決めて、生まれてくる子の為のリボンに、夫人手ずからヒルダと刺繍をしたとか」
報告を聞いていたトロイは正直に感想を漏らす。
「バカ親か……」
ヘルムートは、げふん、と咳払いをして注意を促す。
「む? いや、親馬鹿か」
彼の若様が言葉の間違いに気付いて正したのを確認し、ヘルムートは頭の中の報告書の続きを読み上げた。
「誘拐犯が交通事故で落命した後、隠れ家に放置されていた赤ん坊のヒルダ様をホームレスが発見、近くの幼稚園の門前に運びました。その後、赤ん坊は孤児院に収容、十歳を越える頃から今まで、何件かの民家を転々としながら働いてきたようです。……相当酷い目にも遭ったようですね。一つ所に長居は出来なかったようです。……世話になっている家の息子がヒルダ様に強制猥褻を働いて、息子の父親が、お前のせいだとヒルダ様を追い出すケースが2件……引き取った里親が手を出して、その妻に追い出されたケースが1件」
「……」
「……隣市の市議会議員であるフィンガーフート家に引き取られてからは、議員のコネクション作りに利用されていたようです。……その」
「売春か」
「……はい。その後フィンガーフート家を逃げ出し、来々軒に住み込み、現在に至ります。……トロイ様、これをそのままリノ様に……?」
「……許せんな」
トロイは椅子から立ち上がる。
「許せん」
もう一度くり返し、「俺は親切なんだ」と呟いた。
「乗りかかった船は最後まできっちりメンテナンスして目的地まで送り届けろ」
ヘルムートは瞬き、彼の若様に90度頭を下げた。




「何、今日へっくん休みかよ?! ったーー!!」
昼のラッシュ直前に入店したタルは、厨房に居るものと思っていたヘルムートが休みを取っていると、出前に2、3度往復したところで気が付いた。3人で乗り切れない忙しさではないが、4人の頭数に慣れてきたところであり、久し振りに深夜から早朝にかけての建設現場のバイトをしてきたタルには、へっくんもいるし、という甘えも少々確かにあったので。
「すんません!」
侘びを叫んだタルに、厨房から出来立てのラーメンを持って出てきたフンギは首を振る。
「タル君が今日遅出するのは前から聞いてたし。大丈夫、ヒルダと二人で切り回してた時期だってあるんだから」
にっこり笑って、はい、これジーンさんとこ、と薬味入りの小鉢を隣に置いた。
「うへ」
「あはは、早いうちから臭いきつくなっちゃうねえー」
「い、いってきまっす」
出前箱にラーメンと小鉢を入れる。的確な評をくれたフンギはもう厨房に取って返す。入れ替わりに厨房から盆を持って出てきたヒルダが、カウンターの空の丼を片付け始めた。



タルが占い館の匂いをたっぷり染み付けて帰って来た時、フンギが客席にラーメンを運んでいた。ヒルダはどうやら出前に出たようだ。
「ただいまっす!」
「お帰り。次来るまで店内頼むよ」
うっす、と答える。厨房に入るフンギの代わりに、カウンターに置かれた丼を取る。
「メンマ特乗せ塩ラーメン、どなたっすか~」
おう、と手を挙げたテーブルのサラリーマンの元へとラーメンを運ぶ。
「何だ兄ちゃん、女の匂いするぞ?」
「あっはは、すっげー美人のとこに出前してきたんすよ、すんません、ラーメンの匂いと合わないっしょ?」
羨ましいなあ! と小突かれて、タル君頼める? と厨房から呼ばれた。
「なんすか」
電話は鳴らなかった。出前ではない。厨房を覗くと、フンギは珍しく眉を顰めてタルを拝む。
「箸、入れ忘れちゃった、ヒルダは歩きだし、すぐ追い付くと思うよ。自転車で頼める?」
珍しいこともあるものだ。フンギも、ヘルムートを勘定に入れた4人体制に馴染んできていたということだろう。タルは肯き、出前先を聞くと、すぐに箸を一膳掴んで出前箱に入れた。そこへ客が2名入って来たものだから、タルはいらっしゃいませと声を張り上げ、水を運び、注文を取りフンギに大声で伝えてから、店を駆け出し自転車に乗った。
聞いた住所はアパートの一室だった。出前先に箸がない訳でもないだろう。だが箸一膳でも、信用と誠意の問題なのだ。だからフンギの要請は正当だと思うし、タルはこうして自転車を走らせる。
走らせながら、道の先まで目を遣ったが、ヒルダの姿は見えなかった。店が忙しいと承知していて、ヒルダは出来る限りの早足でラーメンを運んだのかもしれない。


目的のドアの前で、ヒルダは肩で息をしていた。ラーメンを零さないように気遣いながらの全力疾走は、予想外に疲れた。
呼び鈴を押し、切れ切れに、来々軒、です、と名乗った。
中から、は~い、と間延びした声がして、やがてドアは開けられた。大学生らしい茶髪の若い男が、ヒルダを見て、にこっと笑った。
「チャーシューメン、ですね」
「うん、こっち置いてくれる」
若者が部屋の奥を示すと、中に彼の友人らしい男が二人見えた。おや? と思ったのだ。注文されたラーメンは一つだ。食べるのは1人だけなのか、それとも彼ら3人で、分け合って。
出前箱を玄関に置き、中からチャーシューメンを出す。部屋の中の男二人が、立ち上がってこちらへやって来た。丼を受け取ろうとしてくれたと思ったのだ。だから、こちらへ伸ばした手に、丼を差し出した。彼は、ヒルダの腕を、ぐっと掴んだ。
ヒルダは驚いて丼を取り落とす。幸い丼は割れず、ラップの蓋の下で、ラーメンが暴れただけだった。あぶねえ、とドアを開けた男が、倒れた丼を起こす。
「ここのラーメン、美味えんだぞ、もったいねえだろ」
同じくラーメンの行く末を心配して眺めていたヒルダは、無事だったチャーシューメンにほっとしたのも束の間、ぐい、と玄関に土足のまま引き摺り込まれた。何ですか、と問い質す間もなく、そのまま仰向けに押し倒される。
「……!」
男はヒルダの腹に馬乗りになり、ヒルダのシャツの咽元に手を突っ込んで弄(まさぐ)った。ヒルダは固まってしまって声が出ない。思い起こされるのは昔の出来事、嫌だと暴れれば、殴られた。
「あったぜ、これだろ」
ヒルダの抵抗がないので、男は楽に仕事を済ませた。シャツの中から男が掴み出したのは、あのリボンを小さく畳んで仕舞いこんでいる小袋。
「……それは」
声が出た。男はヒルダの首にかかっている紐をヒルダの頭を潜らせ外し、小袋を隣に立つ友人に渡した。
「知ってるって、大事なものなんだろ? おっと」
伸ばしたヒルダの腕から小袋を遠ざけ、ラーメンの心配をしてくれた部屋の主は、にいっと笑う。
3人目の男が、頭の上からヒルダの両手を床に押し付ける。暴れんなよお、と笑いを含んだ声がした。茶髪の彼は立ったまま、小袋を揺らして見せる。
「返して欲しかったらさあ、ちょーっと、頼まれてくんねえかな~」
「返して……返して……!」
解こうと力を入れた腕はびくともしない。暴れんなって、と今度は少し怒りの籠った声が降って来た。
「だあから、返してやるって! 俺達と一緒に……」
ガチャッと玄関のドアが開いた。
「すんません~来々軒っす、箸……」
どこか間延びした声は、部屋の中を見て取った途端に一変した。
ガシャン! と出前箱を放り出し、一番近くの小袋を持つ男の手をギリギリと締め上げ小袋を奪い返すと、その男を張り飛ばし、ヒルダに馬乗りになっている男の脇腹を蹴り飛ばし。ビリビリと、空気が震えた。
「――ヒルダ放せコラア!!」
タルが、仁王のような形相で立っている。
「ひいいいいっ」
ぎゃっと言って吹き飛んだ仲間二人が、揃ってうううと呻き転がるのを見て、3人目はぱっとヒルダの手を放す。手のひらを壁のようにタルに向け。
「待て、待てって! 俺たちゃ頼まれて……」
「誰にだ!」
ヒルダは床に転がったまま、ぼうっとタルを見ていた。
見たこともない怖い顔をして、タルは何を怒っているんだろう?
怖かったのは自分なのに、ううん、タルが怖い訳じゃない。
……不思議だな。怖い顔してるのに、タルは怖くない。……
2、3度瞬いて、タルが握る小袋に気付いた。
……変なの。さっきは取られたと思って、今度は取り戻してくれたと思ってる。
どちらも、自分の手元にないのは同じなのに。自分は安心している。
ヒルダは身を起こした。恐怖の余り、質問に答えられないでいる男を、不本意にも体で庇う格好になった。
「――ヒルダ」
タルが目の前に屈んだ。痛そうな顔をして。
「大丈夫か? 痛いとこないか?」
……どうしてタルが痛そうなの?
ヒルダがタルの手に手を伸ばすと、タルはヒルダの首に、小袋を掛けてくれた。
「……リボンが大事ってことは、滅多に話さないんだ」
掛けられた袋をぼんやり見たまま、ヒルダは考えられる事実を口にする。
「今まで、お世話になった家の人たちは、知ってる」
タルの腕がヒルダの横を通り過ぎて、後ろの男の胸倉を掴んだ。
「ひいっ!」
「……何をしろと頼まれた?」
「つっ……つつつ、連れて来いって……!」
掴んだ男を力任せに横に倒して、タルはぶるぶると震えて立ち上がる。
「あいつか……!!」
思い描いた相手は、多分、同じ。
来々軒に戻ってろ、とタルは言った。けれどヒルダは首を横に振った。
「けどよ……」
「タル1人じゃきっと入れないよ」
「……」
チャーシューメンも出前箱も置いて、二人乗りで自転車を走らせた。
荷台に座って、自転車を漕ぐタルの背中に掴まった。
どこに行くかわかっているのに、現実感がない。行けば必ず嫌な思いをするとわかっているのに、タルを止めなかった。
いつまでも何処にも着かなければいいと、ぼんやりと思う。
自分の為に怒ってくれたタルが嬉しくて、どこか痛くて、今は離れたくなくて、どこに行くかわかっているのに、付いて来てしまった。
初めての自転車の二人乗りは、現実感がない。



フィンガーフート家は大きな屋敷の周りをぐるりと塀で囲っていて、唯一の門は、勝手に開閉できない仕組みになっていた。
ヒルダが門に設置されたインターフォンを通して二言三言話すと、ガシャン、と音を立てて門扉は開いた。中の人間が操作したのだ。
門を潜り、玄関を入ると。
「来てくれたんだねヒルダ……!」
諸手を広げて歓迎する出迎えがいた。
……スノウだ。
何十人も一遍に靴を脱げそうな、ロビーのようなホールのような広い玄関で、彼は待ち切れなかったらしく、靴を履いてドアのすぐまで下りていた。
タルをよく見もせずに、スノウは分厚い茶封筒を差し出す。
「ご苦労だったね、はい、これ……」
タルが受け取らないので、漸く目線をヒルダからタルに移動した。
「……ん? 君だったかな? なんだい、君は……あ、君はあの時の」
胸倉を掴まれて、スノウは、ぐうっと音を漏らした。タルに捩じ上げられて、スノウの踵は浮いている。
「てめえが雇った奴の顔も覚えてねえのか、坊ちゃん。やっぱり期待できねえな。いい加減わかれよ。ヒルダはイヤだって言ってんのがどうしてわかんねーんだ!」
「はっ放さないか……乱暴はよせ……!」
胸倉を掴むタルの手を、力なくぺちぺちと叩く。
「乱暴はどっちだ!」
「ど、どう見たって君だろう……!」
話が通じない。ヒルダにどんな思いをさせているか、まるでわかっていないのだ、このお坊ちゃんは。
玄関奥に設けられた吹き抜けの階段から、何の騒ぎだ、と不機嫌な声が降りてきた。
「……ん、何だこの臭いは? うう、品のない、庶民の臭いだ」
鼻に皺を寄せ、フィンガーフート議員が姿を見せた。ちら、と闖入者に目を遣って、汚らわしいとばかりに首を振る。
「そんな汚い格好でうちに入らんでくれ。臭いの元はお前だな……何の用か知らんが、息子から手を離して、さっさと出て行ってくれ」
そうしてヒルダを見た。目は、明らかに蔑んでいる。
「今更、金の無心にでも来たのか、この恩知らずめが。スノウ、お前もだあんな淫売に熱をあげおって。それでもわしの跡継ぎか」
タルは一瞬、言葉の意味が取れなかったに違いない。ぽかんとして、瞬いて。
「な……」
頭に血が上るのが見て取れた。
「ああ、そうか、そいつの今の情夫という訳か。そら見ろスノウ、わしが再三忠告してやったのに。しつこいようなら、幾らかやって追い返せ。それでその売女とも手を切れ」
タルは段上を睨んだままブルブルと震えている。怒りで言葉が出て来ない。
ヒルダは俯き、がくがくと震えている。
耳を塞ぐ。
本当に塞ぎたいのは、タルの耳だ。
聞かないで。どうか、聞かないで。……――
「……ヒルダを淫売っていうのか。そうしたのは誰だか、僕は知ってるよ、パパ」
声を発したのはスノウだった。
タルに胸倉を掴まれたまま、僅かに父親を睨んで。
階段の上で、議員は、微かに動揺の色を見せた。
「な、何のことだ?」
「僕なら、ヒルダを僕だけのものにしておく。道具になんかするもんか。僕はただ、ヒルダを大事にしたいだけなんだ!」
――ブチッと、きっと音がしただろう。タルの、こめかみの辺りで。
「……ってめえ、大事、って意味、わかってんのか!!!」
ガクガクとスノウを揺すった。何をする、というスノウの抗議は全うされず。タルは左手でスノウの胸倉を掴んだまま、右の拳を何度もスノウの顔にぶち当てた。
ヒルダは泣いている。頭を抱え、やめて、もうやめて、とか細く訴える。
議員は流石に息子を助けようと、階段から玄関ホールへと駆け下りた。だが、あわわ、と喘ぐなり、誰か、とそこから敢え無く逃げる事を選んだ。
玄関の扉が開いたと思ったときには、フィンガーフートは、自分のすぐ横に男がいるのを見たが、それが知らぬ者だと認識する間はなかった。
軽く、手首を掴まれた。と、フィンガーフートの体は、ぶわっと回転し宙を舞った。ズダン、と背中から床に落ちる。
一瞬にして上下を無理矢理入れ替えられた者は、自分が回ったとは思わぬものだ。
動けないのは打った背中の痛みより、状況が理解できない、その為だった。何が起きたかわからぬ体で、フィンガーフート議員は横たわっている。


「やめて、タル、死んじゃうよ……!」
スノウはとうにぐったりしている。ヒルダはタルにしがみ付き、振り上げるタルの拳は鈍った。
「ヒルダ……」
我に返った。彼の為に振るった拳だ。ヒルダが止めろと言うのなら。だが、まだ怒りが熱すぎる。ぶつける相手がここにいるのだ。
迷いながらも力の籠った拳を再び振り上げた時、手首の少し下を、ぱしん、と止められた。軽く、止められた。
「やめろ」
割って入った男を、ぎっと睨んだ。タルを押さえて、今度は少し強く彼は諌めた。
「止めなさい……!」
「あんた……!」
タルは驚いて、その知人の名を呼んだ。
「ヘっくん……――」
「……ヘルムート」
まずは名前を訂正して、ヘルムートはタルとヒルダを促した。
「とにかく引き上げよう、長居することはない」
「……けど」
正当ではあるが、余り誉められた行為でないのはわかっている。だからタルは、歯切れ悪く訴えた。殴り足りない。しかし、ヘルムートがさり気無くヒルダを支えて玄関扉へと向かうので、タルはスノウとその父親をちらちらと見て、スノウを放した。その場にどさっと落ちたスノウは最早見もせず、タルはずかずかと父親の方に近付く。
「タル君……!」
「一発だけっすよ」
ヘルムートの声に短く答え、仰向けに転がる議員の胸倉をぐいーっと持ち上げた。
ずるずると目線が合う程に引き上げられて、ひいいいいーーっ、とフィンガーフートは蚊の鳴くような悲鳴を上げる。
ぐっ、と右拳を引いた。
「ひいっいぎゃ!」
鋭いフックを顔面に食らわせて、タルは、ぽい、と手のものを床に捨てた。
パンパン! と手を叩き合わせ。
「さ、帰るか」
ニイッと笑って見せると、どうやらヒルダは泣き止んだ。タルに釣られて、歪だが、笑顔らしき形になった。
3人並んで、フィンガーフート家の門を出る。
「けど、なんでへっくんが……」
今日は店は休んでるし、出前じゃないだろ? とタルは訊いた。店に出ている時でも、ヘルムートは出前はしない。方向音痴なのだと言った。
単純に迷子かな、とタルが思ったとき、ヘルムートは漸う口を開いた。
「……うちの本業は祖父の代から、要人警護の仕事をしている。民間の一社長に仕えたのは父の代からだが……SP、という奴だな」
タルも、ヒルダもぱちくりとヘルムートを見た。
「へー……でもSPって護衛する相手の側にいるのが仕事じゃねえの?」
至極尤もなタルの質問だ。
「ラーメン屋やったり、今だって何しにあそこん家に」
「……言うな」
がっくりと、ヘルムートは顔に手を当てる。殆ど聞き取れない声で、俺の若様が変わってるんだ……と、どうやら愚痴を呟いた。




殴られた顔を押さえ、ひいひいと床を這っていると、またぞろ玄関扉がガチャリと開いた。
入ってきたのは、アロハかと見紛うような派手でラフなシャツを着た中年の男。
ポケットから出したハンカチを顔に当て、全く今日はこんな奴らばかり、とフィンガーフートは床に尻を付いたまま叱った。
「おいお前、ここが誰の家か知ってるのか。そんな格好で入ってくるな出て行け」
ずかずかと玄関ホールを歩んでくる男は、倒れているスノウにちらりと目を遣ると、やれやれ、と面倒臭そうに口を開いた。
「すぐ済むよ。ったく人の話も聞けないかね。やっぱり碌なもんじゃない」
「な……し、失敬な! 約束もなしに訪ねて来る庶民の話をいちいち聞いていられるものか!」
「うるせえな。鼻血出して、暇そうにしてるじゃねえか」
「鼻っ……! い、今、医者を待っているところだ!」
「すぐ済むって言ってんだろ。医者なんざ待たせとけ。俺がわざわざ来てるんだぜ」
「……む、君、私が誰だか知らんのかね」
「あんたこそ、俺が誰だか知らんのか」
そこで初めて、フィンガーフートは、ぱちぱちと瞬いて、招かれざる客の顔をまじまじと見た。
どうやら見覚えがある。だがしかしイメージは……そう、こんなアロハもどきではなく黒い上等のスーツを着せて、背景は会員制ビルの広い会議室の壁……新聞や雑誌で、そうだ見たのはクルデス社の事業提携の写真。
フィンガーフートは青ざめた。
「な……なっ、あのリノ・エン・クルデス?! 世界を股に掛けた大会社の社長!!?」
それが、何故。自分の家に。リノは腕組みをして、世間話のように話す。
「あんた、俺の息子にひでえことしてくれたそうじゃねえか。きっちり礼はさせてもらうからな。覚えとけ」
「……は? クルデス社長には確か秘書をやってる娘が1人で息子はいないはず……」
ぽかん、と豆知識を口にしたフィンガーフートに、リノは親しげとも言える顔で凄んで見せた。
「ヒルダ、って名前だ。覚えがねえとは、言わせねえぜ……!」
フィンガーフートは声も無く固まった。
「話はそんだけだ。ま、楽しみにしとけ」
じゃあな、と去っていくリノを、ただ阿呆のように見送って。
リノが出て、扉がバタンと閉まってから、ひい、と音を漏らして、フィンガーフートは後ろにばたりとひっくり返った。




市議会選がそう遠くもない頃だったが、フィンガーフートの支持率は目に見えて落下した。新聞や雑誌にリークされたフィンガーフートの行状は決して誉められたものではなかったからだ。累が及ぶのを恐れて、フィンガーフートの周りの者達は悉くこれを切り捨てた。親類縁者も、「接待」を受けた議員たちも同様である。
選挙を待たず、フィンガーフートは議員資格を剥奪された。
屋敷の周りに人だかりが出来たのは暫くの間。屋敷が売りに出されて、買い手が付くまでに余り日は掛からなかった。




ヘルムートから支持を受けた待ち合わせの場所は、前を素通りしたことさえない、一流ホテル最上階のスイートルーム。何が甘いのかと思っていたら、綴りが違うのだそうだ。sweetでなく、一揃いの、という意味のsuite。本当に何でもかんでも揃っていそうだ。と、部屋に入る前……ホテルのロビーに足を一歩踏み入れた段階で、タルは思った。
タルの隣では、ヒルダも同じように……いや、タルよりももっとドキドキして、今にもタルの腕に縋りたそうな顔をしている。
渋るヒルダを引っ張ってきたのはタルだ。服は一応、持っている中では一番汚れていない、マシなものを着てきたつもりだ。だが、ロビーの端に立っているだけで、浮いているのがわかる。ヒルダは、本当にタルの腕に掴まってきた。微かに、震えている。
「……ここで、いいはずだけどな」
クルデス社系列のホテル。
ドアを入ったなり動かないでいると、さっきいらっしゃいませ、と頭を下げたドアボーイが、何かお困りですか、と声を掛けてきた。
「ええと……」
タルが答える前に、向こうから、ドアボーイよりは責任職らしい男が駆けて来た。目の前でぴたりと止まり、軽く会釈するなりヒルダに話す。
「ヒルダ様でいらっしゃいますね、申し訳ありません、私がこちらでお待ちするように言い付かっておりましたが、お待たせしてしまいました。支配人のデスモンドと申します。どうぞ。社長がお待ちです」
デスモンドが先導していく。ヒルダの背を押すようにして付いていくと、ドアボーイは深々とお辞儀して見送ってくれた。
床がふかふかとして歩きにくい。
ヒルダの本当の家族が、このホテルの最上階で待っているのだという。
ヘルムートに話を聞かされたとき、ヒルダはぽかんとし、それから、どうしよう、と呟いて震えだした。会いたくないはずがないのだ。捨てたのではなく、本当に愛してくれていた家族。それでもヒルダが迷うのは、家族と離れていた時間、その間の出来事。……ヒルダの枷になっているのだ。
俺も一緒に行っていいか、と訊いたタルに、ヘルムートは構わないだろう、と答えた。一緒に行ってくれるの? とタルを見上げたヒルダに、おう、と笑って肯くと、ヒルダは漸くその気になった。それでも、来々軒を出てからホテルに着くまで、タルは幾度となく、立ち止まるヒルダを押して引いて、連れて来たのだ。
広くて綺麗なエレベータで最上階まで昇った。
なんと、最上階はワンフロアに目的のスイートルームが一つだけだった。
でかい会社の社長の子息なのだと。
聞いた話が、じわじわと、タルの中に滲み込んで来る。
デスモンドが、部屋のドア横のインターホンで、ヒルダの到着を告げた。カードキーでドアを開け、さ、どうぞ、と中を示した。見えるのは立派な廊下。ヒルダと中に入ると、私は外でお待ちします、とデスモンドはドアを閉めた。
「…………」
ドアを入ったのに、人どころか、部屋の中さえ見えない。おずおずと二人中へ進んでいくと、ぱっと視界が開け、広い部屋の中が見えた。来々軒の店内より広いに違いない。しかも、向こうにドアが見える。まだ続きの部屋があるのだ。そのドアが。
ガチャッと、開いた。
「ほらお父さん! だから、もう、下着で転がってるのはやめてって言ってたのに!」
「おお、ちょっと待て、ええい、上着はいいか……」
ドアを開けた女性は簡素で上品なスーツを着ていた。首には、ヒルダのとよく似た赤いリボン。
父親がドアから現れると、彼女はこちらを振り向いて、あっと小声を上げた。
小さく震えて、口元に手を当てた。
彼女の横に並んだ父親は、いつか来々軒にやって来た客だった。
ラフなシャツとズボン姿で、シャツのボタンは全部は掛かっていない。
ヒルダを見て、瞬き、部屋の中へと、ヒルダの方へと、すたすたと、近付いた。
「……ヒルダか?」
優しい声だ、とタルは思った。
口を覆った彼女は、目に涙を溜めている。
男と女性をちらちらと交互に見て、ヒルダは尋ねた。
「……おとう、さん? ……おねえさん?」
「そうよ……!」
答えた彼女は……ヒルダの姉は、堪え切れずに涙を落とす。
「リボンを……持ってるか」
リノに問われて、ヒルダは服の下から、ごそごそと小袋を出す。口を押さえたまま、フレアも小走りに寄って来た。
袋からリボンを取り出し、ヒルダはおずおずと差し出した。受け取って、リノは目を細める。
「ああ……これだ。女房が、一生懸命縫い付けてた」
フレアは流れる涙を押さえもせずに、おかあさん、とヒルダのリボンを愛しげに見つめた。
「……こいつのは、ここに、ほれ、フレア、ってあるだろ」
娘の首に結わえられたリボンの端を指し、リノは笑う。
よく見ようと近付いたヒルダの頬を、リノは丁度よい強引さで撫でた。
ヒルダは逃げもせず、少し驚いた顔でされるがままになっている。
「何で気付かなかったかな……あいつに、そっくりだ」
愛しげに呟く。来々軒に来た時のことを言っているのだろう。
フレアは漸く涙を拭い、笑顔を見せて、弟に言った。
「一緒に、帰りましょう。あたし達、遅くなったけど、やっと家族が揃ったわ」
ヒルダは、頬を赤らめた。父親と姉を、間違いなく受け入れた瞬間だったろう。
はい、一緒に行きます。言葉はなくとも、顔はそう言っていた。
はっと、タルを振り返ったのだ。
「よかったな……!」
反射的に言葉が出た。
本心からの言葉で、タルは感動して泣いてもいたが、少しばかり複雑なのも本当だった。
感じる引け目はなんだったろう。
引き止めたい気持ちもあったが。
それはわがままだと。
……来々軒で共に働くのも、きっとお仕舞いなのだろう。






「ただいまーーっす」
出前から戻ったタルの声には微妙に覇気がない。
親子の名乗りを上げたホテルのスイートルームから、タルは1人で店に帰った。ヒルダが彼らを受け入れた以上、水入らずの邪魔をする気はないからだ。
翌日、リノがヒルダと一緒に来々軒にやってきて、「世話になったな」と挨拶がてら、ヒルダの荷物を取りに来た。二人で十分持てる簡単な荷を携えて、ヒルダはあっさり来々軒を辞めて行った。――あれからヒルダは店に来ない。
暖簾を潜り、目線も俯きがちに、空の出前箱をカウンターに置く。「おかえりなさい」と言われて、タルは反応するのに2秒掛かった。
ぱっと奥のテーブルを振り向いて、声の主を確認した。来々軒と手書きされたエプロンを着けて、布巾でテーブルを拭いているのは。
「……ヒルダ?!」
聞き間違えるとは、思っていなかったが。
本当に、ヒルダがそこに、働いている。
瞬いて、タルは合点の行く理由を想像した。
「あ……ああ、ラーメン食べに来たのか」
(そんで貧乏性だから、そのまま手伝ってんだな)
「フンギさんのラーメン、お客で食べたこと、ないもんな?」
多分。
ヒルダは、首を横に振る。
「え……じゃ、じゃあ……」
もっと嫌な理由が頭を過ぎる。
(そういえば、ヒルダのオヤジさんの会社って、世界規模だったよな……今よりもっと遠いとこに行くことになったとかで、お別れの挨拶に来た、とかじゃ……)
それで貧乏性で、そのまま手伝っているんだ。
富豪の子息だという認識と、どうも噛み合わない理由は変わらずに。
自分を見たまま動かなくなったタルに、ヒルダは照れ臭そうに、薄く笑った。
「社会勉強ってことで、許してもらったんだ」
通いになるけど、今日からまた、よろしくお願いします、とヒルダはぺこりとお辞儀する。
「……え」
ぱちくりとタルは瞬く。
おう、よろしくな、という返事を期待していたか。待つようにヒルダはタルの顔を眺めたが、あまりにタルが動かないので、テーブルに布巾を置いて寄って来た。タルの顔を覗き込み、目の前で手をひらひらと振る。
「……なんだ、そうか……はは、は……」
漸く、戻ってきたのだ、という認識がタルの頭に届く。笑みが湧き、喜びがこぼれた。こぼれた勢いで、ぎゅうっと目の前のヒルダを抱き締めた。
「……はは! お帰り! お帰りヒルダ……!」
ヒルダはぴくりと小さく跳ねたが、手は、タルの背をぎゅっと掴んだ。
笑いながら歓迎するタルに、「……うん」と答えるヒルダの声も笑っている。
カウンター席の客が、口でひゅーひゅーと言って囃し立てた。手を放したのはヒルダが先だった。
「……タル君、いいかな?」
フンギは遠慮がちに、カウンターに次の出前のラーメンをごとりと置く。
「あっは、はいっ!」
出前箱に丼を仕舞い込むタルの横で、先程囃し立てた客が、よかったな~ヒルダちゃん、と笑うのが聞こえた。



仕事ほって、こう毎日来てていいんすか?
思うだけで、誰も口にしない。テーブル席に陣取って、
「ヒルダ~」
名前の後ろにハートマークが付いていそうな猫撫で声で、クルデス社長は息子を呼ぶ。
「パパ、お水のおかわり欲しいな~」
少し困った笑顔で、それでも嬉しそうに、ヒルダはリノの世話を焼いた。
チャーシューメンを汁まで飲み干したリノは、ヒルダの持ってきた水のおかわりを受け取って、ああ水が旨い、ごくごくと咽を鳴らす。
幸い、他に客はない。クルデス社長が息子に多少べたべたしても、憚る人目はなかった。……勿論店員は勘定に入っていない。
「……お、お父さん、お仕事、忙しいんじゃないんですか」
誰も訊けない台詞を、まだ呼びなれないであろう「お父さん」をつっかえながらもヒルダが言った。
「んん? そりゃ忙しい」
だがなあ、とリノは大仰に首を振る。
「昼飯を何処で食べるかくらい、俺の勝手ってもんだ、そうだろう」
なあ、ヒルダ~、と主張の最後は猫撫で声になる。
「でも……」
今のところ来々軒まで人が追いかけてこないのは、リノが携帯電話の電源を切っているせいだ。リノを訪ねる人間は、のべつ幕無し、引っ切り無しなのだ。
これだけ忙しい人間が、毎日1時間以上ラーメン屋でのんびりしていてよいのかどうか。
「うーん……」
ヒルダの心配を察したか。リノは唸ると、上目遣いに顎を擦った。
「来々軒をうちの会社のビルに呼ぼうか……」
「……はい?」
「ん? そうすりゃ、ヒルダも近くに置けるし、俺が仕事を離れてラーメン食う時間も短く出来るって寸法だ……」
うん、我ながらいいアイディアだ!! とリノは悦に入り深く肯く。
それはどうだろう、とタルが思っていると、
「それじゃあんまり社会勉強にならないんじゃ……」
ヒルダが頑張って正論を述べる。
リノは椅子にふんぞり返ってこう言った。
「じゃあ、うちの資本で来々軒をでっかいビルにして、うちの社長室をそこに置こう」
(あんた……!)
がびん、とばかり口を開いたのはタルだけではない。カウンターから、厨房であんぐりと口を開けるフンギが見えた。その向こうのヘルムートは、顔は見えないが、俯いてしまっている。
「……ん? 何だ。いい考えだと思わんか」
(バカだ! このオヤジ馬鹿だ―――!!)
ヒルダは困って、フンギさんに聞かないと、と返事した。
「――やっぱりここね!」
現れたのはヒルダの姉、フレア。
戸を開け暖簾を潜り、父親にそう言い放つと同時に、にこ、とヒルダに手を振った。
照れ臭そうに、ヒルダは手を振り返す。
「もう、お父さん、いいえ社長! 携帯の電源は切らないで、って言ってるでしょ!」
充電が切れたかな? などというリノの言い訳は軽く無視し、フレアはリノの耳を引っ張って椅子から立たせた。
「あででででで!」
「痛いのがイヤなら自分で歩いて!」
(す、すげえ……)
ぱっとタルを見て、今日は、と挨拶し、御代はまだよね? と笑顔で尋ねる。
「あ、は、はい、チャーシューメン、800円になります」
レジにタルが駆け込むと、「おい」とリノが声を掛けた。
「……お前。そう、そこの、俺には負けるがマッチョの兄ちゃん」
「……は? 俺っすか?」
財布を取り出したフレアを待たせる形になって、タルはリノに目を遣る。
そういえば、リノがタル1人に話しかけてくるのは初めてだったかもしれない。
「……息子は嫁にやらんからな!」
タルを睨みつけて、語気強く言い放つ。
一瞬何を言われたのかわからずに、タルはただぽかんとしてしまった。
フレアは唖然とし、呆れるように窘める。
「んもう……お父さん!」
視界に入るヒルダは真っ赤になっている。
なんだ、何を言われたんだ。
「ごめんねータル君。あ、私は弟がお嫁に行こうが、君が婿養子に入ってくれようが、構わないからv」
レジ台の受け皿に800円をじゃらりと落とし、フレアは財布を仕舞う。
「うおおお! 敵か! お前も俺の敵なのかフレアー!?」
リノは涙ながらに嘆いている。
「くそう! 俺の力であんな奴クビにしてやるー! 二度とヒルダに近づけないようにしてやるー!」
おうおうと泣くリノを、はいはい、出来ないこと言うんじゃないのーと、フレアはずるずる引き摺っていく。
戸に手をかけて、くるりと振り向いた。
「これでもお父さん、何よりヒルダの幸せ願ってるんだから。心配しないでねv」
引き摺られて行きながら、うおーーヒルダー俺の息子よーーーまだ、まだ手放したくないよーーーん……と、リノの嘆きはやがて小さく聞こえなくなった。
ごとん、とカウンターにラーメンを置く音がした。
「……で? 式はいつ?」
ラーメンの横に肘を付き、誰にともなくフンギが訊く。
タルはぽりぽりと頭をかく。
「……何……そういう話になってんのか……?」
ヒルダに尋ねた。
ヒルダは赤い顔をさらにかあーっと耳まで赤くして。
「……しっ知らない……!」
出前箱にラーメンを突っ込むなり、店を掛け出て行ってしまった。
「……おう、気をつけてなー?」
にゃん湖荘のトラヴィス君だよー、とフンギはヒルダの背中に叫ぶ。そうして、やれやれ、とタルを向いた。
「……で、タル君はどうするの?」
タルは瞬き、訊き返す。
「? どうって?」
「あの社長の養子に入るの?」
「は? いやそりゃ、例えでしょ。俺が大会社の社長の養子になる訳ないっすから」
「そう。じゃあ、お嫁にもらうんだ? まあその方が、俺も嬉しいかな。君にはここ、辞めて欲しくないから」
「は? いや、俺の方はそんな話、ないっすよ。あっはは、バイト、続けさせて下さいって」
笑って、少し、目線を外した。
「……ヒルダの奴……ぜんぜんわかんなかったなあ……結婚したい奴がいるのか」
「…………あれ?」
いつもの笑顔で、フンギが軽く首を傾げる。
またフンギに視線を戻して、タルは訊く。
「は? え、違うんすか? 式って、結婚式、すよね? 嫁に出す、って例えるくらいだし、俺にまで宣言するくらいだから、よっぽどヒルダが可愛いんすね、あの社長。……うん」
腕を組んで、考えた。
「あんなに可愛いと思ってんだから、ヒルダの好きな相手を会えなくする、なんて、しないっすよね。あの社長なら。フレアさんの言う通り、出来っこねえってカンジ……そっか、帰ってる間に、見合いでもしたんすかね。一応、跡取りだろうし」
「……あれえー?」
「は?」
「……」
笑みながらも、フンギは腑に落ちない体だ。
「……? なんすか?」
「……ちなみにさ。ヒルダが君と結婚したいって言ったらどうする?」
「は?……あっはは、ないっすよ! 大体、男同士で結婚て……!」
タルに、フンギは、にこーと笑って見せる。
「どうかな~あの社長、息子の幸せの為なら、法律くらい変えそうだよ~」
「あっはっは、まっさかあー」
「覚悟だけはしとけば? あの社長、きっと、やる時はやるよ?」
「……は、は……え?」
にっこー、と笑むフンギの顔を見て、暫くの間があった。
タルは頓狂な声で叫ぶ。
「……て、ええー?! 俺とヒルダ―――??!!」
フンギは首を振り、ふーやれやれと、両手を肩まで上げる。
「ヒルダも難儀だよね。相手がこんな鈍ちんじゃ。ヒルダはちっとも悪くないのにな~」
「ちょ、ちょっと、待って、マジ、マジすか――?!」
うろたえまくり、混乱し、タルは赤くなる。
「そ、そりゃヒルダは可愛いし、大事にしたいって思うし、でも、え、何が一体何がどうしたー?!」
ガラリと戸を開けて出前から帰ってきたヒルダと、真っ赤な顔で困ってるタルの目が合った。ヒルダの顔も、まだ赤い。
「あ……」
タルは他に解決法が見つからないように、ヒルダに寄っていく。
「あ、あの、な、フンギさんが言ったんだけど!」
ヒルダは瞬く。タルは、ごっくん、と唾を飲んだ。
「……お前、お、……俺と結婚したいのか?」
ヒルダは、カァーーーーー!! と首まで赤くなると、倒れそうにぐらりと揺れた。何とか踏ん張ると、大声で怒鳴る。
「……ち、違う! そんなことないよ!」
ガシャン、と出前箱を床に放り出し、ダダダアーッ! と2階へ駆け上って行ってしまった。
見送ったフンギが、溜息混じりにタルを責める。
「あ~あ、2階に篭っちゃった……ダメだよタル君。直球すぎるよ?……あれ」
タルは、胸を押さえて壁に手を付き、体を支えている。
ズキズキするのはどうしてだ。
(否定されてショック受けてる俺がショックだ……!!)
フンギは今度こそ溜息を吐いた。
「あーあーこれから忙しい時間帯になるのになあ」
やがてフンギは2階を指差した。
「タル君。今なら許すから、番っておいで」
「……は?」
タルはぱちくりと、すぐに理解できない。フンギは時計を見ている。
「だからヒルダと。しておいで」
猛烈な勢いでタルは叫ぶ。
「……はああーー?! 何言ってんすかーーー!!!」
「1時間でね。店が混む前に」
「フンギさんーーー!!!??」
訴えられて、フンギは不服気に睨むのだ。
「何。うん、まあ最初で1時間は可哀想かな。じゃあ、いいよゆっくりで。その間の売り上げの損害賠償は、リノさんに請求するよ。今こうなったのも、あの社長のせいだしね」
そうしてまた、いい笑顔に戻る。
タルは口をパクパクし、汗をだらだらと流している。フンギは犬を追い払うように急かす。
「ほら、早く。ほっとくの、ヒルダが可哀想でしょ?」
「俺は! 俺は?!」
「許すって言ってるじゃないか、どこが可哀想なんだよ」
「かわいそうとかそういう……だーーーー!! 大体ヒルダがそう思ってるかどうか……!」
「君は?」
「……! お、思ってない……!」
「……え~?」
「思ってない!」
フンギはあからさまに不満な顔をする。
店の戸がガラリと開いた。来客だ。
「いらっしゃいませー!! ほ、ほら、客っすよ! フンギさん!!!」
タルはコップに水を注ぎ盆に乗せる。フンギはぶつぶつと厨房へ向かった。
「……ったくもう。割れ鍋に綴じ蓋? そう思うだろ、へっくん」
厨房では、ヘルムートが、ひっそり顔を赤らめて聞いていた。




昼飯時になり、客も増え、自ずと立ち働くタル達の声もでかくなる。喧騒が2階にも聞こえてくる。やがてヒルダは部屋から店へと降りていった。
いらっしゃいませ、と未だ赤い顔でエプロンを付けるヒルダに、馴染みの客が、どうした、ヒルダちゃん、熱あんのか、病気かい? と問いかける。いいえ、だいじょうぶです、と答えて、ヒルダは空いた食器を片付け始めた。
「タル君、これ長哉荘のリーリンちゃんね」
ごとん! とカウンターにラーメンが置かれる。
「はいっ行ってきます!」
タルが素早く出前箱にどんぶりを仕舞い込み、店を出ようと戸を開ける。
「いってらっしゃい」
と、まだ赤い顔のヒルダが、声を掛けた。振り向いて、タルは、に、と笑って。
「行って来る!」
元気に応えて、暖簾の向こうに行く。
「おーい、お冷おかわりくれ~」
「あ、はい!」
見送りもそこそこに、客のコップに水を注ぎ、空いたテーブルを拭き、注文の電話に受け応える。
そうする間にも、ラーメンを食べに来る客が入ってくる。
「いらっしゃいませー!」
来々軒で働くようになってから、随分、大きな声が出せるようになったと思う。
この店は、居心地がいい。
「はい、葱チャーシューあがりー!」
フンギはフル回転である。受け取りにカウンターへ行くと、奥で懸命に皿を洗うヘルムートが見えた。
外で、キュキュウーッ、と自転車のブレーキ音がした。タルの出前はヒルダの何倍も速い。
おかえりなさい、そう言おうとして、戸を向いた。……だが、なかなか戸が開かない。
「……?」
気になりながらも、ラーメンを運び、カウンターを拭く。気にしていなければ聞こえないほどの、小さな怒号が外から聞こえた。
「お前……何しに来やがった!」
「……?!」
ヒルダは、布巾を持ったまま、戸に寄った。開けずに、そのまま聞き耳を立てた。
「ぼ、ぼくは……父のしたことの、罪滅ぼしに……」
(―――…………)
この声は。
震えているが、この、声は。
「……犯罪者の息子になって、あちこちに頭を下げて回って、家も追われて……」
「お前がしたことも考えろ!」
「だから……」
ヒルダ? とフンギに呼ばれた。振り向くと、怪訝な顔でこちらを見ている。
「お客さん?」
「あ……」
首を傾げて、フンギがこちらへやって来る。ヒルダをちらりと見て、ガラリと店の戸を開けた。
「ここへは、……最後にしか来られなかったんだ……」
俯き、下ろした腕の拳を、ぐ、と握り締めるスノウがいた。
自転車を降りたタルは、しまった、という顔をする。ヒルダにスノウを会わせるつもりはなかったのかもしれない。
「……ヒルダ」
以前の彼に比べたら、みすぼらしいと言える様な、ヒルダと大差ない格好をして、スノウは嬉しそうな、申し訳なさそうな顔をする。そのまま体ごとヒルダを向いて、勢い良く叫んだ。
「図々しいお願いなのはわかってるけど、ここで、僕も働かせてくれないか……!」
「な……」
呆れたのはタルだ。フンギはヒルダの横で、腕を組んで値踏みする。
「……ふーん。顔はいいねえ。今までのバイトにはいないタイプだなあ」
「ちょっ、フンギさん!」
「……タル君はどう?」
ぐっと、タルが飲み込んだのは、自分自身の怒りだろう。ゆっくりと、しかし目を逸らして、こう言った。
「…………。ヒルダが、許すなら」
「……ヒルダはどう?」
わだかまりが無いと言えば嘘だ。だが、怒りが湧かないのは、何故だろう。
「……よかったじゃないですか。人手が足りなかったんだから」
薄く笑ったヒルダの言葉に、タルは念を押す。
「……いいのかよ」
ヒルダは、こくん、と肯いた。
……多分、今が、今の自分が、幸せだからだ。
「ヒルダ……ありがとう……!」
涙を零して、スノウは晴れやかな笑顔を見せた。
きっと、スノウのこんな顔を、受け入れられる自分になっているからだ。
「……じゃ、君、仮雇用ってことでね。はい、エプロン。早速お客さんの注文聞いてきて」
「え、は、」
フンギは、いつの間に取って来たものか、来々軒のエプロンをスノウに渡すと、お客さんお待ちかねだから、とカウンター席の一つを指差した。
店内に入ったスノウが、不慣れな仕草でエプロンを着たところでガラリと戸が開く。
「はい、にこやかに、いらっしゃいませ!」
フンギの指導に、何とか笑って客を向くと、入ってきたジュエルに、「キャー! 好みー!」と間近で叫ばれ、スノウはビビった。
そのままスノウはジュエルに連れて行かれ、カウンターで待っていた客の注文は、ヒルダが聞くことになった。
「……固定客、付きそうだね」
呟いて、フンギは厨房に戻る。
注文を間違えたり、どんぶりを割ったりしながら、スノウは多分初めて働いた。一生懸命なのはわかるので、タルも、黙ってフォローしている。勿論、ヒルダもフォローする。
「慌てなくていいから、注文はゆっくり、繰り返して聞いてね」
「ヒルダ……!」
スノウが嬉しくなって、ヒルダをぎゅう! と抱きしめたり。ヒルダが固まり、スノウがタルにグーで殴られたり。
スノウが割ったどんぶりの片付けをしていて、ヒルダは、客に呼ばれた拍子に指を切った。
「いたっ」
「ヒルダ?!」
駆け寄ったタルが、ヒルダの切った指を、ぱくっと口に含んだ。
見つめるタルの顔がじわーっと赤くなったのは、ヒルダが真っ赤になったせいだろう。
客がひゅーひゅー、と口笛を吹く。誰かが、キスしろー、と囃した。
「するかぁー!!」
客相手に、くわ! とタルは、赤い顔のまま抗議した。しかしヒルダの手は放していない。
ヒルダは居た堪れなくて、真っ赤で動けない。
「き、君たち、そうなのか?……そうなのか?!」
ガーン! とショックを受けた顔で、スノウが震えて訊いて来る。
タルは、意地悪く応えるのだ。
「知るかよ。勝手に思ってろ」
スノウは、うああああー! と頭を抱えて、ジュエルによしよしされていた。ニヤニヤしたジュエルの笑いは見えていないだろう。
タルは立ち上がり、ヒルダの手を引く。
「大丈夫か? 立てるか?」
顔が熱いのを我慢して、ヒルダはタルに目を合わせる。
「……あ、あのね……」
「うん?」
「……ありがとう、タル」
「……あ、いや、はは、こんなの、よく弟にやってたもんでよ」
「……ありがとう」
「……おう」
にか、とタルは笑う。
この顔が、とても好きだ。



スノウが一緒に働きだして数日、3人のバイト漫才(?)が目当ての客も増えたようだ。どうやらジュエルあたりが、吹聴して回っているらしい。
スノウ目当ての女の子の客も増えて、中華以外の甘味もメニューに入れたら、とスノウが提案をした。
フンギは(うーん、ラーメン屋なんだけどなあ……)と思いつつ、
「いいよ、じゃあ、君、メニュー考えてみて」
とやらせてみたところ。うん、わかった! といい返事の翌日に、やたら上品で値の張りそうなものが、ラインアップされてきた。
「……却下ね」
「ええー?! どうして……!」
その頃厨房では、ヘルムートが(ああ、若様のSPに戻りたい……!)と泣いていた。



電話の向こうのコルトンが、仕事の報告ついでに訴えた。
『若様、来々軒のバイトも増えたことですし、そろそろ息子の任を戻して下さいませんか』
「……ああ、そうだったな」
『忘れてたんですか』
「馬鹿な」
忘れていたに違いない。
「……よし、いいだろう。彼も十分に働いた。本日付で、ヘルムーチョの任を私のSPに戻す」
コルトンは、諦めきれずに溜息をつく。
『……ヘルムートです、若様』



カウンター前に並んだ、短い時期ではあったが同僚であった者達に、ヘルムートは深々とお辞儀する。
「お世話になりました」
「うん。ご苦労様。スノウ君はいつクビになるかもしれないから、その時はまた来てよ」
フンギの物言いに、えええーー?! とスノウは叫ぶ。
「有難うございます。でも2度と来ないで済むようにしたいものです」
彼は若様のSPで居たいのだ。
「皆さんも、賭け事にはお気をつけ下さい」
(何があったんだ……!)
訊くに訊けないタルである。
たまたま店内にいたジュエルが、口を尖らせ会話に入る。
「え~へっくん、辞めちゃうの~?! ま、いーかースノウちんがいるしーv」
お水おかわりーvとスノウを呼んだ。
「またなーへっくん!」
タルの明るい声に、流す涙は、寂寥か、最後までまともに呼ばれなかった悔恨か。
店の戸を開けて、ヘルムートは呟いた。
「ふふ……若様……ヘルムートは一回り大きくなれたでしょうか……!」
「いらっしゃいませー!」
入れ違いに客が入る。
「フンギさん、新ラーメンのレシピ書いて来ました……!」
見て下さい、とケネスがフンギに付いて厨房へ真っ直ぐ向かう。
(客じゃないのかよ!)
タルが突っ込む間もなく、ぞろぞろと客が来る。
「塩ラーメンねー」
「チャーシュー二つー!」
てんでに空いた席に座りながら注文する客に、はいっ! と応える。
スノウが水を注いだコップをひっくり返す。
「はい、有難うございます……フンギさん、特性フルーツラーメン出前です!」
受話器を置くなり、ヒルダが叫ぶ。
昼少し前から、店内は一気に慌しくなる。
いろんな固定客がやって来る。新規の客も。注文の電話も。
「味噌野菜チャーシューメン一つです!」
「そんなメニューねえよ!」
いい加減覚えろ、とタルがスノウに怒鳴る。これが目当ての客達が笑う。
塩野菜ワンタンメンですね、とヒルダがフォローする。


美味しいラーメンもオイシイ店員も、各種取り揃えてお待ちしております。
「いらっしゃいませ――!!」


来々軒へ、いらっしゃい。





END

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