別名わたる。……いや、タルですよタル(笑)



『来々軒へいらっしゃい』



来々軒なんて、ベタな名前だと思うだろ? それが店主の第一声だった。
「いかにもなラーメン屋の代名詞みたいに言われるけどさ。少なくとも俺は! 来々軒、って名前のラーメン屋は見たことなかったんだ。それに、立地条件がいいとも言えないこんな場所で、毎日お客が来てくれるのは、店の名前のお陰かもな、って思ってるんだよね」
ヘルメットみたいなキノコ頭を三角巾で包んで、料理長の店主はにこにこと笑う。
就職難のご時勢。昨日までの働き口だった運送業者は、従業員の賃金に困った挙句、大型自動車運転免許などの特殊技能を持たない者達の首を軒並み切った。大型どころか普通自動車の免許すら持たない彼は、勿論クビの対象になった。
とにかく新しい働き口を探して歩き回った。コンビニで配っていた求人チラシの連絡先に悉く電話を入れ、よさそうな所へは出向いて、単発のバイトの幾つかは手に入れた。だが、生活の為には、勿論それでは足りないのだ。
気付くと腹が減っていた。そういえば職探しに懸命でまともに食っていなかったのだと、いい匂いに惹かれてふらふらと細い路地へ入った。暖簾が見えた。来々軒。その下の引き戸に、張り紙があった。
「一応訊くけど、調理師免許は持ってる?」
「持ってないっす」
「そうか。じゃあやっぱり、悪いけどバイト扱いだね」
「十分っすよ! 力くらいしか取り柄ないっすけど、出前とか、バンバンやりますから!」
気合の入った握り拳を、店主はにっこりと笑って見た。
「君みたいな、明るくて力の強い人は大歓迎だよ。ちょうど、バイトが1人、クビになったところでさ」
「ハア」
クビ、か。人事ではない。
「俺はフンギ。この小さい店の店主で料理長。って言っても、厨房は俺だけなんだけどさ」
細長い店内。カウンターに椅子は10。奥の方に、4人掛けのテーブルが2つ。まだ朝の10時を回ったところだ。店内に客の姿はない。入り口付近で新人バイトの相手をしながら、コックコートを着た店主はテーブルの方を指した。
「君と、あとバイトはもう1人ね。あの子が、一応看板かな。それほど明るくはないし、笑顔も大人しいけど、働き者のいい子だよ」
指差す先には、テーブルを懸命に拭くエプロン姿のバイトが1人。戸の開く音にさっとこちらを見たが、客ではないと知って、すぐに顔を伏せた。確かに、元気一杯という印象ではなかったが。
「看板っすか。かわいいっすね」
正直に述べた感想に、店長は釘を刺した。
「言っとくけど、男の子だから。惚れちゃダメだよ」
「……はあ」
気が付かなかった。
「君、部屋は?」
「あ、一応アパートが」
「そ、なら問題ないね」
「?」
「じゃあ、早速今日からお願いするよ。よろしく、タル君」
元から笑ったような顔の料理長の店主が、にっこりと右手を差し出した。
「ういっす! よろしくっす!」
がっし! と店主の手を握って、ぶんぶんと振ると、フンギはよろめきながら、ホントにすごい力だね、と声までよろめいた。


フンギに渡されたエプロンは、店の制服という訳ではないらしい。先程から働いているもう1人のバイトが着用しているエプロンとは、色も形も違っていた。裾の方に、黒マジックで「来々軒」と店名を手書きしてあることだけが、このエプロンの所属を主張している。
思えば、フンギ自身が言ったように、この店は決して大きくはない。店の場所も、わかりにくいだろう。バイトのエプロンにも、頓着しているとは言えない中で、フンギのコックコートだけが、やけに立派に見えた。
タルはエプロンを着けながら、黙々と手を動かす先輩に近付いた。店内を清潔に保つのに余念がない彼は、テーブルから割り箸箱から調味料入れまで、丁寧に磨き上げる。その度、揺れる三角巾の下から覗く色素の薄い髪も、忙しなく上下する。
「よろしくお願いするっす先輩!」
薄い色の頭が、リズムを乱して跳ねた。びっくりしたようだ。
彼は、店の戸を開けたタルを客と間違えてちらりと見てから、初めてまともにタルを見た。
同時に、タルも、彼の顔を初めてまともに見た。
色が薄いのは、髪だけではなかった。目の色も、薄い。どこか他の国の血が入っているのかもしれない。
――なんというか、きれいだ。かわいい。
ああ、こりゃフンギさんも釘刺すな。そう納得した。
2、3度瞬いてから、彼は視線を迷わせた。上げた顔をゆっくりと俯けて、僅かに眉を寄せて訴えた。
「ヒルダでいいよ……きっと君のが年上だし」
男にヒルダと付ける親もいるんだな。そんな感想が浮かぶ。年は、きっとその通りだろう。タルは今年で21だし、目の前の彼は、どう見積もっても10代だ。
「いや、でも仕事の先輩だし」
「……先輩っていったって、ほんの数ヶ月だよ」
「へえ、そーなんすか。でも、いろいろ教えてもらわねーと。俺、新人なんで」
タルは笑ったが、ヒルダは、困っているのだろう。眉を寄せたまま、ぱちぱちと忙しく瞬いた。そうしてから、口を開く。
「……じゃあ、間を取って……」
頬まで染めて、訴える。
「ぼくも、タル……って、呼ぶから」
余程、先輩呼ばわりが馴染まないのだろう。こちらを呼び捨てするのに、随分努力した様子で、名を呼んだ後の呼吸が少なからず乱れた。
「……わかった。じゃ、よろしくな、ヒルダ!」
タルは、にか、と笑った。
「うん……」
改められた口調にほっとしたか。口元に、うっすらと笑みを浮かべて、ヒルダは肯いた。
「……」
――なんというか、かわいい。
「タル君、お腹空いてない?」
厨房からフンギが声を掛けた。
「俺のラーメン食べてみてよ。どんなもの売ってるかわかんないのもイヤでしょ?」
サービスするから、と言って、カウンターにドン、と丼を置く。醤油ラーメンだ。
ひょっとして、表の張り紙見たんすけど、と店に入って来たタルの腹の音を、フンギは聞いていたのかもしれない。
「いいんすか?」
「是非食べてよ。それで、自信持って働いてね」
フンギの親切な物言いに、タルは素直に感謝した。
「いただきます!」
頭を下げて、カウンターに座り、箸をとってひと口啜る。
(――うまい!)
タルは何でも旨いと思う方ではあるし、腹は確かに減っていたが、このラーメンは本当に美味い。
物も言わずに、物凄い勢いでラーメンを啜るタルを、フンギは腕を組んで微笑んで見ている。来い来い、という店の名前じゃない。いやそうなのかもしれないが、それ以上に、その前に、ラーメンが美味いから、こんな場所でも客が来るのだ。
「おいしいだろ?」
タルの食べっぷりに、フンギは笑みを含んだ声で問いかける。タルは喉で、んご、とかふぐ、とか妙な音を立てるしか、返事が出来なかった。何しろ、食べるのが忙しい。
汁の一滴まで腹に収めて、綺麗になった丼を、ゴトン、と置いた。
「ごちそうさまでした!」
幸せだ。満足だ。こんな旨いフンギのラーメンを配る手伝いを、今日から俺はするのだ。
「君ほど美味しそうに食べてくれる人も、そういないけどね」
フンギはとうとう、声を立てて笑い出した。フンギとは違う笑い声が横から聞こえた気がして、ふ、と見た。薄い色の瞳と目が合った。
「……よかったね」
ヒルダが、くすくすと笑っていた。
「……お、おう」
そんなに幸せそうな顔を、俺はしてたのか。
お茶を入れてくれたらしい。手の湯飲みを、どうぞ、と言って空の丼の横に置いた。どうも、と言って、タルは受け取る。熱いラーメンを食べたせいで、体はほかほかしている。ヒルダの入れてくれたお茶は飲み頃で、興奮した体を治めてくれるようだった。
「……ラッキーだったな、俺」
ポツリと漏らした感想に、フンギが、何が? と訊いてきた。
ポリポリと、タルは頭を掻く。
「……俺、前は運送屋で働いてたんすけど。このご時勢で、免許とか持ってねえ奴はクビの対象にされちまって。んでも、すぐに次の仕事見つかった訳だし。フンギさんもいい人だし、ラーメンは旨いし! バイトの同僚は可愛くていい奴だしな」
湯飲みを掲げて、礼にした。
フンギが、少し首を傾げたように見えた。
「……次からは、俺のラーメン食べるなら給料から引くよ?」
「くは、わかってますって!」
ラーメンの代金のことで首を傾げた様には見えなかった。小さな違和感は、次の会話で明らかになった。
「……かわいいって、おもう?」
尋ねたのはヒルダだ。
「ん? おう」
「……女の子みたいって、タルも、思う?」
「……」
気にしているのだ。それを、フンギも知っている。可愛いは、ひょっとして、禁句なのかもしれない。最初に釘を刺したフンギの言葉も、タルの言った「かわいいっすね」に対してだったかもしれないと思った。
「……いや? そうでもねえぜ?」
軽く否定する。ヒルダは瞬いて、絡んだことを恥じるように少し俯いて、有難う、と言った。
「じゃ、ヒルダ悪いけど、ここも頼むね」
「あ、俺やるっすよ、自分の食べた分くらい……」
「君には、力仕事の確認しときたいからさ。こっち、来てくれる」
「……あ、はい、うっす!」
タルが席を立つと、早速ヒルダが丼と湯飲みを持ち上げる。わりい、と片手で謝ると、ヒルダは薄い笑顔で首を横に振った。


仕込みの全てを終えて完全に客待ちに入ったフンギが、カウンター席の一つに腰掛けて、一服している。勿論お茶だ。タバコではない。料理人の舌をダメにするものは、フンギは一切口にしない。
視線の先では、ヒルダが懸命に働いている。机を拭き、丼を洗い、薬味を刻み、割り箸を補充し、給水機を確認し、……
「……ほんと、よく働くよね」
(いい顔で笑ったよなあ。タル君の食べっぷりには、俺も笑ったけどさ)
期待しても、いいのだろうか。
今度のバイトは、ヒルダの為になるのだろうか。
(せめて、害にならなきゃいいんだけどね)
「あの子は、ちっとも悪くないんだけどなあ」
茶を啜りながらの言葉を、ジュースビンのケースを抱えてカウンターの後ろを通ったタルが耳に挟んだ。
「……? なんすか?」
「うん?……いやあ、こっちのこと」
レジの横に並ぶ電話が姦しく鳴る。
「……ほら、来た」
フンギは立ち上がる。
「忙しくなるよ~」
にっこにっこと厨房に入る。
「はい来々軒です」
お絞りの温度を確かめていたヒルダが、コール二つで電話に出た。


「地図持った?」
「はいっす!」
「常連さんちの行き方はそれ見たらわかるからね。もし一見(いちげん)さんの電話だったら、訊きに来て。場所教えてあげるから」
「いいっすよ、住所と地図あれば、大概は大丈夫っす!」
へ~頼もしいね~、とフンギは笑って、じゃ、ヨロシクね、と出前箱を指差した。
「そんじゃ、行ってきまっす!」
わっし! と箱の持ち手を掴むと、タルは店を出て、店の前に停めてあった自転車に跨る。
「気をつけてね~」
フンギの声に、ういーっす、と答えて、自転車はすいっと店を離れた。


「毎度ー来々軒でーっす」
頭に入れた地図と辺りの景色を比べて、タルは違わず、出前の注文をした家の前にいた。白い壁の、結構大きな一軒家だ。ガチャリとドアを開けたのは、タルより幾分年上の、逞しく日焼けした若者だった。それが開口一番、こう言った。
「ヒルダはどうしたー!」
「は?」
「くそう!」
ダン! と拳をドアにぶつける。苦悶の表情で家の奥を指す。
「あの窓から見える美しい夕焼けを一緒に見るのが楽しみだったのに……!」
……昼だぞ? 今。
タルの心のツッコミが聞こえたか。
「……は! 夕焼けがない! くそう、夕方に再チャレンジだ!! おいコラ貴様! ヒルダに、アクセルが淋しがってると伝えろ! いいな!」
家主が喚いている間に、タルは出前箱からラーメンを出し、玄関脇にゴトリと置いた。
「……まいどー」
「……って、オラ、聞けえー!」
チャーシュー麺800円なり。代金の回収をして、空の出前箱を持って自転車に乗る。
(ホントに看板娘なんだな……いや娘じゃねえか)
あっちこっちでこんな風に扱われてるんなら、そりゃあ女の子みたいってのは、気にするだろうなあ……自転車を漕ぎながらそんなことを思う。
店に戻ると、次、にゃん湖荘3号室ね、と言って、フンギがカウンターに味噌ラーメンを乗せた。出前箱に仕舞いながら訊いてみる。
「アクセルが淋しがってるとか」
タルの言葉の途中で、フンギは笑って手を横に振る。どうやら無視していいようだ。ヒルダは、テーブル席の二人連れに水を出して、注文を聞いているところだ。
「んじゃ、行って来るっす!」
2分も自転車を走らせると、アパートが見えた。3号室の癖に、部屋は2階だった。
タルがドアの前に立つと、来々軒です、と名乗る前にドアが開いた。
後ろ髪を一つに括った青年が、鋭い目つきでタルを睨んだ。部屋の中から、にゃ~と声がして、青年の足元に猫が2匹やって来た。
怖いのか優しいのかよくわからない青年は、目を眇めてタルに尋ねた。
「……ヒルダは?」
(ここもかよ……)
「味噌ラーメン、すね」
出前箱を開けて、丼を出す。青年は足元の猫を向いて、話しかける。
「チャンポ~ナルクル~、ヒルダちゃんじゃないんだってさ~」
気のせい、じゃない。声がめちゃくちゃ甘い。猫至上主義だ、こいつ。
「……出前の指名は受けてませんすから」
750円っす。と手のひらを出すと、3匹目の猫が、魚の骨を咥えた出て来た。んなーと鳴いて、タルに顔を向ける。
「お? なんだ、くれんのか?」
腰を屈めると、タルの手に、ぼとっと鯖の味噌煮だったらしい骨を落としてくれた。
「あ、ありがとな……」
猫はまだ何か、なーなーと言っている。青年が代弁した。
「チープーは代金もらわないと許さないよ」
「代金て……」
もらってないのはこっちだっての。
「なんかあったっけかな……」
ごそごそと、あちこちのポケットを探った。と、エプロンのポケットから、ジュースの王冠を発見した。どうやら店で何本か栓を抜いた時に、そのままポケットに突っ込んであったらしい。
「……こんなんでいいか?」
見せた途端に、猫3匹の目が、キラーンと輝いた。
「お?」
なーなーなーなー、タルの手から王冠を奪って、3匹で喜んで遊びだす。
「ははは、良かったなあ、お前達」
飼い主の彼は、とてもいい笑顔をタルに向けた。
「……あんた、いい奴だな。また来いよ」
「はあ……どうも……750円っす」
ああそうか、と彼は財布を取り出す。代金を受け取って、まいど~、とタルはドアを出た。


タルは出前で引っ切り無しに店を空けたが、店の中も、昼食時は引っ切り無しに客がやって来て、狭い店内をヒルダが1人で走り回っていた。
3時を回ると、流石に客足が引いた。タルはようやく少し椅子に腰掛けて、ふーっとこっそり息を吐いた。
「お疲れ」
フンギがカウンターの中から、氷の浮いたコップ水をくれた。
「ども……」
受け取り、一息に飲み干す。水が旨い。
「慣れない出前で疲れたろ? 晩のピークまで、少しゆっくりするといいよ」
「……うす。でも」
コップを置いて立ち上がる。フンギは小さく吹き出したようだ。
「お疲れ!」
タルは、客が帰った後のテーブルを片付けるヒルダに近付くと、言うなり、ガチャガチャと丼や皿を持ち上げた。
「少し座ってろよ。一人で店ん中、くるくる回ってたんだろ?」
「いいよ、タル、休んでて」
「もう休んだ」
にいっと笑って、ね、フンギさん、と大きな声で同意を求める。フンギは、そうだね、と合わせてくれた。
「せっかくだから、休ませてもらえば?」
ヒルダにも氷の浮いた水を用意して、フンギはカウンターから手招きする。皿を運ぶタルにも促されて、ヒルダは一緒にカウンターまで歩いた。そのまま椅子に座って、水を飲み、タルが片付ける様を見ている。そわそわと、しながら。
「なんだよ、休んでると落ちつかねえのか? 貧乏性だな」
タルが笑うと、ヒルダも笑った。


やがて日が暮れ、昼のピークが過ぎてからぽつぽつと訪れるだけだった客がまた増え始めた。出前の電話も、再び頻度が上がる。
「さ、もう一山越えるよ」
夜道、気をつけてね、とフンギはカウンターにラップを掛けたチャーハンの皿を乗せる。うす、とタルはそれを、出前箱に入れた。
「行って来まっす!」
タルが店を出ると同時に、フンギが客に声を掛ける。
「いらっしゃいませ!」
暖簾の下でタルとすれ違ったのは、背広姿のサラリーマンだった。
らっしゃい! と声を投げて、タルは自転車に跨った。
「店長、焼餃子を3人前、包んでくれるか」
「はいよ。また娘さんと晩酌?……あれ、今日は3人前? それにいつもより時間早くない?」
「カタリナがボーイフレンドを連れてくるんでな。ここの餃子を肴に、一献やろうと思う」
「へえ。そりゃいいですねえ。じゃ、うんと美味しいの焼きますよ」
「有難う。もっとも、ここの餃子はいつも旨いがな」
「毎度!」
聞こえる会話に、タルの頬が緩んだ。
(いいなあ、こういうの)
離れて暮らす自分の家族に思いを馳せた。オヤジと晩酌してみたかったな、とほんのちょっと思った。
出前から戻って来ると、店内に客が増えていた。ヒルダが、忙しく立ち働いている。
「ただいまっす! いらっしゃいませー!」
空の出前箱を持って、カウンターへ行く。
「あ、おかえり。今、出前ないから、ヒルダ手伝ってくれる?」
「うす!」
と言っても、何をすればよいのか。とりあえず店内を眺め渡す。空いた食器を下げることでもしようか。
カウンターの、テーブルがある側の一番奥には、学生らしい青年が、メガネが曇るまで、じっとラーメンどんぶりを覗き込んで見つめている。微動だにしないので、側頭部を剃り上げた特徴的な髪形のちょんまげも、ぴくりともしない。
(なにやってんだ……)
やおら曇ったメガネを外し、丼の横に少し離して置くと、ようやく彼は食し始めた。
「……うん、相変わらずマスターのラーメンは美味しいですね」
(マスターて……ラーメン屋だぞここ)
しみじみとした彼の声に、心の突っ込みを入れるタルだ。
「これは、利尻産の昆布……おや、煮干変えましたね。これはサンマかな……臭みが少なくてスープも綺麗だ」
フンギがにこにことこれに答える。
「相変わらずいい舌してるねケネス君。どう、同じ苦学するならさ、調理師免許取って、うちで働かない?」
彼は、ぱっと明るく笑うのだ。
「えっ本当ですか?! よし、俺が培った工学の知識を生かして、旨いラーメンを作り上げるぞ……!」
(工学生かしたラーメンてどんなだよ……!)
その後ろのテーブルでは、少し異様な風体の女性が味噌ラーメンを食べている。一口啜っては、嬉しげな声が漏れる。
ずるる。
「……うふふ」
ずる……はふはふ。
「……ふふ。くす」
いちいち零れる笑いも妙だが、一番目に付くのは彼女の耳だ。耳の先が、
とんがっている。
(なんだなんだあいつー?!)
「あれうちのガッコのセンセーなんだけどさ」
急に隣で聞こえた少女の声に、ぎょっとした。いつの間にそこにいたのか、活発そうな女子高生が、丈の短いスカートの制服姿で、件の女性を眺めている。
「ね。あの耳さ。ホンモノかな。やっぱコスプレだと思う?」
「こすぷ……??」
聞きなれない言葉を聞き取り損ねた。反応に困っている間、少女はタルを、じろじろと下から眺めた。
「新しいバイトくんー?」
「え、はあ」
少女は日に焼けた顔で、にいーっと笑う。
「あっははー、頑張ってね!」
そして、タルの腕を、ばしーん! と叩いた。それで一風変わった先生は、生徒に気付いた。
「あら、ジュエル」
「へへへ、見つかっちゃった、ハーイ、ポーラちゃんv」
手を振るジュエルに、ポーラはにこ、と微笑む。
「マンゴープリン、食べますか?」
「はいはい、食べるー!」
ジュエルはさっとポーラの前に陣取る。ポーラはタルに、マンゴープリンを二つ注文した。
「実は、狙ってましたね? ジュエル」
「えへへーバレター?」
「ばれます」
昼間と違って夜にやってくる客達は、なんと言うか、わからん、いや個性豊かな面々だった。
電話が鳴った。タルが取る。毎度、来々軒です、とこちらが言う前だった。
『ラーメン一つ、お願い、ね?』
電話はそれで切れた。
「……」
誰だ! どこだ?!
「フ、ッフンギさん!」
ラーメンを頼んだのだから、間違い電話ではないだろう。
どうしたの、とフンギが厨房から顔を出す。
「『ラーメン一つ、お願い、ね?』って」
タルは受話器を指して真似して見せた。
「ああ、リーリンちゃんだね」
すぐに得心した後、フンギはぷっと吹いた。物真似がそんなに似ていたか。
「じゃあタル君頼むよ。すぐに野菜ラーメン作るから。場所は、長哉(おさかな)荘の12号室ね」
ラーメンを届けたタルを、「ヒルダさんじゃない、アナタ誰か」とリーリンは玄関から締め出そうとしたが、「ほら、これ、やっから」とエプロンのポケットにまだ入っていたジュースの王冠を差し出したところ、リーリンは大層喜んで、「ちょっと待ってろ」と奥の部屋から、手作りだというビーズアクセサリを一つ取ってきて、タルにくれた。
「お前、いい人、また来る。ラーメン、おいしい」
どこの国の方ですか? 問いたい気持ちを抑えて、まいど、とタルは帰って来た。
「ただいまっす~」
戻ったタルを、フンギはおかえり、と労った。
「タル君、今日はもういいよ。初日から時間オーバーご苦労様」
「え、あ、はい! ども!」
見ると、確かに時間は過ぎている。店は10時までだが、タルのバイトは8時までの約束だった。
(いけね、間に合うかな……)
エプロンを外して急いで帰り支度をする。今日は8時半までに集合場所に行かないと、置いていかれる。
「ヒルダは? 閉店までいるのか?」
カウンターを拭くヒルダに尋ねると、肯く答が返ってきた。
「ぼくは、この上に住み込ませてもらってるから」
「へえ……」
厨房の奥にある階段を見て、この上はどうなっているのだろう、とは思っていたが。
「2階は俺が住んでた部屋でね。今はヒルダに使ってもらってるんだ」
割って入ったフンギに尋ねる。
「じゃあ、フンギさんの家は?」
「近くにあるよ。でも、店の最後の戸締りや、朝一番の準備は、ヒルダに頼むことになっちゃうんだよね」
「へー」
タルが感心した声を出したので、ヒルダは俯いて首を横に振ったのだろう。フンギは、タルを追い払うように手を振る。
「タル君、いいの? 急いでる風に見えたんだけど?」
「あ、じゃ、お先に失礼しまっす!」
「うん、また明日お願いねー」
「じゃな、ヒルダ!」
バタバタと身軽に駆けて行くタルを見送って、フンギは呟いた。
「今更だけど……彼、手ぶらで来てたんだね、ここ」
と、今出たはずのタルが、再び戸を開けて中に叫んだ。
「お客さんっすよー!」
んじゃごゆっくり! 自分の後ろにそう言うと、今度こそ、駆け去ったようだ。
暖簾を潜って入ってきたのは、色の薄い髪を逆立て気味に撫で付けた、40過ぎ程の髭の男だ。中に入るなりくしゃっと笑って、自分の腹を擦った。
「ああ、助かった、腹あ減ってたが、飯屋が見つからなくってな。まだやってるかい」
どうぞ、とフンギは招き入れる。ヒルダは水とお絞りを盆に載せて、客が好きに座るのを待っていた。






(続く)

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