「12時丁度に取りに来るって、メール入れただろうが!」
「見たよ、見たけど……だけど~~」
怒鳴った彼が丁寧に接していたのは、初めて会ってからほんの数回目の逢瀬までだった。
こんなにテッド君が短気だと思わなかった、と呟くのは、作業の邪魔にならないように黒い長い髪を首の後ろで一つに括って、後れ毛をオバサンのようにヘアピンで留めているアルド。少女漫画家だ。漫画を描く時だけ装備するメガネの奥で、涼しげな眼が、今は泣きそうに潤んでいる。
「……俺だってな、毎度毎度、あんたののんびりに困らせられなきゃあな」
すう、とテッドは息を吸う。
「こんな風に毎度毎度、怒鳴らなくったっていいんだよ!!」
編集部の人事異動で、少年誌から少女誌に移動したのが去年のこと。最近の少女漫画家は、17、18の若い女の子も多い。おっさん漫画家の相手ばかりしてきたテッドは、新しく担当する雑誌にも男性漫画家が描いている、と聞いて、挙手してその担当にしてもらったのだ。……なのに。
なのに、だ。
上背だけは立派にあるこの男性少女漫画家は、テッドの知るどの男性漫画家とも違っていた。
最初の挨拶に訪れた時、まずその長髪に驚いた。無精、と言う程度じゃない。
「ああ、これ? 髪の長いキャラ描く時に、結構役に立つんだよ」
にこにこと説明してくれたアルドは、ほらほらこんなカンジでね、と側にあった扇風機のスイッチを入れ、自分の髪を風に靡かせて見せた。その強風で乾いていない原稿が飛んで、何枚も描き直しになったのは、今となっては懐かしい。
あの頃はまだ、ここまで厄介な相手だとは思っていなかったから、テッドも優しく、あはは、と笑って済ませたものだ。
アルドの担当に挙手した時、古巣の編集たちが誰もうらやんだり止めたりしなかったのが、今更ひどく納得できる。
「アシさんが二人とも風邪で倒れちゃって……手が足りないんだ、しょうがないよ」
だからそういうことは早く言え。テッドは手で顔を覆う。
この体だけはでかい漫画家は、困っていても、抱え込む。他にメイワクをばら撒くまい、と思っているのだ。その結果、メイワクがギリギリのところまでこようとも。
アシスタントの風邪だって、きっと元はこいつの引いた風邪に違いない。で、無理をして描き続けて、アシに移して、今に至るんだ。そうに決まった。
(……こいつはこういう奴だ。俺もいい加減、学習しないとな、うん)
健気にもテッドは、編集魂に鞭を打つ。
「……ゴムかけは終わったのか? ベタ塗りは? トーンの圧着くらいはやるから」
鞄を置いて、ワイシャツの袖口のボタンを外した。ベタ塗りをするなら、袖を捲った方がいい。アルドは白い紙と鉛筆を取って、こう言った。
「テッド君、ちょっとポーズとってもらえる? あ、光源そっちの窓ね」
(ペン入れ前かよ……!)
怒鳴らずとも、テッドの言いたいことは、通じたようだ。
「だって、どうしても、イメージ固まらないキャラがいるんだもん」
「打ち合わせでOK出しただろ! いいじゃないか!」
「でも……やっぱりちょっと違う気がして」
しゅんとする。テッドは編集魂に再度鞭を入れる。
出版社において、編集だけが、作家の味方なのだ。なんだかんだ、いいものを作ろうとしているのだから、ここは、聞いてやるべきか。
「……わかった。どんなポーズだ?」
「……あ、そうだ!」
ぱっとアルドは紙と鉛筆を置いて、立ち上がる。
「テッド君の好きなマグロサブレもらったんだ、一緒に食べようと思って」
テッドが座り込んでも、彼に決して罪は無い。
「お茶は何が良いかな~……あれ、テッド君?」
首を傾げて不安げに尋ねる。
「好きだよね、マグロサブレ?」
「そんな暇ないだろ!」
アルドは、ちょっとむっとしたようだ。
「詰まったら気分転換しろって言ったのテッド君だよ?」
「時間があればな……」
ふつふつと湧く怒り。しかしマグロサブレは食べたい。
「こっちだって、マクドール先生の担当が倒れちゃって、この後、原稿取りに行かなきゃなんないんだよ」
アルドは途端に頬を染める。
「え、テッド君いつの間にマクドール先生の担当もやってるの?」
「いーから原稿上げろ!」
テッド君怖い、とアルドは大きな身を竦める。
少女漫画誌「コミック☆ゲンスイ」で描いている男性漫画家は二人。アルドと、もう1人がマクドールだ。
アルドの反応を見てもわかるように、一種カリスマ性を持って、同業者の中にも彼の作品のファンは多い。……担当編集にさえ、ならなければ、の話だ。
マクドールは、アルドのようにのんびりと原稿が遅い訳ではない。本当に、担当編集になってみないと、その地獄はわからないらしい。担当殺しのマクドール。
(俺……何かやったかな……じいちゃん……)
一昨年逝った祖父に、心の中で問いかける。既に、癖になりつつあるテッドだ。
「そうかあ……マクドール先生の担当さんも。風邪流行ってるんだね、テッド君も気をつけてね」
「……うん」
原稿さえ、早ければ。
結構いい奴なのにな、と、しかし口には出してやらない。喜んで、アルドの手が止まるのは、どうしたって明らかだからだ。
しゃっしゃっと、壁に肘を付くテッドを速写して、アルドは、ううん、と唸った。
「テッド君にポーズとってもらったけど、やっぱりなんか違う……」
それでも、流石にこれ以上待たせるのは忍びないと、今更ながらでも思ったか。
スケッチに影の指定を書き入れて、それで決定にするようだ。
「……あっしまった、61番が切れたんだった、テッド君、持ってないよねえ」
影に貼るスクリーントーンか。テッドは置いた鞄をごそごそと探る。
「81番じゃ薄いよな……」
「そうだねー……81番なら持ってるんだテッド君。そんな薄いの」
マクドールが買って来い、と言った代物だ。どちらにしろ、ここで使う訳にはいかない。
「買ってくる、61だけでいいんだな?」
「あっあっじゃあ、41番とね、」
テッドがさっさと玄関へ出たところで。
「毎度~来々軒でーっす」
「あっ……お昼ご飯だ」
……うん、そりゃあな。食わなきゃな。
当たり前のことなのに、力が抜けるのは何故だろう。
はーい、と返事して、自分の横を過ぎるアルドを横目にしながら、テッドは下駄箱で体を支えた。
「毎度!」
アルドの開けたドアの向こうに、出前の箱を持った青年が、にこやかに立っていた。アルドは物も言わずに、その青年の腕を、わっし! と掴んだのだ。
「……は?」
「君! うん、君!」
「……は、はあ??」
ぐいぐいと引っ張られて困惑している彼を見て、テッドにはわかった。
ああ、モデルを見つけたのだ。
「ええと、君」
興奮している漫画家の代わりに、編集者が説明する。
「この人こう見えて漫画家なんだけど、あ、俺担当編集ね。ちょっと、絵のモデルやってもらえないかな。すごく助かるんだけど」
「そう! テッド君偉い!」
お前がダメだろ。
突っ込みは隠して出前青年に笑いかける。
「時間とらせないよ。描くの早いから大丈夫。君のラーメンも伸びたりしないから」
「……チャーハンすけど」
「あ、そう、じゃ、なおさらOKじゃないか、頼むって、この通り」
両手を合わせて、ごねるようなら、一生のお願いだよ、と言うつもりだった。アルドが、顎に手を当てて、その必要をなくした。
「前にもね、来々軒の出前の子に、モデルしてもらったことあるんだよ。えっと、ヒ、……」
「ヒルダ? っすか?」
「うん、そう」
興味を持った。よし、大丈夫だ。
「じゃ、君頼むよ」
テッドは青年の肩をぽん、と叩いて、じゃあ買ってくるから、と靴を履く。
「あ、うん、お願いね、テッド君、61番と41と22」
増えてる。
ドアノブを握って、振り返った。
「マグロサブレ、残しとけよ」
「うん、勿論」
アルドは、いい顔で笑った。自分の口元にも、笑みが上るのを自覚した。
来々軒でのバイトを始めて数日が経ったが、まだまだ常連でもタルがラーメンを運んでいない客はいた。逆に、この数日ですっかりタルに付いた客もいる。
『ラーメン一つ、お願い、ね?』だった決まり文句が、『タルさん、ラーメン、お願い、ね?』に変わったのも一つだ。
漫画家から解放されて来々軒に戻ったタルに、戸を開けた途端、厨房からフンギの声が飛ぶ。
「タル君、ご指名だよ~リーリンちゃん」
「ういっす!」
フンギが、ごとん、と熱々の野菜ラーメンをカウンターに置く。
「何々、どんな魔法使ったの?」
今空にしてきたところの出前箱を開けて、ラップで蓋をされたラーメンを仕舞いこむタルに、フンギは面白そうに訊いてきた。
「今まで、ヒルダしか受け付けなかったんだよ、リーリンちゃん」
「? 別に……って、そうなら言っといて下さいよ! 俺最初、締め出されたんすから!」
「あ、なんだ、やっぱりそうなんだ、あっはっは」
「あっはっはって……ああ、王冠、あげたっすけど」
「王冠?」
「ジュースの王冠っす。お返しに、ビーズ玉の飾りくれたっすよ。んじゃ、行ってきまっす!」
「……いってらっしゃい。……ふーん」
子供の扱いが、上手いのかな? フンギはこそりと呟いた。
「よく来た! タルさん! ラーメン、おいしい!」
「毎度!」
「これ、みる」
リーリンが差し出した手のひらの中には、綺麗なビーズがちりばめられた……
「……王冠? か?」
リーリンは、嬉しそうに肯く。
「へえーっ、亀になってらあ!」
「タルさん、くれた、きれいに飾った、どうだ?」
「おお! すげえな!」
リーリンは頬を染める。リーリンの手の上の亀を一頻り眺めたりつついたりして感心していると、あげる、とリーリンは言った。
「……いいのか? せっかく綺麗に可愛くしたのによ」
「タルさん、いじめないか?」
「……は?」
亀を、か?
「……亀は、竜宮城へ連れてってくれるんだっけか?」
的外れだったのだろう。リーリンは、ぷっと吹き出した。
「……ワタシ、話すの、ヘタ」
リーリンは手の亀を、きゅっと両手で握って胸に当てた。
「学校、怖くて行ってない。外でも働けない。だから、飾り作って、売ってる。きれい、うれしい、みんなも、うれしい」
「……―――」
そっか、とタルは瞬く。
「じゃあ、金払わねえと」
「いっいらない!」
「お前の仕事だろ? ちゃんと、料金もらえよ」
ううん、とリーリンは首を振る。
「タルさん、やさしい、ラーメン、おいしい」
これは、おれい。
胸につけて祈った亀を、差し出した。
「……そっか。じゃあ」
タルは、ごそごそとエプロンのポケットを探る。今朝抜いたジュースビンの栓を一つ掴み出すと、リーリンの手の亀と取り替えた。
「ありがとな。これさ、店に飾っていいかな。すげーかわいいし」
「……タルさん、コレ、くれるか?」
「おう、んでさ、また綺麗に作ったらさ、よければ飾らせてくれよ。すげえよな、これが、こんなに変身すんだもんな、魔法みたいだな!」
笑ったタルに、リーリンは大きな目で瞬いて、微笑む。
「……まほうつかい?」
「おう」
「ワタシ、まほうつかい?」
「だな!」
くすくすと、リーリンは笑う。
「タルさんも、まほうつかい」
「……へ?」
「ラーメン、700円」
ぱちくりとしたタルに、リーリンは代金を払う。
「また来る」
「……毎度」
わからないまま、長哉荘を出た。
出前箱を片手に自転車に跨り、首を傾げる。
そういえば、
どんな魔法使ったの? とフンギは言ったか。
こっちが聞きたい。タルは思う。
怖くて、外に出ないのだと言った。
(……いじめられてたんかな?)
ヒルダはどう見てもいじめっ子のタイプではないから、リーリンも最初から受け付けたのだろう、と勝手に考えた。
最近、昼間の来々軒に現れるようになったスーツの男が、その日も、テーブル席に1人腰掛けて、ラーメンを啜っていた。
箸に絡めた麺を迎えに顔を俯ける度、艶やかな黒髪が、はらりと額にかかる。
綺麗な男だ。品も良い。黒いスーツも大層仕立てがいい。はっきり言って、来々軒の店内では浮いている。
「すみませんお客様、合い席をお願いできますか」
抑揚の少ない声で、それでも丁寧に話しかけたのは、先ほどから1人であちらこちらの客を相手している店員だ。この時間、店内は混む。4人掛けのテーブルに今まで彼が1人で座っていられたのは、ただ浮いている、その理由のせいだったろう。
「……ああ。構わん」
有難うございます、と頭を下げて、声の小さい店員は、後ろで待つ客に、どうぞ、お待たせしました、と頭を下げる。うん、いいよ、と明るく笑って手を振ったのは、どうやら女子高校生だ。
店員はすぐに他の仕事に走った。女子高生は、よっこらせ、とまるで中年のような掛け声を伴って、しかし短いスカートが捲れるのも気にしない様子で、勢いよく彼の正面に座した。
「そんな立派なスーツ着てさ、何でここに来るの?」
……テーブルに肘を着き、くい、と体を前にのめらせ、開口一番。
彼は箸を止めて、目だけで合い席の彼女を見た。
「君に答える義務はないが」
少女はぶーと口を尖らせる。
「えー、だってさ、青少年を真っ当に育成するのって、大人の義務でしょー? こんな些細な疑問にくらい、答えてくれてもいいと思うけどー」
意外にも真っ当な理屈が、余り行儀の良くない少女の口から出たことに、少なからず感心した。
『青少年を正しく導くのは大人の義務』。真面目な大人に程よく効く宝刀だ。
そしてこの宝刀は、もれなく、彼をも貫いた。
「……ラーメンを昼食にだが」
とても大人の義務とも思えない回答だが、彼は至極真面目であったし、少女の義務の使い所もどこか間違っているので、構うことはない。
「だってさ、ここってビジネス街じゃないし、どっちかってと学生街だし?」
「ビジネス街の飲食店はこの時間混雑するし、ここのラーメンは旨い。……それに、店員の働き振りが気持ちいい」
くるくると立ち働く店員をちらと見て、彼の口の端に正直な微笑が上った。
「特に、あの子は勤勉だな」
箸を置き、コップの水に手を伸ばす。少女の叫びがもう少し遅かったら、彼は口に含んだ水を噴くところだった。
「……ほもーーー!!!」
声はサイレンのような音で、彼は少女が何と言ったのかは聞き取れなかった。ただ音に驚いて、飲もうとしたコップの水を零しかけた。
「な……?」
ほぼ満席の店内、驚いたのは彼だけではないようだ。こちらを見る顔の中に、他とは微妙に違う表情を見ることが出来るのは、その客には少女の声が聞き取れていたのかもしれない。
「何事だ……」
少女は構わず、何故か生き生きと身を乗り出す。
「ここって他にも店員いるけどさ、やっぱあの子が一番イイワケ?」
「……? む、俺が見た限りでは一番(働き者)だと思うが」
ギャー! と叫ぶ彼女は喜んでいるように見える。
「ちょ、ちょっと話聞かせて! 今度の本のネタにするー!」
両手の拳を振り回し、明らかに少女は興奮している。
「……? 君は作家か? 学生に見えるが」
「え、なにー? え~と、いつから気になりだしたのー?」
今度は両手を胸の前で握り合わせる。これに答えるのも大人の義務か。
「……ここに始めて来た時に、懸命に働いているヒルダ君の姿が目に付いた」
「ひゃー一目惚れー! 名前知ってんだ~」
「……名前くらいここでラーメンを食べていると聞こえてくるが」
少女の使う言葉は、きっといつもその動作のように、大袈裟なのだろう。
「他にも店員がいるそうだが、厨房以外には見たことがないな」
「ああ、この時間なら、大抵出前に出ちゃってていないよー?」
「では、この忙しい時間に、ヒルダ君は店内を1人で」
いらっしゃいませ、とヒルダと、厨房からも声が飛ぶ。店にまた客が来たのだ。
ふと見ると、その女性客は、こちらのテーブルへと近付いてくる。ここで合い席にするしか席がないのだから、当然だろう。ん、と思う。耳が。
とんがっている。
「ここにいましたか、ジュエル」
「あ! ポーラちゃん~」
ジュエルと呼ばれた目の前の少女は、今入って来た女性客ににこにこと手を振った。
「いけません、ジュエル。学外に勝手に出ては」
「だってポーラちゃん学校にいないから、ここに食べに来てるのかと思ってさあ~」
「業者さんの相手をしていただけです。私は今日はお弁当ですよ。ここにいてもマンゴープリンは注文しません」
ジュエルは、ぶうーと口を尖らせる。ポーラちゃんは彼を向いて、丁寧に、お辞儀をした。
「私の生徒が大変ご迷惑をおかけしました、申し訳ありません」
「……いや」
心配しましたよ、行きますよ、とポーラに引っ張られて、ジュエルは、え~ん、と駄々をこねた。
「仕方ありませんね、お弁当のパイナップルを少し分けてあげます」
「わ~い、だからポーラちゃん好きーv」
「家庭科の先生に、まな板と包丁をお借りしましょう」
「ポーラちゃん、またパイナップル丸ごと一個? きゃっははv」
(……)
店を出るときに、ポーラはヒルダにお辞儀をして、ジュエルは同じく手を振った。
あの先生は礼儀正しかった。だから、耳とか弁当とかの奇天烈なところには言及すまい。
そう決めて、彼はラーメンの残りを片付けた。
支払いを済ませて、店を出た彼は、携帯電話を取り出した。
慣れた指運びで、馴染んだ相手を呼び出す。コールきっかり3回。いつも通りだ。
『いかがなさいましたかな、若様』
自分が生まれたときから、相手はこんな声だったように思う。勿論それは、思い込みだが。
「……コルトン。お前の息子は……カラムーチョとか言ったか」
彼は本気だ。
『息子はヘルムートですが。……そうです若様、何故息子は事務員に混じってコピーとったりお茶汲んだりしておるのですか』
「俺は親切だからな。働き口を紹介してやったのだ」
『は? しかし息子は』
「その息子に職場の変更の通達だ。本日13時から来々軒でのアルバイトを命ずる」
『は?! しかし、若様』
「俺の通いのラーメン屋だ。それくらい知っておけ」
『いや存じておりますが! しかも本日13時とは、あと……』
知っていたか。さすがはコルトンだ。まさに今時計を見ているであろう彼を、心の内で称賛する。
「彼は俺に先日のマージャン大会での負債がある。それをチャラにするといえ」
『……そんなことしてたんですか貴方方は』
「共に次世代を担う若者同士親睦を図れと言ったのはコルトン、お前だ」
だからといって何故マージャン大会なのか。言わぬ声が聞こえてくる。
「言っておくが、マージャン大会を設定したのは俺じゃない。遊びを知らんと思って俺を馬鹿にした連中だ。まあ、カルパッチョはそうではないが」
『ヘルムートです』
「ああ。勝負運のない奴だったな。身包み剥がれないだけ有難く思え。俺は勝負事には負けん」
『……息子の本来の職務は』
「言っただろう俺は親切なのだ。そこまで拘束はせん」
『本来の職務での返済は適わぬのですかー!』
「それでは意味がないと思ったのだ。では通達したぞ」
ぽち、と通話を切る。今頃コルトンは、息子の不憫に涙していることだろう。
「ただい……まあ??」
タルが出前から戻ると、バイトが1人増えていた。
「急だけどね。ぶっちゃけ知人に頼まれて、今日から来々軒の仲間だよ」
厨房からフンギが説明する。カウンターを拭いていた彼は、タルを見つけて、さっと姿勢を正した。
「ヘルムートと申します。皆様と同様、この店の為に誠心誠意尽くす所存です、どうぞ、ご指導ご鞭撻の程を」
よろしくお願いします、と、きっかり45度、頭を下げた。
「はあ……ども」
真面目そうな青年は、それが素なのか、どこか屈辱に耐える顔で、やはりタルともヒルダとも違うエプロンを身に着け、やや長い髪を後ろで一つに括っていた。前髪や横の髪は、括るほどの長さが無いのだろう。お辞儀と共に、ばらっと重力に従って垂れる。
エプロンの下が、ビジネスマンが着る様な白いワイシャツなのが、いっそ悲壮感を煽る。今日の朝まで、普通の企業で働いていたのかもしれない。
「ええっと……へ……いっか、へっくんだ。よろしくな!」
「へっ……!」
へっくん呼ばわりに感動したか、彼は奇声と共に目を剥いて顔を上げる。
「へっくんには、厨房の片付け、まあ皿洗いだね、中心に、店内のこともやってもらうから」
「へっ……?!」
へっくんは、目を剥いたまま、今度は厨房のフンギを振り返る。
「出前はどうなんすか?」
「ああ……」
タルの問いに、フンギは笑顔で答えた。
「方向音痴なんだってさ、へっくん」
「もっ……申し訳……!」
彼は俯いてしまって、放っておくと男泣きしそうに見えたので。
「ドンマイ、へっくん!」
バン! とタルは彼の背を叩いて励ました。
どんまい、と小さな声で、しかし振り返ると、ヒルダが真剣な顔をして、へっくんを励ましていた。
へっくんは一瞬、困惑の表情を見せたが、すぐに、きっかり45度、頭を下げた。ヒルダに向けて。
「うん、十勝のバターが絶妙に絡み合って……この塩は伯方ですね……特に変わったものは入れてないのに、全体として完璧なバランスを保ってる。またスープが麺に上品に絡む。さすがですね、シェフ」
曇ったメガネを丼の横に置いて、妙なちょんまげの彼は、今日も夕刻にやって来て本日は塩ラーメンを啜っている。
(シェフ、て……)
腹の中で突っ込みを入れつつ、まあ、確かにあのコックコートは。と納得もする。シェフなのですか、と尋ねる小声に目をやると、ヘルムートが台拭きを握りしめて、真っ直ぐにタルに問いかけていた。
「……店主で料理長、らしいけど」
そうですか、と肯くヘルムートを置いて、タルはケネスのテーブルに寄った。
「水、差しますか」
うん、とケネスが肯くや否や、やります、とヘルムートは空に近くなったコップを取った。
そうして、氷をたっぷり浮かべた水のコップを持ってきたヘルムートに、ケネスが言うのだ。
「冷たければいいというものじゃないぞ、熱いものを食べているし、親切、サービスのつもりでやったことかもしれないが、それじゃあ旨みを感じる舌の機能まで低下させてしまうんだ」
(どこの薀蓄王ですかアンタ……!)
ヘルムートはショックを受けて、申し訳ありません、と頭を下げる。すぐに取り替えます、と引き返すのを、ケネスは肯いて見送っている。
どっちも、真面目なのだろう。
ホントに、フンギさんはこいつを来々軒の調理師として雇うつもりなのかな。
俺のラーメンを食うときは余所見すんな、てタイプじゃなきゃいいけどなあ。
ぼんやりとそんなことを心配していると、ちわー、と出入りの酒屋がやって来た。タルの出番だ。
「あ、裏にお願いするっす!」
ビールやジュースやの重いケースを、運ばねばならない。
タルが店の裏に引っ込んでから、レジ横の電話が鳴った。ヒルダが注文を受けて、ぼくが行きます、とフンギの作ったチャーシュー麺を受け取り出前箱に入れた。そうしてヒルダが出かけてから、また電話が鳴って、今度はヘルムートが、機敏に受話器を取った。
「シェフ、3丁目のルイーズ様から豚肉炒めのご注文です」
「は~い……って、え? あれ?」
「は?」
追加注文てことかな、とフンギは呟いた。
ヒルダは自転車に乗れない。だから出前は、近場にしか出来ない。ラーメンが伸びるからだ。ヒルダはそれでも早足で、なるべく熱い、出来立てのラーメンを届けようと頑張っている。タルが店に来てくれて、本当に良かったと、よたよたと重い出前箱を運びながら思った。これを片手で揺らさずに自転車に乗れるなんて。ヒルダには到底無理な芸当だ。行ってくるっす、と自転車を漕ぎ出すタルの後姿を初めて見送った時、出前箱を持つ腕の太さに、酷く納得したものだ。自分のように、フラフラと頼りない訳がない。
……いや、違う。そういうことではなくて。
――どうして、タルは。
幾度か出前箱を持つ腕を代えて、ヒルダは辿り着いた注文主の家の呼び鈴を押した。
軋むドアを内側から押し開けて、ルイーズは来々軒の出前持ちを見た。
「おや……へえ、こういう可愛い子使ってるんだ……ふうん」
しげしげと眺める視線に耐えながら、ヒルダは地面に置いた出前箱からチャーシュー麺を出す。
「800円になります」
はいよ、とルイーズはラーメンを受け取り下駄箱の上に置いた。エプロンドレスのポケットから硬貨を取り出す。ジャラン、とヒルダの手にそれを落として、金額を確認しようとそのままにしていたヒルダの手を、ルイーズは、ぎゅ、と両手で、上下から握った。
「どう? あたしのものにならない?」
言葉を聞く前にヒルダは固まっていて、返事をするどころではない。
「……あらあ? どうしちゃったかしら」
ルイーズはくすくすと笑う。キキイーッ、と耳慣れたブレーキ音が、後ろでした。
「毎度! 来々軒っす、追加注文されましたよね?」
タルだ。
思ったら、体は動いた。ばっとルイーズの手を振り切り、ヒルダは自転車を降りたところのタルの後ろに隠れた。
「……お?」
タルには訳がわからない。ヒルダはタルの後ろに隠れたままじっとしている。
ラーメンは客の家の中に入っている。どうやら、配達は済んでいる。
「……豚肉炒めっす。ご注文されましたよね?」
出前箱から皿を出す。ルイーズは面白そうに目を笑わせて、ほんの少し首を傾げた。
「……へえ?」
タルをしげしげと見て、皿を持つ腕や肩に、ぴたぴたと触れた。
「あんた、ぱっと見よりいい体してんのねえ……うふ、嫌いじゃないよ、そういうの」
「はあ、ども。400円っす」
はいはい、とルイーズは皿を受け取りラーメンの横に並べて置き、エプロンドレスのポケットに手を入れる。チャラ、と硬貨を掴み出し、待っているタルの手のひらに落とし……
ヒルダが、タルの腕を後ろからぐい、と引いた。チャリ、と硬貨が手のひらで鳴る。
「だ、ダメです、ぼくも、この人も、来々軒のバイトですから」
「……ヒルダ?」
真剣に懸命に声を出す様子に、タルは瞬く。ルイーズは「あらあら」とにんまり笑った。
「振られちゃった~。うふふ、かわいいのねえ~ぼく」
そして、すっとヒルダの耳元に顔を寄せる。小さく囁く。
「そっちのお兄さんのこと取られたくないんだ。好きなんだ~?」
ヒルダはかあっと赤くなった。失礼します、と掴んだままのタルの腕を引っ張り駆け出す。
「お、おい、ちょっと待てって、自転車!」
立ち止まって振り向いたヒルダは、ますます赤くなった。
ルイーズの家を少し離れたところで、タルは、自転車を片手で押す自分の横に並んで歩くヒルダに尋ねた。
「何言われたんだ? 真っ赤だぞ」
ヒルダは空の出前箱を左手に提げて、どこか拗ねるように、中身入りではありえない揺すり方をしている。ぼくが持つよ、とタルの出前箱にも手を伸ばしたが、いいって、と断ったので、それぞれ一つ箱を提げている。流石に自転車を押しながら二つ持つことは出来なかったので、ヒルダもタルも、一つずつ。
やや俯いたまま、ヒルダは小さな声で教えてくれた。
「……あの人、『帆船・ビッグシップ』って食堂のおかみさんだよ」
「へえ」
「よそのお店の店員、引き抜くので有名なんだ」
「へえーなるほどなあ」
「……タル、もてるんだね」
「は?……」
タルはぱちくりとする。
「もてた覚えなんかねえぞ?」
ヒルダはますます俯く。
「お、女の人に触られるの、慣れてるんじゃないの?」
「慣れて……ああ、さっきのか。はは、ありゃ、『おう、ニイチャン、意外といい体してんじゃねえか』ってヤツだろ? 確かに、現場のオッチャンたちに言われ慣れてるな!」
笑ったタルを、ヒルダは見上げた。
「……現場?」
「ん? 言ってなかったか? 俺、夜もバイトしてんだよ。工事現場の土方とかな」
「……そうなの?」
大きな瞳で、じいーっと見られて。タルは言い訳をする。
「……はは、家に仕送りしなきゃいけねえもんでさ。ま、ちょっとな」
「……タル、すごい」
「へ?」
「ぼくとそんなに変わらないのに、家のことまで」
「よせよ、んな凄かねえよ。こう見えて21だぜ。お前だって住み込みで働いてんじゃねえか。お前は幾つだ?」
「……」
「ん?」
「……知らない」
「……へ?」
「……ぼく、捨て子だったんだ。だから」
にこ、とヒルダは笑んだ。
タルのびっくりした視線に、あ、えっと、と服の下からヒルダが手繰り出したのは、首から紐で提げた手縫いの小袋。中から、丁寧にたたんで、広がらないように糸で結わえた赤いリボンを出してみせた。
首にそんな物を提げていたことも、タルは気付かなかった。
「……これ、ぼくが拾われたときに、産着が風で捲れないように巻いてあったんだって。……ちゃんと、愛してくれてたんだな、って」
幸せそうに、きゅっと胸にリボン抱いた。
「そっか」
声だけは普通に出た。相槌を打つタルの顔は、複雑に笑っている。
……ちゃんと愛してた?
「それでね、名前の刺繍もしてあるんだ、ヒルダ、って」
ヒルダが見せるリボンの端には、確かにヒルダと刺繍があった。だが女名だ。姉のお下がり、いやもっと言えば、……赤の他人のものかもしれない。
ヒルダは、ようやくタルの表情に気付いた。夢を見るような顔が、ほんの少し翳った。
「……こんな話、嫌だった?」
「……いや?」
タルは、ニッと笑う。
「話してくれて、ありがとな」
「……うん。タルには、なんだか話したかったんだ。……聞いてくれて、有難う」
照れたのだろう。翳りは消えて、はにかむように、礼の言葉の後、すぐにヒルダは俯いた。
「そっか」
普通の声で、相槌を打つ。
(……ちゃんと愛してたんなら、何で捨てるんだよ……!)
自転車を押して並んで歩きながら、タルはやり場のない憤りを、腹の中で転がしていた。
昼のラッシュも過ぎた頃。
「いらっしゃいませー!」
戸の開く音に、カウンターを片付けていたタルが、でかい声で振り返る。
「あっいたいた! 兄ちゃーん!」
「タル兄ちゃん!」
店の戸を開けて手を振るのは。
「お前ら……!」
どこかタルに似た顔をした、男ばかりの子供が4人。
「昼は出前で忙しいって言ってたから、時間外して来たよー」
「兄ちゃん、いたな!」
「うん、いたな!」
タルの弟達が、嬉しそうに賑やかに、わらわらと店内に入って来た。
「ね、あっちのテーブル空いてる? 座っていい?」
「何しに来たんだよ!」
言いながらも、タルは兄弟をテーブル席に促す。てんで勝手に椅子に座って、中学の学ランを着た、4人の中では年長らしい弟が、にいっとタルに歯を見せて笑った。
「ラーメン食べにだよ~へへへ、ちゃんと払うからさ!」
「当たり前だろ、ったく、はいはいお客さんご注文は?」
「一番安いラーメン4つ~!」
4人の揃う声に、「っかあ、実にならねえ客だぜ!」とタルは笑う。そうして厨房のフンギに叫ぶ。
「チャーシューメン4つー!」
「え? チャーシュー?」
4人は揃ってぱちぱちと瞬く。その様が可愛くて、タルはくしゃりと笑う。
「いいって。余計な分はおごりだ」
「いいの兄ちゃん?」
「兄ちゃんデブっ腹ー!」
「太っ腹だろそりゃ!」
兄弟の漫才を、皿を運ぶヒルダも、厨房の二人も、笑っている気がする。
「母ちゃんとちい兄はどうした?」
「母ちゃんはパート! ちい兄もバイト!」
「そうか。元気なんだな」
ほっとして笑うタルをよそに、兄弟達は、4人頭をテーブルの上で寄せて、なにやらこそこそと囁いている。
「ねえ、あれかな」
「うん、きっとあの人だよ。可愛いし」
(……?)
「お前ら何言ってんだ?」
4番目の弟が、ぱっと顔を上げて訊いた。
「ねえねえ兄ちゃん、ヒルダさんってあの人?」
指差す先にはカウンターを綺麗に拭くヒルダ。
「ん? おう。そうだけど」
兄弟達はわっと声を上げた。
「やっぱりー! 可愛いじゃん! 働き者みたいだし!」
「……? おう。?」
「兄ちゃん、オレ断然賛成!」
「? 何がだ?」
「何がって、またまた~手紙で色々かいてたじゃん! カノジョでしょ?」
「……はあ!? バッ」
慌てて小声で身を屈めて。
「バカ! ヒルダは男だぞ!」
「えーー?!」
「しー! しー!」
でかい声を出した兄弟達に、必死で口に指を当てる。
「……ヒルダは女みたいに見られんの気にしてるっぽいから、言うなよ!」
そうして、聞こえなかったかな、とヒルダをちらりと振り返る。片付ける姿に、どうやら変わりはない。
しかし弟達4人の姿には、落胆を隠しきれていなかった。
「……なんだー。姉ちゃんができると思ったのにー」
「……姉ちゃんて……! アホ!」
思い切り呆れて、弟の頭を小突いた。
食べっぷりがタル君そっくりだね、とフンギに評されながら、弟達はチャーシュー麺を平らげた。
どうだ美味いだろ! と自慢するタルを、フンギもヒルダも、ヘルムートも微笑んで眺めた。
「ごちそうさまでしたー!」
「おう、気い付けて帰れよ!」
「ラーメンすげーうまかったー!」
ラーメンを食べ終わった兄弟達を、タルは店の外で見送る。
「お前ら、帰りの電車賃はあるのか?」
あるよー、と答えて、へへ、と学生服の弟は笑った。照れ臭そうに、指で鼻を擦る。
「兄ちゃん、俺達、もう大丈夫だからさ」
「?」
「母ちゃんの体も、随分いいし、俺達だって、雇ってもらえる年になったし。な!」
「うん。だからさ、兄ちゃん、もう俺達のことはいいからさ、ここらで、自分のことやんなよ」
「……お前ら……」
4人の弟が、にひひと笑う。末の弟が「にいちゃん、おれ、新聞配達やってるぞ!」と手を挙げて胸を張る。
「今まで、兄ちゃん、俺達家族のことばっかでさ。学校も行かないで、働いてばっかで……」
「俺は……ばか、いいんだよ。頭悪いんだし、勉強したくなんかなかったしな。働く方が性に合ってる」
「もう、いいからさ! 大丈夫だから……俺達、ちゃんと貯金だってしてたんだぜ、兄ちゃんの送ってくれる金の中でさ。結構貯まったぜ? へへ!」
「……お前らだって、学校……」
「行きたい奴は自分で行くよ! なんだよ兄ちゃん、自分は勉強嫌いだったくせにさ!」
けらけらと笑う。4人で笑う。
「……だから、兄ちゃん、自分の好きなことしなよ」
手を振って駆けて行く兄弟達を見送って、タルはぽつんと立っていた。
(――急にそんなこと言われてもよ)
好きなことしろったって。
今まで働くことしかしてこなかった。何をして良いのかわからない。
「よおーしお疲れさん! 日当配るから来てくれ!」
やれやれ、とあちこちから満足げな溜息が起こる。
そろそろ夕暮れの建築現場で、茶封筒の束を持った現場監督の周りに、日雇いの男達が集まってくる。
汗を手で拭うと顔に泥が付く。気付いて首にかけたタオルで拭いても、汗と泥の滲みたタオルでは、汚れを広げるだけだった。
今日は月2回の来々軒の定休日で、久し振りに現場で朝からばっちり8時間働いた。日当9800円は、かなり大きい。
「タル」
呼ばれて、給料を受け取るために前に出る。現場監督は、にっと笑って封筒を差し出した。
「お前さん、よく働いたからな。少し色付けといたぞ。また頼むぞ」
「えっ……ありがとうございます!」
嬉しげに頭を下げるタルの肩を、ポン、と叩いて、監督は次の日雇いの名を呼ぶ。
タルは早速封筒の中身を確かめた。1万円を超えて、更に千円札が数枚。姿勢を正し、改めて、監督の背中に頭を下げた。
就業中、何かとタルに構ってくれたオヤジが、ニヤニヤと笑って声を掛けてきた。
「なんだ、カノジョにプレゼントか?」
「へ……いや! 違いますって! いないし!」
「ははは、テレんなテレんな」
他のオヤジどもも、タルをからかう事に加わる。タルは働いていた時とは違う汗をかいて、手を横に振る。
「いや、マジで! 生活費っすよ! 兄弟多いし……」
「へ~いまどきの若いもんにしちゃ、えらいじゃねえか!」
「そっすか?」
「兄弟何人だ」
「6人っす」
「おーそりゃ父ちゃん頑張ったなあ!」
がはは、と笑う親父、父ちゃんはどうした、と訊く親父。
「6番目が生まれる前に、死にました」
タルは笑って言ったのだが、うるるっと泣き出したオヤジが、自分の給料袋から1枚抜いてタルに渡そうとするものだから。
「ダメっすよ! それはおっちゃんが稼いだ金じゃないすか! おっちゃんにも、養う人がいるんでしょ!」
「うう、お前、ホントに偉い奴だ……!」
タルはぽりぽりと頭を掻く。
「そんなことないすよ、働くしか出来ることねえだけで」
「その働くことが出来ねえ奴が最近は多いんだよ、しかもこんなキツイ仕事を、なあ」
「免許とかなんもないだけっすよ」
「おお! わかるぞ! 免許取るにも金かかるもんなあ!」
先立つものは、金、金、金だ! がっはっは、とおっちゃんたちは笑う。
(兄ちゃん、俺達、もう大丈夫だからさ)
もう良いから、好きなことをしろ、と言った弟達を思い出す。
(……そんなこと言ったってなあ。他に出来る事ねえしなあ……)
貯金もしたと言っていた。だがタルが送った金の中で、大した額が出来ているはずもない。
母ちゃんだって、いつまた倒れるかわからない。弟達は、何のかんの言ってまだ幼い。
今日一日のタルの代価を見つめながら考える。弟達にも、自立心や自尊心はあるだろう。だが。
(お前らを信用しない訳じゃねえからよ。……送らせてくれよ。な)
せめて、額を減らして送ることにする。働くことも、家族を支えることも、タルには自分を構成する大部分であったから。
帰り道、天気予報にはない通り雨に襲われた。現場から集合場所までマイクロバスに乗って運ばれて、降りて、少し歩いた時だった。タルのアパートまではまだ遠い。強い雨脚に叩かれながら、ずぶ濡れでタルは走った。
考えるより、足が勝手に向いていた。確かに、自分のアパートよりは随分、店の方が近かったが。出前でよく通る道に出たところで、ああ、店で雨宿りさせてもらおう、とようやく思考が追いついた。ただ店は定休日で、戸には鍵が掛かっているはずだ。
見えてくる来々軒の店舗。暖簾は仕舞われている。
ちらりと、住み込みの彼のことを思ったか。
タルは軒下に駆け込んで、ふう、と息をついた。現場の土と雨が混じって泥だらけの体を眺める。いっそシャワー代わりに、雨に打たれているのもいいか。
中からの足音は、きっと雨音に負けて聞こえなかったに違いない。ガタガタと戸が鳴ると、いきなりガラリと、タルの後ろで戸が開いたのだ。
「……やっぱりタルだ」
ヒルダが。戸一枚の厚みの距離で、タルを見上げていた。
「……おう」
タルはにかっと笑う。
「いやー急に降られちまってよ。ちょっと雨宿……うお」
ぐいぐいと、ヒルダがタルの腕を引く。
「入って、びしょ濡れじゃないか風邪引くよ」
中に入り、戸を閉めた。引かれるままに店内を通る。タルから泥水がぽたぽたと落ちる。後で掃除は決定だ。厨房に垂れた泥水など放置していたら、確実にフンギに殺される。
ヒルダは厨房の奥の階段を登り、登り切った所のドアを開ける。ほら、と促されて靴を脱いだタルを、ヒルダは腕を引いて部屋に上げた。畳が汚れるぞ、と言う間もなく。部屋を横切り、奥の風呂場に、ヒルダはタルを押し込んだ。
「洗濯するから脱いで。ちゃんとお湯で洗ってね」
「お、おう……」
お湯の出し方わかるよね? と問うヒルダに、タルは、はい、と返事した。
ドアの向こうの風呂場では、ジャーっという水音と共に、白い湯煙が立っている。ちゃんと、お湯を使っているようだ。
ヒルダは、洗面台でタルの脱いだ物の粗方の泥を落としてから、洗濯機に放り込んだ。シャツ……靴下……ズボン。ポケットがあるのはズボンだけのようだ。ちり紙や財布が入っていたら出そうと、ポケットの中に手を入れる。手に触れて、掴み出したのは、濡れてくたびれた茶封筒。中にはやはり、くたびれた紙幣が幾枚か。
ヒルダはタオルを棚から一枚取ると、茶封筒を丁寧に挟んだ。そっと、しかし確りと押し付け、水気を取る。幾度かそうして、ヒルダは封筒を、棚の一番上に置いた。
ヒルダが用意した服は、ヒルダには大きめのシャツとズボンだったが、タルには、それでも小さいくらいのようだった。力一杯働く為に必要な肩や胸やの筋肉が、シャツの上からでも良くわかる。
「わりーなー」
タオルで頭をがしがしと拭きながら、タルは風呂場から畳の部屋に戻ってきた。
さっぱりしたぜ、と礼を言う。ぺたんと畳に直接座るヒルダの斜め前に、どかっと座る。
「……ごめんね、服、小さいね」
いいって、とタルは笑う。きょろきょろと部屋を見回す。小さな箪笥が一つきり。何もない部屋だ。
ヒルダは恥じ入るように俯くのだ。
「ご、ごめんね、何もなくって……お茶も、お菓子も……」
タルは慌てて手を振る。
「いいって。こっちこそごめんな、洗濯までしてもらって。急だと困るだろ、客って」
ううん、とヒルダは首を振る。俯いたまま、少し赤くなった。
「ぼく、強引だったね。余計なこと、した?」
「へ?……」
ちらりと視線を上げて問いかける。
「軒下で、雨宿りしてるつもりだったでしょ?」
「ああ……ヒルダが開けてくれたら助かるって思ってたぜ? はは、すぐに来てくれたよな! よくわかったなあ?」
ヒルダは瞬いて、口篭る。
「……ちょうど外、見てたから……」
「大助かりだぜ! ありがとな、ヒルダ」
にか、と笑ったタルに、今日初めての笑顔を見せた。
「よかった……」
はにかんだ赤い笑顔に、タルはぽりぽりと頬を掻く。ずばり尋ねた。
「友達来んの初めてか?」
ヒルダはドキッとしたようだ。顔を赤らめて、しかし、どこか擽ったそうに。
むしろ、嬉しそうに。
「と、友達……」
不慣れな単語のように、ポツリと、口にする。
「……今まで、誰も、友達なんて……ぼく、なんかに」
「なんか、って……お前、いい奴だぞ?」
「そ、そんなことない」
ヒルダは俯き気味に首を横に振る。タルは首を傾げる。思うところをつらつらと論う。
「正直で、真面目で、働き者で、人の嫌がることはしねえし、風呂は貸してくれるし、いい奴じゃねえか」
慣れないのか。もじもじと体を動かして、ヒルダは言い募る。
「ぼくは……嫌われてるから」
「なんで。嫌われる訳がどこにあんだよ」
「ぼくは、いると嫌な気持ちにさせるから……」
「はあ? 誰か言ったのかそんなこと」
「……役にだって立たないし」
「立ってるだろ。お前、働き者だって」
ヒルダは首を横に振る。
「フンギさんだって誉めてたぞ?」
「……フンギさんは、親切だから」
「つか、あの人商売人だからな。役に立たないなら、即クビだと思うぜ?」
「……ううん、呼んでくれた手前、仕方なくかもしれないし」
「? フンギさんに店に誘われたのか? なら、やっぱり使えない奴は呼ばないって!」
笑うタルに、ヒルダは尚も首を横に振る。
「……なんでお前はそう思うんかなあ?」
組んだ腕を解き、頭に手を当てた。わからない。
「……あーダメだ俺頭悪くてよ。考えるのも説明すんのも苦手なんだ。わりい」
「……そっそんなこと!」
ぱっと顔を上げるなり、ヒルダは頭をぶんぶんと振る。振り過ぎだ。座る足の横に手を付いた。タルは呆れる。
「おい、大丈夫か?」
お前実は面白い奴か、とは、訊けなかった。そんなことは知らず、ヒルダは、こくん、と小さく肯く。
「タルは……悪くないよ。タルのほうが、いい人……」
「っはは、そっかー?」
「はっ初めて、友達扱いして……くれた」
やはり、喜んでいたのだ。かあーっと赤くなるヒルダを、頭を掻きつつ、タルは眺める。
「い、いやじゃ、ない? ぼくのこと……」
ぽつぽつと、尋ねる。きっとヒルダは、精一杯だ。
「お前、可愛いな」
ヒルダは目を見開いた。
「あ! いや、女みたいだとかそんなんじゃなくて、俺、長男でさ、弟沢山いるんだ。そんなカンジ」
ニッと笑う。ぱちぱちと、ヒルダは瞬く。間抜けた声で、訊いた。
「……おとうと?」
「おう。んで」
タルは自分を指す。
「兄ちゃん」
にかー、と笑う。
ヒルダの鼓動が、手に取るようだ。
「……あ、う、……」
かわいい、と思った。笑いが、込み上げた。
「……はは! 今ちょっと手持ち無沙汰でよ」
「……え?」
「ん、いや、まあ……そんなもんでよ。構わせてくれよ。お前のこと」
赤い顔で、視線を彷徨わせた。やがて、こくん、とヒルダは肯く。
「うし、やった!」
タルのガッツポーズが面白かったのか。ヒルダはくすくすと、タルはにやにやと、暫く笑い合った。
窓の外の雨は、なかなか止まない。
「休みの日とか、どうしてんだ?」
ヒルダは瞬いて、緊張の解けた顔で答えた。
「……ぼうっとしてる」
「……そっか」
「タル、は、休みの日、あるの?」
「ん? おう、今日だって休みだろ?」
「きつい仕事、してきたんでしょ?」
「ん?」
「給料袋、……濡れてたから、乾かしといた」
「お、さんきゅ……わはは、はい、休みの日は働いてます」
「それ、休みじゃないよ」
はい、と頭を下げた。タルも貧乏性だね、とヒルダは笑う。おう、てか、貧乏だ、とタルは胸を張る。
「……平気か? 気詰まりじゃねえか?」
ヒルダは今度は穏やかに、ううん、と首を横に振る。
「誰か部屋にいるの、慣れてねえんだろ?」
「……タルと二人になっても、怖くない」
「……?」
「誰かと、二人になるの、怖いんだ。……ひどいことされそうで」
「……なに」
どういうことだ、と質問が声に出なかった。ヒルダはまた首を横に振る。
「ぼくが悪いんだって。……でも、タルと二人でも、怖くない。大丈夫」
にこ、と笑んだ。
(……なんだよそれ)
苛められていたということか。外が怖いという、リーリンのように。
ヒルダは、ちらりと窓を見る。
「……雨、止まないね。……あ、あの、よかったら、泊まってく? 布団、貸すから……」
気付けば、外はすっかり暗い。
「お、いいのか?……て、そうか、布団一組なんだよな?……ん、じゃ、一緒に寝ようぜ」
「えっ」
「嫌か?」
ちょっとおろおろして、俯いて、しかしヒルダは首を横に振った。嫌という言葉を否定した。
「おし。じゃあ今日は兄ちゃんと寝ようぜ!」
「に、にいちゃん……」
ヒルダはカアーっと赤くなる。
「おう」
にか、と笑って、布団の場所を空ける為、タルは立ち上がる。立つついでに、ヒルダの頭をくしゃっと撫でた。
「そういえばよ、アルドさんって漫画家のとこに出前に行ったらさ、いきなりポーズとってくれって言われてよ」
一組しかない布団を敷いて、二人一緒に横になった。タルは弟達との添い寝に慣れていて、自分も相手もはみ出ない絶妙の位置に横たわっているのだが。ヒルダはといえば、遠慮しすぎて、はみ出すどころか布団から落ちそうだ。
タルの出した話題に、ヒルダは心当たりがあるようだ。瞬いて、布団に入ってから合わせなかった視線をこちらに寄越した。
「お前もモデルしたことあるんだって?」
こっくりと肯いた。やや顔が赤い。
「どんな風に描かれてんのかな~ちょっと気になるな!」
笑うタルに、うん、と肯く。今度本屋で探してみるか、などと言ううちに、先にヒルダが眠りに落ちた。離れて硬くなっていたくせに、眠ってしまうと、暖を求めるように身を寄せてきた。
久しく弟にくっつかれて寝ていないタルは、顔が綻ぶのを止められない。
腕を伸ばして、ヒルダの肩の布団を直す。
捨て子。ひどいこと。怖くない。友達。真面目でいい奴なのになあ……
ぼんやりといろんなことが頭の中を巡っていたのは、ほんの暫くだった。その日目にした最後はヒルダの寝顔。
疲れていたタルは、すぐに、すかーっ、と眠ってしまった。
(続く)